ハ行

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ID 項目 ID 項目
416 文芸批評
429 文学の初源性
432 100年後
490 パライメージ
491 文学とは何か      
492 普遍文学 @      
505 発生期の状態の保存・発動      
509 文学とは何かA      
511 武家層の起源      
517 ヘーゲル・マルクスの国家の考え方      
524 フーコー      
525  普遍的善悪      
537 微妙な親鸞      
542 廃墟のイメージ      
545 本当のいい小説      
546 晩年の言葉 @      
547 晩年の言葉 A      
565 晩年の言葉 B      
569 晩年の言葉 C      
573 晩年の言葉 D      
579 敗戦後      
581 晩年の言葉 E      
588 微妙なこと @      
589 微妙なこと A      
599 ハイ・イメージ論@ ― モチーフ      
600 ハイ・イメージ論A ― 究極イメージ      
601 ハイ・イメージ論B ― 概念とイメージの関係      
602 ハイ・イメージ論C ― 都市の普遍理論      
603 ハイ・イメージ論D ― 世界視線      
604 ハイ・イメージ論E ― 自然主義的な自然観を超えて      
618 普遍文学 A 追記2020.2.12      
619 晩年の言葉 F ―詩作としての三部作      
620 晩年の言葉 G ―世界観念      
621 晩年の言葉 H ―天皇制      
625 表現の歴史的な固有性      
626 晩年の言葉 I ―ほんとうの知識に向かって      
632 晩年の言葉 J ―歴史の主流の推移について      
634 文学の中の中性点      
638 批評という概念      
675 「ほんとうのこと」が生起する場所 @      
676 「ほんとうのこと」が生起する場所 A      
677 「ほんとうのこと」が生起する場所 B      
683 「ほんとうのこと」が生起する場所 C      
701 文学というものの難所      
     





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
416 文芸批評 @ 還相の視座から インタヴュー 還りのことば 雲母書房゙ 2006.5.1

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学問と文芸批評違い
項目
1
@ 文学自体、同じ作品でもいろいろな読み方があるわけです。アカデミズムの人は事実も問題として、どういう背景があるからこういう考え方になっているということが主な関心でしょう。だけどぼくらの場合は批評の要素としてふたつのことがあります。
 ひとつは、作品はいずれにしろその
作者のところに収斂するから、作者がどのような思想を持っているか、どのように思想を持っているからこういう表現になるんだというふうな読み方です。
 もうひとつは、あの人たちは頭でかんがえる学問だから頭でかんがえるのでしょうが、ぼくらは文芸批評という「
」でかんがえる。これはもう全然違うんですよ。どこでどう違っちゃうかというと、だんだん年をとってくるとわかるんです。
 頭でかんがえる場合、ずっとやってきたんだから頭ではかんがえられるんだけど、どうしても手が動かないよということになっていく。それに対して手で考えている場合、手で書いてきているので、頭はぼけるかもしれないけど手はちゃんと動くんだよというのがちょっと違うんです。若いときはどうしてもわからないし、どっちも同じようなもので、分離できない。これは不幸なことなのだけど、年とると、手でかんがえているのと頭で考えて研究したのは違っちゃう。

                         (P24−P25)

項目
2
備考 註 」でかんがえる・・・・まだ、実感として十分わかったといえない。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
429 文学の初源性 夏目漱石を語る インタビュー 『森』第8号2005年7月 吉本隆明資料集165 猫々堂 2017.5.25

聞き手 笠原芳光・安達純

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文学の初源性であり、たぶん最後の問題 自己慰安 「自己への配慮」

項目
1

安達 吉本さんは、「文学の初源性」ということをおっしゃっていますね。文学とはもとを正せばこういうものなんだということで、漱石の作品では、『虞美人草』にそれを感じると。文学の初源性について、もう少し詳しくお話ください。

吉本 普遍性はないんだけれども、最終的に言えば、そういうふうにしか言いようがないないんだけれども、人間の存在感と言ったらいいのか、
存在の倫理が、それだけが保存されていることが文学の初源性であり、たぶん最後の問題だなという感じを持っているんですよ。それをいろんな言葉で言っている。「自己慰安」という言葉で言ったり、フーコーは「自己への配慮」と言っていますね。個人としてどうであるかということから、個人が善悪に関係したり、社会に関係したり、人によっては政治に関係したりとかいうふうに全部を含めて、フーコーは配慮と言う言葉を使っている。全部を含める言葉としていい言葉だなと思う。僕としては、「自己としての自己」という変な言い方で、意味にはならないのですけれども、まったく自由である、学者を志そうが、ライブドアのように大富豪になろうと、そんなことは自己としての自己という面で言えばまったく自由であって、いけないとかいいとかそういう論議とか理念が成り立たないと思っているわけです。社会としての自己という観点からは、ある場合にはよくないよということもあり、極端を言うと、人を殺したり、近頃いろんな事件があるけれど、そこまでいくと、社会的な自己として何か言われることがあるかも知れないということとか、法律にひっかかって、そこでは何か問われることがあるかも知れないなとは思うが、ただ自己としての自己として、自由に自分の思い通りのことを思って生きること自体には別に善悪の問題はひっかかってこない、関係してこないという意味合いで、自己慰安と言う言葉を使って、自己慰安は文学や芸術にとっては少なくとも、いちばん根源にある問題で、最後にそれだけが残る、あとは残らないというふうに僕は思っている。それが自分の文学観の基本になっていて、最終的には自己慰安しか残らない。それ以外のことは何か残ったとしてもおまけで、それを当てにすることはできないふうな程度のものと思っているんです。    (P22−P23)

備考





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
432 100年後 どう生きる? これからの十年 インタヴュー 『ブッククラブ回』2006.10 吉本隆明資料集165 猫々堂 2017.5.25

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だいたい一代 一〇年か一五年
項目
1

@
― 一〇〇年後、人間はどのような意識の状態にいると想像されますか?

吉本 
一〇〇年後というと、人間が赤ん坊のころから亡くなるまで、だいたい一代。そのくらいの範囲で考えられることだけが、まあ真面目に考えている事なんだっていうことができますね。レーニンは、唯物論的な政治哲学を持っていたけれど、それだって一五〇年ももたなかった。宇宙は人間とは桁違いのことで計られなければならないけれど、人間の脳より先に宇宙があったんだよというのは、どんな宗教家だろうがなんだろうが、現在ではだいたいにおいて今は認めるでしょう。物理学者のエルンスト・マッハは、「そんな事いうけど、目をつむっちゃったらそんなこと問題にならないじゃない」っていう観念論です。人間の脳より先に宇宙が無かろうがあろうが、要するに死んじゃったらおしまいじゃないかっていう事になります。まあ、とりあえず、一〇〇年以内に考えられる事は考えた方がいいし、わかればわかった方がいいと思います。だけども、これが真理だぞっと言えるような事を人間の社会について考えてみろって言ったって、そりゃあ誰にも不可能でしょう。僕がいくら考えても一〇年か一五年か、二〇年まではちょっと怪しいというそういう感じがしますね。それ以上の事を言ったら嘘言っていることになる。
     (P41−P42)


備考 人間の思考は、無限の自由度を持っているように見えるけど、それは歴史的な現在性というものに規定されていて、具体性を伴った像は一〇年か一五年か位しか像として描いたり、把握したりできないということだろう。本質論として、人間の主流の動向としてなら、もっと長い時間に耐えるものとして言えるような気がする。しかし、この件、いろいろと考えるべき問題を含んでいるように見える。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社
490 パライメージ 『吉本隆明 戦後五〇年を語る』152 インタビュー 週刊 読書人 1999年2月26日号 読書人

※聞き手 山本哲士・高橋順一・内田隆三

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作者の意図 無意識的 言葉以前の感覚やイメージ 普通の読み方
項目
1

@
 映像に最も近い効果(引用者註.本文の小見出し)

吉本 言葉でありながら、意味よりもイメージがこちらに全面的に入ってくる表現のあり方とはいったい何なのか。これは先ほど申し上げたように、三次元のイメージ、つまり、われわれの視野とそれに結びついたイメージに対して、もう一つ違う視線がどこかから入っていると理解するのが一番良いのではないかというのが僕の解釈になります。
 そういう箇所を僕はパラ(Para)イメージと呼びました。
言葉で書かれていながら、映像にもっとも近い効果をあげている場所をそう呼んだわけです。作者の意図に関わりなく、無意識的にそうなってしまう。なぜそうなるかというと、普通のイメージと、それとは違う視線がもう一つ加わって、そのために言葉が意味としてでなく、全面的なイメージとしてこちらに入ってくることが可能になっていると僕は理解したわけです。言葉は成立の根拠からかんがえて言葉以前の感覚やイメージを潜在的にもっていますから、言葉を全円的に行使できた個所では潜在的なその作用が顕在化するのだとおもいます。
 ほかの芸術でもそうかもしれませんが、文学作品、つまり言葉の芸術では、作者の意図どおりに言葉がイメージを喚起するということはなくて、ある描写の仕方をすると、言葉でありながらイメージこちらに喚起される。そういう箇所の印象をつなぎ合わせて、我々は普通、ある作品を読んだと言っているわけです。言葉が鮮明なイメージを喚起したところがいくつかあって、それをとびとびにつなぎながら、作品の印象をかたちづくっているというのが
普通の読み方だと思います。
 (『吉本隆明 戦後五〇年を語る』152 週刊 読書人 1999年2月26日号)
 ※聞き手 山本哲士・高橋順一・内田隆三


A
 賢治的表現の可能性(引用者註.本文の小見出し)

吉本 ブルトンではないけれど、そうやって書くことを理論化すると、無意識による自動筆記という言い方になってしまうのがシュールレアリスム方法ですが、たとえば、「宮沢賢治のようにやってみろ」と言われても、「俺、できないよ」と言うより仕方ないんですね。
無意識の深度が違うような気がします。意味する言葉で書いているにもかかわらず、イメージだけがやってくるようなことは、どうしたら実現できるのか。宮沢賢治はどういうやり方をして、それが実現できたのか。無意識にどういうやり方をしたら、そういう表現ができるのか。
 僕が大雑把に考えているのは、フロイトが考えているような無意識の次元よりももう少し深いところの無意識といえばいいでしょうか。フロイトの無意識は、ゼロ歳から一歳までの言葉のない時期と、母親の世話でしか生きられない時期で考えられていると思いますが、もしそれより深い無意識があるとしたら、
つまり胎児の何ヶ月なら何ヶ月が無意識の形成の基盤になっているとしたら、シュールレアリストが考えたよりもはるかに深い無意識で書けるのではないでしょうか。そうしたものを加味して書けたら、宮沢賢治がある箇所の表現であたうかぎり実現しているような表現ができるのではないか。僕は差し当たって、そう思っているんです。「お前やってみろ」と言われても、どんな手段を使えばいいのかわかりませんが。
 (『同上』)
  ※これは、新規項目489 「詩を書く内側」の引用@の続きの部分です。項目488、489、490は、「パライメージ」を主題とする一連のものです。


B
吉本 僕が考えているパライメージは、無意識のもっと奥の方と言いますか、そこには僕自身まだ届いたと思っていないので、自分の考え方に確信はないんです。
 (『吉本隆明 戦後五〇年を語る』154 週刊 読書人 1999年3月12日号)








考 

 (備 考)

ここに語られている問題を一般化すれば、わたしたちの意識の層、そのスペクトルのように時間的に積み重なっている(?)層は、わたしたち一人一人の生動する現在の渦中からどのように絞り込まれたり、引き出されたりすのかという問題と言えるだろう。

「パラ(Para)イメージ」というのは、単なるわたしの思いつき程度で言えば、より深い無意識の段階、つまり人類の遙か言葉以前の段階のイメージ表出だから、まだそれは言葉になれない、言葉に引き出せない、ものだから、言葉ではなくそれ以前の段階の主流であったろう映像の方に向かうのかもしれない。


このインタビューを読んでいて、以下の中沢新一の『チベットのモーツァルト』末尾の吉本さんの解説文を思い出した。その中の「無意識の無意識」や言葉と関わる現在的な沈黙よりさらに以前の段階の沈黙など、この項目になんらかの関わりがありそうに思う。


 彼はこの著書から始まる論考で、チベットの原始仏教(密教)を主題に精神(心)の考古学ともいうべき方法で鍬を入れている。たとえばカルロス・カスタネッダという精神(心)の考古学者とでも呼ぶべき専門家がドン・ファンという昔からのメキシコの呪術の継承者に「内的沈黙」と呼ばれていることの意味を問うところが、その著作に記されている。沈黙という精神(心)が他者に言葉をかけない状態である。その場合、「沈黙」には二つの状態が考えられよう。一つは心のなかで他者にではなく自己が自己に対話している状態である。わたしたちの現在の言語概念でいえば、これは言語の価値の源泉となる状態を指している。
 ところでドン・ファンは「内的沈黙」というのはこの自己の精神のなかでの自己と自己との対話を遮断した状態だと言う。わたしたちの現在の概念では〈全き沈黙〉の事で、内容は〈無〉だというほかない。しかし、ドン・ファンというメキシコ呪術の後継者は、それを「内的沈黙」と呼んでいて、沈黙において沈黙のなかで自己対話を中断した、より深い静謐の状態だと説明する。そして、この状態は知覚が感覚器官(五感)に依存しないで可能な状態なのだという。ドン・ファンによれば、現在ではこの能力は失われてしまった。ドン・ファンの言うところでは、この「内的沈黙」が呪術・超能力・治癒力などの基礎にあるものだということになる。
 わたし流の言い方でドン・ファンの言いたいところを補充すれば、ヘーゲルが十九世紀初に『精神現象学』で稠密に展開しているところは、この自己対自己のあいだの「内的沈黙」の次元まで踏み込まずに精神現象を記述しているだけだということになる。もちろん近代精神の生みだした文明や文化にとって不必要だと考えたからだ。するとドン・ファンのいう「内的沈黙」の次元は〈無〉とか〈空疎〉とかいうことで切り棄てることができるし、その「内的沈黙」が呪術・超能力の次元を切り捨てれば未開野蛮の粗雑の人間を動物生とおなじで、身体運動しか持たない存在と見なすこともできるからだ。
 わたしの主観的な思い込みでは、フロイトや弟子であったユングの無意識心理学の理論と臨床に最大の影響とヒントを与えたのはヘーゲルの『精神現象学』である。だが、フロイトもユングも真正面からドン・ファンがいう「内的沈黙」の領域に踏み込むまでは無意識の無意識までを扱わなかった。ただ神話論やマンダラ論で接触を試みただけだ。理由はたくさんあったろうが、西欧における「文明開化」の時代思想が、そこまで踏み込んで無意識領域を臨床や治癒の技術を考えることを確定する気にさせなかったからだと思える。
 わたしはヘーゲルの歴史哲学の単純な世界史の進歩主義的な単系列化やマルクスの部分的な修正を、もう少し修正しようとかんがえたとすれば、ドン・ファン的な「内的沈黙」とおなじ「段階」が段階の起源に近い原初ではないかと着想したことがある。
 ヘーゲルやルソーのような近代の哲学者が定めた野蛮や未開から近代までの歴史展開の「段階」は、たぶん小「段階」で、ほんとうは大「段階」の一つをまた小さな段階で区切ったものにすぎない。近代の哲学者は、近代までの一つの段階にすぎないものを人類の歴史のすべてと見なし、それを西欧近代の文明・文化を史観によって刻んで頂点として進歩の順に並べて見せた。しかし人類が種として種から分岐し、独立したのは百万年単位の以前であり、地域によって種族語に分割され、共通の母音をもちながら種族語に分岐したのは十万年単位の過去だったとすれば、ヘーゲルのような小「段階」を区切る進歩主義の単純な展開では、この種としての分岐と種族語としての言語の地域分割との間の期間はすべて同一な動物性ということになってしまう。
 近代哲学者たちが言う野蛮、未開とは、ほんとうはそれ以前の大「段階」の終焉であり、同時に現「段階」の初期であると考えるべきで、現在の大「段階」の終焉の後には現在確定し難い次の大「段階」に移行する。そう見なすべきではなかろうか。
 わたしたちが現在、野蛮・未開の小「段階」の認識法を継承しているアフリカ大陸や南北アメリカの原住民や、東アジアやオセアニアの島々の知識人(呪術師)の認知法のなかに、神秘性・非科学性、不可解な妄想やこじつけとしてしか見なしえない認知法、としかかんがえられない部分があるとすれば、未発達な社会の迷蒙な認識とかんがえるべきではなく、野蛮集団から現在までの大「段階」以前の大「段階」から引き継がれたものであるのに、その思考の意味するもの、その核心が何なのかなどが判断できずに、謎に満ちていると見なされているのではないか。わたしなどの段階論からすると、そんな仮説ができるように思える。
 (中沢新一『チベットのモーツァルト』の解説、吉本隆明)






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491 文学とは何か 『吉本隆明 戦後五〇年を語る』87 インタビュー 週刊 読書人 1997年10月3日号 読書人

※聞き手 山本哲士・高橋順一・内田隆三

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文学作品を書くということが、その人に与える影響 倫理的な問い
項目
1

@
 作者に与える影響(引用者註.本文の小見出し)

吉本 日本のフランス文学者で、フォルマリズムの影響をもっとも強く受けている人は、「作品を作品として批評すればいいのだ。一度、言葉の作品になってしまったのだから、作者なんてどうでもいい」と作者と作品を極端に切り離す人がいますが、それは読み過ぎじゃないかと僕は思います。
作者が書いているという現実性の原型があるわけで、その原型を抹消することはできない。原型から切り離したところに作品があって直結してはいないということはあるけど、まったく切り離してしまうことはできないだろうと僕らは思うわけです。・・・中略・・・
 
でも僕らは、もう少し奥の方で「文学とは何か」という問いを問うているところがあるんです。どういうことに絡めてかというと、倫理に絡めてなんですよ。つまり、僕らのどこかに、小説でも、詩でも、批評でもいいのですが、文学作品を書くということが、その人に与える影響があるんじゃないかという、何か倫理的な懸念があるんですね。
 文学とはいったい何なのか。何で、こんな無駄なものを書くのか。読んだ人が面白いと思うのはその時だけで、書いたからといって何の役にも立たない。だけど、書きたいことがあって書くわけです。書くということがその人をどこに連れていくのか。その人にどういう影響を与えるのか。僕はそれを自分でも解いていないような気がするし、誰も解いていないような気がするんです。
 (『吉本隆明 戦後五〇年を語る』87 週刊 読書人 1997年10月3日号)
 ※聞き手 山本哲士・高橋順一・内田隆三


A
吉本 書くということがその人に金銭をたくさんもたらし、その結果、その人は堕落した遊びをするようになったとか、もう書かなくなったとか、金のために書くようになったとか、そういう外面的な影響は一切抜きにして、内面的に、文学を書いている人はそれを書いたことで何を得て、何を失ったのかという倫理的な問いが、どうしても最後にくるような気がするんです。それが解けないから、結局は「作品と作者とは関係がない」とは言わずに、「関係がある」と言いたい。「関係がある」と言った時の関係は、外面的な関係を全部取っ払ったところでの関係であって、「その関係とは何か。書いた人の内面にどういう影響を及ぼしたのか」ということが、僕はまだ完全には解けていないような気がするんです。
 (『同上』)


B
吉本 たとえば夏目漱石は公然と「倫理的に人を高めなければ文学ではない」と言って、倫理性を幅広く取っています。だから、漱石の作品は全部倫理的ですよ。この考え方はよくわかりますし、トルストイなんかも典型的に倫理的ですから、これもわかりやすい。プロレタリア文学の人もわかりやすくて、「社会性がある方がいい」とか、「書くことによって自分の社会性が高められる」とか、はっきりしている。そういうふうにわかりやすい人もいますが、わからない人もいるわけです。
 たとえば泉鏡花という人が書いたものは、あの人の内面にどのような作用を及ぼしたのか、あの人にとって書くということは何であったのかと問うていくと、わかりにくいところがあります。
 (『同上』)
 ※@とAは連続した文章です。











 (備 考)

日々表現している人々の〈書く〉という行為の自然さや無意識的なものの深みに横たわっているこうした問題に触れるのは、吉本さんらしい。と同時にうまく説明的には言えないけれど、現在このような本質的な問いがあらゆる人間的な分野で浮上してくるのは、人類史的な現在の促しであるような気がする

現在の〈書く〉ということを、太古の方に収束させていくとどういう想像の像が得られるだろうか。現在においては「書く」ということはほとんど個の表現になってしまっている。企業の理念や企業紹介などが書かれたものは、その文学的な表現のほとんどの例外に当たっている。まだ文字というものが生み出されておらず、書くということがなかった太古においては、「語る」ことがそれに代わるものであった。太古の「語る」ことにおいて、語るのは当然一人の人間であるが、その語りは柳田国男も述べていたが現在以上に集団的なものを背負ったもので、文学作品は読者や観客をもてなすという要素を現在でも持っているが、それ以上に集団をもてなす極度に集団的なものであったと思われる。すなわち、太古においては「語る」(「書く」に相当する)ということは集団の中に埋もれた個の表現となる。たとえて言えば、現在の「企業の理念や企業紹介」に当たるものが主流であったと思われる。

「文学とはいったい何なのか。何で、こんな無駄なものを書くのか。読んだ人が面白いと思うのはその時だけで、書いたからといって何の役にも立たない。だけど、書きたいことがあって書くわけです。書くということがその人をどこに連れていくのか。その人にどういう影響を与えるのか。」という吉本さんの問いは、個と表現的な個とが先鋭化してきた近代以降の現在性として主要に問われているように見えるけど、この問題は人類の起源の方からも併せて問われなくてはならないような気がする。そして、そのことの根幹には、「お猿さん」以降のあらゆる人間的なものにまつわる人間というものの本性とも言うべきものが関わっているように思われる。


書くということについて、吉本んの言葉。
吉本さんの『遠い自註(連作詩篇)』(猫々堂)の最後の詩に「『さよなら』の椅子」(連作詩篇「野生時代」1984年3月号掲載)という詩がある。この詩の以下の引用部分は少し手を入れられて、『記号の森の伝説歌』の最終章「演歌」の末尾近くにもある。


さっきから黙ったまま
「さよなら」は 影絵みたいに
ひっそりと 主客の席にひかえてる
詩は 書くことがいっぱいあるから
書くんじゃない。
書くこと 感じること
なんにもないからこそ書くんだ
 (「『さよなら』の椅子」『遠い自註(連作詩篇)』、『吉本隆明資料集57』猫々堂)



この言葉にはじめて出会ったとき、意味することがうまくつかめなかった覚えがある。これは詩を書くということの還りがけの課題を意識した言葉の位相から表現された詩句で、この「文学とは何か」という問いに向けて放たれた言葉ではないだろうか。すなわち、「文学とは何か」とか「詩とは何か」という問いをどこかで意識しながら表現し、と同時にその問いに答えようとする表現の衝動こそが、〈書く〉ことである、というように。


わたしの個人的な体験では、今年の2月に急性心筋梗塞になって手術・入院し、その次の日から「入院詩シリーズ」というのを退院まで毎日書いている。これは意識的に表現しようとして始めたものではない。入院生活の手持ち無沙汰ということや今まで毎日書き続けてきているという習慣性ということもあると思う。しかし、それが全てかというと、それだけではないような気がする。大雑把な気分的な捉え方で答えてみるならば、わたしの場合〈書く〉ということは、人が生きるということの意味の探索に当たっているような気がする。それでは、そんなことを考えるだけに終始することなく、なぜ〈書く〉のかとさらに問うてみると、よくわからないところがある。〈書く〉という表現の行為自体が、習慣性を伴うあらゆる人間的な表現と連動した、人間的な何かであるからとしか今は答えようがない気がする。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社
492 普遍文学 @ 『吉本隆明 戦後五〇年を語る』154 インタビュー 週刊 読書人 1999年3月12・19日号 読書人

※聞き手 山本哲士・高橋順一・内田隆三

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自分の間違い 現実全体のイメージ 全く違う次元
項目
1

@
吉本 実現されているかいないかは別として、どこかに社会的な問題、制度的な問題も含めて、全部を一種の普遍的な文学といいましょうか、そういう概念に集約してしまえという感じ方はあるように思います。そのときどきの社会的な条件、制度的な構造も含めて、全体のイメージと、自分の文学的な表現がいつでもつながっていないと間違いになるという問題意識は、戦争が終わって、俺はいったい何が駄目だったのかを反省し、考えた時からありました。そこの問題を鮮明に理解していないと文学にはならないと考えたんです。
 普遍文学という言い方でも何でもいいのですが、今でもそういう考え方が基本にあります。ある人がそまときの社会に対して、こういう考え方や批判や肯定の仕方を持っているとして、それはそれでいい。また、この社会がどうなるかについて、自分なりの考え方や一般的な考え方があって、それに従うというなら、それはそれでいいと思います。でも、そのうちのどういうやり方をしても間違ってしまう場合があり得る。そういう感じ方が、戦争が終わったときにありました。

 現実全体のイメージ(引用者註.本文の小見出し)

 文学好きでしたから、雑学乱読で、文学作品に現れてくる人間の心の動かし方の類型については知識的によく知っているという判断があったのですが、戦争が終わった時に、そんなことは何の役にも立たないと知らされました。自分がどう思っているのか、どういうことを考えてやってきたのかに関わりなく、外側からの条件の変化があったなら、そのときには自分の思い込みなんか何の役にも立たなくて、自分のせいでない外側から間違えてしまう。内側から間違っているとかいないに関係なく、そういうことがあり得ます。それが、戦争が終わったときの僕の内向点でした。どう考えてもほかのことで変な考え方はしなかったはずだけれど、なぜか間違えてしまった。戦争が終わった時に、自分のどこが欠陥だったのかと考えた挙げ句、そこに帰着したわけです。
 
そのときどきの現実の全体のイメージと、自分の表現が、離れたりくっついたりはあるでしょうが、そこの間の関係または対応が自分なりにできていないと文学自体が間違ってしまう。文学者が間違うということじゃないんです。文学者が間違うのであれば、人間が間違うのと同じで、誰にでもあり得ます。文学の表現自体が間違ってしまう。そのときどきの現実のイメージが鮮明であればあるほど、文学の表現は自分にとって可能になります。文学者としてこういうテーマを持っているとか、文学者として外側の社会的なテーマはいらないとかいうのと全く違う次元で、現実全体のイメージ、自分なりに把握しているイメージがないと文学作品の表現は可能でないというのが、僕らが一生懸命に考えて至った考え方なんです。
 (『吉本隆明 戦後五〇年を語る』154 週刊 読書人 1999年3月12日号)
 ※聞き手 山本哲士・高橋順一・内田隆三


A
現実の全体のイメージが自分にいつでも鮮明にあって、それとの内在的関係で文学の表現が成り立っていれば、どんな局面がきても間違えることはないと自分では思い込んでいるわけです。戦争が終わったときに一生懸命考えたことは、そういうことでした。それ以外の考え方をしている文学者は、普段の波風の立たない時は大丈夫ですが、ある局面にくると間違えてしまう。概して言えば、自分は文学をやる人間として、一個の社会的見地、社会的理念を持っていると考えている人のほうが間違えやすいように思います。
 そうすると、自分の表現の場所を文学の場所だと考えると、自分が目指しているのは何となく
普遍文学だということになるんです。・・・中略・・・具体例で言うと、僕は柳田国男という人がそうだという気がするんです。
 (『吉本隆明 戦後五〇年を語る』155 週刊 読書人 1999年3月19日号)


B
「海上の道」(引用者註.柳田国男)は、そういう経験知が積み重ねられ、ある厚味の閾値を超えたとき、超えた部分から経験知の集積がイメージに転化した文章だ。「海上の道」には、そんなふうにしてしか得られぬイメージが、いたるところにあり、この論文を一個の作品にしている。もっといえば
普遍文学にしている。
 (「序」『母型論』1995年11月)







 (備 考)

吉本さんが戦争−敗戦の体験によって切実なものとして引き出した「現実全体のイメージ」の獲得という問題と、ここでは十分に語られていないように見える「普遍文学」について、わたしなりに引き寄せてみると、

現在の文学を太古の段階の方へ収束させていくと、個の表現から共同的な表現に向かっていくだろう。この場合、語り言葉であれ書き言葉であれ、言葉の表現は〈世界(大いなる自然や人間界)〉に対する呼びかけや対話であったと思われる。その表現の基礎にあるのは、世界(大いなる自然や人間界)〉とはこういうものだろうという世界把握であるはずである。そうして、そのことは現在の文学でも表現の基礎になっているはずである。もちろん、文学がどんな荒唐無稽なことを表現しようと自由であるが、作品が真に読者に対して開かれてあるためには、人間世界の有り様やそこに生きる人々の悩み苦しみ喜びなどの現実的なイメージ把握が前提になっている。

「現実全体のイメージ」獲得という問題と関連する「普遍文学」ということは、歴史や現実の見かけや仮のではなく、真の主流をつかむこと、真の主流に関わる表現であることだとわたしは理解している。あるいは、宮沢賢治の「ほんたうのこと」に関わる表現や文学と言いかえても良いと思う。







項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社
505 発生期の状態の保存・発動 「顔の文学」 講演 『吉本隆明の183講演』A165 ほぼ日刊イトイ新聞

 講演日時:1994年11月24日、講演テキストより 

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総合的につながっていて分化していない時代 臨死体験 三歳未満の子ども
項目
1

@
6 原始的な感覚の世界と臨死体験・超能力(引用者註.小見出し)

 それから、もう一つは目で見て人を識別するとか、自然を識別するということは目だけが働いていると考えないほうがよい。一番初めに手で触ったとか、母親と言葉にならない言葉でコミュニケーションを成り立たせていたとかという、手の触覚とか、音とか、「あわわ」言葉の音とか、
そういうことも含めて、目で見る識別の仕方の中に全部総合的に含まれているのだというふうに考えたほうがよいという考え方になります。つまり、もっと言いますと、大脳皮質の奥のほうに、原始的な哺乳類の時代からあった脳の一番奥のほうにある部分を取ってくれば、そこでは目の感覚とそれから耳の感覚とか、におい、鼻の感覚とか、味わいの、口の感覚とかは全部どこかでつながっていた時代というのがあって、それが総合的につながっていて分化していない時代があった、そういう時期があったということが言えることになります。


A
 例えば、よく立花さんの本が出ていますけれども、臨死体験みたいのがあるでしょう。そうすると、臨死体験は何かと言ったら、要するに死に損なってと言いますか、死にそうになって意識が薄れてきてしまって、それでほかの内臓器官もあまり働かなくなって死にそうだと、そういうふうになっていくと自分の目の意識が体外に離れてしまって、ちょっと天井のほうに上がって、死にそうになっている自分とその周りの自分を手当てしているお医者さんとか、看護婦さんとか、泣いている近親の人とかというのを、自分が上のほうからちゃんと見えるというふうな体験があるわけです。それは臨死体験の一つなのです。なぜそういうのが可能かということがあるわけです。


 だけど、いずれにせよそういう臨死体験が難しいところは何かというと、どうして目はつぶってしまっているのに、もう死ぬ間際ですから、人間というのは目をつぶってしまったら見えるわけがないし、意識が薄れるばかりなのに、どうしてそういうふうに死にそうになっている自分を上のほうから自分が見ることができるのだということが不思議ではないか、おかしいではないかということが、いずれにせよ帰着するのはそこであるわけで、それを結論付けるのはなかなか難しいわけです。だから、宗教家は宗教家で、それはあの世にいく始まりなのであるというふうにちゃんと言ってしまって、あの世というのはそれからずっと飛んでいったあの世へ行くんだよと言って、それで行くのだけれど、普通はどこか死の向こうに人が立っていて、「おまえ、ここからもう来るな」と言われて、戻ってきたら意識が覚めたというふうなそういう話になるわけです。つまり、そういうことというのが一番難しいところは、死に損なって衰えた意識しかないのに、どうしてそれが上の天井のほうから自分で自分が見えるのか、あるいは自分の周辺が見えるのかということが不思議だということになるわけです。それはなぜかと言うと、人の考え方が、専門家で分かれてしまうのはそこのところだと思います。そういうことはないのだと、それは錯覚で後からくっ付けてそういうことを言っているだけなんだというふうに言いたいところですけど。
 僕も多少は臨死体験の報告集みたいなものを集めたり、読んだりしたことがありますけれど、自分の体を自分の上から見ていて、周囲の人が動いているのを見ていて、何を言ったか見えていると、どうしてもそう思わないとならないなと思える体験報告は多いのです。それを疑うことはできますけれども、それはないはずだと根拠もまたないのです。
そうすると、僕が思うには、その一番よい説明の仕方は今申しましたとおり、目の感覚とか、耳の感覚とか、人間の五感というのは非常に発生の初めの頃、つまり母音だけしかなくて民族語に分かれていない、そういう言葉時代の時までさかのぼってしまうと、全部連結していると考えられるということができます。そうしますと、死にそうになっても一番後まで残っているのは耳です。耳の感覚です。声が一番残りますから、耳の感覚で声が聞こえるという体験ができる限りは、目も見えてしまうということが可能なのだというふうに考えるのが、僕の考え方では今のところ一番よろしいのではないかなと思っています。
 でも、そうなんだとあまり断定したくはないのです。世の中でも不明なことは断定したくはないわけです。断定はしませんけれど、考え方としては一番よいのではないかなと思う。
宗教家みたいに「いや、来世というのがあるんだよ」と言ってしまうことも、なんとなくちょっとあれだし、「いや、そういうのは大でたらめだし、病気の一種で幻覚を見ているだけだよ」と言うのも何となくそうではないよと思えるところもあるわけです。だから、それもあまり言えないから、結局非常に意識が薄れていって、あらゆる内臓もそうだし、五感も死にそうになって衰えてきた。ある時点になると、あらゆる人間の感覚は全部連結してということが言えて、そうすると耳だけ聞こえさえすれば、必ず見えてしまうということはありえるのだよ、そういうふうな理解の仕方をするのがよいのではないかなと、今のところ僕は思います。つまり、断定はしませんから「そうではない」と言われても困ってしまうわけですけれど、そうだと思う。


B
それから、子どもでも、子どもも本当に確かめたことがないからわからないのですけれど、テレビや何かで時々やるのです。子どもに内緒で紙に図形みたいなものを書いたものを子どもに「当ててごらん」と言うと、子どもがそのくしゃくしゃに丸めた紙を耳に当てたり、こういうところに当てたりするのです。しばらくやっていて、「何だ」と。「ここに書いてあるとおりのことを書いてみな」と言って紙に書かせて、それで開けるとちゃんとできているということが、まぐれではない数だけ、意味がある数だけちゃんとあるわけです。出てくるわけです
。それで、大体三歳未満の子どもは当たりやすい。四歳から上になってしまうと駄目だ、大人になるとまして駄目だとなるわけです。そうすると、三歳未満ということに何か意味を付けるとすれば、要するに非常にまだ「あわわ」言葉をやっている時代に、いろいろ耳が聞こえない耳のコミュニケーションをやっているだけで、いろいろなことが、母親が何を考えているのか、見ているのか、何を言おうとしているのかというのをわかってしまうわかり方というのが、切れずにと言いますか、非常によく保存されているとすれば、そういうことはありうるなと考えることができます。
 (「顔の文学」 吉本隆明の183講演 A165、講演テキストより 講演日時:1994年11月24日)
 ※@とAの前半は、連続した文章です。
























 (備 考)

この問題へのわたしの関心の所在は、人類の古い部分の器官や精神−心の部分は、遙か現在にどのような形で保存され、それは現在的な人間の表現においてどのような形で普通に発動されているのか、あるいは普通の状態では発動されずに危機的な状況においてのみ発動されるのかなどという点である。

この項目と関係する事項と思われるので、目下読書中の本から引用する。いはば発生期の「原初記憶」は、なぜ失われるのかという考察の部分である。本書はこの「原初記憶」について触れた部分を読んだだけでも、吉本さんの「心的現象論」などや自らの体験も踏まえたすぐれた考察の本だと思われる。最後に、わたしが記憶というものに関心を持って触れた文章(「記憶の初源から」2008年)も挙げておく。今読み返せば、そこで取り上げた精神科医の中井久夫も、この「原初記憶」の消失について以下に引用する『こころの誕生』の著者、北島正と似たようなことを述べている。ただし、北島正の方が人間の発達段階(子どもの母や世界との関わり方と了解)の把握を踏まえたもので、より論理的、構造的なものとして捉えられている。もちろん、現実は、わたしたちが捉え尽くそうとするには深すぎる。


 B 原初記憶の埋め込み(前言語段階)(引用者註.小見出し)
 少し違う角度から、この時期に形成される、乳児の心的状態を考えてみたいと思います。我々の記憶は4〜5歳頃、幼稚園に通い始める頃から始まります。普通、2〜3歳以前の記憶は失われています。研究者の報告に依れば、幼稚園児の中には、2歳以前の記憶、出産時の記憶まで持っている子も結構いるようです。今のところ、胎内記憶
(註.1)まで保存している確実な例は知られていません。なぜ記憶の始まりが4〜5歳頃であって、それ以前に届かないのでしょうか。そのメカニズムがどうなっているかの解明は専門家に委ねるとして、この構造的な記憶喪失については、いくつか触れることができそうに思えます。
 まず記憶についてですが、記憶は、以前の体験や感情、知識や情報が冷凍保存されるように、またパソコンのディスクに記録されるように残されているわけではありません。「小学校の時、家族と初めてディズニーランドへ行った」という記憶は、その時のあれこれの場面、楽しかったり疲れたりといった感情を含んだ全体像を指しています。しかし、記念写真のように場面が記憶されていて、それがそのまま取り出されるのではありません。ある構造が呼び出され、「今この場」で再構成された(幻像)―イメージとして記憶像が形成されることになるのです。個々の場面の出来事のイメージは、「リンゴとその想像イメージ」の関係と同じです。現実(実物)が存在していないのに、「実物像」を得ようとする時、その矛盾した心の動きが生み出す、「幻像」です。
 しかし、家族との楽しかった体験という記憶は、こういった「場面の記憶」には現れない記憶固有の特性を持っています。この場合の記憶は、ある物語的な構造として、明瞭ではない漠然としたストーリーの輪郭として存在しています。この記憶は、単純化してしまえば、「保存された何か」ではなくある心の状態が「表現された何か」なのです。物語や小説に取り込まれる作者の体験がそうであるように、実際に体験したことが、丸ごと再現されているわけではありません。まず体験が、その時どの様に了解されたのか、その後記憶としてどう呼び出されてきたのかという、二重の心的過程を経ているのです。前者は対象の選択・意味づけという心に取り込む「受容と了解の過程」です。後者は、それを実際に表現するしないにかかわらず、心の外へ表出しようとする「表現の過程」です。つまり、このような場合に考えられる記憶とは、意識されない〈表現〉というべきものなのです。
 こう考えれば、特に2歳以前の記憶が無くなる理由が明らかになります。視覚像の形成について考えたように、乳児の心的過程では、対象を〈受容する〉という働き自体が未成熟です。体験を「体験」として受け取ることができないのです。体験ということが成り立たないのではなく、体験している現実と、それを受け取っている自分の心的過程とが分離(分節)されていないのです。もしそれが強い刺激(体験)であったなら、刺激の強さに「反応する」ことはできるでしょう。しかし、それを何らかの〈意味として了解する〉ことはできません。まして、表現となれば、〈身体的反応〉として「泣く」か「笑う」こと以外にできることはありません。夢にならない夢を見ているようなものです。
 (『こころの誕生』第3章 乳幼児期(0〜2歳)―三つ子の魂百までも―
P79-P80 北島正 ボーダーインク 2005年11月)

(註.1)

「胎内記憶」に関しては、ネットで検索すれば、その具体的な証言例や「胎内記憶」の否定の考えなどが出て来る。


 C 埋め込みの破綻T(引用者註.小見出し)
 では、人間の心にとって、幼児記憶が失われているように見えることは、どんな意味があるのでしょうか。これについて、有名な例があります。三島由紀夫の『仮面の告白』という小説です。この小説は、主人公が生まれた時の様子を語るところから始まります。産湯につかった自分が、たらいの縁に日が当たってきらきらと輝いているのを見ていた記憶が語られます。


