Part 5
柳田国男論集成

  JICC出版局 1990/11/01 発行 



項目ID 項目 論名
37 柳田国男の方法 共同幻想の時間と空間―柳田国男の周辺
38 柳田国男の方法 共同幻想の時間と空間―柳田国男の周辺
39 柳田国男の方法 共同幻想の時間と空間―柳田国男の周辺
40 柳田国男の方法 共同幻想の時間と空間―柳田国男の周辺
41 柳田国男の方法 共同幻想の時間と空間―柳田国男の周辺
42 柳田国男の方法 共同幻想の時間と空間―柳田国男の周辺
43 柳田国男の方法 共同幻想の時間と空間―柳田国男の周辺
44 柳田国男の方法 共同幻想の時間と空間―柳田国男の周辺











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37 柳田国男の方法 やなぎだくにおのほうほう 共同幻想の時間と空間―柳田国男の周辺
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項目抜粋
1

【第2部 柳田国男の周辺】

@『明治大正史 世相篇』を書くにあたって柳田はどんなことをかんがえたかと申しますと、過去の民俗をさぐる眼を現在にむけたらどんなことになるかということでした。つまり民俗学はいつも過去に遡り、民衆のあいだの習俗を再現するのが本道ですが、現在を同じ方法で追求し再現したらどんなことが可能だろうかをかんがえたと序文で言っております。      (P211-P212)

Aこの本からはじめると柳田国男の方法がいちばんつかまえやすいものですから、ここからはじめたいとおもいます。『明治大正史』はどんな同時代の捉え方をしているでしょうか。まず第一に学者や専門の知識人や思想家のような、それぞれの分野の専門の知識をもった人が書いた事柄を採用しないことがおおきな特徴のひとつです。

 それとうらはらになりますが、感覚といいましょうか、五官に触れてくるもの、目とか耳とか手とか鼻とかに、じかに触れてくるものを通じて、同時代の社会現象を捉えようというモチーフがあることがとてもおおきな特徴です。なぜこんな捉え方を採用したか臆測してみますと、民俗学の方法なのですが、原始とか古代の民衆は眼で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎっていうことをしながら、触れてくる事物の良い悪いを、識別し、それにしたがって生活の判断をたててきた、そんな民衆の無意識に身につけてきた方法を明治大正時代の世相を捉えるのに使ってみようとかんがえたのだとおもいます。つまり普通の普通の歴史家が書くような歴史書を書こうという気はぜんぜんなくて、未開原始の人、あるいは古代の民衆が本能のおもむくままに、あるいは感覚の赴くままにつかんでいったそういうつかみ方をしてみようとしたのです。       (P212-P213)


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2

B●まず色についてです。…・日本人が日常生活のなかでほんとうに豊富な色の名づけ方を知ったのは、西欧の色彩の呼び方とか、西欧の色彩が入ってきてからです。それ以前は、日本人はじつに豊富な色彩を使うことをじぶんで禁止しているとしかおもえないところがあります。これはいったいどういうことなんだということをまず柳田は問題にしています。柳田がかんがえたことは、日本人が天然自然の色彩を、神に属するものであって、人間に属するものじゃない、だから人間がみだりに使うのは畏れがあるとかんがえたのではないかということです。

 柳田国男がここで導き出しているのは、日本人の色彩感覚は、色に宗教的な観念をくっつけたところから始まっているんだということなんです。そこでほんとうの意味で日本人が色はじぶんの日常生活の側に属するものだし、色は日常に豊富に氾濫し使われていいんだというふうにじぶんをゆるしたのは明治以降で、西欧の染料とか色彩感覚がどんどん入ってきてからだとみなしたのです。…・

 ●こんなふうにして、たとえばだれそれ天皇の御代にだれそれが政権をとって、こんな政治をやったといった歴史が描かれるのとおなじように、色彩についての日本人の心の変化をたどったり、日本人の色彩感覚の移りかわりによって歴史を捉えることができるはずだ。そんなことを『明治大正史』のなかで柳田国男はやっています。   (P213-P214)


備考




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38 柳田国男の方法 やなぎだくにおのほうほう 共同幻想の時間と空間―柳田国男の周辺
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C●もうひとつ柳田が言及している特徴ある例を挙げてみます。それは音についてです。(P215)

