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ID 項目 ID 項目
420 人間力
424 人間力
428 人間の精神性
437  内部の論理化1      
438  内部の論理化2      
439  内部の論理化3      
440  内部の論理化4      
441  内部の論理化5      
443 内部の論理化6       
444  内部の論理化7      
445  内部の論理化8      
446  内部の論理化9       
448  内部の論理化10       
449  内部の論理化11      
450  内部の論理化12      
451  内部の論理化13      
452  内部の論理化14      
454  内部の論理化15      
461 日本列島的自意識      
468  人間が鳥であった時      
470 流れがある      
480 のっぺらぼうになってきた      
482 二十世紀最後の政治的テーマ      
497 日本社会の大転換点      
502 人間とは何か      
510 七〇年以上の問題      
515 日本人はどこから来たか      
527 日本国家が滅びたっていいじゃないか      
544 にごり      
548 二度目の知の解体処理 @      
549 二度目の知の解体処理 A      
561 人間という概念の輪郭      
590 日本語の正体がわからない      
617 日本人の一番の悪徳      
652 人間にとって大事なことは古代までにほとんど考え尽くされている      
654 内コミュニケーション @      
655 内コミュニケーション A      
656 内コミュニケーション B      
685 ネクラについて      
688 日本人の最大の弱点
(追 記) 2020.3.29
     
689 人間らしいことは内臓によくない      
693 人間の本質 A      
708 日本という構造      
710 日本語の遺伝子      
744 「名前」ってなんだ?      
     




項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
420 人間力 A <空隙>より出る言葉 インタヴュー 還りのことば 雲母書房゙ 2006.5.1

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<自己としての自己>と<社会的自己>との分離 人間力を意識する 人間力としての最後の問題 自己の分離の自覚と存在倫理と人間力
項目
1

@

 このシュンペーターのいい方(註1)というのは、「だからマルクスのいうような早急な変革や革命はもういらないんだ」という理屈になっていきました。そんなことをしなくても、時間が経てばいずれ同じような結果になっていくからです。
 
シュンペーターのいうことはある意味で妥当であって、たしかにそうなんです。貧しい人が財産のある人を羨ましがるような分野がだんだん少なくなっている。産業的にいっても経済的にいっても、ある混合した平均点みたいなところへいく。そういうふうに歴史は進行するだろうとおもいます。
 あとはこっちの制度がいいんだという区別をどうやってするかということになった場合、
何を重点にしてかんがえればいいのかということだけが問題になってくる。何を重点にこの世界の状況とか、あるいはもっと小さい規模でいえば国内の経済状況をかんがえたらいいのか。あるいは奇妙な犯罪とか、残虐とか凶悪といわれる犯罪が起こったということに対して、何を重点に置いてかんがえるかということだけが重要になるわけです。
人間のかんがえ方自体、つまり精神性をどんづまりまで追いつめていくと何が残るかというと、たとえばシュンペーターという人は優れた経済学者だということだけが残る。何を重点にかんがえればいいのかというときの、その重点にすべきものを提示できていないからです。
 じゃあマルクスには何が残るんだといったら、「人間力が重要だ」という言葉が残る。
人間力というのは、人間の持っているあらゆる可能性です。理想に対する可能性をも含めて社会に対する可能性とかですね。変革とか革命の原点になるもの、そういう人間力だけがマルクスの場合には残る。
 ぼくが見たかぎりでは、マルクスは「蒸気機関の発達に伴って、都市部の肉体労働者の肺結核が流行って困ってきた」というようなことはいっていますけど、「蒸気機関が発達したために産業革命が経済的に大規模になった」ということをいっているわけではないんですね。だけど産業革命で便利になるし、産業は非常に発達、拡大していくということが実際には起こる。
 マルクスはまた、個々の資本家を倫理的にだめだといいたくもないんです。要するに社会的に資本家がどういう役割をしているかにおいては資本家全体を批判している。しかし自分は資本家個人に対して悪口をいったことはないんだということも、一方ではいっているんですね。
結局、どんどんマルクスのかんがえ方を追いつめていくと、存外シュンペーターのいっているほうが妥当なように見えてくるのです。
 では最後に何が残るんだといったら、一方は「優秀な経済学者だ」ということしか残らない。マルクスの場合は「人間力が重要だ」というかんがえ方が残る。どっちが残るのがいいのかといったら、人間力というかんがえ方が残るほうがいい。そのほうが本格的だということですね。

            (P85−P88)


A

 現在起こってきている一種のハイテク革命を、別にエコロジストのように否定するのはおかしいんです。便利だったら使えばいいじゃないかというだけなんですね。
 そのかわりある人々は使って便利さを享受する、その一方で使われすぎてへばっちゃう人が出てくる。いまのへばり方は頭です。つまり精神異常とか神経症というような症状を呈する人が増えてくる。現代の社会病、あるいは時代病だとおもいます。便利になったのはいいことなんですけど、ただ便利を非常にうまくつかっている人がいる一方、便利に逆に使われてしまい頭がおかしくなってしまう人が出てくるようでは話になりませんね。
 
結局、便利とかハイテクといったようなものは、産業でいえば一種の形態的な空間的な小規模化だとおもいます。問題はこの小規模化ということと、それから精神労働と肉体労働の区別が曖昧になってきたということ、そのふたつだとおもいます。
                (P88)


項目
2

B

 
じゃあこの人間力というのは根本的に何なのか。一言でいうと、自己についての自覚ということになります。
 つまり思考することと実行することの間にはあるひとつの空隙、分離があって、そこの分離のなかに人間だけが言葉を見出したりするわけです。ある何かを行うことがいいことか悪いことかというのは、かんがえではよくわかっているんだけど、実際にそれを行うことの間には完全に分離がある。この分離が重要なことで、その場合にはかんがえる自己であるところの<自己としての自己>と、何かを行うところの自己である<社会的自己>との分離ということになります。
 結局、根本的にこの<自己としての自己>と<社会的自己>との分別あるいは分離というものを自覚していくしかない。それはいわば人間力を意識するということになるとおもいます。それができると、その精神性が外に現れたときには社会化して、<自己としての自己>あるいは<個人的な自己>と混同することはあり得ない。外と内を混同することはあり得ない。あくまでふたつの自己の分離を自分のなかで自覚していないといけないわけです。その自覚というのは、ぼくの言葉でいうと人間力ということ自体の問題だというふうになってしまうんですね。

            (P90−P91)


C

 そうするとこうなります。<自己としての自己>あるいは<個人としての個人>(個人主義といってもいいんですけれど)というものは、たとえば政治家になろうと、実業家になろうと、学者になろうと、それはもう誰からもまったく制約されない、自由であるというふうになります。徹底的にそうかんがえたほうがいい。それをはじめから倫理的にいろんな制約をつくるようなかんがえ方をしていてはだめであって、それはもうそれでいいんだというふうにかんがえたほうがいいですね。政治家なり学者なり実業家になって、社会的な意味において<自己>というものを問うたときに、それが過剰だったり過小だったりということでもってほかに累を及ぼしてしまうというのだったら、そのときはじめて<個人としての個人>というのを純粋にとり出した場合には、それはもう何になろうと何をしようと自由であるということです。
 たとえば極端なことをいうと、法律的な違反をしようとしまいと、そんなことは自由である。だけど違反したことが社会的な意味合いでほかに影響を与えてしまうのであったら、その個人、<自己としての自己>というのは利己的な自己ということになってしまう。こうなったとき、はじめて倫理的な部分が問われる。そういうことというのは、はっきりしておかないといけないですね。
 はっきりさせるにはどうすればいいんだというと、はじめから自分のなかではその分離が自覚されていて、それが行為なり思想なりとして出てくるというふうになれば、社会的に何かを問われるような、そういう過剰さや過小さというは出てこない。
 だから「分離というのは人間力なんだ」という自覚をはじめに持っているかぎりは、出てくる自己は個人主義的であろうと、その個人主義が社会的に何かを問われることになろうと、そういうことに対して混同が起こるということはない。ぼくが自分流の言葉でいうと、芹沢さんのいわれたことなんかはそういうふうに理解しますね。
 それを「お前、ほんとうにできてるか?」といわれると、これはいかん、自分ができもしねえことをいい過ぎてるなとか、そういうすこぶる怪しいことはいろいろとありますけどね。
 でも基本的にいえばそうであって、「お前から専門のことを除いたら何が残るんだ?」といったら、「人間力が残るさ」ということです。
つまり人間の理想の可能性というものをかんがえる力や実現する力といったものは残る。そのほうが「専門にしていることは残るよ」というよりはいい。ぼくはそういうかんがえ方をこの頃はいいますね。

 芹沢 非常に面白いですね。そうするといまの状況は、吉本さんの言葉に添えばその人間力がかなり衰弱しているという実情があるようにおもいます。

 おもいますね。

 芹沢 <自己としての自己>と<社会的自己>との明瞭な区切りがとれなくなってきている。それが「個人化の時代」とか「自己領域の拡大」という言葉でぼくがいおうとしてきたことです。吉本さんは、それを人間力の問題としてかんがえればいいと。

 そうなんですよ。外へ出ていくもので区切りがとれなくなっているということは、自己の内でしっかりと分離を自覚していないということだとおもいます。それを自覚できるのは人間力で、動物と違うところはその部分しかないとおもっているんです。
            (P91−P94)


D

 ぼくは親鸞以外でいうとフーコーがすきなんです。やはりとても似ているところがあって、違う発想がありますね。ぼくなんかは<自己としての自己>なんていうわけのわからない言葉を使うけど、フーコーは<自己への配慮>ということをいっています。(『主体性の解釈学』筑摩書房、『性の歴史V 自己への配慮』新潮社)。
 その配慮という言葉は、哲学語としてはないんです。自己的でもないし、社会的でもない。ふたつの自己がはっきり分離されてるという意味合いに通ずるかたちで、<自己への配慮>という言葉を使っている。
 ほんとうはもっといい言葉があるとおもうんですけど、日本語で<自己への配慮>ということに該当するいい方はないんです。だから仕方なく<自己としての自己>とか<社会的自己>とかいうような言葉でいってしまうんですが、これは言葉だけに割り切っているように聞こえて、あまりよくはないんですよ。
 <自己への配慮>という言葉の<配慮>ということのなかに人間力が含まれてしまっている。そういう意味合いで適切な言葉なんです。ところが日本でそういうふうにいうと、利己主義とか個人主義といったような言葉になってしまうんですね。そいつは何かちょっと違うよ、そういう言葉じゃいえないよ、みたいなことになりますね。
 そのようなニュアンスをぴたりといいあてる概念が日本に少ないんです。<自己への配慮>というのは、個人主義とか利己主義ということでもない。<社会的自己>と自分自身の自己の問題が両方からはっきりと分離されていて、寸分違わず自覚されていて、実行として外に出た場合にも社会に対して混同することはない。
            (P94−P95)

 芹沢 ここまでくると、もうあと一歩というところで存在倫理につながってくるのだろうとおもいます。その一歩がわりと遠いかも知れないですが、でももう見えているとおもうんですね。

E

 たいへん遠いことだとおもいますね。
だけどこのかんがえを最後のところまで突きつめていくと、存在あるいは存在根拠というのが問われてしまう。その問われた場合には、つまり自分と外とのかかわり、他者との関係とか時代との関係といったあらゆる関係がぜんぶどこかに集約されて、集約されていながらその区別はきちっとついているという状態が、ぼくらが現在望み得る人間力としての最後の問題なんだとおもいます。だけど「お前できてるか?」といわれればとんでもない話で、しばしば逸脱している。
 そのことは自覚したうえで、でもそこまで集約できれば、それは現在であるかぎりは最後の問題がそこに集約されてしまう。そしてそれは一種の存在することの問題に帰着してしまう。そこまでうまくいければいいわけだけど、いけないのがいまの状態なんです。かんがえだけでも、あるいは精神だけでもそこまでいきたいといっても、いまもってとてもいける根拠がない。
            (P98)

 芹沢 たとえば家族の問題をかんがえてみると、ひとつには個人化の勢いが猛烈に進んできてしまって、家族間も孤立しているし、家族のなかもバラバラにされているという状態があります。
 古典的な家族像の枠のなかで何かをかんがえるという発想はもうだめです。かといって戻ることもだめだとすれば、新しい家族像が生まれるための核は何かというようなことをかんがえざるを得ないわけです。そうすると、個々がまったくバラバラだよっていう状況のなかで、何が新しい家族像の核になるかといったときに、ぼくはこれまでの性の問題とかエロスというようなことがもう第一の核にはなり得ないような気がしてならないんですね。そのことはここ数年繰り返して書いてきました。そんなことを自分なりにつめてきたときに、吉本さんが存在倫理ということをおっしゃったんです。



F

 だから本音をいえば、芹沢さんのいわれる家族という問題でも、みんなもう最後のどんづまりのところまで追いつめられ、あるいは自分から追いつめている。もし人間に存在の根拠があるならば、それと絶えず見合っているから辛うじて家族というかたちでとどまっていますけど、もし存在の根拠をかんがえなくなってしまえば、家族という概念もまた破壊されていく、そうでなければ自らで破壊していくことになります。
 いま起こっている虐待の問題にしても、意識するにしろいないにしろ、存在の根拠というところで踏み留まっていることをわずかにでもわかっている人は、拮抗し耐えているわけです。個々の個性とか、社会的地位とか、男であるか女であるかということではどうしても耐えられない。存在の根拠なしに壊れるのを防ぐことはできないし、防ぐことがいいというふうにもいえない。そういう状況になってきているとおもいます。

            (P100−P102)








(註1) 「靴を十足持っている人が、百足持っている人を羨ましいとおもわなくなった。」

【関連】 フーコーの「自己への配慮」






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
424 人間力 どう生きる? これからの十年 インタヴュー 『ブッククラブ回』2006.10 吉本隆明資料集165 猫々堂 2017.5.25

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「構想力」を持っていたら社会は変わる
項目
1

―これからの未来を生きる人たちに対して、何かアドバイスはありますか?

@

吉本 僕は最近、「人間力」という言葉を作りましてね。もうこうなったら「人間力」と「構想力」だって。
「人間力」って何かって言うと、「人間が理想の可能性を考える能力」の事なんです。それから「構想力」を持っていた方がいいですよって、若い人には言うんです。その二つだと思う。「構想力」というのは、たとえば、仮にあなたが文部大臣なら何をするか、それを考えておくということです。今の学校制度のここが駄目だと思うとか、これは変えたいと思うとか、ここはいいと思うとか、そういう事について具体的に自分の「構想力」を持っていた方が良い。それを実行するかしないっていうのはどうでもいいわけです。そういう場面がいつ来るかわからないけれど、もし場面が来たらやればいいし、そういう必然性が無いのならやらなきゃいいし、それだけの事なんだけど。それは一見すると何も意味がないって思われるかもしれないけれど、それはそうじゃないんですね。たとえば三人の仲の良い友達がいて、その中の二人が「構想力」を持っていたら社会は変わります。これはハイテクが発達すればするほど変わりますね。だから「構想力」だけはもって、明日からやれって言われたら、はいって言ってすぐにやればいいんです。これは当番みたいなもので、別にそんなの偉いもへちまもない。いつだって、お前やれよ、ってことになったらやればいいんです。
            (P44−P45)









 「これは当番みたいなもので、別にそんなの偉いもへちまもない。」と言う言葉には、「人間が理想の可能性を考える能力」としての「人間力」が行使されている。つまり、「現在的な課題」と「永続的な課題」とが現在において交わり、取り得るイメージとして言われているように見える。






項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
428 人間の精神性 にんげんのせいしんせい 日本人の宗教観
―宗教を問い直す
対談 『中外日報』2006年 吉本隆明資料集165 猫々堂 2017.5.25

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細分化 だんだんだめになる
項目
1
笠原 段階というのは、はじめは低い段階でだんだん上がっていく、ということではないんでね。

吉本 違いますね。だんだん下がっていくほうが多いんです(笑い)。聖人君子、つまり釈迦でもキリストでも孔子でもいいわけですけど、その時代が思想性、精神性は最も高くて、あとは下っていく一方だ、という考え方に僕らは慣れていますね。マルクスなどもギリシャ文学が一番優れていると言っています。そういう時代の人たちは、大したことを言ってないようだけど、言っているんですね。
 不二とか一如とか、これだけのことをわれわれが言ったら、「お前、柄にもないことを」と言われちゃうようなもので。しかし仏教で不二とか一如と言ったときはもう少し大変なことを言っているんでだと思います。
 儒教の場合も、僕の好きな論語の言葉で、「逝くものはかくの如きか、昼夜をおかず」と。孔子が川の流れを見ていると昼夜をおかず流れていると言っているだけなんだけど、これは解釈の多様性がその中に含まれているから、よほど偉い人じゃないとこういうことは言えないよと。
 僕らだったら、冗談言っているように受け取られますね。
そのくらい人間の精神性というのはだんだんだめになる一方です。

笠原 科学は発達しているのにね。

吉本 科学は発達する一方ですが、
精神性は細分化するけどだめになる一方です。ところが、日本でそうでない人がいたことに近ごろ気がついたんです。それは安藤昌益(一七〇三〜一七六二、医者・思想家)という人です。
            (P82−P83)


備考 うーん、この「 人間の精神性というのはだんだんだめになる一方」ということは、感覚的にはなんとなくわかるけれど、ほんとにそうだろうかという疑念と保留がわたしにはある。






項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
437 内部の論理化1 ないぷのろんりか 蕪村詩のイデオロギイ 論文 『三田文学』1955.10月号 吉本隆明全集4 晶文社 2014.9.30

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日本のコトバ 内部感覚を論理化 新しい感性の秩序 日本的な感性の秩序
項目
1

@
 蕪村詩の方法の社会的な基盤は、蕪村―服部南郭が結びつく線をおもいえがくことによって、いくらかはっきりするだろう。この線は、当時、町人ブルジョワジイの支配的なイデオロギイであった国学や心学と、基本的にはおなじ性格をもちながら、国学のような復古的な、つまり原始社会秩序へのあこがれをもたず、心学のような封建的な教化主義の匂いももたないかわりに、町人インテリゲンツァの自由な意識を、封建的な官学イデオロギーと適当に妥協させることによって成立するものであった。
 それゆえ蕪村詩は基本的にはふたつの性格をもっている。
 ひとつは、興隆してゆく町人ブルジョワジイの新鮮な、秩序破壊的な写実的な、感性の一面であり、ひとつは、徂徠学派のイデオロギーに滲とうされ、封建支配に頭うちされて屈曲した心理主義的な衰弱の一面である。
・・・中略・・・
 
蕪村詩のもつ二面性を、適確に分析しつくすことは、可成り難しいが、つぎのような考察をすすめることはできるだろう。
 
 遅き日のつもりて遠き昔かな
 春の暮家路に遠き人ばかり
 行く春やおもたき琵琶の抱きごころ
 春風や堤長うして家遠し
 
 おなじ趣向の詩は、まだいくらでもみつけることができるが、これらは、あきらかに蕪村の衰弱した側面をあらわしている。この詩のなかの「遠い」とか「長い」とか「おもたい」とかいう形容詞の独特なつかい方と、その象徴性に注意すれば、それが、機能的に過去の映像に対応しており、いわば、精神の衰弱を表象することばとしてつかわれていることがわかる。
蕪村は、たくまずして、自己の詩意識と、現実社会の地獄絵との距離を、これらの形容詞の独特な用法によってはかっているのだ。すぐれた詩人の詩意識は、かならずその詩人の現実意識を象徴せずにはおさまらない、というのは詩のもっているもっとも基本的な宿命的な性格であって、この事実は、社会的事件をえがけば、自己の現実把握のでたらめさをごまかせるとでもおもっているオプティミストや、超現実と情緒とをうまく調合すれば、子供だましのような象徴詩が、たちまち前衛詩にでもなるとおもっている文学青年が、いかに足掻いてもどうすることもできないのである。詩意識が変革されるためには、かならず現実意識が変革されなければならぬ。蕪村の詩を、中世から近世にかけての個性的詩人、たとえば、芭蕉や西行の詩と、もっともへだてているのは、おそらくは、この点であった。
 (「蕪村詩のイデオロギー」『吉本隆明全集4』P254-P255 初出 1955年10月)

A
 蕪村が、この長詩の試みによって当面した課題は、いわば論理的な機能をまったくもっていない日本のコトバをつかって、いかにして
内部感覚を論理化するか、という問題であった。一七六〇−七〇年代の蕪村の長詩が、一九二〇年代の「四季」派の詩人のリリックに比較して、けっして古びない理由は、蕪村が当面した問題が、おおよそ、日本のコトバの機能と表現との関係について、いつもあたらしい本質的な問題であったからに外ならない。
 蕪村は、当時の唯一の外来詩である唐詩の発想と語法をかりて、この問題をきりぬけようとした。
「春風馬堤曲」は、この蕪村の当面した問題を、素材のまま投げだしてみせたようなものである。唐詩の絶句と、単句、連句を巧みにつなぎあわせて、ひとりの少女が、やぶ入りで長柄川の堤をあるきながら、故郷へかえる、という主題をとらえ、そのなかに自己の心理的な機制を封じこめている。
 
馬堤曲の発想の論理性、感覚の論理化、意識の内面化、のすぐれた純一性をかんがえるとき、反射的に、日本の長歌の方法をもっては、けっしてそれが不可能であるということにおもい至らずにはいられない。第一に五七の音数律は、日本的な本能律であるため、意識の論理的な展開をゆるさない。そのうえ、感覚的というよりも情緒的平面しかゆききできない日本の詩のコトバは、蕪村がすでに自覚的に受感していた一八世紀後半の町人ブルジョワジイの新しい感性の秩序に耐えうべくもないものであった。ここに蕪村が漢語的な発想と用法とを縦横にみちびき入れざるをえない必然があった。


B
 日本のコトバが漢語からはなれて、
仮名をつくり出していったとき、言葉は社会化され、風俗に同化し、日本的な社会秩序に照応する日本的な感性の秩序を反映しえたのであるが、それによって、日本のコトバは論理的な側面を中和され、うしなったのである。したがって、変革期において、日本の詩人たちが例外なく当面した課題は、内部世界の表白に論理的に執着すれば、外部現実とのあいだに、いいようのない空隙をおぼえるし、外部現実に執着すれば、内部の論理的な表白が不可能となるという二律排反であり、そのうしろには、たえず日本の社会が論理的な構造をもつことは、不可能なのではないか、という絶望的な予感があり、もどかしさがあった。日本のコトバの論理化は、日本の社会構造の論理化なしには不可能である。現在でも、論理的な発想、いいかえれば内部世界の表象を、論理的に詩にみちびき入れようとする詩人たちの詩が、ヨオロッパの詩の日本版にすぎないか、その最上のものでも、きわめて不安定な感じをあたえるのは、この問題の本質的な解決が、コトバと現実とのあいだの深い関連を、抜本的に解決するのでなければ不可能であることを証左していると思える。
 蕪村の長詩の試みは、蕪村が何らかの意味で、この問題に当面したことを物語っている。
 (「蕪村詩のイデオロギー」『吉本隆明全集4』P258-P259 初出 1955年10月)


C(おまけ)
 明治革命は、せめて蕪村―一茶を流れるイデオロギー線上で、主動されるべきであった、というのはこの小論のおわりに加えられるべき嘆きのひとつである。だが、明治革命の革命家である浪人、下層武士インテリゲンツァは、長歌や和歌の方法によって、三文の価値もない復古的な政治イデオロギー詩を、ふんだんに残したことは、周知のとおりである。
 (「同上」『吉本隆明全集4』P261)


D
 問題は、はじめから、
現実と現実意識と表現との基本的な関係のなかにあったのである。
 (「『民主主義文学』批判―二段階転向論―」『吉本隆明全集4』P295 初出 1956年4月)

備考
 吉本さんの、切実なモチーフの線上に表現に苦闘する江戸期の蕪村の言葉の姿が呼び寄せられている。そして、このような日本社会や日本語の本質的な姿の追究は、戦争−敗戦が吉本さん自身の全存在を襲った傷手からの孤独な敗戦処理に当たっている。と同時にそれは、詩などの表現をする者に限らず、この社会この日本語に生きているわたしたちすべてに、あてはまる諸問題の切開に当たっている。
 そして、この吉本さんの孤独な歩みと営為は、『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』『心的現象論(序説)』『マス・イメージ論』『ハイ・イメージ論』『アフリカ的段階について―史観の拡張』』『母型論』などなど途方もない足跡をわたしたちの前に残している。しかし、その歩みは、自己資質とともに戦争−敗戦の根こそぎの傷手からの生き直しという初発のモチーフに貫かれている。
 そういう意味で、「内部の論理化」などに触れている小浜逸郎の『吉本隆明―思想の普遍性とは何か』(1999年)は、自身が述べているが文学表現への理解も十分になく、捉え方が浅いなと思う。





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
438 内部の論理化2 ないぷのろんりか 「前世代の詩人たち」 論文 『詩学』1955.11月号 吉本隆明全集4 晶文社 2014.9.30

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内部世界 外部の現実 論理化された内部世界 人民
項目
1
 @
 岡本(引用者註.岡本潤)の戦争期におけるアナキスム的な立場は、その骨格をかえずに、ただちにファシスム理論へ移行できるところに特徴があった。それは、岡本が、
内部世界を、外部の現実と相わたらせ、たたかわせることによって成熟させ、その成熟させた内部世界を、外部の現実とたたかわせる相互作用によって思想を把握したのではなく、内部的未成熟のうちにイデオロギイを接木したため、現実の動向によって密通的に動揺できるものだったためである。したがって、岡本の立場は、永久に、「日本庶民」プラス「イデオロギイ」であり、確立され、論理化された内部世界が、現実と思想との間を、実践的に媒介することはないのだ。
 戦争詩「世界地図を見つめてゐると」は、あきらかにそれを立証している。

 世界地図を見つめてゐると
 黒潮はわが胸に高鳴り
 大洋は眼前にひろがり
 わが少年の日の夢が蘇つてくる
 われ海に生き海に死なんと
 海軍兵学校を志願し
 近視の宣告で空しくやぶれ去つた
 わが少年の日の夢が―。
 万里、波濤を蹴り
 わが鋼の艦は行く。
 夜を日につぎ
 われら民族の血と運命を賭ける
 海の闘ひは陸の闘ひにつづく。
 わが少年の日の夢が
 新しい世紀を創る、刻々の
 壮烈な現実となつてかへつてきた―。

 戦争期に岡本のような「少年の日の夢」を蘇らせたことは、「日本庶民のひとり」として、もっともなことであった。
 ・・・中略・・・
 わたしが、「高村光太郎ノート」(引用者註.「高村光太郎ノート―戦争期について」『現代詩』1955年7月)で「日本的庶民意識」とかいたとき、もともと定式化されない庶民の意識構造を総括するコトバとしてつかった。だが庶民にたいするわたしの定義は、あの「ノート」をすこし注意してよめば、一貫しているのだ。
 わたしは日本の社会的なヒエラルキイにたいして、
論理化された(引用者註.「論理化された」に傍点)批判や反抗をもたない層の意識という程の意味で、「日本的庶民意識」というコトバをつかった。
 
このような層の意識構造は、原則的にいえば、社会構造を、そのまま反映している。すくなくとも、社会と、そこに生活する人民とを対立的にかんがえるとき、そうである。
 さまざまな要素が、庶民の意識にあらわれるのは、まったく、社会構造と庶民の意識構造との同型性によるのであり、岡本がどのようにアイマイにしようとも、このさまざまな要素は、原則として分析可能なのだ。
 (「前世代の詩人たち―壺井・岡本の評価について」『吉本隆明全集4』P273-P275 初出 1955年11月)


 A
 わたしのかんがえでは、庶民的抵抗の要素はそのままでは、どんなにはなばなしくても、現実を変革する力とはならない。
 したがって、変革の課題は、あくまでも、庶民たることをやめて、
人民たる過程のなかに追求されなければならない。
 わたしたちは、いつ庶民であることをやめて人民でありうるか。
 わたしたちのかんがえでは、自己の内部の世界を現実とぶつけ、検討し、論理化してゆく過程によってである。この過程は、一見すると、庶民の生活意識から背離し、孤立してゆく過程である。
 だが、この過程には、逆過程がある。
 論理化された内部世界から、逆に外部世界へと相わたるとき、はじめて、外部世界を論理化する欲求が、生じなければならぬ。いいかえれば、自分の庶民の生活意識からの背離感を、社会的な現実を変革する欲求として、逆に社会秩序にむかって投げかえす過程である。正当な意味での変革(革命)の課題は、こういう過程のほかから生まれないのだ。
 (「同上」P275-P276 初出)