「私」の分析にもあるように、「盥の縁に当たる光」という記憶映像が、彼にとってどんなに切実であったとしても、それに格別の意味があるわけではありません。「憶えている」と考えていること自体が重要なのです。この記憶は、産道通過直後、出生時の記憶が痕跡として表現されたものではないかと考えられます。そして、そのことが「記憶」を考える場合、より本質的な意味を持ちます。
 主人公「私」は、出生時の記憶を持っている(そう考えている)わけです。本来なら記憶として取り出すことができない体験を、「記憶として表現する」ことができてしまっているのです。小説の文脈は、実体験がベースになっていると考えるのに、十分な説得力を持っています。「少し大きくなって、親や周りの者が話すことを自分の体験として取り込んだのでは」という「私」の述べる解釈も成り立ちそうです。そうした体験は誰にも覚えがあるものです。しかし、その記憶を持っているという認識が、その人間の生存を規定してしまうほどのリアリティーを持つことはまれです。
 では、なぜ〈原初記憶〉が、自然過程に従って心に埋め込まれることなく、露頭を意識レベルに露わし続けているのでしょうか。記憶は、体験を「受容―了解」することを基に成り立つ「表現(行為)」です。そこでまず考えられることは、この原初記憶が「受容―了解」の過程が成立していないのになされた表現であるという点です。乳児にとって、表現を必要とするほどに強い体験であれば、身体表現に直結して現され、その表現は、その場で直ちに受容され自然に解消してしまうはずのものです。例えば、「泣く―抱かれる―あやされる」か、「笑う―笑われる―あやされる」のように。
 つまり、「体験―受容―了解―表現―対応の引き出し」という一連の過程は、乳児にとって分節されず、一体となった世界像を形成しているはずです。ですから、表現(記憶)部分だけが分節されて現れたのは、この過程のどこかに不具合が生じた、成立しなかったと考えるしかありません。その代償行為として、彼は「意識的に」その破れた環を繋いだのです。事態を解釈したと考えてもよいでしょう。解釈できるはずもない段階にありながら、解釈できるはずもないことを解釈したのです。後の段階であれば、解釈された結果、体験は「意味」や「感情」のような形で、「知識」として蓄積されます。あるいは、記憶という「物語」を生むことになるのです。しかしこの段階では、意識以前の意識にしかなりません。ゆるやかに形成されてゆくはずの心が、その形を急速に固められ可塑性(柔軟性)を失ったのです。その結果、心は、「ある物語」以外に語ることができない構造になっているということです。ですから、具体的に語られた「盥に当たる日の光」は、意識を獲得した最初に呼び込まれた「この世の表徴」という意味しかないのです。
 (『同上』P81-P84)


この後、たぶん作者三島由紀夫が出生時記憶を持っていて、「原初記憶を意識的に取り出すことができる」ということは乳幼児期に不幸な有り様を強いられたからではないかと述べられる。この三島由紀夫の『仮面の告白』出生時記憶の場面については、どこでか忘れたけど、吉本さんも触れていた。



  記憶の初源から(わたしの過去の文章より)


 母胎の胎児に関する現在の知見を借りれば、わたしたちは生誕に到る過程で、母を通してこの世界の幾重にも重なり絡み合った風圧をある被膜通して間接的に深く刻印されている。まだ見ぬこの世界を、家族を生きる母を通して、音や触感や匂いなどの流れや律動や揺らぎのようなものとして、世界を感受し反応しつつ成長しているのだろうか。もちろん、胎児にとって次のような了解は存在し得ないかもしれないが、そこでは母という世界が、内側から見られた世界のすべてであるように見える。この世界の体験の記憶は、太古の時代の人間が不明のもやの中にあるのと同じように、なぜかわたしたちの記憶には浮上してこないようである。
 ところで、精神科医の中井久夫が記憶について触れている。記憶について考える手がかりとしてみたい。


 この大きな変化期(引用者註.「二歳半から三歳にかけて、重要な能力がいっせいに顕在化する」)において、もっとも重要なのは、そのころから記憶が現在までの連続感覚を獲得することではなかろうか。なぜか、私たちは、その後も実に多くのことを忘れているのに、現在まで記憶が連続しているという実感を抱いている。いわば三歳以後は「歴史時代」であり、それ以前は「先史時代」であって「考古学」の対象である。歴史と同じく多くの記憶が失われていて連続感は虚妄ともいいうるのに、確実に連続感覚が存在するのはどこから来るのであろうか。それは、ほとんど問題にされていないが、記憶にかんして基本的に重要な問題ではなかろうか。
  (『徴候・記憶・外傷』P45-46 中井久夫 みすず書房 2004.4月)

 これは全くの推定であるが、私の考えはこうである。二歳半から三歳にかけて、大きな記憶の再編成が行われる。成人文法性の成立に合致するような再編成である。そのために、古型(幼児型、前エディプス型)の記憶が抹消されるのではないかという仮説である。その前提として、誕生以来、あるいは胎児期以来の記憶は、いわば別の文法で書かれていて、成人型の記憶と混じれば混乱を起こしてしまう、つまり、成人型の記憶と両立しがたいものであると私は考えてみる。
  (『同上』P50 )

 わたしの中には、同時に現前させることは破壊的であるから不可能であり、好ましくもないが、そこから想起によって記憶を取り出せるところの記憶の総体がある。それを「メタ記憶」と呼んだことがある。
 成人型記憶の連続感覚は、このメタ記憶の存在感覚ではなかろうか。それは、睡眠持続感覚に似ている。私たちは、何時間眠ったかがだいたいわかる。眠ってすぐ目覚めたと時と、八時間眠った時とは違う。
  (『同上』P51 )

 幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。
 外傷性記憶とは、そもそもどいう意味があるかを考え直してみよう。それは端的に警告の意味を持っているのではないか。
  (『同上』P53 )

 逆に、どうして、幼児型記憶が外傷性記憶と多くの点で同じスタイルをとるのであろうか。この疑問の答えは一つであると私は思う。すなわち幼児型の記憶は何よりもまず危険への警報のためにある。そもそも記憶は警告の一つの形として誕生したといえるかもしれない。もはや現前しない危険への警報を鳴らしつづけるものは記憶しかないではないか。  (『同上』P54 )



 専門的な修練を積んだまなざしからの言葉である。けれど、記憶を含めてあらゆる人間的な事象に素人も専門家も共通でありうるという地平も確かに存在するように思われる。そうした地平から言葉を繰り出してみるならば、中井久夫は、幼児型記憶を「危険への警報」として、過酷な生きる環境での人類の初源性に結びつけようとしているように見える。しかし、そこまで結びつけるのは恣意的なものの一つではないだろうか。例えば、幼児型記憶の内在的な世界がよく分かっていない以上、幼児型記憶の中に驚きや感動のようなものを読み取る恣意性もまた可能であるし、それを人類の初源性の方へ結びつけることも可能である。

 そこで、少なくとも言えることを取り出してみる。わたしたち人間はなぜか記憶像(のようなもの)として記憶を取り出すことができるようになったということである。この点において、人類の初源性にも共通して言えると思われる。そしてこのことは、わたしたち人間が像を喚起することのできる言葉というものを持ってしまったこととも深く関わっている。そこで、幼児型記憶や成人型記憶を分かつのは、基層としての無自覚な(内省的ではない)生命的な土台と、その上にこの世界の渦中から言葉を行使して半ば自覚的に築かれていく変成された生命という位相的な違いである。そして、その言葉を介した自覚性において、成人型の記憶の想起は連続しているように感じられるのではないだろうか。

 比喩的に言えば、植物の種子の無自覚的な記憶は、芽を出し、日光や大気や風や雨などの世界との関わりにおける自覚的な記憶へと変成されるが、その中に種子の生きていこうとする生命的な記憶は内在していて、また種子へと受け渡されていく。同様に、わたしたち人間の胎内の記憶や「古型(幼児型、前エディプス型)の記憶」は、いわばわたしたちの体の芯に強く結びついていて、つまり沈黙と同じように内在的で、像としては取り出しがたいものであるが、言葉を獲得して成人型記憶へと移行していく段階の基層をなしているとみなせるように思う。

 以上のように記憶と呼ばずに、この世界の了解の仕方の初源性と言った方があいまいではないかもしれないが、わたしたちが現在言えることは、その胎内から幼児型記憶に渡る記憶の初源性の世界は、未だはっきりした分節化がなされていないが、わたしたちの現在に無意識的なものとして織り込まれ内在しているということである。それはわたしたちの日々の行動の端々や食べ物などの好みなどにも内在しているはずであり、この世界でのなんらかの異和に出くわしたときの内省は、たぶんその記憶の初源性の流れに棹差しているのだと思われる。したがって、幼児型記憶などは消去されたのではなく、この世界に対する了解のようなものの無自覚な基層的な部分として内在し続けてきていると見た方がいいように思う。

 いまだぼんやりとしか描けない「古型の記憶」から、「成人型の記憶」の世界への転位によって、わたしたちはこの世界との関係に自覚的に入り始めて、世界は空間的に深まりゆき時間的に深まりゆく。つまり世界がある構造を持ったものとして捉えられはじめる。そして、いくぶん自覚的で(内省できる)連続的な記憶像が生み出されるようになるが、それは無意識では常に基層の無自覚的な記憶像に触れているように見える。                              (2008.8.20)






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社
509 文学とは何かA 「中上健次私論」 講演 『吉本隆明の183講演』A155 ほぼ日刊イトイ新聞

 講演日時:1993年6月5日、講演テキストより
 ※ 関連項目491「文学とは何か」

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善も悪も犯罪もデカダンスも何もかも、全部包括するのが文学というものの立場
項目
1

@

3 『十九歳の地図』――善悪を超えてしまった作品(引用者註.小見出し)

 『十九歳の地図』という作品は、親には予備校へ通うと言い伝えているのですが、ちっとも行く気がなくてジャズ喫茶に入り浸ったり覚醒剤をやる。覚醒剤をやるお金がないときには、頭痛薬を多量に飲むことで紛らわせるということをやる。それで、新聞配達をしている。
 その同じ時期に新宮の中上さん的な人、つまり予備校生で都会の中に埋没してしまい、小さな悪みたいなことをやる青年はたくさんいたのだと思います。その中の一人である主人公の生き様、考え方を展開していきます。
 
これはなかなかいい作品で、文学というものは要するに善悪を超えることがありうる。逆のことを言うと、善も悪も犯罪もデカダンスも何もかも、全部包括するのが文学というものの立場なのだ。そこから見れば、どんな悪だって許容される、どんな想像力でも許容される、みたいなところがあるわけです。そのことは文学作品の善し悪しにあまり関係ないことで、しかしすべての立場を許容するということが文学にはあります。
 何か知らないけれども、言葉で善である、悪であるということを通常の意味からどこかに脱出させるのはとても難しいのですが、稀にそれがある時期、あるとき、ある作品を取ればやってしまえるときがある。中上さんの『十九歳の地図』は、本当にそれをやってしまっている作品だと思います。
 それはどこかというと、予備校生のふりをして遊びまくっている主人公は、新聞配達をしながら自分の配達区域のうちではなはだおもしろくない、金持ちがおもしろくない、立派な門構えのところに新聞を入れておもしろくない。うちとか、いろいろな意味でおもしろくないやつがいる感じがすると、自分の配達区の地図をつくっておいて×印をするわけです。
 ×印をして、×印が三つくらい重なったら死刑にしてしまおう、という考えです。そういう×印をつけていくという考えです。現実に主人公はそれを実行することはできないのですが、想像力の中でならばそういうことをやれると作品の中で展開しています。想像力の中でそれをやれると表現すること自体は、さまざまな契機がないとなかなかできません。
 
中上さんも、この作品を除いたら、あとは一種、善の作品です。どんな悪ぶっても善の作品だということになりますが、この作品はちょっと異様なというか、一歩踏み越えればやってしまう。何者ともわからない目の、生活にふてくされた青年が意味もなく殺人をやってしまう。そういうところで殺人を実行してしまう。想像力では、もうやってしまっている。そこへ実際に、現実に踏み込まないだけでやってしまっている、という作品だと思います。
 もう一つは、たとえば東京駅なら東京駅へ電話をかけて、「俺は今日、何時何分の汽車を爆破する」と予告する。いたずらと言えばいたずらですが、そういういたずらをやるわけです。そのいたずらの結果がどうか、そんなことはどうでもいい。とにかく想像力に任せて、電話でそういういたずらをする。
 そのいたずらの特質は、自分のほうは見えない。何をしても相手からは見えないけれども、もし相手が本気にしたら、まかり間違えば爆発があるかもしれないと思わせるところで、社会的な躁状態みたいなものがそこでできあがらないことはないという可能性を持っています。
 けれども、自分のほうは無名で隠れている。社会から脱落しているものの心理状態を身につけているわけですが、相手に対してはどんな驚かし方もできるみたいな場所を非常に明瞭に、明細に描写しているのが『十九歳の地図』という作品の特徴ではないかと思います。
 
つまり、その特徴は、言ってみれば草深い地方から都会に何事かをしようと思って出てきた人間が、大都市にまみれているうちに「なにがしかをしよう」みたいなときめきを失っていく。失っていった人間はどうしたらいいのか、あるいはどういう考え方をするのかを、実に適切に描いています。


A
4 本質的な孤独さという資質(引用者註.小見出し)

 
そういう青年は現在でもいるかもしれません。たくさんいるわけですが、その中で『十九歳の地図』という作品の特徴を挙げてみます。たとえばありきたりの意味での無名の挫折した青年の孤独感、感慨、想像、イメージというようなものを、中上さんの作品は超えていくところがあります。どういうふうに超えていくかというと、中上さんは具体的に、叩きつけるような言い方で言っています。
 つまり、太平洋をヨットで一人で横断したくなって、自分の好きなことがしたくて、自分で気球をつくって気球に乗って冒険する。その手のというか、その程度のというか、その程度の孤独さはみんなくだらない。その程度で紛れるような孤独さなどくだらない。自分が持っている孤独さは、全世界を爆破してなくしてしまえ、それでなければ自分は生きていないという追い詰められた苦しさだということを、『十九歳の地図』は非常によく描写していると思います。
 
中上さんが描いている主人公の孤独は、地方から都会へ出てきて、地方から野心を抱いて都市に出てきた人たちがうまく学校に入って、学校を出て、うまく社会になじんで、とならずに挫折したという一般論で言う挫折の仕方を、中上さんは主人公に仮託して超えよう、超えようとしている。つまり、本気でしていることがとてもよくわかるのです。この世界を全部なくして、俺が印をつけたやつはみんな殺してしまってもいいと主人公は想像力の中で考える。つまり、そこまで考えてしまうところに追い詰められている主人公を非常によく描いていると思います。
 これは中上さんの作品の資質と言いましょうか、文学の資質の中でとても重要なものだと思います。中上さんは自分自身が功成り名を遂げていくうちに、次第にそういう考え方を緩和していく。ゆるめていって、何とかかんとか自分に平衡感を持たせるわけですが、必ずしも全部失ってしまうということではない。ときどきそれが突発的に出てくると、『十九歳の地図』で自分が描写した心理状態に自分がたやすく移行できる心境になっていく。
 僕らもよく被害者として当面したことがあります。いま覚えていることで言えば、十年はたたないと思いますが何年か前に、中核が成田闘争の続きでJRの駅に火をつけて暴れてしまったときがあります。そうしたら夜中に中上さんから電話がかかってきて、興奮して「どうですか」という。何がどうなんだか。(笑)ねぼけた目をして起こされて、付き合った覚えがあります。
 つまり、そのときのことはだれでもある程度、身近だったし、だれでも体験している。そういうときに中上さんは、『十九歳の地図』に書いているわけです。
一個の文学者として文壇とも付き合い、友だち、文学仲間とも付き合うのですが、どこかでだれも持っていない、だれによっても満たされない何かがある。そういうことがあると血が騒いで出てきて、盛んに電話魔になって電話をかけまくる。さすがに「お前のうちを爆破するぞ」とは言わないわけで、「どう思いますか」と盛んに言う。「どうってことねえだろ、眠くてしょうがないんだ」。(笑)たびたびそういうことがありました。
 それが、中上さんの本当の意味の孤独だと思います。文学者仲間で結構満たされている部分もありますし、文壇の中の栄誉でも満たされているところもありますが、そういうふうに満たされてもどこかで何か満足しない。そこを捕まえてくれる世界はどこにもない。そういうものが、中上さんの中にいつでもあって、それがあほらしいと言えばあほらしい行為になって現れます。
中上さん自身は大まじめなので、『十九歳の地図』に書いているわけです。
 そういう中上さんは、本当に孤独ではないかと思います。中上さんの文学作品を読むということは、一方では一つずつはそういうことを読むことだと僕は思います。
それが一つの足で、とても重要なことです。たぶん中上さんがいろいろやりながら、生涯それは中上さんから消えなかった。生涯、中上さんは孤独だったのかなと思える基礎は、そこにあると思います。
 (「中上健次私論」 吉本隆明の183講演 A155、講演テキストより 講演日時:1993年6月5日)










「草深い地方から都会に何事かをしようと思って出てきた人間が、大都市にまみれているうちに『なにがしかをしよう』みたいなときめきを失っていく。失っていった人間はどうしたらいいのか、あるいはどういう考え方をするのか」ということは、いつの時代でも問題になり得る永続的な課題だろうと思う。わたしたちが生まれ育って、家族や学校などの世界とはずいぶん違った社会という人間が築き上げてきた世界に本格的に入っていく時に齟齬や軋轢などを抱えてスムーズにいかないということは容易に解消しうる問題とは思えないからである。また、齟齬や軋轢から進んで自分には何も残されていないという思いにまで追い詰められた場合には、事件として社会の表面に浮上することもあるだろう。

文学は、社会規範や善悪を超えて人間のあらゆる振る舞いを追跡するし、描写する。つまり、人間的なあらゆる可能性を白日の下に引き出そうとする。他の分野ではいろんな縛りや抑制などがあって言えないことやできないことを文学はやることができる自由を持っている。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社
511 武家層の起源 『吉本隆明 戦後五〇年を語る』211 インタビュー 週刊 読書人2000年5月26日号 読書人

※聞き手 山本哲士・高橋順一

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祭祀の長 牧童と狩猟民 もっと普遍化してしまうと
項目
1

@
吉本 それからこれはよくわからないのですが、制度のなかの実朝というのはいったい何なのかということです。歌を読む(ママ、「詠む」か)ことができたのですが、武家的なことは何一つ自分ではできないし、しようともしない。何をしているかというと、『吾妻鏡』を見ると、結局は神社仏閣を毎日決まった時間に欠かさずお詣りしているだけなんです。神社仏閣をお詣りする以外、制度的にやっていることは何もない。ただ武家の勢力の均衡の上にのっかっているだけなんです。
 これはいったい何なのかとなるわけですが、僕の解釈では、実朝の制度的な役割は
祭祀の長で、神社仏閣をお詣りすることが実朝の制度上の役割なんですね。武家層でもそれは重要なこととされていて、制度的には実朝がやったことはそれだけだと思います。
 (『吉本隆明 戦後五〇年を語る』211 週刊 読書人 2000年5月26日号)
 ※聞き手 山本哲士・高橋順一


A
 そうするとこの制度は何なのかとなって、そこが今でもよくわからないところです。
日本の中世に起こってきた武家層の元は何なのか。そして、かかる習慣とか、かかるやり方を持っている種族や部族、民族はあるのか。このふたつを見ていきますと、すこぶるわかりにくいところがあるのです。ひとつは関東以北の武家層と、関西の武家層は発生や起源が違うのではないかと思えるんです。これは類似のものを探っていけばわかってくるはずですが、関東の武家層の起源はよくわからなくて、僕らの今のところの考え方ならば結局、牧童だったろうと思うんです。平安時代から中世にかけて、関東地方には馬を放し飼いにした牧場のようなところがたくさんあって、そこのカウボーイが牧場の世話をしていた。そうした騎馬に長けた者が武家層になっていっただろうということがひとつ。もうひとつは狩猟民ではないかということです。狩猟民というのは関東から東北にかけてのマタギとか、柳田国男に言わせれば山人ですが、熊や何かを狩猟して、山のなかや麓に住居を定めて生活していた。その流れがひとつです。
 それから大陸との関係はどうなるのか。たぶん、武家層の使っていた弓は大陸起源ではないかと思うんです。大陸からそういう弓が伝わってきて、それを狩りに使っていたのではないか。
 (『同上』211 )


B
 
これをもっと普遍化してしまうと、アフリカならアフリカの狩猟民はどうかというと、二種類あって、ひとつは食料用の獣を追って弓矢で殺して、その肉を食べたり、皮を保存するやり方。もうひとつはアフリカで典型的ですが、人を食べにかかってくる猛獣を狩猟する時には槍を使うわけです。弓を使う狩猟と、槍を使う狩猟は違って、弓を使うのは狩猟民の日常の食料になって、槍を使うのは猛獣狩りです。この猛獣狩りは宗教的な意味をもつと同時に、武力に長けていることを誇示するためのものです。そのために槍を使って猛獣狩りをするわけです。
 槍を使って猛獣を狩る延長線上には、要するに首狩りがあるわけです。他の部族や種族の者が人があまり通らないところを単独で歩いていたりすると、藪か何かに潜んでいたのが出ていって、その者を殺してしまって、武勇を示す。そのことの延長線なのですが、たとえば腕なら腕を取ってきて、「俺はやっつけたぞ」と武勇を誇示する意味の狩りがあって、それは宗教的な意味と、武勇を誇示する意味の両方があるわけです。
 (『同上』211 )


C
たぶん武家層はそれと同じで、僕にはよくわからないことがたくさんあるのですが、侍たちが合戦の時に「やーやー我こそは」と名乗りあって、殺すと首を取って「俺はこういう奴をやっつけたぞ」と誇示すると「お前は武勇の士だ」と言われる。「大将の首を取ったぞ」と大声で名乗ることがどこからきたのかよくわからないのですが、僕はそこからきたと思うんです。アフリカでも腕を取って「やっつけたぞ」と言うのですが、それは猛獣狩りの延長線上に人間狩りがあるからだと言われています。中世の武家層は狩猟民的であることは確かなのですが、そこからたぶん、村落と村落の紛争で相手をやっつけて首を取ってくるということが出てきたのだと思います。
それが中世で合流してくるのですが、その起源はすごく古いのではないでしょうか。言ってみれば、アフリカ的段階ぐらいまで行く古いものではないかと何となく思えるわけです。
 もうひとつは、武家が責任を取るときに腹を切りますね。この
腹を切る風習は何かということになるのですが、これはいろいろあって、部族・種族によって違うのですが、みっともないことをして、それを仲間に見つかって非難されたときに、木の上に飛び乗ってそこから落ちて自殺してしまうようなことが未開的な段階としてどこにでもあったようなんです。その延長線にあると考えると、武家層の起源はすごく古くまでさかのぼってしまうのですが、それに確定的な根拠、理念的な根拠を与えるのはなかなか難しいし、またそういう仕事はないと思います。ただ、要するに起源は何かというならば、牧童と狩猟民からきているのではないか、その風習が多いのではないかと思うのです。
 (『同上』211 )
 ※AとBとCは連続した文章です。









 (備 考)

ここで、吉本さんの「起源は何かというならば、牧童と狩猟民からきているのではないか、その風習が多いのではないかと思う」(C)という武家層の精神性の有り様の起源についての判断に関しては、わたしとしては目下わからないというほかない。ただ、平家物語などで、戦いに際して武将たちが(我こそは、・・・・)と互いに名乗り合ったりするのはどこから来たのだろうとふしぎに思ったことがある。なんとのんきなと外からの視線では見えるけど、そうせざるを得ないような内からの切実な動機というものがあったのだろうと思う。だから、ここで述べられている「名乗り」や首取りや切腹などはアフリカ的な段階につながるとても古いものだろうということはわかる。そして、そのとっても古いものの残留の仕方も気にかかる。この列島民の太古からの歩みは、まだまだよくわかっていないなという気がする。


この項目と直接の関わりはないけれど、「武家層の起源」ということから、柳田国男が、武士の出身は主に農民であると述べていたことを思い出した。「家の話」(青空文庫)にもそのことが書いてある。また、刀狩り以前までは、農民も火急のことがあれば武装していたようである。

士農工商の内、工の半分以上商の九分通りまでが、もとは農から出たものであって、農工商をそれぞれ別異なる階級のごとく見るのは誤りであることは、前に申す通りである。さらに進んで士という階級もまた、農から別れたものだということを少しく話してみたい。
 (「家の話」柳田国男 青空文庫)


これを読むだけでも、「サムライジャパン」などとノー天気なイメージで現在スポーツに使っているけれど、武士や侍などの世界がそんな単純なものではなかったことが分かる。







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517 ヘーゲル・マルクスの国家の考え方 フーコーについて 講演 吉本隆明の183講演 ほぼ日

講演日:1995年7月9日 吉本隆明の183講演の「講演テキスト」より引用
関連項目516

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国家と社会は分離して考えるべきだっていう考え方 国家は幻想の共同体 われわれは二重生活してる 市民社会は国家より大きい
項目
1

@

2 ヘーゲル・マルクスの国家の考え方(引用者註.「講演テキスト」の小見出し)

前、ぼく、ヘーゲルのことを、国家論を中心にして、お話したので、その続きって言うのはおかしいけれど、それと接続できたほうがわかりやすいし、お話としても、筋が通ると思いますから、どういうふうにしたら、ヘーゲル、あるいは、マルクスの方法と接続できるかっていいましょうか、接続点って言っても、断絶点って言ってもいいですけど、その連結する境界線っていうのが、どこで見つけられるかってことからはじめてみますと、まず、ヘーゲル・マルクスの国家論っていうのが、この前、話題にのぼったと思うんですけど、
ヘーゲル・マルクスの国家論っていうのの、いちばんの特徴はなにかっていいますと、国家っていうものと、社会っていうものとを、重なり合いっていうのを、分離して考えるべきだっていう考え方を、はじめてとったっていうことは、ぼくなんかには、いちばん特徴のように思います。
つまり、
国家っていうのは、幻想の共同体であって、それは、市民社会の上に、法律やなんかを介して、制度的に、上にかぶさっているように見えますけど、ほんとうを言えば、国家は国家であり、市民社会は社会である。われわれは二重生活をしていて、ようするに、市民社会のなかで、日常生活を営んで、職業をもって営んで、生活したり、行動したりしているわけですけど、それは、上のほうに、制度としての国家っていうのがあって、そこで、ある意味合いで、そこからの規制を受けたり、制約を受けたり、また、ある面では、国家をはみ出して、市民社会っていうのは存在しているわけです。
つまり、そういうイメージを最初に、ヘーゲル・マルクス系統の国家論がつくったと思います。それは、非常に重要な考え方であって、マルクスなんかの考え方を、もっと極端にいいますと、われわれが日常、生活したり、行動したりしている市民社会っていうのは、ようするに、国家よりも、すこしはみ出す、つまり、国家より大きいものなんだっていうことを、はじめて言ったと思いますけども、つまり、それは、ぜんぜん別に扱えるんだし、扱うべきなんだっていうことを、はじめに打ち出してきたっていうのが、やっぱり、ヘーゲルからはじまって、その影響を受けたマルクスみたいな人たちの考え方はそうだと思います。


A

で、
国家が市民社会に規制を及ぼす場合には、たとえば、法律なら法律っていうのを介して、規制を及ぼすわけです。それから、また、職業的にっていうのはおかしいですけど、職制的、職域的に、国家が市民社会に対して、影響を及ぼしている分野もあるわけです。
たとえば、非常に簡単に考えて、郵便局でもいいです、郵便っていうのは、あれは、国家が経営している郵便局なんていうのは、国家が経営していて、市民社会の生活の真っただ中に存在しているわけで、はがきを売ったり、買ったり、貯金をしたり、おろしたりしているわけです。それは、国家が経営しているわけです。
そのように、ある種の経営体っていうのは、国家が市民社会のなかに、出店を持っていて、それでやってる、そういう分野もないことはないです。あるわけです。そういう意味で国家が市民社会のなかに入っている部分もあります。
それからあとは、だいたい、法律を介して、これこれこういうことをしたら、3か月以上の懲役だとか、何十万円以上の罰金だとかいうような、そういう法律を設けて、市民社会の生活に影響を及ぼしているし、また、規制したりしているわけです。
つまり、国家のやりかたっていうのは、そういう法律を介して、市民社会を規制するか、じゃなければ、国家の経営する経営体を、市民社会のなかに設けて、そこで、ふつうの経営体、企業体と同じように、取引きをしているっていう、そういうふたつのやりかたで、国家は市民社会に関与しているっていいますか、関係をつけていることが言えるわけです。
いわゆる、社会主義国家なるものがありますけど、たとえば、中国なら中国とか、北朝鮮とかってありますけど、そういう場合には、国家が100%、市民社会を規制しているっていうふうに言えば、いちばんはっきりしたイメージが湧くわけです。
それじゃあ、日本とか、アメリカとか、いわゆる資本主義国家っていいましょうか、そういうふうに言われているものはどうなのかっていうと、国によって違うと思いますけど、だいたい20%とか、30%くらい、法律でもって、国家が市民社会に対して、いろいろ、これこれすべからずとか、これこれすべしとか、そういう規定でもって、干渉しているっていうふうに考えるといいと思います。
その違いは、100%国家が市民社会を規制しているか、それじゃなきゃ、30%しか規制していないかっていう、そういう違いに過ぎないっていえば、違いに過ぎないっていうふうに言うことができると思います。

3 アジア的な国家の考え方(引用者註.「講演テキスト」の小見出し)

その規制の仕方をして、はじめて国家っていうのは、われわれが日常生活をしている市民社会と関係をもっているんだってことが言えるわけです。その考え方っていうのは、いまでいえば、ほぼ常識に近い考え方になっているわけですけど、いまでもそういうふうに考えていない人たちもいるわけです。
(註.1)
 (『 A172フーコーについて』吉本隆明の183講演 講演日:1995年7月9日)
 ※@、Aは、連続する文章です。

 (註.1)
 ここから、項目516 「東洋流の国家の考え方」の引用文につながっていきます。








 (備 考)

西欧の人々の、会社や仕事についての、わたしたちの世界からすれば割り切りすぎた考え方などを本で読んだことがあるが、当然ながら西欧的な国家・社会観は、その地域性―そのことはわたしはよくわかっていないのであるが―に育まれたものの感性的な表現として、日常的に人々の行動や考え方の中に浸透しているはずである。西欧社会に仕事などで出向いている日本人なら、そのことを肌で感じているだろうと思う。





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524 フーコー フーコーについて 講演 吉本隆明の183講演 ほぼ日

講演日:1995年7月9日 吉本隆明の183講演の「講演テキスト」より引用

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マルクス主義の解体の過程で、出てきたいろんな考え方の枠外 科学的(普遍的) 有効性と、未来性のある方法
項目
1

@

15 マルクス主義系統の枠外の人 ( 引用者註.「講演テキスト」の小見出し)

フーコーって、おまえ、そういうことばっかり言ってたのかっていうと、そうじゃないのであって、ぼくは、ただようするに、フーコーの考え方、つまり、考古学的な層を見つけるってことは、非常に、ある意味で、これは弁証法でもないし、それから、段階論でもないけれども、たとえば、ある偉い宗教家が教義としてしか、持っていなかったであろうような、そういう要素で、つまり、人間でありながら、人間以上の社会を目指すみたいな、あるいは、自分でありながら、自分以上のものを目指すっていうようなことを、失わないで、しかも、それが、科学的といったらおかしいんでしょうか、普遍的でありうるっていう、そういうふうに考えるには、どう考えたらいいんだってことを、一生懸命、フーコーは考えた人です。
つまり、考えて、マルクス主義、あるいは、マルクス主義の解体の過程で、出てきたいろんな考え方の枠外に、はじめて出られた人です。と、ぼくは思います。出られて、しかし、マルクス主義が提起したものが、おれのやりかたでできるっていうような方法を、はじめてつくった人です。ですから、それが重要なことだと、ぼくは思っています。


A

だから、そういうことをフーコーから学ぶためには、ただの単なる普遍化っていったら、それだったらサイエンスっていいますか、フィジカルサイエンスっていいますか、自然科学がいちばん普遍的ではないかって、たとえば、コップならコップが、誰が分析したって、ちゃんと成分が同じように出てくるって、これは、科学っていうのは、普遍的じゃないかっていう言い方ですれば、普遍的なようにみえるでしょう。
だけど、それは、ようするに、大槻さんの言い方とおんなじで、そんなのは、フィジカルな対象だけ扱っていれば、そのとおりだよ、だけど、そんなのを
科学的と言うんじゃないんです。つまり、そうじゃないと、メタフィジカルなこととか、心理的なこととか扱っても、なおかつ、それは妥当だって、普遍性があるって扱える方法も、科学的なんです。
科学の対象になる自然物を、こういう品物を扱って、誰が分析したっておなじものじゃないかって、デリダなんかが、そういう方法こそが普遍的だっていうのは、それは違うんです。それは、対象を限定しているんです。対象を科学的に限定するから、普遍的な、つまり、誰がやっても間違いない方法ができてきたのが、
科学なんです。
だけど、科学っていうのが、もし、もっと発達していくならば、心理的領域、精神的領域、精神現象論の領域まで入って、妥当性っていうよりも、普遍性なんですけど、あるいは、普遍性でありながら、かつ、妥当性であるっていいましょうか、そういう方法っていうのを見つけていくってことになるわけですけど。それは、フーコーが、ぼくは、はじめて、考古学的方法として、はじめて、それをつくった人だと思います。


B

だから、ぼくは、フーコーを読むときは、さまざまな読み方がありますし、さまざまな業績がありますから、たとえば、第一級の文芸批評の領域でも、第一級の仕事をしていまして、そんなこといったらキリないよってなってますけど、
ようするに、何が問題なんだっていったら、普遍的なっていいますか、考古学的な方法を、切り口っていうのを、もし、見つけられさえすれば、歴史っていうのは、古代とか、いまとか、たどらなくても、考古学的な面を見つけて、その積み重なりっていうふうに、歴史をそういうふうに理解できるならば、そうしたら、歴史っていうものが、いわゆる歴史をたどらなくたって、丁寧にたどらなくたって、歴史を包括できるんだよってことになると思いますし、もしかすると、それは、未来性をつくりだすこともできることが可能なんだってことを、フーコーは、はじめて、ぼくに言わせると、マルクス系統の枠外で、はじめて、それができた人だと思います。
枠外の思想なんかいっぱいあります。もちろん、近代には、いっぱいあります。しかし、そういう思想に、なんでもやってみろ、おまえ権力論やってみろとか、権力論をやって、妥当なあれを出してみろっていったら、出てこないです。反動的になったり、現実の治世をそのまんま肯定したりとか、現実の市民社会をそのまんま肯定したりとか、国家をそのまんま肯定したりっていうふうになっていっちゃいます。だから、そんなのは、いっぱいあります。マルクス主義系統以外にいっぱいありますけど、そういうのじゃなくて、系統以外であり、同時に、マルクス主義が提起したものは、全部やれるっていう方法をやったのは、フーコーだと思います。
だから、ものすごく、大きな存在だっていうのは、ぼくの理解の仕方です。大きな存在だし、ぼくはきちっと、ちっともしていないんですけど、どっかできちっとあれをしないとダメだよって、人に言わなくて、自分でですけど、自分もしないといけないよって思っているわけです。そこのところが、話として通じますと、ぼくにとっては、フーコーっていうのは、こうなんだよっていうことを、ぼくにとっては、言ったことを意味すると思います。あとは、みなさんがそれを追及されるかどうか、追及して自分のものにされるかどうかって問題になっていくと思います。


C

残念なことに、ぼくの戦後50年の系のなかで、マルクス主義って言いたくない、ぼくは、あんまり言いたくないんだけど、
ぼくは、マルクス主義者っていうのと、マルクス者っていうのは違うんだとか言いながら、でも、マルクス系統の修正過程とか、分解過程とかに、ぼく自身は入ってしまうと思いますけど、そのところから、フーコーをみて、何が自分に有効性を持つかっていうような読み方をするわけですけど、つまり、現存する思想の中で、そういう系統が分散したもの、修正したもの、解体したもの、それ以外の思想っていうのは、あんまりないんだよ、あっても、全部のことを扱えないんだよって言ってもいいくらい、まことに貧しいっていうのが、現在の世界の思想の状況だと思います。
だから、フーコーの方法っていうのは、そのなかで最も
有効性と、未来性のある方法だと思いますし、また、みなさんが、マルクス主義なんていうのに、一度もおれは洗礼を受けたことはないぞっていうふうな、本を読んだけど、あんまり洗礼受けてないよっていう人だったら、なおさらいいから、フーコーの方法っていうのを、追及されたらよろしいんじゃないかっていうふうに思います。
ほんとに国家論の問題みたいなところに、一点に集中したところで、フーコーのことを申し上げて、フーコーっていうのは、そんなやつか、そんなせまいやつか、そんなことしかしてなかったのかって言われると、困っちゃうんですけど、たくさんのことをしていますけど、それでもって、フーコーの存在意義っていうふうに、ぼくが考えているものの、おおよその筋道っていうのは、伝えられたんじゃないかっていうふうに、ぼくは思っています。これで終わらせていただきます。(会場拍手)
 (『 A172フーコーについて』吉本隆明の183講演 講演日:1995年7月9日)
 ※@、A、B、Cは、連続する文章です。










 (備 考)

吉本さんの理解の仕方によれば、「ものすごく、大きな存在だ」というフーコーをわたしはまともに読んでこなかった。フーコーの本は、5、6冊は買っていて2冊くらいは読んだ覚えがある。吉本さんが特に勧めていた『言葉と物』は2回試みたけど少ししか読まないで終わっている。時々思い出しては読んでおきたいなと思ってきたが、そろそろ少しずつでもていねいに読んでいこうかなと思う。まずは、『言葉と物』や『知の考古学』あたりから。


Cで、吉本さんは、「マルクス系統の修正過程とか、分解過程とかに、ぼく自身は入ってしまうと思いますけど」と語っている。確かにそれは言えるだろうけど、吉本さんの全幻想論や『言語にとって美とはなにか』や『母型論』や『アフリカ的段階について―史観の拡張』や晩年の『すべてを引き受けるという思想』などを思い描くとき、吉本さんはフーコー同様にそこからずいぶんと抜け出いるように見える。そして、吉本さんがフーコーに関して語っている、フーコーの業績を発掘、理解し、未来へ生かそうとすることが大事だと思うということは、吉本さん自身に関しても同様に言えることだと思う。





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525 普遍的善悪 フーコーについて 講演 吉本隆明の183講演 ほぼ日

講演日:1995年7月9日 吉本隆明の183講演の「講演テキスト」より引用

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宗教的な問題を、倫理の問題、つまり、善悪の問題に移し変える はるかに規模の大きな善悪 一種の普遍的倫理
項目
1
@

(引用者註.凡人には不可能な旧仏教の修行というものが無意味とすれば)そしたら、どうすればいいんだ、宗教っていうのは、どうあればいいんだってことを考えたと思います。その場合に、法然、親鸞は、言葉で南無阿弥陀仏って言えばいいんだっていうふうに言うけども、それは、どういうことを意味するかっていうと、そういう修練はしなくてもいいと、だけど、そうじゃなくて、
ようするに、信仰の問題、つまり、宗教的な問題は、倫理の問題、つまり、善悪の問題に移し変えれなきゃだめだっていうことを、はじめて、自分たちが見つけ出して、自分たちが言いだしたわけです。


A

だから、法然、親鸞の、そういう言い方を、いちばん極端にいいますと、極端な言い方ではっきり言っているのは、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」っていう言葉が、親鸞にもありますし、法然やその弟子たちにもありますけど、それに類した言葉がありますけど、つまり、善人だって往生できるんだと、だから、悪人なら、なおさら往生できるんだっていうふうに言ったわけです。
そう言うことによって、何を意味するかっていうと、信仰の問題は倫理の問題だと、しかし、その倫理の問題とは何かっていったら、ようするに、世間一般社会、たとえば、いまだったら、いまの日本の市民社会に通用している善悪の基準っていうのとは違う、かれらは、浄土っていうものの規模における善悪っていうのは、人間の社会があみだしている善悪の規模より、はるかに大きいもので、そんなものは包み込んでしまうような大きな善悪っていうのはあるわけで、それを仮に、ぼくはそういう言葉を使うわけですけど、普遍的な善悪だって考えれば、言い方をすれば、それは、普遍的善悪とは何なのかとか、普遍的善悪に帰依すべきだ、それを信ずべきだ、あるいは、それを信じられる方向にいくべきだっていうふうに、宗教の問題を移し変えてしまうわけです。信仰の問題とか、信仰を高度にするために、修練するっていう、それまでの仏教における修練の仕方っていうのを全否定するわけです。全否定して、それは倫理の問題だ、しかも、
人間社会における、常識的に、他人をぶん殴ったら悪だとか、あるいは、他人を殺したら悪だとかいうふうな意味合いの、人間の社会がつくりあげている善悪の問題っていうのとは、はるかに規模の大きな善悪っていうのに、どういうふうに向かえるかってことが、それが信仰の問題なんだっていうふうに、置き換えたわけです。