●音にたいして日本人はどんなふうに聞き方をかえていったか、どういうふうに聞き方が違ってきたか、どういうふうに新しい音が発生してきたかをたどっていきますと、やはりひとつの歴史ができあがります。その歴史は決して制度の上のほうにいる人々が争ってできた歴史ではなくて、普通の村里の人々が狸囃子を聞いたというたぐいの噂がふりつもってできた説話の移りかわりのなかでたどることができる歴史だということができましょう。物音がほんとうに天然自然を離れたのは近代にはいってからで、音を聞く心構えをたどれば日本人の心の歴史を描くことができるんだと柳田国男は言っています。     (P216)

Dもうひとつ柳田国男が挙げている例を申してみます。嗅覚、つまり匂いということです。自分が子供の頃に祭とかお彼岸とかになると、村中に線香の匂いが立ち籠めるということはしばしばであった。そんな日があって村の誰もがおなじ匂いの記憶に寄り集ってくるとすれば、村の人たちの共同でもっている匂いについての心がそうさせるのだ、それも時代とともに移りかわっていき、その匂いについての心構え、あるいは匂いについての習慣の変化をたどっていくと、村里の歴史につながっていることがわかります。  (P216)

D●柳田国男が同時代を捉えるのに使った方法は、色とか音とか匂いとかいった人間の原始的な感覚の変化と、世相といいましょうか、その社会の活性を発揮している状態とのむすびつきの仕方を対応させることでした。その成果が『明治大正史』としてよくまとめられています。

 ここで柳田国男のとった方法を、わたしたちの言葉でいう共同幻想の捉え方のところまでどうしてももっていきたいわけです。そして、柳田国男の方法を共同幻想の現在、あるいはこれから起こるだろう未来の捉え方とつなげてみたいとおもいます。

 柳田国男の方法をひとつの総合的な場所から見直すにはどうしたらいいでしょうか。柳田国男が、音のイメージ、色のイメージ、それから匂いのイメージをつくるときに、どんなつくり方をしているかをすこしまとめてみます。さまざまな方法がかさなっていますが、根柢には人間の原始的な感覚と、それから外側の自然とか社会の風俗習慣とかと関わる仕方から、民衆の生活のイメージを捉える方法だといえましょう。このイメージはどこで特徴をみつけやすいのか、そこからすこしかんがえてみたいとおもうのです。   (P217-P218)


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2

●柳田国男が「日本の祭」でやっていることと『明治大正史』でやっていることを例にして共通する思考の流れをさぐってみます。


●柳田国男はそれらの例をじつに鮮明なイメージが湧くような文章で描いています。この文章が鮮明なイメージを読む者に喚起するのはどうしてかかんがえてみます。そして注意ぶかく読んでいきますと、いま挙げましたいくつかの例には共通なところがあることがわかります。つまり、自分は神さまが浜辺で踊りを踊っていたのを見たとか、馬にまたがって尾根を通って行ったのを見たとか、あるいは山の中から降りてきて王宮の庭を歩んで行くのを見たっていうとき、いずれも決して目の高さで見ている描写ではないことがわかります。よくよく柳田国男の文章から浮び上がってくるイメージは、丘の上とか、ともかく上のほうから見ている人も含めてその全体を、もうひとつの視線で見ていることがわかるのです。そういう視線から浮び上がってくるイメージが、情景として浮び上がってくるように文章はできています。

 つまり柳田国男のイメージは目の高さで見ているとか、耳の高さで聞いているとか、鼻の高さで匂いを嗅いでいてそれを描いているんですが、もうひとつ別の、少し高いところからの感覚が同時に加わっているように、情景が浮び上がってくる、そんな描かれ方がしてあります。これは柳田国男の方法のとてもおおきな特徴のようにおもえるのです。    (P218-P219)


備考




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39 柳田国男の方法 やなぎだくにおのほうほう 共同幻想の時間と空間―柳田国男の周辺 
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1