備考
@の岡本潤の内部世界について
「内部的未成熟のうちにイデオロギイを接木した」ということは、痛ましいことに現在の「ネトウヨ」諸君も同じである。他人の怪しい論考やデマゴギーに精通して、自分の考えとして接ぎ木していく。まるで、オタク文化に熱中する(このこと自体は個のレベルのものでとやかく言うことではないが)のと同質のエネルギーをイデオロギーの破片を寄せ集めたり他者を排撃することに熱中しているように見える。

Aの「人民」について
この若い吉本さんの生きた時代や社会から現在はずいぶん変貌してきた。したがって、当時の状況に規定された概念―例えば「階級」や「人民」や「革命」―もそれらにまつわるイデオロギーとともに消失してしまったように見える。つまり、それだけの概念の寿命しか持てなかったことになる。ただし、ここで使われている「人民」は、意識的な自立する大衆として、多数の大衆的な沈黙の意志を支えとして自らの生活世界から「政治性」をもった大衆として自らを表現し、また自分の生活世界に戻っていく者として捉えるなら依然として意味を持つ概念だと思われる。なぜなら、わが列島の人々が、政治・文化上層に対して屈従はあっても自立性を持てなかった数千年にわたる負の遺産から、わたしたちの生活世界を自立した世界として固守することは依然として大きな課題であり続けているのだから。





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
439 内部の論理化3 ないぷのろんりか 「戦後詩人論」 論文 『詩学』1956年7月号 吉本隆明全集4 晶文社 2014.9.30

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(戦前の詩の)欠陥 内面性の欠如、表現の平板さ 詩のコトバが論理性をもたない限り
項目
1

@
 わたしの視るところでは、日本の戦後詩は、まず、戦前のモダニズム詩とプロレタリア詩の
欠陥を、どう克服するかという課題を技術と内容の両面から解決することを強いられたのである。
 たとえば、戦前のモダニズム詩は、詩の技術を詩人の内部世界から切り離したところでフォルム化していったために、内面性の欠如、表現の平板さ、におちいり、遊戯化せざるをえなかったのであるが、この欠陥は戦争期にはいると忽ち拡大され、北園克衛のような超モダニストが日本の障子紙のような風景に美を見出したり、村野四郎は「挙りたて神の裔」のような作品をかき、安西冬衛は「相模太郎胆カメの如し」という表現を試みるなど、たちまち、そのモダニズムが衣裳にすぎず、内部世界を確立するための内面的な努力が不充分であることを露呈したのである。いいかえれば、
衣裳はモダニズムであっても、その肉体は古い日本の庶民の意識から一歩も出ていないことを明らかにしたのである。
 現代詩の特長的な流派である戦前のモダニズム詩とプロレタリア詩のこのような欠陥は、いうまでもなく、
近代詩以後の日本の詩にかかわる本質的な、宿命的な課題を、これらの流派もまた克服できていなかったということに帰せられる。そして、この課題は、おし拡げれば、日本の近代化の不完全さ、社会構造の非論理性、後進性ということにもつながり、その面から、明治以後の日本の近代文学全般の問題にもつながるものであった。
 (「戦後詩人論」『吉本隆明全集4』P302-P303 初出 1956年7月)
 
 
A
 
戦後「荒地」グループが直面した問題は、だから自我意識を現実体験によって深めながら、そこに詩の態度をすえ、しかも如何にして日本の詩の表現にまつわる非論理性、平板性、無思想性を超えうるかという点にあったことは疑いをいれない。このことは、「荒地」の詩人たちによって、技術より態度へ、意味の尊重へ、モダニズムを継承することによって反モダニズムへ、というように幾通りものいい方をされてきたが、帰するところは、この点にあった。
 わたしの見るところでは、黒田三郎のような例外的な詩人を除いて、この問題は「荒地」グループにおいては、西欧の同時代詩の論理的な発想と、現実意識と、主体性とを原型としながら、如何にして詩をかくことによって、
日本の社会的な現実に対応する感性の秩序の深層にまで変革の力をもたらしうるかという課題としてあらわれたのである。結論風に云えば、「荒地」グループの現在までの詩業は、この課題を充分に解決しえているとは云えない。詩の表現を、技術として取り出し、適用することに成功した詩には、どこかに西欧的な発想を模写したところからくる安定性と異質性があり、日本的な社会現実や現実意識と、どこで接触するかが不明瞭になっている。しかし、この問題の本質的な解決は、日本の詩のコトバが論理性をもたない限り不可能でありまたそのためには、日本の社会構造が論理化されなければ不可能である。
 (「同上」P304)
 
 
B
「荒地」グループが、戦後の現代詩にもたらした最大の功績は、内部世界と現実との接触する地点で、未だ、無限に詩の表現の領域が存在していることを啓示してみせた点にあるというように総括できそうな気がする。このグループの出現によって、日本の現代詩は、いちじるしく内面性を拡大したことは疑いを容れない。このことは、即物的な形象によるのでなければ、詩を成立させることが不可能であると考えているかに錯覚されるほど平板な戦前の詩と比較するとき明瞭である。
 (「同上」P304)

備考
 なぜ文学に自己の内面の論理化や言葉の論理化が必要なのかという疑問が起こり得るはずだからそれに触れておく。
 文学も思想も表現世界の別はあっても個の表現ということでは同一である。そして、芸術が自立する以前の太古には、芸術以前の言葉は自然(神)に呼びかけたり集落の人々に語りかけたりしながら、人々のある切実な真や願望を語ってきたものと思われる。そこから自立した芸術や思想の無意識的な根底に横たわっているものは、どんな表現であっても、現在風の言い方をすれば、人や世界について、よりよい関係、よりよい有り様を追い求めるもの、ひと言で言えば理想を追い求めるものと言えるのではないだろうか。このように捉えるならば、文学や思想における「内部の論理化」や「言葉の論理化」は避けられない問題として浮上してくる。ここでの若い吉本さんの場合は、戦争−敗戦の自分や人々の負の体験の促す強度のほうが強く前面に出ているように思われる。

 この論考での戦前と戦後の詩の対比から、詩の世界で詩人たちが表現上で当面している具体的な諸問題が詩史論的なモチーフの推移として捉えうるように表現されている。

 この論考は、詩について述べられているが、このことはあらゆる芸術や政治など他の人間的な領域についても同質の構造的な問題を抱えているものとして捉えうるように思われる。





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440 内部の論理化4 ないぷのろんりか 「文学者の戦争責任」 論文 『文学者の戦争責任』1956.9 吉本隆明全集4 晶文社 2014.9.30

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わたしの戦争期と戦後にかけての内的格闘のあと 不可欠の条件
項目
1

@
 これらの発言(引用者註.清岡卓行、谷川雁、平林敏彦の文章を引用して)は、要するに批判者に戦争責任を追及する資格があるか、わたしたちはすべて戦争にたいして共犯者だったのではないかという点にある。もし、わたしが、十代から二十代はじめにかけての自分の戦争観と体験を記述することに公共的な意味があると考えるならばそれを記述することは雑作ないが、そんな自己告白に何の意味があるのだ。
わたしは、わたしなりに戦争期の自己の内部的、現実的な体験を生涯にわたって重要なポイントをなす体験と考え、その考えの下に「高村光太郎ノート」(戦争期について)をかいたのだが、自己の体験を単に告白することによって公共的な問題を引き出しうるなどと自惚れたおぼえはない。しかし、わたしの奇妙な論敵達が指摘するほど、それに触れていないわけではない。まずこれらの論者たちは、自ら誇る文学批評的眼力によって、わたしの詩人文学者の戦争責任にかかわる批評を読み通すべきではないか。そこに、わたしの戦争期と戦後にかけての内的格闘のあとが読みとれないようでは文学を語る資格はない。


A
 戦争期の日本の詩、文学の問題を論ずる場合に、その挫折が、文学の方法上の欠陥、それと関連して日本の社会構造の欠陥と密接不可分の問題であるという認識が必須の条件なのだ。それと共に、戦争期の体験を、どのように咀嚼して自己の内部の問題としながら戦後十年余を歩んできたか、そしてその戦争期の内部的体験を戦後十年余の間にいかにして実践の問題(これは文学的表現の意味にとっても、社会的実践の意味にとってもよい)としてきたか、いわば戦後責任をどう踏まえてきたかということが、この問題を論ずる場合に不可欠の条件である。わたしは、一連の戦争責任にかかわる批評のなかで、この二つの条件を一度も手離してはおらぬ。わたしの奇妙な論敵たちは、たんに戦争詩をかいたとか、かかなかったとかいうことで、わたしが前世代の詩人たちを批判しているかのように故意に誤読している。このような誤読は、論者たちの文学青年的心情、典型的な日本の文学者根性からして当然なのだ。かれらは、戦後十年余、自分が戦争期の体験をどう踏まえてきたのかに申し合わせたように触れておらぬ。
 (「文学者の戦争責任」『吉本隆明全集4』P325-P326 初出 1956年9月)

備考
 文学の表現者でも、素人の趣味的な世界の延長に居る者もいるだろう。つまり、文学という世界に流れ込むあるいは流れ込んで蓄積し潜在し続けている人や人の世の修羅のようなものの存在に対して無自覚にあるいは無意識的に、「自己慰安」の表現を成し続ける人々もいるだろう。そのこと自体が責められるべきかどうかという問題ではない。しかし、専門的な表現にのめり込んでいく者は誰もが意識しようがしまいがそれとの遭遇を避けることはできない。

 人は誰でもこの社会のどこかに生活の場所を占める。そして、大多数は職場に入り仕事をする。例えば学校の先生になって仕事をしていたら、(あなたはこのことに対してどう振る舞いどう対処するのか)というように自己倫理を問われる場面が必ずあるはずである。このことは、どんな職業であっても職場の倫理と自己倫理が同調したり、ある場合には職場の倫理に反した自己倫理からの行動もあり得る。職場で何か社会的に波及するようななトラブルに出会わない限り、一人一人は自己倫理と自分の行動とがたえず内的に対話しながら日々生活することになるだろう。中には、自分の趣味に叶う仕事をしていてそういう対話の度合いが少ないという人々もいるかもしれない。

 このように人が小社会の具体的な場で活動するとき、一般には個人性と社会性がぶつかり合うことによってそういう自己倫理と自分の行動とがたえず対話し続けることは避けられないことである。そしてその対話がある臨界値を超えてしまったらその職場を去るということもあり得るだろう。同様に、文学という幻想的な個人性と社会性の場においても、同様の自己倫理と自分の行動(表現)との対話は避けられない。しかも、戦争中のように、作家−読者−国家・戦争という社会性の中に表現が飲み込まれてしまうこともあった。こうした状況を踏まえれば、専門の表現者たちが、幻想の社会性つながりの面では自分の表現に対する責任と倫理とが問われるのは避けることができないと思われる。





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
441 内部の論理化5 ないぷのろんりか 「現代詩批評の問題」 論文 『文学』1956.12 吉本隆明全集4 晶文社 2014.9.30

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構造 同型 昭和初年からの現代詩の動向
項目
1

@
 
政治をみすえる眼と、文学をみすえる眼とは、内部において同一でなければならぬ。いいかえれば、政治を実践する原理と、文学を表現する原理とは内部で統一されていなければならない。したがって政治的な実践の構造と、文学の表現の構造とは同型であって、これは内部の現実意識の構造にひとしいものだ。
 政治と文学とのちがいは、いわば政治の問題が、内部世界を論理化してゆく方向に成立するのに反して、文学の問題が、内部の心理的な要素も、論理化された要素が外部の現実とぶつかって生みだす異質の心理的な要素をも、表現のなかに含むということだけである。ここまでくれば、わたしたちは直ちに社会的実践に身を投ずることも、文学の創作に従うことも内部的、主体的に可能である。事実それは可能なのだ。
 (「民主主義文学者の謬見」『吉本隆明全集4』P329-P330 初出 1956年10月)


A
 (引用者註.日本のモダニズム詩運動について)詩から意味、思想というような内容をきり棄てることは、創作過程で詩人の内部世界と社会、生活、政治、環境というような外部の現実との内面的なかかわりあいをきり棄てるということを意味している。
 (「現代詩批評の問題」『吉本隆明全集4』P355 初出 1956年12月)


 いわば、モダニズム詩は、コトバの芸術性を内部の現実意識によって裏づけえなかったため、社会情勢の変化するにつれて色褪せて、都市庶民の生活情緒の意味づけにまで退化し、プロレタリア詩は政治的な弾圧をこうむって組織が解体すると、もともと内部世界と外部的な現実世界との対応性がつきつめられていなかったから、詩意識の内部的なリアリティを表現するところに血路をもとめる術をしらなかった。そこに下層庶民の生活意識を情緒的に表現する道がのこされただけであった。
 詩史的にみると、モダニズム詩とプロレタリア詩の衰退のあと、『四季』が創刊され、いわゆる「四季」派の抒情詩が現代詩の主流を占めてゆく事情が成立している。
 
社会的な考察をくわえれば、「四季」派の抒情詩は、たんにこの派の詩人たちに固有な詩意識の所産だというよりも、衰退したモダニズム詩と、プロレタリア詩が陥ちこんだ集中点とかんがえるほうがより適切である。それは、昭和十年代を前後する社会的な現実の構造に、過不足なく従属する感性の秩序の所産であって、そこで示された「純粋さ」の概念は、西欧の近代詩が示しえた意識の原型と、似ても似つかぬ孤立した情緒に外ならないものであった。だから、現代詩がコトバの芸術性と、意味の文学性を適度に削り取られたあとの、混合された内部世界と現実世界が、消極的にあらわれたものだと理解することができる。
 (「現代詩批評の問題」『吉本隆明全集4』P360 初出 1956年12月)


 昭和初年、モダニズム詩とプロレタリア詩によって、現代詩が、コトバの形式主義と、意味の文学性とに引き裂かれた状態を、ふたたび検討し綜合する方法を見出さないかぎり、
現代詩の孤立性はさけられないであろうとかんがえられる。
 (「現代詩の発展のために」『吉本隆明全集4』P371 初出 1957年1月)


備考
 吉本さんの成してきたことを現在から時間的な逆行の視線で眺めると、@のように、主体の内部世界と外界との関わり合いの構造や主体の表現ということについて、「文学」と「政治」のように対立的やそれぞれ無縁のものとして捉える(どう捉えようと人の主観性の自由ではあるが)のではなく、若い頃から吉本さんは一貫した方法的な、構造的な視線を持続してきたように見える。

 Aは、戦時体制への社会的な動向と対応する詩人の内部世界と詩の表現運動の変動、及び転落。モダニズム詩とプロレタリア詩から「四季」派へ。

 「四季」派の詩の本質的な批判は、「『四季』派の本質―三好達治を中心に―」(1958.4)において成される。





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
443 内部の論理化6 ないぷのろんりか 「定型と非定型」―岡井隆に応える― 論文 『短歌研究』1957.6 吉本隆明全集4 晶文社 2014.9.30

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内部世界の構造が外部の現実と相互に規定しあう 短歌作品の感性の秩序
項目
1

@
 しかし、定型詩から非定型詩へと展開した近代詩の歴史を自覚しながら詩をかいているわたしが、口語破調の試みに同情的であり、口語破調を試みるなら散文(小説)の発想から徹底してかからなければ成功はおぼつかないと考えるのも当然である。・・・中略・・・
現代詩も現代短歌も明治以前にさかのぼれば、短歌を共通の詩的遺産とすることに思い到れ。わたしは、既に古典詩人としての「蕪村」や「西行」を論じてこれら俳人や歌人の作品を現代詩への遺産として照明している。岡井ごときの幼稚な短歌を論ずるのにマトを外すとおもうか。
 (「定型と非定型」」『吉本隆明全集4』P428-P429 初出 1957年6月)


A
 岡井は、読みもしない
元良勇次郎の詩論(「精神物理学」〔九・十〕『哲学雑誌』明治二十三年七・八月)を「多分幼稚なものだったろうと想像する」などと云っているが、今後はこういう文学青年じみたはったりは云わぬようにせよ。そんな根性ではロクな歌人にはなれまい。
 元良の論文は、岡井のような無学な歌人が逆立ちしてもできない方法と論理で、何故、日本の詩歌が、五・七律を主体とするかを「精神物理学」的に考察している。
わたしが、五・七律に表現される感性の秩序と、現実の秩序を対応させて考えようとするとき、元良勇次郎の労作を思い浮かべるのは、当然なのだ。「お供をつれて」などとふざけたことをいうな。
 一首の短歌を、感性の側面からみるとき、作品のなかに一つの感性の秩序が完結しているという統一感がある。ところで、
内部世界の構造が外部の現実と相互に規定しあうものだ、ということを信ずるかぎり、もし、歌人が現実社会にたいして何も反抗をもたないならば、その歌人の内部世界の構造は、現実の構造と型をおなじくするであろう。
 これを感性の側面から云って、歌人が現実社会の秩序に何の異和感をももたずに作った短歌作品の感性の秩序は、現実社会の秩序と構造を同じくするであろう。

 しかも、歌人が、現実社会の秩序に異和感をもたないばかりでなく、社会の歴史的な発展過程にたいして意識的な批判をもたないならば、彼は、
日本の詩歌の原始律である五・七律のワクのなかで、しかも現実の秩序とおなじ感性の秩序で短歌を作るであろう。
 だから、現在の社会秩序に反抗をもち、社会の歴史的な段階を意識する歌人は、当然、日本詩歌の原始律五・七調と、そこに表現される感性の秩序とにたいして、変革の意識をもつはずだ、という主張が成立するのだ。・・・中略・・・
 
わたしは、明治以後の近代においては、短歌が真の意味で蘇ったとはおもっていないのだ。もし、そう思っていたら、詩などかかずに短歌をかくに定っているではないか。わたしは、近代の短歌が、明治以来蘇ろうとして、苦悶し、今なお岡井のような舌足らずの試みや、赤木のような中途半端な口語短歌の試みがなされているのを知っているだけだ。
 (「同上」P429-P430 初出 1957年6月)

B
 短歌は、古代社会から存在している。そして、俳句は、分権的封建社会から集権的封建社会にかけての町人ブルジョワジイの発生、興隆に対応して生まれている。近代詩は、長歌や俳句的長詩とヨーロッパ詩歌の影響下に、明治以後の近代社会に生まれている。もちろんこういう
発生史的考察を密にしてゆけば、近代社会に対応する詩型は、近代詩であって近代短歌ではない。わたしは、この考察を本質的には肯定する。しかし、公式的にこの考察をふりまわしたくないのは、わたしたち昭和時代の人間の感性の秩序といえども、原始的な感性の秩序を反すうしたり、これと対決したりしながら発展し、感性の変革の原理をつかむものであり、社会的にも、古代社会からの日本型の秩序の構造を反すうしたり、これと対決したり、いいかえれば、これとかかわりあいながら発展し、また変革の原理を獲得してゆくものだからだ。
 (「同上」P430-P431 初出 1957年6月)

備考
これはまだ若い20代終わり頃の岡井隆との論争である。

表現された作品世界を捉える場合の幹となる基軸。歌人の内部世界の構造とそこから表現された短歌作品の感性の秩序との関わり。
{
「原始的な感性の秩序」や「日本詩歌の原始律五・七調」は、表現やなんらかの形でわたしたちの現在にまで保存されて来ているということ。ちょうど、幼少年期や青年期などがわたしたちの現在に内在しているように。





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
444 内部の論理化7 ないぷのろんりか 「番犬の尻尾―再び岡井隆に応える―」 論文 『短歌研究』1957.8 吉本隆明全集4 晶文社 2014.9.30

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日本の詩歌の三種、近代詩、短歌、俳句の発想の異質さ 詩型に含まれる感性の構造の断層 詩人の内部の世界と現実との格闘
項目
1

@
 
日本の詩歌の三種、近代詩、短歌、俳句の発想の異質さは、何によるのだろうか。第一は、発生史的な相違による。古代社会に古代人の意識の産物として生まれた短歌と、封建社会に町人ブルジョワジイの意識の産物として生まれた俳句と、近代社会に近代的インテリゲンチャの意識の産物として生まれた近代詩の、意識(主として感性と漠然と呼ばれている要素が関係する)と下部構造との関係の相違によるのである。第二に、第一の問題から派生する定型と非定型が文学的内容とかかわる、かかわりかたがちがうのである。
 この二つの日本詩型の発想上の異質さは、ヨーロッパ近代詩における、自由詩と押韻詩との相違と同日に論ぜられない、断層があるのである。この断層を、本質的に規定しているのは、わたしの理論では、下部構造によって規定され、下部構造を規定し返すところの
詩型に含まれる感性の構造の断層である。もし詩に関することでなければ、もちろん「感性」というコトバの代りに「意識」というコトバを用いるべきである。
 
わたしが、この理論をもとにするかぎり、日本の現代詩歌の課題は、この近代詩と短歌と俳句との間にある発想上の断層を、解消する条件を見出すことにかかってくる。この条件が見つかれば、詩と短歌と俳句とは、たんに非定型長詩と定型短詞との相違にすぎなくなるのである。


 
わたしが、日本の詩歌の現状を基にするかぎり、このような段階における日本の詩歌の発想を統一する原型は、文学的内容、いいかえれば、詩歌におけるコトバの文学性に求めざるをえないのだ。そして、この文学性は、散文(小説)的発想からする文学性とまったく同一なものを指している。
 (「番犬の尻尾―再び岡井隆に応える―」『吉本隆明全集4』P438-P440 初出 1957年8月)


A
 日本の近代詩が、日本文学全体への影響を失って分裂したのは、
わたしの実証的な考察によれば、有明、泣菫らの象徴詩運動以後である。すくなくとも、新体詩から藤村までは、日本の文学において詩の問題はいつも文学全般の問題にさきがけて提起され、さきがけて新たな課題を解決してきたのだ。では、何故に、有明、泣菫らを主導者とする象徴詩において、近代詩は日本の文学における主導性を失ったのだろうか。それは、象徴詩が、詩の思想性というものをコトバの格闘によって表現しようとし、形式上の格闘と文学的内容上の格闘を分裂せしめたからであった。詩における文学的内容上の格闘は、いうまでもなく、詩人の内部の世界と現実との格闘によってしか生れない。ところが、象徴詩人たちは、漢語の視覚と音感効果および七・五調の複雑化によって詩の思想性の複雑化を企てようとした。象徴詩は、第一に形式と内容との分裂によって、第二に文学的内容を軽視してコトバの格闘におもむくことによって、日本文学全般の主導的な位置を転落したのである。
 (「同上」P441 )


B
だから、もちろん現代詩は、そのコトバの上の格闘と文学的内容性とを綜合することによって日本文学全般を主導することができると確信し、そのために奮闘してきた。今後もそうするであろう。この男(引用者註.岡井隆のこと)は、何という馬鹿者だ。日本の詩歌を、日本の文学全般とかかわらせるには、先ず、第一段階として、詩人や歌人が小説や評論を論じ、文芸批評家が、詩や短歌や俳句を、本格的に批評する風潮をつくることが大切なのだ。
 (「同上」P442 )

備考
Bについて、吉本さんの晩年における「現代詩」の状況把握については、項目442「現代詩と大衆のつながり」を参照のこと。





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
445 内部の論理化8 ないぷのろんりか 「芸術運動とは何か」 論文 『綜合』1957.9 吉本隆明全集4 晶文社 2014.9.30

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芸術家の内部世界と外部の現実 認識された現実 生のままの現実 内部世界のイデオロギー部分と心理部分
項目
1

@
 わたしたちのかんがえでは、
芸術創造の原動力は、芸術家の内部世界と外部の現実とのかかわりあいのなかからうまれてくる、という古典的な本質論は前提として承認せざるをえない。しかし、わたしたちが、多くの芸術上部構造論者とちがうのは、このようなかかわりあいが二重の対応関係のうちにあると主張する点にある。いうまでもなく認識された外部の現実と、実際の外部の社会的現実とを混同してはならない。芸術創造の原動力となるのは、このような混同をさけていえば、認識された外部の現実が、内部世界のイデオロギー部分と心理部分とにあたえる反映と、逆に内部世界が認識された外部の現実にあたえる反映とのあいだに起こる循環にほかならない。芸術作品の政治的価値と芸術的価値を、内在的な意味で決定するのは、認識された現実が内部世界に反映して形成された現実意識のイデオロギー部分と心理的部分とにほかなるまい。
 このような関係は、実際の現実と内部世界とのあいだにも成立することはあきらかである。わたしたちの主張を、おおくの上部構造論者と区別するのは、
認識された現実と内部世界のあいだの循環と、生のままの現実と内部世界とのあいだの循環とは、混同されてはならないばかりではなく、この二つの循環には対応関係が存在するという点にある。いいかえれば、芸術家は、芸術創造のさいには前者の循環の過程にあり、実行(実生活から芸術運動にわたるすべてを含む)の場合には、後者の循環の過程にあり、そのあいだに対応関係が成立するということである。わたしたちのみるところでは、芸術の上部構造論者のおおくは、この二つの循環を混同したまま一元的に行使しているようにおもわれる。芸術が上部構造であり、芸術家が上部構造の担い手であるという意味は、生のままの現実と芸術および芸術家のあいだの関係をさしている。しかし、芸術家の内部世界と芸術作品のあいだにも、いわば内部的上部構造論ともいうべき関係が成立する。芸術作品は、認識された現実が芸術家の内部世界にあたえた反映の具体的なひとつの形体にほかならないということができる。


A
 過去の芸術運動において、芸術作品の芸術的価値と政治的価値とは何か、という問題が提起されたとき、論者たちはすべて、芸術的価値ということで、内部価値の問題を、政治的価値ということで効用価値の問題をかんがえてきた。この問題が、けっして解決しえなかったのは、当然である。論者たちの価値のいたちごっこは、
認識された現実と生のままの現実とをはじめに混同したためにうまれた。わたしたちの理論からは、芸術の政治的価値にも芸術的価値にも、二重の構造があることがただちに指摘される。すなわち、認識された現実が芸術家の内部のイデオロギー部分に反映したものが芸術の内在的な政治的価値を決定し、心理的部分に反映したものが芸術の内在的な芸術的価値を決定することが一つと、他の一つは、何のために役だつものを芸術的価値ありとし、政治的価値ありとするか、という外在的な効用価値の問題である。わたしたちの理論からあきらかなように、この内在的な芸術的価値と政治的価値は、効用的なそれと対応しているのである。
 (「芸術運動とは何か」『吉本隆明全集4』P467-P468 初出 1957年9月)

B
 すでにあきらかなように、芸術家は内部の世界を認識された現実とかかわらせることによって芸術作品を創造し、生のままの現実とかかわらせることによって実行(実生活から芸術運動にわたる)するものである。
 (「同上」P469)

※@ABで、「認識された(外部の現実)」や「実際の(外部の社会的現実)」や「生のままの(現実)」などに付された傍点は、省略している。



備考
この当時から吉本さんが三浦つとむとつき合いがあったかどうかは知らないが、この文章から三浦つとむの論理力の影響のようなものを感じた。また、吉本さんの軌跡を後から振り返ってみれば、これらの表現は後に整序され構造化されていくものの萌芽のようなものとして見ることができる。

当時の文学や思想にあふれていた「俗流マルクス主義芸術理論」や「反マルクス主義批評」などに対して、たぶんうんざりしながらも本質的な批評や思想への意志、論理化の欲求が感じられる。

@で、「内部世界のイデオロギー部分と心理部分」というのは、後の『共同幻想論』(1968年)によれば個の中の共同性に関わり合う領域と個の中の固有の自己幻想の領域に対応するものと思われる。芸術作品の政治的価値はその後ほとんど取りあげられていないように思うが、芸術作品の芸術的価値は『言語にとって美とはなにか』(1965年)によれば、主に自己表出が担うものとされる。





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
446 内部の論理化9 ないぷのろんりか 「日本近代詩の源流」 論文 「現代詩」1957.9-1958.2 吉本隆明全集4 晶文社 2014.9.30

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七・五定型のなかに、芸術性と文学的意味とを結合 政治と文学論争
項目
1

@
 
透谷の事業の勝利とは何か。それは、じつに七・五定型のなかに、芸術性と文学的意味とを結合しえた最初の詩人であるところにあった。透谷の敗北とは何か。『楚囚之詩』の律調を、七・五調にまで後退せしめたところで、想世界を現実世界に対決させざるをえない程、明治二十年代後半の日本の社会が、この詩人を追い詰めていったところにあった。 愛山の「詩人論」の理論的な意味が指さすところに、やがて与謝野鉄幹があらわれ、透谷の内部生命論が指さすところに、やがて島崎藤村があらわれる。
 透谷、愛山論争(引用者註.「現在のコトバでいえば、
政治と文学論争」P533)は、形をかえいまに終ることはないのである。
  (「日本近代詩の源流」『吉本隆明全集4』P540 初出 1957年9月〜1958年2月)