B

じゃあ、人を殺したら悪であるっていうけど、それは人間社会の小さな規模の善悪の問題に過ぎないんだっていうと、誤解を生ずるので、ぼくは、日常茶飯事で、
サリン事件のああいうふうな話題のとき、無差別に関係のないやつを殺しちゃうから悪いですねみたいなことを言ったら、それなら、関係ある人を殺したらいいっていうのか、言えるんですかってまともに言われて、ものすごく困ったわけで、それはそういう意味じゃないので、それは、たとえば、親鸞なら親鸞の言葉でいいますと、悪人のほうが善人より往生しやすいんだっていう言い方をして、善悪の規模がはるかに浄土っていいますか、信仰が到達すべき地点にあるところの倫理的な善悪は、つまり、普遍的な善悪は、もっと大きな善悪なんだってことからいいますと、親鸞の云い方は、人間っていうのは、なにかの契機、機縁です。だから、モメントってことです。つまり、機縁がなければ、人間っていうのは、ひとりの人間だって殺すことはできないよっていう言い方をしています。つまり、いきなり、前に人がいて、刃物があったから、殺してみろっていったって、何のあれもないですから、理由もないわけだし、はじめてお目にかかる人で、それで、殺してみろって言ったって、殺せるわけがないでしょって、そういうことです。つまり、機縁がなければ、人間っていうのは、ひとりの人間さえ殺すことができない。だけども、機縁があれば、殺したくなくても、千人、百人、殺すことだって、ありうるんだよっていう言い方を、親鸞はそういう言い方をしています。
たとえば、いちばんわかりやすいのは、戦争みたいな、国と国の戦争だから、おまえ出征して行けっていうふうに、政府から言われて、太平洋戦争のときに、そういうふうにしたわけですけど、そうやって、おれ殺したくないなと思いながらだって、鉄砲を撃ちゃ、千人、百人、殺すことになっちゃう、殺したことになっちゃってるわけです。だけども、個々の人にとっては、だれも殺したくて殺して、おもしろがって殺しているわけではなくて、殺したくないなって思いながらでも、戦争だからとか、自分も鉄砲を撃たなきゃ殺されちゃうからとか、そういう機縁があってあれすれば、殺したくなくたって、人間っていうのは、千人、百人、殺すっていうことだってありうるんだよっていうふうな言い方で、
人間の社会が、あるいは、人間がつくりだす善悪の基準の問題っていうことの成り立ちかたっていうのと、怪しさっていうものと、もっと大規模な、宗教的、本来なら、信仰が到達すべき境地っていいますか、そういうのを考えると、それに該当するところの普遍的倫理、普遍的善悪っていうものに到達しようとすることが、宗教の問題であって、その善悪っていうのは、人間の社会がつくりあげた、あるいは、人間関係がつくりあげたそういうものより、もっと大きいものなんですよっていう言い方をしています。そして、それに到達することが、宗教の問題です。


C

それに到達するためにどうすればいいんだ。それは、言葉で、真心からの信心でもって、言葉で南無阿弥陀仏っていうふうに言えば、それで浄土にいけるんだっていう言い方をしたわけなんです。
それで、法然と親鸞とは、いくらかニュアンスが違いまして、
親鸞の場合には、ほかのいいことをしようと思ったり、ほかの坊さんがやるような修行をしようと思ったら、それはダメだっていう言い方をしています。そんな修行をしようと思ったらダメだ。それは往生できない。それは、全然いらないし、修行するのはダメだっていう言い方します。
法然は、そこまでは言わないんで、つまり、助行っていいますか、助けるあれとしては、ほかの修行をしたっていいし、いい行いをするって心得て、それをやるのはいいけれど、でもそれは助行にしかならないと、本行は、言葉でそう言えばいいってことであって、親鸞なんか、もっと極端にいいますと、ほんとは一回やればいいんだ、一回唱えればいいんだっていう、つまり、一念義って申しますけれど、一念義に近い考え方をとっています。一回でいいんだ、だけど、
人間はいつ死ぬかもわからないから、一回以上念仏を唱える機会をもっているならば、なおさら、そういうふうに自然に唱えたらいいのであって、それは、浄土の仏法に奉ずるってことになるだろうから、それは、そうすればいいんだっていうくらいの意味合いで解釈して、一種の普遍的倫理っていうのを目指したわけです。
 (『 A172フーコーについて』吉本隆明の183講演 講演日:1995年7月9日)
 ※@、A、B、Cは、連続する文章です。











 (備 考)

この箇所もわたしにとってはわかりにくいところである。ずっと以前、吉本さんの親鸞関係の文章で、「人間の社会がつくりあげている善悪の問題っていうのとは、はるかに規模の大きな善悪」というような言葉に初めて出会ったとき、そのことをうまくイメージできずによくわからなかった覚えがある。


要するに、現在までの人間社会の善悪の基準が、まだまだ「普遍的な善悪」にまで到達できていないということはわかる。たぶん、永続的な課題として人間社会は「普遍的な善悪」にまで到達しようと自らを少しずつ開いていくのだろうと思う。


Cの「それに到達する」には、社会に流通する倫理や思想や既成宗教の考え方を否定して、徹底した「一種の普遍倫理」を目指さなくてはならないということか。そして、そのことは現実世界の割と閉ざされた固い人間認識から形成された仮の主流からできるだけ離脱して、もっと本質的な人間の歴史の主流に、その有り様に、目を凝らしていかなくてはならないということだろうか。そして、そのことはオーム真理教のように宗教や知の肥大した仮想イメージに依拠するのではなく、この人間界でささいに見えることで日々喜び思い悩み苦しむ大多数の人々の現実的な有り様と理想的な有り様とのイメージに依拠すべきだろうと思う。


しかし、いつの時代でも、生活世界であれ知の世界であれ、開かれた真の主流に目を凝らす人々は、孤独を強いられるような気がする。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
537 微妙な親鸞 「親鸞の最終の言葉」 論文 『別冊太陽 親鸞』2009年5月 吉本隆明資料集175 猫々堂 2018.5.25


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親鸞の最終の言葉 『教行信証』の終りに近く独白 人間性が天然自然、あるいは自然に向かって述懐 「自然」と呼ぶ倫理の場所
項目
1

@

 
親鸞の最終の言葉は何だろうか。そう思いめぐらすとわたしには『教行信証』の終りに近く独白されている名利と愛欲についての悲しみと哀れみの言葉が直ぐに思い浮かんでくる。自分には名利の大きな山にふみ迷って、人に教えをほどこす師であるかのように振舞い、また愛欲の広い海に沈みこんで、浄土の信仰を守護する者のつとめを外れての往生の道を行くことを怠って終ってしまった。これは哀れであり、嘆かわしいことだと述懐している。言葉の面からは、自己に向けられた〈ざんげ〉なのか、法然をはじめ浄土の先師たちに向けられたのか、天に対してつぶやいたのものか判断できない。
 かつて越後の国に流罪されていたとき、法然から発せられた「一念義停止起請文」を読む機会があったに違いない。そのときであったら親鸞の〈ざんげ〉は法然に向けられたに相違ない。
だが『教行信証』の定聚の数に入ることを喜ばずとか愛欲の広海に沈んでしまったという述懐は、もし〈ざんげ〉と呼ぶならば、自己に対するものでも、法然や浄土の先師に対するものでもなく、人間という存在そのもの、人間性が天然自然、あるいは自然に向かって述懐している〈ざんげ〉であるように思える。なぜそういう印象をうけるかと言えば、『教行信証』の終末に近くの〈ざんげ〉の述懐には安直な善悪観へのこだわりもなく、人間の個人的な性格や生まれた環境や育ちや個人的な差異に対するこだわりも感じられず、ただ自然の一部分である人間が自然に背反する言葉や振舞いや考え方をしたり、それを善か悪かに片寄せてしまったりする人間そのものの自然に対する〈ざんげ〉のような巨きさを感じさせる。言いかえてみればここでは親鸞は〈人間代表〉として自然に対して〈ざんげ〉しているかのように感じられる。
 
 
A
 
 わたしの記憶では、親鸞はただ一度だけ関東の信者の老人への假名まじりの便りのなかで、自分は眼もみえなくなり、耳も遠くなってきたました。そのうち〈浄土〉でお会いしましょうと言った言い方をしている。
(註.1)もちろん、親鸞は実体としての浄土の存在を「自然」と同じに考えていたかもしれないし、老人である関東の信者をいたわるための言葉だったかもしれない。ただ晩年の親鸞とっては「浄土」でお会いしましょうという便りの言葉は「自然」と呼ぶ倫理の場所でお会いしましょうと言うのと同義だったような気持がする。「自然」と呼ぶ倫理は宗教的な浄土信仰ともちがうし、善悪を区別けする戒めでもない。ただ親鸞が浄土の「真宗」と呼んだものの独自な概念だったように思える。
 『教行信証』の終尾に近くに正定聚の数に入ることを喜ばないような自分の名利と愛欲におぼれたような自分の生涯は嘆かわしく、また哀れむべきものだという親鸞の〈ざんげ〉の言葉は誰にあてたもののでもなく、また自分の心を呼びさまそうとしたのでもなく、淡々と落ちついた文脈で天に向かって魂を放っているようにも感じられてくる。
広海に沈んでしまっ

 (「親鸞の最終の言葉」P19−P20『吉本隆明資料集175』猫々堂、初出『別冊太陽 親鸞』2009年5月 )
 ※@とAは、連続した文章です。


(註.1)

 もっとも、親鸞も、一度だけ手紙の中で、浄土の存在を認めるようなことを言っています。


  この身は今は歳きはまりて候へば定めてさきだちて往生し候
はんずれば、浄土にて必ず必ず待ちまゐらせ候ふべし。あなか
しこあなかしこ。 (『末燈鈔』一二)


 弟子への手紙の中にこう書いているのです。
「自分もだんだん年をとってきて、目も見えなくなったし、耳も
あまり聞こえなくなった。いずれそのうち浄土でお会いしましょ
う。」
 と言っているわけです。これを読むと、浄土の存在を前提に言
っているように思えます。しかし、この場合は、通俗的にそう言
っているのであって、親鸞はほんとうに浄土の存在を信じている
わけではありません。
 浄土なんてあるのか、ほんとうにあるなどというのはつまらな
い考え方だ。浄土はあるとも言えるし、ないとも言えるぐらいな
ことを言うほうがよほどいいので、まだそっちのほうが正しい、
というのが親鸞の考え方です。
 (『今に生きる親鸞』 P92-P93 吉本隆明 講談社+α新書 2001年9月)











 (備 考)

(註.1)に関して
この「浄土」という親鸞が使った言葉について、「しかし、この場合は、通俗的にそう言っているのであって、親鸞はほんとうに浄土の存在を信じているわけではありません。」という2001年頃の吉本さんの捉え方は、吉本さんの本の中で何度かわたしが目にしたものである。つまり、上の2009年頃の吉本さんの同じ「浄土」というものの捉え方は、今までのものとは違ってきているのではないかと思う。それは「ただ晩年の親鸞とっては『浄土』でお会いしましょうという便りの言葉は『自然』と呼ぶ倫理の場所でお会いしましょうと言うのと同義だったような気持がする。」というように単なる通俗的な挨拶言葉としてではなく、新たに捉え直されている。


@の「定聚」とは「正定聚」のことか。
正定聚とは、必ずさとりを開いて仏になることが(まさ)しくまっているともがら()のこと。」とネットに説明があった。


わたしは、この吉本さんの文章を読んだとき、身震いした覚えがある。それはひとつは、吉本さんの読みによる親鸞がそういう深みにまで上り詰めていたということ、もうひとつは、そういう親鸞の深みを吉本さんが発掘してしまったということ、そういうある場所にまで吉本さんが上り詰めてきたということ、あるいはより深みにまで達したということ。

この件について付け加えると、現在のわたしたちは、主要に人間界のことにばかりとらわれその諸問題にかかずりあっている。これは人間界が大いなる自然からずいぶんと独立して肥大化してきた現在の歴史段階のもたらす必然の視線や言葉なのだろうとは思う。そして、大いなる自然(宇宙)については、現在は自然科学が探求や考察を担当している。

わたしは「子どもでもわかる世界論のための素描」か「子どもでもわかる世界論」かで少し触れた覚えがあるが、現在は、人間界と大いなる自然(宇宙)は分離しているが、仏教が発祥した頃や親鸞の生きた時代では、まだまだ人間界は大いなる自然の前には弱小(自然災害や飢饉など)で、人間界と大いなる自然とは未分離的なものと人々に意識されていたものと思われる。そういう歴史段階の促す視線や感受が親鸞のすぐれた洞察にも内在しているように思う。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
542 廃墟のイメージ 「変容する都市と詩」 インタビュー 『吉本隆明資料集176』 猫々堂 2018.6.25

(関連項目541)
初出 『現代詩手帖』1986年5月号
聞き手 樋口 良澄

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高度な先進社会のこれから当面する未知 都市的な感覚というのは無表情な廃墟の感覚にだんだん近づいていくだろう 一種の両義性を持った感覚
項目
1

@

吉本 ただ問題なのは廃墟というイメージで、これはぼくに云わせれば、現在の都市的なものの二つの系列の中の、異化領域の系列を原動力にしてこれから展開されていく高度な大都市のイメージは、だんだん廃墟に近い感覚にどうしても自然にほっておけば入ってゆくと思うんです。
そのことが高度な先進社会のこれから当面する未知だとおもいます。つまり人間の起伏のある感情がしだいに失われていって不気味なふうになっていく、そういうこれからの都市の感覚の未知な部分が、現在の文学とか映画とか演劇とかが表現している廃墟感覚に象徴されているとおもいます。それはいわば都市的なものの未知な部分、これからそうなるに違いない部分と感覚のイメージの表現の問題だと理解しますね。それはとても興味深いことで、そこをちゃんと掴まえることもちゃんと表現することも重要なことになるとおもいます。


A

吉本 実際問題として、ぼくの理解の仕方では、先進的な社会の都市はこれからますます膨張していくけれども、けっして廃墟にはならないとおもっています。そういう意味ではまたどんどん継ぎたされるかもしれないし、新しいファッションビルに生まれかわるかもしれないですね。
都市というのはまことに賑やかに巨大化していきますが、リアルな廃墟にはならないとおもいますね。しかしその中での都市的な感覚というのは無表情な廃墟の感覚にだんだん近づいていくだろうなあとおもってます。だから廃墟というのは未来の世界的都市というもののメタファーとしてああいうふうになるんだろうなとおもいます。それはちゃんと掴まえていかなければいけないんでしょう。例えば映画の『ブレード・ランナー』なんかもそうですが、漫画や演劇の中でよく今から表現されているんじゃないですかね。ぼくは廃墟感覚というのはそういう意味でとりますね。それはとても価値ある感覚であると同時にひじょうに不気味で未知な感覚でもありますね。一種の両義性を持った感覚でしょう。またどうしてもそうなるに違いない必然というものもあるとぼくはおもいます。


B

吉本 そういう意味では諏訪さんのいう『谷中草紙』的な都市感覚の部分は、だんだんおしつめられてなくなってしまうだろうとおもいます。だから相当に不気味な廃墟感覚もあるんでしょうが、そのばあいにも『風の谷のナウシカ』なんかにもそれを感じますけど、
その廃墟感覚は必ずしもマイナス面だけではないとおもいます。人間の感性がこう変わる必要があるんだという肯定面が同時にあるような気がします。でもそれは確実に異化領域を中心に出てきておおきな問題になっていくようにおもいます。ですからそれは当然に表現されてしかるべきだし、評価されてしかるべきことでしょう。
 (「変容する都市と詩」P18−P19『吉本隆明資料集176』猫々堂、初出『現代詩手帖』1986年5月号 )
 ※@とAとBは、連続した文章です。










 (備 考)

「廃墟というイメージ」の出所はどこだろうか。まず、古いものが行き詰まっている、あるいは特に大都市で古いものが壊されたり新しく継ぎ足されたりする動きが感じ取れるほどあちこちで進行している、こうした状況が人にそんな感受を与えるのだろうか。建物でもシステムでも古いものが生命感をなくしてほったらかされている、あるいは、そうした古いものが打ち壊されている、もちろんそこから新たなものも立ち上がるのだろうけど、立ち上がる新たなもの以前の前者に視線を放てば「廃墟というイメージ」が前景化してくるのだろう。


時代が大きく変貌するときは、必ずと言っていいほど前進と後退の精神的なベクトルが現れる。人間の営みの自然必然な動向であれば、その後退のベクトルは少しずつ時に振り切られていくはずである。そうして、新たなもの、新たな事態に対する不安やついていけない心から発射されていた後退のベクトルもいつしか病気の寛解のように自然さに馴染んでいくのだろうと思う。


時代が大きく変貌する渦中での、わたしたちの感受や理解が、無闇に無用に振りまわされずに主流に添った正しい有り様として振る舞うことは、人々が共通理解すべき大事なことだとわたしは思っている。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
545 本当のいい小説 「書くことと生きることは同じじゃないか」 対談 『吉本隆明資料集179』 猫々堂 2018.10.15

初出 『新潮』2010年10月号 吉本隆明・よしもとばなな 対談 (2010.6.4)

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本当のいい小説というのは、その中に必ず半分以上は自分自身が書かれています 書くことと生きることは同じじゃないか たやすく人には告げられないような何か
項目
1

@

吉本 本格的な小説というか、
本当のいい小説というのは、その中に必ず半分以上は自分自身が書かれています。他人の名前だったり、違う物語になったりして、表面的には姿を変えていても、「あ、これを書いた人はこういう人なんだ」と、分かる部分が必ず半分は入っている。そういうものが入ってない作家は、流行る流行らないにかかわらず、少なくとも僕は、第一級の作家だとは思わないし、評価しなくて間違いないと思っています。
 ただ、これはやっぱり相当きつい作業なんです。しかも、自分にしかわからないから、人に訴えることができない。要するに、一番大切なのは、自分が自分に対してやっている事柄なんです。それは、人に言える場合も言えない場合もありますけど、そういう難しさが作品の中に入っているものこそが一級品であって、うまいまずいじゃないんだ、と言い切ることはできると思います。
 でも、そこまでのものになってくると、いろんなことが入ってくるわけですよ。その人の現在の家庭状況はどうであるかとか、お子さんはどういうふうに育っているかとか・・・・・・。

ばなな それ、私のことじゃない?(笑)。

吉本 父親母親がどこで、どうしているかとか、それら全部が含まれている。
要するに、書くことと生きることは同じじゃないかって言いたいわけ。なおかつ、自分が自分に告げるというか、自己が自己にしかわからない、人には言えないようなことこそが、大切な部分なんだよって。それを人に告げったって告げなくたって構わないんですけど、たやすく人には告げられないような何かが入っていないと、一級品にはならないと考えて、まず間違いないと思います。
 (「書くことと生きることは同じじゃないか」P13−P14『吉本隆明資料集179』猫々堂、初出『新潮』2010年10月号 )













 (備 考)

「要するに、書くことと生きることは同じじゃないかって言いたいわけ。」というのは、宮沢賢治の「農民芸術論」は欧米化の波をかぶって少し現実離れしたという意味でロマン的ではあるが宮沢賢治なりの本質的な芸術のイメージを提出している、その考え方と少し通じるところはないか。この吉本さんの言葉は、考えに考えを重ねてきた晩年の吉本さんらしい簡潔ではあるが含みのある言葉だと思う。昔なら、吉本さんはこんな言い方はしなかったような気がする。


「自己が自己にしかわからない、人には言えないようなこと」に関して思い出したことがある。以下の吉本さん晩年のインタビューの言葉の中の、「いちばんの本音は誰にも言いません。」とは何のことだろうと昔そこで少し立ち止まった覚えがある。関連と思われるので引用しておく。


― 現代の社会状況について、どのように把握していますか?

(吉本) ごろんと寝転んで、役にも立たないことを、とりとめもなく考えています。それは非常に抽象
的なレベルで考えます。もう何年も考え続けていますから、自分なりの構想があります。ただ、いちばんの本音は誰にも言いません。いま俺はこういうふうに困っている、どういう対策がいちばんいいですか、と普通の人に聞かれれば答えますよ。お前が政治指導者をやれと言われれば、これを真っ先にやる、という自分なりの考えもあります。けれどもそれは別に自分から言うべきことではないし、お前の言うことを役に立ててやるという奇特なやつもいないから沈黙しています。
 僕は政治にそんなに縁がなくて、文学者という程度のところで済んでいるけど、もし口を開くとしたら、民主党、自民党から共産党から、いまの政党や政治家はみんな駄目だということになっちゃいます。「じゃあお前がやってみろよ」って言われれば、いつだってそんなことはできる(笑)。

― たとえば明日から総理大臣をやれ、と言われ
 たら、やる準備はありますか?

(吉本) 面倒くさいから寝転んでいたほうがいいよ、と本音では思います(笑)。でも、お前はこれま
で大きなことを言ったり書いたりしているけど、本当にできるのか、と言われれば、それはできる
のは当たり前です。左翼の中には、いまだに何かのアンチテーゼで考えているやつらがいるんです
よ。だけど、僕らはもうアンチテーゼなんか終わったんだ、とずっと言ってきた。次にどうすれば
いいか、俺にさせてくれたら、翌日からでもちゃんとやってみせるぞ、と思ってます。
 (「吉本隆明インタビュー」 季刊誌『kotoba』2011年春号(第3号) 小学館)






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
546 晩年の言葉@ 「書くことと生きることは同じじゃないか」 対談 『吉本隆明資料集179』 猫々堂 2018.10.15

初出 『新潮』2010年10月号 吉本隆明・よしもとばなな 対談 (2010.6.4)

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鴎外や漱石は一級品 何かを削らなきゃなれない 大きな文学者になることは、そんなに大切なことなのか? 歳をとれば、わかりますよ。
項目
1

@

吉本 僕は好き嫌いでいうと、太宰治というのが一番好きなんです。若い頃からよく読んでて、もう亡くなりましたけど「太宰治論」を書いた奥野健男って友達とよく太宰の話なんかしていると、時を忘れて愉快でしたね。世間では軽い作家だというふうに思われていましたが、
なんというか気のつき方が細かいというか、微妙なことによく気がつく人でした。


A

吉本 ただ好き嫌いを超えて、日本を代表する作家は誰かと考えると、やっぱり鴎外(引用者註.この「おうがい」の漢字は「環境(機種)依存文字」とやらで表示されないから代わりに「鴎」の字を使っている。いちいち断らなかったが、時々こういうことがある)や漱石は一級品だと思いますね。それは太宰治とはまた違うところで、僕
は率直に言って、いい作品というのはどういうものを言うんだろうということを、徹底的に考え続けて、自分なりには一生懸命やったなと思っているんですけど、鴎外・漱石級の文学者であるというのは、やっぱり、その分、何かを削らなきゃなれないんです。人から見たら、たとえ裸にしたってわからないでしょうけど、必ずどこか肉体を削っている。俺もそうありたいと思っていたけど、残念なことに、どうも俺は鴎外・漱石比べたら平凡な物書きで終わりそうだな、というふうに思っています。これは割と正直に。

ばなな 自己評価、低っ!

吉本 
だけど、「そんなに大きな作家、大きな文学者になることは、そんなに大切なことなのか?」という思いも、もう一方であって・・・・・・

ばなな そうですよね。正直言って、私もそう思います。

吉本 平凡でも、とにかく夫婦仲はいいし、まだ小さいけど、いい息子がいて、今が幸せでしょうがないんだという家庭だったら、もうそれでずっと通しちゃえって。

ばなな それは私に望むことですか?(笑)

吉本 僕だったら、そう考えると思うな。傍から見ても、そばへ寄って話を聞いても、「このうちは本当にいいな。いい夫婦だな。子供もいいな」という家庭を目的として、それで一生終わりにできたら、それはもう立派なことであって、文句なしですよ。もし、あなたがそうだったら、「それ悪くないからいいですよ」って、僕なら言いますね。
 それ以上のことはないんです。どんなに人が褒めようが貶そうが、そんなことはどうでもいいことだとも言えるわけで。漱石・鴎外は、確かに人並み以上に偉い人です。でも、それが唯一の基準かといったら、全然そうじゃなくて、俺のうちのことなんか、近所の人や肉親以外は何も言ってくれないけど、でも、俺のうちは一番いいんだよ、自慢はしないけど自慢しろって言えばいつでもできるんだよ、って言えるような家庭を持っていたら、それはもう天下一品なんですよ。
「うちは夫も子供も申し分なく、並びなきいい家庭をつくりました。近くにお越しの際は、いつでも立ち寄ってくださいよ」と言えるような人生にできたら、もう他には何も要らないというくらい、立派なことなんです。
 
それがいかに大切で、素晴らしいことかというのは、僕ぐらい歳をとれば、わかりますよ。生きるって、僕はまだわかんないけど、一生を生きるというのは、結局、そういうこと以外に何もないんだと思います。それだけは間違いないことだから。
 (「書くことと生きることは同じじゃないか」P16−P18『吉本隆明資料集179』猫々堂、初出『新潮』2010年10月号 )











 (備 考)

吉本さんの「 自己評価」に時々で会う。吉本さんは、こういう表現の場ではほとんどうそいつわりや飾りや謙遜を言わないというふうにわたしは思っている。引用末尾の「生きるって、僕はまだわかんないけど、一生を生きるというのは、結局、そういうこと以外に何もないんだと思います。」という言葉も、振り返れば最晩年に近いけど吉本さんの正直な思いだろう。いろんなのがその枝葉を集める幹として見通されているけど、まだまだ全体は分からないぞという保留の気持ちもあるのだろう。

ここにはひと言も触れられてはいないが、このような人間の生きる理想的な有り様のイメージには、この人間界での経験の積み重ねとともに、人間界を超えたもの、すなわち「大いなる自然」(宇宙)からの照り返しもどこかで意識されているような気がする。ちょうど吉本さんが最終の親鸞の姿に触れるものを持っていたように。(註.1)

(註.1)
吉本さんの「親鸞の最終の言葉」に触れた項目537「微妙な親鸞」と項目539「親鸞と唯円の隔たり」を参照。



吉本さんが駆け抜けてきた知の領域に立っていれば、人は晩年の吉本さんのこういう言葉(註.2)を前にすると少し疑問に思う人がいるかもしれない。しかし、例えば『共同幻想論』の重要なモチーフは吉本さん自身の語ったところによると次のような所にある。自分が戦争中に国家や天皇にイカレてしまい自分の存在をかすめ取られてしまった痛切な体験や集団が個を倫理的に追い詰めるなどの体験から、どうしたらそれらを解除できるかを考え抜いて、この人間界で人が生み出す諸幻想と相互の関わり合いの構造を明らかにすれば個が無用な倫理的な引き回しから逃れられるのではないかと。そして、もちろん他の諸論考もそれと同じようなモチーフであろう。このモチーフを、知の世界から生活世界に収束させれば、上のような理想的な生活イメージに行き着くといってもいいと思う。それはまた、壮年期の吉本さんの『カール・マルクス』の中のあの有名な言葉の世界にもつながっている。そうして、わたしたちは誰でもこの人間界・内存在として日々アリさんのように悩み苦しみ楽しみ喜び生きている。わたしの言葉で言えば、人は、煩悩以前の動物的な自然性と人間的な煩悩との二重(ふたえ)を身にまとってこの関係的な人間世界を生きている。

吉本さんの批評や思想のモチーフは、誰でもそうなのだが、特に自覚的に個的な固有性とともに開かれた普遍の言葉を目指している。

(註.2)
「うちは夫も子供も申し分なく、並びなきいい家庭をつくりました。近くにお越しの際は、いつでも立ち寄ってくださいよ」と言えるような人生にできたら、もう他には何も要らないというくらい、立派なことなんです。
 それがいかに大切で、素晴らしいことかというのは、僕ぐらい歳をとれば、わかりますよ。生きるって、僕はまだわかんないけど、一生を生きるというのは、結局、そういうこと以外に何もないんだと思います。それだけは間違いないことだから。



『吉本隆明資料集』を出されている松岡祥男さんが、何年か前にどの文章、どんな前後の文脈かはすっかり忘れたが、晩年の吉本さんの言葉について、それは本当は還りがけの言葉かもしれない、というようなことを書かれていたというおぼろな記憶がある。わたしははっとした。たしかに吉本さんの親鸞についての一連の論考などを読んでいて、じゃあ吉本さんの還りがけはどうなんだろうとふと思ったことはあった。帰りがけの問題という吉本さん自身にとっても最重要課題を本格的に実行し続けていないわけがないだろうと思う。特に簡潔な言葉だが深みを増した様に思われる晩年の吉本さんの言葉にこだわる所以である。





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547 晩年の言葉A 「逆説の親鸞」 インタビュー 『吉本隆明資料集179』 猫々堂 2018.10.15

(関連項目537「微妙な親鸞」)
初出『親鸞の歩き方』2011年4月
 

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親鸞の最終の言葉 法然とただ一つ違うところ ぼくが最後に到達した解釈
項目
1

@

吉本 
ぼくが、親鸞について「これで終わり」と考えて書いたものを別冊太陽の「親鸞」(二〇〇九年五月)に載せました。それは『教行信証』についてです。内容をざっとお話しします。
 ぼくが
親鸞の最終の言葉は何だろうかと思いめぐらすとき、『教行信証』の終わり近くに独白されている名利と愛欲についての悲しみと哀れみの言葉がすぐに浮かんできます。自分は名利の大きな山に踏み迷って、人に教えを施す師であるかのように振る舞い、また愛欲の広い海に沈みこんで、浄土の信仰を守護する者のつとめを外れて往生の道を行くことを怠って終わってしまった。これは哀れであり、嘆かわしいことだ、と親鸞は述懐しています。言葉の面からは、自己に向けられた《ざんげ》なのか、法然をはじめ浄土の先師たちに向けられたのか、天に対してつぶやいたものなのか判断できません。
 しかし、ぼくには人間という存在そのもの、人間性が天然自然、あるいは自然に向かって述懐している《ざんげ》であるように思えるのです。なぜ、そういう印象を受けるかといいますと、『教行信証』の終末近くの《ざんげ》の述懐には、安直な善悪感(引用者註.初出のママ。「善悪観」かとも思ったが、善悪の感じでよさそうか。)へのこだわりもなく、人間の個人的な性格や生まれた環境や育ちや個人的な差異に対するこだわりも感じられません。自然の一部分である人間が、自然に背反する言葉や振る舞いや考え方をしたり、それを善か悪かに片寄せてしまったりする。人間そのものの自然に対する《ざんげ》のような巨きさを感じさせます。
言い換えますと、ここでは親鸞は《人間代表》として自然に対して《ざんげ》しているかのように感じられるのです。また、親鸞が淡々と落ちついた文脈で天に向かって魂を放っているようにも感じられてくるのです。じつに大きな人です。
 
それと、『歎異抄』の唯円の親鸞への理解。ぼくは、そこにあまりに多く力点を置き過ぎていたとも、思い始めています。唯円は倫理(善悪)的な判断を媒介として混えながら親鸞の言葉を記しているのではないかと、ぼくは、少し思えるようになりました。親鸞の思想を最も鋭く正確に受け取りながら、同時に親鸞思想の規模を小さく受け取って、初期のものにとどめているような気がします。
 唯円はまだ浄土の信仰者であり、親鸞は到達できない浄土・浄土の信を、その上に置くことのできた信仰者というべきなのかもしれません。
 
別の視点からいいますと、親鸞は、浄土教の方から民衆のほうにゆこうとした人でした。これが、法然とただ一つ違うところです。・・・中略・・・知的な人が民衆に近づくのは不可能に近い。親鸞は、貴族の出でしたから、民衆と自分をどうやって近づけるかを懸命に努力したと思います。
 
ぼく流にいえば、親鸞は、自分の宗教から民衆そのものにいけたら、それがおしまいであるという考え方を推し進めていった。親鸞のかな混じりの書簡(註.1)では、民衆に向かってやさしく説こうと努力しています。ところが、ぼくらがいま読んでも「やさしくはねえよ、これは」(笑)というぐあいに、やさしくならないんですね。そこが、ぼくの解釈でいえば、それ以上は近づけないというところまでいった残りというか、余りというか、民衆と自分との違い・距離感のことを、親鸞は浄土真宗、あるいは浄土の真宗といったのでしょう。親鸞は、浄土の真宗はこういう教義だからおまえたち理解しろ、といっていない。じぶんが民衆の信仰心のところにいこうとしてもいけない。それはいったい何なのか。こうした親鸞のさまざまな疑問や理解の仕方とかを真宗というのだというのがぼくが最後に到達した解釈(註.2)です。


A

― 吉本さんの家は浄土真宗本願寺派。天草出身の祖父母は信仰が篤く、月島から築地本願寺によくお参りにいっていた。

吉本 祖父母は天草門徒で、死んだあとは浄土に行くということを文字通り信じていました。理屈は何もないし、いえないのですけれど、信仰の篤い人でした。
ぼくが、親鸞を読んでいるとき、そこに登場する民衆については、祖父母をイメージしていました。

― しかし、吉本さんは、親鸞を論ずるとき自分を《不信心者》《不信の徒》などと表現している。

吉本 浄土真宗はやさしい宗教ですよね。本願寺にいきますと、お年を召したご婦人の方たちが多いです。どこか癒されるということがあるんじゃないでしょうか。
ぼくは、年寄りになって、神仏に癒されるという気持ちが少し分かるようになりましたね。それまでは「癒されるってなに?」(笑)という立場だったんですけれど。少しですけれどね。ぼくは《不信の徒》から《半信の徒》になったのかもしれません。
 (「逆説の親鸞」P68−P71『吉本隆明資料集179』猫々堂、初出『親鸞の歩き方』2011年4月 )












 (備 考)

取り立ててどこがとはいわないが、この語りの中に思想者としての晩年の吉本さんがいると思う。そして、親鸞の言葉を徹底して読み込んできた吉本さんの、親鸞の晩年と共鳴している姿があるように思われる。親鸞をそんなにていねいに読んでいないわたしにはこの親鸞の《ざんげ》については何とも言えない。ただ、現在では人間界と大いなる自然(宇宙)は意識の上でも学問的にも分離されているが、当時はそれらは太古以来の未分化な意識や考え方であった。だから例えば、他力本願や阿弥陀如来は、微妙な言い方になるが、大いなる自然(宇宙)の黙する無意識的な内省のようなものとして人間に感じ取られた姿であったろうと思う。したがって、近代的あるいは現在的な言葉の視線としては、「自己に向けられた《ざんげ》」と捉えられがちであるが、吉本さんの親鸞の《ざんげ》の捉え方もあり得るように思われる。



知の親鸞が、無知の民衆へ限りなく近づいていくという問題は、現在でも依然として問題として生き延びている。専門家と素人、知識層と生活者。現在ではずいぶん相互の垣根が取り払われて以前のようにはっきりと分離されていなくなってきても、依然として問題として生きている。もちろん、人間界を超えた大いなる自然(宇宙)の方から眺めたら、わたしたち人間は光の粒のような存在であり、全ての人間的な活動や諸問題も等しく光の粒々や帯となるほかない。



(註.1)
「親鸞のかな混じりの書簡」は、例としてここに引用しようかと思ったが、そう簡単ではなさそうなのでそれが掲載されている場所の提示だけにする。わたしの持っている本では次に収められている。

1.『日本の思想 3 親鸞集』(編集 増谷文夫 筑摩書房 1968年)に、「書簡」として「真蹟書簡」と「古写書簡」が収められている。
2.『思想読本 親鸞 吉本隆明編』(法蔵館 S57年4月30日発行)に、吉本さんによる「現代語訳親鸞著作抄」として「歎異抄 書簡 教行信証」がある。「『教行信証』の終わり近くに独白」の部分は、ここには掲載されていない。


(註.2)
・『増補 最後の親鸞』(1976年10月31日発行吉本隆明 春秋社)所収の「最後の親鸞」(初出1974年)の末尾には、次のようにある。吉本さん、五十歳くらいのときである。ちなみに、晩年の吉本さんを家族の視線から見たものに『吉本隆明全集17』の「月報」にハルノ宵子の「ボケるんです!」がある。目がほとんど見えなくなった晩年の吉本さんの内を去来するものはどのような世界だったのだろうか。


 最後の親鸞を訪れた幻は、〈知〉を放棄し、称名念仏の結果にたいする計いと成仏への期待を放棄し、まったくの愚者となって老いたじぶんの姿だったかもしれない。

  「思・不思」というのは、思議の法は聖道自力の門における八万四千の諸善であり、・不思というのは浄土の教えが不可思議の教法であることをいっている。こういうように記した。よく知っている人にたずねて下さい。また詳しくはこの文では述べることもできません。わたしは眼も見えなくなりました。何ごともみな忘れてしまいましたうえに、人にはっきりと義解を施すべき柄でもありません。詳しいことは、よく浄土門の学者にたずねられたらよいでしょう。 (『末燈鈔』 八)〔私訳〕

 眼もみえなくなった、何ごともみな忘れてしまった、と親鸞がいうとき、老もうして痴愚になってしまったじぶんの老いぼれた姿を、そのまま知らせたかったにちがいない。だが、読むものは、本願他力の思想を果てまで歩いていった思想の恐ろしさと逆説を、こういう言葉にみてしまうのをどうすることもできない。


・『今に生きる親鸞』(講談社+α新書 2001年9月20日)の「到達点」(「第三章 親鸞の言葉」)では、次のように述べられている。
 結局、親鸞にどんなことが残ったかと考えてみると、仏教のいう信と不信を人間の善と悪におきかえる倫理に転換する通路でした。親鸞ほど信仰と善悪の関わりをつきつめた人は、他に考えられないくらいです。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社  発行日
565 晩年の言葉 B 「忘れ得ぬ 太宰治の独演会」 『吉本隆明資料集179』 猫々堂 2018.10.15 

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音楽も文学も、創作や鑑賞の環境がどんどん便利になっています。 手を動かして詩を作る。歌ってみる。 自分が心の中で手放せないもの 文学にみる芸術性
項目
1

@

  このごろうちに声楽科を出た人が掃除に来るものだから、僕の歌を聞いてもらっています。うちは家族がみんな年取って、家の中が寂しい。それで少しは声を出して鼻歌でも歌ってやろうと思ったわけです。
 
音楽も文学も、創作や鑑賞の環境がどんどん便利になっています。手元のボタン一つで、「一級品」と呼ばれるものが手に入る。すると人間は「これは読まなきゃおられない」といった衝動的な感覚が薄れていくことになります。せめてそうありたくないと思うなら、例えば紙と鉛筆とがあるならそこに何か、自分の手を使って「あいうえお」でもいいから書いてみる。その「あいうえお」は確かに残ります。手を動かして詩を作る。歌ってみる。そういう根底を失わずにおれば、何とかなるよってことは言えるでしょう。


A

 
特に便利な世の中では、真の芸術とそれ以外との区別はできた方がいい。自分が心の中で手放せないものがはっきりすれば、わりと楽に区別できます。文学にみる芸術性をどう見るかですが、作家その人に時代がどう映り、それが時代の真理に近いかどうか、近いほどいいってことになります。近代日本の作家でいえば漱石と鴎外。そして太宰治。時代の勘どころを芯に近い所でつかんでいる人だと思います。あの人が死んだ時、奥野健男と、大学近くの居酒屋で追悼会だといって、「あの人を本当にわかっているのはオレたちだけだ」と気炎を上げたものです。
 (「忘れ得ぬ 太宰治の独演会」P57−P58『吉本隆明資料集179』 猫々堂 2018.10.15 )
 ※『朝日新聞』2011年3月27日 (談)、談とあるからこれは文章として切り整える記者の手が加わった言葉だと思われます。 
 ※@とAは、連続した文章です。












 (備 考)

別に言葉を加える必要を感じないが、晩年の吉本さんの日常の姿が想像できるような気がする。いずれにしても、深い言葉の森を駆け抜けてきた論理の、深みを持った姿が感じられる。


文明の恩恵がもたらす便利さの反作用として、「衝動的な感覚が薄れていくこと」があると思う。しかし、いずれにしてもそうした状況がもたらす問題には人間は内省を加えて対処していくだろうと思う。


ここで語られている「文学にみる芸術性」は、柿本人麻呂の時代においても、あるいはそれ以前の個(作者)がほとんど集団性の中に埋没していた時代の語りなどにおいても、共通に言えることではないかと思う。





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569 晩年の言葉 C 「ボケるんです!」 ハルノ宵子 文章 『吉本隆明全集17』の月報18 2018年9月 晶文社


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表現の"飛躍"の度合 思考にブレはなかった 2000年代半ば頃
項目
1

@

 一方父は、他人から見れば最後まで一見マトモだったと思う。インタビューなどにも、事実誤認はあるものの(それは昔からだけど)、そこそこマトモに答えていたし、
元々父の著作を分かりづらくさせていた、表現の"飛躍"の度合が増して (註.1)、ますます誤解されやすくはなっていたが、思考にブレはなかった
 
父のその徴候は、2000年から始まっていた。ある深夜、父が書斎の机の前にゴロンと寝転がっていたので、真冬だったし「カゼひくよ、ちゃんと寝た方がいいよ」と声をかけると、「ああ・・・キミか、オレ今どこにいるのか分からないんだよ」と言う。ゲゲッ!と思ったが、なんとか起き上がらせ、ここは書斎の机の前だと説明し、あわてて寝所にしている客間に布団を敷いて寝かせた。それが最初だった。
 それから数日後だったと思う。2階で寝ていると、朝方階下からドスンバタンと、ものすごい音がするので、あわてて階段の上から見ると、階段の下に下着姿の父がいた。「ああ・・・キミか、出口がどこだか分かんないんだよ」と言う。見ると客間の障子はビリビリに破られ、ふすまにも大穴が開き、布団もテーブルもぶっ飛んでいた。まるでうっかり閉じ込められたノラ猫が、出ようとして暴れまくったのと、まったく同じ状態だ。
 とりあえずキッチンのいつもの席に座ってもらい、お茶を出し布団を整えて、もう1度寝かせた。午後にインタビューのお客さんが来る予定だったので、お昼過ぎに恐る恐る起こすと、父は「ワハハ!これオレがやったのか。こりゃ〜ボケたと言われても仕方ないや。キミを見た時、やっとここが家だと分かったんだ」と言う。お客さんにも盛んに部屋の"惨状"について笑いながら言い訳していたが、立て続けに起きているし、明らかにただの寝ボケの範疇を越えている。


A

 
2000年代半ば頃になると、いよいよ父の眼は悪くなってきた。テーブルを挟んで目の前にいる人も、男女の区別もつかない。「常に赤黒い夕闇に中にいるようだ」とも言っていた。さらに脚もかなり悪くなっていた。以前は家の近所1周300m程を休み休みでも歩けたのに、家の中をはって歩くだけになった。耳だって齢相応に悪くなる。さながら自分の肉体に閉じ込められているようだ。"老い"とは、かくも残酷なものかと思い知らされた。
 しかし相変わらず、精神の活動だけは活発だ。だが五感から入ってくる情報は限られている。TVなんかをつけたままうとうとしていると、半覚醒状態の中、耳から入ったわずかな情報をぶっ飛んだ方向に変換した脳が、とんでもない妄想を作り出す。「今テレビのニュースで、村上春樹がオレの悪口言ってやがった」なんて言う(村上先生ゴメンナサイ!)。
 盛岡市から「宮沢賢治賞」を受賞した時には、せっかくの宮沢賢治なんだから!と、父と2人車椅子で盛岡まで出向いた。しかし父の体調や、入院中の母のこともあり、盛岡滞在わずか3時間程の超弾丸ツアーだった。
 しかしそれからしばらくすると、またとんでもない妄想が仕上がっていた。「あいつらは皆共産党だ。共産党がオレに賞をやっとけば黙るだろうと仕組んだんだ」と、言い出した。「その証拠に会場のヤツらは皆シレ〜ッとしてた」と言う。違うってば!それは市主催の市役所の皆さんだから、緊張して声も掛けられなかったんだって(盛岡市の皆様申し訳ありません!)
 それをインタビューの時にも人に言うもんだから、親しい編集者や対談相手の方には、うまく編集してしといてください。などと頼んだりした。


B

 最晩年になると、攻撃性は無くなった。1日のほとんどが眠りがちになったが、思考はむしろ自由に"アチラ側"と行き来しているように思えた。本来の素の"魂"に還っていく感じだ。
 ボケるのは決して悪くない。不安なオジ様達だって、きっと青春に帰れますよ。
 安心してください。皆ボケるんです!