E●例えば沖縄の島の東海岸と西海岸に住んでいる人は、まったく別系統だっていうことがありうる。そういうことを柳田はいっています。これはとても重要な認識です。もしわたしたちが、陸地の十数キロは誰が勘定したって十数キロだというような固定的な考え方をとるとすれば、柳田のこういう認識はちょっとでてこないはずなのです。ところが柳田国男にはどっかから見ている眼が一緒に加わっています。それは自然の地勢のうえには、眼にみえない人間の生活の地勢ともいうべきものが重なっていて、そこではそれぞれの系統のひとたちが生活の適性をもとめて集まったり、散ったりして、やはり眼にみえない山や川や道をつくっていることを見ている眼です。この生活の地勢は自然の地勢と一致することもあるでしょうし、まったく違っていることもあるにちがいありません。こういう柳田国男の眼は歩行し、その場所へゆき、ひとびとの生活や言葉や習俗に触れることで五感に蓄えられた判断をひとりでに綜合してえられたものにちがいありません。この眼の視線は、分解しますと、その場所に歩いてゆき、背の丈や目や鼻や手の位置で、じかに確かめることだけを経験として択りわけて蓄積する視野と、そういうじぶんを上方から同時に眺めている視線とに分解することができるものです。幅にすれば十キロぐらいしか離れていない西海岸の人と東海岸の人がぜんぜん別系統だっていうことがありうるという認識に到達しています。それからもっと極端なことをいうと、別の人種だってことさえありうるということです。     (P221)

●この認識の方法は一般論として柳田国男の民俗学がもっているとても重要な意味だとおもいます。そして、それは全部に敷衍できることだったわけです。つまり柳田にとっては日本の土地全部についておなじことがいえるということです。

 例えば日本海側の海岸沿いに海上交通ができていたのですが、酒田と弘前は、地図のうえで遠くても実際はそんなに遠くはありません。文化も伝播しています。しかし、盛岡という内陸地はその文化の系統に入らないとおもいます。入る場合は弘前から文化が内陸を通って盛岡に来ることになります。すると盛岡というところは京都からみると弘前より遠いということになります。つまり、文化の伝わり方が遠いところに早く伝わり、近いのに遅く伝わることもありうるということです。人間が歩くばあいでもそんなことがありえます。自然の地理のうえに伸縮自在でほんとうに実情にそった眼にみえない習俗の地図があるというのは柳田国男のとても重要な認識でありました。     (P222)

項目抜粋
2

●柳田国男がものごとのイメージ、音のイメージ、色彩のイメージ、それから匂いのイメージを五感からつくっていった方法が、晩年になってやっと花開いたといってよいとおもわれます。それが『海上の道』をはじめとする一連の論策にあらわれているものです。わたしの考えではこの柳田の方法は、普通地勢のうえにわたしたちが感覚によってつくる立体像にたいして、もうひとつ上方から見ている視線が加わってできたものです。      (P222-P223)

備考




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40 柳田国男の方法 やなぎだくにおのほうほう 共同幻想の時間と空間―柳田国男の周辺
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1

F●ここですこし柳田国男の方法の弱点といえるものがどこにあったか、申し上げてみたいとおもいます。おもに海・風についてのイメージのつくり方にともなう陸地のイメージのつくり方に柳田国男の欠陥がなくはないとおもいます。

 それは二つあります。ひとつは南北の陸地のイメージのつくり方があまりよくはないんじゃないかということです。つまり不完全な考え方しかとれなかったようにおもいます。それはなぜかといいますと、南の陸地と北の陸地がどう違って、どう同じか、そのイメージをつくるのが難しいからだとおもいます。

 【註 稲作の栽培方法をもって南島からだんだんと北に移っていった人たちを、柳田は日本人と呼んでいます。そのため山人を異民族あるいは異人種とかんがえようとしています。しかし、その考え方からしますと、日本人は弥生人からはじまった、つまり水稲稲作をもった人がきてからはじめて日本人ははじまったことになってしまいます。】

●この柳田の考えはどうしてうまれたかっていいますと、西の海と東の海についてのイメージは鮮明でしたが、南の海と北の海についてのイメージはそれほどはっきりしてなかったからだとおもいます。南の海と北の海とのあいだには気温の高低、降雪、結氷の有無など、おおきな差異があります。それにともなって海に接した陸地にもおおきな生活と習俗のちがいがあります。しかし住む人々の系統からいえば中央部の人たちよりも近いかも知れないけです。こういったことがらについていえば、柳田国男のイメージは、後になるほど南の海に片よっていたといえるかもしれません。