A
 
当時の近代詩の発展段階では、七・五定型のなかに、自我と現実との葛藤を投入しようとするとき、どうしても一種の「物語性」ともいうべきものを仮構し、そこに内面を仮託せざるをえなかった。そして、この問題を、もっとも徹底的につきつめて「楚囚之詩」をかき、ついに『透谷集』の試作品まで後退していったのは、透谷であった。藤村もまた、「花」とか、「旅人」とか、「落葉」とか、「風」とかいう、花鳥風月的な常套語を使って、近代的自我の葛藤を詩に表現しようとする矛盾にみちた作業を、透谷とおなじように、「物語性」に託しながらはじめていったのである。
  (「同上」P543 )


B
 自由民権運動の渦中から生まれた透谷=藤村の詩業と、ナショナリスム運動の渦中から生まれた鉄幹の詩業と、この二つの象徴する問題のなかに、いわば、日本近代文学における「実行と芸術」、「政治と文学」の課題のすべては集中的にあらわれている。
  (「同上」P555 )


 鉄幹門下には、啄木、光太郎、白秋、杢太郎等の詩人があつまる。かれらは、みな初期において、大なり小なり
鉄幹調の模倣者であった。はじめに鉄幹のような意味で、ナショナリスム意識を抱いた詩人は、いなかったが、これらの詩人たちは、その詩的生涯のどこかで、近代意識とナショナリスム意識との矛盾、対立、融合を体験し、挫折せざるをえなかったのである。啄木もまたこの例外ではなかったのである。
 かれらの内部で、近代意識が反権力と結びつくことなく、後進国ナショナリスム意識が反権力と結びついたため、ことごとく実行上と理念上の矛盾に、耐えられなかったのである。
  (「同上」P560 )


 透谷、藤村、鉄幹の詩業を総括してみながら、わたしの胸中には
ただひとつの課題がうかんでくる。
 それは、透谷、藤村、鉄幹という、まったく対照的な思想的問題をはらんだ詩人たちを、一つの地点から貫通して否定的に克服できうる方法は、どこにありうるか、ということである。事実、かれらは、おなじ一つの根からうまれ出たものであった。鉄幹は、『東西南北』のなかの「詩友北村透谷を悼む」において、

 世をばなど、いとひはてけむ。詩の上に、
       おなじこゝろの、友ありしを。

 とかいている。「おなじこゝろ」とは、ただ、透谷も鉄幹も、実行世界から詩世界へ近づいたという点にあるのではない。また、詩のうえで、コトバの芸術を目指さず、ただちに自我意識上ありあまる現実的問題を、詩のうえに投げいれたという点にあるのではない。
透谷の指向した革命的近代意識と、鉄幹の指向した国権的革命意識とが、おなじ系譜のなかの双生児に外ならなかった点にあった。そして、もちろん、わたしたちが否定的に媒介すべきものは、このうちのいっぽうではなくして、双方であり、この双方が、おなじ一つの根底から発しているところの、そのものである。
  (「同上」P561-P562)













B「鉄幹調」について(鉄幹の「人を恋ふる歌」出だしより)

 妻をめとらば才たけて
 顔うるはしくなさけある
 友をえらばば書を読んで
 六分の侠気四分の熱

 恋のいのちをたづぬれば
 名を惜むかなをとこゆゑ
 友のなさけをたづぬれば
 義のあるところ火をも踏む

 ここには、まことに男性流に都合のいい「妻」の理想像と、壮士風の「友人」の理想像が主張されている。
・・・中略・・・
 言うならば、鉄幹の男女の関係にたいする理想は、男性に従属的な女性に出遇うことである。鉄幹の男性同志の友情はいわば、「恋愛」的友情である。この倒錯感情は、日本ファシスムの感情的な系譜のなかに一貫してながれているものであった。
 家父長制度における男女関係と男性関係とを、そのまま、社会的な諸関係のなかに拡大するとき、わたしたちは、その典型的な感覚的ヒエラルキイが、この男女の関係にたいする男性的倒錯に対応することを理解することができる。
 (「同上」P557-P558)


 この与謝野鉄幹の「人を恋ふる歌」は、旧制高校で高歌放吟されていた寮歌と通じるものがある。たぶん島崎藤村の詩の和語的なやわらかさとは対照的な、内在律としての漢文書き下し調の七五調が共通しているものと思われる。ちなみに、わたしの大学生の時の寮でも寮歌やストームなどまだいろんな過去のものが残留していて、旧制五高寮歌「武夫原頭に」(七五調)も意味がよくわからないままに時々歌っていた。歌うのは、寮祭以外でも酒を飲んでいるときがほとんどだったと思う。鉄幹の「人を恋ふる歌」との共通性が感じられると思う。現在から見たら漢文書き下し調で七五調の生硬さが感じられる。しかし、当時の表現の水準ではそこまでが獲得された表現の自然さの限界だったのかもしれない。


 武夫原頭(ぶふげんとう)に草萌えて
 花の香(か)甘く夢に入(い)り
 竜田(たつだ)の山に秋逝(ゆ)いて
 雁(かり)が音(ね)遠き月影に
 高く聳(そび)ゆる三寮(さんりょう)の
 歴史やうつる十余年

 夫(そ)れ西海(さいかい)の一聖地(いっせいち)
 濁世(だくせ)の波を永遠(とわ)に堰(せ)き
 健児が胸に青春の
 意気や溢るる五高魂(ごこうこん)
 その剛健の質(しつ)なりて
 玲瓏(れいろう)照らす人の道
 (「武夫原頭に」2/5)


 ところで、詩人の伊東静雄は、大正12年(1923)4月に旧制の佐賀高等学校に入学している。伊東の友人である大塚格宛ての書簡によるとそこで寮歌などを高歌放吟していたようだ。また、伊東は激情的な感受性の持ち主でもあった。書簡(『伊東静雄青春書簡―詩人への序奏』 大塚梓・田中俊廣編)から判断すると、若い伊東静雄の文学や思想に影響を与えたのは、「文学界」の島崎藤村らと当時の『三太郎の日記』や西田幾多郎などの哲学だろうと思ってきたが、旧制高校の寮歌と同質性を持つ与謝野鉄幹の「人を恋ふる歌」などの系列の影響も付け加えておかなくてはならない。伊東静雄は、大正15年・昭和元年(1926)4月 京都帝国大学文学部国文科に入学している。大正15年(推定)の書簡に次のような詩を書き留めている。
この詩の前に、「京に参りて一と月を経ぬ」とある。


 あゝ我は詩人(うたびと)
 永久の詩人
 世破らば破れ
 人そしらばそしれ
 あゝ我は詩人
 永久の詩人

 我は天地の真子
 血統(ちすじ)正しき天地の真子、
 我が目つねに神を見
 我が耳つねに自然の声をきく
 我天地の真子
 血統正しき天地の真子、

 我森より生まれし素朴の子
 我が求むるは心理の泉
   (あゝされど今我真理てふ言葉に
    さへ大きなる疑を持つに至れり)
 常識の木の実は我を毒し
 伝統の古木は我を圧せん
 今人々は汝を嗤ふ
 されどしばらく笑声に耳をふさげよ

 常識の木の実は前に盛られ
 破滅の刃は背後に光る、
 前の美味をえらぶか
 後の刃を首にうけんか
 あゝ我は詩人
 我がとらん所も亦明なり。
  (『伊東静雄青春書簡―詩人への序奏』 P102-P104)


 与謝野鉄幹の「人を恋ふる歌」や旧制高校の寮歌との表現の同質性が感じ取れると思う。ちなみに、この漢文書き下し調の表現は、昭和10年(1935)10月に出された第一詩集『わがひとに與ふる哀歌』にも引き継がれている。このような生硬に見える表現は、伊東静雄が敢えて意識的に選択していた節がある。いわば「常識の木の実」や「伝統の古木」に対する反発やそれらに対する否定的な表現として。





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
448 内部の論理化10 ないぷのろんりか 『四季』派の本質―三好達治を中心に 論文 1958年4月 吉本隆明全集5 晶文社 2014.12.25

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詩を構成する感性の秩序 詩と社会的現実との構造的な対応 近代日本の社会構造の特質 日本の「常民」的認識の特質
項目
1

@
 敗戦とともに、既成のあらゆる詩的価値は、一応不信のまとになったが、詩を創造のがわからかんがえようとすると、「四季」派の抒情詩を構成している感性的な秩序は、意外におおきな滲透力をもっていて、そこから脱出するためにかなり長期間、方法的な模索をつづけなければならなかった。
 いま、「四季」派の本質を理論的に検討してみようとするとき、現実社会の動きとは何のかかわりもないようにみえる「四季」派の抒情詩の本質が、社会の支配的体制と、どんな対応関係にあったのか、かつて単なる便乗としかおもえなかった「四季」派の戦争詩は、かれらのどんな現実認識から生みだされたのか、等々の問題が、重要な課題のようにおもわれてくる。こういう問題の出し方が、あながち詩とは無縁のものだとはかんがえない。こういう問題が解けないかぎり、詩は恒久的に、その時々の社会秩序の動向を、無条件に承認したうえで成立する感性的な自慰にしかすぎないからである。
  (「『四季』派の本質」『吉本隆明全集5』P259 初出 1958年4月)


 
詩を構成する感性の秩序は、詩人の現実認識そのものをしめすことはありえないとしても、現実認識の秩序と構成をおなじくするものだということができる。詩の感性の秩序はもっとも端的にあらわれた場合、形式そのものに転化してあらわれるが、普通には、形式をささえる内在的な感性の構造としてあらわれてくるとかんがえられる。おそらく、現実社会の秩序が機能的に批判または否定されないところでは、詩を構成している感性の秩序は、現実社会の秩序と構造をおなじくする外はないのである。このようなかんがえかたは、詩と社会的現実との関係という概念のかわりに、詩と社会的現実との構造的な対応というかんがえを導入することによって、容易にみちびくことができよう。
「四季」派の抒情詩が、一見すると社会からの逃亡であるようにみえるとか、社会的動向とは無関係な世界を構成している、というようなことは、かれらの現実認識をかんがえようとする場合、何らの障害ともなりえない。かれらの抒情詩の感性的な秩序が、昭和十年代の危機とファシズムの時代に、支配的な社会体制と、おおくの点で構造的な対応をしめし、おおくの点で、支配体制下の詩的庶民の意識構造に投ずる要素をもっていたことだけが、問題提起の前提となりうるものとかんがえられる。
  (「同上」P260 )


A
 わたしたちが、戦後、詩を構成している感性の秩序そのものが、現実社会にたいして否定的または批判的機能をもつことは不可能であろうか、という問題に執着したとき、必然的に
社会構造の日本型とは何かという問題と、戦争期における日本の支配構造は、どのような特質から成立っているかという問題とを、喚起せずにはおかなかった。
 「四季」派の提出する問題は、おそらく、危機と戦争の時代に「四季」派の危機意識はどのようにあらわれてきたかという問題と、この派の詩人たちが、次第に日本の伝統的な詩形と感性とをくりこんできたのはなぜか、という問題をふたつながらはらんでいる。・・・中略・・・
このうち「四季」派の抒情詩が提出する問題は、伝統的な詩形と感性の問題をはらんでいるため、ほとんど、社会思想史上における日本ナショナリズム−ファシズムの問題と、同様な意義をもっていた。
  (「同上」P261 )


 
近代日本の社会構造の特質を、西欧型の資本主義とアジア型の後進性との結合として理解することは、もっとも目安をつけやすい方法であろうが、この結合の意味は、一般にかんがえられている(たとえば三二テーゼ)よりもはるかに複雑であり、多分に誤解せられているきらいがある。近代化が高度におしすすめられたとき、日本のアジア的後進性の特質は消滅するということはありえないから、日本の社会構造における後進性を打開することは、直ちに西欧化をおしすすめることと同義ではありえない。
「四季」派の全盛期である昭和九年から、太平洋戦争の末期までにおける日本の社会構造は、いわば、この西欧的近代性と、アジア的後進性という二つの特質を極度におしすすめたものに外ならなかった。日本は、高度の資本主義的な基盤のうえに立った西欧型の帝国主義の要素を獲得するとともに、極度のアジア的後進性もまた、権力機構によっておしすすめられていった。大体において、
天皇制下における金融・産業資本からなる日本の支配勢力は、自体のなかに奇妙な前近代性をはらみながらも、高度な資本主義支配の特質をもち、しかし巧妙なことに大衆の意識感情を組織するにあたり、その極度におしすすめられたアジア的後進性の側面を組織した。大衆のなかにある近代的意識を組織したのではなかった。
  (「同上」P264 )


B
 
かれらの内部意識のなかで、西欧的近代意識と日本的伝統意識とが、あまり矛盾・対立・葛藤を経ずに、原始的な形で併存していたとかんがえるほかに、このような事実をうまく理解する方法はないとかんがえられる。戦争によって、西欧文化から数年のあいだ遮断され、しかも、西欧諸国と抗争しなければならないと強要されたとき、かれらのなかで西欧的教養は、塵か芥のように消滅してしまい、あとは、庶民大衆の多数がたどらされたような、見事な先祖かえりにまで退化していったのである。
  (「同上」P266 )


 日本の戦争権力は、西欧帝国主義の本質を、「紅毛賊子」とかんがえ、これを「うちはらひあをうなばらにけがれあらすな」というような幼稚な認識で、戦争を強行したものではない。戦争権力もまた一面から視れば、高度の帝国主義としての近代性を具えていて、戦争の本質をリアルに把握していただろうことを疑うわけにはいかない。「四季」派の抒情詩人たちは、一見すると権力のプロパガンディストとしての外貌を呈しているが、ほんとうは逆であった。
権力のプロパガンダを、自身の固定した伝統意識においてうけとめ、たとえば、庶民大衆が動かされた地点よりも、もっと根深いところで、日本的な原始社会感覚を、掘りおこしていったのである。かつて、昭和十年代の前半に、かれらがモダニズム的な教養として得た論理と論理とが通じあう世界は、こんどは封鎖的な伝統感覚を掘り下げるために使用された。かれらの抒情感性と、庶民大衆の感性とを区別するものは、伝統感覚を論理的に掘りさげる能力と、伝統感覚を組織させられた生活感覚とのちがいであった。
  (「同上」P267 )


「四季」派の抒情詩は、たとえば擬古語と現代語の問題、詩における定型と非定型の問題、抒情の質の問題、等々、種々の方向から検討することができるであろう。しかし、
「四季」派の抒情詩の感性的秩序が、現実社会の秩序を認識しようとする場合、はっきりした自立感と遠近感をもたず、したがって現実の秩序と、内部の秩序とが矛盾・対立・対応がなされる以前に融合してしまっているところに、問題があるとかんがえなければならない。かれらは、自然や現実を、自己認識と区別できない平板上にとらえて、少しも疑おうとしていないのである。かれらのうちでは、自然もまた社会と同質な平面上の認識の対象であり、日常社会のメカニズムも、自己意識を拡大することによってとらえられた対象にしかすぎないのだ。
「四季」派の詩人たちが、太平洋戦争の実体を、日常生活感性の範囲でしかとらえられなかったのは、詩の方法において、かれらが社会に対する認識と、自然に対する認識とを区別できなかったこととふかくつながっている。権力社会もかれらの自然観のカテゴリーにくりこまれてくる対象であり、権力社会と権力社会との国際的な抗争も、伝統感性を揺り動かす何かにすぎない。原始社会人が、日常生活の必要から魚獣や他の部族を殺すことを、自然に加える手段の一部とかんがえているにすぎなかったように、殺りくも、巨大な鉄量の激突も、思想的対立も、すべて、かれらの自然認識の範囲にはいってくる何かにすぎないのである。・・・中略・・
・詩的な認識のはてに、ついに到達した日本の「常民」的認識の特質を解明することこそ「四季」派の抒情詩が提出するもっとも重大な課題ではあるまいかとおもわれる。・・・中略・・・日本の恒常民の感性的秩序・自然観・現実観を、批判的にえぐり出すことを怠って習得されたいかなる西欧的認識も、西欧的文学方法も、ついにはあぶくにすぎないこと―これが「四季」派の抒情詩が与える最大の教訓の一つであることをわたしたちは承認しなければならない。
   (「同上」P270-P272)



備考
関連項目 436「感性の秩序の変革」

現在から見ると、当時の「四季」派の抒情詩を含めた全芸術表現と生活者大衆の心性の表現が、上り詰めてきた近代社会の矛盾を病として体現するように退行的に発動したということだろう。それは退行であり、太古の感性への先祖返りであった。それは吉本さんの解明を加えれば、近代社会にまで根強く潜在的に生き延びてきた〈アフリカ的〉段階の感性や意識への退行であった。わたしのよく使う例えで言えば、全自動洗濯機(当時の資本主義がもたらす生活様式)の便利さは受け入れつつ、心性や観念としては退行的な洗濯板を使うべきだという心性やイメージに収束したということである。そして、残念ながらこうした退行的な心性やそれに基づく短絡的な平板な考え方は、現在においても無縁ではない。公優先の日本会議等−現政権の復古イデオロギーとその取り巻きのネトウヨと亜ネトウヨ知識層がそれを体現している。

一方で若者たちが現在の流行の感性を身にまとっていても、個の表現(行動することや考えを述べる)においては「社会に対する認識と、自然に対する認識とを区別できなかったこと」というのも依然として負性として受け継がれているように見える。





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
449 内部の論理化11 ないぷのろんりか 「芸術的抵抗と挫折」 論文 1958年4月 吉本隆明全集5 晶文社 2014.12.25

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日本の絶対主義がもつ矛盾した二側面 社会から疎外された人間としての生活者的な反抗 東亜共栄圏論
項目
1

@
 ここで、日本における芸術的抵抗は、芸術自体の構造としても、政治的思想との関係においても、
日本の絶対主義がもっている「封建性の異常に強大な諸要素」と「独占資本主義のいちじるしく進んだ発展」とに、同時に対決する方法をつかみ出す困難な二面性をもたざるをえない筈だったということができる。しかし、「前衛」的な観点からかかれたプロレタリア詩は、この日本の絶対主義がもつ矛盾した二側面に、ほんろうされて、ただたんに庶民的意識と真向うから対立し、また、自己意識のなかに生活性と政治性の矛盾を徹底してつきつめることもできなかったのである。わたしは、この問題を、プロレタリア詩が表現した生活意識の側面から、もう一度改めて検討してみなければならない。
  (「芸術的抵抗と挫折」『吉本隆明全集5』P285 初出 1958年4月)


 これら(引用詩は略)は、芸術思想として権力へ抵抗した過去の痕跡を、傷あとのようにとどめながら、日本の庶民の情緒的な生活意識にまで同化していった「前衛」的なプロレタリア詩の典型である。
本来的にいえば、政治的前衛としての観点を、社会的にも芸術的にも封殺されたとき、これらのプロレタリア詩のなかには、社会から疎外された人間としての生活者的な反抗が、すくなくとも庶民の生活意識とは、異質のものとして残るはずであった。(事実、小熊秀雄のようにそれを残した詩人もあった。)また、もしも、これらのプロレタリア詩が、前衛的な政治意識と下部構造の反映としての生活意識とのあいだの矛盾をつきつめて、内部の暗黒な地帯を解消しえていたならば、政治的発言を封じられても、生活意識自体の表現のなかに、政治意識を封じこめることが可能なはずであった。しかし、ふたたび繰返して言えば、これらのプロレタリア詩は、その何れのみちもとりえず完全に庶民意識に同化したのである。
 (「同上」P293 )


A
 日本的なファシズム運動が、いわゆる「政治新体制」をかためて、軍部、天皇制官僚、金融、産業資本の支配の下に、社会民主主義者、マルクス主義転向者、日本的近代主義者、労働者組織を再編して、翼賛政治、文化運動を展開し、いわば「超」絶対主義へ移行するとともに、高度帝国主義的な侵略戦に臨もうとしたのは、昭和十五年である。
 日本の庶民は、この支配権力の体制内で、積極的な戦争協力へ転化せざるをえなかった。
権力が、庶民を体制下にくみ入れるために用いたのは、おそらく、弾圧期に「前衛」と庶民とを引裂くために行使した方法と、あまり変っていない。いわば、「封建性の異常に強大な諸要素」を体制化して、日本の庶民意識の立ちおくれた部分を組織化して、後進国的な民族感情を引出し、しかも、これを「独占資本主義のいちじるしく進んだ発展」の側面から民族的優越意識に転化して、帝国主義戦争の方策にみちびいたのである。東亜共栄圏論、東亜連盟論、八紘一宇論は、この後進国的な民族感情を、民族優越論に結びつけた、庶民同化のイデオロギー的な目標に外ならなかった。
 封建的な諸要素と独占資本主義の高度な発展とを、巧みに使いわける権力の方策によって、かつて、芸術的抵抗の最前線にあった「前衛」的プロレタリア詩は、「超」絶対主義体制の下で、完全に日本の庶民意識に同化したばかりか、或る部分は、「超」絶対主義の「前衛」となって再生せざるをえなかったのである。
 (「同上」P293-P294 上の引用部の続き )



備考
私たちの現在は、以上の惨憺たる芸術表現や思想表現の負の歴史的な風景とは無縁ではない。芸術表現もわたしたち生活者も、いつなんどきそのように足下をすくわれるかもしれないような危うさを持っている。つまり、夏目漱石風に言えば公とは異質なしっかりとした自己本位や生活者本位がまだまだ十分ではないから、アジア的な段階の思想である公優先のイデオロギーにイカレたりやられたりする可能性を、大衆的なレベルでふっきれていない。





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
450 内部の論理化12 ないぷのろんりか 「情勢論」6 論文 1958年11月 吉本隆明全集5 晶文社 2014.12.25

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芸術と政治 日本の現在の社会構造の総体のヴィジョン
項目
1

@
 これらの概観によって知られることは、「近代文学」系統の思想家、芸術家たちが、現在でも、依然として、
芸術と政治が、まったく機能と次元をことにしており、芸術運動と政治運動とがまったく機能を別にしていることを明瞭につかんでいないとおもわれることである。芸術運動は、大衆の芸術意欲を組織する問題であり、政治運動は、大衆の社会生活を組織する問題であることが解かれていないため、大衆芸術論者のほうは、大衆娯楽を総合的に芸術化することに政治的な意欲を蕩尽し、組織と人間論者のほうは、官僚主義者とは、ちょうど裏腹に、組織を物神化する結果におちいっている。
 わたしは、これら戦後派の芸術家、思想家たちが、戦後支配体制の安定膨張とテクノロジイの発達に幻惑されておちいっている欠陥を克服し、
芸術と政治との正しい関係を奪回する第一の方法は、まず、芸術家たちが、日本の現在の社会構造の総体のヴィジョンをはっきりと把握することにあるとおもう。そして、このヴィジョンによって芸術の形式、内容、芸術運動の方法などをたえずテストしながらすすむことだとおもう。
  (「情勢論」『吉本隆明全集5』P332 初出 1958年11月)


備考
この論の背景には、政治と文学について数多の論や論争が成されていたという敗戦後の思想や批評の状況がある。現在では、その政治と文学(あるいは、政治と音楽等々)について、「芸術と政治が、まったく機能と次元をことにして」いるという認識が、わたしたちに当然のこととして自然なものとして血肉化しているかと問うてみると、よくわからない。つまり、依然としてちょっと怪しいかなという思いがわたしにはある。

若い吉本さんの「日本の現在の社会構造の総体のヴィジョン」という言葉やモチーフは、若い頃読んだ記憶では「転向論」の中のものであった。この言葉やモチーフは、次の「転向論」(1958年12月)に引き継がれている。この「社会構造の総体のヴィジョン」をつかむということは、当時の吉本さんの切実で主要なモチーフであるに限らず、生涯にわたって持続された戦争からの教訓であった。





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451 内部の論理化13 ないぷのろんりか 「芥川龍之介の死」 論文 1958年8月 吉本隆明全集5 晶文社 2014.12.25

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作品の形式的構成力は 文学作品的な死 出身階級にたいする嫌悪と愛着との複合体 悲劇の根源は
項目
1

@
 当時、興隆しつつあったマルクス主義政治運動や文学運動にたいする芥川のシムパッシイと「新時代」(!)にたいする微妙な動揺が、このようなもの(引用者註.この文章の直前に引用されている、芥川の青野季吉宛書簡)であり、このようなものが芥川を自殺におもむかせた原因であるという批評が正当であるとすれば、芥川の死を早まりすぎた死と呼ぶほかにどんな術があろうか。しかし、
芥川の自殺の事情はこれとちがっていた。その死は早すぎもおそすぎもしなかった。この種の時代的意味を芥川の自殺に附与した批評を、わたしは全く否定してよいと信じている。
 芥川龍之介の死は、「歯車」や「或る阿呆の一生」のあとに、どのような作品も想像することができないように、
純然たる文学的な、また文学作品的な死であって、人間的、現実的な死ではなかった。したがって、時代思想的な死ではなかった。「架空線の火花」を、とらえようとして、すでに、それらをとらええなくなった失墜した作家の文学的自然死であった。人生の、社会の、ぶつかりあい矛盾しあう現実社会の火花をとらえようとして、とらええなくなった作家の人間的な死ではなかった。
 (「芥川龍之介の死」『吉本隆明全集5』P357 初出 1958年8月)


A
 たとえば、北村透谷の死は、文学的な死ではない。透谷が中絶したエマーソン論には、よし円熟した文学思想の表現をみうるとしても、いささかの批評上の衰弱と死をもみることができない。透谷の肉身が、明治資本制の軌道にぶつかり、おし倒されたことを信ずる外ないのである。その死は倫理的な問題をはらんだ
時代思想的な死であった。また、太宰治の戦後的な死は、文学的な死ではなく、時代的な死であった。太宰の晩年の作品、「斜陽」、「ヴィヨンの妻」、「人間失格」には、いささかも作品としての衰弱と死を認めることができない。その死は、敗戦で受けた痛手を、戦後社会において回復することのできなかった作家の人間的な死であった。時代思想的な死であった。
 しかし、芥川の自殺は、けっして時代思想的な死ではない。その死に、時代的な死をみたものは、丁度、「玄鶴山房」に登場する「従弟の大学生」に、新時代の象徴をみたとおなじような浅薄な批評にすぎなかったものであったと信ずる。
「歯車」をつらぬいているの関係妄想と被害妄想の表現に、ゆきづまったプチ・ブルジョア作家の思想的な苦悶をみるのは、神経的不安と思想的不安をとりちがえたものであったと信ずる。それらの作品は、おしなべて、「架空線の火花」をとらえることを芸術的念願と心得た作家が、「架空線」をとらえる術を失って、「神経」の火花を表現したものに外ならなかった。そこに、病理的な凄惨さを感ずるとしても、思想的な苦悶を感ずることはできないのだ。
  (「同上」※@とAは連続した文章。P357-P358)


B
 
芥川龍之介は、中産下層階級という自己の出身に生涯かかずらった作家である。この出身階級の内幕は、まず何よりも芥川にとって自己嫌悪を伴った嫌悪すべき対象であったため、抜群の知的教養をもってこの出身を否定して飛揚しようとこころみた。彼の中期の知的構成を具えた物語の原動機は、まったく自己の出身階級にたいする劣勢感であったことを忘れてはならない。かれにとって、この劣勢感は、自己階級に対する罪意識を伴ったため、出身をわすれて大インテリゲンチャになりすますことができなかった。また、かれにとって、自己の出身階級は、自己嫌悪の対象であったために「汝と住むべくは下町の」という世界に作品的に安住することもできなかったのである。芥川は、おそらく中産下層階級出身のインテリゲンチャたる宿命を、生涯ドラマとして演じて終った作家であった。彼の生涯は、「汝と住むべくは下町の」という下層階級的平安を、潜在的に念願しながら、「知識という巨大な富」をバネにしてこの平安な境涯から脱出しようとして形式的構成を特徴とする作品形成におもむき、ついに、その努力にたえかねたとき、もとの平安にかえりえないで死を択んだ生涯であった。
  (「同上」P360)