 (同封の月報18「ボケるんです!」ハルノ宵子、『吉本隆明全集17』晶文社)











 (備 考)

たぶん、多くの老年期の人々に普通に訪れてくると言われているボケが吉本さんにも訪れていたということだろう。しかし、吉本さんの場合特に最晩年は、糖尿病や目もよく見えずうまく歩けないなどがもたらす日々の世界イメージのきつさは「常に赤黒い夕闇に中にいるようだ」という内心の吐露に表れていて、とてもつらいものであったろうと思われる。もちろん、介護するハルノ宵子もまた、心身共にとてもきついものがあったろうと想像する。

@の二つ目のエピソードについては、吉本さんの弁明の文章があったと思う。夜中だけど、誰か来客が来たと思って通路を造らなくっちゃということでそういう仕儀となったというふうに吉本さんは語っていたと思う。外から見たら、単なる乱暴な仕儀に映るが、当事者の内心はまた別の所にあるのが一般だろうと思われる。このように当事者が語ってくれなければ、その内と外との溝はなかなか埋まらないだろう。

Aの「宮沢賢治賞」受賞の折の共産党云々の話は、吉本さんのインタビューの文章だったかで読んだことがある。受賞会のことでだったか、天沢 退二郎(だったか?)は人が良くて共産党に押し切られてもあんまり言えないからなあなど語られていたと記憶する、何があったのだろうとちょっと異様なイメージを持ったことを覚えている。

吉本さんの言葉と娘達の証言を総合すると、特に最晩年の吉本さんのインタビューなどには、読めばわかるように文章としての論旨はしっかりしている。ただし、吉本さんの思い込みや妄想じみたことも少し加味されているということになりそうである。


(註.1)
その「表現の"飛躍"」で思い出したのが、以下の文章である。わたしには、「表現の"飛躍"」があり過ぎてよくわからなかった。


 いまでも、ときどき外食して、うな丼やカツ丼、天丼などを食べることがあるが、あぁこの丼のごはんが、もっとおいしいものだったら、よりおいしさが増すのになぁと思うときがある。
 おそらく、具よりも米のほうが、上級にさせやすいのではないか。
 食材の良否の体験は、経済や政治の問題になるが、味覚の問題は文化と文明の民俗性、その固有さと普遍性の問題だと言えそうな気がする。
 古歌にも「駒とめて 袖うち拂う かげもなし 佐野のわたりの雪のゆふぐれ」と、あるではないか。

 (『開店休業』「甘味の自叙伝」P222−P223 プレジデント社 2013年4月)
 ※吉本さんの文章は、「dancyu」誌 2007年1月号から2011年2月号に連載。


 この「甘味の自叙伝」は、本書の末尾に近いから2010年頃に書かれたものであろうか。その文章の末尾である。自分の体験的なことの後に、締めくくりのように食材と味覚の一般的な考察を書き留めている。しかし、古歌の選択・接続がよくわからない。
 この定家の歌を調べていて定家の「後鳥羽院熊野御幸記」に出会ったのだったか、1201(建仁元)年10月、藤原定家は四十歳頃、二十二歳の後鳥羽院の熊野御幸に随行している。その随行記が定家の日記『明月記』に載っているという。それが「後鳥羽院熊野御幸記」と言われているもので、ネットで検索すると現代語訳のがある。おそらくその随行の体験が、新古今和歌集に載せられているこの定家の歌の背景としてあるのだろう。

 現代語訳
馬を止めて、袖の雪を払い落とすような物影もない、佐野の辺りの雪の夕暮れ時よ。

これは、本歌取りの歌で、本歌は万葉集の長忌寸奥麻呂の次の歌と言われている。
苦しくも降りくる雨か三輪が崎狭野の渡りに家もあらなくに

 ところで、吉本さんの歌への接続を理解しようとすれば、この列島のほとんどの地域で、冬には同じく雪が降るという「普遍性」があるが、その降り方は地域によってずいぶん違うようだ。この和歌山の佐野の地域には都の地域とはまた違った冬の雪の「固有さ」があるということになるだろうか。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
573 晩年の言葉 D (「性を語る―コイトゥス再考―」 インタビュー 『吉本隆明資料集179』 猫々堂 2018.10.15 

※ インタビュー 2011年7月5日 吉本邸にて 聞き手 辻陽介
※ これは近年偶然ネットで出会って読んだことがある。以下にある。
 「コイトゥス再考 #15 吉本隆明、性を語る。」  http://vobo.jp/takaaki_yoshimoto.html

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日本人にはエロスが薄いんじゃないか みんな何かにすり替わっている。 日本の家族制や血縁性の強固さ 家庭内における母子関係の強固さ
項目
1

@

吉本 先程、僕は自分の中にエロスが薄いということを言いましたが、そもそも僕は
日本人にはエロスが薄いんじゃないか、と思っています。民族性か種族性か、どう呼んでもいいんですけど、この種族がエロス的にどうなのかと言えば、全体として物凄く薄いんじゃないかと思います。日本人の中からサドとかバタイユのような、そういう作家を求めようとしても難しい。みんな何かにすり替わっている。エロスをエロスとしてそのまま、サドのような作品が書けるのか。書けば書けるのかもしれない。しかし文学だけで言いましても、数えるほどもそういう作家はいない気がします。

――それは宗教的なものも関係しているんでしょうか?サドもバタイユも、そのベースにキリスト教的な土壌があるという点において、日本とは環境が異なると思えるんですが。

吉本 本当にそう思いますか?僕はそこに疑いをもちます。日本においては何かがエロスに入れ替わってしまっている。エロスが全開にならぬところで、外らされてしまっている。特にそれが外に現れる時に非常に貧弱な気がします。自分の内面において自分自身と話をしていると、すごいエロティックな男のように自分では思えるんですが、それが表れとして外側には出てこない。そこには
日本の家族制や血縁性の強固さというものが、ヨーロッパなどに比べると非常に大きく作用していて、その問題じゃないのかなっていう気が僕はします。


A

――その点について、もう少し詳しくご説明頂けますか?

吉本 
関心が薄い、強いというのは表層的な部分です。つまりエロティックなものが外に向かって表象されないということなんです。同種族間の結合力の方にエロティックな問題が回収されてしまっている、血縁の男女間の繋がりが非常に強固であるのが妨げになって、エロスの問題が語られづらくなっているように思います。そこでエロスが何かにすり替えられてしまうんですね。しかし、これは一歩間違えれば近親相姦の領域に入ってゆきかねない。

―日本の
家庭内における母子関係の強固さについては以前からご指摘されてらっしゃいましたね。

吉本 そこが一番大きいんじゃないかなと思ってます。皆さんが東北の人だったらちょっと困ってしまいますけど、僕は東北の人達と五年程前から付き合いをもっているんですが、東北地方の一部の地域においては、この同族意識、家族意識が、他の地域と比べても強固に社会化されていて、エロスの問題が明確にそこに回収されてしまっている気がするんです。僕はその問題に5年間悩まされています。
(註.1)

―と、言いますと?

吉本 最初にも言いましたが、
エロスというのは家庭的要素と社会的要素に大別されるもので、これは同視できるものではないんですが、それが混合されている節があるんですね。性的な男女関係というのは元々は異族の男女が、親愛感をもつことに始まり、一緒に同居して暮らし、家を作り、その家が拡大すると親戚の集団となっていくというものです。一方、社会集団、政治集団、趣味の集団など、親族の集団の外にはたくさんの集団がありますが、これらは飽くまでも社会的なものであって、家族集団や親族集団とは全く違う。
 つまり、血縁の男女間の問題と、結婚して所帯を持っていい男女間の混合がある気がするんです。それが一緒くたにされてしまうのは間違いなんです。なぜ間違いかと言えば、それを累代重ねていきますと、精神的な障害者、肉体的な障害者が生まれやすくなってしまう。そのおおよそのところは医学的に明らかになっている。同族男女の結合は禁制とまでは言いませんが、一応は遠慮すべき事柄なんです。

―日本的な家族関係の強固さが、過度に内向したエロスを生ぜしめかねないということでしょうか?

吉本 近親関係、家族関係の結合の仕方の中でエロスが過剰に内密的に扱われてしまっている。さらに、それを余り問題にしてはいけないという気風がある。これは日本全体においても言えることです。例えばある学校で、学校の先生が生徒も交えたところにいる場面で、話題がエロスになったとします。僕がエロスと家族制度について話をしていたりすると、学校の先生は、「そういうことを余りしゃべらないでください」と手の信号で合図してくるんですね。おおっぴらに語ることが許されない。家族制度の強固さに性の問題が食われてしまっているんです。
 異なる血縁集団に属する他者との性的結合が、外へ外へと拡大してゆく運動なのに対し、近親相姦は、内へ内へと向かう運動であり、これは社会を縮小させてしまいます。家族集団と社会集団の相互侵犯の関係というのは、これまでは悩まなくていい問題だったんですが、現在は物凄く大きな負担として僕にのしかかっています。


B

―近年、親族間における殺人事件などの増加が取沙汰されていますが、それは同じ問題の別の表れであるようにも思えます。

吉本 そう考えることもできるんじゃないかと思います。非常に閉じられたところで血縁同士がエロス的に結合してゆくというのは混淆も甚だしい。お前達は変態じゃないか、と言いたくなる時があります。

―この状況を変えるために、吉本さんに何かお考えはありますか?

吉本 日本人という人種にとって一つ抜け道があるとすれば、
血縁の結合感を少し緩くしたほうがいいぜ、ということですね。
 (「性を語る―コイトゥス再考―」P84−P87『吉本隆明資料集179』猫々堂 )
 ※@、A、Bは、連続する文章です。










 (備 考)

幾多の岩壁を削り、掘り、崩してきた吉本さんの論理の言葉の晩年は、性・エロス・家族・制度をこのようなレベルと姿で捉え描写するようになっている。このエロスがうすい、何かにすり替わっている、ということは、わたしは初めて耳にしたように思う。


(註.1)
このことに関しては、不明。


このインタビューからの引用箇所以外にあるが、以下のことは、どこか忘れたが別の文章(インタビュー )で一度出会ったことがあるように記憶している。比較のために記しておく。ここでは「京都の遊郭」「招待してくれた知人の方」「性が関与したような言葉を浴びせられた」とあるけれど、「京都の料亭」「梅原猛」「性と言う言葉はなかった」ように記憶している。

―なるほど。ところで、そういった「遊び」の中で、何か特別に記憶に残っている思い出などはありますか?

吉本 僕は自分より身分が上の知り合いの方に連れられ、何度か東京ではない土地の遊郭へ行ったことがあるのですが、非常に悔しい思いをしたことがあります。というのは、これは京都の遊郭に招待して頂いた時の話なんですが、招待してくれた知人の方は、遊郭の席においても堂々とされており、女性の方も非常に丁重に振る舞っているんですが、招待された僕がなぜか女性にむちゃくちゃに苛められたんです。遊郭に行った経験はありますか?

―いえ、ないです(笑)

吉本 では一度行ってご覧なさい。僕は京都の遊郭で、ほとんど聞くに耐えないような悪口雑言、しかも性が関与したような言葉を浴びせられたわけです。びっくりしましたよ。その嫌味たらしさ、言い方といい、もし紹介してくださった人がその場にいなかったら、ただじゃおかねぇぞって、横っ面引っぱたいてやりたくなるような思いでしたね。招待した主人も「お前、出過ぎだ、そういうことを言うな」とでも言ってくれればいいんだけど、言わない。お腹の中で怒りが爆発しそうになる。多分そうさせるのが目的だとは思うんだけど「ひでぇもんじゃねぇか」と。それを我慢して、後は酒を飲んでも上手くないし、口聞きもしねぇやっていうような体験はありました。

―それは解せない話ですね。なぜむこうはそんな態度を取ったんです?

吉本 僕にもよくは分かりませんが、僕の態度にも問題があるのかもしれません。しかし、「お前の態度は癪に触る」と客に対して感じても、本来ならば言うべきではないんです。しかし、そういうものもある種の儀式化をしていくと(引用者註.ここの「していくと」は、ネットのインタビューの文では、「してくると」となっている)、ああいう態度も生じるんだろうなぁと。それが僕のざっとした解釈です。そうじゃないかもしれません(笑)
 (「性を語る―コイトゥス再考―」P82−P83『吉本隆明資料集179』猫々堂 )





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
579 敗戦後 「第三章 老いと「いま」」 インタビュー 『生涯現役』 洋泉社 2006.11.20

聞き手 今野哲男

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ぼくらも本当なら戦争が終わったら死ぬと思っていましたよ。 ぼくが死ぬのをやめた理由の一つ
項目
1

@

 
ぼくらも本当なら戦争が終わったら死ぬと思っていましたよ。ぼくは別に戦争やれっていったわけではないし、降伏しろといったわけでもありません。指導者たちが勝手に戦争をはじめて、勝手にやめたから、つんのめったって話です。だから、急に変われったってそんなことできるもんか、何か反乱でもあったら、参加して死のうと思っていました。でもそれはなくて、兆候こそいくらかありましたけど、民衆を誘いあわせてというふうには大きくならなくて、だから嫌々ながらも生きてきたみたいなところがあります。途中で一度転入しましたけどね。(引用者註・付された註によれば「七二年が一つの転機だと気づいたこと」による姿勢と方向性)
 
ぼくが死ぬのをやめた理由の一つには、すっかり鬼畜米英だと思い込んでいたアメリカの進駐軍が、きてみると驚くくらいに寛容で、開放的な雰囲気をもっていたことも関係しています。俺たちはここまで寛大にはなれねえぞ、こりゃやり直しだ、死ぬのはやめて生きることを考えようと思ったことは一つあります。これには異論が多くて、後にGHQ支配下の検閲問題を調べることになった江藤淳さんなんかから、吉本が単純にそう思ったのは東京にのほほんといたからだ。ほかのところではそうはいかない。占領軍の問題だってここまでやれねえぞって、ずいぶん批判されましたけどね。その代わりというわけじゃないですけど、ぼくには日本国ってどういう国なのか、外から他国の説で見ているだけでは察しがつかないし、それなら自分で見極めてやろうと思って、ずっとここまでやってきたつもりがありますけどね。まあ、いまでもやっているつもりでおりますけど。
 江藤さんは、だんだん硬化するばかりでしたね。彼が考えた日本のイメージは英国流の立憲君主制国家でしょう。ぼくはそう思っていない。その辺の違いは、はじめからあったわけですけど。

 (『生涯現役』P160-P161 洋泉社 2006年11月 )












 (備 考)

長らくこの列島の気風の中を生きてきて、わたしでもなんとなくわかりそうな気がするが、「ぼくらも本当なら戦争が終わったら死ぬと思っていましたよ」という言葉には、この列島の太古からの精神の遺伝子のようなものが関係していないだろうか。すなわち、隣の集落でも大きな外敵でもいいけど、制圧されたら「捕虜」とか考えられなくて死しかないというような。逆に言えば、制圧した外敵には「捕虜」待遇とか無視してとても残虐に扱い得るという風に。

「死ぬのをやめた理由」としてアメリカの進駐軍の振る舞いが挙げてあるのは、ここで初めて出会った気がする。


江藤淳の思想の変位や展開をきちんとたどったことはないが、吉本さんが自分の『言語にとって美とはなにか』に関連して同じような表現論の試みとして評価していた、江藤淳の若い頃の『作家は行動する』を読んだことがある。その場所から、おそらくアメリカからの帰国後に大きく変貌した江藤淳の批評を見るとえらい違いだなと驚いたことがある。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
581 晩年の言葉 E 「第二章 老いのことば」 インタビュー 『生涯現役』 洋泉社 2006.11.20 

聞き手 今野哲男

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田舎に帰ると、途端に田舎のことばづかいに戻る 百年かそこらじゃなかなか抜けない地域性といいますか、個別の事情が誰にだってある 普遍化したことばというもの
項目
1

@

 自分は田舎に帰ると、途端に田舎のことばづかいに戻る、どうもいつもとは少し違う自分を生きている感じがあって、でもそれは別に悪い感覚ではないとある人からいわれたことがあります。少なくとも、都会にいるときの「わたし」の明瞭さはぼやけてしまう感じがあるのだそうで、自己主張していてもどこかで根っこが違うという感じがある。何か、少し照れ臭いんだというわけです。
 そういう自己主張の緩さ、曖昧さみたいなものですね。あっちとこっちが混じって、どっちか一方だけでは照れ臭いといいますか、まあそういう感覚がまじっていること自体、ぼくは老いを考える上でも大切なことじゃないかと思いますね。別に何歳以上の人を年寄りと呼ぶという規定をしたって一向に構わないし、ご老人の問題にはそういう一般性があると思いますから、そのことを個人にあてはめた場合に、人によって多少違ってきても全然構いやしないと思うんですけど
、ただ、その人がお前何をやって生きてきたんだということになると、職業、風俗、習慣、地域性と、ずいぶん違ってきちゃいますからね。そのなかで引き出せる普遍性もまたあるのでしょうけど、そうはいっても百年かそこらじゃなかなか抜けない地域性といいますか、個別の事情が誰にだってあるわけですから。どこか一国の地域ことばだけが普遍化するということがあり得ないのと同じようにね。だからエスペラントでもだめ、種族というのも長い間かけないとできないし、民族なんてことになるとほとんど定義さえできない。
 (『生涯現役』P95−P96 洋泉社 2006年11月 )


A

 
普遍化したことばというものがもしあり得るとすれば、それは人間が完全にサイボーグになったときなんじゃないですか。つまり、ことばが地域性と身体性から離れるときですね。ぼくはよく読んでいませんけど、ことばの問題まではいってないと思うけど、最近のマンガなんかにはそういう設定のものがよくあるそうですね。
 まだ途中までしか考えていないのではっきりいうことはできませんが、ぼくがその辺のことで何かの兆候かなと思ってるのは、最近の濁音や句点の使い方です。「モーニング娘。」みたいなね。これは相当大きな問題を孕んでいるような気がします。そのうち、ぼくなりに解明しないといけないなと思っているんです。

 (『同上』P97 )












 (備 考)

晩年の吉本さんの言葉は、自身の老年の具体性を含めて、わたしたちの生活感覚にある微妙な問題に触れ論じているように思える。もちろん、そこには今までの歩いてきた論理の積み重ねとの突き合わせがある。


Aについて、吉本さんは、流行語の特徴で、そのイントネーションについてだったか、これに類することを昔言っていたことがあるのを思いだした。ここに言われていることはわたしにはわからない。しかし、興味深いので挙げてみた。

Aの「モーニング娘。」の部分は、何だろうと興味深く思えてそこまで引用してみた。この「。」は、糸井重里や「ほぼ日刊イトイ新聞」で出会ったことがあって、これは何なのと思った覚えがある。ちなみに、本日(2019年3月22日)の「ほぼ日刊イトイ新聞」の表ページには、次のような「。」があった。

「やさしい道具。伊藤まさこ」「きのこの話。」「はるのはな、かすてら。」「春のタンピコ。2019」「世界をつくってくれたもの。祖父江慎さんの巻」「教えて木原さん!今日はじめる備え。」「うちの土鍋の宇宙。土鍋とカレー皿。」「今日もフグは。」「なぜ学ぶのか、何を学ぶのか。」「みんなが持ってるブイヨンの写真。」「【BOOK】ブイヨンの日々。」「【BOOK】ブイヨンの気持ち。」「モスに、カレーをかけてみよう。」「お昼は、やきそば。飯島奈美さんレシピ」があった。これらはいずれも、記事の題名になっている。

「モーニング娘。」の「。」について、ウィキペディア「モーニング娘。」の中に、「モーニング娘。」の「。」として書いてある。ずいぶん偶然性も加わってそうなったようだ。

「。」についてのわたしの即興的な考察。
「きのこの話」と「きのこの話。」は何が違うのだろう。前者は、話題のテーマ、見出しの表示であり、静的なものである。一方、後者は文の終わりに打つ「。」が打ってあるということは、表現する意識としては文章として見なしている。つまり、(さあさあ、いまからきのこの話が始まりますよ、どうぞ読んでください)というような動的な表現意識を込めているということになるだろうか。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
588 微妙なこと @ 「柳田国男から日本、普天間問題まで
―戦後第四期の現在をめぐって―」
インタビュー 『吉本隆明資料集177』 猫々堂 2018.7.25

インタビュー 2010年6月21日 聞き手 橘川俊忠
『神奈川大学評論』 第66号 2010年7月30日刊

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まだ、その論理を、名残を引いている 自分が自分にいう、人にはわからないけど自分が自分にいうところでしか問題にしないでやってきた 何かが足りない その埋めるべき隙間というのがよく自分で把握できてない
項目
1

@

吉本 
三島由紀夫さんほど勇敢な思想をぼくは持ってなかったし、これははじめから持ってなかったから、それもあるでしょうけど、村上さんなんかから見れば意気地がない。あいつは意気地がないという生き方を、ぼくは典型的にやってきたように思っています。生きることばっかり、生きることが問題なんだという考え方に自分を寄せて、それで生きてきたというふうに思います。ほんとうのところをいいますと、そこのところが一番の、太平洋戦争とそれから敗北、平和宣言を認めないのに認めるところまで行ったのかという問題の核心に思います。
 それで、いいところはどこもないじゃないかお前の考えにはというふうにいわれると、そのとおりだというふうに、右からも左からもそういわれましたけれども、おっしゃるとおりで間違いありませんというふうにいうより他に何もないという、そういう状態でした。ぼくらは戦後数年間は黙って勉強しようという、それ以外にないように自分でも思います。生涯のうちで一番本気で勉強したというのはやっぱり敗戦後の一、二年間というか、そこら辺の間が一番勉強したように思います。
 どういったらいいんでしょう。自分らが戦争を、日米戦争といって、太平洋戦争といってもいいんですけど、それをやったということ自体に対して、お前はちっとも反省してないじゃないかというふうにいわれても、基本的なところは反省してない。自分なりの論理というのは持って、それはこうしてきていると。反省というのはそう簡単にできるものではなくて、また簡単に変わるものでもないという、そこのところが面倒なところだというふうに今でも思っています。
まだ、その論理を、名残を引いているという感じがします。
 (「柳田国男から日本、普天間問題まで―戦後第四期の現在をめぐって―」P93−P94『吉本隆明資料集177』猫々堂 )


A

吉本 
難しいというのは自分でもわかっていて、いろんなところを全部自分が納得するように修正しちゃって、それで、自分なりに自分が生きていく道というのを細々と見つけ出したように思った。そこを歩いているということはいえるけど、これが信義であるとか、これは正しい考え方なんだという要因も、それからそういう自己主張も、それは一切可能でないというふうに思っているから、そのことについては、自分が自分にいう、人にはわからないけど自分が自分にいうところでしか問題にしないでやってきたというふうに思えるんですね。
 だから戦争についてでも平和についてでも自己主張をしている、あるいは主張する集団的なものがあるとか、そういうことはぼくなんかにははじめからない。
 (『同上』P97)


B

吉本 ぼくは、喧嘩ばっかり若いときからしてきましたけれども、先輩たちから、お前そう自己主張して人を悪者扱いにするのはよくないと言われてきましたけれども、このごろは、現在の自分というような、そういうところでは非常にうまく、わりにごまかしなしに抑制ができていると思うんです。
 
結局、ぼくは自分の考え方は人に対していう言葉はあまりないのですが、ぼくが自分に対してだと、何か尾を引いているものがあるんですよ。その尾を引いているものというのは、一つは時代。意識と状況というものの変化があったときには、それは出てくる余地があるんじゃないかと自分では思っているんですけど、いまはそういうものが出てくる余地が自分にはない。だから何も対他的な意味で何か主張することとか、問題にするとかいうのはちょっとぼくには今のところ、何かが足りないと思っています。何か足りないものがあってどうしてもそれが出てこないんだと。
 足りないものというのは、つまり単独でこういう問題についてこう考えるのはどうかとか、違う考え方は、それはどうなのかということとはあまり関係なくて、どういったらいいんでしょう。糸を引いてているというか、そういうような感じで自分の中にある。だけどいうことはできないという、それだけのつかまえ方というのは全然できないし、できてないなということも含めて、そこまで自分がいってないなという感じで終わっちゃうんです。それ以上のことになるとちょっと、自分が自分で何か納得できるような回答とか、納得できるような意味とかをつけられる問題はないというのが、ぼくなんかの現状判断だとそうなってしまうんですね。
 
いつかこれは表に出すことができるみたいなふうになりたいと思うし、ちょっと間に何かが入らないとこれはちゃんとした言葉にならないという、その何かが入らないと、というのがいまぼくなんかの考えている一番の要点だといえばそうなるような気がするんです。この間に、現実のような物でもない、それから思考でもない、考え方といいますか、それでもないし、それから妄想、空想も含めて、自分の想像力の度合いとかの見方というのか、それでもない何かがこの間にあるべきなのに、それが自分にないんだという、自分にはっきりした形で出てこない。その問題は自分の俎上に完全に自分なりに乗せるということがいつかできるはずだというふうな可能性をいうならば、ぼくはその可能性は失っていないというふうに思っています。それはあくまでも可能性であって、今お前どうなんだというふうにいわれたら、何もいうことはない、出てこないんだよという、出てこさせないということよりも、出てこないというほうが正しい。なぜかわからないけど隙間があって、その隙間が埋まるというところへ行けばいいんだろうけど、その埋めるべき隙間というのがよく自分で把握できてない、そういう問題のように思うんですけどね。
 (『同上』P98−P99)










 (備 考)

ここでも触れられているが、吉本さんは三島由紀夫について対談やインタビューなどの端々でよく触れすぎるのではないかという印象を持ったことがある。吉本さんは、1924(大正13)年生まれ。三島由紀夫は、1925年(大正14年)生まれで、同じ世代ということがあるのかもしれない。同じ世代としての振る舞い方の違いが自らを照らす鏡となっていたのかもしれない。


吉本さん自身も自分の現在がよく見えてこない、よくわからないと語っているが、わたしの場合は、まず吉本さんのいる状況とそこでの吉本さんの言葉や思想の有り様について、二重にわたしはよくわからない。したがって、そのままそれらの言葉をここに記す。ただ、たぶん現実に突き刺さると感じられていた60年代の言葉や思想の状況と、現在のとらえどころのなさを持ったまだまだ不明な状況との落差や変貌が背景にあるように感じられる。晩年の吉本さんが、若い世代の詩について、「『無』に塗りつぶされた詩」(『日本語のゆくえ』2008年1月)と捉えたことともこの問題は連動しているように思われる。


ここでの吉本さんの言葉と関わりありそうな言葉が『日本語のゆくえ』のなかにあった。

 じゃあ、おまえはどうなんだといわれると、いざというとき自分は何をしたらいいか、その「何」がわからないわけです。何かをするわけだろうなとは思いますけれども、何をするかがわからない。何の役にも立たないし、得にもならないような文学をやっていると、コミュニケーションではなく非コミュニケーションのほうにますます入り込んでしまいますから、そういうとき何をしたらいいんだということが依然としてわからないわけで、そこはぼくが自分の課題としているところです。
 この課題は、ぼくらよりもっと若い世代になるともっと極端になってきていて、ぼくも時々、この人たちはいったいどうするんだろうかということを考えます。彼らはどうするのか考えることは、自分がどうするだろうかと考えるのと同じことだからです。何かのときに自分はどうするんだというと、いまの延長線でいうなら、オレは引っ込んでいて詩や文章を書いて、もっぱら文学的なところに入り込んでいくのかなと思ったりもします。
 昔でいえば、ふだんは農業をしていて、いざ鎌倉というときは武器をもって駆けつけたと考えると、いまの若者やぼく自身、どうしたらいいのかわからないけれど、やっぱり何かをするだろうとは思います。
 何か外界の変化があった場合は自分も内界の変化を受けるわけですから、何かせざるをえないわけです。そうすることがますます無用のことになるかどうかはわかりませんが、何かするほかないということだけはわかっています。このあたりが考えどころではないでしょうか。
(『日本語のゆくえ』 P141−P142)





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
589 微妙なこと A 「柳田国男から日本、普天間問題まで―
戦後第四期の現在をめぐって―」
インタビュー 『吉本隆明資料集177』 猫々堂 2018.7.25

関連項目588 「微妙なこと @」
インタビュー 2010年6月21日 聞き手 橘川俊忠
『神奈川大学評論』 第66号 2010年7月30日刊

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いまの現実状況 戦後の第四期の課題 ほんとうはもう一つ何かあるということが少し見えるような感じがしてきた。 何としてもこれははっきりさせないと、次の世界に残すものが何もない


1

@

橘川 ・・・いまのお話を聞くと、もうこの本(引用者註.『共同幻想論』のこと)を起源論として読むんだったら、起源論として自分なりに読んで、自分なりに自分の体系をつくりなさいと。歴史的な時間のなかで読むんだったら、そういうものとして読んで、そして自分で自分が対象とする歴史に向き合いなさいと。
そういうような読み方をすればいいのかなというのがいまのお話を伺って感じたことなんですけれども、そんなような読み方ということでよろしいんでしょうか。

吉本 ぼくはそれで十分だというか、ものを考える考えどころの一番肝心なところを外さないで考えを進めていくという場合にはそれ以外の方法というのは、
いまの現実状況のなかではちょっと考えられないんじゃないかかなというように思います。
 いまみたいなときには特に、共通の考えの部分は共通の考えでいって、それで自分の判断というのはまた違う時限(ママ・次元)にあってという、そういう分け方というのは今は不可能なように思うんです。どういうふうに管理しようと、どういうふうに考えようと、本音で考える限りは自分が納得する、他人が納得するかどうかということは二の次、三の次の問題だと。あるいは他人がいうのを、他の生き方をしている存在が、集団がといってもいいし、そういう部分集団がといってもいいんだけど、それがある共通の理念のところで肝心な同一性というのが得られるというふうに問題を考えていったら、それはちょっと、いまは成り立ちようがないんじゃないですかというふうにぼくは思いますけれどもね。
 何か普遍的なことで当面を知ることは、日本にも、あるいはアジアでもいいしヨーロッパでもいいんだけど、そういうところには満ち満ちているわけだけど、その満ち満ちているのを一つ一つこういうふうに把握していこうみたいな考えをすると、それはちょっと成り立たないでしょうという気がするんですね。
やっぱり自分の考えから始めて、それを掘り進めていくというやり方を誰かしない限り、あるいは自分がしない限り誰もしてくれない。みんな自分がするよりない。機械や装置は、速さというか、状況に対する速い反応はしてくれますし、人間以上にしてくれるところがありますけど、それはちょっと捨てたほうがいいですよと。極端なことをいいますと、それが発展していって何かできるというような、そういうことはあり得ないから、それは捨てちゃったほうがいい。自分が自分に対して問いを仕掛けて、それで答えると、答は誰にも聞こえないしだれにも影響させることはできるわけではない。だけど、そういうふうな生き方をとる他にだめなんじゃないですか。ぼくなんかはそれ以外にはちょっと、いま方法がないんじゃないかという感じをむしろ持っています。
 (「柳田国男から日本、普天間問題まで―戦後第四期の現在をめぐって―」P101−P103『吉本隆明資料集177』猫々堂 )


A

吉本 そこのところは、もう少し考え方がはっきりすることができるのではないかと、自分ではそう思っていますけど、他人にそれを告げられるほどはっきりできるかということですけれども、でもそこだけの自分の存在と、存在理由とつながってくる。そこが少し、実は自分の気になっているところで、だからそこをやればいいんではないか、そこを掘ればいいんじゃないか。そうすればいいんだよ、それだけだよという、それで開けてくるものというのは、ぼくは自分なりに勝手に、いまはそれが
戦後の第四期の課題なんだろうと思っています。
 (『同上』P103)


B

吉本 
第四期というのはいまちょうど始まりであって、それが何かというのはわからないんですけど、どうも第四番目の時期という、戦後の四番目の時期の始めどき、始まりだよという感じがあって、それがはっきりしていれば、はっきりできるところまで行けばいいんですが、今の自分はただ捨てるべきものは捨ててしまえというか、そこはほんとうは要らないのでよけいなことなんだよという、そういうところは捨ててしまえばいいという、何かそういうところが少し形ができてきた気がする。はっきりしてきたといいたいところなんですけど、それはちょっとまだ当てにならないんです。ほんとうはもう一つ何かあるということが少し見えるような感じがしてきた。何としてもこれははっきりさせないと、次の世界に残すものが何もない。ただ失敗と敗北だけはたくさん、いくらでもあるんだけど残すものは何もないじゃないか。それでもいいということもお前納得するかといったら、そこだけはちょっと納得できない。そういう形のものは少しだけ自分に、あることにさえ気がつかなかったそういうものが何となく自分のなかに出てきたという、そのくらいのところで何か自分のつなぎ場所というか、つながり場所というふうに考えて納得している。前ほど迷いはなくなった。納得していることを納得し続けることも納得しているという、そういう納得だけはわりあいにはっきりしてきている。そしてそれ以上はっきりするには何かが必要だというか、それは誰かではなく、自分に何が必要なんだという、そこら辺のところは相当はっきりしてきたとか、誰かがそれをやるに違いない、やってくれるに違いないと。そういう望みも少し出てきたぞという、そういう感じがわりあいに最近というか、自分で勝手に名づけた第四期、その第四期の特徴はそれなんだなということを漠然と、何となく納得している、そこだけなんですね。皆さんにそこのところが少しでも言葉にできるというところまでいってくだされば、もうどんなにか助かるかわからないと思うし、自分が、それができたらどんなにいいかと思うんですけど、これは自分のことだからよくわかりません。
 自分がどうであるか、そんなことはどうでもいいんだけど、少しでもいいからそこの扉を開けるところを、誰かそれを見せてくれるということができたらもうこれ以上のことはないという気がするんですけれどね。それはだれでもいいからその扉を開ける口を少しでも捜してくれる兆候が出てきたら万々歳だというふうに、ぼくなんかはもうそこら辺まで、諦めというか、そういうことがわりあいにできるようになったという気がするんですけどね。誰でもいいからそれを打ち出してみてくれというふうに思っていますけど、なかなか難しいらしくて、世間に公表されることというのはそんな気のきいたことじゃないんですよね。あるいは気のきいてないことではないんですけど、気のきいたことばっかり出てくるけど、ちっとも役には立たない。そこを何とかしてもらいたいという気分がぼくの感じ方ですね。

 (『同上』P104−P105)










 (備 考)

吉本さんが現在までに掘り進めてきた通路の先の現在で、錯綜として未来の姿も想像させない現在の姿と対応するように、吉本さんの現在もその尖端で錯綜としていて、実感の通路を便りにあてどなくさ迷っているというイメージが伝わってくる。わたしには、さらによくわからないとしか言いようがないが、おそらく未来性をはらむ〈現在〉の未来の姿に通じる通路にどうしたら立ち会えるかと言われているような気がする。


吉本さんの若い頃の書かれた論考は、スパッとしていて論理性が透徹していたような印象があるが、対談やインタビューなどによってそうした中にも微妙な揺れや留保などがあるということが読者にも解るようになった。このインタビューは、特に吉本さんの自己問答をくり返しながら考えを巡らせる微妙さを感じさせる。そういう状況でも、「戦後の第四期の課題」として新たに杭を打ち自らの中のあいまいなイメージを鮮明化して行こうという意志が伝わってくる。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日 
599 ハイ・イメージ論@ ― モチーフ 「イメージ論」 講演 『吉本隆明の183講演』 ほぼ日刊イトイ新聞  

 A092「イメージ論」の「講演のテキスト」より 『吉本隆明の183講演』所収
 講演日:1986年5月29日

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芸術の表現の中のひとつとして文学の表現 イメージの表現として文学を考える 究極イメージというものを一種の念頭において、そこを基盤にして、イメージの理論として文学も一緒にはめ込んだまま全般的に芸術の分野を扱えないか
項目
1

@

「ハイ・イメージ論」でやりたかったこと
(引用者註.これは講演のテキストにある小見出しです)

 吉本です。今日はここ1年か1年半ばかり自分がやってきたことがどういうものであるか、どういうふうにはじまってどういうことがやりたかったかということをお話ししてみたいと思います。それは僕の書いたものでは、まだ終わってはいないんですが、ハイ・イメージ論ということでやってきた問題です。
 ハイ・イメージ論でやってきた問題は、自分としてはどういうモチーフがあってやったかといいますと、ひとつは前に僕は文学の理論的な考察として『言語にとって美とは何か』という仕事をしたんですが、それは文学というものを言葉の芸術として扱った場合に、どういう問題が出てきて、どういうことが言えるかをやったわけです。そういうことをやってきた後で結局何が変化してきているかというか、変化してきているものは何かと考えてみると、ひとつは言葉というものが基本にあって、あらゆる芸術の分野の表現が行われているという考え方を取ると、言葉は人間に付随したものだから理論的な考察ができると考えてきたんですが、
少しその考え方を変えて、文学を言葉の芸術と扱わないようにして、文学も音楽も絵画も、その他デザインでも何でも、映像から画像に至るさまざまな分野の芸術の表現の中のひとつとして文学の表現を扱うという扱い方をしたらどういう扱い方になるだろうかということが、どうしてもやってみたかったわけです。
 われわれの年代と現在は多少年代的な相違があって、
いまの若い人は文学を基盤に考えるというよりも、文学も絵画とか映画とかその他のさまざまな分野の芸術表現の中のひとつと考えるほうが非常に考えやすいし、そういう考え方をしているような気がするんです。文学も絵画とか映画という映像の分野と同一の次元、同一の考え方で扱える扱い方がどうやったらできるだろうかというモチーフがあります。
 
そうすると一種のイメージとして、言語の芸術あるいは言語の表現として文学を考えるのではなくて、イメージの表現として文学を考えるという考え方がもしできるならば、文学もほかの映像諸分野も画像の諸分野も同じ論理構成というか、同じ考え方で相対的に扱うことができるんじゃないかというモチーフがあって、それを何とかやってみようということがひとつあったわけです。
 もうひとつは、イメージの分野で一種の究極イメージが技術的につくれるようになったというのが、僕の頭の中に非常に引っかかってきたことです。
究極イメージというものを一種の念頭において、そこを基盤にして、イメージの理論として文学も一緒にはめ込んだまま全般的に芸術の分野を扱えないかどうかということが、僕の非常に大きなモチーフでした。まだ終わってはいないんですが、ここ1年か1年半の間、そういうことを展開しようとしてやってきたわけです。それではどうやったら発端から全般的にイメージとしての文学、あるいはイメージとしての芸術諸分野を扱えるかということですが、その発端のところからお話ししますと、ひとつはいま言った究極イメージというものがあります。
 (A092「イメージ論」の「講演のテキスト」より 『吉本隆明の183講演』所収)
 講演日:1986年5月29日













 (備 考)

初めは、この講演の「イメージ論」から項目を立てるつもりだったが、そう言えば『心的現象論序説』にイメージ論の項目があったようなということから、まずその「心像論」をたどってみた。