●それからもうひとつ柳田国男の弱点とおもわれるものがあります。それは標高差ということです。おなじ陸地でも、例えば標高百メートルの陸地もあります。標高二千メートルの山もありますし、それから標高五百メートルの小さな丘や盆地もあります。そんなふうに陸地にはさまざまな標高差があります。柳田国男のなかで、おなじ陸地でも標高の違いが何を意味するのか、というイメージがそれほど明瞭でなかったという気がします。この標高差のイメージがはっきりとつくれなかったために、どういうことがでてきたかといえば、水稲稲作をもった人たちが南の島づたいにやってきて本土をだんだんと北にむかって稲作をひろげていったとき、もともとその土地に前から住んでいた人たちを山のほうに負いげてしまったということを言っています。        (P225-P227)


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●しかしわたしにはそうはおもえません。水稲稲作をもった人たちがはいってきたら、それまで山に住んでいた人たちは平地におりてきて混交し、そしてその技術を習ったりして、じぶんたちも水稲稲作をする人にかわっていったろうとおもいます。それが正確なイメージのようにおもわれます。

 なぜ標高差のイメージが違ってしまうかと言いますと、いまより三千年ちかく前の弥生時代初期の陸地と、縄文時代の陸地とはまるで海からの標高差が違っていました。つまり柳田が「山人」と呼んでいる人たちは、わざわざ山の奥に住んでいたのではなくて、やはり水の近くの迫った山のところに住んでいたとおもいます。弥生時代、あるいはその後に陸地になったところは、そのころ海だったはずです。それからだんだん干あがっていって、縄文晩期か弥生初期に平地ができ、湿地帯だから淡水化させれば稲作ができるようになったんだとおもいます。そういうときに、稲作をもった人たちがどんどん入ってきて、湿地帯で水稲耕作をやるようになった。そういうイメージになるとおもいます。         (P227-P228)

●つまり柳田国男の海と風についての認識は、南北の陸地についてのイメージ、それから標高差についてのイメージではそんなによくつくられていなかったといえましょう。縄文人も縄文時代以前の人たちも日本人です。そういう歴史の考察によって日本人という概念の範囲が遡ってひろがりつつある現在の観点からみますと、柳田の方法はそこが弱点としていえるのではないでしょうか。それから、わたしたちが柳田国男の方法を修正したり、新しいものを加えたりしなければならないことがあるとすれば、そんな点にかかってくるとおもわれるのです。       (P228)


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41 柳田国男の方法 やなぎだくにおのほうほう 共同幻想の時間と空間―柳田国男の周辺
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垂直に真上から見る視線による像 眼の高さで地面に水平に見える像
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G●柳田国男が『明治大正史』で試みてそのままになっている同時代についてのイメージのつくり方についてもうすこし立ち入ってみたいとおもいます。ここらあたりから柳田の方法であるか、わたしがやっていることかわからなくなっていくとおもいます。それはそのようにお聞き下さるようお願いします。柳田国男のイメージのつくり方は、海なら海、船なら船、陸地なら陸地がそれ自体でつくっているイメージじゃなくて、眼にみえない人文的な地勢が重なってもう少しおおきく、高いところから全体的に眺めているもうひとつの眼が加わっています。それが組みあわさって、海や風や陸地のイメージをつくっているのが特徴だと申せます。この特徴がどんなふうに有効かをすこし申し上げます。

●わたしは現在、都市のイメージをかんがえて論じたりしています。そのイメージをつくる場合、どんなやり方が可能かをわたしなりにかんがえてきました。その考え方は柳田国男のイメージのつくり方にいくつか重ねあわせることができるようにおもいます。

 ひとつは現在の科学技術がつくりだしたとても高次元なイメージがあります。

   【註 筑波科学万博の富士通館】

 見る者と見られる者がおなじ空間にいて、完全に動く立体映像のなかにじぶんもはいって、その映像を視ている映像体験がえられます。その映像はかつてみたことがない高次元の映像です。それは、連続的に空間を動く四次元(つまり五次元)的な映像をみているのとおなじで、かつて人間が作りあげた映像のなかではいちばん高次元な映像だとおもいます。いってみれば現在かんがえられる究極映像です。それはわたしにはとても衝撃的でした。     (P228-P230)

