Part 6
柳田国男論集成

  JICC出版局 1990/11/01 発行 



項目ID 項目 論名
45 戦中派 わが歴史論―柳田思想と日本人
46 天皇制 わが歴史論―柳田思想と日本人
47 天皇制 わが歴史論―柳田思想と日本人
48 天皇制 わが歴史論―柳田思想と日本人
49 二重の含み わが歴史論―柳田思想と日本人
50 柳田国男の文体 わが歴史論―柳田思想と日本人
51 アジア的な制度 わが歴史論―柳田思想と日本人
52 柳田国男の方法の拡張 わが歴史論―柳田思想と日本人












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45 戦中派 せんちゅうは わが歴史論―柳田思想と日本人 
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源氏物語
項目抜粋
1

@●僕は、ちょうど戦中派にはいる年代です。戦中派というのは何なのか、僕の見方をいってみます。戦争期には、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という条項のある旧憲法のもとで青春時代のすくなくとも前期をおくりまして、敗戦と一緒に、「天皇は国民統合の象徴」という条項をふくむ新憲法の下で、現在までやってきた世代だとおもいます。つまり、旧憲法と新憲法のの二つを、青春の前期と後期の両方にまたがって体験した年代だといえば、いちばんふさわしいんじゃないかとおもいます。「神聖ニシテ侵スヘカラス」というところから「国民統合の象徴」だというところへ敗戦を境にして天皇制の時代は大転換をとげたわけです。じぶんなりに一人前に戦争をかんがえてたつもりでしたから、八月十五日に戦争がおわって、十六日から新憲法の世界へというふうにいきませんでした。ですから旧憲法の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という考えを、どんなふうに脱却していったらよいのか、そして新憲法の天皇は「国民統合の象徴」ということと交叉するところをどこでみつけていったらよいのか、敗戦後に気持のうえでたいへん苦労しました。     (P244-P245)

●天皇は「神聖ニシテ侵スヘカラス」から「国民統合の象徴」のところまで、天皇、あるいは天皇制の理解を断層としてではなく、連続的にたどるには、どんな経路がつくれるか、どんなふうに探っていけば、そこへ到達できるか、ということが、僕らの歴史にたいする関心のいちばんの動機だったようにおもいます。

 僕はいくつかの方法があるにちがいない、とかんがえてきました。ひとつは天皇制の起源ということです。天皇制がなかったときの、日本人の生き方や歴史はどうあったのか。それから天皇制ができたときに、どういうつなぎ目が生じたのか。そういうところをきちっと解明したらいいのではないか、とかんがえたのです。

 そしてこのことは柳田国男への関心にすぐにつながる問題です。   (P245-P246)


項目抜粋
2

●旧憲法の絶対的な天皇から新憲法の相対的な天皇へ、いいかえれば神聖で侵すべからずの天皇から、人間天皇へ考えを転換させるには、いわば自然にまかせるというやり方があります。あるいは歴史の無意識にまかせるということです。つまり、日本の社会が高度な産業社会に転換していけば、天皇や天皇制にたいする親愛感も反発感も、特殊な日本的なあり方としてひとりでに薄らぎ、解消していってしまうんじゃないか。だからこの場合は文明の成り行き、歴史の成り行きにまかせれば、かならず天皇の問題は相対化されていくとかんがえることができます。

 僕らがかんがえを構築してゆくよりは、自然にまかせ、歴史の無意識にまかせて、日本が高度な産業社会の仲間いりをしていくにつれて、天皇にたいする特殊な考え方、特殊な親愛感とか、特殊な反発の仕方が解消していくのはたしかです。もしかすると、僕らがかんがえてやってることは全部無駄で、そういう歴史の自然にまかせておくことがいちばんいいやり方なんだというようにおもえるわけです。そうしますと、いま申し上げた三つの方法で、絶対的な天皇から相対的な天皇制、神聖天皇から人間天皇へという戦後の移り行きは意識のうえでもらくに成し遂げられるにちがいありません。つまり、これらを内側から解明していけばじぶんなりに納得しながらいけるんじゃないか、とかんがえられたわけです。   (P247-P248)