その最終章に「心像論」を収めた『心的現象論序説』は、その巻末の解題によると、1965年10月〜1969年8月まで『試行』に連続掲載されたもので、「心的現象論」の総論の部分に当たるという。この講演は、それから約17年後のものである。


ここで、文学を言葉の芸術として考えるのではなく、イメージとして芸術表現のひとつとして位置づけ考察していくという姿勢は、以前、『言葉という思想』等で詩に関して語られた、短歌・俳句・自由詩を同一の視座で統一的に捉えることはできないかということと共通しているが、自然科学(物理学)の統一場理論を彷彿とさせる。これはまた、諸芸術へ分岐し、さらにその個々の中でも途方もなく細分化してきた現在を、起源に向けた起源の現在的な反復だと言えよう。


ここで取り上げられる「ハイ・イメージ」は、『心的現象論序説』の「心像論」で考察された現代的な「心像」(イメージ)と別ものではない。「心像」(イメージ)は、個の内に生起するものである。しかし、「心像論」で明らかにされているように心像の意識は時代的なものである。つまり、現代と太古とでは違っている。この「ハイ・イメージ」は、現代的な共通の高度なイメージ(共同幻想)として、わたしたちの心像の生起や構成を媒介したり駆動したりするようなものとしてある。わたしたちの個々に思い描く心像(イメージ)は、現在というものがもつイメージの共同性(共同幻想)と無縁ではないし、それから逃れ去ることはできないが、固有の位相にあるものである。


ここで、項目「イメージ論 」@〜Eから考察された心像(イメージ)という概念の輪郭を再確認しておきたい。それらは、現代的な個の内に表出・構成される心像(イメージ)とは何かを考察したものだった。その要点をいくつか取り出してみる。


・〈心像〉は想像するひとがそれを欲し思念しなければやってこないという点である。(「イメージ論 @」)

・おそらく〈心像〉の領域は、形像が支配するすべての領域と、概念的な把握が支配するすべての領域にまたがっており、一般的には不鮮明な形像と一挙に把握をゆるす綜合的な概念把握との二重性となってあらわれるのである。(「イメージ論 @」)

・ここであきらかにできるのは、〈心像〉が、なんらかの意味で既知の対象についてだけあらわれることである。(「イメージ論 @」)

・いいかえれば〈心像〉の意識は、〈眼のまえ〉に存在しない対象を、眼のまえに存在するかのように思念するという眼のまえ的な矛盾の領域を固執する意識である、ということができる。眼のまえに存在する対象を、眼のまえ的に再生しようとする意識にとっては、視覚像があらわれるのだが、眼のまえに存在しない対象を、眼のまえ的に再生しようとする意識にとって、〈心像〉は形像的な要素を視覚像とはちがったように現前させるほかはない。だからもし〈心像〉の意識が、〈眼のまえ〉的な再現ということを固執しないならば、そのような意識にとって〈心像〉はあたうかぎり形像をともなわずに現前することはまちがいない。(「イメージ論 A」)

・〈心像〉の矛盾は、本来的には思念の志向性に由来している。〈心像〉においては、目のまえという志向を固執するところから、心像における形像のもんだいが発生する。わたしたちはなぜ〈目のまえ〉に存在しない対象を〈目のまえ〉によびだそうとする志向性をもっているのか、現在までのところ知ることができない。ただこの志向性はプリミティヴな心性に由来するかもしれないと判定することはできる。
 〈心像〉において、いいかえれば感性的な往古に、形像の輪郭はいつも不鮮明なままで暗闇に溶けてしまう。わたしたちはこの暗闇を〈無〉とかんがえがちであるが、ほんとうはこの暗闇は〈概念〉が構成する背景であり、この〈場〉には対象についてのあらゆる概念的な構成がはめこまれている。だから〈心像〉は、形像としては不鮮明であるにもかかわらず、対象にたいする一挙の綜合的な把握だけは、まちがいなくなされていると確信させる。(「イメージ論 A」)

・もし、わたしたちが〈心像〉の意識のように、非感性的な世界の対象を、感性的な世界の領域にひき込もうとする衝動をもつとすれば、この衝動の奥には、非感性的な世界にたいする不安が存在している。比喩的にいえば、眼のまえで確かめられないものは信じられないというように〈心像〉の意識はたえずつぶやいているのだ。(「イメージ論 B」)

・この〈心像〉の意識の挙動の仕方に対応するものを、生活過程のなかにもとめるとすれば、物的に、また心的に、多重関係のなかにいる人間と対象世界との〈関係づけ〉を、たえず一重の直接的な〈関係づけ〉のように見做さざるをえない人間の現実的な存在の仕方にある。間接的な多重関係によってつながっている対象は、直接的な一重の関係でつながっている感性的な世界にひきよせられるとき、不可避的に一部分形像の形となってあらわれざるをえない。この形像は、知覚像や知覚の記憶に由来するのではなく、多重関係を意図的に(意志的に)直接的な一重関係にとびうつらせるときに生ずる関係意識の矛盾にもとづいている。(「イメージ論 B」)

・人間が対象の世界と関係づけられるとき、まず空間化として関係づけられるという原則を適用することとする。すると〈心像〉が〈わたし〉に関係づけられる空間性は、〈わたし〉の〈わたし〉に対する関係づけの空間以外のものを意味しないようにみえる。〈心像〉が思念するときにあらわれ、しかも思念することが空間的及び時間的な関係づけを包括するとすれば、〈心像〉は〈わたし〉にとって思念の仕方そのものを意味している。
 じぶんの思念の仕方に空間性をあたえうるとすれば、それは〈わたし〉の〈わたし〉自身にたいする空間性である。この空間性は〈わたし〉の心的世界が〈わたし〉の〈身体〉にたいして関係づけられるとかんがえるとき、はじめて外在的な意味をもっている。つまり〈わたし〉は、じぶんの〈身体〉を観念化して把握しうる度合に応じて、まったくおなじ度合でだけ〈心像〉を空間化して受けいれることができる。だから〈心像〉の空間性とは、けっして対象のとしての〈心像〉の空間性ではない。いいかえれば現に〈心像〉となっている事物が、現実の事物とどれだけ異った形像となっているかというところに空間性があるのではなくて、〈心像〉としてあらわれるわたしたちの心的世界の空間性いがいのものではない。(「イメージ論 C」)

・おなじように心像の時間性は、〈心像〉となってあらわれている〈事物〉が、現実的存在としての事物と、どれだけちがうか、という差異の了解性を意味するのではなく、〈心像〉としてあらわれた〈わたし〉の心的世界の時間性である。
 つまり、〈わたし〉は〈心像〉において、ただ〈わたし〉の心的世界の空間性と時間性をみているだけである。そうだとすれば〈心像〉を、あたかも〈わたし〉にとって対象性であるかのようにかんがえること自体が無意味ではないのか?たしかに無意味である。なぜならば、心像は〈心像〉となってあらわれた〈わたし〉の心的世界そのものにほかならず、けっして〈心像〉となってあらわれた〈心像〉の対象物ではないからである。〈心像〉において、対応する現実存在は、じつは〈心像〉の対象になった〈事物〉ではなく、〈わたし〉の心的世界そのものである。(「イメージ論 C」)

・いまここで、対象世界にたいする心的な引き寄せ(引き込み)の類型をとりだし、そのなかで心像のはめこまれる位相をはっきりさせてみる。この見地からいえば、いままでのところ、心像における引き寄せは、現に感性的な世界にない対象を、感性的な対象世界にあるかのように現前させるものだ、といえるだけである。
 心的な世界にやってくる現象は、すべてなんらかの仕方で対象が引き寄せられた現象であるといってよい。(「イメージ論 D」)

・〈心像〉の意識が、意志力の此岸にあるとすれば、正常な〈妄想〉あるいは正常な〈幻覚〉という概念では、意志力はいつも主体の心的な世界の彼岸にある。つまり何者かの意志に強制されて〈妄想〉や〈幻覚〉はやってくるのである。(「イメージ論 D」)

・〈心像〉においては概念的に把握された対象を、感性的な世界の対象であるかのように再現させなければならないし、たんなる視覚的に把握された対象をも、無数の心的な経路の綜合的な同時像として再現しなければならない。〈心像〉におけるこのような再現作用は、〈身体〉的な行動を無意味化することによって、〈身体〉的な行動の意味を心像のうちに、価値として吸いあげることを意味しているようにおもわれる。(「イメージ論 E」)

・いいかえれば自己妄想による場面の再現は、じっさいの場面の再現であると信じられているが、想像力による場面の再現は想像的再現であると識知されている。
 妄想的再現は、本質的には心的に構成された世界と、現実の世界が地続きであるという識知にねざしている。もちろん、人間にとって世界がこのように視えた時代はあったにちがいない。かれらにとって雨乞いをしたがゆえに雨が降ってきたのであり、何者かに呪詛されているがゆえに病気は治らなかったのである。世界がこのようにみえるかぎり、たんに妄想的な再現が現実の場面の再現として識知されるばかりでなく、逆に妄想的な再現のとおりに、現実の場面が成就することも可能とかんがえられたのである。(「イメージ論 E」)

・未開的な思考の世界像も、ある程度このような世界であるとかんがえられている。このような未開的な思考の世界では、心的な世界と現実的な世界とを接地させているものは、なんらかの意味で共同的な観念の世界とかんがえることができる。(「イメージ論 E」)






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日 
600 ハイ・イメージ論A ―究極イメージ 「イメージ論」 講演 『吉本隆明の183講演』 ほぼ日刊イトイ新聞  

・A092「イメージ論」の「講演のテキスト」より 『吉本隆明の183講演』所収
 講演日:1986年5月29日
・関連項目 項目ID 468「人間が鳥であった時」

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現在考えられる限りの究極イメージ 原始時代からあった究極映像 瀕死者の体験 人間の目の高さで地面に平行な視線と、それに対して直交するというか、垂直な真上からの視線を考えて、そのふたつの視線をもし同時に行使することができたら、たぶん現在考えられる究極映像がつくれることになります。
項目
1

@

 究極映像という考え方
(引用者註.これは講演のテキストにある小見出しです)

 究極イメージというのはおかしな言い方で、本当に究極かどうかわからないんですが、
現在考えられる限りの究極イメージを考えてみますと、わかりやすく言えば、たとえばみなさんがはめている時計は、たぶん時計としてはすでに究極時計というものができています。つまり、これ以上いい時計は要らないし、もし時を測るという意味で言うならば、1年で10秒ぐらいしか違わない時計が安く、1000円とか2000円で手に入ってしまいます。時計はすでに究極時計と考えていいわけです。そうなってくると装飾品としてどうするか、どう時計を使うかということが問題になるだけです。
 カメラも僕はよくわかりませんが、たとえばミノルタα7000とか9000はたぶん究極カメラに近いものであって、これを使うと素人も玄人もそんなに違わないように撮ろうと思えば撮れると思います。カメラは日本の製品がいちばん先端を切っているんでしょうが、たぶん日本のカメラは究極カメラというものをほぼ実現している、あるいは実現しかかっていると言えると思います。
 僕はそれと同じような意味で究極という言葉を使いますが、究極イメージでは
究極映像というものが考えられます。僕が究極映像を見たのは今年か去年か、つくばの科学万博で富士通館がやっていたもので、たぶん究極映像をつくっていたと思います。それはどういうふうに言えるかというと、要するに建物のドーム型の内壁全部をスクリーンにしてあって、座席が映像内部に存在するようにつくられています。それで色差式のめがねをかけると立体映像が入って前後左右に飛び交うんですが、全ドームスクリーンでそれを映して、しかもそれを見ている自分、つまり観客が立体映像の内部に入ってしまっているというつくり方をしています。
 スクリーンに立体映像が映って、偏光めがねをかけると画像が浮き上がってくるぐらいのことは前からありますが、そうではなくて全天周をそういうふうにして立体映像が飛び交ってきます。しかも、その映像の内部に自分がいると感じさせるように見る人と見られる映像の間がつくられていて、言ってみれば4次元ぐらいの意味合いの映像が出現するわけです。


A

 原始時代からあった究極映像
(引用者註.これは講演のテキストにある小見出しです)

 ところで、この究極映像を原始未開の時代から実現していると言われている事柄がたったひとつだけあります。それは何かというと、死に瀕した人、つまり死に損なって病気が治った人がしばしばそういう体験をしたと語っている事柄です。要するに死にそうになったら自分の視線が宙に浮いてきて、たとえば部屋の2メートルぐらい上のところから、自分が死にかかっていて、周りで医者とか看護婦が飛び交ったり、近親が泣きべそをかいてそこでとりすがったりしているのが自分の目で見えたということが、
瀕死者の体験の中にしばしば記載されます。
 なぜそういう映像が可能かということは、それ自体大変興味深いことです。なぜかというと宗教、特に東洋の宗教は、死後の世界を体験するとか、曼荼羅の世界とか、修練によって自分が体験することができるとか、密教みたいなものがよく主張しています。あるいは修行するのはそういう修練の仕方で、生きながらにして死ぬときの視線を獲得するというのが密教の修練、仏教がやってきた修練ですが、その手のことは宗教だけではなくて、しばしばごく普通の死に損なってまた生き返ったという人の体験の中に出てきます。
 自分が宙に浮いてきて、寝ている自分が自分で見えた。看護婦などが騒いでいるのも非常によく見えた。生き返ってそういう話をすると「お前はどこでそんなことを見ていたんだ」「どうしてわかるんだ」と言われたという体験がしばしばあります。
 つまりこの種の体験が何であるかということ
(註.1)は別として、本来ならば横たわっているところにあるべき視線がひとつあって、もうひとつ上のほうからそれを見ている視線があるという、その視線のあり方をよくよく解析すると、これは割合に高次な次元の映像というか、視覚像だということがわかります。
 これは僕の理解の仕方ですが、意識の減衰の仕方というか、衰え方というか、つまり意識がなくなる直前まで意識を持っていくことが可能だとすれば、そのときに割合に体験できる映像のあり方だと思います。
 宗教はそうは言わないので、「そうじゃない。これはあの世がある証拠だ」と言うかもしれませんし、そう言う人もいますが、僕はそうは思っていなくて、意識が非常に減衰してほとんどなくなりかけるところまで修練によって意識を持っていけたら、必ずその体験はできると思っています。
 いずれにせよ、死後の世界はどうだということは別の論議として、唯一高次の映像体験として人間が体験したこと、あるいはしていること、それは可能だと宗教とか体験者が言っている体験はそういうものです。この体験は割に高次な映像体験で、これとほぼ同じことが富士通館で実現していたと言っていいと思います。


B

  これを理論化していこうとすると、どういうことが言えるかというと、
この種の高次映像とは何かをよくよく分析してみると、こういうことに帰します。人間の視覚ということで言えば、地上数10センチとか2メートルとか、そういうところにある人間の目の高さで地面に平行な視線をひとつ考えます。もうひとつ、それに対して直交するというか、垂直な真上からの視線を考えて、そのふたつの視線をもし同時に行使することができたら、たぶん現在考えられる究極映像がつくれることになります。
 だから究極映像の体験とは何かというと、理論的に分析してしまえば、要するに地面に平行な視線を想定して、もうひとつそれに対して直交する真上からの視線を想定して、それを同時に行使したところに出現できるイメージが、現在考えられる究極映像だと言うことができると思います。そのように分析すると、水平視線と垂直視線の交点を同時に行使したときに出現するものが、たぶん究極映像と言われているものだと思います。
 
われわれは、生のままの視線ではそういう体験は実際的にはできませんが、僕らが絶えず行使している視線、つまり座高の高さとか背の高さで地面に平行な視線の中で行使している視線に対して絶えずもうひとつ、それに垂直に上から来る視線を自分が想像することができたら、たぶん想像力の中では高次映像を考えることができます。(註.2)
 実際にそれを出現させるのは、技術的手段によるか、それとも死に損なうか、どちらかでしかそれは体験できないと思います。しかし体験できなくても、イメージすることはできると思います。絶えず自分が地面に水平な視線を働かせて、風景とか何かを見ているときに同時に上からの視線があるということを自分の中で想定できれば、たぶんイメージとしてはそういう映像のイメージを描くことはできると思います。まったく描き得ないイメージではないと思います。

 (A092「イメージ論」の「講演のテキスト」より 『吉本隆明の183講演』所収)
 ※ AとBは、ひとつながりの文章です。









 (備 考)

(註.1)

このことにより踏み込んで語られているものがある。
言葉の吉本隆明A 項目ID 468「人間が鳥であった時」(『幻の王朝から現代都市へ―ハイ・イメージの横断』 河合文化研究所 1987.12.1 )である。この講演は1987年7月16日の講演で、『吉本隆明の183講演』のA101「マス・イメージからハイ・イメージへ」として載っている。したがって、上の「イメージ論」より1年後くらいのものである。


(註.2)

つい先日読んだ『銀河で一番静かな革命』(マヒトゥ・ザ・ピーポー 2019年5月)に次のような描写がある。


 機内アナウンスで目を覚ますと、夕暮れの気配はとうになく、外の世界は真っ暗になっていた。わたしの肩に寄りかかり、口を開けてまたいつのまにか眠っている娘をゆすり起こす。
「いろは。起きな。つくよ。」
「ううん。」
 目をこするいろはにシートベルトを締めさせて、いつしか夜になった窓の外を見る。
「ねえ、ましろ。この光の数だけ人が生活してるんだよ。信じられる?」
「そうね。たくさんだねえ。」
 ★空から見下ろす街には小さな光の点が黒い夜空の星からこぼれ落ちたみたいに散らばっている。ガソリンスタンドにコンビニ、マンションやアパートの食卓を照らす灯、リズミカルに並べられた街灯と車のヘッドライト、電光掲示板の点滅。赤、黄、青。★
☆★「近くで見たら色々だけどさ、空の上から見ると、どれもみーんなキレーだね。」☆★
 いろはは目をキラキラさせて言った。
☆★「そうだね。遠くから見たら全部が綺麗だね。」☆★
 ( P53 )



 これは別に取り立てて目新しい描写ではなく、飛行機に乗ることが誰にでもあり得る現在のわたしたちにとっては普通に見えるものかもしれない。また、ここに書かれているような地上の視線と上空からの視線を交えるとなんか不思議な感覚を覚えるということもおなじみのことかもしれない。
 上の★・・・★の部分は、上空からの視線、☆★・・・☆★の部分は、吉本さんの言う二つの視線が同時に行使されているように見える。あるいは、少なくとも物語を書き記す作者のイメージの中では、二つの視線が同時に行使されていると言えるだろうと思う。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日 
601 ハイ・イメージ論B ― 概念とイメージの関係 「イメージ論」 講演 『吉本隆明の183講演』 ほぼ日刊イトイ新聞  

 A092「イメージ論」の「講演のテキスト」より 『吉本隆明の183講演』所収
 講演日:1986年5月29日
 ※ 関連項目 言葉の吉本隆明@
     項目150 概念の誕生
     項目151 超概念 (いずれも、『言葉からの触手』より)

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地面に水平な視線と垂直な視線の交点のところに描かれるイメージが究極イメージだと考えていた 言葉はあくまでも概念として使うものであって、それをどうして映像の表現に置き直すことができるか 建物という概念として抽出された芯の中に、建物という生命の糸みたいなものがたくさん折りたたまれているというイメージを浮かべると、そのイメージが概念に相当する 文学作品も、映画や絵画その他の映像表現と同じ次元で同じように扱う
項目
1

@

 概念とイメージの関係 (
引用者註.これは講演のテキストにある小見出しです)

 僕らが文学、芸術の諸分野をイメージとして統一的に捕まえようと考えた場合、そこがいちばん基本的な考え方になります。
要するに地面に水平な視線と垂直な視線の交点のところに描かれるイメージが非常に重要で、それがうまく描かれるならば、それは究極イメージだと考えていたわけです。理論的な骨組みをつくるのは、そこのところでだいたい可能になったと僕らは考えました。
 あとはどこまでやれるかということを具体的に展開していって、細部の問題でいろいろなことに気づいていくということが問題になります。たとえば文学の理論でいくと、もうひとつ問題があります。言葉の表現とはどういう表現なのか、つまり文学作品とはどういう表現なのかと考えると、ただ単にこれを映像表現と言うだけならば、映画とか絵画とかデザインに及ぶべくもないのであって、たとえば「絵画とか映画に出現している映像を、言葉で同じものを出現させろ」と言われたら、それは大変むずかしいことになります。
 
だから言葉というのは、本来映像的あるいはイメージ的に使われるものではないはずです。言葉はあくまでも概念として使うものであって、それをどうして映像の表現に置き直すことができるかということがひとつ問題になります。
 そこで僕らは、どうしたら概念というものを映像に転換できるかということをしきりに考えたわけです。
その転換ができるならば、概念として表現されているものも本当は映像の表現と同等に、あるいは等価に扱えることになります。どうやったら概念の表現を映像の表現に置き直せるかということが、とても問題になってきます。
 七面倒なことは抜きにして、たとえば家なら家、建物なら建物という言語がありますが、建物という言語は、建物という概念が明確になったときに成立するわけです。個々の建物は視覚映像で見た場合にはそれぞれ違いますから、具体的な建物から、無数のそれぞれ違う視覚映像の建物から建物という概念がどうやってつくられるかということを高速度写真的に言ってみれば、ひとつは抽象化作用です。
 
つまり、さまざまな異なる建物の中から、共通の建物というものを抽出できたときに、それが建物という概念になります。だから建物という概念は、ひととおりの意味では具体的な映像、イメージは全部消えてしまっています。個々具体的な建物、無数にありうる具体的な建物の中から、何か知らないけれども共通のあるものを抽出して、建物という概念がつくられています。
 そのときに何が共通に抽出されているかが問題になります。これはヘーゲルという哲学者に負うわけですが、無限にありうる具体的な建物の視覚イメージから理念の生命というもの、もっと簡単に言ってしまうと建物の生命になるもの、中心になるもの、あるいは核になるもの、芯と名づけても何でもいいけれども、とにかくその中に建物の本質がちゃんと含まれている、ある芯が抽出できたときに建物という概念が成り立つと考えます。概念が成り立てば、建物という言葉が成り立つわけです。

 ところが「中心になるものは何なのか。諸々の建物の中の、建物の中心になる何かとは何なんだ」と考えたときには、
建物というひとつの理念でありながら、イデオロギーなどの理念と違って理念の中の命、芯になるものだけを抽出できたときに建物という概念が成り立つと考えたわけです。
 
映像的、イメージ的に言うと、こういうイメージを浮かべるといちばんわかりやすいんですが、建物という概念として抽出された芯の中に、建物という生命の糸みたいなものがたくさん折りたたまれているというイメージを浮かべると、そのイメージが概念に相当するだろうと考えます。
 たとえば文学作品の中に「私は今朝6時半に起きた」という表現があったとすると、たいていわれわれはすぐに概念の意味として受け取って、小説の中でそういう表現があれば、6時半に起きたという事実を言葉で語っていると受け取ります。
 しかし同時に別の受け取り方をすることができます。朝といっても夏の朝とか冬の朝とか無数の朝があり得ますが、抽出された生命の芯になるようなものが朝という言葉の中に含まれているというイメージの浮かべ方をすると、それから7時半というのも今日の7時半もあれば明日の7時半もあるし、昔の7時半もあって、その中から7時半という生命の糸みたいなものが抽出されたときに概念が成り立っていると考えれば、「私は朝7時半に起きた」と小説の中に書かれている文章は、単に意味として受け取るだけではなくて、いわば概念の糸がたくさん絡まって含まれているものが、ある順序に従って並べられている、あるいは展開されているというふうに同時に受け取ることができます。
 つまり同時にそういう受け取り方をしていくと、文学作品はイメージとしての表現に翻訳できるだろうと考えたわけです。この概念とイメージとのかかわり合いがはっきりすると、文学作品も同時にイメージの理論として、つまりイメージの分野のひとつとして扱うことができると言えます。
 ただ、文学作品はいま言ったように概念の表現が主です。ときどきイメージを鮮やかに浮かべさせるところはありますが、それはあくまでも副次的なことであって、
概念の表現が文学作品の命です。それを映像表現、イメージの表現に置き直すためには、朝という言葉、7時半に起きるという言葉にも全部生命の糸が折りたたまれて含まれているというイメージを同時に思い浮かべます。そうすると、文学作品を全部イメージの表現で置き換えることができます。理屈上はそうなります。
 だけど本当の文学作品にみなさんが当たってみればすぐにおわかりになるように、極端に言うとふたつの傾向があります。ひとつは概念の意味だけで、強烈に読む者に表現を打ち込んでくるように見える文学作品です。それからこれは作家の資質によりますが、この文学作品を読んでいると、言葉の概念の表現だけど実に鮮やかにイメージを思い浮かべさせる箇所があるという作品です。
 極端に言いますと、ひとつの文学作品はイメージを鮮明に浮かび上がらせる箇所と、イメージは浮かべさせないけれども概念の意味をどんどん打ち込んでくる箇所と、そのふたつから成り立っていることがわかります。
 しかし本当は、いま言ったように概念の意味で読者に迫ってくる場所であっても、イメージに翻訳して、生命の糸が絡まっているものがどんどんこっちに打ち込まれていると考えれば、それは同時に全部イメージの表現に置き換えることができます。本来的に言って文学作品というのは、言語表現、概念表現でありながら鮮やかにイメージを思い浮かべさせる箇所と、そうではなくて意味の強さとか意味の選択力で迫ってくる箇所と、そのふたつの箇所を含んでいることがわかります。
 しかしいずれにせよ、概念とイメージとの基本的な関係をたどれれば、われわれが文学作品をイメージとして読む手立てと、それを概念の意味として読む場合の手立てと、ふたつの手立てを両方とも手に入れたことになります。あとは具体的な個々の文学作品の鑑賞になっていきます。


A

  文学は概念とイメージの無限反響によって生まれる (
引用者註.これは講演のテキストにある小見出しです)

 文学作品というのはひととおりの意味でイメージを喚起してくる場所と、ただ概念の意味だけを伝えてくる場所がありますが、「それらをこちら側が自分なりの体験のイメージに引き換えて、それを外に出していく。それで読むと、その作品が少しだけ違うように読めてくる。そして、またこちらに返ってくる」という過程を何回も繰り返すことで文学作品ができていると思います。
 そう考えていきますと、文学作品をイメージとして捕まえていくことは、まず原則的には可能になってきます。これをよく展開していくということは、それ自体は文芸批評の実行行為になりますから、うまいやり方も下手なやり方もできてしまうし、その人なりの力が出てきてしまいますが、そういう考え方で文学作品をイメージとしての文学作品として解析していくことができると思います。
 
僕は、そのことは重要だと思います。なぜかといいますと、その扱い方ができれば文学作品も、映画や絵画その他の映像表現と同じ次元で同じように扱うことができるからです。つまりひとつの総合的な扱い方の理念がそこで可能になるからで、それが自分なりに基本的にできるようになったときに、「文学作品をほかの映像表現と同じように扱うことは可能だ」ということだけは確かめられたように思います。










 (備 考)

「マス・イメージ論」と「ハイ・イメージ論」について

(吉本さん)
 自分の中でわりに簡単にあれしてまして、類推的な言い方をしますと、「マス・イメージ論」というのは、自分にとって前に展開したあれでいえば、「共同幻想論」というのと同じことなんだ、つまり、同じことを現在のテーマにしてやっているのと同じことだ。
 そして、「ハイ・イメージ論」というのは、もう少し原理的といいますか、論理的といいますか、理論的といいますか、前のあれで類推すれば、『言語にとって美とはなにか』という言語美論があるわけですけど。それと同じことをイメージ論でやっているのが「ハイ・イメージ論」だというふうに、自分ではそう簡単に区別しているわけなんですけど。

 (質疑応答の部分より A099「ハイ・イメージを語る」 講演日時:1987年5月16日)


太古においては、文学も絵画も舞踊も溶け合った一つのものような捉え方や表現の段階があったと思われる。そこから現在まで、遙かに細分化と複雑化の道をたどってきて、芸術の各々同士がまるで見知らぬ他人のような関係になってしまっている。この吉本さんの概念やイメージについての包括的な現在的捉え返しの考察は、個で言えば自分の子ども時代からの現在的な内省に当たると思われる。


関連項目の、言葉の吉本隆明@
項目150 概念の誕生
項目151 超概念 (いずれも、『言葉からの触手』より)について、

この『言葉からの触手』の初出は、この講演の数年後で、『言葉からの触手』の方は概念やイメージなどについてより微細につめて述べられているように思われる。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日 
602 ハイ・イメージ論C ― 都市の普遍理論 「イメージ論」 講演 『吉本隆明の183講演』 ほぼ日刊イトイ新聞  

 A092「イメージ論」の「講演のテキスト」より 『吉本隆明の183講演』所収
 講演日:1986年5月29日

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垂直視線と水平視線の交錯するところとして4つの系列を考える 都市は4つの系列の3と4を中心に展開する イメージ論の理論的な考察の仕方を都市について適用した場合のひとつの成果
項目
1

@


 都市の普遍理論 (
引用者註.これは講演のテキストにある小見出しです)

 そこで今度はイメージ固有の表現になっていきます。これは何を使ってもいいんですが、僕らは差し当たってなんでそれを確かめようとしたかというと、一種の都市論で捕まえようとしたわけです。どこの都市も同じですが、都市をどう捕まえたらいいかというと、都市論というのはさまざまな人の好みと立場と、さまざまな考え方によって自由にやっています。
 それはそれで意味がありますが、
都市について僕らがいま言っているのはそういうこととは違って、都市についての一種の普遍理論を考えています。だから文学をイメージとして思い浮かべるということも、文学についての普遍理論をどう出そうかということが問題です。どういう好みで、どういう立場で、文学をどう見るかを考えようとしているのでは全然なくて次元が違います。
 都市論も同じです。都市論はさまざまなかたちで、さまざまな立場と好みからなされていますが、ここで僕らがやりたかったことはそうではなくて都市についての普遍理論です。
これはどう可能かというと、「目の高さあるいは座高の高さで地面に水平な視線と、それに対して天空から垂直に地面に向かって、あるいは地面の下からでもいいけれども、垂直に下りてくる視線がある。こういうふたつの視線から都市をとらえた場合に、どうすれば都市を普遍的にとらえられるか」という問題が立てられます。
 僕らの考え方では、これは4つあります。世界中のどの都市でも同じですが、垂直視線と水平視線の交錯するところとしてその
4つの系列を考えれば、現在の都市はとらえられると考えています。
 
まず第一に、京都でも東京でも同じですが、東京で言うと下町にあたるところは、地べたに民家が建っていて、その脇とか前に道路があってという地域があります。垂直視線と水平視線の問題に還元して、その地域の映像、イメージはどうやってつくれるかというと、垂直な視線と地べたに平行な視線がストレートに交わっている地域と考えると、この地域がとらえられるわけです。
 地べたがあって、民家があって、前とか脇とか後ろに道路がある場所は、東京で言えば下町の民家があるところですが、そういうところは垂直からの視線と水平視線が生のままというか、ストレートに交錯したところで描ける場所です。すなわち民家の地域は視線のイメージとしては、そういうふうにとらえることができます。
 ★★それをたとえば1の系列とすれば、
もうひとつの系列があります。これは極端な系列ですが、東京で言うと高島平という団地があるところです。よく飛び降り自殺者があるところですが、高島平団地には広い関東平野にポツンと高層マンションとか建て売りの民家があります。どうして自殺したくなるかというと、建物の中にいるときと外にいるときの隔たりがあまりに甚だしいからです。
 たとえば建物とか家屋の中では非常に温かい雰囲気で、室内装飾もあって、人間は和気あいあいとやっているということが可能です。
ところが極端なことを言うと、1歩でも外へ出てしまうと建物の中にあったぬくもりとか団欒の雰囲気が全部いっぺんになくなってしまいます。この急激さは類を絶するわけですね。
 これは何かが間違っていると考えますが、何が間違っているかというと、もしも大平原の中にこういう人工的な高層マンションを建てたとするならば、その周辺にそれよりもやや人工性が少ないけれども大変人工的な地域をつくらなければいけないだろうと思います。いわばしだいに人工性を減らしていくということをしなければ、この都市のつくり方はだめで、臨時的には成り立つけれども永続的な都市としては成り立たないと思います。
 これを極端な系列とすれば、ひとつはこういうところがあります。たとえばつくばの学園都市も同じです。あそこは研究者で自殺する人がよくいます。みなさんも新聞などでご存じだと思いますが、それは当然です。建物の中とか喫茶店とか催し物の中にいると、それはそれで結構いいんですが、
1歩でも外へ出たらそれまで中でやってきたことが全部パーになってしまうというか、全部ご破算になってしまうぐらい全然違います。
 つくばにも公園みたいなところがちゃんとできています。だけど、この公園のつくり方も間違いであって、だだっ広い関東平野の真っただ中につくっていますから、周りにもボチボチある潅木みたいなものをただ寄せ集めてきて、さくをして、それで「公園だ」と言っています。
 ところがこれは意味をなさないのであって、もしつくばでも公園をつくるならば人工的な公園をつくらなくてはいけないわけです。きわめて人工的な公園をつくることのほうが自然だからです。たぶんこれは予算が足りないか、都市理念を間違えているか、どちらかだと思いますが、自然主義的な自然に人間を放り出せば森林浴とか緑の何とかで憩いを持てると錯覚していると思います。
 そんなことはないのです。大平原の中に高層ビルで学園都市をつくってしまって、その周囲に学園都市をあてにした喫茶店とかいろいろなものがありますが、
ものすごく人工的な、超モダンな建物をつくってしまっていますから、これに該当するというか、これに見合う自然というのは大変人工的なものです。つまり、まず人工的な自然をつくるべきです。


A

 都市はどのように展開していくか
(引用者註.これは講演のテキストにある小見出しです)

 もうふたつ系列を考えればいいんですが、もうひとつの系列は何かというと、東京でもたとえばビルの6階ぐらいに日本庭園みたいなものができてしまったり、日本料理屋さんができてかなり正式の茶室があるというところがよくあります。これは京都にもあるかもしれません。それからビルの3階に室内プールができているというところもしばしばあります。
本来的に言えば茶室とか日本庭園は地べたにつくられるべきものですが、地べたにつくられると思われているものがビルの内部につくられてしまっているところがあります。
 これはとても重要なことだと僕には思われます。つまりこういう箇所は一種の矛盾です。「本来あるべきところとまるで違うところに、本来あるべきものが存在する」ということですが、そういう箇所が都市の中に必ずあります。その場所はとても重要な気がします。
 都市の展開の仕方をよく見ていく場合に、こういう箇所に注目することはとても重要だと思われます。
特に日本みたいなアジア的な地域の都市は、大都市になっていく過渡的なところで、本来あるべきでないものがビルの中にあるという場所にしばしば遭遇します。それは非常に重要な、矛盾した場所であって、その場所は都市の発展のテコになっています。つまり非常に重要な契機になっている場所だから、こういう場所がどう増えていくか、あるいはどういうあり方でつくられていくだろうかということに注目することが大変重要だと思います。
 ★★★★もうひとつ重要なところがあります。それは先ほどから言っている
高次映像の場所です。視線に還元してしまうと、目の高さで地面に水平な視線と、上空からの垂直な視線が同時に交差しなければ到底できないような高次映像を喚起する場所が都市の中にあります。これも大変重要な場所だと思います。これはどういうところにできるかというと、たとえば旧来の都市の中心街、ビル街みたいなものがあって、時代の必要に応じて変貌したいけれども変貌する空き地もなければ余地もないという場合、そのビルディングは一種の継ぎ足しをやったりします。
 古いビルの上に新しい現在風のビルを継ぎ足したり、脇に出っ張らせて継ぎ足すところがありますが、
そういういわば古い空間と新しい空間が重なり合ったようなところに高次映像を喚起する場所があります。これも大変重要な場所だと思います。そこに着目していると、都市の展開の仕方を、どこでどうやるかというものを見ることができます。
 都市をこれからの問題、これからの展開と考える限りは、いま言った大変矛盾を喚起する場所、矛盾を与える場所と、高次映像を与える場所があります。この高次映像を与える場所は、みなさんがうんと気をつけてご覧になると必ず見つけることができます。瞬間的に見つけてあっと思ったらもうだめだったということになるかもしれませんし、ここへ行けば必ず見られるという場所が見つかるかもしれません。どちらもあり得ますが、こういう場所は必ずあります。
 ビルの中へ行ってみたり、屋上へ行って隣のビルの窓の中を見てみたり、その向こうに鉄道の線路があって、列車が通って、その窓から人が見えたという意味合いで、空間が重なり合って非常に高次映像を喚起する場所あるいは瞬間に必ず出会うことができます。
 それはとても重要な箇所だと思います。つまり、それは古い空間と新しい空間が重なっている場所であったり、都市が偶然の展開の仕方をして、偶然にできてしまった映像の場合もあります。どちらかの場合もありますが、
都市というのはその箇所と、いま言った矛盾をきたすような箇所と、そのふたつの箇所を中心にして展開していくと思います。
 いま言った4つの系列を考えれば、都市を理解する場合の基本点はそれで尽くすことができると考えます。だからその四つの系列について追究すれば、少なくとも都市についての普遍的な追究はできるわけです。
・・・中略・・・
 それが僕らの
理論的な考察の仕方を都市について適用した場合のひとつの成果です。つまり、その4つの系列をとらえればいいということがひとつの成果だったわけです。










 (備 考)

★★は、視線の問題として説明されていないように見える。都市の中の高層ビルもそうであるが、ここはの水平視線が上下可動的に底上げされていると見るべきか。加えて、水平視線と垂直視線が交わるところが都市設計の理念の貧困さから少し異様な自然性になっているということ。


は、視線の問題としていえば、水平視線で従来の地上1階にあった茶室とか日本庭園が、地上2階3階などに作られるようになって、水平視線の次元がくり上がったということか。


引用文の最初や最後の部分によると、この吉本さんの「イメージ論」は、好みなどの個人性(個的固有性)を超えたものとして、すなわち普遍の論理として、しかも「文学」や「都市」のみを対象とするものではない、もっと大規模なものとして構想されているように見える。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日 
603 ハイ・イメージ論D ― 世界視線 「イメージ論」 講演 『吉本隆明の183講演』 ほぼ日刊イトイ新聞  

 A092「イメージ論」の「講演のテキスト」より 『吉本隆明の183講演』所収
 講演日:1986年5月29日

検索キー2 検索キー3 検索キー4 検索キー5
ヒューマニズムの視線のイメージ 人間はまるで消えてしまう視線 強いて人間のにおいがあるとすれば、人間は海岸へりの平地のわずかなところにしか住んでいないことがわかります 日本の神話の地質学的な考察が可能になる
項目
1

@

 世界視線とは何か
(引用者註.これは講演のテキストにある小見出しです)

 もうひとつ問題になってきたのは、上空からの垂直な視線ということで、僕らはこれを世界視線と名づけていますが、世界視線とは一体何だということが問題になります。
現在は航空機ができたから、たとえば高度1万何千メートルとか2万メートルから真下に都市を見下ろすことができるようになりました。体験としていいますと、高度2千メートルのところからの垂直視線はどうなっているかを見ることができるし、イメージとして思い浮かべることもできます。
 ところで世界視線というものの中には、さまざまな理念がつかまっています。たとえば人間主義というか、ヒューマニズムを映像に直してしまうと何だろうかというと、要するに座高の高さないしは人間の目の高さで行きかっている視線のイメージがつくるものがヒューマニズムです。
 だいたい上空1万メートルのところならば、人間はヒューマニズムの視線が体験できますから、ヒューマニズムの視線をそこまでは拡張できるわけです。上空1、2万メートルぐらいだったら、すでにその視線を体験していますから、それもヒューマニズムの中に入れてもかまいません。
 しかし最も生々しいヒューマニズムというのは、地上1メートル半とか2メートルの高さで行きかっている視線がつくるイメージ、ヒューマニズムの視線です。だから世界視線として見たら、ヒューマニズムは地上2メートルぐらいのところの視線しか行使していないわけです。このへんで立場上けんかをするとすさまじいことになってしまうのは、なぜかといったら、せいぜい二メートルぐらいの高さの視線、イメージで相手の思想とか立場を見ているからです。
 これはいいことはありはしなくて、ヒューマニズムの値打ちがだんだんばかにされたりしてくる傾向があるのは、
世界視線から見たら2メートルぐらいの高さしかないからです。その視線の範囲でつくったイメージで相手のことを考えたり、相手のイデオロギーを考えたりしてやっているから、だいたいそういうことになるというのがヒューマニズムの視線のイメージです。


A

 もっと上空に行くと、たとえば1、2万メートルだと、あそこは建物だとか、あそこは民家だとか、あそこは畑だとか、あそこは山だというあたりまでは見ることができます。その後は想像して、建物の中には男と女がいて、子どもがいて、いまご飯を食べているんだなとか、建物についても想像力を働かせるだけの見え方をします。
 
ところで現在のいちばん有能な世界視線はランドサットの映像です。これは80万キロぐらいだったか、相当高度です。近似的に言えば「無限遠点の上空から」と近似をしてもいいと思いますが、そういうランドサットの映像が可能になりました。
 この視線はある意味で非常に重要です。なぜならば、僕らが高次映像と言っているものを解体・分解していくと水平視線と垂直視線になると言いましたが、
この垂直視線は本当は無限遠点からのものでなければ近似的な扱いにしかすぎないからです。これは相当高い近似で、無限遠点からの垂直視線を提出することができますから、ある意味で非常に重要な映像です。
 