●ところで、もうひとつ重要だとかんがえた映像がありました。それは何かといいますと、『遠野物語』のなかにもでてきますが、交通事故なんかで死にかけた意識を失った人が生きかえってきていうには、いつのまにか空中を飛んでいて、きれいな橋のそばで、向こうに手招きする者がいるんだけれど、誰かがきて帰れっていうので帰ってきたら、じぶんは生きかえったという類の話です。…・むかしから日本の宗教的な修行のなかにもあります。…・この種の体験はじっさいにじぶんは死にかけたり、修行で寂滅の状態にはいると、じぶんの姿が上のほうからじぶんに見えたという瀕死の体験に帰着します。この体験はいってみれば筑波万博でつくられた高次映像とおなじものを意味しています。   (P230)


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●また、柳田国男のイメージのつくり方、海のイメージのつくり方にある、じぶんがその現場にありながら何か別のところからの地勢のその視線を同時にみているような視線が加わっているのとおなじところがあります。この種の映像の体験はとても重要だとかんがえられるのです。

 この三つあげた方法に共通した点があるようにおもえます。その共通した点を理屈づけるために、どうしたらどのばあいにも通用するイメージを基本的につくれるかをかんがえてみました。それはやさしいことで、垂直に真上から見る視線による像と、眼の高さで地面に水平に見える像、つまり普通の立体的な視覚像とが同時に行使されてできる像をかんがえますと、その体験に帰着することがわかります。それが高次の究極映像を分解してみたものだといえるとおもいます。この映像のつくられ方は、一般的原理としてとても有効です。      (P230-P231)


●【この垂直の視線の見方】つまり人間的な視線は全部無化できることで重要な意味をもっています。

…・ところがランドサット映像でみると、地質構造の割れ目だということが、はっきりわかります。…・つまり、九州も阿蘇が存在する前は二つか、あるいはそれ以上にわかれていたってことが、この超高度の写真だとよくわかります。そのかわりここに広い川があって平地がひろがっていて、町があるなというふうになっていて、人間的視線が完全に無化されています。          (P232-P233)



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42 柳田国男の方法 やなぎだくにおのほうほう 共同幻想の時間と空間―柳田国男の周辺
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共同の視線 四つの系列のイメージ
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H●この方法を柳田国男は海とか山とか陸地とか風とかをかんがえるばあいに、ひとりでに行使して、自分の民俗学の方法にしていることがわかります。この方法も取りいれてかんがえれば、いまいいましたように、高次映像は、地面に水平な目の高さの視線と、天空から下に降りてくる視線との交点としてつくりあげることができるものです。この二つの視線の交錯をかんがえることが、現在のところ物のイメージとして、高次な映像だといえるとおもいます。この高次なイメージのつくり方をもとに、わたし自身は同時代がこれからどう展開されていくかをかんがえてみようと試みました。これを個人的な特色としてではなく、共同の視線、あるいは共同幻想としてみようとかんがえました。

 そして、わたしが現在までのところやったのは、都市映像について、この高次視線を行使したらどういうことがいえるかということでした。現在の典型的な大都市をもってきて、いままで申し上げてきた高次映像を行使してみます。そうすると、四つの系列のイメージを思い浮べれば、現在の大都市を分析できることがいえます。解剖することができるとかんがえられます。    (P234-P233)

●第一の系列はとても素朴な、東京でいえば下町みたいに地面に直かに民家とか商家とかが建っていて人が住んでいる表通りとか、裏通りとか、があって、商店街がところどころアーケードをもっている場所です。そういうところは、いま申し上げました高次映像の視線でいえば、地面に水平な視線と、地面に垂直に降りてくる視線とが、いわば遮蔽物なしに交差したところに描かれる視覚のイメージの場所だといえるとおもいます。