●ただ僕らが、何故天皇家の起源とか発祥地ということにことさらこだわるかといいますと、天皇制でいちばん苦労した年代のような気がするからです。つまり戦前、戦中の天皇制と、戦後の天皇制の大転換たいして、内心のつじつまをあわせ、ごまかしのない史観をつくれなければ、戦後を歩むことはできませんでした。戦後の問題はそこからはじまる、ということでした。     (P250)


備考 註1.@に関して、わたし自身の、戦後の生の対象化、相対化を迫る。




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46 天皇制 てんのうせい わが歴史論―柳田思想と日本人 
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項目抜粋
1

@●いくつかのことがいえます。まず一つは『古事記』とか『日本書紀』とかの神話を読みますと、天皇家の起源は、南九州だと記されています。昔でいえば日向の国です。…・その高千穂というところが天皇家の祖先の起こったところ、つまりそこからおもむろに山を降りてきて東征にむかい、そして瀬戸内海を通って、大阪から近畿地方に入ることができなくて、熊野の方を廻ってそれで近畿地方に入ったんだと神話には記載されています。

 このことは、いまでもよくわからないことの一つだとおもいます。…・

 ここで柳田国男の考え方をもってきますと、この神話の記述と矛盾しないといえます。…・

 しかし、歴史学や考古学がさしているところはそうではなくて、南九州よりも北九州の方が先に文化が発達したはずですから、北九州に王家の祖先があって、そこの人たちが関門海峡を通って、瀬戸内海を近畿地方ににやってきた、とかんがえるほうが自然だということになるとおもいます。   (P248-P249)

●もう一つ、神話の記述でとても大切なことがあります。

 それは何かといいますと、『古事記』『日本書紀』の神話は国土の成り立ちを記述しています。そのばあい日本の国土が「島」からできているという認識をもっているということです。「国生み」の記述では鉾から雫をたらしたら「島」ができたということになっています。そしてつぎつぎ「島」がつくられて日本国ができた、といっているわけです。「国生み」というばあい、いつでも「島」単位の認識をもっていたということです。

 これはとても重要なことにおもわれます。つまり、「島」という認識しかないということは、どうかんがえても、天皇家の祖先や、それに関係が深い人たちが、とにかく海に関係のある人たち、つまり海人だということです。つまり、「国生み」の記述をみますと、この神話をつくった勢力は海に関係の深い人たちだとかんがえないわけにはいきません。      (P250-P251)


項目抜粋
2

●もうひとつ大切なことを申し上げます。神話のなかではイザナキの命とイザナミの命、つまり天皇家の大祖先にあたる神話の人物が「国生み」をしたとき、生まれた「島」は、例えば四国では、四つにわけられています。それは、伊予の国・讃岐の国・阿波の国・土佐の国です。そうわけられたひとつの「島」の四つの国は、別に人の名前をもっていたと記載されています。…・つまり土地というものは同時にことごとく人の名前と関連がつけられています。これはとても特徴のある記述です。

 こういう考え方を現在まで日本列島のなかでのこしているのは、アイヌの人たちだとおもいます。つまり、土地の名前、自然の山や川それから地形の名前を、すぐに人の名前になぞらえています。…・

 この考え方は、日本の神話の神武天皇以前の記述では目立った特徴だといえます。僕の考え方でいえば、この特徴は一般的に「縄文時代的」なんじゃないかとおもいます。アイヌの人たちも含めて、「縄文的」なんじゃないか、とかんがえています。

 『古事記』や『日本書紀』の神話のなかにあるこのおおきな特徴は天皇、すくなくとも天皇制がじぶんたちの祖先のものだとかんがえ、区別していることを意味しています。      (P251-P252)


備考




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47 天皇制 てんのうせい わが歴史論―柳田思想と日本人
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政治的な制度の構成
項目抜粋
1