ただ、この映像で見るとヒューマニズムというものは消えてしまいます。人間はまるで消えてしまうし、もちろん人間の建物がここにあるんだなという問題も消えてしまいます。これは大阪地区で、このへんはきっと大阪の中心街だと思いますが、この赤いところがあるでしょう。もちろん民家もそうですが、田んぼもこういう赤い反映の仕方をします。反映の仕方が同じになってしまうので、大阪の中心街が建物街だということを見るのは大変むずかしいことです。
 道が線になったようにきれいに通っているから、ここは街中だろうとわかりますが、これを見た限りでは建物とそうでないものを見分けることはできません。言ってみれば人間らしさというか、人間がどうであるかということはどこにも出てこないわけです。だから、これは人間主義なんていうものは全然入ってこない視線です。人間らしさがわずかに出てきているのは何かというと、埋め立て地みたいなものが割合にすっきりした格好をしているでしょう。こういうものは天然の土地ではないので、人工的なものだと想定できる。そういうことぐらいしか、この中に人間のにおいは入ってきません。
 
もうひとつ、強いて人間のにおいがあるとすれば、人間は海岸へりの平地のわずかなところにしか住んでいないことがわかります。世界中のどこを取ってきてもそうですが、人間は海岸へりの平地のわずかなところにしか住んでいないということがとてもよくわかります。これが喚起する人間らしさというか、人間の影はそれだけです。生物と無生物も、同じ生物でも人間とほかの生物の区別も全然ついていないので、そのことと、こういうところが割合にすっきりしたかたちで埋め立てられているということしか想像できません。
 2千メートルとか2万メートルだったら建物、民家が見えますから、あの中に人が住んでいると想像できるけれども、これは本当はそういう意味合いの想像を許さない映像だと思います。こういう映像を人間がつくるようになったということは、非常に重要なことのように思われます。
 もうひとつ、低いところではとてもわからないようなところがあります。それは何かというと、これは和歌山県の紀ノ川、吉野川筋ですが、川が流れていて、その沿岸地域の平地にそれぞれ町や村が展開しているということが想定できます。
もうひとつ想定できることは、航空機の写真だったらそういうことはなかなか言えないんですが、これは筋があって地質学的な割れ目です。中央構造線と言うんだと思いますが、それだということがとてもよくわかります。
 高いところで見ると、これがあります。これは単なる川べりの町筋ではなくて、ここで地質が割れているという感じを持たれると思いますが、この感じはランドサットの非常に高空からのものでないとわからないと思います。これはとても大きな特徴です。

 これは中央構造線がこういうふうに通っています。これは四国ですが、地質的な割れ目だと思います。これは九州で、阿蘇山のところだと思いますが、これも上下に割れ目があったと思います。単なる川の沿岸ではなくて地質的な割れ目だということがわかります。それはひとつの特徴で、人間の目が関与している範囲の上空ではそういうことはわかりにくいわけです。専門家はわかるでしょうが、われわれが見たらわかりません。
 超高空からの世界視線で見ると、そういう地質上の割れ目みたいなもの、遠い昔ここは割れていたということもわかります。その代わり代償として、人間的なにおいはほとんど全部消えてしまいます。そこが世界視線というものの映像が喚起するとても重要な点だと思われます。


B

 世界視線から浮かび上がる神話の風景 (
引用者註.これは講演のテキストにある小見出しです)

 こういうことについて僕らがどういうことをしてみたかったか、またできるかというと、逆にこういうことができます。これは現在のランドサット映像です。たとえばいまから千年前、2千年前、3千年前の映像はどうなっていたのかを知りたい場合には、これは奈良盆地ですが、こういうところの地質学的なデータをランドサット映像の数値として入れてあげれば、たとえば千年前にどうだったか、2千年前、3千年前にどうだったかということがわかります。大阪地域もそうですが、そういう映像がつくれます。
 日本でやっているのは東海大学と筑波大学です。僕らがそういうモチーフを持ってもどうすることもできないんですが、たとえば奈良盆地がいまから3千年前にどうだったかということがわかるとしましょう。
 そうすると奈良盆地で海抜4、50メートルぐらいのところは弥生時代には湖だったということがわかります。それから縄文時代、いまから3千年か3500年ぐらい前でしょうか。そのころは奈良盆地のふちになる、海抜70メートル線というのが岸辺で、あとは全部湖ないし海で水だったことがわかります。
 
そうすると、ものすごくおもしろいことがあります。どういうことかというと、僕らが関心を持ったのは、3千年前の奈良盆地でも大阪平野でも、それがわかっていると日本の神話の地質学的な考察が可能になるということです。神話によると神武天皇が九州のほうから来て、中国地方を岡山県あたりまで転々として、そこから船に乗ります。このへんは相当海が入り組んでいますが、ここから上陸しようとしたら土地の豪族に撃退されてしまって、こういうふうに回って、こっちのほうから上陸してこっちへ入ってきます。
 そういう神話になっていますが、その神話に出てくる吉野のほうの人とか、侵入してくる軍隊に対して盛んに抵抗する土地の豪族たちがいて、その人たちの住まいの名前が20近く出てきます。それはたいてい縄文線の海岸っぺりというか、湖のへりというか、そのへんの土地になっています。
決してただひとつの例外もなく、縄文時代の末期に水の中に入ってしまっている土地は一切出てきません。
 そういう意味合いで、神話の地質学的信憑性を問うことができます。そうすると神武統制みたいな神話が何を象徴しているかということは、さまざまあり得ますが、ある考古学者が言っているように、弥生文化が大和盆地に入ってきたときのことを象徴すれば、縄文時代の海岸っぺりの地名が出てくるし、そこにいる豪族が出てきますから、地質学的な映像とは非常によく一致します。

 地質学的に一致することと、現実問題として一致するかどうかは少し別なことになります。しかし地質学的に言えば、そういうことをランドサット映像でつくると、とてもはっきりします。そうすると地質学や考古学で縄文時代の遺跡が出てきて、同じところに弥生時代の遺跡が出てきて、また古墳時代の遺跡、つまり古墳みたいなものがあるという地域を探すと、たぶんそれは非常に古くから発達した町、または国家の中心点だったと言えます。
 そういうところはいくつかの箇所がありますが、ひとつは樫原地方にあり、ひとつは三輪山山ろくにあります。それは縄文時代から弥生時代、古墳時代の遺跡が全部同じ箇所にありますから、かなり古くから発達している町または村落共同体です。だから割合に初期の国家の中心地域をなしたところだと言えます。
 そういう神話の地質学的な対応性は、世界視線からの映像が可能になったために、ものすごく可能になってきたと思います。それは専門家はやっているのかもしれませんし、やられようとしているのかもしれませんが、少なくとも僕らが目をつけたときには、これはいまのところやられていないと言われていました。だけど僕は、やがてやられるだろうと思います。
 
先ほど、さまざまな思想やイデオロギーがここにつかまっていると言いましたが、世界視線の映像ができたということ、かなり高度から可能になったということは、逆に言って世界視線が地面と衝突しないで過去の地面、つまり地質層と衝突するというイメージも同時に可能になったことを意味しています。
 千年前の地質がいまの地質よりも下にあったとすれば、具体的には掘らなければなりませんが、
映像視線から言えば、世界視線をここまで浸透させればいいし、架空に地面と平行な視線を想定すれば、ここでつくられる映像は千年前の地質映像になります。2千年前だったら2千年前の地質データをランドサット映像をつくる場合に入れていけば、2千年前の地質映像が、世界視線というのがそこを浸透して可能です。それは過去の地質映像が可能になったことを意味しています。
 もちろん未来の地質映像も可能です。細かく10年前、7年前、5年前という映像のデータがつくられていたとすれば、そのデータを入れていけば15年後はこうなるだろうという映像を現在からつくれます。同じように過去の地域の地質データがあれば、2千年前、3千年前の映像も映像としてつくることが可能です。
 言ってみれば考古学と神話の地質的な対応性が非常に明瞭になります。
そうすると神話のうち何が事実に近いか、事実であるか、あるいは何が象徴であるか、何がでたらめであるかということが、とてもよくわかるようになると思いますし、きっともうすぐそれがやられるんじゃないかと思います。
 僕は地質データじゃなくて論文データで、勝手にこのへんを水にしてつくってしまいましたが、本当はちゃんとしたデータを入れると、かなりちゃんとした地質映像ができると思います。そうしたら
神話学は相当大きく進歩するんじゃないかと思います。それは僕らがハイ・イメージ論で世界視点(ママ 「世界視線」か)という概念をどう捕まえるかということをやってきたところで出てきた結果です。

 ※@ABは、連続した文章です。










 (備 考)

Aと関連するものに、『幻の王朝から現代都市へ―ハイ・イメージの横断』(河合文化研究所「河合ブックレット12」1987年12月)がある。この本のもとになっているのは、1987年7月の河合塾での講演である。これは、ここのA092「イメージ論」の翌年の講演である。


ここの話を聞くと、視線・イメージがいろんな細分化の数々を吹き払っていろんな本質的なことを明らかにするということに驚かされる。シンプルな概念が本質的な物を抽出している。そうして、わが国の思想水準の中で吉本さんが鋭く抜きん出ていたことは自明のこととして、このハイ・イメージ論ではさらに従来の吉本隆明を乗り越えた見晴らしの吉本隆明の姿のように感じられる。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日 
604 ハイ・イメージ論E ― 自然主義的な自然観を超えて 「イメージ論」 講演 『吉本隆明の183講演』 ほぼ日刊イトイ新聞  

 A092「イメージ論」の「講演のテキスト」より 『吉本隆明の183講演』所収
 講演日:1986年5月29日

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自然主義、人間主義が危なくなってきたということ 「自然よりももっといい自然が人工的につくれる」 「脱」ということ
項目
1

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 天然の自然が最良の自然ではない――人工都市の問題
(引用者註.これは講演のテキストにある小見出しです)

 時間もありませんから、もうひとつだけ都市の問題で申し上げておこうと思います。それは人工都市という問題です。逆に言えばユートピア都市でも同じです。ご承知のように、歴史を見れば明らかなように、農村で農業と一緒に家内工業的に工業を営んでいたのが、歴史のある段階でだんだん分業が発達してきて、農業をやる人と道具をつくる人、あるいは細工物をする人、設備をつくる人などが専門家として分かれざるを得なくなってくる。それが地域的にも分かれざるを得なくなるというところから、だんだん都市ができてきます。
 そして工業が発達するにつれて、都市が工業を周辺に集めて大都市になっていくという発達の仕方をしてきたのが、歴史がつくってきた都市です。こういうふうにできてきた都市を
自然都市と名づけるとすれば、現在は何が可能になってきたか、何が問題になってきたかというと人工都市です。これを想定して、または設定してつくるのが理論的に可能になってきたということを意味します。
 自然都市が発達して、大工業が発達して、農村と都市の対立が起こる。都市の内部でも労働者と資本家、経営者の対立が起こるという体制がなっていったときに、19世紀から20世紀初頭にかけての初期の社会主義者というかユートピア主義者たちは、理想の都市は何かと考えたわけです。
 その場合に一様に考えたことは、ひとつは「どんな人でも農業をやりたい場合には農業をやることができるし、工業とかほかのものに携わりたいときには、同じところにいてそれも可能である。つまり農業と工業が地域的、階級的に分裂しているのではなくて、同じ地域で農業と工業ができる中ぐらいの都市を理想都市としてつくる。人間は平等に、やろうと思えば農業も工業もできる」という体制と都市です。これをつくるというのが20世紀にかけて、あらゆる種類のユートピア主義の人たちが描いたユートピアです。
 その描き方は何が問題なのかというと、都市を歴史が自然に発達させたものという前提で考える限りは、そういうユートピアを描く以外にないことです。どんな人でも農業もできれば工業もできる。平等な区画に住んでいて、平等な賃金をもらって、農業でも工業でもやりたいことができるし、工業の中でもやりたいことができる。言ってみれば歴史が自然に発達させた都市、農村と分裂させた都市を考える限りは、どういう立場から描いても、そういうユートピアを描くのが当然ですし、また必然です。
 ところで現在は、たぶん問題がふたつ出てきています。大都市を中くらいの都市にしてしまって、あらゆる人が農業にも工業にも携われる。はたしてこんなことが可能なのかというと、ひとつはこの可能性がだんだん薄れてきたということがあります。なぜ薄れてきたかというと、僕の考え方では、たぶん自然主義が危なくなってきたからだと思われます。
自然主義イコール人間主義だという考え方は19世紀から20世紀にかけてユートピア主義者たちが一様に拠った基盤ですが、それが危なくなってきたということがあると思います。
 つまりどこでも中都市をつくって、だれでも農業もできれば工業もできるところをつくるということは、どこにも実現の可能性がないし、たぶん実現されないし、実現が危なくなってきたということがあります。その根底には
自然主義、人間主義が危なくなってきたということがあると思います。
 それでは何が都市について可能かというと、人工都市は可能だということになります。きわめて理想的な分布と、理想的な設計、緑地、農業の可能性を都市の中に包括させて、それを人工的につくってしまう。人が集まるから都市ができたという歴史が自然につくってきた都市とは違って、まず都市を人工的に、理想的につくってしまって、そこに人が来るようにしたり、入れたらどうか。そういう都市は可能ではないかということが目前の問題になってきたと思います。
 なぜこういうことが可能になったかというひとつの基本は、
天然、自然がつくってきた自然が唯一の最上の自然だという考え方は違うということが、だんだんはっきりしてきつつあるからだと僕は思います。つまり天然、自然が偶然と必然をもってつくってきたものよりも、もっといい自然がつくれるということです。
 極端な例を言うと、僕は植物学は知りませんが、たとえばこういうところに杉の森林があって、その隣に、何か知らないけれども松の森林があったとします。それが松と杉にとって最適な生存条件かどうかはまったくわからない。天然、自然の残した山林にそういうところがあるのは確かだけど、それが松や杉にとって最適な条件なのかどうかは、まだわからない。
 いまもそんなことはわかっているのかもしれませんが、植物学が発達してきて、松の隣には違う木を持ってきたほうが両方の生育にとっていいということがわかれば、人工的に変えてしまえばいいわけです。
 そういう意味合いで、天然、自然に残っている自然が最良の自然だという考え方は危なっかしいのであって、自然よりももっといい自然がつくれる。あるいは歴史的に自然につくってしまった都市よりも、もっといい都市が人工的につくれるということが可能になってくれば、たぶん人工都市ということが問題になってきます。そして言ってみれば、それがユートピア都市ということになります。
 だからユートピア都市を描いてつくることができると思いますし、一生懸命考えてエイッとつくったら、それができるはずだというところまで来ていると思います。なぜそういうことが可能になって、またそういう問題が起こってくるかというと、それはたぶん自然主義的な自然観が危なくなっているからです。
 自然を守れ、守れと言いながら、だんだん追い詰められていく以外に何もないということがありますが、たぶん
無意識の転換というのが要るわけです。「自然よりももっといい自然が人工的につくれる」というところでその問題を解いていかなければいけなくなって、たぶん人工都市という問題が出てくると思います。十九世紀から二十世紀のユートピア主義者はたいてい社会主義者ですから、本来ならば人工都市というのは総評みたいなものがやればいいんですが、これがだめなんですね。(笑)


A

  これからは「脱」がおもしろい
(引用者註.これは講演のテキストにある小見出しです)

 本当は、人工都市をつくるというのは社会主義者、あるいは社会主義的な人たちがやるべきことです。なぜならば、すでに現在は自然主義的なユートピア都市の可能性がなくなっていますから、人工都市というのがひとつの大きな目標になるわけで、少なくともそういう系譜にあると自称している人たちがやるべきなんですが、なかなかそういう頭がない。
 そうすると今度は逆に資本家、経営者の中で、割合に脱資本的な考え方を持つ資本家がやろうとします。たとえば大阪の「つかしん」がそうです。これから高度資本主義社会がどんどん発達していきますが、資本家の中でも脱資本とは何かということをよく知っている人、そのときに資本主義がどう変わらなければ存続できないか、あるいは存続して反映するためにどう変わらなければならないかということがよくわかってきた資本家もいます。そういう資本家は一種の脱資本という理念を持っていますが、そういう人たちが一種の人工都市をつくろうという試みをしています。・・・中略・・・

 藤沢みたいに、そういうものをつくっている箇所もあります。それはそれでいいんですが、何がだめかと言ってしまうと、要するに地方自治体でしょう。地方自治体の利益というか、京都市でも藤沢市でも何でもいいけれども、たとえば市の当局が自分の市の利害を優先的に考えてしまうと、単に新しい土地で、割に目新しい優秀な建築家に頼んで、そういうふうにつくって拡張したという意味しかありません。
 そのニュータウンを一種の人工都市、あるいはユートピア都市に近づけたいというんだったら、それを依頼した
地方自治体自身が、自分は予算は出しても地方自治体の利害のために予算を出すのではないという、つまり脱行政ということを持っていない限りはユートピア都市にはなりません。いかにうまく設計されても、藤沢市なら藤沢市のニュータウンの域とにおいをどうしても出ないわけです。


B

 だからその問題
(引用者註.脱という理念の問題)は、人工都市の問題としてとても重要になってきます。たぶんそれは自然観の問題と一緒に必ず出てくる。僕は自然主義的な自然観が危なくなっているということが、たぶんあると思っています。19世紀から20世紀にかけてのユートピア主義者たちは、だいたい大都市は没落すると考えていますが、僕はそう思っていません。自然的に歴史がつくってきた都市は没落しないだろうと思います。
 ただ可能性としてユートピアを考えるならば、それは一種の人工都市として可能性があるのであって、その人工都市はどういう条件でどうやればつくれるかという問題をとことんまで突き詰めていったほうがいいし、だれがそれを最初にやるかはよくわからなくて、一線上に並んでいると僕は理解しています。
 
僕はハイ・イメージ論で、究極映像という問題を念頭に置いていままでやってきました。まだ決して終わっていないので、これからも最後までやっていきますが、基本的な考え方として僕らが達したことは、だいたい今日お話ししたことに尽きます。これから相当細かいところをやっていかないといけないと思いますが、大ざっぱなところは、その考え方はいまのことでお話しできたと思っています。これが何らかの意味でみなさんのご参考になれば結構だと思います。一応これで終わらせていただきます。(拍手)
 ※@とAは、連続した文章です。










 (備 考)

吉本さんの言う「自然よりももっといい自然が人工的につくれる」は、まだまだ社会的に十分に共有されてはいない捉え方やイメージである。わたしは、この言葉を何度か目にしていたが、その背景として、「自然主義イコール人間主義だという考え方は19世紀から20世紀にかけてユートピア主義者たちが一様に拠った基盤ですが、それが危なくなってきたということ」、言いかえれば「自然主義的な自然観が危なくなっているということ」ということが語られている。こういう背景とともに語られたのは、ここが初めてのような気がする。

平和は大事だということと同様に、自然を守ろうと言われて反対する者はほとんどいないだろう。しかし、人間と自然との相互関係や人類史の主流は、そんなに単一ではないのではないかと。「自然を守れ、守れと言いながら、だんだん追い詰められていく以外に何もないということがありますが、たぶん無意識の転換というのが要るわけです。」 ということは、現在のわたしたちの無意識的な感覚が、人間と自然との相互関係や人類史の主流から少しズレているのではないかと。


近年は異常気象による今までにないような災害が増えている。長周期の地球の振る舞いによるものだろうか。2017年7月の「九州北部豪雨」災害の福岡の朝倉郡辺りの被害の惨状をテレビで観ていて、もうこれは「バベルの塔」のようなひとつの小さな町を収容できるような巨大な「人口都市」を考えるべき段階にあるのではないかとふと思ったことがある。それはそう簡単なものではないだろうけど、少子高齢化や気象条件の悪化などいろんな要素が集まってきたら、現実性を帯びてくるのかもしれない。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日 
618 普遍文学 A 第七章 『共同幻想論』 インタビュー 『吉本隆明が最後に遺した三十万字 上巻 「吉本隆明、自著を語る」 ロッキング・オン  2012.12.24

インタビュアー 渋谷陽一
関連項目492 普遍文学 @
追記2020.2.12 有り。

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戦争責任の問題 天皇制に自分なりの決着をつけたかった 普遍文学っていう概念を作れば最終的にその中にみんな入っていくんじゃないか
項目
1

@

― (略)・・・つまり、これ(引用者註・『共同幻想論』の「前書き」)は文学的にもやむにやまれぬ衝動があって書かれたんだというのを半ば戦略的にアピールなさっている。たとえばこの時期、『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』『心的現象論』という三つの大作を吉本さんは書かれるわけですけど、
こうした根底にあるエモーショナルな部分は通底しているなということを今回お話を伺って改めて感じたんですよね。

吉本 
おそらくそれは、あの戦争は一体何であったのかという戦争責任の問題でもありますし、そして戦後、党派性が全面に押し出されたマルクス主義的側面からの画一的な批評機軸をどう打破していくかという問題でもあるわけですよ。こうした問題設定から、僕は『言語にとって美とはなにか』では一種の言語論と文芸論を書き、そしてこの『共同幻想論』ではひとつの国家論、社会論をモチーフとして取り上げたわけで。ただその中でも最も大きいテーマとして、そして日本の国家論を考える上で、天皇制に自分なりの決着をつけたかったということが、この作品を書いた大きな動機であったことは確実ですね。つまり伝説とか説話とか神話からだけじゃなく、いろんなとこから天皇制をはっきりさせなきゃいけないっていう気持ちがあって、その中の大きなモチーフが『共同幻想論』には込められているんですよ。ただ、これを文芸批評と言っていいのか思想的論文だと言っていいのか、あるいは国家論ないしは共同社会についての論理だと言っていいのか。自分でもどれかこれだと言っちゃうと他の部分が抜けてしまう気がするんです。・・・以下略・・・


A

 ―だからすごくたくさんの問題提起がなされていて、それぞれから膨大な論文が作れるぐらいのテーマ設定がされていて、それが洪水のように吉本さんの中から、家族も性も国家も文学も天皇制も文芸批評も民俗学の問題も怒濤のように流れ出して、それぞれに問題意識といろいろな検証がなされてますよね。それはたとえば『言語にとって美とはなにか』とはまた違う、すごくスケールの大きい思想の奔流のようなエネルギーがありますよね。きっとお書きになってる時は何か取り憑いたような状態だったんじゃないかなという(笑)。

吉本 (笑)それほどでもないんですけどね。でも、
その頃考えた言葉でね、普遍文学というのがあるんですよ。いわゆる表現の芸術性が問題になるのが文学なんだという観念をもっと広げていったら、それは普遍文学というものになるんじゃないのかと。だからその頃、俺は何をしたいんだって言われたら、実際にあるかどうかは別にして普遍文学ってものを想定していたんです。ジャンル別にこれは文芸、これは何っていう考え方をとらなくても普遍文学っていう概念を作れば最終的にその中にみんな入っていくんじゃないかなと考えてましたね。それで相当程度の問題は、歴史的にもそれから現実的にもその範囲の中に入れていくことができるんじゃないかということは今でも考えたりしてますけど。これは柳田國男なんかの影響が現れたひとつの形だと思います。
 (『吉本隆明が最後に遺した三十万字 上巻 「吉本隆明、自著を語る」』P129−P132ロツキング・オン 2012年12月)
 ※@とAは、ひとつながりの文章です。










 (備 考)

「普遍文学」という言葉は、吉本さんの晩年近く頃語られた言葉という印象を持っていたが、Aの発言によると、『共同幻想論』(1968年)を書いている頃に考えたとある。もちろん、こうした統一的、普遍的な概念構成の傾向や欲求は、吉本さんには生涯一貫していたと思われる。


 追記2020.2.12

 「普遍文学」について、項目492 普遍文学 @ と項目618 普遍文学 Aで取り上げている。項目492 普遍文学 @では、吉本さんは若い頃に「普遍文学」について考察したように語られている。

「普遍文学」という言葉は、わたしの記憶では『柳田国男論』辺りからの吉本さん晩年のものと思っていた。上村武男『吉本隆明 孤独な覚醒者』を読んでいたら、そこで触れられている若き吉本さんの「方法的思想の一問題 ― 反ヴアレリイ論 ―」(『詩文化』1949年11月)を読み直してみようかと思った。そうしたら、その中で「普遍文学」という言葉が出てきていた。『吉本隆明全集2』のP328−P329にわたって述べられている。吉本さん24〜25歳頃の考察である。だいたいのところを取り出してみると、


 これら一連の方法的思想(引用者註.レオナルド・ダ・ヴインチ、デカルト、パスカル、エドガア・ポオ、ステフアン・マラルメ、ヴアレリイなどを指す)は確かに一つ又はそれ以上の抽象作用を強ひずにはおかないやうに思はれる。数学者達の行ふ特殊化と普遍化との相互操作による法則の導入に対応して、一つの普遍文学とも称すべきものの映像が容易にこの天才達の系譜を流れるのを覚えるのである。科学は理知性のうちに、哲学は方法のなかに諸般の芸術及び文学は心理とその諸影像のなかに、その具象的領域を失ひ、一つの普遍文学の方法的単位として溶解されるのである・・・・・・
 斯くて朧気ではあるが、僕たちは普遍文学の定義の入口に自らが佇つてゐるのを見出す。その方法は如何なる有り得べき具体的な形式を持つだらうか。
 科学の方法の最も本質的な部分は、すべて対象を可分である限りの微細な本体論的単位に分割し、それら等質的なものの不規則な反応を、一つの作用として考究するところにある。然るに対象は、これを微細な本体論的単位の基本反応の一時的結合として解するとき、或る不確定性の制限を免れないのである。即ち斯かる本体論的単位は共軛なる二量において因果律的論理といふ科学の主要な方法の範囲を逸脱するのである・・・・・・
 僕達は普遍文学の方法を意識作用の領域において幾分かこれらの場合に類推して作像することが出来るやうに思はれる。
 科学、哲学、文学、・・・・・・は理知性、方法性、心理性となつて抽象され、単に位相差を以て一つの意識の方法のなかに結合されるのみとなる。普遍文学が意識的計量の所産であるとき、これを推進するものは論理的思考に突如として移入される心理的影像或は論理的階程による思考の間に必然的に招来される不確定性を心理的跳躍によつて充填(引用者註.「填」は旧字)する操作でなければならぬ。



 この若い吉本さんの文章をたどるとき、前にも何度か書いたが、吉本さんの化学や科学、数学などとの出会いがいかに大きなものだったかがわかる。それらとの出会いなしには後の膨大な論理的思考の考察は生まれなかったように思われる。逆にいえば、この文章からは後の『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』、『心的現象論(序説)』などの論理野の膨大な歩みと考察は必然的なものに見える。

 この追記の件から考えると、当然のことかもしれないが、吉本さんに関して、本人が書き留めたことだけに限っても、自分は十分につかまえ切れていないなと自戒を込めて思った。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
619 晩年の言葉 F ―詩作としての三部作 第九章 『心的現象論』 インタビュー 『吉本隆明が最後に遺した三十万字 上巻 「吉本隆明、自著を語る」』 ロッキング・オン 2012.12.24

第九章 『心的現象論』は、「SIGHT」第三十一号 2007年4月号に掲載。
インタビュアー 渋谷陽一

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文芸批評という基軸の中において 文芸批評という詩 吉本さんが何をやろうとしているのかっていう俯瞰した視点 今の吉本さんは、むしろ『共同幻想論』『言語美』そして『心的現象論』において考えられていた、「社会って何だろう?」「言語って何だろう?」「心って何だろう?」という基本的な疑問を有機的に組み合わせながら繙いていくという、今そういう状況になってらっしゃる
項目
1

@

― 僕も若い頃から必死になって『共同幻想論』『言語美』、そしてこの『心的現象論』という三部作を読んだんですが、とにかく難解で(笑)。ただロック評論家としてかなり素人的な認識をするならば、つまりこれらは吉本さんの詩なんだなあと。

吉本 ああ、はい。そうですね。

― 要するに、最初に吉本さんがおっしゃいましたけれども「俺は小林秀雄にはなれない。だったら小林秀雄とは全く違う形で文芸批評を書いてやるんだ」と。その時に吉本さんの取られた方法は、
ひとつひとつ心の問題や社会の問題、あるいは言語の問題をどこまでも論理的に突き詰めるんだけれど、それは言語学的、心理学的、あるいは政治思想的な問題ではなく、文芸批評という基軸の中においてその在り様を理解していくということだったんですね。すべてはそういう試行錯誤の中における、非常に論理的な営為なんですけれども、最終的に詩を書くための、文芸批評という詩を書くためのプラクティスであったんですね。

吉本 いや、そう理解してくれるともう、僕も文句言うことないですね。
 (『吉本隆明が最後に遺した三十万字 上巻 「吉本隆明、自著を語る」』P167−P168 ロッキング・オン 2012年12月)


A

― だからオリジナリティという点で言えば、専門家は誰ひとりそんなことは創り得ていないわけで。吉本さんは、たとえるなら何もない荒野に家を建ててしまうわけですよ。ただ、その家だけを論じてもしょうがないわけで、そういう家がいっぱい建っている街の中で
吉本さんが何をやろうとしているのかっていう俯瞰した視点がないと、一個一個の建物も何の意味を持っているのかよくわからないんですよね。そうした吉本さんのグランドデザインを見ないとダメだと思うんですけど、みんななかなか見ないですよねえ。

吉本 ええ、そうですね、それは見てくれないですね。見てくれないし僕の文章は悪文ですから、たとえばこれをわざわざ翻訳して、どうだこうだと言ったって、何とも思わんでしょうし、ただ別に評価してくれるもくれないも、そんなことは第一義的な問題ではなく、いろんな結果や評価があってもなくても、ここまでは考えたなあっていうのはありますから。それはあんまり人に「どうだ」って言ったって仕方がないことだという気持ちではありますね。

― だからこそ
今の吉本さんは、むしろ『共同幻想論』『言語美』そして『心的現象論』において考えられていた、「社会って何だろう?」「言語って何だろう?」「心って何だろう?」という基本的な疑問を有機的に組み合わせながら繙いていくという、今そういう状況になってらっしゃるっていうのは、すごく幸福なことですよね。

吉本 ええ、我ながら、自分と自分の問答みたいなところでは、相当幸福なのかもしれません(笑)。

 (『同上』P170−P171)


備考
 (備 考)

『共同幻想論』『言語にとって美とはなにか』『心的現象論』という三部作が、文芸批評という基軸の中において統一的な視野を持ちながらの文芸批評という詩の実践であったというような渋谷陽一の理解は、よい理解だと思う。


Aの吉本さんの自分の本の「翻訳」に触れている辺りが、以下に引用する橋爪大三郎の「晩年、吉本本人に、著作を西欧語に翻訳してはと薦めたことがある。『いや、私のは、そんなんじゃない』と身を縮こまらせるように拒否したのを、私はとても奇異に感じた。」という言葉への返答になっていると思う。思い込みの激しい橋爪大三郎は、自分の甲羅に似せて他人の甲羅を判断しているように感じられる。最初に橋爪大三郎のその文章のその部分を読んだ時事情がよくわからないから「ふうん、そうかなあ」としか思わなかったが、このAの吉本さんの考えからすれば、橋爪大三郎が自分の持つ「翻訳」というもののイメージに引き寄せて思い込んでいると考えるほかない。


 橋爪大三郎の吉本さんの「ミシェル・フーコーへの手紙」(『吉本隆明全集17』所収)に対する短い批評には異和感しか感じなかったので、一度、異論を述べたことがある。 ここでまた少し触れてみる。
 その橋爪大三郎の文章の後半は以下のようになっている。


フーコー宛ての書簡は、《なにが問題なのかということの以前に、…問題を乗せる急拵えの舞台を作ることにおわりました》(四五○頁)と結ばれる。《それは必要なことでありましょうか?》(四五○頁)と。

こうして、西洋と東洋が対称的に配置された構図の、どこが悩ましいのか。

まずこの、西洋と東洋を対比する構図そのものが、ヘーゲル(すなわち、西欧思想)からの借り物である。おまけに、対比さるべき東洋の思想を記述する用語系も、西欧思想からの借り物である。自然、自由、専制、共同体、意識、普遍性、無限性、アジア的、…などなど。西欧のメガネをかけ、東洋のさまをなぞっているだけではないのか。《問題を乗せる急拵えの舞台を作る》ことさえ、出来ていないのかもしれない。

このことは、言い換えれば、吉本隆明は自分の思想を語る言葉(用語系)を持てているのか、という疑問になる。



この書簡で、吉本は身を縮こまらせ、恥じている。それでも礼儀は尽くすべきだと、背筋を伸ばして書簡をしたためた。しかし、返事の来なかった書簡を、発表することはなかった。晩年、吉本本人に、著作を西欧語に翻訳してはと薦めたことがある。「いや、私のは、そんなんじゃない」と身を縮こまらせるように拒否したのを、私はとても奇異に感じた。自身を含む日本の知について、私などが想像できないほど絶望していたのかもしれない、といま思う。
 (「日本の知についての絶望 吉本は身を縮こまらせ、恥じている」橋爪大三郎、「週刊読書人ウェブ」所収) 



 まず、わが国は明治近代以降、欧米の言葉や思想の大波を二度にわたってかぶってきたから、現在のわたしたちは誰でもそのことを自然な前提とせざるを得ない。つまり、人々や社会の隅々にまで滲透し影響を振るっている大波の影響を後戻りするようにはがしてしまうことはできない。そういう二重化したような社会や考え方や言葉を時には疑問に付すということがあっても、割と無意識的な自然な前提となってしまっている。それでも、そこから欧米自体とスムーズに対話が出来るわけではない。そこから「問題を乗せる急拵えの舞台」という言葉がやって来ている。このような事情は、吉本さんや橋爪大三郎に限らずわたしたちすべてに関わることである。
 そして、その対話というのは、「自分の思想を語る言葉(用語系)」というような用語的なものではなく、外在と内在とがうまく出会えるような対話(外からの対象への視線・感受と内側からの対象への視線・感受とがうまく交差できるような対話)のことである。それをわかりやすい例で言えば、どうやったら家族内の夫婦の対話のように可能かということである。橋爪大三郎は、ここの部分の誤解や思い込みから、末尾の「この書簡で、吉本は身を縮こまらせ、恥じている」という屈折した捉え方に突き進んでいるように見える。

   





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
620 晩年の言葉 G ―世界観念 第十一章 『悲劇の解読』 インタビュー 『吉本隆明が最後に遺した三十万字 上巻 「吉本隆明、自著を語る」』 ロッキング・オン 2012.12.24

第十一章 『悲劇の解読』は、「SIGHT」第三十三号 2007年10月号に掲載。
インタビュアー 渋谷陽一

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小林秀雄 自意識を突き詰めて批評言語が物質化するぐらいに研ぎ澄ましていく 今の僕のテーマ 自意識を拡張していけば、それは超えられる。めんどくさいから、これを「世界観念」という言葉にして、みんな一緒にして
項目
1

@

― ・・・略・・・吉本隆明がどう批評家として存立し得るかということが、この小林秀雄論には書いてあると思うんです。『悲劇の解読』の中で取り上げている唯一の批評家で、柳田國男や折口信夫とはまた違う存在として、向かい合わなければならない最大のテーマであった。
「自分はどう小林秀雄と違うのか」をはっきりしようじゃないかっていうのが、この小林秀雄論の最大のテーマだと思うんですよね。吉本さんには、自分の中において絶対テーマとして必然的にある、社会的なテーマや政治的なテーマというようなものと向き合わないと、これは埒があかない。「そこを俺はきっちりやっていくんだぞ」っていう、その宣言ですよね。この小林秀雄論というのは。

吉本 ええ、はい。

― そこが一番重要だと思うんですよ。吉本さんは謙遜なさって、誤魔化して横に行った
(註.1)なんておっしゃってますけど(笑)、そうじゃない。明らかに小林秀雄を超えようとしたゆえの行動で、僕はそうした方法論の中においては超えていると思う。そこで面白いことに、ずっと、吉本さんの中に小林秀雄コンプレックスというのがあるんですよね。

吉本 すごい人ですから。
自意識を突き詰めて批評言語が物質化するぐらいに研ぎ澄ましていくんですから。こんなことをやれた日本の評論家はこの人ぐらいですよ。

― だから、「これは敵わないなあ」という思いも吉本さんの中には複雑な思いとして、重層的に現れますよね。

吉本 ええ、その両方ともが、
今の僕のテーマになってると思うんですね。今のところ、自分はそれができていないし。どういう方向性でそこに行けるか、何となしに朧気な像はあるわけです。だから、それを自分で自分にはっきりさせていければきっと、自意識の面からも、自意識以外の政治意識からも、解けていくんじゃないかなって。一番やさしいのは、右翼左翼も、民族主義者も、そういうの全部含めて、自意識を超えればいいんですよね。これはどんなに拡大してもいいし小さくしてもいいんです。つまり日本国にしても、アメリカ国にしても、ヨーロッパ、中国、ロシア、どこもみんな入れちゃっていい。どこも、政治家とか政治意識もみんな一緒くたに超えちゃえばいいんだって。それはどうやれば超えられるか。自意識の面をもう少し追求して自意識を拡張していけば、それは超えられる。めんどくさいから、これを「世界観念」という言葉にして、みんな一緒にして(笑)。

― (笑)。

吉本 社会主義国と資本主義国とか、進歩派と保守派みたいな二項対立のバカらしいことはいちいち言わなくてよくなる。
世界観念に俺は敵対するといえば、両方が入るから。こういうふうに考えようじゃないかって、この頃そう思ってますけどね。自分のダメなところと同一なところだから、ある明瞭な観念の塊っていうのを対置することができればいいんだろうって。何となく朧気に、ちょっとわかってきたぞっていう感じなんです。


A

― それほど小林秀雄というものが、吉本さんの中において、表現活動、批評活動の中で大きいというか、ひとつの基準になってるっていうか。小林秀雄なるものとは違う、いかに自分なりの基準やビジョンや評論のデザインを創っていくかっていうのは、すごく重要なわけですよね。

吉本 ええ、これはいろんな意味で、他のこととも繋がってくだろうと思っています。
それで今は、自分にとって第二の敗戦期だなあと感じているんですよ。戦争末期と、敗戦直後の頃の自分が当面していた、これからどういうふうに生きていけるんだとか、何を信ずればいいんだとか、それから、食べるものもないとかいう状況。自分で、もう一回そこんところへ持っていって、同じぐらい、そういうことを切実に考えれば、何とかなるんじゃないかなあ、みたいな。
 (『吉本隆明が最後に遺した三十万字 上巻 「吉本隆明、自著を語る」』P195−P198ロツキング・オン 2012年12月)


備考
 (備 考)

(註.1)
これは「超」のこと。ささいな言葉のやり取りではあるが、ここは、吉本さんは文字通りで、「謙遜」も「誤魔化して」もしていないとわたしは思う。つまり、文字通りで「超」という言葉を使っていると思う。この言葉は、上に引用した直前にある次の吉本さんの言葉を受けている。


吉本 だんだんわかってきたというか、自分が追求しようとしていることと、少し、距離があるんですね。少しずつ年を取ったからこそわかってきたこともあります。小林秀雄に感心した面というのは、今もちっとも変わってないけど。自分は、「こりゃダメだ。とても小林秀雄のようには自意識の問題を追い詰めて、そこまで行けなかったなあ」っていうことと、乗り越えないで横に逸れて誤魔化したなっていう。それを視野が広がったっていうふうに自分で自己納得させていますが(笑)。僕が好きな親鸞は、「超」っていうことを言っているんですよ。「おう、これだこれだ!」って。乗り越えるのは縦ばっかりとはかぎらないんだっていう(笑)。
 (同上 P194−P195)



吉本さんは、晩年に「第二の敗戦期」ということをしばしば口にしている。このAによれば、戦争−敗戦からの自分の立ち直りと同様のものとして受けとめられていることがわかる。そうして、ここで語られている「世界観念」という言葉は、「普遍文学」という事とも関わりがあり、またこの「第二の敗戦期」を乗り越えていくモチーフも内蔵している言葉に見える。

進歩や保守や右翼や左翼などの残骸の観念が、たぶん昔と少し違った表情をして相変わらず漂っている。少し違った表情というのは、それらが激しく対立すると見えた背景、資本主義と社会主義の対立が、ソビエトロシアの崩壊によって解体してしまったことを指している。その分、残骸以外ではなく、まるでオタク趣味みたいな軽い感じの言葉が口にされている。しかし、これらは真の対立をあいまいにする党派性以外のものではなく、現在避けられない最後の党派性が存在するとすれば、それは大衆の生活の具体性に置かれるほかないと思う。

   





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
621 晩年の言葉 H ―天皇制 第十六章 『超西欧的まで』 インタビュー 『吉本隆明が最後に遺した三十万字 上巻 「吉本隆明、自著を語る」』 ロッキング・オン 2012.12.24

関連事項 項目ID 458 天皇制
第十六章 『超西欧的まで』は、「SIGHT」第三十九号 2009年4月号に掲載。
インタビュアー 渋谷陽一

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少しピタッと据わるような言い方で言ってみたい 天皇制というものの起源、アフリカ的段階の名残。 高度な資本主義の中にアフリカ的なる、天皇制という宗教性が残っているという、非常に特殊な社会構造 そう簡単にグローバルと言わないでもらいたい
項目
1

