Part 2
アフリカ的段階について 
             ―史観の拡張

  試行社 平成10/1/20 発行 <私家版>



項目ID 項目 論名
人間、神、トーテム アフリカ的段階について V
神認識のアフリカ的な段階 アフリカ的段階について V












項目ID 項目 よみがな 論名
人間 人間、神、トーテム アフリカ的段階について V
検索キー2 検索キー3 検索キー4
項目抜粋
1
@ デュルケムは今世紀の二〇年代に、原初の宗教的なものが、風とか河川とか星とか空のような自然や、植物、動物のような生きた生命や、岩石のような自然の無生物にたいする畏怖感や神格化としてあらわれるナチュラリズム、すなわち「精霊、霊魂、守護神、悪鬼」などのような感覚的に把握できないものにたいする畏怖感のような自然の神格化としてのアニミズムのさまざまなあらわれが、混じりあっていることに注意を払った。丁度ニワトリと卵がどちらが先かを論じあうのとおなじで、デュルケムのかんがえたように、この二つが相反するものとすれば、結着を与えるわけにはいかない。デュルケムはこの二つのあらわれ方を感官に把握できるものと、すくなくとも感官によってはつかめないものとに区別されるとみなしている。
 ここで別の視方をとってみる。するとこの二つは相反しもしないし、別々の考え方ともいえない。デュルケムがナチュラリズムとアニミズムとに分けている元の考えは、天候現象のような自然の動きにも、地上に固定されて動かない自然物にも、人神が宿り人間の肉体もまた植物や動物とおなじように地上の自然物であり、死んで霊魂がとび去ったときに、肉身もまた、岩石のような動かない自然とおなじになるとみなせばよいことになる。いいかえれば宇宙の自然の形や現象の動きも、地上の自然や生きものにも、人神とおなじものが内包されているとかんがえれば、そこではデュルケムのいうナチュラリズムもアニミズムもおなじことになる。

A なぜそんな認識が生まれるかといえば、ヘーゲルのいうとおり、人間の肉体も他の生物体とおなじように<知覚する自然物>だとするナチュラリズムでは、人間以上の存在は自然のうちにかんがえられないことになる。だから自然の動きで眼につく現象はすべて、人間によって統御できるものでなくてはならない。風が方向を変え、温度や強度を変え、それが季節ごとに循環する現象も、人間の力で変更したり、統御できないとすれば、
人間以上の存在を認めるほかなくなってしまう。人間は自然の動きを変えさせることができる存在とみなされるほかない。人間の力能を最高だとすれば、他の動物や植物や無機的自然がもっていない何かがあるからだ。これが精霊、霊魂、守護神、悪鬼、物の怪を生みだす人間の想像力のはじめての形だとかんがえられる。人間が自分を最高の存在と見なすとすれば、この精霊、霊魂、守護神等々の感官にうつらないものだけが尊祟されることになり、また感官に何とかしてうつる存在のようにみなしたい願望や錯覚や思い込みも当然生まれてくる。この可視性(感覚性)と不可視性、あるいは天然の物象尊祟と霊魂尊祟とを接続する原点は、じぶんの先祖をさかのぼることで、ひとりでに人間が神に変身するという概念と、先祖としてトーテム動物や植物や生物を設定する概念とが一致するところにあるといってよい。
     (P67−P69)


項目抜粋
2
B 人間は死ぬと誰でも「命(ミコト)」という神称をつけられる。これは、日本神話の基本の形だといってよい。死者でないばあいも、しぶんから数えて四代以上まえ、父(母)、祖父(母)、曽祖父、高祖父・・・・・の高祖父以上は、手がかり神だとされるという伝承もある。こんなふうに人間は四代以上になると神に移行し、先祖の尊祟、トーテムの尊重にゆきつく。トーテムが失われた世界では、自然の現象を左右できるほどの霊魂の普遍化、強大化、超能力化にゆきつく。
     (P70−P71)


備考 註.Aについて




項目ID 項目 よみがな 論名
神認識のアフリカ的な段階 かみにんしきのあふりかてきなだんかい アフリカ的段階について V
検索キー2 検索キー3 検索キー4 検索キー5 検索キー6
異類であるという分離した感覚 それは人間と牛とをおなじものとみている 名づけるということ 神認識のアフリカ的な段階 動物生の否定のモチーフ
項目抜粋
1
@ ・・・・・・・・・・・アフリカ大陸の東海岸。著者【註.梅棹忠夫】がここで言っていることで大切なのは、ミガボ(精霊)がたくさん住んでいて、石や木に宿っているという考え方だ。フレイザーの『金枝篇』(岩波文庫)によるまでもなく、これはアフリカ的段階では普遍的にある考え方だといえる。石や木とじぶんたちを生きものとして区別してかんがえる根拠がないのだ。
         (P72)