C
 
作品の形式的構成力は、作家にとって、自己意識が安定感をもって流通できる社会的現実の構造の函数である。論理性の大きく通用する社会層に安定した意識を感じうる作家にとって作品を論理的に構成することは易々たる自然事なのだ。また、論理性があまり通用しない社会層を意識上の安定圏とする作家が頭も尻尾もない私小説的な作品をつくらざるを得ないことも当然である。文学の形式的構成力を、たんに知的能力に左右されるものと考える見解は、由来、日本の近代主義的批評家のあいだに広くゆきわたった謬見だが、芥川の作品は、こういう批評家の好餌となりやすい特徴をもっている。
・・・中略・・・
文学の形式的構成力が作家の生意識の社会的基礎の函数であるかぎり、井上良雄のいう「性格上のゲエテ的完成」も、作品上の精緻な形式的完成も、志賀(引用者註.直哉)にとっては、易々たる自然事にすぎなかった。これに対し、中産下層を生意識の安定圏とする芥川にとって、作品の形式的構成すらも、爪先立った知的忍耐の結果に外ならなかったのは当然であった。
形式的構成力を、知的能力の大小にのみ左右されるものと誤解している批評家たちが、芥川の造型された物語作品を、芥川の本領のように誤解したのも当然である。芥川は、このような誤解の背後で、形式的構成の努力の連続によってこぼたれた自己の神経に苦しめられ、それは必然的に作品の内実を不安な意識で彩ったのである。この神経的不安に、芥川が倫理的、時代的色彩をかぶせようとも、それは飾りつけ以上の意味をもつことはできなかった。彼の自殺に動かされ、ここに時代的死の典型をみた批評家たちは、この飾りつけに幻惑されたのである。芥川にとって、形式的整合の背後におし秘した自己の出身階級にたいする嫌悪と愛着との複合体(コムプレックス)だけが真実であったのだ。
  (「同上」P363-P364)


D
 
悲劇の根源は、終生もちつづけた自己の出身コムプレックスを、造型的な飛揚によって補償しようとせずにはおられなかった芥川の作家的宿運に胚胎していた。芥川の出身コムプレックスが、社会的位置の上昇によって補償できる程度の幼ないものであったら、悲劇は、また、回避される道があったのだ。
 
芥川の人工の翼を、出身コムプレックスの反語的表象とみずに、主知的衣裳をきせた当時の文学的情況は、彼にブルジョア的衣裳を無理におしきせた文学的情況と相まって、芥川の自殺を促進させる役割を演じた。
  (「同上」P366-P367)







・「芥川龍之介の死が、ブルジョアジーの崩壊期における誠実な実践的自己破壊にほかならなかった」(P356)とする昭和初期の一般的な芥川評価・批評は、文学や思想界、つまり当時の知識層にとっては切実なものとして捉えられたようだ。大正末からのロシア革命に関わるものや革命思想は、この列島社会に流入し労働運動など、知識層に限らず深く影響力を持っていた。(ここで、ふと、古代国家成立期前後の、先進中国文化がこの列島に流入してきたときの、知識層の大波にのみ込まれたような内面の様相をこれと似たようなものとして想像してしまった。)詩人の伊東静雄もまた、その影響下にあった。伊東静雄は、大学を卒業して昭和4年4月に大阪府立住吉中学(旧制)に就職している。故郷の親友大塚格に宛てた手紙に次のようにある。


私と同じ階級同じ年零〔齢〕の人達が皆さうである様に、一ヶ年間の私は、絶望し、自慰し、又発憤し、果ては心の平衡を失つて目をあけながら熱夢の様な妄想に捉はれてるといふ様なひどい神経すい弱になつた。そして 私の心の争を知らぬ人からは、あはれまれ、さげすまれた。然し今も尚ほ、私はそんな状態から一歩も抜け出てゐない。
「私のこんな状態は、私を熱狂的に有島氏、芥川氏―この人達は君も知ってゐる様に、死を以つて、この苦悩を解かうとした人達であつた―をむさぼり読ませた。そして、私の内の芥川的、有島的精神は再三自殺した。今のわたしも尚ほそれをくりかへしてゐる。」
  (『伊東静雄青春書簡』P181 昭和四年十二月二十七日)



 この文脈や「宣言ひとつ」を書いた有島武郎と芥川龍之介を同列に挙げていることからも、伊東静雄もまた、両者の「苦悩」を「ブルジョアジーの崩壊期における誠実な実践的自己破壊」と捉える、当時の芥川評価・批評の主流の影響下にあり、そのような文学・思想の状況に自分を重ねて過敏に反応している。



・芥川龍之介自身が、自分の作品と時代性の関わりを作品中や先の青野季吉宛書簡で述べているとしても、どこに自己の根源的な問題が横たわっているかに十分に自覚的ではなかったように見える。つまり、芥川自身、無意識的な部分を含めて自己の「内部の論理化」をまずもってできなかったということになる。それは、芥川がたとえ自らの内部の様相を自覚して筋道立てようとしても、自己の出身階級コンプレックスと下層階級的な平安との折り合いをどのようにも解決不能なものとして抱え込んでしまったということかもしれない。


・吉本さんによって、否定的に取りあげられている昭和初期の芥川の一般的な評価・批評に比べて、この吉本さんの「芥川龍之介の死」という批評は、作品から作者芥川龍之介の無意識的な部分までよく読み込んだ、また、文学という局所世界に閉じた視線や言葉ではなく、人が文学という局所世界に入り込んだとき一般に何が問題となってくるかというように、人に開かれた批評となっていて、作者芥川にとってもまた深さのある批評となっている。さらに付け加えれば、鹿島茂『吉本隆明1968』が述べているように、この批評自体も芥川龍之介の批評であると同時に、吉本さんの自己批評でもあった。わたしはそんなに芥川龍之介の作品を読み込んではいないが、吉本さんのこの批評は、十分に納得がいくものであった。Cの箇所は、普通ではそこまで入り込めないような、ちょっと意外で、驚くような吉本さんのすぐれた把握であると思われた。


・最後に、階級という概念が消失し、けれど階層と呼ぶほかないものは依然として存在する現在は、ずいぶんと均質な社会なってしまったから、芥川の演じたような出身コンプレックスと自己の出身階層の平安とのねじれたドラマは、ほとんど消失してしまったと言えるかもしれない。つまり、吉本さんの捉えた「文学の形式的構成力が作家の生意識の社会的基礎の函数」ということは、現在の文学者においては、幾分かの出身地域の固有性や家族の固有性を残しながらも、一般社会の均質な現実に解消されてしまっている。(1960年から1961年にかけて書かれた松本清張の『砂の器』の原作は読んでいないが、加藤剛主演で映画化されたものをテレビで観たことがある。これもまた、出身コンプレックスと自己の出身階層の平安とのねじれたドラマだったと記憶している。ちょうど高度経済成長がこの列島社会を均質化へと押し均し始めていく時期に作品は書かれている。その均質化の動向への作者の抗いとして作品は書かれたものと思う。)





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
452 内部の論理化14 ないぷのろんりか 「転向論」 論文 1958年12月 吉本隆明全集5 晶文社 2014.12.25

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敗戦体験 社会総体のヴィジョン 分析的には近代的な因子と封建的な因子の結合
項目
1

@
 転向とはなにか、については、すでに本多秋五が、その『転向文学論』のなかで普遍化した周到な定義をくだしている。本多によれば、転向の概念は、つぎの三種にきせられる。第一は、共産主義者が共産主義を抛棄することを意味する場合、第二は、加藤弘之も森鴎外も徳富蘇峰も転向者であったという場合のように、一般に進歩的合理主義的思想を抛棄することを意味する場合、第三は、思想的回転(回心)現象一般をさす場合である。もし、
転向を現象としてみるならば、本多が分類したこの三種の観念につきるであろう。転向の問題が、とどのつまり輸入思想の日本国土化過程に生じる軋りだ、とする本多の見解が、よくこの分類をうらづけている。
 わたしは、ここで、いくぶん本多とはちがったモチーフから転向をあつかってみたいので、いくらかちがった観点から、転向とはなにか、をいいきっておきたいとおもう。わたしのモチーフは、かんたんにいえば、日本の社会構造の総体にたいするわたし自身のヴィジョンを、はっきりさせたいという欲求に根ざしている。・・・中略・・・しかし、何よりも、当面する社会総体にたいするヴィジョンがなければ、文学的な指南力がたたないから、このことは、すべての創造的な欲求に優先するのだというとてつもないかんがえが、いつの間にか、わたしのなかで固定観念になってしまっているらしいのである。
敗戦体験は、こういう気狂いじみた執念のいくつかを、徹底的につきつめるべきことをおしえてくれた。わたしは、ただ、その執念の一つをたどってみたいのである。
  (「転向論」『吉本隆明全集5』P368-P369 初出 1958年12月)


A
 
わたしの欲求からは、転向とはなにを意味するかは、明瞭である。それは、日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考変換をさしている。したがって、日本社会の劣悪な条件にたいする思想的な妥協、屈服、屈折のほかに、優性遺伝の総体である伝統にたいする思想的な無関心と屈服は、もちろん転向問題のたいせつな核心の一つとなってくる。
  (「同上」P369 ※@とAは連続した文章。)


B
 近代日本の転向は、すべて、日本の封建性の劣悪な条件、制約にたいする屈服、妥協としてあらわれたばかりか、日本の封建性の優性遺伝的な因子にたいするシムパッシーや無関心としてもあらわれている。このことは、日本の社会が、自己を疎外した社会科学的な方法では、分析できるにもかかわらず、生活者または、自己投入的な実行者の観点からは、統一された総体を把むことがきわめて難しいことを意味しているとかんがえられる。
分析的には近代的な因子と封建的な因子の結合のようにおもわれる社会が、生活者や実行者の観念には、はじめもおわりもない錯綜した因子の併存となってあらわれる。もちろん、けっして日本に特有のものではないが、すくなくとも、自己疎外した社会のヴィジョンと自己投入した社会のヴィジョンとの隔たりが、日本におけるほどの甚だしさと異質さとをもった社会は、ほかにありえない。日本の近代的な転向は、おそらく、この誤差の甚だしさと異質さが、インテリゲンチャの自己意識にあたえた錯乱にもとづいているのだ。
  (「同上」P369-P370 )



備考
やっとここまでやってきたが、吉本さんの論理や思想の歩みを現在から眺めると、「内部の論理化」や「社会総体のヴィジョン」の獲得は、途中いろんな修正などあっても、生涯にわたって持続されてきたことがわかる。それととも、誰もができる易行道ではないその吉本さんの孤独な歩みにある痛ましさ、悲劇の匂いを感じてしまう。もちろん、吉本さんは、やれば誰でもできることだよ、と答えるかもしれない。

この転向という概念をわたしのモチーフに引き寄せてみる。太古の集落で巫女やシャーマンや行政担当が創設され始めた頃を想像してみる。今まで、ある疑念を抱きつつも、集落でのそれらの発生期には人と人との関係はわりと平等だったろうと書いたことがある。しかし、人間や人間社会は、発生期の心や意識や有り様を反復してきていると見なすなら、その太古の発生期の有り様が、わたしたちの現在の政治や政治家たちの心性や振る舞いにも通じるところがあるのではないかと思われる。ここで、本当はオサルさんから別れたところから明らかにしないと、人間社会の未来を読み間違う、と吉本さんが晩年に語ったことを引けば、その発生期の有り様は、人間の動物生からの分岐となお引きづった動物生との複合に規定されていることになる。
 どんなに「きみはこうあるべきだ」と語りかけたり、責め立てたりしても、人は本当に心の底からその通りに感じて行動するとは限らない。同様に、人間や人間社会は、こうあるべきだとある個人や集団が主張したり強制しても、それが〈人間の本性〉にかなっていなければ、本心から受け入れるとは限らない。つまり、受け入れた振りをしても、強制力の網目を抜け出そうという〈人間の本性〉、あるいは〈人間の主流〉からの力が働き続けると思われる。現在までに生みだされた中国の「小国寡民」などのユートピア思想や、成されてきて失敗に終わったいくつかの悲劇的な革命は、その〈人間の本性〉を読まなかった、あるいは、読み間違ったのだろう。
 遙か太古の集落と巫女や行政担当との関係、現在的には官僚層−政治層と社会との関係、これらの関係は同一である。代表たちは、建前としてだけでなく、実質として、社会やそこに生活する普通の人々に苦ではなく楽をもたらすのが、起源からの本質として変わらないはずである。しかし、今までの歴史や現在を見てわかるように、官僚や政治家たちは、その起源からの本質からあるいは初心から「転向」する者が過半はいる。それが、近代的な集団力学や行動としてではなく、オサルさんから別れたところから、人類的な時間の中で問題として解かれ、対処法を編み出していかなくてはならないのだろうと今は思う。





項目ID 項目 よみがな 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
454 内部の論理化15 ないぷのろんりか 「転向論」 論文 1958年12月 吉本隆明全集5 晶文社 2014.12.25

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日本のインテリゲンチャがたどる思考の変換の経路 思想の悲劇 中野重治
項目
1

@
 
日本のインテリゲンチャがたどる思考の変換の経路は、典型的に二つあると、かんがえる。第一は、知識を身につけ、論理的な思考法をいくらかでも手に入れてくるにつれてくるにつれて、日本の社会が、理にあわないつまらぬものに視えてくる。そのため、思想の対象として、日本の社会の実体は、まないたにのぼらなくなってくるのである。こういう理にあわないようにみえる日本の社会の劣悪な条件を、思考の上で離脱して、それが、インターナショナリズムと接合する所以であると錯誤するのである。このような型の日本的インテリゲンチャにとって、日本の社会機構や日常生活的な条件が、理にあわない、つまらぬものとしてみえるのは、おそらく、社会的な要因からかんがえて、封建的な遺制の残存することによるためではない。むしろ原因の大半はこの種のインテリゲンチャの思考法に封建的意識の残像が反映しているためであり、その残像を消去するためにかれらは思考を現実離脱させているのに外ならない。わたしのかんがえでは、日本の社会が理にあわぬつまらぬものとみえるのは、前近代的な封建遺制のためではなく、じつは、高度な近代的要素と封建的な要素とが矛盾したまま複雑に抱合しているからである。
 この種の上昇型のインテリゲンチャが、見くびった日本的情況を(例えば天皇制を、家族制度を)、絶対に回避できない形で眼のまえにつきつけられたとき、何がおこるか、
かつて離脱したと信じたその理に合わぬ現実が、いわば、本格的な思考の対象として一度も対決されなかったことに気付くのである。このときに生まれる盲点は、理に合わぬ、つまらないものとしてみえた日本的な情況が、それなりに自足したものとして存在するものだということ認識によって示される。それなりに自足した社会であると考えさせる要素は、日本封建性の優性遺伝的な因子によっている。佐野、鍋山の転向とは、これを指しているのではないか。わたしの見るところでは、日本のインテリゲンチャはいまも、佐野、鍋山の転向を嗤うことができないのである。
  (「転向論」『吉本隆明全集5』P379-P380 初出 1958年12月)




A
 わたしは、佐野、鍋山的な転向を、日本的な封建性の優性に屈したものとみたいし、小林、宮本(引用者註.小林多喜二と宮本顕治を指す)の「非転向」的転回を、日本的モデルニスムスの指標として、いわば、日本の封建的劣性との対決を回避したものとしてみたい。何れをよしとするか、という問いはそれ自体、無意味なのだ。
そこに共通しているのは、日本の社会構造の総体によって対応づけられない思想の悲劇である。
  (「同上」P384)


B
 中野(引用者註.中野重治を指す)が、ここで「日本の革命運動の伝統の革命的な批判」とよんでいるものが、日本封建性の錯綜した土壌との対決を、意味していることはあきらかである。このとき、中野は転向によって、はじめて具体的なヴィジョンを目の前にすえることができたその錯綜した封建的土壌と対峙することを、ふたたびこころにきめたのである。「閏二月二十九日」、「『微温的に』と『痛烈に』と」、「文学における新官僚主義」、「一般的なものに対する呪い」など、時評の形で、昭和十一年から十二年にわたって『新潮』にかかれた論文は、もはや、そのたたかいが戯画としかうけとられないような暗い時代の文学的情況のなかで、たたかわれた、目に見えない封建的土壌との孤独なたたかいであった。
 
わたしは、中野の転向(思考的変換)を、佐野、鍋山の転向や小林(多)、宮本、蔵原の「非転向」よりも、はるかに優位におきたいとかんがえる。中野が、その転向によってかい間見せた思考変換の方法は、それ以前に近代日本のインテリゲンチャが、決してみせることのなかった新たな方法に外ならなかった。わたしは、ここに、日本のインテリゲンチャの思考方法の第三の典型を見さだめたい。中野に象徴されるこの第三の典型の優位性が崩壊にたちいたったのは、昭和十年代の後期太平洋戦争下においてであった。ここから、日本的転向の問題は、また、別個の課題にさらされるのである。また、それが、わたしたちにまったく別個の思想的典型を創造すべき課題を負わせている理由でもある。
  (「同上」P388)


備考
「高度な近代的要素と封建的な要素とが矛盾したまま複雑に抱合している」日本の近代社会を、革命集団や知識層が読み誤ったところから、転向が捉えられている。一方、「暗い時代の文学的情況のなかで、たたかわれた、目に見えない封建的土壌との孤独なたたかい」を続けた中野重治の転向は、それらとは異質なものとして掬い上げられている。

この「転向」問題を、わたしたちの現在にも生き残っている問題として捉えようとすれば、
@より日本のインテリゲンチャがたどる思考の変換の経路は、典型的に二つあると、かんがえる。第一は、知識を身につけ、論理的な思考法をいくらかでも手に入れてくるにつれてくるにつれて、日本の社会が、理にあわないつまらぬものに視えてくる。そのため、思想の対象として、日本の社会の実体は、まないたにのぼらなくなってくるのである。こういう理にあわないようにみえる日本の社会の劣悪な条件を、思考の上で離脱して、それが、インターナショナリズムと接合する所以であると錯誤するのである。」
ここで、「日本のインテリゲンチャ」→「若者」、「日本の社会」→「家族」と置き換えてみると、家族の中に埋もれていた「わたし」が成長して「知識」を身につけ、外の抽象的な世界に素晴らしさを感じて、自分の出身母体である「家族」をつまらないものと見なすという一般的な問題となる。このことは、誰もがたどる自然な過程である。しかし、「わたし」がまた新しい家族を形成していく過程で、つまらないと見なしてきた世界から折り返して別様に展開して別のイメージで染め上げられたり、そのような生活が若者みたいに異和感中心ではなく自然なものとして生きられるようになるのが大多数の生活者であろうと思われる。
また、知識世界の問題で言えば、還り道をなくして生涯にわたって、生活世界をつまらない取りあげるに値しないものとして、「若者」のように抽象世界に行きっぱなしということはあり得る。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
461 日本列島的自意識 「討議近代詩 日本語の詩とはなにか」 鼎談 『現代詩手帖』2007年5月29号 吉本隆明資料集169 猫々堂 2017.10.15

出席者 野村喜和夫・城戸朱理・吉本隆明

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日本列島の人間としての「自意識」 朔太郎 親鸞の宗教的意図
項目
1

@
吉本
 それがどういう意味かはわからないんですが、社会的な問題までちょっと背景を言うと、明治維新―西洋流の言葉で言うと明治革命、明治の近代革命なんですが―は、近代革命なのに、その革命を主導的に導いた思想は本居宣長系統の国学者が江戸時代に展開していた文法論などを含めた国粋主義なんです。天皇制を含めた勤皇党派が主流を占めていて、ぼくもはじめのころ疑問を持ったんです。革命と言うけども江戸時代初期ないし中世末期からはじまった国学と言われているものが思想の中心になっている、それはどうしてなのか。明治憲法になると「天皇は神聖にして侵すべからず」みたいな憲法がつくられて、かえって古いじゃないか、明治以前の封建制よりかえって古いじゃないかという感じがあった。これがどうしてなのかというのはよく考えさせられた主題でしたが、ぼくが納得した知見で言えば、自意識―日本列島的自意識と言ったらいいのかな―の確立ということだった。それまでは中国を中心とした冊封体制の一部分として、公文書はかならず漢文だし、江戸幕府の学問的思想的顧問は儒学者、漢学者ですね。それで満足していたのが、古くなったけど国学を革命思想の中心にもってきて、天皇制を中心に持ってきて、つまり政治的な支配も社会的な支配も、もっと言えば神聖さみたいなものもその中心に天皇をもってくることによって、はじめて自意識を確立した。この自意識性という問題があとまで糸を引いて、詩の問題にももちろん繋がってくる。形式と内容を考えると、内容は徳川末期のものにかなわないのに「新しき詩歌」と言うのもその自意識の問題があるからです。
藤村が「新しき詩歌の時代が始まった」と言って、透谷も含めた仲間たちが「新しさ」という意味合いで言っていることは、日本列島の人間としての「自意識」というものを指している。それ以外のほんとうの意味での「新し」さは何もなかった。かえって古くなった。それは全般的にそうだったんじゃないでしょうかね。概論的に言えば、それが明治革命の大きな特徴でもあるし、弱点でもあるし、それがある時代には美点だとされたこともある。いまも社会的、政治的には同じ問題が、顕わにではないけど隠れていて、ほじくるとすぐそれが出てくる。その状態がずっと続いています。それは詩だけの特徴、文学だけの特徴ではないし、明治の新体詩以降の詩はそれが主流で、いつでもちぐはぐで、内容は古臭くて、単調で劣っているのに、形式だけは新しいものをどんどん進めていくみたいなところがあって、それが自由詩に繋がってくるわけです。だから近代詩というものは、ぼくは朔太郎からじゃないかと思うんですよ。
 (「討議近代詩 日本語の詩とはなにか」P69-P70『吉本隆明資料集169』猫々堂)
 野村喜和夫・城戸朱理・吉本隆明 『現代詩手帖』2007年5月29号


A
野村
考えますと隋の煬帝に聖徳太子が送った「日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す」というあの書き出しなどはまさに日本列島的自意識を作り上げた瞬間だったわけです。いまうかがっていて明治革命はそれを反復した、王政復古という名のもとにそれを反復した民衆不在の革命だったというのが、とてもよく納得できたのですが、そのことが文学の表現のうえでも大きな捩れをもたらしたということですね。・・・中略・・・
そう考えますと、形式だけ新しくなって内容がそこについてきていない、という捩れは、日本列島的自意識は立ち上げたけれども、個人個人のなかの自意識がまるで成熟していないということ、あるいはそれがなんなのか見出すことができないということを示しているんじゃないでしょうか。そしておそらく朔太郎においてその一致がなんらかのかたちで、はじめて日本語のなかで担われたのではないかというご指摘ですね。

   日本列島的自意識とはなにか(引用者註.小見出し)

吉本
いま言われたことを宗教的なことで言いますと、親鸞はそれを宗教でもってやったんですよ。浄土教の日本版をつくろうとした。それをわりあい自覚的につくろうとして法隆寺のお堂に百日間籠もるということと、そのあと当時浄土宗を比叡山を下りてはじめていた法然のところに百日間通うと決めた。そのときに聖徳太子をね―当時そう思われていてそう言われていたわけですけど―日本の宗教王というのかな、法王というのかな、そういうものとして設定したわけです。たしかに聖徳太子は実在しないという説がありますが、親鸞にとっては実在であるかどうかは問題ではなくて、とにかく天皇をそういったものにしたくなかったということもあって、―当時の天皇は後鳥羽上皇で、・・・中略・・・
 政治的には武家と王朝とは、これは北朝の王朝ですけど、政権争いを始めていて、そういうことも背景にはあるわけです。漢学でも、儒学でもなく、王朝系の宗教―天皇が神道としてそれを司ってきたわけです―とも違う、さればといって、中国の冊封体制の中国の浄土教をそのまま受けるということもおもしろくない。そこで新しく日本的な浄土教をはじめるということで、聖徳太子を法王にもってきた。聖徳太子が実在かどうかは宗教的にはどうでもいいことで、このひとを法王にして日本的な浄土教を始めるというのが
親鸞の宗教的意図だったと思うんです。ですからどこかで日本列島の自意識を主張したい。そうじゃないと当時の中国から言えば、日本は辺境の蛮族として八種類に分けられているうちのひとつとして、黙って従属しているんだという考えかたですから、少しでも自意識を強調したかった。
 (「同上」P72-P74)








ここでの、「日本列島的自意識」の「自意識」というのは、当然ながら個に関連はあるとしても、またそれが個によって担われるとしても、個の自意識というよりは集団的、共同性のものである。言いかえれば、個の自意識の中に浮上する自意識の共同性とでも呼ぶべきものである。

当時の日本は、政治的にも文化的にも「中国を中心とした冊封体制の一部分として」、つまり中国の属国の位置にあり、しかし、そのことについて普通の民衆はほとんど肌触れる感覚はなかったと思われる。ちょうど、わたしたち普通の生活者が、この国がアメリカの政治・経済支配の下にある従属国の状況にあることに日常の肌感覚で気づくことがなかったように。しかし、2011年3月11日の東日本大震災、とりわけ福島原発の大事故がもたらしたのは、原発を巡るこの国のムラ社会の構造だった。そして、もちろんそれはアメリカともつながっていた。つまり、3.11は、この日本の社会の骨組みを白日の下にひきづり出してしまったのである。わたしたちは、3.11以降、大衆的なレベルでこの国や社会の、ちょっと変だな、ということに気づき始めた。けれども、古代から中世の時代でも、また現在でも、政治や文化でその関係の構造に肌触れている貴族や僧侶などの知識層(現在では、官僚や政治家や知識人)は、中国−日本(現在では、アメリカ−日本)という従属関係に過敏であれ鈍感であれ、それを意識できる位置にあったと言うことができる。そして、必ずや、そのような自意識を主張する者が登場し、それを押し止めることはできない。

内田樹に『日本辺境論』(2009年)という本がある。どこかを中央と仰ぐような根深い「辺境意識」について触れていた。このユーラシア大陸のはずれにある列島で、いつからどのような関わり合いからその「辺境意識」が始まったのかは知らないが、少なくとも資料に登場する限りでは、五世紀頃の倭の五王あたりでは、中国に任官願いの文書を出しているからその「辺境意識」がすでに形成されていたことがわかる。そこから遙か下って、戦後から現在に至るまでアメリカの属国のような官僚ー政権、そしてその取り巻き知識人の無惨な振る舞いを見ることができる。

このような「辺境意識」の根っこには、吉本さんが「心的現象論」で触れられていたと記憶するが、この列島から南方の諸島(ミクロネシアだったか?)に渡って共通する心性、つまり、外来の者には人見知りのように異常に内向的に振る舞い、相手が害をなさないように、あるいは害をなさないなら、マレビトとして遇するという根深い心性に関わっているように思われる。そして、そういう根深い心性は、遙か太古から保存されてきていて、人間界で日々互いに関わり合って生きているわたしたちの現在にも、それはこれこれと具体的に腑分けすることは難しくても、特に関係のトラブルの場面では何らかの形で古層から発動されてくることがあるように思う。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
468 人間が鳥であった時 「幻の王朝から現代都市へ」 講演 『幻の王朝から現代都市へ―ハイ・イメージの横断』 河合文化研究所 1987.12.1

※1987年7月 河合塾名古屋校講演、「河合ブックレット12」

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人間が鳥であった時の記憶 死に瀕した時 東洋の宗教 僕の解釈の仕方
項目
1

@
 人間が上から見る鳥瞰図、あるいは鳥瞰図の映像をもつことができるのは、どんなときか考えてみます。するとすぐに二つのことが考えられます。
 それは何かと言いますと、
人間が鳥であった時の記憶というものが、もし系統発生図的に考えられるとするなら、ある瞬間には人間は鳥瞰する映像をもちうるはずではないかということです。
 
人間が胎内に宿って、それから体外に誕生してくるまでの一〇ヵ月の間に、系統発生的に、アミーバから猿へ、そこから人間までのあらゆる段階を通過してくるのだという言い方(註1)がありますが、そういうものだとすれば、どこかで鳥の時代も通過しているかもしれません。それから人間が死ぬ時に、たとえば病気であろうと事故死であろうと、自然死であろうと、死にかけた時から死ぬ時までに、胎内の時代からの生涯を全部通過するとすれば、そのどこかで鳥瞰の映像を、人間はもちうるはずではないかということです。
 もう一つは、ランドサットの映像に匹敵するような、高度の映像技術を獲得したときには、人間は鳥と同じ、あるいはランドサットと同じような映像を視線のなかにもち得るのではないかということです。
 
この二つのことは、いずれも僕のハイ・イメージ論のための基礎的な考え方になりました。本当は、そのことを先にお話するほうが、よかったような気がします。それが根底にあるからです。