@

― ・・・略・・・社会全体と思想とを含めて、それを読み解く方法論は何なのかと考えた時に、吉本さんはアジア的なものに至られた。アジア的なものと西欧的なもの、その両方から読み解くという発想がない限り、社会もわからないし思想も前に進まないじゃないかというのが、この本以降の吉本さんのお立場ですよね。

吉本 ええ、そうだと思います。大体、資本主義と社会主義とか言っていますがそれは言ってる人が言ってるだけで、両方ともどっちがどっちだかわからなくなってきましたよね。かえって資本主義のほうが気の利いた共同性を作り出したりとか、そうかと思うと超資本主義と言っていいくらい大発達を遂げて、地球一回りの状況は小1時間もあれば全部わかってしまうというところまで科学を持っていったというのも、もとをいえば西欧の資本主義です。そのお手柄というのは、世界全般にわたって恩恵も受けているし、影響も受けています。だからどう割り切っても単調で、超西欧的というのも据わりは悪いし、アジアと西欧って並べても据わりが悪いという状況になっていると思いますね。
それじゃあ据わりが悪いという言い方じゃなくて、もう少しピタッと据わるような言い方で言ってみたいというか、言えるような概念を作っていきたいという欲求はあります。自分なりには少しずつそれが形になって出てくるという方向に行きつつあると思ってますけど、ではどういうふうに据わりをよくしたのか。


A

吉本 舞台としては日本が一番自分には適切で、それで天皇制とは何なんだと考えたいのですが、その普遍的な説明は僕なりにできると思います。それはできるけれど、そんなことよりも、まず僕は
天皇制というものの起源からの経緯を考えますと、あれはアフリカ的段階の名残のひとつですよね。アフリカ的段階というのは、実際的な意味での原始、つまり野蛮、未開の段階です。天皇制は2000年前くらいからありますが、その頃から形は変えながらも今も続いてきている。つまり、アフリカ的段階の世界で普遍的な状態のひとつが天皇制なんだという言い方はできると思いますね。まあ、とりあえずは「段階」という考え方で逃れようという、そういう考え方をしているわけです。

― 今の日本の社会の状況というのは、全然アフリカ的な状況ではないわけですよね。

吉本 ないです、全然。高度な資本主義ですよ。

― 
高度な資本主義の中にアフリカ的なる、天皇制という宗教性が残っているという、非常に特殊な社会構造があるわけですね。これを従来型の西欧合理主義の中でいうと、わけがわからないとか、あるいは間違っているとか、そうなってしまいますね。

吉本 そうなるでしょうね。だけど西欧の合理主義だって、歴史的な段階が進んでいくにつれて、たくさんの考え方が生まれているのに、唯物論だとか機能的に科学的なのがいいんだみたいなことをいっていますが、それは冗談じゃないよと思います。それも病気じゃないかって(笑)。つまりある段階の名残なんです。西欧的な段階の名残で、世界性はないんだと思ったほうがいい。そう修正してくれたほうがありがたいです。そのままの形でグローバルなんていってもらったら、勘が狂ってしまうというか、また違うところへ行ってしまうということがあり得ますね。
天皇制だって、新憲法のものはアフリカ的段階ともちょっと違うような気がしますね。自分なりにどこが違うかということはちゃんとありますが、それはこの段階論で歴史を考えて、そのどれかの名残がどれだけ今も残ってるのかということが問題だと思いますね。西欧も、西欧的段階をどこまで残してるのかということが問題です。西欧的段階に固執するために、グローバルという言葉を編み出して、自分の所の段階がグローバルなんだってアメリンなんかは時々言います。しかし、それはアメリカ的な段階、あるいは西欧的段階のひとつに過ぎず、僕はそう簡単にグローバルと言わないでもらいたいですね。
 (『吉本隆明が最後に遺した三十万字 上巻 「吉本隆明、自著を語る」』P281−P283 ロツキング・オン 2012年12月)
 ※@とAとは、一つながりの文章です。










 (備 考)

起源的に見て天皇制は縄文期まで遡るということは、吉本さんがどこかで述べていたことは覚えている。ここで語られている「天皇制というものの起源からの経緯を考えますと、あれはアフリカ的段階の名残のひとつですよね。」という言葉は初めて聞く言葉だなと思ったが、縄文期ならばまだ古代以前でアジア的な段階以前だから、アフリカ的段階ということになる。それは本格的な稲作農耕以前だから、おそらく天皇制もアフリカ的段階やアジア的な段階のものを宗教性や儀礼などに織り込み畳み込んできたものかもしれない。そのことは天皇制にまつわる宗教性や儀礼など追究すれば明らかになるだろう。

ここでは触れられていない現在の「象徴天皇制」の内側も、吉本さんがどこかで語っていたが、近代以降の自由・平等やそのような家族観などの影響を受けてきている。つまり、時代の波を被ってきている。

わたしたちは、天皇制というと明治以降の作り上げられた強力な天皇制を想像しがちである。しかし、中古や古代の天皇制の規模やイメージは、―物語や記録や日記に断片的に残されているだろうが―それとはまた違ったものだったかもしれない。さらに、縄文期のアフリカ的な段階の天皇制のようなものにまで行き着くと、集落の中で育まれたある尊び敬われる集落規模の宗教−行政のシステムと対応する形にまで行き着くのかもしれない。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日 
625 表現の歴史的な固有性 「固有値としての自分のために 2」 インタビュー 『吉本隆明資料集 181』 猫々堂 2018.12.30 

初出は、『kototoi』第1号2011年11月30日発行。
聞き手 菊谷倫彦
関連項目 言葉の吉本隆明@
 項目ID62 項目 古典
 項目ID118 項目 古典評価

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その時代環境とか、そういうのも含めて、環境がその人にプラスになるように援助してるんじゃないでしょうか。 難しくなったんだよ時代が 二千年なら二千年のアレを圧縮したのと似たくらいな努力 芸術とか倫理とかいうことについては、昔のほうがはるかに立派ではないかともいえるし、立派ばかりではなくて、はるかに残酷だったではないか
項目
1

@

―― たとえば、大昔の人なんかは、自然の感じ方というのは独特のものがあって、日常の言葉みたいなのがそのまま詩の世界になっていったんですかね。そのへんはいかがですか。

吉本 
僕もはじめはそういうふうに考えていましたけど、どういったらいいでしょうね。昔の人は昔の人なりに、いまの人間にはとってもできないんだというような描写が、ひとりでに環境と自分の心との間にそういう関係があったから、別に学問があるとかなんか、そういうもんじゃなくても、詩を書くとなんかそれらしい直接性みたいなのが出てきたっていう。
 だから、日本語で考える限り、詩歌っていうのも、その成り立ちは、ここに自然の知識もないし、風景をぼんやり見ているように描写されていて、それは素晴らしい、いいなあっていうふうになるのはなぜなのかっていったら、
その時代環境とか、そういうのも含めて、環境がその人にプラスになるように援助してるんじゃないでしょうか。だから、昔の詩がなぜいいのか、いまの詩が、どんな偉い人が書いても、それはやっぱりなんとなく駄目だな、という感じももちろん一方で持っていて、本当なんですけど、その人の才能はもちろんあるかもしれないけど、才能だけじゃないよって。やっぱり、天然の環境から何から、生活環境から、日々のやっていること自体、そういう環境全部から、自分と人との関係とか、自分と風景との関係とか、自分と仕事との関係とか、全部が引っ絡まってじゃないと、その表現はなかなか出来ないよと。
 こんなうまい表現、いま、どんな知識人がアレしたって、できるはずねぇよって思えるものが、万葉集のなかに、見事な詩になっているものがありますね。その人の固有のものだけじゃなくて、もっとその固有性の外側にあるなかで、周りが全部加勢していないと、そういう詩は出来ない。だからいまだって、万葉の詩歌に匹敵するような歌を、いまの歌人で書いて見ろっていったって、たとえば、斎藤茂吉みたいな人も、一生に五つくらい、そのくらいのアレになってるものはありますけどね。
 
昔の人だったら、ただぼやっとして風景を見て書けた言葉にしたって、それはそのままいい詩になっちゃってるってことがあり得ちゃうわけですけど、いまの人にそういうのと同じ精度のものを書いて見ろっていったって、それは無理な話で、いまの人はせめて匹敵するようなものを書くぐらいだと思います。たとえば、斎藤茂吉の「死にたまふ母」みたいな。短歌ですけど、ああいうのは万葉の詩にまずまず劣らないと思いますから、珍しい詩だと思います。茂吉の詩でも珍しい詩だと思いますけど。
 茂吉の「死にたまふ母」みたいな作品と匹敵するような作品は、『万葉集』にもそんなにあるもんじゃないよっていう。なぜ茂吉はそれが出来たんだというと、表現していることばとか、調子とか、光線とか、そういうのが、いまの茂吉のような第一級詩人が精一杯、一生かけて考えても、「死にたまふ母」のような作品は、五つ六つですよね。茂吉の短歌のなかで。
それは、なぜそうなのかといったら、簡単にいっちゃえば、難しくなったんだよ時代が、ということなんだと思いますけど。
 茂吉の「死にたまふ母」を読むと、やっぱりちょっとこれは万葉のいい歌に匹敵するっていうふうに出来てますね。だけど、そのためには茂吉がどれだけ表現の苦労をしてるかってなってきたら、ちょっと言いようがないよっていう。
 茂吉はお医者の仕事なんか半分ぐらいにまけておいて、それで歌ばっかりつくっていたから。
 (「固有値としての自分のために 2」P75−P77『吉本隆明資料集181』)


A

吉本 昔と同じような言葉で、いまでも歌人は和歌で、そういう歌を作っていますけど、同じようにアレするために、どれだけ圧縮された時間を、自分の職業生活、その他の間でやったかっていうことはすぐに分かりますよね。そういうふうに分かってくると、いまの偉い歌人が昔の何の知識も何もない人のサラサラっと畝のように言い出したのと、同じ程度くらいしか芸術性はないよっていうことはごもっともっていうふうにも言えるわけですね。
 だから、茂吉みたいな人はそれを本気でやっちゃったわけですね。やっちゃって、しかもお医者さんだから、患者さんもみなくちゃいけないし、薬も出さなきゃいけないし、ぼんやりしているわけになんかいかないし、それだけ余計な仕事を平気な顔してやるっていう、そういうことができなければ、万葉と同じ程度の詩を、まあ短歌ですけど、そういうアレを作れるっていうことは考えてもあり得ないことです。
ちゃんと二千年の年月を飛び越えるくらい、本職のお医者さんで生活しながら、そのほかにその圧縮した歳月に相当する練習をしていることを意味しますね。これは天才でもなんでもないです。
 それくらい難しいことだし、これからまた時代はもっといまよりも難しくなるでしょうけど、それに耐えきれば、やっぱりあの人は人からも芸術家だっていう作品が書けるし、稀にしか出てこないような作品も出てくるし、それだけの
二千年なら二千年のアレを圧縮したのと似たくらいな努力をしていると思いますね。それで、そのうえの現代的な生活もやるっていう。そういうこともまずやって、平気な顔をしながら、でも、誰にも分からないような片隅のところで、お茶を飲んでるときでも、関連した物事を考えてるっていうことをやっているに決まっているわけだと思いますけど。
 (「同上」P78−P79)


B

 これは難しい問題です。人間が生み出す文学や、芸術にも同じことがいえます。
 たとえば昔の人を見ると、ほとんど野蛮人じゃないか、未開の人じゃないかと思っても、そういう人が、いまの専門家には及びがたい芸術や、歌を作っていますから、逆立ちした難しさというものがあります。
 
芸術とか倫理とかいうことについては、昔のほうがはるかに立派ではないかともいえるし、立派ばかりではなくて、はるかに残酷だったではないかともいえます。
 残酷も減ったけれども、立派だというのも減ったというのが、時代の発達ということだろうと思います。

 (『第二の敗戦期―これからの日本をどうよむか』P17−P18 春秋社 2012年10月)










 (備 考)

わたしが気に懸かっていることとのひとつに、大昔や太古の人々の感じ考え方はどんなものだったか、どうしたらそれをつかめるかというのがある。もちろん、その方法は、ある程度は分かる。当時の人々が造形したものや書き記したものを当時の社会や感じ考える歴史的な段階に沿ってたどっていくことである。

たとえば、昔の「残酷」について例示すれば、信長の家臣だった太田牛一が信長の死後にまとめた織田信長の一代記、『信長公記』には、敵方の城を攻め滅ぼして、女子供含む三百余人を三つの家に閉じ込め焼き払ったという記述がある。これには作者もむごいものだったと感想を記していた。


わたしたちは、無意識のようにわたしに染みついた現在を携えて、過去や同時代のこの列島の他の地域や外国などに赴いていく。わたしたちの感じ考えることに無意識のように染みついているから、現在のものを携え、それによって対象を捉えているということには割と無自覚的である。ただ、あ、それは自分の所とは違うなあと気づいたときにはある内省が訪れることがある。

わたしたちが、過去に向かう時の方法や心得について語ったのは、わたしの知る限りでは吉本さんしかいない。上に関連項目として挙げた「言葉の吉本隆明@」の「項目ID62 項目 古典」と「項目ID118 項目 古典評価にについて」でそのことに触れている。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
626 晩年の言葉 I ―ほんとうの知識に向かって 第3章 第二の敗戦期とはなにか インタビュー 『第二の敗戦期―これからの日本をどうよむか』 春秋社 2012.10.20

※本書は二〇〇八年五月二六日、六月十三日、十九日、二四日の四回にわたるインタビュー。
インタビューアーは皆川勤

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ようするに生活感がないから、ほんとうの知識がないのだといえます。 これから先へは行くためには ぼくは、社会全体を見るときにどこを中心にしているか 政治家のほんとうの役目
項目
1

@

 柄谷行人さんや蓮実重彦さんたちがいっていることは、
中小企業の中以下の仕事とか、職業に就いてる、勤めている人のことなんか、なにも頭に入ってないではないか、ひとつも勘定に入っていないのではないかと思います。
 これだけ格差が拡がり、状態が酷くなるなかで、知識人とか教養人とかいわれている彼らがいうことは人々に引っかかってこないではないかと思うし、われわれにも何も引っかかってこないといえるような気がします。
 
ようするに生活感がないから、ほんとうの知識がないのだといえます。それでは教養とはいえないわけです。教養というのは現状についてよく洞察し、物事の始まりと、これから後、そんなに長くはない射程でこうなるだろう、ということを予測できるという、それだけのことを自分の中で身につけていれば教養なのだけれども、あの人たちのいうことは、そこになにも引っかかってこないと、ぼくはそう思います。
 
さらにいえば、教養を現実に生かすためには、古い時代に遡って宗教性の問題までとらえて、それを咀嚼し、本格的に解釈できればたいしたものだし、文学に関しても、古典がなぜいいのかということを説明できるぐらいのことはやって欲しい、といいたい気がします。
 そうでないとこれから先へは行けないと思います。
なにかすべてが内向するばかりで、内向する倫理、内向する犯罪凶悪性に対しては、古代の孔子による儒教の倫理で正当なことを、そのままいってもいまの人には通用しないということに、もうすでになっているわけです。
 (『第二の敗戦期―これからの日本をどうよむか』P109−P110 春秋社 2012年10月)


A

 
ぼくは、社会全体を見るときにどこを中心にしているかというならば、産業でいえば消費産業がどこまでいったかということと、働く人がどこまで働けばいいかという労働時間の問題に注目してきました。先ほども述べたように、一週間の半分は休んでも個人の生活が成り立つし、産業としても成り立つという、そうなればよいと考えてきました。
 そういうことはだいたいわかりきったことだと思うのですが、
識者といわれている人たちのいうことは、そこに引っかかってくることがなにもないではないか、といえるような気がします。
 お金を持っている人があまりに儲けすぎているのなら削って、中産の中以下の人たちに儲けを回していく、というのが
政治家のほんとうの役目だと思います。もしそういう政治家が出てきて、個々の産業家はいくらでも儲けてくれ、だれもそれをけしからんとはいわないから、そのかわり儲けは中以下の人たちへ削って分けてくれというのが、自由と平等ということだと思うし、矛盾もしないし、なににも抵触しないと思うのです。
 (『同上』P110−P111)
 ※@とAは、ひとつながりの文章です。


B

 柄谷さんたちのような人は、結局中途半端に、いかにも権力を取ることや、取ることを支援していくことが目標であるというように振る舞っていますが、もう少し中産階級の下の方の人たちがどうしたらよいのか、ということを考えていかないとだめだと思います。あまりに学者的に偏向しすぎているといえます。
 
権力を取らなくても、格差をできるだけ縮めるとか、中小企業以下の企業が盛んになるようにするにはどうしたらよいかということをもう少し考えるべきだと思いますが(註.1)、そういうことの方に彼らはあまり関心がないようです。やはり権力をまずいちばんに取ることが、既定路線であると思い込んでいるわけです。
 そういう考え方というのは、レーニンの考え方のいちばんだめになってしまった部分だと思います。
 レーニンには理想主義的で、よい部分があるし、『国家と革命』というのもいい本だと思いますが、それ以外の「組織論」などは、いまは使えないというか、問題にならないというのが、ぼくらの考えではそう決めています。 柄谷さんは権力をまず取ってからという、レーニン流の革命主義とか集団主義というか、そういうことをして、書く本もそうだし、書き方もそうです。

 (『同上』P112−P113)










 (備 考)

(註.1)
「実際には、社会を変えるためには、むしろ下からいった方がいいし、その方が速いと思っています。ただそのことでひとつだけ考えなければいけないことは、ようするに産業構造として、より消費者に寄っていく、つまり第三次産業というのが主体になってきつつある、というのを考慮に入れないとだめだということです。」  (『同上』P114)


「ほんとうの知識」というのは、難しいことだが、少なくとも言えることは局所的な視線や利害を言葉や思想に意識的・無意識的に忍び込ませないことだと思う。そうして、その局所的な視線や考えをあたかも普遍であるかのように作為しないことだと思う。

ほんとうにそうした人々が「識者といわれている人たち」で、そのような言説が社会空間に満ち満ちているような感じがする。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
632 晩年の言葉 J ―歴史の主流の推移について 第三章 「日本の現在の政治状況について」 インタビュー 『吉本隆明が最後に遺した三十万字 下巻 「吉本隆明、時代と向き合う」』 ロツキング・オン

インタビュアー 渋谷陽一

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黙っていればだんだんそうなっていくさ 放っておく前に何かやらかしてしまうかもしれない 人工的に歴史を変えようというふうに考えると、出てくることはみんな悪かった 特に政治については、あんまり真面目な人にやらせるとロクなことがないよとか。
項目
1

@

―― (笑)ただ、20年前はフリーターであることに対して後ろめたかったですけど、今はむしろ威張ってるっていうような情況になってるのは、それこそ社会構造のものすごい変化が生んだ成り行きなわけじゃないですか。で、吉本さんが今おっしゃったことを、吉本さんの表現をお借りすれば、フリーターであることに対して自覚的でありつつ、それを思想化したフリーターっていうことだと思うんですけれども。これからまた10年ぐらいでドラスティクな構造変化が進んで、思想化したフリーターが増えてって、それこそいい意味で社会を蝕んで、脱構築していくっていう、そういう絵っていうのはどう思われますか?

吉本 いや、いいんじゃないですか。要するに渋谷さんの言われたことを、
僕流の言葉で言い直せば、要するに黙っていればだんだんそうなっていくさ、っていうことです。黙ってりゃ、そうなっていくんなら、何も無理する必要ないじゃないかっていう論理は成り立つわけです。いいこと、悪いこと以上に、社会的な成り行きっていうか、そうなっていくだろうっていう。つまり、ただ悪いこと、マイナスなことをしなきゃ、何にもしないほうがいいよ、って僕には思えるんですね。だから、だいたい成り行きとして、そういうふうになるに違いないって思えることは、要するに昔みたいにドンドンパチパチやってとか、棒か何か振り回してどうにかなるっていうことは、まず黙って放っておけば、ジグザグがあったとしても、それと同じことになるからね、っていうふうに言えると思いますから、それでもいいんじゃないかというふうには思えますね。だから、たとえば社会変革でも社会革命でもいいですけど、そういう概念っていうのは、昔流のマルクス主義みたいな考え方は、多分違うんじゃないかなあと思いますけど。でもただこれはわからないことで、知識的に違うと思うっていうだけで、実際問題、本当に一寸先はわからないですから。まあ、そうなって誰が一番苛立つかって言ったら、若者や一般の社会人が苛立っていて、放っておく前に何かやらかしてしまうかもしれないし、でも、それは時間の幅をどうとるかということであって、幅を大きくとれば、黙ってたって、ひとりでにそうなるよっていうことと同じです。だから、マイナスのことをしない限りは黙っててもそうなるよ、っていうことは言えそうな気がするんですね。

A

吉本 だからそれは言えそうだっていうことは何なのか、ということじゃないのかなあ。そこら辺とかも僕らは自分っていうのはわからないなあ、と思うことのひとつなんですけど
。そうだったら、黙っててもそうなるよっていうのは、誰がやるの?誰がやったような格好になるの? っていう。やっぱりそれは、現在ある既成政党だけで言えば、共産党より自民党だよ、って決まってるわけです。つまり、一番保守的で、確かな足場を持っていて、それで一番大きな発言力を社会的に持っている、そういう奴がやったっていうふうに、放っておけば形としてはなるでしょう、っていうことですよ。それで、あんなものにさせたくないんだって言うのなら、人工的に、意識的にするしかないっていう以外に言うことはないと思います。何だってそうなりますよっていうふうに思えば、そうなるんじゃないでしょうか。まことに儚い話ですけど(笑)。
 
 (『吉本隆明が最後に遺した三十万字 下巻 「吉本隆明、時代と向き合う」』P76−P78 ロツキング・オン 2012年12月)  第三章 「日本の現在の政治状況について


B

吉本 ・・・・・・だからそれより意図的に、しかも早くそういうふうにって思うんならば、いくつか重要な要点だけ、これだけはこうならなきゃ肯定してはいけない、断固ストップをかけるとかっていうものを――たとえば自由度っていうのは、少なくとも今より大きくならなきゃダメだとか。今よりもとにかく一般の人の懐は大きくならなきゃダメだとか――見ていれば、自然に赴くままにっていうんでも、そうなるだろうなあっていう考え方でよろしいんじゃないでしょうか。
ただ、意図的にっていうか、我慢できないからもっと早くこういうふうにやって、って考えると、人類っていうのは必ず失敗してるんですよね。つまり、たいてい自由度が少なくなったとか、ちっとも豊かにならなかったとか、ことごとくそれがマイナス点で出てくるんですね。ただ、その意図は決して悪くはなかったんだけど、人工的に歴史を変えようというふうに考えると、出てくることはみんな悪かったっていうふうに、どうしてもマイナス点だけしか出てこないっていうふうになりますから。今までのやり方っていうのは、どれだけいいイデオロギー、思想を持っていようと、やったことはことごとく反対のことしかできなかったわけですから。

―― そうですね。ファシズムだって悪いことをやろうと思って出てきたわけではないですし、共産主義なんて最も志の高い思想だったわけですからね。でも、その結果は何であるかを考えれば、本当にそういうことなんですよね。

吉本 だから要するに、そういうふうに考えると、あんまり真面目にならないほうがいいんじゃないの?みたいなさ(笑)。
特に政治については、あんまり真面目な人にやらせるとロクなことがないよとか。あんまり真面目過ぎると必ず悪いことになっちゃうぜ、みたいなことが、なんとなく言えそうだから。なんか自由度だけは増える方向ならいいけど、減る方向には絶対やらないとか、いくつかの要点を押さえてするっていうことはできると思うんです。それで、その要点に反するところがひとつでもあれば、そんないいことを言っててもダメダメだっていうふうに決めちゃうみたいなことは、できそうなきがするんですよ。そりゃ、事が違えば、違う様相が出てきたとすれば、それはダメなんだっていうことをチェックする以外にないですよね。あとからそうやる以外ないっていうことになるわけでしょうね。
 (『同上』P79−P80)
 ※@とAは、連続した文章です。










 (備 考)

ユートピア思想やこの社会の理想のあり方を追い求める思想は、ヨーロッパにもアジア中国にもあった。『老子』の「小国寡民」という理想の国や人のあり方は、おそらく従来の小規模の自足した地域社会が変貌してしまった段階の状況が促す負の心性の志向性がもたらしたイメージだろうと思われる。しかし、人類は、閉鎖性の中には閉じ籠もることができない。さらに、近代以降は、社会主義や共産主義という思想が生み出され、その理想のイメージが現実化される運動の中で大災厄をもたらして現在に至っている。

ここで語られているようなことは、誰でもふと思い浮かべることがあるようなことだと思う。それは、人間社会に生きるわたしたちにとって本質的なことである。また、このことは社会の動向に限らず、人間関係の有り様や推移についても同様に言えそうな気がする。簡単に言えば、「人間とは何か」「そんな人間によって社会はどう推移していくか」ということだと思う。これもまた、例えば「人がこの世界で生きる意味は何か」という難しい問いに類する問いである。

現在の社会を左右するものに、依然として上層にそびえるような政治・行政がある。また、産業の構造がある。それが内部としては意識的な政策実行や経済活動をしていても、それらに対応するような感性やファッションやカルチャーなどが構成する社会の流れをとりあえず「偽の主流」あるいは「自然性としての主流」と見なすことにする。そこにはもうひとつ、人間の本性と無意識的に関わる人類史の主流がある。これは現在までのところ、なかなか社会の表面には浮上することなく、底流しているように感じられるものである。そうして、それを駆動するのはわたしたちすべての人間である。

しかし、人間の本質にかなった良きものばかりが社会の上層で政治・行政を担当するとはかぎらない。偽の主流が社会の中心のような顔をしていることはある。たぶん、先々にはもっと理にかなった政治・行政や社会になるだろうと思っても、眼前の悪政を放っておけない気持ちになるのも当然である。

吉本さんもどこかで語っていたはずだが、見た目の主流がどうあろうと、真の主流はわたしたち大多数の生活者にあり、その動向が徐々にであれ、紆余曲折であれ、人類史の真の主流を無意識的にも決めていくように見える。例えば、こまかな例で言えば、社会の上層で政治・行政を担当する者が誤った経済政策をすれば、無意識的な買い控えなどで応答し、最終的には政治・行政の動向を左右することになる。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日 
634 文学の中の中性点 A099「ハイ・イメージを語る」 講演 『吉本隆明の183講演』 ほぼ日刊イトイ新聞  

 『吉本隆明の183講演』A099「ハイ・イメージを語る」 講演日時:1987年5月16日

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『明暗』という作品 同質性という観点と差異性という観点をうまく使い分ける 則天去私の内容 文学・芸術作品というのは、ひとたびは有効性・効果ということについては中性点というのを必ず作品の中に構築
項目
1

@

19 質疑応答5
(質問者)
 夏目漱石について書いておられると思うんですけど。そのなかで作品が同一化された視点というのと、差異化された視点というのがあって、2つの作品に分かれるというふうに言っておられるんですけど。人間というのに踏み込むのを抗議するようなかたちで言っておられた、それがよくわからないのですけど、裏表というかたちで言っておられたところからどういう意味あいなのかというのと、それから、同一視化された視点ということで言っておられる、すべての人が同じように見える視点というふうに言っておられるんですけど、そのへんのところがいまひとつわかりにくいというのと。 それから、中性化された場所があるというかたちで言っておられるんですけど、それとの関係というのがわからないので。

(吉本さん)
 
たぶん、あなたのおっしゃっていることは、僕はどこであれしたかというと、たとえば、『それから』なら『それから』という作品と、たとえば、『こころ』なら『こころ』という漱石の作品を比較した場合に、これは同質性だと考えることができるんだと考えた裏側に同質性の差異をまた考えてもいいわけですけど。
 つまり、片っぽのほうは、自分も好きな女性がいたんだけど、じぶんの友だちが好きだと言ったので、じぶんの好きだという感情は引っ込めてしまって、友達のために仲介をしてその女性と結び付けるという役目を自分がした。それで、それが後になって、逆にそうしたことが壊れてしまって、結び付けた友達の夫婦も危なくなってしまって、それでまた再び一緒になるという、当初の好きだった自然の感情に従うんだというふうになっていった物語だといえば、『こころ』のほうは反対であって、友達が同じ人を好きだというのをわかっていたんだけど、じぶんが出し抜いて一緒になっちゃって、友達が自殺しちゃって、それで自分が生涯そのことが常々意識にあって、ちょうど明治天皇が死んだ時に乃木将軍が自殺する。それを聞いてその先生も自殺しちゃうという、
つまり、感情の自然さといいますか、情緒・情念の自然さというものに従った物語と従わないために自然から復讐されて一緒になった物語とかたっぽは自殺してしまった物語というふうに考えていくと、それは同一のテーマの二つのあらわれ方だ、つまり、同一性の二つのあらわれ方だと見ることができるというようなことを言った覚えがあるんです。
 それから、あなたの言われたことで僕が思い出したのは、もうひとつは『明暗』という作品があって、
『明暗』という作品はどこが他の漱石の作品と違うかという場合に、画期的といいましょうか、書かれている、つまり、書き手のほうから見た場合には『明暗』の登場人物というのは誰が主人公だとか、誰に重点を置いているかということは、全然なくて、全部が同じ距離に、等距離にといいますか、同じ距離に見える相対的な人間だというふうにちゃんとつくられていると、しかも、それは、本当は二人の対象的(ママ、「対照的」か)な人物が相対的なのであって、それを登場人物ぜんぶについて積み重ねていって、最後に全部から等距離にある場所を作者は無意識のうちに設定して、そこでもって登場人物ぜんぶを相対化しているという、それが『明暗』という作品の特徴じゃないかみたいなことは言ったことがあるような気がします。それは内容について言ったつもりでいるわけですけど。
 だから、漱石という人はわかりにくい人ですけど、つまり、むずかしい人だし、作品も非常にむずかしい作品が多いのですけど、しかしもし、
同質性という観点と差異性という観点をうまく使い分けるならば、漱石の作品はいくつかに分類することができて、その分類をはみ出す作品というは、わずかに、『明暗』という最後の時の作品だけじゃないかなというふうに僕自身はそう思っているんですけど。考えているんですけど。
 だから、『明暗』というのは途中で終わっているわけだから、どう展開されるかというのはわからないですけど、あそこで漱石は、つまり、あらゆる登場人物の場所から、自分自身を同一であって、しかも相対化できる距離というものを初めて倫理としてつかみ取ることができたんじゃないのかなというふうに、僕自身の解釈はそうなんですけどね。
 だから、初期の頃の倫理というのは一種、そこで解体されてしまうわけで、だけれども全部を相対化しながら全部を同一化するというあるひとつの場所というのを設定できて、そこが漱石の最後の倫理の場所だというふうに移っていったんじゃないかと僕自身は考えて、それはいわゆる
則天去私という、つまり、天に則して私は去るんだという、そういうふうに漱石が言っていることの内容じゃないかと、それは僕の解釈です。そこらへんの問題じゃないでしょうか。


A

(質問者)
 同一性ということは、すべての人を相対化できるような場所というもの、それが結局、同一性ということの場所であって、中性というそういう場所であるという理解でよろしいでしょうか。

(吉本さん)
 そうか、中性的ということを言ったのはそういう意味じゃなくて、文学作品とか、芸術作品というのは、それ自体が非常に読み方によっても、それから、作品自体によっても、教訓的であったり、倫理的であったり、あるいは、人道的であったり、つまり、読む人に様々な効果というのを与えうるわけですし、また、読む人の主観によっても様々でありうるんだけども、たとえそういう作用を読む人に与えるものを文学作品が持っているとしても、
文学というのは、ひとたびは一種の中性点といいましょうか、これは役に立つとか、これはいい作品だとか、悪い作品だとか、これはためになる作品だとか、そうじゃないない作品だとかいう、つまり、一種の倫理的な判断というものの以前にあるひとつの倫理的には中性であるという、ある構築がどこかに中心的になされていて、なされたものが結果的に倫理的であったり、人道的であったり、あるいは、これをどういうふうに読むかということは人さまざまな実感と効果を与えるというふうになるのであって、それが文学作品の運命みたいなものであって、もし、ストレートにある倫理を主張したいならば、ストレートな言い方で倫理を主張したり、実践したり、強要したりすればいいわけなので、文学・芸術作品というのは、ひとたびは有効性・効果ということについては中性点というのを必ず作品の中に構築しておいて、それでその結果がどうであるか、結果が倫理的であるとか、道徳的であるとか、人道的であるとかいうふうに言えるというような、そういうもので、その時に中性の構築点というのは必ず文学・芸術作品にはあるんだってことをたぶん言ったんじゃないでしょうか。
 (質疑応答より 『吉本隆明の183講演』A099「ハイ・イメージを語る」の「講演のテキスト」より、ほぼ日刊イトイ新聞)
 ※講演日時:1987年5月16日










 (備 考)

吉本さんの講演の質疑応答を「講演のテキスト」などによって読む時、いつも感じるのはなんかよく質問の意味がわからないなということがある。それは、わたしがその講演の現場にいない、この「講演のテキスト」のみ読者であるという理由もあるかもしれない。

、そのよく分からない質問に吉本さんは「たぶん、あなたのおっしゃっていることは」とよく受け答えしているなと思う。これは、講演の現場での流れというものがあり、それが応答を助けているのではないかというとがひとつ。もうひとつは、問題の深みの地平に降り立っている吉本さんの言葉ゆえにそこから相手の言葉を把捉できているということだろうと思う。


主要に近代以降、現在までの文学は、個が担い表現するようになってしまった。
太古の文学の有り様は、想像するほかないとしても、巫女のようにその道にすぐれた者が現在の人気者や有名人のように集落内から押し出されてきたのかもしれない。太古も、担い表現するのは具体的には個だが、現在でいえば会社を代表して語ることに類するような、共同的な個に近かったと思われる。次第に、少しはその個性も加味されたかもしれないが、最初期においては、人と世界(大いなる自然、神)との関わり合う物語、集落の大多数がそうだそうだと思うような物語であったと思う。それは、そういう人間と世界が関わり合って生きている中での、世界はこのようなものであり、人はこう振る舞うべきだという〈世界観〉と〈倫理〉の物語でもあったように思われる。それを普通人よりいい音色や響きとして表出できる者たちであったのだろう。
したがって、吉本さんの、文学作品や芸術作品の中の中性点ということは、現在から主要に個が担う文学や芸術と見なせるような、少なくとも古代辺りからものであり、主要には近代以降、において成り立つ概念ではなかろうか。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日 
638 批評という概念 「マス・イメージをめぐって」 講演 吉本隆明183講演 ほぼ日刊イトイ新聞  

 (「マス・イメージをめぐって」の講演のテキストより (吉本隆明183講演 A083 ほぼ日)
 ※ 講演日時:1985年7月1日
 関連事項 言葉の吉本隆明@ 115「批評」

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文芸批評として現在なされているもの 本当の批評という概念が、現在どこで成り立つか 距離感が違うから見えない 芸術が永遠性を獲得するということ
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1

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8 ほんとうの批評という概念(引用者註.これは「講演のテキスト」にある小見出し)

 もし批評というものが作品の本質を言い当てたいということであったならば、それはやはり、どうしてもこういう問題について突っ掛かって行かざるを得ないと言いますか、こだわって行かざるを得ないという問題が、どうしてもあると僕は考えます。つまりこういうものを、純文学でもないし純芸術でもないということで、排除しておいたら、それで批評という概念が成り立つかどうかということは、すこぶる疑問なのであって、僕は疑問とするわけです。
 一般的に
文芸批評として現在なされているものは、だいたい学校の先生の片手間というかアルバイトか、そうでなければ高度を装ったCM作家か、文芸純文学の批評家というのは、そのどちらかに分類することができます。つまりCMとかサブカルチャーを取り上げないけれども、それはいわば文壇のCM批評家だというより仕方のないものか、そうでなければ、かなり頭のいい学校の先生のアルバイト仕事といいましょうか、それが現在の文芸批評というものの一般的な潮流であります。
 僕らはあまり両方とも認めないのであって、本当の文芸批評あるいは本当の批評という概念は、そんなものではないのだと、いつでもありますから、僕は両方とも認めないのです。このことはちゃんとしておいたほうがいいような気がするので、皆さんは純文学作品を取り上げている批評家というのがいるでしょう。しかしそれは文学芸術の概念の中に入っていると考えたら大間違いであって、そういう人たちは本当はやはりCM作家なのです。純文学のCM作家つまりCM批評家なのです。だからそれはまるで違うことなのです。
 
本当の批評という概念が、現在どこで成り立つかというのは、誰にも分からないことですが、しかしどこで成り立つかということに対して、模索することを怠ることはできないのです。つまりそれは批評家というものの運命であって、それはどちらの方も問題意識すらないというものが、現在の文芸批評の一般的な潮流です。つまりこのことは、皆さんのほうからはっきりそう見えないかもしれないけれども、それは距離感が違うから見えないので、僕らの距離から見ると非常によく分かってしまっている問題です。だからそのことはやはり、よくよく距離感を取り直してご覧になるということを、僕はお勧めしたいような気がします。だからそこの問題というのは、誰もよく解けているわけではないですが、そこに問題があるのだということ自体は、批評の大きな問題としてあると、僕自身は考えております。
 だからそこのところで、そういう問題が、例えば今CMを例に取ったわけですが、サブカルチャーの問題の中で、そういう問題が現在出てきて、これはどうしても批評というものが取り上げざるを得ないし、またそれを自分の問題の中に組み込んで来ざるを得ないということの問題を、現在受け取っているということがあるわけです。それはとても大きな問題だと思います。
 しかしながら、先ほど言いましたとおり、サブカルチャーのここら辺のところで、何かをあれしていますと、目まぐるしくとにかく自分自身を変えて行かなければいけないとか、目まぐるしくパターンを変えて行かなければならない。言ってみれば、パターンというものの新しさを求めて、次々と自分の表現を変えて行かなくてはならないので、個々(ママ)に永遠の問題があるとか、ここに芸術の本質的な問題が、不朽の問題があるみたいなふうに考える芸術観が、もし存在し得るとすれば、そういう芸術観からは、どう考えてもこれをとらえることはできないだろうと思います。またそういう考え方から、これはどのように重要だ重要だと言っても、重要だと思えないでしょうし、それは致し方のないことです。
 
でも芸術文学の永遠性というものは、必ずその時代性ということ、時代との渡り合いと言いますか、時代を受け入れるか拒否するか、あるいは半分拒否するか、拒否したふりをして受け入れるか、あるいは受け入れたふりをして拒否するかということは、それぞれかなり複雑な問題です。そういうことなしに、芸術が永遠性を獲得するということは、まだまだあり得ないと僕自身はそう考えていますから、僕はその観点から言っても永遠というものを目指したいならば、やはりこういう、目まぐるしく移り変わってしまうものの中に、不易な問題あるいは本質的な問題を見つけ出す、つかみ出すということは、大変刺激的でもありますし、また重要な問題であるような感じがします。
 (「マス・イメージをめぐって」の講演のテキストより (吉本隆明183講演 A083 ほぼ日)










 (備 考)

関連事項 言葉の吉本隆明@ 115「批評」では、小林秀雄が確立した近代批評の問題が取り上げられていた。そして、小林秀雄がなしとげた場所からの更なる批評の深化や変位として、吉本さんの『言語にとって美とはなにか』という仕事や『心的現象論序説』という仕事があったということが語られていた。これが掲載されたのは「三田文学」(1970.5.9)であり、その後に『悲劇の解読』( 1979.12) が出されている。その難解と言われている序文「序──批評について」で〈批評〉について深く検討されている。

この「マス・イメージをめぐって」の講演日時は、1985年7月1日だから、ここで語られている「ほんとうの批評という概念」はそれ以降のものである。近代以降の純文学という分野は、小林秀雄の近代批評に対応していると見なせるだろう。その純文学の垣根が壊れ液状化現象を呈している。そうして、サブカルチャーが隆盛になっていて、両者の境界があいまいになってきたという文学(芸術)状況が、純文学もサブカルチャーも包括的に捉える新たな〈批評〉概念を促されているということを、その批評の現場を長く潜ってきた吉本さんはひしひしと感じていたのだろうと思われる。これは、吉本さんのよく使った言葉で言えば、〈普遍文学〉と同様の〈普遍批評〉を目ざしていたのかもしれない。そうして、それは小林秀雄の近代批評の確立と同様の本格的な〈普遍批評〉のイメージを現実化することを考えていたのかもしれないと思う。


付け加えで言うと、近代以前の批評は、平安期の歌合の判の詞(判詞)あたりに起源を求めることができるのかもしれない。その歌の良し悪しを論じた判の詞や歌論が当時の批評と言えよう。また、『枕草子』も宮中社会から見た批評性を持った随筆と言えそうだ。そのような批評性は、鎌倉期の『方丈記』や『徒然草』にもあるだろう。