A 
    ・・・・・・これは、たいへんな発見だと、わたしはおもった。いかなる未開民族といえども、人間をサルと同一視することはまったくゆるさ    れないけれど、この点に関するかぎり、ハッツァたちは、ガボゴの森のチンパンジーたちとおなじなのだ。実のなっている木をあさりま     わって、まさに手から口へたべものをはこんでいるのである。かれらには、たくわえということがないのである。
                       (同前) 【註.『梅棹忠夫著作集』第8巻「アフリカ研究」中央公論社】

 食べる物が採取できないで欠乏するとき、飢えるときのために備蓄しておくということは、紙一重で食べる物が実る木や草を栽培して備えるという考え方に連結し、接続している。
この紙一重は時間ではなく、認識し実行するかどうかの問題だ。ただこの微小な紙一重は木にむかって(おまえは実をつけよ)とまじないかけても、木のほうで素知らぬ貌をしているだけで応じないという体験を反復することによってしか超えられない。いいかえれば異類であるという分離した感覚が萌生えてくることが必要なのだ。仕方なしに精霊を創りだすために司祭者や呪術師たちは、扮装して神のまねごとをはじめる。ここに記述されているガボゴ岬の岩に宿る神は、すでに紙一重を超えかかった神なのだとおもえる。この著者が記述しているアフリカ人の風習で、わたしたち日本人にとって実感に近いところで理解できないものはほとんど無いといっていい。


B 
    この牧畜部族においては、人間と家畜とのむすびつきは、おどろくばかりふかく、つよい。人間は、ウシなしではいきられないし、ウシは   、人間よっていきている。人間の子は、うまれたときからウシの子とともにそだつのである。
    かれらは、人間の子どもに名をつけるように、すべてのウシに、名まえをつけているのである。何百頭いようとも、名まえは全部ある。信   じられないようなことだが、これはたしかな事実である。その家の家族は、自分の家の子どもの名をしっているように、自分の家のすべて   のウシの名をしっているのである。そして、これもまた信じられないようなことだが、ウシのほうも、自分につけられた名まえをしっているの   である。名まえをよばれた子どもが返事をするように、名まえをよばれたウシは、そのとき頭をあげてこたえるのである。
    もし放牧中に、150頭のむれのうちの1頭でもが、はぐれてみえなくなったとしたら、ウシ追いのキダレイダはすぐ気がつく。数をかぞえる   わけでもないのに、かれにはすぐわかるのである。 (同前)

 かれらはなぜ一頭一頭にの飼牛に名前をつけるのだろうか。
それは人間と牛とをおなじものとみているからだ。かれらには牛が子どものように擦り込まれているし、牛の一頭一頭には牧畜部族の飼い主が母親のように擦り込まれている。これこそがアフリカ的段階を人類の原型にしている特性のひとつだとえる。個人名が牛につけられることは、人間の子どもに卑称がつけられたり、仇名をつけられたりすることとおなじ意味をもっている。名前とは人間から土地の地形にいたるまで、かれらのいう精霊の棲家であることを認めることを意味している。
     (P74−P77)


項目抜粋
2
C もうひとつは、地名のつけ方のことだ。植物、動物、その他の生物の呼び名が地名になるとともに地形の名が地名になるということは、すべての原型的、アフリカ的な段階に共通している。この著者はナンディ族、ダトーガ族について記しているが、日本の地名でも起源ではおなじことがいえる。日本列島の東北部の地名ではっきりのこっているのは、地形名が地名になっているアイヌ語がいちばんおおいが、もちろん日本列島のいたるところで、地名は地形に由来するものがのこっている。とくに西南部と東北部におおいといえる。動物名、植物名、無機物の名称もある。ここで共通なのは名づけるということが人類にとって最初にやってくるということだ。わたしたちは想像でしか事物や生きものに固有の名をつけるという性向を推量することができない。だがアフリカ的な段階で共通にしめされていることからは、感覚、とくに視覚的な形態に意味を結びつけることから名づけが発生しているようにみえる。いいかえれば形態を意味として感覚することができるようになったときがそのはじめになる。そして形態の意味化がいちばん手易いのは、形態が閉じられていて複製と反復に耐えるばあいとみなされる。動物の名にuda−という接頭語がよく使われているというダトーガのばあいも、人間の固有名の男がgida−女uda−をつけるばあいも、それが反復と複製の単位をつくる要素となりうるからだといえよう。また仇名がつけられるばあい、いつも即時的であり、伝統的な命名法ではないが、即物的な特徴が鮮かにとらえられていて、しかもその仇名の人物が何かの理由で目立ったり、王族であったりするばあいに仇名をつけられて呼ばれる。日本神話でいえば王の先祖にウガヤフキアエズという仇名がつけられているのはその例のひとつだ。産屋の屋根を葺く以前に生まれた子どもという仇名だ。