A●政治的な制度として日本の神話が天皇の在り方について記載するところをさかのぼればのぼるほど、ある制度が顕著にみえてきます。この王制は兄弟と姉妹で占められています。例えば王家の姉妹とか叔母とかは、一種の巫女で、神のゴタクセンヲけて、その巫女のお告げにしたがって兄弟が、政治を司る、そういう形が神話からみえてきます。例えば神話の記載の中で、アマテラスオオミ神という女性がいて、神様にとり憑くおおきな力をもって種族の母の役割をしています。そして弟にはスサノヲノミコトという男神がいて、二人で「国生み」をするかたちがみえます。そういう制度のかたちは村落の下の方でもあったといえるのです。王家でいえば姉妹の方が神様のお告げをとりついで、それに従って兄弟の方は政治的な制度を運営することになります。
        (P254-P255)

●ところで、神話時代をもっとくだって初期の神武、綏靖、安寧といった十代までの初期天皇についての記載を、『古事記』とか『日本書紀』でみてみます。そこでは兄が神事を司る宗教者になって、その弟は天皇になって国を司るというかたちがみえます。    (P255)

 …・その制度については僕らが暗示的に知っているかぎりでは、長野県の諏訪の地方に、諏訪神社を中心に神人共同体みたいなものがこだいからあり、そこのやり方が神事を司るものと政治を司るものが男と男だという制度をもっていました。それから瀬戸内海でいいますと、大三島を中心に河野水軍の祖先が神人共同体をつくり兄が現人神で神事を司り、弟がその辺りを統括して政治を司るというかたちがあった、という伝承があります。

 柳田国男の民俗学的な習俗の領域に入りますと、地方の神社を中心にして当番の社家があります。社家があるところでは兄弟でもって、村の世話役と神事を司るというかたちはのこっているところが沢山あります。しかし、一般的に古代の国の制度としてあったとおもわれているのは、僕らが知っているかぎりではその三つしかあのません。でもかなり確実に、一つの時代の政治的な制度のやり方としてあった、とおもわれるわけです。         (P257)

●この兄弟が祭司と政治的な統治を分掌する制度と、姉妹が神事を司り、兄弟が政治を司る姫彦制が、どちらが先で、また後であるのか、あるいはどちらが多くまたどちらがすくないのか、どちらが先住的でどちらが後住的か、あるいはどちらが西南的でどちらが東北的か、こういったことを決めるのはひとつのおおきな課題としてあるようにおもわれます。   (P257)


項目抜粋
2

●神話のなかに二つ並列して豪族の名前が記載されているばあいには、どちらかが神事を司り、どちらかが政治を司るのですが、その例は兄弟姉妹が並列に記載されているばあいと、それから兄と弟が記載されているばあいと、二種類にわかれます。これは地域によってそうなのかとみていくと、かならずしもそうとはかぎらないのです。だから、それじゃあ、どちらかが古い制度なのか、ということもはっきりといえません。

 兄弟姉妹が神事と政治をふりわけていた制度は、近畿地方より西南の制度で、東北の方は、兄と弟の分掌する制度ではないかと地域でふりわけられるような気もしますが、それもあまり断定的にいうことは、できないとおもいます。柳田国男が、この問題について触れているのは、もっぱら姉妹と兄弟とが、神事と政治を司る制度についてです。【註 「妹の力」など】

 …・兄弟、あるいは別々の男性が神事と政治を司るという制度の問題は、多分ごく近年になってはっきりしてきたことで、そんなに古くは研究の眼がむいていなかったとおもいます。     (P258-P259)


備考




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48 天皇制 てんのうせい わが歴史論―柳田思想と日本人 
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項目抜粋
1

●いままで申し上げた兄弟・姉妹制と、兄弟・兄弟制のあり方に関連して、その制度を初期の天皇群にあてはめていきますと、付随していえることがあります。例えば神武天皇は東征のおわりに大和の国にはいってくるわけです。そこで橿原というところに神話の記載によりますと宮殿を定めます。そこで政治をすると書かれています。イスケヨリヒメというのがお妃になるわけです。  (P259)

 …・この記載が意味しているのは、政治を司る神武天皇は、個人の男性として三輪山あたりの村落の母系制に従って、じぶんが見初めた娘のところに通っていく「通い婚」のやり方をしていたということです。つまり政治・神事の制度としては男・男制を取りながら、じぶんの勢力圏にある村落の制度にしたがって娘を召し連れていって宮殿に住まわせるまえに、入り婿として、じぶんの方が、イスケヨリヒメの家がある狭井川の上流のところに通っていくわけです。つまり婚姻制度として村落で行われている母系制にしたがっています。