近代以前の大衆社会の批評ということを考えてみると、村々に回ってくる語りの者たちの語りに対して、例えば小野小町塚などを築いたことが村々の集団的な批評と見なすことができるのではないかと思う。語りを聞いたことが塚を築くことにつながったのは、語りに対するイメージや批評がもたらしたものだからである。語りを聞くのは、個々人としても、個が抽出され先鋭化してきた近代以降のような個が感じ批評するようにはなっていなかった。近代以降になると、その村々の集団的なイメージ・批評はだんだん薄れていって、現在では均質な社会の「マス・イメージ」に取って代わっている。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
675 「ほんとうのこと」が生起する場所 @ 第一日・胎児期一 「ほんとうのこと」の起源 インタビュー 『ハイ・エディプス論』 言叢社 1990.10.25

P45本文の小見出し 「ほんとうのことをいったら世界が凍る」とは

「本書は、一九八九年六月十五日から十月十八日までの期間に、五日間にわたって吉本邸でおこなったインタビューを
整理し、これにていねいな削除と若干の加筆を施していただき成ったものです。」(島亨「あとがき」より)
※インタビュアー 島亨(言叢社同人)

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詩集『転位のための十篇』の中の詩「廃人の歌」の詩句 「ほんとうの考え」と「うその考え」 生との和解 根源的に乳胎児期にこだわりがある
項目
1
             
@

島亨 吉本さんが「母親と胎児との胎内の関係が人間の絶対的な認識と感性の起源である」といわれることと、詩に書いておられる「ほんとうのことをいったら世界が凍る」というような言葉(引用者註.詩集『転位のための十篇』の中の詩「廃人の歌」の詩句にある。)――それは詩の言葉としてひじょうに衝撃的なもので、僕の言葉の経験のなかではたいへん大きなものでした。そういう風に闡明できる人がいるんだということが、僕なんかの世代にとってその言葉は、社会に対してとかあらゆることに対して、「ほんとうのこと」を闡明してしまったら世界が凍るというふうになっちゃうんだよというふうな宣言のように受け取られたんです。・・・中略・・・それと、もう一つは、「ほんとうのことをいったら」という問いが最近の『宮沢賢治』(一九八九年 筑摩書房)のなかでは、「ほんとうの考え」と「うその考え」とを振り分けることができたなら、実験することができればという賢治の考え方に触れて出てきておりますね。吉本さんのこういう関心の根源というのは、いま問題にしている胎児期のこととかかわらせていえるのでしょうか。

吉本 感覚的なところからいえば「ほんとうのことをいったら、世界は凍ってしまう」という感じ方はいまでもあります。どうしてそんなものがあるのか、そういった問いは何にゆきつくかです。きょうのテーマにひきよせていってみます。自分が知っているべきなのに知っていないこと、こう考えられるべきなのにそう考えられてない、そんな矛盾の認知や感覚が自分にあるのは、母親との関係のところに未知な部分の起源があるということです。その未知な部分は、いっちゃいけないこと、いうのはたいへんきついこと、いえば母親との関係で凍ってしまう何かであるにちがいありません。母親とのあいだの物語があんまり幸福じゃない、だけどそこはよくわからない、しかも絶えず自分をそこのところでは駆り立てていくもの、いつでもおびやかしているもの、そこに「ほんとうのこと」があるにちがいないとおもいます。だれだって母親との関係は、直接に体験したとしても意識的には体験していないわけですから、わからないわけです。確かめるには、母親か、あるいは周囲に確かめるかほかにない。すると母親が「ほんとうのこと」をいうはずがない。それが「ほんとうのこと」ですよ。つまり、いうはずがないということが自分のなかでは重大なんだということが、いまの「ほんとうのことをいったら世界が凍る」という言葉の根源じゃないでしょうか。「おまえが、乳児の時、自分はこういう心の状態で、こういう環境で、こういうふうだったんで、こういうふうな扱い方したんだよ」ということを、すべての母親(僕の母といってもいいんですけれど)がちゃんと「ほんとうのこと」としていうはずがない。その認識が起源として僕にあるということじゃないでしょうか。


A

島亨 この詩句を書かれた時にもそのことはあったわけですか。

吉本 そこにあるかもしれないです、いまにひきよせていえばですよ。一般的に母親はそういうはずがない。美化していうか、そらしていうか、あるいはうそを交えていうか、多少自分をいい子にしていうか、もしかすると逆に悪い子にしていうこともあるあるかも知れない。それは誰にとっても普遍的だろうとおもいます。ただそのことが無意識にとってことさら重要だとおもっていることが、詩に表現するほど固執された理由になります。いまでも僕のなかで消えていない。いつでもあります。ただ詩に表現してというほどの切実さは薄れてきたと自分を理解しています。その分だけ生との和解が成り立っているのですが、ただなくなるという性質のものじゃないとおもうんです。
 ところで、「ほんとうのことをいったら」という直接的な表現じゃなくて、「何がほんとうのことであり何がほんとうのことじゃないのか」という切実な問いがあるとおもうんです。それをどう解明していけばいいのか。すこしずつその手がかりを求めています。その手がかりをすこしいってみます。ある部分にとって「ほんとうのこと」だけれど、他の部分からみたらべつに「ほんとうのこと」でなかったとか、また別のところに「ほんとうのこと」だとおもっている部分があって、しかしほかの部分からみたらべつに「ほんとうのこと」ではない。そんな「ほんとうのこと」は、いずれにしても、全部否定の対象になるんじゃないでしょうか。どれがいいのかわからないとしても、部分的な「ほんとうのこと」は否定の対象になるんだということくらいまでは、考えている気がします。宮沢賢治は、「ほんとうの考え」と「うその考え」を分ける実験の方法さえ決まれば、科学と宗教はおなじになっちゃうといういい方をしています。べつのいい方をすれば、宗教的な信仰――信仰とは、大なり小なり党派的です――ということと、科学――つまりほんとうのリアリズムです。リアルな認識――、それはおなじになっちゃう。その実験の方法さえ、決まればいいんだといっています。その実験の方法はどうやったらいいかについて、宮沢賢治は童話のなかで、登場人物に「私もそれをもとめている」といわせています。潜在的になり、口に出せないけど自分のなかでは言い切れていて、やはり法華教の信仰みたいなものが「ほんとうのほんとう」だとおもっていたでしょう。ただ、口に出していったり、書いたりするほど自信と客観性はもてなかったとおもいますね。部分的な「ほんとうのこと」は、イデオロギーの形でも、信仰の形でも、たぶんそれはだめ、どんなよさそうでもそれはだめというよりしょうがない。そこまではいえそうな気がするんです。それじゃ、何が「ほんとうのこと」なのかは、なかなかむずかしくて求められない。そもそも「ほんとうのこと」と「うそそのこと」とか、何が真理かみたいなことに、なぜ人はこだわるのかといえば、たいてい根源的に乳胎児期にこだわりがあるということです。それをいうかいわないか、意識するかしないかはべつにして、第一義的にそこにこだわりがある。僕にはそうおもえます。比喩的に乳胎児期は始原の星雲ですから。
 (「ほんとうのこと」の起源 、『ハイ・エディプス論』P45−P49 吉本隆明)
 ※@とAは、ひとつながりの文章です。










 (備 考)

人は誰でも現在の心や精神の姿や有り様に胎児期の大洋での有り様が起源として息づいているということになるだろうか。人間の歴史で言えば、太古の心や精神の姿や有り様が現在にも生きつづけているということになるだろうか。

人が「ほんとうのこと」を追い求めるとしたら、「乳胎児期は始原の星雲」の有り様が今でももたらす根深い衝迫がある。また、その「ほんとうのこと」がここの話では宮沢賢治の「ほんとうの考え」と「うその考え」につなげられてきている。前者が個の世界のこととすれば、後者の「ほんとうの考え」と「うその考え」を区別し判定したいという欲求は、宗教やイデオロギーなどの対立という人間社会の有り様がわたしたちを突き動かしてくるものである。それぞれの少し違った言葉として現象してはいるが、個の大洋期の有り様と、人間社会の歴史の根っこの部分の有り様とがそれぞれの現在に根深く迫ってくるという構造としては同型である。

おそらく若い吉本さんが詩「廃人の歌」(詩集『転位のための十篇』)の「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」という詩句を書き記した頃は吉本さん自身まだそのことの意味がよくわかっていなかっただろう。その刊行はもう少し後になるが、このインタビュー当時に『母型論』(1995年11月)の考察に当たることがなされていたということになる。この考察を潜り抜けることによって、ようやくその全体の姿を吉本さんの前に現したということになる。そうして、そのことはわたしたち読者の前にも普遍の姿として浮上してきたということを意味するだろう。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
676 「ほんとうのこと」が生起する場所 A 第一日・胎児期一 「ほんとうのこと」の起源 インタビュー 『ハイ・エディプス論』 言叢社 1990.10.25

P49本文の小見出し 「ほんとうのこと」の追究が払底される場所

「本書は、一九八九年六月十五日から十月十八日までの期間に、五日間にわたって吉本邸でおこなったインタビューを
整理し、これにていねいな削除と若干の加筆を施していただき成ったものです。」(島亨「あとがき」より)
※インタビュアー 島亨(言叢社同人)

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自分が自分に対して関係づけるものの発生 気がついたらいつでも〈反復〉のなかに追いこまれている しかしこのばあい「その命題自体を立てそれを追究すること自体は、追究しないことよりもだめなんだ」という考えは、唯一糸口のような気がします。 「世界が凍る」みたいなストレートな言葉は、いやな感じが伴うみたいです。

@
 (※前回の項目675の最後の部分に続く)
島亨 それはうそとか偽りとかそういう言葉なり、自分が自分に対して関係づけるものの発生でもあるわけですね。

吉本 そうおもいます。

島亨 つまり、はてもなく自分が疑わしいというふうに、僕などが底のほうで感じているとすれば、それはやはり同じ裏表になるわけでしょうか。

吉本 それは、たぶん母親が「ほんとうのこと」をいってくれないことを、自分がいつでもうその存在だとか偽りの存在だと感受していることでしょう。いつでもあることじゃないでしょうか。それを確かめたくてしょうがないという欲求があって、しかしなかなかそれは突きつめられるものじゃない、しかしテーマとしてはどうしてもあらざるをえないみたいなね。そういう資質はどこからでてくるのか。第一義的にはそこからでてきています。

島亨 ただ吉本さんの詩の中には、そいう根っこのことからいえば、母親との関係からはじまって、それが少年期には学校と先生と友達という関係にあらわれ、なにか気がついたらいつでも〈反復〉のなかに追いこまれている、そのことがこの言葉を闡明(引用者註.せんめい)させるものになっているともおもえますが。

吉本 そう考えます。例えば、あらゆる部分的な真理命題は、全部否定的なものだ、「ほんとうのこと」じゃない、というところまでいくとします。そうすると、一般的に「ほんとうのこと」と「うそのこと」はどうやって区別するんだとか、一般的に人はなぜ生きるのかとか、社会というものはなぜこうであって理想はこうじゃなくちゃならないのか、というその種の一般的な命題すべてに関与するわけです。そういう命題自体を自分につくりあげたり、自分に課したり、またあるばあいには行なったり、ということがあります。命題の設定はすくなくともその人にとっては不可避だし、「ほんとうのこと」と「うそのこと」を分けたい、あるいは「ほんとうのこと」とは何か追究したい。しかしこのばあい「その命題自体を立てそれを追究すること自体は、追究しないことよりもだめなんだ」という考えは、唯一糸口のような気がします。つまり、追究すること自体、そういう課題をもつこと自体のほうが、追究しないことよりも良いことなんだ、「ほんとうのこと」なんだという考え方はだめなんじゃないでしょうか。それなのに追究することは不可避です。つまり、これが糸口のような気がしているから、いつでも「そこまでいきたいな」というある実感みたいなものがあります。そこらへんに糸口があって、そこをふり分けていければ、もう一歩くらいは先までいけそうです。


A

吉本 「世界が凍る」みたいなストレートな言葉は、バロウズのいい方(引用者註.アメリカの作家バロウズの考えが本書P29からP32に渡って引用・紹介されている 註.1 )とおなじで、いい感じじゃないんです。詩を書いていたときもいい感じじゃなくて、いまでもいい感じじゃないんです。書いたから解放感があるとか、いいことをやったという気持はおきない。また、真実をいってやった感じもない。いやな感じが伴うみたいです。このいやな感じを払底して、「ほんとうのこと」とか「うそのこと」も払底していくにはどう考えたらいいか。辿っていきますと、いまだったらそんなことを追究することを、追究しないこと、あるいはそういう命題すらもたない在り方より優位だという考え方はだめなんじゃないかと思っているところに、ゆきあたります。そこはちょっと考えどころです。
 (「ほんとうのこと」の起源 、『ハイ・エディプス論』P49−P51 吉本隆明)
 ※@とAは、ひとつながりの文章です。










 (備 考)

註.1
バロウズの考えがわかるように、引用されてる部分の出だしを少し抜き出しておく。

D・O――あなたは人類の真の進展にとって家族というものが主要な障害物のひとつであるとおっしゃっていますが、なぜでしょう。

W・D――まず第一に、それは子供たちが女によって育てられることを意味するからだ。次に、ノイローゼであれ精神錯乱であれ、両親が煩わされている愚にもつかない事が何もかも無力な子供に直接伝わってしまうことになるからだ。両親というものは、彼ら自身が悩まされ、しかも、彼らの両親から伝えられたものである有害で無意味な愚行を、自分たちの子供に背負わせて一向に構わないと、誰もが考えているようだ。こうして人類全体が子供時代に片輪者にされる。それは家族によってなされるのだ。さらに国家とか国というものも単に家族の延長にすぎない。



まず、吉本さんがこのこともずっと考え詰めてきたということがこの語りの言葉からわかる。

そうして、行き着いた取っかかりの場所が、「『その命題自体を立てそれを追究すること自体は、追究しないことよりもだめなんだ』という考えは、唯一糸口のような気がします。つまり、追究すること自体、そういう課題をもつこと自体のほうが、追究しないことよりも良いことなんだ、「ほんとうのこと」なんだという考え方はだめなんじゃないでしょうか。それなのに追究することは不可避です。」という場所である。これは、思い出せないが吉本さんの言葉で以前に聞いたことのある言葉の感じがする。またこれは、言葉や思想の行きがけの場所からは何か転倒された感じがしてふしぎに思われるかもしれない。しかし、誰もが〈大洋期〉の母の物語を持つわけだが、そこでの負性の母の物語を切開し解除しようとする「不可避」のことをその不可避さを超えて「価値化」することは、何らかの倒錯に至る可能性を持つからではなかろうか。大多数の人々の〈大洋期〉の母の物語が割りと穏やかなものであるのに対して、不幸な〈大洋期〉の母の物語を価値化してしまうことは、先の戦争期に見られた知識人の大衆的課題からの逃走・倒錯と同様に、この世界を読み誤る可能性が大きいということを言われているように思う。
ここの部分を書き記した後に、参考のために上のバロウズの言葉を引用したが、正しくバロウズの言葉や思想は、そのことを示していると思われる。すなわち、この世界の読み誤りに当っている。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
677 「ほんとうのこと」が生起する場所 B 第一日・胎児期一 「ほんとうのこと」の起源 インタビュー 『ハイ・エディプス論』 言叢社 1990.10.25

本文P52の小見出し 自分が悪であるよりすこし余計に悪ぶる
本文P54の小見出し 親鸞とシモーヌ・ヴェイユの思惟

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自分が悪であるよりすこしだけ余計に悪ぶるとやれる。読んだ人は一種の衝撃を受けますね。
項目
1

@
 (※前回の項目676の最後の部分に続く)
島亨 こちらの設問の設定自体が、そのことにかかわってきますが、「生まれたことの意味」といっていることも、それを問うという欲求自体が問題にもなってきますね。ですからいまおっしゃったことはそうとう考えさせられて・・・・・・。僕の経験からすれば、「ほんとうのことをいったら世界が凍る」という言葉は、詩の言葉としても、格別の言葉ですね。つまり、通常、詩人ではあってもなかなかいわない言葉ではないかという気がするんです。それを書いたら、その格別さというのは、やはり僕なんか、まあ僕だけじゃないとおもうんですが、世代的にいえばたいへん衝撃的だったという記憶がありますし、いまでもそういう思いがあるんです。吉本さんがいやだとおっしゃったことは、その格別さということと裏表をなしているのかも知れませんが、やっぱりたいへん引き寄せられたといいますか、それだけの力を持っていたとということがあるとおもいますね。

吉本 あの、さっきのバロウズの言葉(引用者註.アメリカの作家バロウズの考えが本書P29からP32に渡って引用・紹介されている)もそうだとおもうんです。いうこと自体が自分の根拠をなくしていくみたいなことを含めていいますと、自分が悪であるよりすこしだけ余計に悪ぶるとやれるとおもいます。つまり逆に、読んだ人は一種の衝撃を受けますね。「おお、ラジカルにいっちゃっているじゃないの」という感じはあるでしょう。なぜかといえば、自分がほんとうにそうであるよりすこしだけ悪の表現のように決断すれば、やれるとおもえるからです。つまり、バロウズはすぐれた文学者だとおもうけど、その程度だともいえますね。「おお、すごいこというな」と感じますがいい気分じゃないですものね。自分でもいい気分じゃなくいっている。
 (「ほんとうのこと」の起源 、『ハイ・エディプス論』P52−P53 吉本隆明)


吉本 そう、それとおなじです。「世界は凍る」なんていっちゃうと、自分が悪であるよりももうすこし悪みたいな、つまり表現的に悪ぶることはできます。それはあまり愉快じゃない。しかし、たいしたことじゃないんだとおもうんだけど。でも、仮に表現しようがしまいがあることなんだから。どうしたら払底していけるのかということは、たえずひっかかりますよね。そこを超越するとか考えるよりも、そんなこと全然考えないという方が有意義なんだというのが一つの糸口なんだという感じです。
 (『同上』P53 )


A

吉本 たとえば親鸞なんか人間のやれる善悪の規模は、たいしたことないんだといういい方をしますね。親鸞は如来の善悪の規模の大きさをいいたいのでしょうが、何でもいいわけです。死といってもいいんです。死がもっている善悪の規模の方がはるかに大きいんだということです。親鸞は肉体が死んだということじゃないところに死を設定してますから、死がもっている善悪の規模の方がはるかに大きい。人間のやれる善悪なんかどうふんばっても、たいしたことはない。みんな死のもっている善悪のなかに包括されちゃう。それが親鸞の解決点だとおもいます。だけど、それは信仰です。宗教の解決点にはちがいないです。僕らがどうしてもそこには行けないし、全面的に自分のものにすることはできないとおもいます。
 それから、シモーヌ・ヴェイユの考え方があります。ヴェイユは、神を信じるというのは、神を信じないことよりも下位にあるという考え方だとおもいます。僕の理解のしかたではそうなります。だから、カトリックの神父みたいな人が、あなたはカトリックだといっても、入信しろとすすめられても、そうしないわけです。なぜかといえば、彼女の考え方のなかでは、信仰しているということは、不信の人より優位じゃないんです。それで、そんなことは自分にはできない、ということになります。さればといって、ほとんど信仰に近いことを捨てられないで、固執します。そこは糸口ではある気がします。

吉本 ・・・略・・・つまり、根源的に個人とか個体とか私的な体験とかと結びつければ、いまいったようになります。社会的には家族の問題でも、社会全体の問題でも層をつくっています。だから現在の世界史が当面している問題は、もちろん多重にあるわけで、個体発生で比喩すれば胎児期にあるような地域もあるし、もはや老齢期とはいわないまでも、もはや老齢期とはいはないまでも、初老期、つまり成熟期を過ぎている。地域も現に共存して同時代のなかにあります。それぞれの地域で別の課題をひきずっているわけです。もしも、いまいちばん初老期にさしかかっている社会、だからいちばん世界史のなかで発達した社会を考えれば、この問題に当面しているとおもいます。その解答をそのまま、まだ母胎期にあるアフリカ社会とか中南アメリカの社会にそのまま適応はできないでしょう。しかし成熟期を過ぎた時期にある社会におこっていることは、いちばん普遍性があるとおもいます。それを解くのは重要なんじゃないでしょうか。何がほんとうであるか、何がうそであるかですね。党派として考えられている「ほんとうのこと」は全部だめだと僕はおもっています。つまり、いまの世界のさまざまな先進国の成熟期以降に入った社会で、党派的に考えられている「ほんとうのこと」は全部だめな領域に入っているとおもいます。じゃあ何がほんとうかという課題を、しきりに求めなければならないし、それは現に求められつつあると自分はおもっています。
 それから、男女の問題、家族の問題についても世界のもっとも先進的な社会で家族が直面している解体の問題は、ほんとうにやらなければならない。そういうことはあるんじゃないでしょうか。
 (『同上』P54−P56 )
※@の後半とAは、ひとつながりの文章です。ただし、インタビューアーの部分は省いたりしています。










 (備 考)

前回と重なる部分もあるが、ここで問題の場所をわたしになりにまとめてみると、「ほんとうのこと」が、個のレベルの問題と社会的なレベルの問題の二重としてあるということである。人は、否応なく個的な存在であると同時に社会的な存在でもある。だから、「ほんとうのこと」も腑分けしてみれば、個のレベルの問題と社会的なレベルの問題の二重としてある。これは、わたしたちのこの世界における生存の有り様からくる必然の姿であると言うほかない。

★「ほんとうのこと」は、個のレベルの問題と社会的なレベルの問題の二重としてある。
1.「ほんとうのこと」を求めるのは、個のレベルでは、個のなかに根源的な不全、母の物語の不幸に発祥する。
2.「ほんとうのこと」を求めるのは、社会的なレベルでは、人間が生み出した社会の根源的な不全に発祥する。
3.前回(項目676)の吉本さんの言葉、「行き着いた取っかかりの場所が、『その命題自体を立てそれを追究すること自体は、追究しないことよりもだめなんだ』という考えは、唯一糸口のような気がします。」に前回の「備考」で少し触れたが、この微妙な場所は大切な気がする。不幸や不全を無意識的にでも価値化するような意識・考えは、転倒されて悪や組織化された悪に転化する契機を秘めている。たぶん大衆(生活世界の人々)に一歩控えた場所に自然に立っていたと思える吉本さんの性格みたいに、「ほんとうのこと」を価値化せずに、避けられないことなんだよという位置に立つことを、そのことは意味しているように思える。


Aの「いまの世界のさまざまな先進国の成熟期以降に入った社会で、党派的に考えられている『ほんとうのこと』は全部だめな領域に入っているとおもいます」ということの帰結としてあるのは、閉じられた性格を持つ党派的・イデオロギー的な集団ではなく、意識的・無意識的な「無党派」の方により現在的な意味があるということであり、考え方としても同様に、固定的な概念やイデオロギーでものごとを裁断するのではなく、よたよたしていても現実の複雑な有り様に開かれた言葉や感じ考え方を持つ方が現在をより深く生きるものであると言えるだろう。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
683 「ほんとうのこと」が生起する場所 C 第二日・胎児期二 〈母〉との物語 インタビュー 『ハイ・エディプス論』 言叢社 1990.10.25

本文P61の小見出し 胎児期の第一義的重要性と女性への負荷について
本文P64の小見出し 胎外で子供を産むことをめぐって

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「母親と胎児との胎内での関係が人間の絶対的認識と感性の起源である」の女性に与える負荷 真理は、いつも相対的だから、解除されるということがある。受胎と分娩と、それから成育とが、全部女性の体外で人工的に可能になれば、解除されてしまいますね。 男性と女性との全き平等という観点 原エディプスの複合というか、そういうものは根底的に変わる、あるいはなくなる。
項目
1

@

島亨 前回のお話を『心的現象論』の言葉でまとめましたものが、「母親と胎児との胎内での関係が人間の絶対的認識と感性の起源である」ということになるんだとおもいますが、・・・以下略・・・

吉本 胎児期が人間の生涯にとても決定的な意味をもつ、少なくとも第一義的な重要さをもっているみたいな話がこのあいだでたわけです。そうなってくるとそのこと自体は、女性にたいへんな負荷を及ぼすことになるんじゃないかという疑問もありました。

島亨 というか、そういう誤解をまねく余地があるんじゃないかという・・・・・・。

吉本 僕自身もそういわれたことがあります。胎児期とか乳児期は母親が胎児・乳児にたいして男性的であり、また授乳とか世話による扶養なしには生存自体ができない時期ですね。だから、二つの意味があって、その時期は女性とか母性は、胎児とか乳児にたいしては男性的で、乳胎児は男性でも女性でも、生物学的にどうでも、女性的な役どころになる。それが無意識の形成にあずかる。無意識のいちばん底にそれがあって、成長期からあと男性と女性は第一義的に何がちがっちゃうかというと、乳胎児のときにひとたび女性的な無意識をうえつけられ、無意識を受けとりながら、しかし生物学的あるいは身体的には男性として育っていくのと、それから、女性的な役どころを乳胎児のときにもって、そのまま女性として育って成熟していく、というそのちがいです。それほど第一義的な重要さをもつとすれば、そこでとても慎重でなければならないとか、もっといまの胎児教育論みたいな考えでいえば、かかりきりでなければいけない。そのためいつでも平静で豊かな感情生活を保っていなければいい子には育たないということになってしまいます。その間は、女性はどう考えたってそのことにかかりきりという感じ方がでてきます。

島亨 一種の管理的な状態ですね・・・・・・。

吉本 そうですね。それだけはもうゆるがせにできないという、こんどは決定論のなかに、女性自体がはいっちゃう。とくにフェミニズムの立場からはとんでもないことだ、それを社会倫理的におしつけする考え方や勢力があるとすれば、都合のいいように女性の決定論を利用できる。また、それにかぶせて二重の負荷を課してくることになりかねない。そこで論議自体が成り立たないんじゃないか、いずれにせよ良くはないんじゃないか、そんなことです。


A

島亨 だけど、真であることも確かなようにおもえるわけです。

吉本 そういうことです。ただ真理だということ自体に倫理論でも道徳論でも社会論でも、有効論みたいなものが、いずれの側からもでてきて、無意識にとっては真理だということに覆いをかけていきます。フェミニズムのいい方はわかっても別にどういうってことない。真理の基盤と現実の基盤のあいだにずれがあるかぎりは、真理はあるときは善に加担することになってしまい、あるときは悪に加担することになってしまうということはありえます。そういう問題に転化されていきます。真理は、いつも相対的だから、解除されるということがある。どこで解除されるかいえば、受胎と分娩と、それから成育とが、全部女性の体外で人工的に可能になれば、解除されてしまいますね。つまり負担かどうかを含めて全部その問題は解除されてしまいます。それで、受精とか受胎とか分娩とか、それから成育とかというものが全部人工的に女性の身体とかかわりなくなることは、目にみえています。そのときにはもうこの相対的真理は解除されてしまう。だからといって、第一義的に重要だという考え方自体が、現在女性に負荷を及ぼすかもしれないということはありうることですね。それにたいするフェミニズムの側からする異議申し立てというのはありうることだし、またあって当然のようにおもいますね。でも、さればといって、女性の負荷はべつに永久的でも何でもない。かなり近い時期に全部解除されてしまうと信じられますね。だから、そのことがそんなにたくさんの問題を提起するとはおもえないです。それなら過渡的な時期の女性の負荷はどうするんだということになります。それは人為的に決定論を意識にいれることでしょうか。
 
島亨 自覚化する・・・・・・。
 
吉本 自覚化する以外に方法がない。その自覚化はどちらでもいいんです。つまり、フェミニズムの主張がいうように子供を産むのなんかもうまっぴらごめんだという自覚のしかたでもいいわけですし、それこそ文字どおり十ヵ月のあいだ、胎児とつきあうという自覚のしかたでもいいわけです。・・・中略・・・どれでもいいので、過渡的な時期を意識的ないし自覚的に通過する以外にない。
 (〈母〉との物語 、『ハイ・エディプス論』P61−P64 吉本隆明)


B

島亨 ・・・略・・・、それ(引用者註.体外で子供を産むこと)は、僕なんかまだこだわりがあります。そうなればある意味ではこういうエディプスというか原エディプスの複合というか、そういうものは根底的に変わるわけですよね。

吉本 変わるか、なくなってしまうか。

島亨 やはりその状態がいいんだというふうに。いいんだというか何といいますか。

吉本 いいんだということではなくて、なんら倫理の問題じゃないですね。必然の問題です。人間という類が他の動物よりも明確なかたちで自己意識をもってしまった。生物学的な類としての歴史と、自己意識としての歴史を干渉させあったり、さまたげあったりとか、そんなかたちでいかざるをえない。もう人間という類の宿命でしょうからね。

島亨 完全な自己意識というものでもっていけば、それはやはり胎外妊娠という方向にいくと。

吉本 そうだとおもいます。むしろ女性が主導権をにぎってそんなかたちにもっていかれるんではないでしょうか。女性の側からのまったく必然的なというか自然な要求から。つまり男性と女性との全き平等という観点に立っていくということと、そういう胎外で受精もできるし、育つこともできるし、分娩することもできる可能性がでてくる。またそういう装置がつくられていくこととは関連があるんじゃないでしょうか。つまり、第一次的には、女性の欲求からそうなっていくんじゃないでしょうか。


吉本 やはり自分の子供を産もうとか、産んだら自分が授乳して育てるという女性も、いつまで経ったっているわけです。けっしてそれは善悪の問題じゃない。ただ胎外で受精して、胎外で人工の装置で育て、人工の分娩をしていう育ちかたをする必然がでてくるし、また可能性がでてくる。それは、すべての自然的なものにたいする自覚化として当然のことじゃないでしょうか。つまり、そういうところが僕らがエコロジストに申すところで、緑というものは、私たちは自然が好きなんだという、また文明生活より原始生活が好きなんだという人がいるのもまた当然です。また俺はまったくそういう生活嫌いなんだ、都会の機能的なボタンを押せば何でもできちゃうのが好きだという人もいる。その幅は必然です。同時代の個々の人間が、原始生活をしても高度な文明生活をしてもだれも文句をいう筋合いのものではない。ただ社会的、組織的な主張としてどちらかが主張されたりしたら、異議を申し立てなければだめだと僕はおもうんです。
 (『同上』P64−P66)


島亨 胎児期のことは、外にあずけて人工的な胎内を想定できれば、それは女性の負荷にはならない。そのばあいには、もともとのお母さんのお腹から産まれた子供の、吉本さんのおっしゃった意味での「ほんとうのこと」というのは、そこまでもう解除されてしまうということになるわけですか。

吉本 いやそうじゃないとおもいますね。つまり「ほんとうのこと」というのはね、質が変わってしまうんじゃないでしょうか。つまり僕がいいたいことが二つあって、一つはどんな時代が来ようと一人の母親がいてこの男との間の子供を産んで、私は自分のお乳で育てていくという母親がいつまでもいるであろうということ、それから、人工的な胎外がちゃんとできてね、受精から何からそこでできるという、それもやがてできるでしょうということもありうるわけです。ただ、どちらかでなければいかんという主張がでてきた時には、反対せにゃならん。・・・中略・・・それからもう一つは、いま僕が自分の乳胎児期のまあわからないですけれどこうだったんじゃないかなあという育ち方の歴史があって、そこで「ほんとうのこと」とは何なんだといっている。大なり小なりそれと質がちがっても「ほんとうのこと」とは何なんだという問題を提起したい心のなかには、たぶんおなじような乳胎児期の問題があるでしょう。ただ、その時出てくる、つまりこういう現在の状態で出てくる「ほんとうのこと」とは何なんだという問いとですね、もう人工的な受胎ができると、エディプスの複合とか、無意識の層がいちばん奥の方の層としてはなくなっちゃうわけです。形成されないわけですから。そういうところで出てくる人間の「ほんとうのこと」とは何なのかというのは、全然ちがうとおもいます。つまり「ほんとうのこと」の質がちがうとおもいますね。何がほんとうなんだって。

島亨 その「ほんとうのこと」の位置というのが、現在胎内で育てられているばあいのゆき場所と、もう一つ、胎外で育てられるばあいの「ほんとう」のゆき場所というのは、想像もつかないですね。

吉本 でもね、そうじゃないとおもうんですよ。

島亨 ただ、現在の時点からその状態というのが、観念として了解できて行き来できていなければ、困るのじゃないでしょうか。

吉本 そうですね。いまから五十年前は女性が、お腹貸して、誰か任意の男性の子を受精するみたいな、そういうことは、「ほんとうのこと」とは何かみたいな倫理観からいうと途轍もない考え方におもえたでしょうが、いまはべつにそういうの不思議におもっていないわけです。つまりこういうことは全部特別なことではなく、人間の認識の幅ということにしかならないと僕にはおもえます。いま、僕らがもっている意識でかんがえると、どこかでいやな感じみたいなのがあります。しかしそれは偽感情でまちがいだとおもいます。そのいやな感じは幅だとおもいます。認識の振幅のなかにはいってきちゃっていましょう。十年前の社会あるいは個々の人間の通念とか倫理とか、それから何がほんとうかという問いの質とか、そういうものでいやな感じがしたり、途轍もないことにおもえたりして、人間というのは可変で、どんどんかわりますから、その時になったらちっともおかしくないんじゃないでしょうか。いまの人工授精とおなじくらいおかしくなくなっているんじゃないでしょうか。
そうじゃないとおもうんですよ。

島亨 そのばあいには、たとえば母という意味も変わる。

吉本 変わってきます。だけど、なんらおかしくないですよ。つまり、母という概念の中で連続的なものですね。

島亨 育てた人が母であるという性格が強くなる。

吉本 そうだとおもう。べつに愛情が乾いちゃうわけでもなんでもない。質がちがうだけです。僕が自分の母というと、柳田国男ほどじゃないけど、薪でもって、釜で御飯の火をたいて、たべさせてくれる後ろ姿が母の典型です。それから、洗濯板でこうやって洗濯しているのが母のイメージです。でもいまの二十代の人に母のイメージをきいたら、電気洗濯機なんかだとおもうんです。つまり、洗濯板で石けんつけてごしごし洗っていた後ろ姿の母親じゃないですよ。でも、べつにいまの母親が冷淡なわけでもない。・・・中略・・・愛情の質はちがうけど、愛情がなくなっちゃうってことじゃないです。それとおなじじゃないでしょうか。

島亨 いまエディプス複合の根っこが胎内のところに求められるんだとすれば、胎内の問題が解決されて、胎外で生まれるようになるとしますと、エディプス複合というものの根っこは育てるところからはじまるということになるんでしょうか(以下、エディプス複合というとき、乳胎児期の〈母との物語〉を中核として形成される無意識の複合観念の総体といったものを指すものとして、拡張して使うこととします。)

吉本 それこそわかりません。未知だとおもいます。そうかもしれないし、深層の深層の方で人間の考え方を規定しているものが無くなっちゃうかもしれないです。ちょっと予想はできないんじゃないでしょうか。人間の質があっさりしちゃうんじゃないでしょうか。いまもそういう気がしますがね。いま、子供の世代なんか僕らから比べるとあっさりしちゃっている。だから、子供みているとそうおもうなあ。・・・中略・・・だから存外エディプス複合としてどろどろしたものはすっぱり無くなっちゃうのかもしれないです。またそうではなくて、あなたのいわれるように生まれて後から新たなちょっと質のちがったエディプスが生じていくということなのかもしれません。
 (『同上』P69−P73)
 ※@とAは、ひとつながりの文章です。










 (備 考)

体外で子供を育てる装置についてのニュースは、一度ネットで見たことがある。しかし、現在のところはまだ荒唐無稽に見えるのは仕方のないことだろうと思う。例えば、小動物から現在のような人間に進化してきたと言われたら、わたしたちは荒唐無稽な感じを持つことを避けられない。わたしたちの百年ほどの生涯の中を流れる時間と地球史というか、人類史というか、その途方もなく大きな時間のスケールが違いすぎるからである。体外で子供を育てる装置についてもそのようなわたしたちの百年ほどの生涯の中を流れる時間を超えた時間の中に横たわる問題だろうと思われる。ここでは、これまでの人類史、これからの人類史の現実性について大切なことが語られている。


上の引用の最後の部分のすぐ後に、全体にかかわる大切なことが語られている。この天然自然よりも良い自然ということは、吉本さんの晩年だったと思うが、しばしば耳にした言葉である。

吉本 そこがまた違うんです。さきほどのお寿司屋さんじゃないけど、お寿司屋さんの手とおなじようなものは簡単につくれるんですよ。つくれるだけでなく、人間の心音は胎児にとってかならずしも最上でないとおもっています。つまり、この自然はそんなに最上じゃない。人間はもっといい心臓をつくれますし、心音をつくれるとおもいます。

島亨 もっと理想的な音がつくれると。

吉本 つまり、そういうことをいいきるのはなかなかたいへんなことでしょうが、天然の自然、地質時代からの自然はかならずしも最上のものではないというところへいけなかったら、人類史はだめじゃないかなあ。
 (『同上』P73)







項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
701 文学というものの難所 第5章 恋愛を書くということ 語り 『超恋愛論』 大和書房 2004.9.15


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文学というものはそこまでやれないものなのか ぼくだったら、それを書かないということは、文学が現実に負けたということであり、社会に負けたということであると理解します。 事実を覆っている膜 全部取っ払って、ぶちまけるのが文学のはずだ
項目
1

@

 もうひとつ、ぼくが『死の棘』を読んで思うのは、この愛人の女性がどうなったのかというところまでは、やはり書かないのかなあということです。
『死の棘』は、島尾さんの奥さんがノイローゼになって、島尾さんは家族を解散するようなかたちで子どもたちを東京に置いて、奥さんの実家のある南の島へ夫婦二人で移り住んでしまうところで終わっています。これは事実で、現実に島尾さん夫妻はそうしているんです。
 しかし島尾さんは、愛人のその後にはまったく触れていない。さっきの玄関先で島尾さんが奥さんと一緒にその女性を殴ったりなどしたというエピソードも事実ですから、本人はそうとうな精神的ダメージをこうむったと思われます。その後、かなり悲惨な人生を送ったという話もあるようなのですが、島尾さんはそれについてはぜんぜん書いていないんです。ほかの作品でも触れていません。これはいったい何なのか、とぼくなんかは思ってしまいます。


A

 ぼくがいつも考えさせられ、わからないなあと思うことは、文学というものはそこまでやれないものなのか、ということです。
 では、そこまで書くのが文学だとおまえは考えているのかと訊かれたら、ぼくはそうだと答えたいと思います。 文学に対する考え方は人それぞれでしょうが、ぼくだったら、それを書かないということは、文学が現実に負けたということであり、社会に負けたということであると理解します。じゃあおまえはできるのかと言われれば、それはまことに怪しげなことになるのですが。
 (『超恋愛論』P181−P183 吉本隆明 大和書房 2004.9.15)
 ※@とAは、ひとつながりの文章です。


B

 ぼくは思うんですが、事実を覆っている膜を一枚だけめくってみれば、すべてが出てくるのに、その一枚をめくるということが、小説家にはなかなかできないというか、やらないんですね。
 全部めくって取っ払ってしまえば、いちばん風が通るということはわかっているのに、かならず何枚か、または一枚だけ、膜を残したままにしている。
 確かに、あるレベルに達している文学作品なら、風がぜんぜん通らないということはなくて、最低でも一箇所だけは、そこを通って風が流れていく場所というのを作っているんです。
 いいから全部取っ払ってしまえよ、と言いたいんですが、文学というのはまだまだ、そこがやれていない。特に日本の文学はそうです。
 たぶんそこが、文学の難所なんでしょう。
 いちばん重たい経験は、そう簡単には書けないということなのでしょう。
 でも、その難所で引っかかっていたら、いつまでもちっとも具体的にならなくて、一番大事なところの周りをただぐるぐる回っている、というようになりかねないと思います。
 簡単には書けないんだよ、ということをわかった上で、それでもぼくは、全部取っ払って、ぶちまけるのが文学のはずだと言ってしまいたいと思うのです。
 (『同上』P188−P190 )










 (備 考)

島尾敏雄の『死の棘』の場合、島尾敏雄が書いてる途中で奥さんに読まれたり、奥さんからの圧や干渉もあったらしい。

「全部めくって取っ払ってしまえば、いちばん風が通るということ」は、この『死の棘』の世界の場合は、相手に責められても言葉では言いようのないような〈わたし〉の深い時間の心の傷や男と女の関係の煉獄のような試練の場面が、すべてぶちまけられれば、人の裸の生存の現在的な有り様と微かな本質的な未来性などが出て来るということだろう。しかし、「全部取っ払って、ぶちまけるのが文学のはずだ」というような吉本さんの考えはわかるとしても、作者は血を流し深い痛みを負うことになるだろう。それでも、そうしない限り問題は中途半端な処置で先送りされることになるのは確かである。

太古の巫女やシャーマンなどによる世界への問いかけや願いやかけひきなどの表現から、個によって担われる文学としてひとり立ちするようになり、こんな所まで来てしまった。吉本さんの言う〈自己慰安〉によれば、文学の表現は個の慰めや充足であると共に、内省すなわちこの世界の有り様を徹底して開示することでもある。「全部取っ払って、ぶちまけるのが文学のはずだ」という吉本さんの言葉は、〈自己慰安〉の内省面から来ているはずである。そうして、そういうことができるのは文学の世界のほかにはない。






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 (備 考)










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