●ところで、これに似たところで、例えば都心に近いところに、おおきな高層ビルディングにとり囲まれた空隙の場所があります。偶然に高層ビルと高層ビルの間に、なんかコンクリート式の広場がひとりでにできちゃったりしているところです。人工的にそんな広場をつくったばあいもあります。こういう地域は何かといえば、地面に水平な視線と、それから上からの視線とが裸のまんまで交わる点だっていうふうに言いたいわけです。ただこの場合は上からくる視線に符号をつけるほうがいいとおもいます。【註 前者をプラスの上からの視線、後者をマイナスの上からの視線】…・高層ビルと高層ビルの間にできた空地とか広場は、人工の極致で、その果てにできた広場だからです。

   【筑波学園都市と高島平団地の例】

●現在の都市には、いま申しました二つの極端な系列があります。その二つの系列がどうなっているのか、あるいはどういう地域にひろがっているかということを、かんがえることがとても重要だとおもいます。     (P234-P237)


項目抜粋
2

●大都市にはもう二つの系列があります。第三の系列にあたるものは、イメージが矛盾し、対立するところです。たとえばビルディングの三階に懐石料理家があって、そこには本格的なお茶室があってというようなところがあります。それからビルディングの何階かに満々と水をたたえたプールがあるようなところです。本来的にいえば茶室とか日本庭園とかプールなどは地面を掘ったり、固めたりしてつくられるわけです。これが天然自然が歴史的に人工的になってゆくばあいの方向性といえます。それをやめにして、ビルの中にプールをつくるとか、日本庭園や茶室をつくって日本料理を食べさせるっていうそんなふうに本来的にあるべきじゃないところに、そういうものをつくっている矛盾したところが都市のなかにあります。これは、いってみれば矛盾によってイメージをつくっている場所です。…・

 本来ならばこの種の場所は地面に水平な視線と垂直な視線が裸で交わるところにつくられるべきものが、上からの視線がビルの何階かで遮られる室内にしつらえられているわけです。この矛盾したイメージを喚起する場所は都市が発展していくときに、たえず矛盾をひきずりながらつくりだされていく場所だといえます。こういう場所は現在の世界で大都市にはどこでも必ずあります。この場所がどうなっているかを追求していくことで、都市の共同幻想がどうなるかをかんがえていく重要なひとつの系列をつくっています。       (P237-P238)


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43 柳田国男の方法 やなぎだくにおのほうほう 共同幻想の時間と空間―柳田国男の周辺
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生成糸としての都市
項目抜粋
1

●最後にもうひとつ重要な系列があります。それはいままで申し上げてきた高次映像を喚起する場所です。例えば古いビルディングがあって、周辺にビルを拡張したいんだけど場所がないといった都心の密集ビル街に新しいビルディングと古いビルディングを継ぎたしたところがあります。継ぎたされた新しいビルディングは最新の様式でつくられていて、古いビルディングは改修しようがなく元のまんまっていうことになります。そんな継ぎたしのビルディングを拡げたところは、いまの大都市ではたくさんあります。そういう場所は、古い空間と新しい空間のイメージが重なる場所であります。この重なる場所には、みる角度によって高次映像が喚起されます。この場所は、わたしに言わせれば重要な場所です。この高次映像っていうものが、どういうふうに拡大していくか、あるいはどういうふうに展開していくかで、現在の都市がこれから展開していく場合の要になるだろうとおもわれるからです。     (P238-P239)

●この高次映像を喚起する場所と、さきにいいました映像が矛盾する場所とを注目していくことが、大都市の映像、あるいは大都市の共同幻想をつかまえていくのにとても重要です。それに付け加えて、さきに申し上げた百八十度違う二つの系列の場所を合わせてかんがえまして、四つの系列の場所をつかまえると、現在の大都市が喚起する映像の全体を捉えることができます。また都市がどう展開していくのかイメージをつくることができます。また、人間は都市を必要としてつくっていくわけですが、都市を生成糸といいますか、成長していく一つの生物みたいなものとしてかんがえて、都市がどういうふうに伸びていくのか具体的につかまえることが必要です。柳田国男がじぶんの民俗学の方法から同時代のイメージをこしらえていった方法と共通するものです。    (P239)


項目抜粋
2
備考




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44 柳田国男の方法 やなぎだくにおのほうほう 共同幻想の時間と空間―柳田国男の周辺
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世界視線 人間の歴史
項目抜粋
1