 ですから家の制度としては母系制をとり、公的な政治の制度としては、男・男制をとっていた、というのが初期の天皇群の本来のあり方でした。そして例えば宮殿が次の天皇のときにはそんなに離れていないのですが、また別の所にかわってしまうのです。それはどうしてかといいますと、通っていったお妃になる女性の家が、それぞれちがっていて、その女性の家の勢力圏に宮殿をつくるというやり方をしていたからだとおもいます。そしてたぶんイスケヨリヒメはその当時三輪山の周辺にあった村落共同体の首長の娘だったとおもいます。そうするとその娘を娶るということは、母系制社会ですから、その村落を支配する力をじぶんのところにえたことを意味しています。天皇がかわればちがう女の人のところに通ってゆくはずです。…・それが初期の天皇群の宮殿の所在地が一代ごとにちがうきさいになっている理由だとおもいます。  (P259-P261)

●最後にもうひとつだけ大切だとおもえることを申し上げてみます。初期の天皇が南九州から東征して、近畿地方に入ってきたという神話の記載を、歴史や考古学の事実に対応させようとすれば、どの時代にふりあてたら矛盾がすくないのかという問題です。どの時代だったのかということについて、また確固たる定説がないというのが現状だとおもいます。  (P261)   【註 これにたいするいくつかの考え方 P261-P263】

…・こういう問題について、柳田国男は、ことさら天皇の問題にかかわって言及していないんですが、推測をまじえて申し上げてみます。…・ですから天皇家の系譜をいうなら、弥生時代を象徴する王家だったと柳田国男はかんがえていたとおもいます。   (P264)


項目抜粋
2
備考




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49 二重の含み にじゅうのふくみ わが歴史論―柳田思想と日本人
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日本人のもっている二重性
項目抜粋
1

@●柳田国男は、あからさまな言葉を使っているばあいも、それから象徴的な言葉をつかっているばあいも、それからメタファー、暗喩みたいな言葉をつかっているばあいもありますが、ほんとうの関心は、さいごまで農耕民でない人たち、つまり「山人」と柳田国男が呼んだ農耕以外のことにたずさわっていた人たちにあったのではないかなとおもいます。柳田国男のなかには、二つの中心があって、一つの中心は農耕共同体のしきたりとか、伝承とか、その頂点にある天皇の宗教・婚姻・神話などだったとおもいます。もう一つの中心は、農耕民以外の人たちにたいする関心だとおもいます。柳田国男は天皇家がはじまって以降の日本の歴史に、それほどのおおきな比重をおいてなくて、むしろそれ以前の日本列島にそれ以前に住んでいる日本人にたいする強烈な関心がありました。その人たちへの関心が含まれないでは、日本人は、かんがえられないんだとおもいつづけていたでしょう。それは。柳田国男のなかの矛盾といえば、矛盾といえるかもしれません。かれはこの矛盾を書き記してはいないようにおもいます。      (P265)

●柳田国男を語るばあいこのどちらか一方に片よせようとしますと、難しいことになってきます。つまり、柳田国男の民俗学にはいつでも、二重の含みがありまして、この二重の含みのおおきさが、柳田国男の特徴になっていたんじやないかとおもいます。この柳田国男の特徴は現代にも死んでいないのです。おかしないい方ですが、全体的にこの二重の問題が日本人のもっている二重性につながっています。弥生時代以降の日本人、あるいは初期天皇の朝廷が成立して以後の日本人とか日本国家のあり方と、それ以前に日本列島に北から南まであったかもしれない国家または国家までいけなかった、村落の共同性との二重性がそれです。こういう問題を現在でも追求しないといけないという問題の立て方を、最初につくりあげたのは柳田国男だとおもいます。   (P266)

A近代以後の天皇制や日本国家の絶対性は、いってみればたかだか二千年足らずに過ぎないものです。縄文以前、また縄文時代以後からの日本人の系譜からみればこの天皇制は飯粒みたいに小さくみえます。そういう時間のなかで日本人とか、日本列島とか、日本国家をかんがえていくことができます。そういう時間の延び方と関係を柳田国男から学ぶことがとてもおおかったとおもいます。   (P266)