A
 人間が鳥であった時は、どういう時であったかというと、一つは胎内にあった時であったに違いありません。それから、もう一つは
死に瀕した時に、そこを通るにちがいないということです。
 ところで、死に瀕した時にどうかという問題ですが、僕は、熱心に死に瀕した人、それから生き返ってきた人の記録をあさったわけです。あさってみると、かなりの程度のデータが集まってきました。・・・中略・・・
 もちろん民話などの中にも、沢山そういう記載があります。
もっと大切なことは、東洋の宗教―仏教とかヒンズー教というのは典型的に身体を浮きあがらせて曼陀羅世界を飛行する修練に類するものです。
つまり生きながら、瀕死の意識状態に自分を人工的に持っていく心の技術が、修練になっています。少なくとも密教というもの、あるいは密教までの東洋の宗教はというものの修行は、大抵そう考えられます。・・・中略・・・
 つまり意識が正常で健康でありながら、手段を尽くして瞑想の仕方をしていきますと、自分で自分の身体から離れたという意識が持てるようになってきます。それでもって地獄・極楽巡りでいろいろな所を遊行して、元へ戻ってくることができるということを、いわゆる高僧が修練してできたということです。そういうことには身もフタもないと言えばそうにすぎないわけです。しかしそれは体験としてはろ、得難い体験ですから、体験の拡張で、様々な意味づけというのはできます。
 東洋は、そういうことが割合に専門的な所です。だから人間が鳥になった時の状態というのは、人工的に作ったりする人もいます。また、瀕死の人たちというのは、しばしばそういう体験をしたというふうに述べています。つまり、そのことはとても僕には重要なことのように思われます。


B
 僕は、宗教家ではないし、あまり信仰はないですから、僕なりに解析しました。なぜそういう状態が起こりうるのか、僕の解釈の仕方は、死んでしまう直前の、意識の薄れたモウロウとした状態と言いましょうか、その寸前の状態のある範囲の時に人間的意識でなくなって、多分鳥と同じように―昔鳥だった時というのが蘇るのかどうかは分かりませんが―上からの視線というのを獲得する、ある瞬間があるのではないかということです。
つまりそれは意識のモウロウ状態と言いますか、完全に崩壊しない、その寸前の時の意識体験のところで、多分鳥瞰的な鳥の目というのを、自分自身に対して持ったり、下の風景に対して持ったりする瞬間というのがあるのではないかというのが、僕の解釈の仕方です。
 僕は、密教的な解釈の仕方はとらないわけです。「そういう修行は嘘だ」と説いた親鸞などの方が好きです。密教的な仏道の修行を心身を痛めつけてやるのは、いわば人間の心理の問題にすぎず、意識のモウロウ状態をいかに人工的に作れるかというのとおなじことだ。そういう修行を自力でやってはダメだ。それはいらないことで、そんなことをやったら浄土へは行けません、というふうに初めて親鸞が言ったわけです。

 (『幻の王朝から現代都市へ―ハイ・イメージの横断』P27-32 吉本隆明 河合文化研究所 1987年12月)
 ※@、A、Bは連続した文章です。


備考
(註1) 三木成夫参照。

 (備 考)

坂口恭平の物語としては一風変わった『現実宿り』という作品を論じた(註2)とき、たぶんこの鳥の視線のことを思い出して、上の引用の一部をその論の末尾に「補足の註」として載せたことがある。その論中に引用しているが、作者の『現実宿り』をまとめている頃のツイッターのツイートに「書かないと死にそうだから書いているだけなので」あるとあった。わたしには、そういう危機的な精神の状態の中で自動筆記の心象スケッチのように書かれた作品ではないかと思われた。上の吉本さんの鳥の視線が出現する可能性を持っていたと思われる。

(註2)
『現実宿り』(坂口恭平)を読む・続々 ―『現実宿り』を神話的に読む試み (2016年12月26日、ブログの「批評」に掲載)






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
470 流れがある 「U 現代を超える視線」 質疑応答 『幻の王朝から現代都市へ―ハイ・イメージの横断』 河合文化研究所 1987.12.1

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全部たどれるはず 内面的にたどっている 独りでにそうなっているはず
項目
1
@
 僕は「あいつは変節した」とか、色々なことを言われたりするのだけれど、流れがあるつもりです。だけど、僕は、一貫しているとは、本当はあまり言わないのです。カーブがあったり、紆余曲折というのは沢山あるけれど、僕の作品をよく読んだ人だったら、必ず「こいつはここでこういう考え方をとって入れてきて、こういうふうに変わってきたな」とか、「こういうふうに変わったところで、こういう問題が出てきたので、こうやったな」というのが、
全部たどれるはずです。僕が内面的にたどっているのだから。意識的にたどっているわけではありません。
 僕は
内面的に一貫している、つまり流れがあると思っているから、僕のものを読んだ場合には、初期に書いたものと今書いているものとの中には、よくよく読まれたら「こいつは、こういう考え方でこうなってきたな」とか、「ここで現実がこうだったものだから、こういう要素でこういうふうになってきたな」というのが、全部わかります。そこに流れがあるというふうに思います。


A
 僕の敵対者たちは、「俺は一貫している」と言いますけれど、それはただ停滞しているだけです。そうではなくて、僕は一貫しているなどとは、ちっとも言わないです。その時、その時によって、あっちにぶつかりこっちにぶつかりしていますから、紆余曲折はありますけれど、なぜここでこう変わったか、こういうふうな考えをこういうふうに入れてきたかというのが、わかるようになっています。それは意識してわかるようになっているのではなくて、
独りでにそうなっているはずです。

 (『幻の王朝から現代都市へ―ハイ・イメージの横断』P70-P71 吉本隆明 河合文化研究所 1987年12月) ※この引用部が載っている「U 現代を超える視線」は講演後の質疑応答。
 ※@、Aは連続した文章です。

備考
大事なことが言われている。大体わかるけれど、その微妙な点まで、わかるかと言えば心許ない。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
480 のっぺらぼうになってきた 「サブ・カルチャーと文学」 鼎談 『文藝』1985年3月号 『吉本隆明資料集171』 猫々堂 2017.11.30

※ 笠井潔・川村湊・吉本隆明

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同一性の世界 あとほんの少しだけ違う 『マス・イメージ論』
項目
1

@
吉本 そこはこうなんです。笠井さんの言われたことと関わるわけですが、現在文化現象とか、社会現象とか、そういうものを眺めていくと、のっぺらぼうになってきたなと思うんです。つまり、かつては日本のことはわかるけれども、韓国のことはわからなかったり、あるいはアメリカのことはわかるけれど、ロシアのことはわからなかった。どこかにわかることと、その反対のわからないことがあって、というふうに見えたけれども、
現在の世界は、のっぺらぼうになってきたと思います。
 そののっぺらぼうになってきた部分を、かりに同一性の世界だといえば、だいたい同一性の世界として、世界は見えてきたという考え方がもとにあります。そうするとあとほんの少しだけ違う。
それは韓国と日本は違うとか、あるいはロシアとアメリカは違うとか、ヨーロッパと第三世界はとは違うとかって、違う部分がまた少しそれぞれにあって、しかし大部分はのっぺらぼうに、全部同一な世界だというふうに見えてきた。そういう考え方が僕にあります。それは結果として言えば、簡単な言い方になってしまうんです。想像裏に描いていたさまざまな思い込みとか、あるいは失望とか、そういうのがほとんど同一の世界で、のっぺらぼうだったなというふうにみえてきた。それから少し違う部分を、それぞれ特殊に突っ込んでいけばいいんではないかな、そう思えてきたということがあるんです。
 (「サブ・カルチャーと文学」P116-117『文藝』1985年3月号 『吉本隆明資料集171』猫々堂)
 ※ 笠井潔・川村湊・吉本隆明の鼎談 


A
 文学の世界でもいいんです。例えば川村さんが関心もたれている古典の世界で、川村さんの古典の把握の仕方と、小林秀雄の古典の把握の仕方は確かに違う。それから問題意識も年代、世代というものも違う。そう考えていくと、日本の近代批評は、古典文学のとらえ方に、いくつかの変遷があって、僕わもその中間に位置するように自分で思っています。
そんな違いはあるわけですが、世界はのっぺらぼうじゃないかなという考え方を、原則的に適用しますと、小林秀雄の古典論と川村さんの古典論はほとんど同一だというふうに見ていって、そしてとても少ない部分、あるいはそれぞれの固有の部分というものが、同一の世界の少しよけいなところであって、そこをうまくとらえていけば、川村さんの古典論と小林秀雄の古典論との違いは、把握できるんじゃないかなと、僕には思えてきたのです。
 本来なら小林秀雄の古典論をちゃんとつかむには、小林秀雄論をやらなければいけない。川村さんの古典論をちゃんと解明するには、川村論をしなければいけない、当然そうなるわけです。そうじゃないやり方が可能じゃないか。つまり川村さんの古典論と小林秀雄の古典論とは、同一だというふうに見ていって、それで、違うところを、はっきりさせていくというふうにすれば、とらえられるんじゃないか。
 川村さんの古典論で言えば、「徒然草」
(註.1)を論じたところがありますね。それがポイントだと思う。小林秀雄の古典論と川村さんの古典論はほとんど同じじゃないかというふうに考えて、その違いを、どこでつかまえればいいかというと、たぶん「徒然草」というものについて、川村さんの考え方と小林秀雄の考え方と、それでもしかりに中間に僕の考え方というものを介在させとその三つに違いをみれば、だいたい川村さんの古典論が論じられると思います。つまり、これは批評のエコノミーでたいてい出来るんじゃないかと思えてきました。小説についてもそうなんで、『マス・イメージ論』は、そういうつもりで書いたんです。
 (「同上」P117-P118)


B
 つまり、小島(信夫)さんを論ずるのも、大江(健三郎)さんを論する(ママ 引用者註.「ずる」の誤りか)のも、中上健次の作品を論ずるのも、ほとんど同じ世界だ、どっかで同じ世界だ。物語の解体ということかもしれないし、あるいは再建ということかもしれない。
とにかくそこらへんでつかまえれば、ほとんど同一で、現在だというふうに言えるってことです。ほんの少しだけ違うということを言えば、ちゃんとのっかってくるんじゃないかという考え方があったんですよ。それがたぶん『マス・イメージ論』のなかで個々に取り上げた作家が、個々の作家論でもないし、さればと言って、ほんとうの共同幻想だけでやっているというふうに思えない。曖昧なところがなぜ出てきちゃったかということについての弁明です。だいたいそういうことになるんじゃないかな、まあ、そういうところです。
 (「同上」P118-P119)※@〜Bは、ひとつながりの文章です。


(註.1)
1980年、「異様(ことよう)なるものをめぐって─徒然草論」が群像新人文学賞の優秀作に選ばれ、文芸評論家として活動を開始。(ウィキペディア「川村湊」より)


備考
 (備 考)

「現在の世界は、のっぺらぼうになってきたと思います。そののっぺらぼうになってきた部分を、かりに同一性の世界だといえば、だいたい同一性の世界として、世界は見えてきたという考え方がもとにあります。」この「同一性の世界」は、世界が、経済活動や交通がグローバル化してそれぞれの国の垣根が取り払われてきている現状を指していると思う。そういう世界把握が、文学作品の批評の捉え方にまで生かせると語られている。『マス・イメージ論』の意図もそこにあったと。世界の見え方と吉本さんの世界の見方や捉え方との連関。
 
 本文中の『マス・イメージ論』に関して
カルチャーとサブカルチャーの領域のさまざまな制作品を、それぞれの個性ある作者の想像力の表出としてより、「現在」という巨きな作者のマス・イメージが産みだしたものとみたら、「現在」という作者ははたして何者なのか、その産みだした制作品は何を語っているのか。これが論じてみたかったことがらと、論ずるさいの着眼であった。でも思わずのめり込んでしまうと、しばしば一制作は一作者の所産にほかならないという視線にからめとられた。それを感じるたびに、何だべつにいままでやってきた批評とかわりないではないかという、内心の落胆をおおいかくせなかった。
 こういう問題は、本質的にだけいえばつぎのようになる。制作品という言葉を全体的な概念として使おうとすれば、個々の制作品は、個々の作者と矛盾する表出とみなされる。また逆に、制作品という言葉を、個々の作者のそれぞれの制作品の集まりとかんがえれば、制作品は個々の作者の内面の表出そのものなのだ。そこでこの論稿では、カルチャーまたはサブカルチャーの制作品を、全体的な概念としてかんがえ、そのために個々の制作者とは矛盾するものとして、取扱おうと試みた。
(「あとがき」『マス・イメージ論』吉本隆明 1984年7月)

 
 このあと微妙な関係に触れられているが、そんな微妙さを捨象して大ざっぱに言えば、芸術作品は固有の作者によって生み出されるけれども、その固有の作者はそれぞれの時代の精神的な大気を呼吸しながら生きてきたし、生きている。そして、その呼吸は無意識的に行われているということでは生理的な呼吸と同じだが、時代の精神的な大気に親和や異和を持ちうるという点で生理的な呼吸とは異なっている。ここで、作品を作者の固有性の方に引き寄せれば、従来的な作品批評となり、時代の精神的な大気の方に焦点を合わせていけば、「『現在』という巨きな作者のマス・イメージが産みだしたもの」に対面することになる、ということだろうか。これはもちろん、吉本さんが初めて取り出した問題である。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
482 二十世紀最後の政治的テーマ 「サブ・カルチャーと文学」 鼎談 『文藝』1985年3月号 『吉本隆明資料集171』 猫々堂 2017.11.30

※ 笠井潔・川村湊・吉本隆明

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知の宗教という問題 連合赤軍問題やポル・ポト虐殺 非知による抵抗
項目
1

@
吉本 (引用者註.連合赤軍問題やポル・ポト虐殺を)それじゃ理路をもって全部包括させようと考えたときに、どう考えるかというと、つまり、やっぱり広い意味での宗教のなかに、バチカンの宗教もあるし、もちろんキリスト教のさまざまな党派、あるいは流派の宗教もありますし、東洋でも仏教の宗派もあります。そのなかの一つとして、知の宗教だとみなすと思うんです。知の宗教という問題を、どうやって超えられるのかとか、どうやって解体できるのかという問題が、結局は根本的な問題で、それが理念的に、論理的に、解けなければ、まず何回でもポル・ポトも、強制収容所も、それから連合赤軍も繰り返されるだろうと思います。
 そうすると、理路として言えば、知が喚起する宗教というようなもの、それが根本的に解けなければ、あるいはそれが解体できなければ、どうすることも出来ないから、それは必ず解体させる理路というものが出てこなくちゃならない。それはたぶん今世紀最後の課題として、どうしても前面に出てくるだろうなと思うのです。


A
 理念として出てくるということは、もちろん現実的にも出てくるんです。僕の理解の仕方では、現実的にあと一つだけ政治的にテーマがあると思っているんです。それは最初申し上げたことですが、
知の宗教に対して非知的なと言いますか、知でない部分がどうやって反乱するだろうか、どうやって抵抗するだろうか、あるいはどうやって空隙に意義(ママ 「異議」か)を唱えるだろうかということです。言ってみれば、あとの政治的なテーマはすくなくとも先進的な世界ではすべて終わったと僕は思います。テーマは終わった、政治というのは終わったと思っているわけです。
 またそれが根本的に解けなければ、笠井さんの言われる問題は、何回でもやられるだろう。それは反核でもやるだろうし、反公害でもやるだろうし、もっと現象的には、緩やかな形の主題でも、やっぱり再びポル・ポトは繰り返されるだろうし、連合赤軍は繰り返されるだろうと、僕には思えてならないんです。
 (「サブ・カルチャーと文学」P127-P128『文藝』1985年3月号 『吉本隆明資料集171』猫々堂)
 ※ 笠井潔・川村湊・吉本隆明の鼎談
 ※@とAは、ひとつながりの文章です。
















 (備 考)

生活世界を出自として持つ知や知の世界であるが、武士がほとんどは農民出身で農民世界の感性や考え方を携えてきて、そこから飛躍や純化を遂げて武士という独自世界を築いていったいったように、知や知の世界も出自を忘れたように高度化していく自動運動を遂げていくのは知の自然過程である。しかし、武士や武士世界も知や知の世界も、ともにそれぞれの出自の問題が無意識のような場所に横たわっている。ちょうど、言葉もうまく話せなかった赤ん坊が、成長して大人になった自分とはまったく無縁ではなく〈初源〉として今なお自分の深層のどこかに存在し続けているように。、

この知の宗教の問題は、それが閉鎖的に収束して行く場合、人間関係における集団や組織が閉じて成員のそれぞれの個をどう処遇するかという問題とも相似である。そして、この後者の問題は、学校や職場やお稽古事などのサークルなどで誰もが経験している、あるいは経験してきたはずである。

現在は、「ネトウヨ」的な空疎な言葉が、空虚の内面に支えられて、しかも、政権の代表をその「ネトウヨ」の大将としているせいもあり、社会の表面を今までになく目立って漂っている。もちろん、このような空疎でカビの生えた古くさい言葉(偽イデオロギー、イデオロギーのようなもの)が、未来への道に通じているはずがない。一過的なオタク政治趣味に過ぎないと思う。一方、わたしたち生活者の無意識的な「抵抗」は、消費の控えや少子化などとして社会問題的に現れていると見なすことができると思う。生活者にもいろんな層やいろんな考え方があるとしても、その中に(穏やかに豊かに日々生活したい)というモチーフは、生活の理想の欲求として潜在していると想定できるはずである。そういう生活世界の根本的なモチーフが、様々に悩み苦しんだ無数の物語の結果として社会的な総和として現象してきているものと思われる。そして、生活者という「非知による抵抗」は、依然として無意識的な抵抗(積極的な意味で抵抗と呼べないような「抵抗」)の状況にある。

この「知の宗教という問題」は、次回に予定している「大衆の原像を繰り込む」という問題につながっていく。これは、吉本さんが若い頃から提起した知の暴走に対する処方箋であるが、先にわたしが触れた知に潜在する出自としての生活世界という問題を内省すれば、誰にも関わる普遍的な問題として浮上してくるはずである。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
497 日本社会の大転換点 「日本の現在・世界の動き」 講演 吉本隆明資料集174 猫々堂 2018.4.15

※1990年9月14日の講演

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じぶんの日本社会のイメージが大ちがいだったよ 天然水の販売の意味
項目
1

@
編集部 最近出された、『重層的な非決定へ』でも触れられているのですが、戦後の日本が〈アジア的〉なものをふりきって高度産業社会へ走ってゆく過程について、万博を御覧になったところで、どのように感じられますか?

吉本 僕は、日本が六十年代から八十年代までの、どっか中間のある所で、かなり急速に
西欧型先進資本主義社会に転換していったということは、重くみる方ですけどね。〈アジア的〉な農耕社会の残存物というものは、専ら我々の意識構造、特に意識の共同性の面において、現在でもかなり残存していると思います。そして、僕は、〈アジア的〉ということについては、西欧的な先進性が入ってしまった日本とは、楕円の軸のように二つに(引用者註.ママ 「に」は「の」だろうか ウィキペディア「楕円」に掲載されている画像「アルキメデスの楕円コンパス」を吉本さんはイメージしていたのであろうか。)重ならない軸をもって、その両方で回っていて、どっかで重なる部分があって、そして重ならない部分もあるというような、そういうモデルが一番いいと思ってますがね。
 (「万博マス・イメージ論」P61 『筑波學生新聞』1986.1.10、 『吉本隆明資料集174』 猫々堂 2018.4.15)
 ※ これはインタビュー


A
 
じぶんの日本社会のイメージが大ちがいだったよ、とんでもなくまちがってつかまえていたよとかんがえたときに、どこでずれちゃったのだろうか、しきりにかんがえました。けれど、現在この社会のなかに生きてきて、この社会の全体をつかまえることはなかなか難しいのです。それで、およその勘と、文学現象から推察しようとしました。たとえば、村上春樹だとか村上龍だとか、いままでの日本の文学にはなかった新しい感覚の文学作品がでてきました。また、椎名誠みたいな、ひと昔前だったら通俗作家のイメージで片づけられてしまうような作家が、たとえば『哀愁の町に霧が降るのだ』なんていう、たいへんいい作品を生みだしていました。文学現象だけでもおやっとおもうことがたくさんあったのです。
 大雑把にいいまして、一九六〇年から八〇年のあいだのどこかに、日本社会の大転換点があったのに違いないとかんがえました。つまり、そのあたりで第三次産業が主要産業にいつのまにかなって、消費社会といわれる社会がやってきたと推測したのです。
 昭和四八(一九七三)年の「石油ショック」と、その前の「ニクソン・ショック」があります。このあたりが転換点のはじまりじゃないかと漠然とかんがえました。


 
ぼくが最大の転換点と判断したのは、昭和四八年、つまり一九七三年から、七四年、七五年の三年間のところです。たぶんここで、日本の社会の大転換があったというのが、ぼくが『年表』からみちびいた判断です。


 マルクスの経済学である『資本論』は、製造工業が主体でそれに農業があるか、あるいは農業が主体で製造工業があるという、資本主義社会の興隆期が分析の主たる対象になっています。つまり、第一次産業と第二次産業が資本主義社会の産業構成の大部分だったときには、空気とか天然水は役に立つものだけれども交換価値はない、水なんかはどっかからもってくればいいし、空気を吸うのはただでいいんだっていうことになっています。ところが、この年、日本の社会は天然水を使用価値もあるけど、交換価値もあるものとしてはじめて売りだしたのです。・・・中略・・・
少なくとも興隆期の社会主義者が分析した資本主義とはちがう段階に入ったということが、天然水の販売に象徴されたわけです。そういう意味で、これは、重要なことです。
 (「日本の現在・世界の動き」P6-P9 『吉本隆明資料集174』 猫々堂 2018.4.15)
 ※1990年9月14日の講演








 (備 考)

このことは、敗戦後の教訓からこの社会総体のイメージの獲得ということを若い頃から心がけてきた吉本さんにも、「じぶんの日本社会のイメージが大ちがいだったよ、とんでもなくまちがってつかまえていたよとかんがえたときに、どこでずれちゃったのだろうか、しきりにかんがえました。」ということがあり、熟考し軌道修正したということを物語っている。

@の「〈アジア的〉な農耕社会の残存物というものは、専ら我々の意識構造、特に意識の共同性の面において、現在でもかなり残存していると思います。」ということに関して、現在の「ネトウヨ」諸君に限らず個と国家をすぐに直通させる心性や意識構造は、〈アジア的〉なものの根強い残存だと思われる。わたしは、こうした〈アフリカ的〉なものや〈アジア的〉なものが、わたしたちの心から意識に渡ってどのように層を成すように残存し、現在的に発現するのかに強い関心がある。つまり、そのことは現在的な切実な問題だと思われるからである。とても古い太古の心性や意識の発現は、先の大戦時のような極度の緊張や危機に際して太古への先祖帰りとして未開の心性が発現したが、これは個や社会の危機的状況に限らず通常でも何らかの形で定常状態としての発現をしているのではないかという気がする。

この項目は、「日本の社会の大転換」を推定し、そこから本格的に〈現在〉の解明へと吉本さんが突き進んでいく、そのきっかけとなったものとして、ここに挙げておく。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
502 人間とは何か 「病院からもどってきて」 インタビュー 『悪人正機』 新潮文庫 2004.12.1

※ 「話し手」吉本隆明、「聞き手」糸井重里
※ 最終章「病院からもどってきて」(2004年)を除いたものは、2001年6月に単行本として刊行。

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自然の動きをたたえた言葉 すきのないことを言うなぁと感心 ヘーゲルやマルクス
項目
1

@
(引用者註.病院の中で現在の人間の社会を考えていて)
 そういうときに、古い人が書いたことを読んだことを思い出しました。たとえば中国の古典なら、孔子の『論語』を読んだら、感心しますよね。
 川の辺にあって、「逝(ゆ)くものは斯(か)くの如(ごと)きか、昼夜をおかず」
 これは、孔子が川の流れをはたで見ていて、昼夜に拘(かか)わらず、よく水は流れていくものだなぁと言っているだけなんです。だけど、この
然の動きをたたえた言葉に文句をつけるというのは、なかなかできないよというか、隙を見つけるのは不可能な言葉なんじゃないかと思います。すきのないことを言うなぁと感心します。
 孔子たちの時代に、ここまでのことを言いきれるということは、たいへんなことだと思うんです。「自然はいちばんいいんだな」みたいなことを、心の底から言いたくてしようがなかったんだろうなぁと想像するのですが、誰かがいま、これだけのことを言えったって、言えやしないでしょう。言ってしまってもウソになってしまうというところに、
聖人君子の時代というのは、こういうものなんだなぁと思わされるんです。
 (「病院からもどってきて」 P326-337 『悪人正機』新潮文庫)


A
 
要するに仏教で言えば、釈迦の時代から遠ざかるにつれて末法の世になっていくということなんでしょうけど、今は、疑いなくそうなっているような気もするし、大切なことを言う人が出てくるなんてことはあり得ないように思えるんですね。
 いまの時代は、どんなに知識があっても、それから、どんなに大したことを言おうとしても、たいていは「てめえができもしねえくせに何を言ってるんだ、やってもいないくせに」と言われてしまうのがオチなんです。だからもう、ぼくなんかは、正直につまらないことを言ってるより仕方がないよなと、そんなふうに思いますけどね。
 (「同上」 P327-328)


B
 ただ、「つまらないことを言う」ということさえ越えてしまって、
何の意味もないような言葉も、よく見かけますね。
 たとえば、脳のはたらきと心のはたらきには関係があるか、医学生に、アンケートを取った結果があるそうです。関係ねえ、って言ったのが、一七%で、関係ある、って答えたのが、あとの学生だとか、そういうことについて、滔々(とうとう)と書いてある本があるんですね。・・・中略・・・
 その悪口(引用者註.それに対して言った吉本さんの「悪口」)っていうのは、結局、「そんなことわかったって、知ったって、そんなの、何も言わないのとおんなじじゃねぇか」って。
 そういうことなんです。脳と関係ないように思える心の働きをやるのが人間の特質なんです。


 心と脳っていうことなら、ぼくはまた、違うところから関心がありますけど。
 つまり、その専門家のアンケートについての説明を見ていると、勘どころがちがうんです。人間とサルがわかれていったのが、だいたい、百万年単位の時点になる。そういう常識があります。人間側のほうで、日本語なら日本語というふうに、地域ごとの種族の言葉に分かれたっていうのは、いつかというと、十万年単位の出来事なんだとされています。
 
で、どうも、その、十万年単位よりもはるかに現在に近い数千年よりこちら側のことにばかり、話がいっちゃってるんじゃないかと思うんです。それは歴史でなく文化・文明史ですよね。
 それこそ、ヘーゲルやマルクスといったような、近代ヨーロッパの歴史哲学者みたいなのが言う世界の歴史というのは、その十万年単位以前のことを無視しているわけです。

 人間が木の実を食ったりとか、魚をどっかでしゃくってきて食ったり、山ん中で弓矢でケモノを追っかけて、それを捕って食ってたりしてたってのは、「動物とすこしも変わらない生活なんだ」っていうのが、ヘーゲルのようなヨーロッパ近代の歴史哲学者の考えかたですからね。
 しかし、それはおかしいんじゃねえか、と、ぼくなんかは、思います。
 
数百万年前から、数十万年前までのあいだに、ものすごい長い時間があるのに、語られないままなんです。その長い時間を、人間は何をしてたんだっていうことなんです。ただ、ボヤーッとしてたわけじゃないでしょう。そのあいだに、何かを、やっていたはずだって思うんです。
 食うものは、たしかに動物とそう変わらないものを食っていたろうけど、その間に何が起きていたのかを、言えなきゃ、おかしいじゃねえかと。
 歴史の中に、その大きな出来事を加えなくてもいいって、それは、なんでなんだ。そりゃ、おかしいぜって。そういう疑問があって。
人間とは何かってことなら、ぼくの場合には、そういうところに興味があるんです。
 (「同上」 P328-331)



備考
 (備 考)

当時としては優れた登攀を示したヘーゲルやマルクスの時代的な限界性を超えて、現在までに明らかになってきた知見を踏まえて「人間とは何か」を巡って現在を限りなく追い詰めていく吉本さんの姿がある。それは吉本さんの言葉を借りれば、遙かな太古を探索しつつそれが同時に人間の理想の未来性を探ることでもあった。

この吉本さんの孔子の『論語』の記述に対する気づきと感受とは、わたしにはまだ十分そうだなあと実感的にわかってはいないけれど、知識の還りがけの視線と言うほかないようなものとわたしには思われる。なぜなら、行きがけの言葉(批評)では到底気づきようのない孔子の言葉の時代的な無意識性に気づいていると思われるからである。

ささいなことだけど、気になったことをここに書き留めておく。今までの吉本さんの本でも吉本さんの発言の「ぼく」は、「僕」と表記されてきたような印象を持っている。この『悪人正機』(新潮文庫)でも、吉本さんの発言を「僕」と表記してきている。しかし、なぜか後で増補された最後の「病院からもどってきて」においては「ぼく」と表記されている。「僕」と「ぼく」はその指示するものは同一でも、やわらかさのニュアンスなどが微妙に違う。すなわち、内臓感覚的な感じ、自己表出性が違っている。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
510 七〇年以上の問題 『吉本隆明 戦後五〇年を語る』172,173 インタビュー 週刊 読書人1999年7月30日、8月 読書人 1999.7.30