D 
    神は稲妻で空を裂き、木々が呟くように森を動かす。われわれが「It is hot(暑い)」と言うときに「it」を使うかわりに、アフリカ人はしばし   ば「神様は猛烈に暑い」と言い、「神様は雨となって落ちている」、「神様は雷の太鼓を鳴らしている」と言う。・・・・・・・・・・・・・
                  (ジェフリー・パリンダー『アフリカ神話』 松田幸雄訳 、青土社)

 ここで「神」といわれているものは、わたしたちの識知では、むしろ「自然」はと呼び直したいところだ。そしてこの「自然」は擬人化されており、その擬人化の度合は、原住の人たちが自然にまみれた生きものになっている度合と見あっている。そうかんがえるかぎりブラック・アフリカはアフリカという概念を普遍化した意味で生きている。天候が「猛烈に暑い」ことは日本でも初期神話では擬人化された自然が暑くしているので、雷鳴は雷という神(擬人)が活動しているのだとかんがえられている。ユダヤ教の旧約世界でも、オリエント一帯でも、極東でも神認識のアフリカ的な段階は共通のものだといえる。
            (P84−P87)


E これらの人間の起源神話は、みなひとつのことを語っている。最初の天然の異変でとり残された男と女たち(兄妹というばあいもある)は生殖、性交の方法を知らない。そして他の鳥や虫類や動物からヒントを得たり、風によって孕んだりして性交のことを知るようになり、それから子孫を殖やし、種族の始祖となるというものだ。日本列島の神話や説話でも、セキレイの性交をみて模倣して子孫を殖やしたとか、称え言をして性交したとか、風上と風下にいて風が仲立ちをしたとかいうヴァリエーションになっている。いずれにせよ最初の始祖は性交行為を知っていたが、子を生む方法としては知らなかった。子は村落の死んだ祖先の霊がやってきて村落の女性の胎内に入るという別の事柄だった。そういう共通説話からできている。性交行為と妊娠、出産との必然的なつながりを知らなかった段階を象徴しているものとおもえる。もちろん始祖の人間といえども性交の方法を知っていた。しかし子どもが生まれるのが性交行為の結果だという認識に達しなかった。その生理的な理由は愛情から出産までのあいだに十ヶ月余の距りがあるためにちがいない。もうひとつは輪廻転生の神話的な確信祖先崇拝と強力に結びついていたからだとおもえる。
 性交行為は自然行為だった。子どもを妊娠し、出産するのは、死んだ村落の先祖たちの霊が女の胎内に入り込んだからで、性交とはかかわりなかった。人(ヒト)は動物生の一種としてみられれば、性交は本能的な自然行為だ。そして女性が妊娠して十ヶ月余で子どもを生むという事実に眼をつけるかぎりは、死んだ祖先の霊が転生して子孫の女性に入り込むことで、あくまでも霊の転生だといえる。この意味で性交行為と妊娠、出産の事実は次元が異っていることになる。
 起源をめぐる神話が、セキレイの交尾から性交の方法を学んだとか、動物の性行為をみて性交を知ったとか、風上と風下にいて風のそよぎによって妊娠したとかいうように、性交が妊娠とかかわることとしてかんがえられるかぎり、性交の方法をしらないように記述していることは、
人(ヒト)の起源を動物生と異質のものとみなしたい最初のモチーフとうけとれる。なぜ人(ヒト)は起源神話として発祥が仮構されるのかといえば、この最初の動物生の否定のモチーフからではなかろうか。この否定のモチーフは物語をつくる原動力であり、ありうべからざることに合理性を与えうる能力の起源にちがいない。アフリカ的な段階の基底にあるこの否定の同一性が、人(ヒト)を差異の同一性という矛盾した類にしているものだ。
            (P91−P93)

備考 註.C,E(「動物生の否定のモチーフ」)について




inserted by FC2 system