項目抜粋
2

B柳田国男はさまざまなちがった形をとった信仰―東北地方からアイヌ、大和の三輪山に伝わる信仰、それから沖縄に伝わる信仰まで全部含めまして、それらすべてを貫通するように、信仰の形態を抽象化して、その根柢がほぼひとつにつながることを見つけだしてゆきました。【註 オシラサマのこと】

 …・柳田国男の民俗学のいちばん奥の方にあるのは、こういう暗示と、それが全域につながっているという認識だといえるのです。このことはとても重要におもいます。そうしますと、アイヌの人たちも、東北の人たちも含めて、それから南西諸島のいちばんはずれの人たち、つまり八重山諸島の人たちも含めて、すべてつながりのなかにやってきます。それが現在のところかんがえられるいちばん深層の日本人という概念だとおもいます。    (P267-P268)


備考




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50 柳田国男の文体 やなぎだくにおのぶんたい わが歴史論―柳田思想と日本人
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柳田国男の文体の示唆
項目抜粋
1

@『金枝篇』のフレイザーのような民族学者のやり方と、柳田国男のやり方では、とてもちがうところがあります。それから、日本的なやり方と西欧的なやり方では、たいへんちがうやり方のところがあります。柳田国男は、西欧的なやり方を充分に踏まえて、充分によく知って、調べておいてあるのですが、それをおくびにもださないで、内側から解明しながら、いつか普遍的な世界に通じる言葉にでてゆくというやり方をしています。けっして、外側から「こうだ」というやり方をとっていません。内側から、内側から、論理でせめられないところは手触りでせめる、手触りでせめられないところは、匂いでせめる、匂いでせめられないときは色でせめる、そういうやり方を駆使しています。僕らみたいに生半可に論理的な思考を身につけ、やたらに振りまわす中途半端なところからは、あるところで、まどろっこしいところがあります。その反面、やはり意識して、こういうやり方をするというのは、たいへんなエネルギーだなとおもうときもあります。

 またその記述がとても鮮明な画像をつくりあげているところがありますが、その鮮明なイメージは、外からの知識とか、外からの論理を知っていてそれを使わない、という禁欲的な認識が与える鮮明なイメージだといえましょう。知っている知識はなんでも使っちゃうというふうにやったら、柳田国男の文章のもつ鮮明な像は作れないでしょう。内側から論理だけ、経験だけ、実証だけじゃなくて、言ってみれば、色とか匂いとか、ありとあらゆる触覚的なもの、視覚的なもの、聴覚的なものまで、動員してくるやり方が文体の秘密であり、柳田国男の方法的な特徴であるとおもいます。この特徴は、僕らに学べといわれても無理なものです。僕らは生半可な論理ばっかり身について、それを軽々しくふりまわすからです。しかし、この柳田国男の方法は文体でもっておおきな示唆を与え、その影響ははかりしれないところがあります。  (P269-P270)


項目抜粋
2
備考



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51 アジア的な制度 あじあてきなせいど わが歴史論―柳田思想と日本人
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日本の特殊性
項目抜粋
1

@最後にひとつだけ申し上げます。日本の天皇制、日本の初期国家をつくった勢力は、ひろくいいますとアジア的な権力のなかに一つのあり方です。日本の民俗、習慣の世界は何かといいますと、アジア的な風習のなかの一つで、そのなかの島国らしい民俗、風習の一つだというふうにおもいます。アジア的な制度みたいなものの、あり方の特徴はなにかといいますと、単純にマルクスという人によって得られたものですが、第一は土地の所有者が国王一人に帰するということです。…・

 もうひとつの特徴は貢ぎ物をとる制度です。現物で、例えば農産物を王家の蔵に納める、現物でなければ労働力を納めるというやり方がおおきなアジアの特徴です。これは、明治以降に地租改正によってなくなりました。それ以前は貢納制が千年以上も続いたのです。