 (関連項目465)
※聞き手 山本哲士・内田隆三・高橋順一

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主観性の場所 七〇年の了解性 七〇年以上の歴史的時間を考えるときには、無意識が入ってくること 無意識の了解性みたいなもの
項目
1

@
吉本 それからもう一つ、山本さんがいま言われたことのなかで問題になるのは、結局、歴史とは何ぞや、あるいは人類史とは何ぞやとなっていったとなっていった場合に、要するに一〇〇年以上先まで言うのは全く意味がないのではないかということです。つまり、人間の生涯を七〇年なら七〇年とすれば、その範囲内のことについて何か言ったり、歴史的な現実社会の変化について何か言ったりすることは意味があるけれども、それ以上のことを言っても意味がないという
主観性の場所があると思うのです。主観性の場所が本来入るべき思想的営為のなかで、主観性の問題を除外してしまうと、すこぶるこっけいなことになってしまいます。ひとりの人間が七〇年以上は生きないとして、七〇年以上前のことを言うのは本当はずいぶん勝手な話だと、極端にいうとそうなる気がします。そうでないまでも主観性の場所があって言うのと、それがなくて言うのとではやはり違うと思うんです。
 もちろん
考古学みたいに、主観性の問題を除外視して、目とか感覚とか、人間の主観があるとすればそこしか使えない、あとは客観性以外に何も言うことはない、言えないということを歴史の問題として追求していく場合には、まったく方法が違ってしまいます。ただ、人間の一生涯の範囲内の出来事について言及する場合には、主観性を除いては言及することができない。主観性の問題を除外して考えるとまったく不正確になってしまいます。それ以上のことを歴史的時間として考える場合には、主観性の問題は除外視して、フィジカルな科学に近い考察の仕方をしないと間違ってしまう。そういう問題があると思います。
 エンゲルスがそうしたことを言っていて、だいたい歴史のなかで万人が承認できる確実な事実は、ナポレオンが何年何月に生まれて何年何月に死んだというようなことぐらいで、あとはあまりあてにならないという言い方をしています。人間の生涯以上の問題を考える場合には、主観性の問題ははずしておかないとすこぶる曖昧なことになってしまう。七〇年という範囲内のことでしたら、自分がその中に入っていることを勘定に入れた評価や分析の仕方をしないとだめじゃないかという気がします。そこの分岐点の問題があるように思います。
 (『吉本隆明 戦後五〇年を語る』172 週刊 読書人 1999年7月30日号)
 ※聞き手 山本哲士・内田隆三・高橋順一


A
山本 いまの問題については、僕は「時間の設計」という言い方をしてまして、学問的にどこの時間を対象とし、どういうふうに時間を設定したら、これからの学問が、あるいは思考が、有効性を持つのか、意味を持つのかと考えた場合に、今はちょうど分かれ道に来ているような感じがしています。
 近代的な学問体系は、ある意味でまさに自分の生涯の時間を支えている社会の時間まで射程に入れて、政治を設計するなり、経済を設計するなりしてきました。ところが、地球だとか、環境だとかが射程に入ったときに、同時に惑星的時間が射程に入ってきます。そうなると、人類の存在がすごく抽象化されてしまいまい、社会状況まで全部抽象化されてしまいます。そういう過渡的状況に今さしかかっていて、個人の時間の射程の設定、社会的な時間の射程の設定、惑星的な時間の射程の設定、そういった時間スケールのなかで歴史とは一体何なのかと考えてしまうのです。
 歴史をむしろ無化してしまうような構造主義的な考えが一時期ちょっと出ましたが、そうではない時間の設定の仕方が問われている感じがします。天皇制の無化という課題は、そうした問題領域としてあるのかなと思うのです。・・・中略・・・この辺の問題はどう考えたらいいのでしょう。

吉本 むずかしい問題ですね。図式的に言えば、人の生涯を七〇年と考えれば、七〇年までは意識に入って来る問題で、
七〇年以上の歴史的時間を考えるときには、無意識が入ってくることを考慮に入れるより仕方がないという気がするのです。これはまた図式的にいえば、現在という歴史的時間をどうすれば理解できるかということになってきて、本当をいうと不可能だと言いましょうか。つまり、人間の身体的な時間性とは、まず了解の時間性だと思えるのですが、現在そのものについて、しかも了解の時間性だけしか行使できないところで、現在の社会問題を考察するのは本当は難しいですね。モノの歴史とか制度の歴史には何か客観的な変化みたいなものが見えたりしますから、それを加味して、今はどうだこうだと言っていますが、本当は了解の時間性から現在を分析することはむずかしいという気がします。図式的にはそうだと思います。
 もう一つ言えば、山本さんが言われた地球的規模ということになりますが、地球を守ろうとか、正常にしようとか、そういうエコロジカルな論議がありますね。それが多少滑稽に見えるのは、宇宙的な時間を具体的に身体の了解の時間性のなかに入れる場合には、人間の生涯が七〇年なら七〇年として、たとえば、屋久島の縄文杉など一〇〇〇年や一五〇〇年も経つ大木がまだ生きている場合がありますね。そうすると、どう考えたらいいかというと、だから樹木や何かを大切にしなければいけないと考えるべきではなくて、われわれは
七〇年の了解性しかないけれど、何千年も生きている樹木を考える場合には、無意識の一〇〇〇年みたいなものを考慮に入れて、そこまでの了解性を使わないと、この問題が何を意味しているかは言えないと考えるべきではないでしょうか。そのような気がするのです。
 それを一足飛びに、地球の緑は大切だとか言われると、「ちょっと待ってくれ。もっと言わなくてはならないことがあるんじゃないか」ということになってしまいます。七〇年以上の問題を考察する場合には、無意識がどうなるかということを考えに入れないとだめだとおもいます。
 (『吉本隆明 戦後五〇年を語る』173 週刊 読書人 1999年8月、第2297号)
 ※聞き手 山本哲士・内田隆三・高橋順一


B
吉本 三木成夫さんという人の本を読むと、年輪は一年に一回輪切りにすると、そこは誰にもわかるのですが、もっと厳密にやっていくと一週間に一回の成長があるのだそうです。一週間周期で成長の様子が違ってくる。細かく見ると樹木でもそういうのがあると三木さんは言っています。
なぜそれに気がつくかと言うと、本当は七〇年しかない範囲での了解の時間性が人間の主観的な理解性なのですが、三木さんは一種の宇宙的認識を持っていて、それを無意識に入れて行使すると、もう少し厳密なことが見えてくる。僕はそうした考察の仕方の方が良いような気がしています。
 あの人が言っていること、書いていることは、エコロジストがそれを言ったらいかがわしいとしか思えないのに、そうではないところがあります。それは何だろうと思うと、
無意識の了解性みたいなものを相当はっきりと持っていて、それが一種の宇宙的な認識を可能にしているのだと思います。
・・・中略・・・
 これを違う例で言ってみますと、僕は猫が好きだから、猫を飼うでしょう。猫の寿命は長く生きして一五年ぐらいです。そうすると、自分より早く死んでくれると言ったらおかしいですが、それは無意識のうちに猫を飼う条件になっていると思うのです。犬も同じでしょう。やはり人間の寿命よりは明らかに短い。・・・中略・・・猫が人間よりは長生きするとしたら、飼う気がしなくなるのではないでしょうか。不思議にそう思います。
 なぜ飼うかといったら、人間より寿命が短いからで、了解の時間性といっても、七〇年までの了解性を行使しなくてもすむ。まぎれるところがあるんですね。猫を飼うことには、そうしたことが相当重要な要素として入っているように思います。
 (『同上』173)










 (備 考)
「七〇年の了解性」とそれを超えた場合の考古学などの客観的な考察、そして「無意識の了解性」を使った考察。たぶん、今まで誰も語ったことがない微妙な問題が語られている。今までは現在のことも太古のことも、人間の対象に対する思考や想像として一般的にしか語られてこなかったように思う。


「無意識の了解性」ということが、具体例が挙げて語られているけど、わたしにはわかりにくい。手がかりとして、

Aの「われわれは七〇年の了解性しかないけれど、何千年も生きている樹木を考える場合には、無意識の一〇〇〇年みたいなものを考慮に入れて、そこまでの了解性を使わないと、この問題が何を意味しているかは言えないと考えるべきではないでしょうか。」
Bの「本当は七〇年しかない範囲での了解の時間性が人間の主観的な理解性なのですが、三木さんは一種の宇宙的認識を持っていて、それを無意識に入れて行使すると、もう少し厳密なことが見えてくる。」

 わたしがこのことの理解の例として別の例を挙げてみる。最近、この列島に限らず世界的に気候の変動が従来的なものとは違ったものとして現象していると言われているし、わたしたちもそのようないつもと違うという状況が近年は定着してしまっているような感じを持っているように思う。このような最近の気候変動の状況は、「七〇年の了解性」からの把握や理解ではそのほんとうの姿や振る舞いを捉え尽くすことは困難なことのように思われる。なぜなら、この地球の振る舞いは「七〇年の了解性」で理解し尽くすことができるようなものではなく、もっと大きな時間の尺度の変化や運動をしているらしいからである。現在までの科学的な研究の成果を借りれば、大きな時間の尺度では、地球上の大陸の形成や移動、「縄文海進」や「海退」などとてつもなく大規模の自然環境の変貌が起こってきている。

「地球温暖化問題」を調べている内にわたしは出会ったが、この地球の気候変動や地震などとして現象するものには、わたしたちの生涯の時間スケールよりも遙かに大きな時間スケールでの温暖化や寒冷化の周期性があるということだった。わたしたちの科学は、ようやくそのような大きな時間スケールの周期的な振る舞いを取り上げることができる段階に至ったのである。そこからの了解の時間性をもっと練り上げながら行使していけば、現在は災害にやられっぱなしでも、より効果的な災害対策もだんだん可能になっていくように思う。

現在ではまだ空想的な夢物語だが、吉本さんがどこかで語っていたような一つの街あるいは都市を包括したような巨大建築(群)も未来的には可能性としてあり得るのではないだろうか。そこでは、当然災害対策や生活の利便性や快適さや自由さが追求されていなくてはならない。この地球環境の長期的な振る舞いと人間界の諸問題の有り様などの現実的な条件が、未来においてそれらの巨大建築群の可能性を押し出すことがあり得るかもしれない。例えば過去にも、縄文期や弥生期の人々は「縄文海進」や「海退」に遭遇して、住居地や生活形態を大幅に変えてきたということがあったように。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社
515 日本人はどこから来たか 『吉本隆明 戦後五〇年を語る』171 インタビュー 週刊 読書人1999年7月23日号 読書人

※聞き手 山本哲士・内田隆三・高橋順一

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時間・空間的な同一性 無意識が解けていく 遺伝子考古学 もうひとつ鍵がある
項目
1

@
吉本 通ってきた経路が違うから風俗・習慣は多少は違うけれど、もう少し遡れば種族的に同じだというところまでは僕は行けると思っています。柳田さんの頃より今の方が行けそうだとという感じが強くなっていると思います。そこのところの
時間・空間的な同一性が言えたら、相当はっきりするのではないかと思います。そこが何かポイントのような気がします。
 いろいろな意味で大変難しいと思いますが、
柳田さんもそれはよく知っていて、つまり南の方の言葉と北の方の言葉は、もとを辿ると同じ方言の違った現れにすぎないということはだいたい見当をつけていたと思います。大陸ももう少し先まで行けば同じだと言えそうな気がするのですが、そこの問題が今のところわかりにくくて、説がきわめて対立的に思える箇所ですが、本当はそんなに対立していないのではないでしょうか。それを解明できたらいいと思っています。


A
山本 そういう歴史に対する逆行的な時間と、さきほどのように時間がどんどん進展していき現代社会を通過して先にという、自然過程的に通過していってしまう時間とはどういう関係になるのでしょうか。言い換えると、現代社会が進んでいき、稲作的な条件が限定されていって、さらにその先、ハイ・イメージ的な社会が広がっていくとして、そのことでわれわれの無意識的な状態は解放されていくのでしょうか。

吉本 そういう言い方をすれば、要するに日本の農業はだんだん少なくなって、稲作も少なくなっていくと、それに伴って天皇制も、憲法上に明文化されてはいるけれど、実質上は無化されていくと思います。
農業がだんだん少なくなり、第三次産業が発達していったら、ひとりでにそういうふうになっていくと考えることと、騎馬民族説と南方起源説は結局同じではないかとひとりでに明瞭になっていくこととは、無意識が解けていくという意味で同じだと思います。面倒なことのように見えるけれども、存外、遺伝子考古学が一番最初に解いてしまうのではないかという感じがします。今のところ、そんなにデータがないから、なかなか自然に解けるというわけにはいかないでしょうが。
 何はともあれ、日本ということで言えば、何もナショナルな意味でその特性を考えなくてよいわけで、中国や朝鮮半島であろうと、日本列島であろうと、そこのナショナリズムは、住んでいる人が単一国家を作り、それが近代化していってどうなるかという問題だといえばいいと思います。ただし、日本のナショナリズム、あるいは超国家主義といいますか、天皇制の問題も加味して言うと、そういう問題には
もうひとつ鍵があるような気がするのです。


B
吉本 大雑把にいうと、とくに漢民族と言われている人たちを中心に中国を考えれば、漢民族は、トルコやヨーロッパとの混血が多い。中国は特殊な気がします。雲南の南とか、稲作の起源だと言われている場所がありますが、それと中国とは違います。
中国を漢民族中心に考える場合には、厳密に言えば、ヨーロッパないしは中近東との混血として考えないと間違ってしまうと思うのです。もし風俗・習慣から国民性や性格まで入れて、中国とは何なのかと考える場合には、漢民族を中心に考え、それは中近東ないしはヨーロッパとの混血だと考えた方がはっきりすると思います。
 
それと同じ面で言えば、日本人とは、要するに縄文人、旧日本人と新日本人との混血であるということになります。旧日本人とは縄文的ということです。それはアフリカ的あるいはプレ・アジア的で、アジア大陸にはもういなくなっている。プレ・アジア的段階で、大陸を離れた人の多くが混血したというふうに日本人を考えないと間違ってしまうと思います。そうすると、もし超国家主義、国家主義、あるいは天皇制というものを加味して日本国の問題、ナショナリズムの問題を考えるとすれば、その特色を意識的に新たに考え直さないと間違ってしまうのではないでしょうか。これは中国でもおなじことです。中国は広いから辺境地区というのを考えると、日本人と同じではないかと思います。 


C
吉本 
日本人というのは、そこから縄文時代に分かれて、直接か、あるいは島々をめぐって、この列島に来た人たちで、その当時からすでに大陸にはいなくなっているのですね。絶滅して、混血の痕跡さえない。だけども日本の場合にはとにかく、南と北に相当多く混血の要素が残っています。厳密に押し進める場合には、それが日本人の風俗・習慣や制度の作り方など、いろいろな特性を作っていると強調しなければいけないと思います。そこの問題ではないでしょうか。
 いま東北地方でいろいろ掘り返して、縄文時代の大きな遺跡が見つかっていますが、それは相当以前に日本に住みついた人たちがいたということです。とにかく北の方、つまり青森や何かで掘り返して出てきた人骨や遺跡でしたら、五〇万年ぐらい遡って、琉球・沖縄でしたら二〇万年ぐらい遡って、この子孫ということを考えていくと、もっと古い縄文の初めの頃から考えないと、だんだん間尺に合わなくなってきています。
縄文時代的な要素が多かったということを柳田さんの時代よりも強調しないと、日本というのは考えられなくなっていると思います。掘り返していけば、どんどんそうなっていく。その辺のところが一番問題になってくるのではないでしょうか。
 中国の問題も僕はそう感じますね。中国の問題は、エジプトの問題と同じところまで行って、あれは東洋人と考えるより西洋人と考えた方がいいということになっていきそうに僕は思います。現実的に、もうその辺まで行ってしまえということになるような気がします。
 (『吉本隆明 戦後五〇年を語る』171 週刊 読書人 1999年7月23日号)
 ※聞き手 山本哲士・内田隆三・高橋順一
 ※@、A、B、Cは、連続した文章です。















 (備 考)

この問題は、わたしには深い関心があって「遺伝子考古学」の本も読んだことがあるが、これについてコメントできるような把握力を現状は持っていないので、邁進する吉本さんの内面の風景を、Aの「無意識が解けていく」に関して少し触れてみる。『母型論』(1995年)に次のような言葉がある。これも今以てわたしがだいたい分かったと言えない吉本さんの言葉である。


 この本の試みが着手されるまえに、すくなくとも数個のモチーフが、わたしを錯綜させていた。それを箇条書きにしてみる。

(1) どうかんがえても奈良朝以後に、漢字を借りて表意的に、また表音的に文字にあらわされて古典語とか近代語とか呼ばれているいるものを日本語とかんがえると、日本語という枠組からはみだしてしまう表意や表音があるのではないか。それは『記』『紀』の神話や神名のなかに、また『万葉』や『おもろさうし』や『アイヌの神話』や日本列島の『地名』ののなかに、遺出物のように保管されている。そこで 文字表記がなされなかった以前まで遡行して、日本語とはなにかをかんがえる必要があるのではないか。

(2) このことと密に結びついているが、日本の民族性とかんがえている風俗、習慣、宗教、倫理、自然観 、それからわたしたちが顔を赤らめるような身体の表象としてあらわす心性や、美の感性なども、もっ と遡行すると複合したたくさんの種族の持ちものの融合とかんがえた方がいいのではないか。

(3) (1)(2)にどこかで加担するわけだが、明治の近代化以後から現在までナショナリズムとかインター・ナ ショナリズムとか、西洋を基準につかわれているオリエンタリズムといった概念や論議は、ほんとうは空虚で無意味なもので、さしあたってこういう概念を基にして流布されている論議、対立概念はすべて普遍性の方向にむかって解体されなくてはならないのではないか。
 (『母型論』「序」吉本隆明)



 簡単に言えば、ある時期、ある地域のものやある段階のものを固定化したり、そこから敷衍してして現在を捉えたりすることなく、普遍の言葉が欲しい、普遍のイメージの通路を通りたいのだ。それは具体的には、次のように微妙な「察知」の感覚とともに描写されている。


 おまえは何をしようとして、どこで行きどまっているかと問われたら、ひとつだけ言葉にできるほど了解していることがある。わたしがじぶんの認識の段階を、現在よりももっと開いていこうとしている文化と文明のさまざまな姿は、段階から上方への離脱が同時に下方への離脱と同一になっている方法でなくてはならないということだ。
 わたしがいまじぶんの認識の段階をアジア的な帯域に設定したと仮定する。するとわたしが西欧的な認識を得ようとすることは、同時にアフリカ的な認識を得ようとする方法と同一になっていなければならない。またわたしがじぶんの認識の段階を西欧的な帯域に設定しているとすれば、超現代的な世界認識へ向かう方法は、同時にアジア的な認識を獲得することと同じことを意味する方法でなくてはならない。
どうしてその方法が獲得されうるのかは、じぶんの認識の段階からの離脱と解体の普遍性の感覚によって察知されるといっておくより仕方がない。わたしはじぶんが西欧的かアジア的かアフリカ的かについて選択的である論議の不毛さに飽き飽きしているし、現状で理解できる表面の共通性で、国際的という概念の範囲を定めている国際的と称する認識にも同調する気はまったくない。そこでわたしがやったのは、じぶんの好奇心の中心に安堵できる段階からの離脱と解体の普遍性の感覚を据え、孤独な手探りにも似た道をたどることだった。この本でたどりついている場所は、まだ入口近くの迷路のなかのような気がするが、すこしずつ確実に展望をひらきたいとおもっている。
  (同上)






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社
527 日本国家が滅びたっていいじゃないか 「フリーター、パラサイト・シングル、家族 インタビュー 吉本隆明資料集176 猫々堂

 (関連項目526)

( 「フリーター、パラサイト・シングル、家族」、『吉本隆明が語る戦後55年』第1巻 2000年2月5日発行、
『吉本隆明資料集176』所収)
※インタビュー日は、2000年10月13日

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国家より社会のほうがはるかに大きくて重要 個人は社会と二十四時間さまざまに関係 一般の国民が責任をとるような機構にはまったくできていない
項目
1

@

吉本 
僕は、国家を抜きにして考えます。国家より社会のほうがはるかに大きくて重要ですから。個人は社会と二十四時間さまざまに関係していますから、時間的にみても国家より大きい。極端に言えば、僕は国家という概念をすっ飛ばしてもいいという考え方になりますね。
 先日テレビで、親の世代と子の世代を集め、筑紫哲也が司会、野坂昭如がゲストの討論番組がありました。親と子の世代が互いに意見を述べる番組でしたけれど、そのなかでゲストの野坂昭如や司会の筑紫哲也が「このままでは日本国は滅びる」という意味のことを言ってました。僕からすると「何なんだいったい」ということになります。
日本国が滅びるか・滅びないかを決めるのは、いまの非民主的な日本では、九九%までは政治家の責任で国民大衆の責任ではありません。筑紫哲也や野坂昭如は進歩的な人たちだったですよね、だから「日本国が滅びるか滅びないかは問題にならない以下の問題で、国民が現在より自由で豊かになるのが、第一義の問題だ」と言うかと思ったら、そうじゃないんですよ。「日本国を滅びないようにするためにはどうしたらいいか」と議論してるんです。
 (『吉本隆明資料集176』P37 「フリーター、パラサイト・シングル、家族」、『吉本隆明が語る戦後55年』第1巻 2000年2月5日発行)


A

吉本 
僕は日本国家が滅びたっていいじゃないかと思っています。少なくとも、日本国が滅びるか滅びないかという問題は第二義以下の問題です。国家が滅びたって民衆が現在より豊かになって自由になるならそれでいいじゃないか、それが理想じゃないかと、とことんまで言えば僕はそう考えます。第一、国家を滅ぼすかどうかの責任は、政治的国家の首脳(政府)の責任です。一般の国民が責任をとるような機構にはまったくできていないでしょう。
  (「同上」P37)


B

吉本 僕の本音を言えば
「国家が滅びるからこれじゃいかん」というような発想は許せないっていうことになります。それはほとんど百%、政治的国家の担当者が、馬鹿かどうかの問題です。それは石原慎太郎や小林よしのりのようなナショナリストの考え方です。親子がどうした、家族がどうしたという問題は社会問題で、国家の問題ではありません。西欧みたいに「国家」を「政府」の意味ぐらいに捉え、国家がどうなろうと知ったことではないという視点に立つべきですし、それでいいと思います。
  (「同上」P38)















 (備 考)

この項目には、何も付ける言葉は要らないと思う。ただ、「一般の国民が責任をとるような機構にはまったくできていない」ということに関しては、触れてみたいことがある。

日本人は、現在でも「ネトウヨ」にかぎらず、自己と国家を同一化しがちである。このことはあらゆる分野にわたって現象してくる。例えば、原発も「一般の国民が責任をとるような機構にはまったくできていない」のに、自分を同一化して政治上層みたいな場所から原発や再稼働について考えを述べる者たちがいる。わたしが原発について述べるなら、一住民、一生活者として、具体的な関わりとして述べたり行動したりすると思う。例えば、民主党政権の時、細野豪志環境相が放射性物質を含む震災がれきの全国処分を押し進めたことがある。わたしはその時、自分の住む街の市のホームページから住所と個人名を付して反対意見をメールしたことがある。焼却場の一キロ圏内にわたしの耕作している農地があったという事情もあった。

「一般の国民が責任をとるような機構にはまったくできていない」ことから、わたしは国のことなんか知ったこっちゃないという自己本位の考えを持っている。裁判員裁判も、まだわたしのところには来たことがないが、世論調査では7割か8割の反対だったのに、不見識な弁護士協会が推進し、国会議員が大多数で決めてしまった。そういうわけで、裁判員裁判も知ったこっちゃないという考えでいる。もちろん、そういう姿勢を貫くのは、この列島社会では依然としていろんな圧力を被ることになると思う。わたしも今までずいぶんまあまあで過ごしては来ているけど、この漱石に倣った自己本位は現在でも依然としてとても重要なことだと思っている。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
544 にごり 「書くことと生きることは同じじゃないか」 対談 『吉本隆明資料集179』 猫々堂 2018.10.15

初出 『新潮』2010年10月号 吉本隆明・よしもとばなな 対談 (2010.6.4)

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自信がない時は、にごりを生じている このことについては僕も相当考えてきた その人だけが持っている固有性 自信を持ちさえすればいい
項目
1

@

ばなな あとひとつ小説に関して聞いてもいいですか?この間、お父さんが急に、「わかった!きみは自信を失ってるんだよ」って私に言ったんです。そして、「自信は、今すぐにでも取り戻せるから、今取り戻せばいい」って私に言ったんです。・・・以下略・・・

吉本 自信の有無がどこに表れてくるかというと、いい言葉が見つからないから、言葉が悪いけれども・・・・・・。

ばなな 本当に悪そうで、ドキドキするんですけど(笑)。

吉本 人から見ると、なんとなく「にごり」を生ずるという感じが出てくるよって、たしか言ったんじゃないかな。

ばなな うん、そうです。

吉本 根本的には、そう思っています。

ばなな それは、キレが悪いってことですか?

吉本 そうそう、踏ん切りが悪いっていうのもあるし。たとえ知識は多くなくても、自分なりにこういう考え方を持っていますよ、という自信。それって結局、その人なりの自信ですけど、それがあると、傍から全然関係ない人が、たまたま出会って話を聞いただけだとしても、にごりがなく見える。
 でも、
自信がない時は、どんな偉い人が言っていることでも、なんかにごりを生じている感じがするわけです。これは間口が広い狭いとか、知識の有無とは関係ないことで、なんとなくすっきり思える場合と、にごりを生じてるなって感じる場合の両方があって、にごりを生じている場合には、どんなに偉い人でも自信がない時だと考えて、まず間違いないと思います。
 
まあ、本当はもっとうまい言葉があるはずで、にごりの有無という言葉はあまり適切でないからさ。このことについては僕も相当考えてきたんだけど、まだ、うまい言葉が見つけられないなあって感じがあるんです。


A

ばなな そういう時には、どうすればいいんですか?

吉本 そういう時は、そのにごりを取りさえすればいい。
要するに、自信を持ちさえすればいいんだよって。例えば、自信がある時に書いたものとない時に書いたものでは・・・・・・。

ばなな 読む人が読めば、わかりますよね。

吉本 それは、
にごりの度合いが違って、他人から見るとすぐわかるんです。性質や考えの違いのさらに奥に、その人だけが持っている固有性というものがあって、本来それが同程度に含まれた作品なのに、そう見える場合とそうじゃない場合があるんですね。そういう時に、人によっても違いますけど、自分にもやがかかっているか、あるいは、相手の方にもやがかかっているか、どちらかだと思います。これはどんな商売であろうと専門であろうと、当てはめることができるのではないでしょうか。

ばなな たしかに、そうだなって思います。顔をすこし見ただけでもわかることってあるし、それも、ある程度の数の人がわかることのような気がするから、やっぱり何かあるんだろうなって。そうした時に、自信を取り戻すにはどうしたらいいんでしょうか?