Iこの考え方から幾つかいえることがあります。そのひとつを申し上げてみます。たとえば都市が以前にどうであったかほんとうにわかるとおもいます。

 これは(ランドサットよりの映像―近畿地方―をしめす)、真上からの視線から捉えた近畿地区の地質映像です。ここに現在の奈良盆地があります。これに奈良盆地の地質データをいれまして映像処理をするとします。そうすると、例えば三千年前のこの地域の上からの視線の映像をつくることができます。三千年前には奈良盆地のここまで水が入っていたってことがわかります。それで地質学者や考古学者は、縄文時代には海抜七十メートル線まで奈良盆地に水が入っていたといっています。四〜五十メートル線までは弥生時代以降水が入っていた境界線だといわれています。『日本書紀』の記述を見れば、長髄彦の勢力を張っていた土地とか、吉野の「山人」の住んでいたところとか、そういう土地の名前は、だいたい海抜七十メートル線以上のところの地名になっています。ですからそれらの人たちが住んでいた場所の下のほうは海か湖だったわけです。神武東征の道ででてくる地域の名前は、だいたい縄文時代に村落があったところの地名だと学者によって検証されています。それは海抜七十メートル線以上以上ということになっています。

 そしてもうひとついえることは、石器時代からそうですが、縄文時代に村落があって、そのおなじ場所の上に弥生時代の村落があって、といった重層した遺跡がでてきます。また古墳時代の遺跡がおなじ地域で重なっている場所もあるわけです。それはどう想像することが妥当かといいますと、奈良盆地のなかに初期の国家をつくったところ、首都に近いところだったろうってことです。そう想定することが妥当な地質学的な同定の仕方になります。いってみれば、柳田国男の民俗学のイメージにあらわれてくる上からの視線には、歴史的な段階を込めることができます。原始時代から人間の地面に水平な眼の高さの視線はさしてかわりがありません。しかし、上から視線がいかに可能であったかは、歴史の展開を暗示します。これを世界視線と呼べば、そこにはさまざまな歴史の段階の視線がつかまえられているといえます。

 そうすると、何が得られるかと申しますと、柳田国男の民俗学では弱点とされる標高差のイメージが具体的にえられるのです。そこからは神話の地質学的な対応イメージをつくることができることになります。        (P240-P241)

項目抜粋
2

Jそういうことが重要だという視点は、技術的に人工衛星が可能にしたといえましょう。しかし同時に、そんなことは人間が昔からやっていたんだともいえるんです。宗教としてやったとか、あるいは死にかけた人が体験したんだとか、そういういわれ方で体験してきたことなんです。それは未開、原始の時代からやってきたことですが、誰もそれを論理的に手掛けなかっただけだとおもいます。理窟からいえば、眼の高さに水平な視線と垂直な視線の交点ということで二つの直交する視線に分けることができるものです。人間の歴史といったものは、眼の高さの視線をどれだけ高くしていくかということのなかに、全部含めてかんがえることができましょう。たとえば近代的人間のヒューマニスムというのは、人間の眼の高さの視線でもって、人間と人間が関係したところででてくる思想です。また古代の王権の思想は、村落の外れの低い丘陵を国見の山として、そこから俯瞰することでつくられた思想です。ところが現在の超高度な視線から見ると、民家とか田んぼの区別がつきません。つまり人間的な視線が全部無化されています。…・この超高度の視線は、やはり人間がつくった、技術的な視線だという意味と、それから、理想的な垂直視線ですから、人間がつくりうる映像が、それによってどんなにか鮮明になったか測りしれないということがあります。  (P241-P242)

K●柳田国男の方法をひろげていったとして、どこまで有効かということがわかります。過去に遡ることも有効ですし、人間社会の同時代性を分析していくばあいにも、未来がどうなっていくかを分析していくばあいにも、とても有効だとおもいます。わたし自身も柳田国男について論じたりしてきましたが、同時に柳田国男が『明治大正史』でやったように現在のイメージをどう解明できるかを試みてきました。  (P242)

●柳田国男の地勢のイメージのつくり方、過去のイメージのつくり方、民衆のイメージのつくり方、同時代のイメージのつくり方の根本的なところは、現在でも有効だとかんがえております。(P243)


備考 註1.「奈良盆地の地質データをいれまして映像処理をする」…・その地質データは考古学的年代測定や地質分析による地質データ?




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