 もうひとつの大きな特徴は、治水ということです。治水工事を民衆がやらずに王家がひきうけるというのがアジア的なおおきな特徴です。村落の人間が協力しあって灌漑用水のために治水をやろうという発想は、なかなかなかったのです。…・だから、王家が治水工事をやめてしまえば、もうそれで村落は滅びてしまう。そういうのがアジアのおおきな特徴だということです。村落とは対照的に都市のことを申し上げます。アジア的な都市の特徴は何かというと、王家、つまり支配者とそれに雇われている共同体の人たちが集まったところに都市ができます。そこにそれ以外の人々が集まってきます。それがアジア的な特徴です。だから王家がちがうち生きに移ってしまったり、王家が滅亡してしまえば、そのときはもう、村落も滅んで、荒野原になってしまうわけです。      (P270-P272)

A●日本人の王家のばあい、このアジア的な特徴のいくつかはそのままでは通用しないことがわかります。つまり、そんなに土地が広くなく、島国でありますから、大規模な灌漑工事なんて、日本ではあまり必要ないわけです。

●それから、もう一つは、アジアの農耕社会は、黄河みたいにおおきな河川の流域に広大な平地があって、そこで農耕が行われるというようなのが一般論の見方ですが、日本の場合にはそんなことありません。山がうしろにせまった海岸べりのせまい平地や低い山にかこまれた海抜のわりに高い盆地などに村落ができます。こんなところで大規模な灌漑工事がいるわけはありません。これは、日本の王家をとても特殊なものにしたおおきな要因です。この問題もまた、解明しなければなりません。  (P272)


項目抜粋
2
備考




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52 柳田国男の方法の拡張 やなぎだくにおのほうほうのかくちょう わが歴史論―柳田思想と日本人
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外からの視線と内側の視線
項目抜粋
1

@弥生時代的なものと柳田国男が「山人」といっている縄文時代的なものが、二重にかぶさっているのが日本の風土や地勢、民俗習慣、習性をつくってきたものです。その二重性が基層にあるとかんがえるとかんがえやすいのです。

 アジア的なものをマルクスのように一般論でいえば、ひろい大陸のなかで、山岳地方は山岳地方でその特性をかんがえ、平野地は平野地の特性をかんがえるべきで、地域別に区分してかんがえるがいいはずです。日本みたいなせまい島国では、弥生時代的なもの、その平野地的な要素、それから山岳的なもの、つまり縄文的なもの、非農耕的な狩猟、木樵、木工的なもの、この二つがせまい列島の地域に二重に重なった風土や地勢が、日本人の心情をつくり、習性をつくり、それから制度をつくる基盤になったとかんがえるべきだとおもいます。

 これは典型的に外から全体をみる見方になります。これでは網目があまりにも粗すぎて、もっとこまかくほんとの日本文化とはなにか、日本国とはなにか、日本の習俗とはなにかに近づいていくには、まだやらなくてはならないことはたくさんあるとおもいます。柳田国男は、あくまでも、外からの知識はただの知識にしておこうじゃないか、じぶんたちはあくまでも内側からせめていけばよい、そのかわり、日本人は、味とか、匂いとか、色とか、それから草花とか風とかにたいする感受性がとても鋭敏なので、この鋭敏な感受性を全部使って解明に役立てようじゃないか、そうかんがえたとおもいます。この柳田国男の方法を拡張していけば、たくさんの可能性がまだあるとおもえるのです。    (P272-P273)

A外からの眼をどんどんこまかく行使して、日本人とはなにか、日本とはなにか、あるいは天皇制とはなになのか、という問題をつめていく方法を、西欧近代から身につけてきました。内側から柳田国男の方法を敷衍して、たんに論理とか、知識とか、だけでなくて、触覚、味覚、嗅覚、視覚、聴覚など五感から得られるものをとりいれたうえで、日本人とはなにか、日本の習俗とはなにか、日本の制度とはなにかを追求していく方法を、どこかで綜合する課題があるのではないでしょうか。柳田国男の民俗学の方法は、内からの眼と外からの眼を接着する方法をつくりあげる課題があることを、いまも示唆しています。みなさんの心の片隅にもこの問題はあるんだとおもいます。  【了】   (P273-P274)


項目抜粋
2
備考




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