吉本 自信を取り戻すというのは、つまり、結果であったり、原因であったりするんだよね。結果から、「こいつは今、自信を失っている時だ」とか「自信がある時だ」と他の人にわかるような時というのは、もうご当人はとっくにわかっているはずなんです。わかっているけれど、言わないか言えないんですね。本当は、自分が自分に対して言うべきなのに、それが言えずに人任せになっている。だけど、自分が自分に対して言うことができなければ、とくに文学なんて、作品にはならないわけです。だけど、そういうふうに考えるというのはあまりに厳しいことなので、わざと自分を外して書いている作家というのがいます。

ばなな 本当に楽ですよね、自分を外すと。

吉本 そう、楽だからそうしてんの。しかし、僕に言わせれば、いくら頑張っても、その状態を脱しなければ、その人は進歩しないですよってことは確実に言えますね。つまり、自分を外して書きゃ、そんなのは・・・・・・。

ばなな いくらでも、できてしまう。

 (「書くことと生きることは同じじゃないか」P10−P13『吉本隆明資料集179』猫々堂、初出『新潮』2010年10月号 )
 ※@とAは、連続した文章です。












 (備 考)

この全体から、人生相談する吉本さんを想像してしまった。新聞の人生相談では、高橋源一郎と上野千鶴子のは何度か読んだことがある。その人の見識や器が問われるから人生相談は難しいなと思う。吉本さんはいつ頃だったか、糸井重里との対談で語っていたように記憶するが、人生相談をやってみたいと言われていた。これは表現者同士の対談であるがどこか親子の話ぶりも含んでいるだろう。この話しぶりからは、ふとこの吉本さんならうまい人生相談ができそうだと思った。


ここで取り上げられている「にごり」は、文学作品に限らないと読みながら思ったが、Aの初めの方にいろんな分野に当てはまると語られている。この「にごり」という言葉は、もっといい別の言葉がありそうだがと語られているけれど、晩年の吉本さんらしい言葉だと思う。感覚的な言葉であるが、わたしたちの日常の経験の感覚とも通じていてしかも対象の芯を突いている。


昔、ヨーロッパ由来のポストモダン隆盛の頃だったか、作品の作者である〈私〉を抹消して〈私〉を取り上げない風潮があった。なるほど、人が生きて呼吸している現在の〈マス・イメージ〉が、作者の固有性を通して作品に入り込んでいるから、この面を拡大すると作品の作者は〈私〉ではなく〈マス・イメージ〉とも言えるだろう。しかし、ある固有の生い立ちを持った作者が作品を書くということを消し去ることはできない。最近ではAIに文学作品を書かせたりしているようだが、AI作品に至っては現在の〈マス・イメージ〉も作者という固有の〈私〉も存在しない。そこにあるのはソフトウェア的な模倣された概念というほかない。


一般化すると、他人や自分自身でも物事でもいいが、人がそれらの対象とかかわるとき、自信のなさや余裕のなさから〈にごり〉は生じるのだろう。そのことは日常生活経験の中で誰もが直感的に指摘しうることだと思われる。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
548 二度目の知の解体処理 @ 対幻想の現在〜疎外論の根源 対談 吉本隆明資料集179 猫々堂 2018.10.15

「対幻想の現在〜疎外論の根源」は、初めに三名の記名があるが、実質は吉本さんと森崎茂の対談。1990年615日対談。
1990年9画発行の『パラダイスへの道'90』所収

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項目
1

@

森崎 あの、吉本さん、ぼくは吉本さんにお会いしたらぜひ、これはお聞きしたいと思っていたことがあるんです。

吉本 はい。

森崎 八十年のちょうど切り替わりのときぐらいに、吉本さんが重層的な非決定とか、言葉としてでてきたのはすこしあとだとおもうんですが、思想というのがある領域なんだ、ということであるとか、世界視線でもいいですし、大きな概念をいくつかつくられたとおもうんです。そのことを、二度目の知の解体処理、敗戦処理の時期だというふうにいわれていますけど、そういうふうに、二度目の知の解体処理、敗戦処理というのをやられるなかで、吉本さん自身が、どういうふうに変わられたかということをお聞きしたいとおもってました。方法のおおきな転換をやられるなかで、自分の世界に対する感じ方や、いわゆる皮膚感覚みたいなものが、どういうふうにお変わりになったかということを、ぜひお伺いしたいっていうことがありましたけど。そのへんを少し、よろしいでしょうか。

吉本 どこからでも集約していいわけですけども。
いままで自分が持ってきた方法、場面、場所の延長で、何か考え方を進めていくことはもう不可能だってことが、実感としてあったということです。
 それからもうひとつ、あなたの言葉でいう外延的なものなんですけど、外延的な変化と照らし合わせてみて、この変化をどうやって捉えるか、
いままで自分が持っていた方法を、そのまま延長してもだめだろうということがあったとおもいます。ですから、場面としていえば、広場に出なければ見えないよっていうことがあって、今いる場面だったらどうしても全体が見えないという感じがありました。
 もうひとつは、方法っていうのは、いつでも過去からつくられるわけですけど、少なくとも過去で作られる方法では、どうしても、水平線のこちら側はわかるけど、
水平線の向こう側に対しては、手をかける発端をさぐりだすことは、不可能ではないかと思えて、やっぱりそこは場所の大移動ということと、過去からできてる方法は全くだめ、使えないんじゃないかと考えたと思います。じゃ過去から作られた方法でぼくにとっていちばん大きいのはマルクスなんですけど、マルクスの方法っていうのは、ちょっとだめなんではないかな、つまり、もう水平線の向こう側に見えてるものをつかまえられないんじゃないかと思いました。・・・中略・・・


A

吉本 マルクスの方法を身につけた部分があって、これで解析していけばつかまえられるというふうにはとてもおもえなくなって、ちょっと考え方を変えて、
マルクスがいまいたとしたらば、あるいは、もし水平線の向こう側にあるものを見たとしたら、どう考えるだろうなあと、何を考えるだろうとか、どういう分析の仕方をするだろう、というふうなことに発想を大転換したようにおもうんです。そして、俺はそんなに、能力があるわけではないから、そのとおりにはできないとしても、及ばずながら、いま生きてたらどう考えるかなというところから考えなくっちゃいけない。


B



吉本 最初に、『マス・イメージ論』にとっかかったときに、結局、ぼくは、『マス・イメージ論』というのは、そういうふうに言ったこともありますけど、『共同幻想論』の現代版だと自分のなかでは位置づけました。『共同幻想論』ていうのは、過去を踏台にして、自分の考えを作り上げていったというものですけど、これはいっさい過去を踏台にするってことをやめて、現在目の前に展開していることだけを素材として、『共同幻想論』と同じ方法といいましょうか、これを使ったらどういうことになるのか、何が見えてくるんだということをやろうみたいにおもって、それから場所の大転換をしたと思います。
 そして場所の大転換と一緒に、たぶんイデーの、理念の大転換というのをしたとおもいます。それはやっぱり、知識人と大衆とかっていう、そういう言い方をすれば、なんていいますか、徹頭徹尾、大衆という基盤を、まず基にしようじゃないか、つまりじぶんの発想の基にしようじゃないか、つまり、これは森崎さんの引用しておられる、大衆の原像っていう場合には、イデー、理念としての大衆のイメージですから、実際に大衆がそうであるかどうかということとは、あまりかかわりなく、イメージの原像っていうのはつくってきたわけですけども、そうではなくて、実際問題として、大衆という理念っていうのを、まず自分の理念の重さとして、そこに重さをかけてしまおうじゃないかというふうに転換したと思います。理念もそこで転換したとおもいます。
 つまり、それ以外のものは、発想はあまりあまり意味がないっていうふうに考えて、やっぱり具体的な大衆っていうものを基盤にして、『共同幻想論』でやったと同じ考え方をやろうというふうに考えて、それが、たぶん『ハイ・イメージ論』の基礎にあります。
 そしたら、自分の実感ですけども見えてきたことがあって、それはマルクスの方法を使って見えてた現実社会、あるいは国家というのを考えるとすれば、それとは全然ちがう社会のイメージが見えてきたということだとおもいます。
 つまり、大衆っていうイメージを基盤にして、社会、今の社会を見るという見方をしてったらば、たいへん、イメージが、まるでちがうよというふうに見えてきて、たぶんそれからの強調の仕方、つまり点の打ち方っていうのは、そこに重点、何がゆえにどうして、社会全体のイメージとか、ヴィジョンていうようなものが、これだけ誤差を生じてきちゃっていたのかということにたいへん重点をおくっていう、置き方をやったとおもいます。それは今でも、きっとある程度続いているとおもいますけども。

 (対談「対幻想の現在〜疎外論の根源」P159−P162『吉本隆明資料集179』猫々堂、 )
 ※@とAとBは、連続した文章です。











この吉本さんの大きな転換期を代表する著作、『マス・イメージ論』と『ハイ・イメージ論』の発行年月は、以下の通り。

『マス・イメージ論』初版発行 1984年7月
『ハイ・イメージ論 T』初版発行 1989年4月
『ハイ・イメージ論 U』初版発行 1990年4月
『ハイ・イメージ論 V』初版発行 1994年3月


ここでもAで「俺はそんなに、能力があるわけではないから」と語られている。これも吉本さんの謙遜ではなくて、正直な思いであろう。ただ、普通の知識世界の人々は、カッコ付けたり、中途半端に終始することが多いから、吉本さんがこういうふうに語ると意外に思ったり、謙遜してると捉えるかもしれない。外国のことは知らないが、「普通」が生真面目に〈十年やれば一人前〉を十分にやっていないだけである。


この吉本さんの大きな転換期は、吉本さんが捉えた1970年代の高度消費社会という新たな社会の胎動と表面化と対応しているように思われる。また、このことを吉本さんの一貫性として捉えるならば、戦争中の自分の反省から、〈社会総体のイメージの獲得〉が自分の〈自立〉にとって不可欠だという認識と実践の延長線上にある。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
549 二度目の知の解体処理 A 対幻想の現在〜疎外論の根源 対談 吉本隆明資料集179 猫々堂 2018.10.15

「対幻想の現在〜疎外論の根源」は、初めに三名の記名があるが、実質は吉本さんと森崎茂の対談。1990年615日対談。
1990年9画発行の『パラダイスへの道'90』所収

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大衆というイメージを基盤にして今の社会を見る 社会全体のイメージ 知識の課題
項目
1

@

吉本 つまり、
大衆っていうイメージを基盤にして、社会、今の社会を見るという見方をしてったらば、たいへん、イメージが、まるでちがうよというふうに見えてきて、たぶんそれからの強調の仕方、つまり点の打ち方っていうのは、そこに重点、何がゆえにどうして、社会全体のイメージとか、ヴィジョンていうようなものが、これだけ誤差を生じてきちゃっていたのかということにたいへん重点をおくっていう、置き方をやったとおもいます。それは今でも、きっとある程度続いているとおもいますけども。
 その続いている部分はきっと無駄なんであって、ある年月がたってみたら、そんなにそこのところで重点を強調することはなかったんだよと、いうことになりそうな気がするんですけども。しかし今のところ、今まだ、そこに重点があるんだよというと、いかにイメージが狂うか、違うか、違って見えるかという問題を展開するというところに、まだやりきれないところがあって、そこを追求するっていうところに、まだなっているとおもいます。
 この実感ていうのはたぶん、少し年月がたってみたら、やっぱり無駄だったなあということになりそうな気がする。つまり、ぼくは自分の経験でいえば、『言語にとって美とはなにか』というのをやったときに、目に見えない敵じゃなくて、目に見える敵っていうのがあって、それに対して過剰攻撃みたいなのが、今読むとたいへんあって、ああ、これは無駄だった、こんなのに、過剰な攻撃みたいなものをする必要は全然なかったんだよと思いました。だからそこに重点を置いた部分は、全く無駄だったなあていうふうに、いまぼくは、『言語にとって美とはなにか』を読むと、ずいぶん無駄なエネルギーを使ったというふうに思えますから。
 だから今の重点の打ち方と重点の変わり方っていうのは、やっぱりまたしばらく時間がたってみたら、そんなに力こぶを入れることはなかったんだよ、やっぱり過剰なエネルギーの浪費だよ、なんていうことになりそうですけど、
つまりそこのところで、理念もそうだし、場面もそうだし、大衆的基盤から現在がどう見えるかというところに、自分の重点を移していったようにおもいます。


A

吉本 多分、知識の課題っていうのはあるんですけど、その
知識の課題ていうのは、たいへん自分にとっては内向的な課題なんです。内向的な課題以外に、たぶん知識の課題はない。だから、知識としてみられる部分が、『マス・イメージ論』にも、それ以降の『ハイ・イメージ論』にもあるとすれば、それはたいへん孤独な仕事なんで、それはしかたがないことなんです。まあ、そのときの孤独というものに、意味をつけることもできないだろうし、そこに過剰な意味があるということもできないだろうし、ただこれが大衆的基盤からどう見えるだろうかというところに場面を移したということだけがとても問題になって、また理念としても問題になったと、ぼくはそう、おもいました。
 たぶん、七十年代か八十年代の初めかわかりませんけど、どこかに社会は転換していたのじゃないかなと思うんです。ぼくらが転換したのは、はるかに遅くて、その意味ではちょっとこれは気づいたのが遅いなという気がします。
ただ、心構えは単純なことで、いわゆる知識というのに意味があったり、知識人の政治運動みたいなものとか、前衛運動みたいなものに意味がまだあった、そういうときは、はるかに自分のなかでも、それから一般のなかでも過ぎてしまっています。ぼくは、まったく知識としてそういうことに、なんか、じぶんのやっていることが意味づけられるということは、もうじぶんなりに、捨てちゃっていますから、知識としてはたいへん意味のない、孤独な、意味のないことをしているのだろうなという気がしていますね。ただ、大衆的な観点は確かだろうなと思っていますけどね。そこらへん、ぼくは実際の具体的な大衆が転換した時点よりも、だいぶ遅かったんじゃないかなとおもっています。そこらへんが転換点じゃないでしょうか。
 (対談「対幻想の現在〜疎外論の根源」P162−P164『吉本隆明資料集179』猫々堂、 )

 ※@とAは、連続した文章です。
 @の出だしは、文脈をはっきりさせるために一段落の五行ほど前回のBの末尾と重複しています。














 (備 考)

@の後から振り返って「無駄」な部分は、どうしても避けられないのかというとそうでもないのかもしれない。しかし、人間の感じ考えや思考は、論理や知識においては対抗的、対比的に出てきやすい。批判的に乗り越えるということである。しかし、とてもむずかしいことであるが、そのように対抗的、対比的ではなく、その対立的な場をひとつ突き抜けたような場や言葉からの表現も可能なのかもしれない。そのためには、時代や現在に対する、突き抜けるような総合的な見識が不可避だろうと思われる。わたしはほんの部分読みしかしていないが、フーコーの『言葉と物』は、そんな書物ではないかと思っている。


〈左翼性〉について吉本さんが語った最後はいつ頃か、わからないけれど、以下にある。たぶんこれ以降も出会ったような気がする。下の講演は、吉本さんがすでに「二度目の知の解体処理」に入り込んでいる時期のものである。わたしは、これではなくこの前後のいつだったか、吉本さんの文章で〈左翼性〉について吉本さんが語っているのに出会って、もうその言葉や概念は捨て去ってもいいんじゃないかなと内心思った覚えがある。以下では〈究極の左翼性〉と言われているが、それは吉本さんの〈自立〉という考え方と密接なもので捨てがたかったのであろうか。この言葉や概念も後から振り返って「無駄」な部分になりそうな気がする。ということは、それは知や思想のこの世界における姿としてもっと普遍の言葉や概念が与えられなくてはならないということを意味している。


 だけど、この三者(引用者註.吉本さんの『「反核」異論』を批判する本を出した宮内豊、土井淑平、田川健三の三人)に一様に言えることは、東洋的自然観とか、ようするに天然自然といいますか、それがやっぱり非常に問題、非常に根底的にある自然観であるっていうことがわかります。ぼくは全然、明らかにぼくはそうじゃないですね。
 どうでもいいんですけど、そういうところで、「左翼である」とか「右翼である」とか「変節した」とか、そういうことを言ってもらっては困るわけですよ。そうじゃないんですよ。要するに、現代の課題の、最終的課題っていうものが、どこからどこへ移行しようとしているか、そういうことは、やっぱり、はっきり掴んでほしいわけです。掴んでもらいたいですよ。冗談じゃないですよ。冗談じゃないっていうのは、つまり、そんなチャチじゃないですよ、ぼくは。あのひとたちの願望するように、昔だったら「左翼からこんどは右翼になった」とか「世界資本主義倫理に移行した」とか、スターリン主義からの認識では(つまり日本でいえば戦前ですけど)、そういうことっていうのはあるわけですけども。そうせざるを得ない、そういうふうに必然的にいくっていう、そういう経路があるわけで(ぼくは、「転向論」ですけど、扱ったことがあります)。しかし、いまはそんなことないですよ。べつに、あのひとたちと縁を切ったと言ってもべつに右翼であるわけでもないし、ぼくのほうは逆に「左翼とはなにか」っていうことを、逆に提起したいわけです。
 「左翼とはなにか」っていうことは、いまぼくが申し上げましたことを、最低限、わかっている、踏まえているやつが「左翼なんだ」っていう。つまり、先端的な部分でとれば「党派的な段階っていうのは終わったな」、「一般大衆の課題が前面に出てくる段階にはいったな」っていうのがぼくの基本認識で、「それがわかんなかったら左翼じゃねえ」っていうふうに思っています。それから、いろんなことがあるんです、いろんな付随することがあるわけなんですね。「一般大衆よりも自分のほうが政治思想的に進んでいる」っていうふうに思っているひとは「左翼じゃねえ」ってことは条件に入ってきます。なぜ入ってくるかっていうと、やっぱり、一般大衆の課題っていうのが前面に出てきたっていうことが、先端なところでは言えるからだと思います。
だからもう、前衛がいて、ナントカがいて、■■を引っ張ってきて…、それはもう終わったし。
 それから党派もあります。ぼくは「党派にならない」って思っています。
そういうふうに思ってもらっては困るので。これは、ぼくらがいる場所で(それぞれ場所が違うわけですけども)、最小限、場所として一緒に主催者になりうるみたいなそういうところで、「その場所で何ができるか」っていうことはあるのかもしれないし、「何ができるか話してみようじゃないか」みたいなこともあるかもしれないけれども、そうしておいて、これを「ひとつの見解にまとめて…」みたいな、そういう段階的な、それは「ありえない」っていうのが、ぼくの当初からの認識であるわけです。
 (「究極の左翼性とは何か ─吉本批判への反批判 」講演日時:1987年9月13日 主催:中上健次/三上治/吉本隆明 場所:品川・寺田倉庫 T-33号館 4F 、弓立社『いま、吉本隆明25時』P384-P385 1988年 所収)

 ※弓立社の本『いま、吉本隆明25時』は、講演で話した内容を少し整序されているようです。したがって、吉本さんの講演での話そのものに近いと思われます、ほぼ日の『吉本隆明の183講演』のA103の講演テキストの方から引用しました。

 ★   ★の部分は、表現が少しあいまいなので対応箇所を弓立社『いま、吉本隆明25時』から以下に引用しておきます。

 前衛がいて、大衆を引っ張っていくっていう図式はもう終わったし、それから党派もおわりました。だから、僕らがここでイベントをやったって、党派にはならないと思ってます。


Aの吉本さんの捉える「知識の課題」や知識のとっても孤独なイメージは、旧来的な政治運動や思想のイメージの残骸を未だに引きずっている人々からは、とても奇妙に思えるかもしれない。しかし、現在はそんな渦中にあるんだよということだと思う。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
561 人間という概念の輪郭 「死の概念の変遷」 対談 『吉本隆明資料集118』 猫々堂 2012.9.10

 ※ 対談 山折哲雄・吉本隆明 、『思想としての死の準備』1993年3月10日刊所収

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日本人の自然観→母親という像 西洋のの自然観→父親という像
項目
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  日本人は自然のことばを聴いている(引用者註.本文の小見出し)

吉本 ぼくがことばのことを追求していて感じたことは、結局日本人っていうのは、と言ってもたぶんかなり遡ったところまで行かないといけないんでしょうけれども、遡って行くと、人間の周辺にある自然物について、植物であろうと動物であろうと虫であろうと川の音であろうと木の囁きであろうと、そういうものを全部人間のことばとして感じているんじゃないか。だから、日本のことばの観念からいくと、自然のそういうもの、動物はもちろん喋るし、植物も喋るし、川とか山とか岩とかというものもまた喋る。そして喋るかぎりは、それは人間とは言いませんけれども、カミと言いますか、何々のカミとか何々のミコトとか言うわけでしょうけれども、人間と同じなんだっていう観点に行き着くような気がするんですね。
 
ユダヤ・キリスト教的な観点からすると、なにか根本的な神みたいなものがあって、あらゆる自然物は全部神が造ったものなんだ。そして神が造ったものと神とどういう接点があり得るのかと言ったら、それは一種の神の子ども的仲介者がいて、その仲介者が神と神から造られたものである人間とか、自然物というものとの間を仲介している。それがいないかぎり神に対して人間は手をつけることはできない。そうするとやはり、仲介者というのはいるんだていう観念になって、どうも自然観が違うことになってしまう。
 そうするとキリスト教などの宗教の理想というのはなにかと言うと、もしかすると修練してそうなれるのなら、神と被造物との仲介者になれるかどうかっていうことが、いちばんの問題になってくる。宗教的境地のいちばんの達成点という風になってくると思うんです。すると神の子と自分の心臓がいつでも入れ替われるっていうところまで行けたら、やはりそれが理想だということになりそうに思いますし、日本みたいな自然観をもつならば、自然物が無生物であれ動物であれ、あるいは風の音であれ、そういうのがみな自分のことばとして、あるいは人間のことばとして全部ちゃんと聞けるようになったら、それがいちばんの到達点なんだ、ということになるような気がします。
 
つまり人間という概念の輪郭と言いますか、枠組みといいますか、その取り方がまるで違うっていう感じがするんです。だから日本の場合、答申のなかの少数意見と、医学者の脳死を人間の生の終わりと認めるっていう観点とが合意、あるいは和解するっていう可能性は、まずないんじゃないかなっていう気がするんです。
 (「死の概念の変遷」 P20−P22 『吉本隆明資料集118』所収 猫々堂 2012年9月10日)
 対談 山折哲雄・吉本隆明 『思想としての死の準備』1993年3月10日刊所収


A

  日本と西欧は段階が異なる(引用者註.本文の小見出し)

吉本 そうですね。
 ぼくは、自然の山川の音でも海の響きでも木の囁きでも、全部それは人間のようにことばを喋っているんだという感じ方をズーッと延長していっちゃうと、なんとなく、
母親という像がそこに出てきちゃうと思います。西洋的な神の概念みたいに、被造物があって、それは神が造られたもので、神は少なくとも被造物の外側から被造物を見ている。そこで一種の神の子どもみたいなのが、仲介の役割を果たす必要があるというような、そういう観点をズーッと延長してしまうと、なんとなく父親という像が、どうしても出てきそうな気がするんですね。
 
そうすると日本人の自然観を遡ってしまって、自然もまた人間のように口をきくとか、あるいは自然が全部ひとりひとりの神々で、というような観点の果てに、どうも母親の像というのが出てきてしまうというのと、西洋のそれとはどこが違ってくるのかというと、本当言うとまるで違うじゃないのということになる。つまりそれは、両方とも段階の違いで、日本の場合にはそういう母親像が出てくる段階のところであって、それが何の段階だ、というのはなかなか言いにくいのですけれど、未開というか原始の段階なのか、その辺の段階で留まってきた要素がとても多いということです。
 西欧も、その同じ場面、同じ段階というのはちゃんと通ったのだけれども、もう少し後の方の段階をたくさんもちながら、さまざまな習俗や信仰などを成り立たせてきたという風にみれば、全然違うんだと思えたことが、また関連がつくような気もするんですね。だから、生の問題もそうかもしれませんが、死の問題ということに同じように繋げていっても、同じようにはいかないだろうという感じ方になってしまいますね。

 (「同上」 P34−P35 )










 (備 考)

現在までの知見では、人類のすべてがアフリカ起源であるということに少し揺らぎがあるとしても、人類はアフリカ起源となっている。とすれば、同じ人間だったのが、何十万年という時間の中で、肌の色などの身体的な特徴や言葉や風俗習慣やものの感じ考え方が現在のように地域ごとの差異が出てきたということは当たり前のことかもしれないが、ふしぎにも思える。よく知らないがこのことは、動植物についても言えることなのかもしれない。

この大きな地域ごとの差異を大差異とすれば、それぞれの大きな地域内の小地域ごとにもそれぞれ小差異とも言うべき差異がある。このことは、大差異と比べれば短い時間のスケールではあるが、大差異が生み出されてきた機構と同一の機構によるものだろう。日本語として同一とみなされても、小地域間では方言と呼ばれる差異がある。柳田国男は、互いにまるで関係ないかのように違って見える方言の言葉を共通性と差異として、またそれぞれの段階的な変貌として追究していた。

わたしが若い頃経験したことがあるが、九州人のわたしと青森のおじさんが横浜辺りで偶然に出会った、わたしには相手のおじさんの言葉がまるで外国語であるかのようにほとんどわからなかった。驚いた覚えがある。もちろん、相手のおじさんにとっても似たようなものだったのかもしれない。テレビなどのマスコミが、標準語の普及を促したのはまちがいない。それ以前であれば、行商人や語り物を語る人々、あるいは主に近世に列島を巡礼して回った六部と呼ばれる人々などの一部の人々を除けば自分の住む村の山向こうまで出かけて行くということはめったになかったはずである。もし出かけることがあった場合には、わたしの感じたような驚きは普通のことであったのかもしれない。また、このような小差異は、言葉に限らず食べものから気風まであり得る。今でも「大阪人」「関東人」などという気風の違いに言及されることがある。


ここで語られている、日本人の自然観→母親という像、西洋人の自然観→父親という像、という収束のイメージは、この文章は一度読んでいるけれど、初めて聞くような新鮮な感覚がある。それは、それぞれの地域の主流の意識の段階の根っこにあるイメージの場所やその有り様を示唆しているように思う。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
590 日本語の正体がわからない 「古い日本語のむずかしさ」 講演 吉本隆明の183講演 ほぼ日刊イトイ新聞

A081 「古い日本語のむずかしさ」
講演日:1984年12月1日 主催:千駄ヶ谷日本語教育研究所

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古い日本語のむずかしさというのはどこから由来するか 古い日本語というものが、たくさんの部族語の混合あるいは融和の過程でできてきた言葉だということに由来する 日本語が古い時代に、中国語の漢字を借りてきて、漢字を音として使ったということ 地域の差
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1 なぜ古い日本語はむずかしいか(引用者註.これは本文の小見出しです。以下のも同じ。)

 ただいまご紹介にあずかりました吉本です。
 今日は「古い日本語のむずかしさ」という副題がついていたと思いますが、僕自身が非常にむずかしいな、わからないなと感じている古い言葉のあり方があって、その問題をお話ししてみたいと思います。与太話がずいぶん入るかと思いますが、気分的に言いますと、僕自身の中でたいへん引っかかっていることがあって、そのむずかしさというのを、ただむずかしいなと考えるのではなくて、もう少し具体的に、いくつかのタイプに分けたらどうなるかというところでお話ししてみたいと思います。
 
古い日本語のむずかしさというのはどこから由来するかというと、いくつかすぐに原因を挙げることができます。ひとつは古い日本語というものが、これは当てずっぽうですが、たくさんの部族語の混合あるいは融和の過程でできてきた言葉だということに由来すると思います。それは北方の大陸から渡ってきた人とか、南方の大陸から渡ってきた人、東南アジアの島のほうから渡ってきた人、それから大陸と日本の列島が地続きであったころからすでに原住していた人、そういう人たちがしゃべっていた言葉が、とにかくある混合過程、あるいは融合過程を経てできあがった。つまり、考えられているほど単一ではなくて、たくさんのさまざまな小さな部族語の混合からできているだろうということが、古い日本語のむずかしさの原因のひとつになっていると思います。
 
もうひとつそれと同じくらい大きな要素として誰にでも挙げられるのは、日本語が古い時代に、中国語の漢字を借りてきて、漢字を音として使ったということです。全部音として使っているかというとそうでもなくて、漢字を意味として使っていることもあります。しかし、大部分は漢字を音として使っています。
 そうするとどういうことになるかというと、すぐわかるように、たとえば「アマ」という言葉があるとします。それはどういう字で当てるかというと、「天」という中国語の言葉で当てる。そうすると、「アマ」というのは本当に天という意味であるかどうかは疑問であって、案外、海に関するものということであるかもしれません。
しかし、「アマ」という音を「天」という字で当てて使っているうちに、われわれの中で独りでに「アマ」というと天のことだ、空の上のことだという観念ができてしまって、そのために日本語というのは古い時代に混乱を呈して、原形的に持っていた日本語の性格というのは相当変わっていったということがありうるわけです。
 だから文字がないということで、漢字を表音として使って、それでもって表現しようとした。たとえば『古事記』でも『万葉集』でも『日本書紀』でもそうですが、そういうふうに使っているうちに独りでに、何でもない「アマ」、つまり海のことを言っているかもしれないのに、それが天のことになってしまう、たいへん厳かなことになってしまうというかたちで、日本人は言葉を使い、字を見ているうちに、だんだん概念が変わってきて、その変化の仕方が日本語をずいぶん変形させていったと考えられます。
 まだたくさんのことが考えられますが、誰でも気がつく古い日本語のむずかしさの原因を挙げるとすれば、そのふたつのことが挙げられると思います。ですから日本語というのはどういう系統に属しているのか、どういう系統の言葉が根幹になっているのかについて、いまだ専門家の間で定説、ちゃんとしたはっきりした考えをつくることができないほど、たいへん面倒くさいことになっています。その面倒くさくなっていることの原因は、いま申し上げたふたつのことが非常に大きな要因ではないかと思います。


