ハ行

表紙・目次へ戻る




ID 項目 ID 項目
416 文芸批評
429 文学の初源性
432 100年後





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
416 文芸批評 ぶんげいひひょう @ 還相の視座から インタヴュー 還りのことば 雲母書房゙ 2006.5.1

検索キー2 検索キー3 検索キー4
学問と文芸批評違い
項目
1
@ 文学自体、同じ作品でもいろいろな読み方があるわけです。アカデミズムの人は事実も問題として、どういう背景があるからこういう考え方になっているということが主な関心でしょう。だけどぼくらの場合は批評の要素としてふたつのことがあります。
 ひとつは、作品はいずれにしろその
作者のところに収斂するから、作者がどのような思想を持っているか、どのように思想を持っているからこういう表現になるんだというふうな読み方です。
 もうひとつは、あの人たちは頭でかんがえる学問だから頭でかんがえるのでしょうが、ぼくらは文芸批評という「
」でかんがえる。これはもう全然違うんですよ。どこでどう違っちゃうかというと、だんだん年をとってくるとわかるんです。
 頭でかんがえる場合、ずっとやってきたんだから頭ではかんがえられるんだけど、どうしても手が動かないよということになっていく。それに対して手で考えている場合、手で書いてきているので、頭はぼけるかもしれないけど手はちゃんと動くんだよというのがちょっと違うんです。若いときはどうしてもわからないし、どっちも同じようなもので、分離できない。これは不幸なことなのだけど、年とると、手でかんがえているのと頭で考えて研究したのは違っちゃう。

                         (P24−P25)
項目
2
備考 註 」でかんがえる・・・・まだ、実感として十分わかったといえない。





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
429 文学の初源性 ぶんがくのしょげんせい 夏目漱石を語る インタビュー 『森』第8号2005年7月 吉本隆明資料集165 猫々堂 2017.5.25

聞き手 笠原芳光・安達純

検索キー2 検索キー3 検索キー4 検索キー5
文学の初源性であり、たぶん最後の問題 自己慰安 「自己への配慮」

項目
1

安達 吉本さんは、「文学の初源性」ということをおっしゃっていますね。文学とはもとを正せばこういうものなんだということで、漱石の作品では、『虞美人草』にそれを感じると。文学の初源性について、もう少し詳しくお話ください。

吉本 普遍性はないんだけれども、最終的に言えば、そういうふうにしか言いようがないないんだけれども、人間の存在感と言ったらいいのか、
存在の倫理が、それだけが保存されていることが文学の初源性であり、たぶん最後の問題だなという感じを持っているんですよ。それをいろんな言葉で言っている。「自己慰安」という言葉で言ったり、フーコーは「自己への配慮」と言っていますね。個人としてどうであるかということから、個人が善悪に関係したり、社会に関係したり、人によっては政治に関係したりとかいうふうに全部を含めて、フーコーは配慮と言う言葉を使っている。全部を含める言葉としていい言葉だなと思う。僕としては、「自己としての自己」という変な言い方で、意味にはならないのですけれども、まったく自由である、学者を志そうが、ライブドアのように大富豪になろうと、そんなことは自己としての自己という面で言えばまったく自由であって、いけないとかいいとかそういう論議とか理念が成り立たないと思っているわけです。社会としての自己という観点からは、ある場合にはよくないよということもあり、極端を言うと、人を殺したり、近頃いろんな事件があるけれど、そこまでいくと、社会的な自己として何か言われることがあるかも知れないということとか、法律にひっかかって、そこでは何か問われることがあるかも知れないなとは思うが、ただ自己としての自己として、自由に自分の思い通りのことを思って生きること自体には別に善悪の問題はひっかかってこない、関係してこないという意味合いで、自己慰安と言う言葉を使って、自己慰安は文学や芸術にとっては少なくとも、いちばん根源にある問題で、最後にそれだけが残る、あとは残らないというふうに僕は思っている。それが自分の文学観の基本になっていて、最終的には自己慰安しか残らない。それ以外のことは何か残ったとしてもおまけで、それを当てにすることはできないふうな程度のものと思っているんです。    (P22−P23)

備考





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
432 100年後 ひゃくねんご どう生きる? これからの十年 インタヴュー 『ブッククラブ回』2006.10 吉本隆明資料集165 猫々堂 2017.5.25

検索キー2 検索キー3 検索キー4 検索キー5
だいたい一代 一〇年か一五年
項目
1

@
― 一〇〇年後、人間はどのような意識の状態にいると想像されますか?

吉本 
一〇〇年後というと、人間が赤ん坊のころから亡くなるまで、だいたい一代。そのくらいの範囲で考えられることだけが、まあ真面目に考えている事なんだっていうことができますね。レーニンは、唯物論的な政治哲学を持っていたけれど、それだって一五〇年ももたなかった。宇宙は人間とは桁違いのことで計られなければならないけれど、人間の脳より先に宇宙があったんだよというのは、どんな宗教家だろうがなんだろうが、現在ではだいたいにおいて今は認めるでしょう。物理学者のエルンスト・マッハは、「そんな事いうけど、目をつむっちゃったらそんなこと問題にならないじゃない」っていう観念論です。人間の脳より先に宇宙が無かろうがあろうが、要するに死んじゃったらおしまいじゃないかっていう事になります。まあ、とりあえず、一〇〇年以内に考えられる事は考えた方がいいし、わかればわかった方がいいと思います。だけども、これが真理だぞっと言えるような事を人間の社会について考えてみろって言ったって、そりゃあ誰にも不可能でしょう。僕がいくら考えても一〇年か一五年か、二〇年まではちょっと怪しいというそういう感じがしますね。それ以上の事を言ったら嘘言っていることになる。
     (P41−P42)


備考 人間の思考は、無限の自由度を持っているように見えるけど、それは歴史的な現在性というものに規定されていて、具体性を伴った像は一〇年か一五年か位しか像として描いたり、把握したりできないということだろう。本質論として、人間の主流の動向としてなら、もっと長い時間に耐えるものとして言えるような気がする。しかし、この件、いろいろと考えるべき問題を含んでいるように見える。











inserted by FC2 system