A

6「わがみ」と「わがめ」の違い

 もうひとつ分類できることは文字どおり地域差です。
地域の差によって、あるいは地域の方言のなまりによって、意味がまるで違ってしまったり、意味が取りにくくなったりして、そのためにむずかしさが出てくるという例を挙げてみます。たとえば『古事記』の中に、「タタミコモ ヘグリノヤマノ」という言い方があります。山がたくさん重畳している、そういう景物を指す場合、「タタミコモ」という枕詞を使うということがありますが、『古事記』の「ヘグリノヤマ」というのは大和盆地の山ですから、これは当時で言えば中央の制度に近い地域の言い方です。
 『万葉集』に、同じ「タタミコモ」ですが、「タタミケメ」と言っているものがあります。「たたみけめ むらじがいその はなりその」という歌ですが、「むらじがいその」というのは現在の伊豆地方とか静岡県の海岸とか、当時でいう東国です。どちらが方言なのかわかりませんが、その当時、中央は向こうにあったんだから、「タタミケメ」と言っているほうが方言だと思います。「タタミコモ」という言葉が「タタミケメ」と発音されているということで、同じことなんですが、たいへんわかりにくいということがあります。
 もっと極端にわかりにくい例をもうひとつ挙げてみましょうか。これも『万葉集』ですが、「わろたびは たびとおめほど いひにして こめちやすらむわがみかなしも」という歌があります。「わろたびは」というのは「われの」のなまりだと思います。「おめほど」は「おもへど」のなまりだと思います。「いひ」というのは「家」だと思います。「いえ」と言えなくて、「いひ」になってしまう。
 それから本当は「こもちやすらむ」で、子どもを持ってやせ細っているだろうという意味でしょうが、「こめち」という発音になってしまう。「わがみ」は「わがめ」だと思います。「わがめかなしも」が、なまりでもって「わがみかなしも」になる。「わがみかなしも」というと、自分の身が悲しいと取れるわけです。これではまるで意味が取れなくなってしまいます。そうではなくて、これは「わがめかなしも」、つまり妻とか自分の好きな女性が悲しがっているだろうという意味だと思います。
 だからこういう表記の仕方でなくて、万葉仮名で「和呂多比波 多比等於米保等 已比尓志弖 古米知夜須良牟 和加美可奈志母」と書かれていたとしたらば、これの正しい読み方と解釈の仕方を見つけ出すには大変だったろうなと思います。昔からいろんな学者の人が苦心してやっと、こういうことだろうなということになったんだと思います。
 
それはいわば方言的、地域的な違いの差になると思います。日本というのは幅は狭いけれども細長い列島ですから、その細長さだけ取ってくると、かなり大きな地域にわたる、やせた大国です。だから南のほうの方言と北のほうの方言との差というのは、いってみれば琉球語とアイヌ語の差ぐらい、まるで違うということがあるわけです。そういう意味合いで言語・方言的に言うと、地域差がたいへん著しくて、南のほうの人が北の最果ての人の言葉を理解するというのはほとんど不可能であるというくらいむずかしいことになっています。そのことが古い日本語をたいへんむずかしくしていることの非常に大きな要因のひとつではないかと思われます。
 さらに柳田国男が地域差の問題でひとつ、「イヤ」という言葉、『古事記』で言うと「礼」という言葉で、敬うという意味ですが、その地域的なバリエーションを挙げています。
(註.1)たとえば熊野あるいは紀州の一部では、権力ある人のことを「オヤ」といっている。それはもともとは「イヤ」と同じ言葉だ。九州のほうでは、尊敬される年長者を「イヤ」と呼んでいる。それからもちろん「イヤ」というのは敬うとか礼儀正しくするという意味合いで使われている。また挨拶の言葉で、「いやあ、こんにちは」と言う場合、「いやあ」というのは呼びかけではなくて、「イヤ」、お前を敬うよという言葉から来ているという解釈を柳田国男はしています。あるいは「恭しい」も本を正せば「イヤ」という言葉から来ていると書いています。


B

8 わかったこととわからないこと

 このように考えていきますと、日本のいちばん古い文字原点(ママ 原典か)というのは『古事記』であったり、『日本書紀』であったり、『万葉集』であったりするわけですが、その中でみなさんがどう考えられようと何を言っているか全然わからないということの中で、国文学者が近世から現代までさまざま合理的な解釈の仕方をやってきて、定説になったもの、また定説にはならないけれどもひとつの説として存在するものはそれとして受け入れるとして、それでもなおわからない、まったく不明であるとか、とても信ずることができない解釈だという日本語に、ことに古い古典の中でしばしばぶつかります。
 そのぶつかったところで出てくる言葉というのは、いま申し上げたとおり、漢字を借用したことから来るとか、地方の方言から来ているとか、時間的な差がその中に圧縮されている。それから元来日本語というのは正体がわからないほど、さまざまな部族語が寄り集まって、それらがある長い年月の間に混和、混入してできてしまった。まるで周辺地域と語源的に系統を立てることができないほどだというふうになってしまっていることの中に、たくさんの部族語の入り交じってできたものなんだという要因があると思います。
 だいたいこの手の古い日本語についての理解というのはどこから攻めていっていいかよくわからないんですが、
近世以降の国文学者はどうやってきたかというと、経験的にたくさんの古典を読み、たくさんの方言を聞き、当てずっぽうでそれらを取りさばいてきた。現在でもほとんど変わらないんですが、本を正せば全部当てずっぽうだというところから来ているとも言えます。そういうふうにしながら、わかったもの、わからないものというところに到達していて、まだとうていわからない言葉、わからない問題がたくさん出てきます。
 そしてそのわからなさと日本語の系統のわからなさ、日本語というのはどこから来たのか、どういうふうにできたのかがいまだにわからないということとは関係があることであって、それがどういうふうにできて、どういう言葉なんだというところへ手探りでも何でもどんどんさかのぼっていかなくてはいけないみたいなことがあります。
 そういう場合、指南力というか、いわば盲目の手探り、経験的な手探りみたいなものが非常に多いんですが、正しい方向づけだということを何が保証するのかというのは少しも決まったかたちが存在しません。ただたくさんの経験的な読み分けと聞き分けと調査を積み重ねて、そこに迫っていって、日本語とはいったいどういう言葉なんだということを突き詰めていくより致し方がないというのが現状だと思われます。
 だから非常に興味深いことでもありますが、つかまえようがなくて、どこからどう入っていっていいのかわからないということになりますし、僕らみたいな素人がこういうことに首を突っ込むとしばしば独断、ドグマを展開するということにもなります。ドグマを展開しては、また反省してみたりということの繰り返しで、こういうことは非常に興味深いことなんですが、興味深いだけにドグマに陥りやすいという問題をたくさん含んでいるわけです。
 
しかし、古い日本語はこういう系統からこういうふうにしてできたんだということがまず歴然と論理づけられるところまではどうしたって行くより致し方がないので、そういうところにすぐに行けそうには到底思えませんが、いずれにせよ徐々に徐々に、少しずつ少しずつ、間違えたり引き返したりしながら攻め上って、日本語の正体、本性というものにだんだん近づいていくということになるのではないかと思われます。こういうことはいくらでもおもしろいことはあるのですが、確かなところは少ないので、今日の僕がお話をしたことも話半分に、こういうこともあるんだねというくらいに聞いてくださったほうがよろしいんじゃないかと思います。一応これで終わらせていただきます。(拍手)
 (『A081 古い日本語のむずかしさ』(吉本隆明)の「講演のテキスト」より。)












 (備 考)

晩年近くだったか、吉本さんが(日本人というのは正体が解らない)と述べられていた。その時は、その理由は挙げてなく、なんでかなと思った程度だった。しかし、たまたまこの「講演のテキスト」を読んでいて、この話と対応しているのではないかと思った。すなわち、「たくさんの部族語の混合あるいは融和の過程」という日本語の正体のわからなさは、日本人の正体の分からなさと同じではないかということである。吉本さんの(日本人というのは正体が解らない)という言葉は、この古い日本語の解明の過程から出てきたのではないかと思う。ちょっとすっきりした。このために、この項目は立てた。



@に関して、(NHKテレビ番組「鶴瓶の家族に乾杯」2019年4月8日、「いだてんSP!阿部サダヲと徳島県小松島市ぶっつけ本番旅」)
の録画したのを観ていて、この吉本さんの講演の古い日本語のことを連想した。現地で出会った女性が自分の母親のことを「チャッピー」、弟のことを「ポピオ」と呼んでいて、どうしてそう呼ぶようになったかの説明がおもしろかった。その説明を忘れてしまったので、ネット検索したら、放送内容(あらすじ)をまとめている人のブログがヒットした。以下のような話である。

集合住宅かと見紛うほど大きなこの家は、10年程前に既に住む自宅があったお父さんが別に建てた家だそうですが、誰も住んでいなかったので徳島市に出ていた娘のI (引用者がイニシャルに変えた)さんが戻って住むことにしたそうです。その理由もさることながら、家の中がどうなっているのか気になった鶴瓶さん、近くに住む両親を呼んでもらい、家の中を見せてもらうことに。すると携帯を取り出して母親に電話をするIさん、『あぁチャッピー、いま鶴瓶さんと話しているんだけど・・・』と!?。その会話を隣で聴いていた鶴瓶さん、驚いて何で”チャッピー”なのかと尋ねると、大きくなってからお母さんを”ママちゃん”と呼ぶようになり、そのうち”ママちゃんピー”になって、今では”チャッピー”と呼ぶようになったとか?(驚)。すると、弟は”ポピオ”なんだそうです。名前がヨシヒロなので、ポピピロ、そしてポピオになったと(汗)。そうこうするうちに、近所に住むご両親と弟さん夫婦が集まってきて、鶴瓶さんと阿部さんは家に上がらせてもらい、ご一家にいろいろ話を聞きました。

ここで、母親の呼び方の変位、「ママちゃん」→「ママちゃんピー」→「チャッピー」と弟の呼び方の変位、「ヨシヒロ」→「ポピピロ」→「ポピオ」、これらの変位の過程をその家族以外の者がたどるのは難しい。こうしたことは、家族の中や親しい友達関係などにおいてよくありそうなことに思える。吉本さんのこの「講演のテキスト」を読んだ頃だったので、古い日本語の変位の過程のように見えてしまった。



(註.1)
吉本さんが柳田国男に言及している箇所、柳田の文章が書いてないのでわからないが、この検索の時代故か見つけることができた。以下の部分だと思われる。

麦つき唄から


 麦つき唄の中にはさらにこんな男唄もあった。


米のオヤクで
何故このように
麦はバカやら
カラばかり


 麦と米とは親戚なのに、なぜ麦にはこんなにも殻が多いのであろう、というのであるが、このオヤクの語に、私は重要な意味を考え始めたのであった。オヤクとは漢字の親子という字が使用せられる以前のもので、最初オヤとは、生みのオヤという今日の「親」ではなく、一つの集団、例えば職人らのいうオヤ方とか、博徒らの使うオヤ分のように、古くからあった親族・一門のカシラという広義のものではなかったかと思うのである。生みの親などという肉親の関係は、それより後になって使用されはじめたのではあるまいか。
 思えば故郷を離れて七十一年の間、私はこうしたことに心を寄せて来たのであった。いま機会あって故郷の人々に、私の歩いて来た足跡をここに少しずつ報告しているわけである。
 さて、各地の方言を調べているうち、紀州の一部では、このオヤが山林の管理人や巡査、つまり一種の権力をもつ人々のことを意味し、九州豊後では、尊敬すべき年長者のことをイヤさんと呼ぶことなども判って来た。古語で礼をイヤと訓むのであるが、ヤアといえば今日でこそ軽々しい応答語になっているが、じつは礼を尽すべき長上に対する返答の言葉で、恭々しいのウヤなどと同じくこうしたところに源を発しているように思われる。イヤも、オヤクのオヤと同じ系列のものではあるまいか。ちなみにオヤクとは、後世のオヤコ(親子)と意識して区別するための、この地方での発音であろうと思われる。
 現に東北地方では、はっきりオヤコと発音している。
 なぜこうした問題を語り始めたかといえば、じつはこのオヤとかイヤという問題が、日本人の民間信仰、ひいては民族の起源にまで溯る重要なことなのである。つまりイヤという地名を全国的に調べてゆくと、先祖の霊のある所をイヤ山イヤ谷と呼ぶ事例が多いのであって、亡霊を山に埋葬した風習、そして後には霊を祭る場所は別に人家の近くに置くという両墓制度の習慣にもかかわって来るのである。古くは先祖の霊は山へゆくという信仰があったらしいのである。米作民族の日本人が米を携えて南から北へ移って来たとすれば、一時あるいは珊瑚礁のような、ある時は宮古島のような平地の場所にも住んだとも考えられ、さすれば山のないことが些かこの仮説の障害にはなる。
 しかし沖縄にもオヤという語があって、一群のカシラを指すものとなっている。一時中国化した琉球でも離島では一種の英雄をオオオヤといっており、沖縄の政治制度では判任官が親子、奏任官が親雲上と職名に書くなど、オヤの字の使用されている例が非常に多い。子という語にしても、今日われわれの使用する親子の子ではなく、個人、土地の人民の意味なのである。いまや、一族というものが離ればなれに散じてしまったため、なかなかこのオヤクの問題を結論づけるのは困難である。
 (『故郷七十年』柳田国男 青空文庫)






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617 日本人の一番の悪徳 第八章 『花田清輝との論争』 『吉本隆明が最後に遺した三十万字 上巻 「吉本隆明、自著を語る」』 ロッキング・オン 2012.12.24

第三章 『花田清輝との論争』は、「SIGHT」第二十九号 2006年10月号に掲載。
インタビュアー 渋谷陽一

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課題がなかなか終わりにならないっていう思い ものすごく遠慮深い人種 そこが治らなきゃ何をやっても、何を言ってもダメだよって思っている
項目
1

@

― またこれ以降も吉本さんはたくさんの論争をされるようになって、悪い見合いだと非常に好戦的な評論家だと言われるようになってしまいますよね(笑)。ただ、吉本さんの資質としては、そういった好戦的な方ではないと思うんです。なぜこの論争を経てから、こうしたスタイルなられたのかというのを、お訊きしたいんですが。

吉本 もともと自分では引っ込み思案で、割合受け身の人間だと思っているものですから、そういうことは滅多にしたくないっていうのはありますね。もうひとつは老練になって、少し円熟したっていうかね(笑)。そういう面もあるのかなって思います。だけどどうしても終わりにならないんですよね。
戦争責任でもいいし、花田清輝との論争でもいいけど、そういうことの延長線からどんどん広がっていって、これは自分がやらなきゃならない課題がなかなか終わりにならないっていう思いがあるんですね。


A

吉本 あと僕の論争が好戦的だっていうことに関してひとつだけ言うとすれば、戦争中まで僕は日本の一般民衆っていうのは
ものすごく遠慮深い人種なんだなっていうふうに思ってきましたけど、戦争が終わった時に、少なくとも僕はそういう意味合いの遠慮っていうのは日本人の一番の悪徳であって、そこが治らなきゃ何をやっても、何を言ってもダメだよって思っているぐらいで。こういう遠慮が僕らは奇妙な世代なもんで、ないんですよ。どうしてないかっていったら、支配とか指導っていうことは意味がないんだ、そんなものは当てにすることはできないんだっていうことを戦中と戦後の変わり目で徹底的に体験したからなんです。最後はやっぱり自分で生きていくんであって、ましてや政府高官がそういう世話を責任持ってやってくれるなんてことはあり得ないんだよと。そういうことを考えた年代だから、変な意味の遠慮というのは無駄なことだっていう、そういうことが影響してるのかもしれませんね。
 (『吉本隆明が最後に遺した三十万字 上巻 「吉本隆明、自著を語る」』P153−P154ロツキング・オン 2012年12月)
 ※@とAは、ひとつながりの文章です。










 (備 考)

フロイスの『日本史』には、民衆が好奇心からメガネをかけた宣教師の家に群がってきたり、宣教師の見送りにはるばる遠くまで何qとついてきたりという記述があった。また、ロシアの軍艦ディアナ号艦長ゴロウニンが幕末に国後島で松前藩の役人に捕らえられ、函館に護送されていく途中、民衆が好奇心から集まって来たり食べ物などでもてなしたりしたということを、渡辺京二『黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志』で知った。その後読んだゴロウニンの『日本俘虜実記』にもそれと照応する描写があった。これらは、一般には民衆の過剰なほどの人の良さと受け取られるものだろう。しかし、このことは民衆の一面にしか過ぎない。


吉本さんは、その思想の初期から大衆に対する親和と異和を語ってきた。そして、戦争−敗戦を潜(くぐ)ってきた体験から「支配とか指導」は無意味という。しかし、大衆は、上からの強制がなくてもすすんで「支配とか指導」を受け入れるところがある。現在の神社に地域の神だけじゃなく天照大神や須佐之男命などの中央から来た神々が祀られているのもその表れの一つである。このような大衆の負の心性は、おそらく遙か根深いもので、この負の精神の遺伝子が改まっていかないかぎり、わが大衆の未来は変わり映えしないということだろう。

大衆は現在の今までになくでたらめな政権を蹴ったくり落とす力を与えられているのに、― 受け皿としての野党がしっかりした受け皿になり得てないということが大きいとしても ― わが大衆がそれをしないということもそのことと関わっているはずである。そのことは政権支持率の「世論調査」の結果が示してもいる。どんな政党であろうと、政権についてろくな事をしなければ蹴り落とすという姿勢は大事だとわたしは思っている。わが大衆は、自分たちこそがこの社会の主人公だという意識が不十分なのだ。





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652 人間にとって大事なことは古代までにほとんど考え尽くされている 「はじめての吉本隆明」 糸井重里×ハルノ宵子 対談

『吉本隆明全集』(晶文社) 第U期刊行開始記念 トークイベント  2017年4月15日上野寛永寺・輪王殿
 「はじめての吉本隆明」 糸井重里×ハルノ宵子
 これは、「週刊 読書人ウェブ」に掲載されたが、現在はリンクが切れている。
 https://dokushojin.com/article.html?i=1452 新聞掲載日:2017年6月2日(第3192号)

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仏教の本質的な概念 古代の思想の完結性
項目
1

@

糸井
 どっちでもいいということにおさまるし、極端にどっちかになっちゃうのがつまんない。手で書くというのは、お花を活けるとか金魚鉢の水を替えるとか、自分で料理を作るとかそういうことに近いような、これからはそっちの方がおすすめのような気がします。

これも吉本さんに教わったんですけど、「四世紀までに人間は大体のいいことは考え終わったんですよ」と、人類にとって重要な大発見はベスト一〇〇をつけても上位は四世紀までのところで占められていて、あとはバリエーションだと。

 ( 「はじめての吉本隆明」 糸井重里×ハルノ宵子)                                        


A

 つまり、仏教の本質概念っていうのは、説明するのは大変むずかしいですし、簡単に言ってしまうことができないのですけど、ようするに、人間というのは、本来的にいえば、精神を積み重ねているところの人間、あるいは、精神を繰り返しているところの人間とか、苦悩を繰り返したり、喜びを繰り返したり、あるいは、小さな善を積み重ねたり、小さな悪を知らず知らずにやりながら生きている、そういう人間っていうのは、仮の姿にしかすぎないんだっていうこと、だから、真の人間っていうのは何なのか、それは〈如来〉だっていうこと、(如来)は何かっていうと、それは〈解脱〉だ、〈解脱〉とは何かっていったら、それは〈空〉だっていうこと、(空無)だっていうこと、つまり、何もないものなんだ、〈空〉だっていうことなんです。
 だから、形もなければ、色もないものだっていうことです。つまり、形や色として設定することもできない、あるいは、小さな善として到達できるものとして設定できない、または、大きな善として到達できるものとしても設定できない。ようするに、それは〈空〉である、〈無〉である、あるいは〈空無〉であるっていう概念が仏教の本質的な概念です。
 〈人間〉の概念であり、また〈悟り〉っていう概念であり、また〈仏〉っていう概念であり、また(如来)っていう概念もそうなわけです。つまり、このことは、古代の思想っていうもの全部に通用する、全部に共通なことがあるわけですけど。古代の思想っていうものは、つまり、完結性っていうものを持っているわけです。つまり、一種の宇宙論であるわけです。だから、人間っていうものも、それから、宇宙の成り立ちっていうものも、全部ちょっとずつ解釈され尽されているわけです。尽されているっていうことは、その尽くされ方がどうかっていうことじゃなくて、特徴を全部、解釈尽くされているのっていうのが、古代思想っていうものの大きな特徴なわけです。
 それは、どこの古代思想でも同じです。つまり、仏教とか、キリスト教とか、オリエント的な古代思想でもそうですけど、みんなそうですけど、つまり、古代思想っていうのは一種の完結された体系っていうものをもっているわけです。あるいは、理解の体系っていうものをもっているわけです。だから、人間っていうものについて理解し尽されてしまっているわけです。
 だから、古代思想っていうものを、いわば宗教の教義として、近代以降の人間っていう概念が成立している世界に、古代思想っていうものを宗教の概念として取り入れていこうっていう場合に、何が問題なのかっていいますと、いちばん問題になるのは、現に存在しているところのものが実体だろっていうような、近代以降の人間の概念っていうものは、そこではまったくなされていないっていうことなんです。
 だから、人間が生きていて、それで死んでしまえば、灰になっちゃうとか、滅びちゃうとか、形がなくなっちゃうとか、霊魂だけになっちゃうとか、そんなことは全然、そういう理解の仕方をとらないわけです。
 仏教なんかは、徹頭徹尾、そういう姿っていうのは、どういうかたちをとったって、全部それは仮の姿であって、それらを貫徹している〈空無〉っていうものが、それこそが人間の始めであり、そして終わりであるっていう、そういう考え方が仏教の本質であるわけで、親鸞の教義自体も、いちばん最後に〈悟り〉として描いているものは、そこの、つまり、仏教の本質論になってしまうわけです。
 (吉本隆明の183講演 A054「親鸞の教理について」、その「講演のテキスト」より。小見出しは、4 〈信〉と〈悟り〉の問題−仏教の本質論 講演日時:1980年5月24日)













 (備 考)

この項目のことは、ここに引用したもの以外の対談かインタビュー物で出会った記憶があるが、どこだったか思い出せない。そこでは、人間が思いつくことは古代に考え尽くされているというふうに語られていて、ほんとうにそうなのかなと疑問に思った覚えがある。

ここでの吉本さんの言葉は、おそらくわたしたちの〈現在〉から眺めた場合のことだろうと思う。もし、わたしたちの超未来から、さらに超未来をいくつもたどった果てから、わたしたちの〈現在〉や古代を眺めたらどうだろうかという疑問がある。これは逆に言えば、人間以前の生命体から生き物に渡る途方もない時間の方から眺めたら、人間の初源の段階の有り様もずいぶん異質に見えるのではないかという問題と対応する。

しかし、植物が芽ばえ育ち花開いて枯れていくように、人間の本性が駆動する個々の人間の生涯や人類としての生涯は、植物と同様にひとつながりではないかという思いもある。つまり、ここでの吉本さんのイメージは、超未来までを貫いているのかもしれないという思いもある。もちろん、超未来のことなんてわかりようもないということは一方にある。それでも、わたしたちはいろいろと思い巡らせてしまう。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
654 内コミュニケーション @ T 言葉以前のこと 『詩人・評論家・作家のための言語論』 メタローグ 1999.3.21

※ 創作学校での講演が本書の元になっている。
『吉本隆明の183講演』(ほぼ日刊イトイ新聞 フリーアーカイブ)に、
「A124(T)言葉以前のこと――内的コミュニケーションをめぐって」が収められている。
 講演日時:1993年10月
 主催:メタローグ社創作学校
 収載書誌:メタローグ『詩人・評論家・作家のための言語論』(1999年)

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言葉を介さずに、思いや考えが伝わるわかり方 その能力がいつ、どこで生まれてくるのか 受胎後五〜六ヵ月で、胎児と母親の内コミュニケーションはすでに成立している
項目
1

@

 最初に、「内コミュニケーション」について話したいとおもいます。人間には言葉を発しないでも、自分の考えが相手に伝わってしまうことがあります。この言葉を介さずに、思いや考えが伝わるわかり方を内コミュニケーションと呼んでいますが、どうしてそんなことができるのかという話です。
 内コミュニケーションはみなさんもよく体験しているはずです。顔の表情を読んだら相手がいいたいことや、かんがえていることがわかったというこの種のわかり方はたしかにあります。超能力者になるともっと鋭くて、「この人はきょう、どういうことがあった、どういう精神状態だ」とわかってしまう。


A

 内コミュニケーションは、視覚的なイメージで思い浮かぶこともあれば、何を意味しているのかがすぐにわかってしまうこともあります。このわかり方は、だれにでも大なり小なりあって、その能力がいつ、どこで生まれてくるのかをまず話してみます。
 どこで身につけるのかとかんがえてみると、この能力はまず母親のお腹のなかで獲得します。人間の胎児は母親のお腹のなかで、受胎から三十六日目前後に「上陸する」とされています。つまり、水棲動物の段階から両生類の段階へと進むわけです。
 この進化を確定したのは日本の発生学者、三木成夫(一九二五〜八七)さんです。三木さんの『胎児の世界』(中公新書)によれば、人間の胎児は三十六日目前後に魚類みたいな水棲動物から爬虫類のような両生動物へと変化します。つまり「上陸する」わけですが、そのとき母親はつわりになったり、精神的にすこしおかしくなったりします。たいへんな激動を体験しているわけです。三木さんによれば、水棲動物が陸へあがるときに鰓呼吸から肺呼吸に変わるわけですが、いかに困難な段階かということはそれでよくわかるということです。
 受胎から三ヶ月ほどたつと、胎児は夢をみはじめます。その夢は、いわゆるレム睡眠の状態でみます。次の段階の五ヵ月目ないし六ヵ月目で、胎児は感覚能力、たとえば触覚、味覚がそなわるとされています。六ヵ月目以降になると、耳が聞こえるようになり、母親の心臓音、母親や父親などいつもまわりにいる人の声を聴き分けます。つまり、耳や鼻や舌など、人間のもつべき感覚器官が全部そろうわけです。受胎後七〜八ヵ月になると、人間がもつ意識が芽生えるとされています。五〜六ヵ月目以降の胎児はだいたいにおいて、父親と母親の声を聴き分け、母親がどんなショックを受けたかもわかっています。つまり母親の精神状態、こころの変化、感覚の変化は、胎児に伝わっているわけです。
 いまは医療機器が発達していますから、お腹のなかにいる胎児の様子を超音波映像でみることができます。母親に何かショックを与えると、胎児がすくんですぐに身体を縮めるのがはっきり眼にみえるようになっています。
 ですから、五〜六ヵ月目以降の胎児は感覚的なことがほとんどわかっています。少なくとも母親の精神状態、母親の声、母親とよく話している父親の声はだいたいわかるようになっています。つまり受胎後五〜六ヵ月で、胎児と母親の内コミュニケーションはすでに成立していることになります。
 (『詩人・評論家・作家のための言語論』 吉本 隆明 P7−P10 メタローグ 1999年3月)









 (備 考)

講演のテーマにも書かれているが、「内(ない)コミュニケーション」は「内的コミュニケーション」とも言いかえられている。

人間には、言葉によるやりとり以前にも「内(ない)コミュニケーション」とも言うべきやりとりをしていること、それが長じての察知する力の源泉になっていることが語られている。この「長じての察知する力の源泉」ということは、以下のことと関わっているように思われる。


 ある時代の言語は、どんな言語でも発生のはじめからつみかさねられたものだ。これが言語を保守的にしている要素だといっていい。こういうつみかさねは、ある時代の人間の意識が、意識発生のときからつみかさねられた強度をもつことに対応している。
 ・・・(中略)・・・ある時代の人間は、意識発生いらいその時代までにつみかさねられた意識水準を、生まれたときに約束されている。
  (『定本 言語にとって美とはなにかT』P46 吉本隆明 角川選書)







項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
655 内コミュニケーション A U 言葉の起源を考える 『詩人・評論家・作家のための言語論』 メタローグ 1999.3.21


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一歳未満のところで、人間のこころのかたちは第一義的には決定されてしまう。 危機的な状況になると、内コミュニケーションから外コミュニケーションに移行する一歳未満までに形成された、こころのかたちが必ず出てくる 母親によってつくられる精神(物語)の枠組
項目
1

@

 すべての重要な問題は、内コミュニケーションと、内コミュニケーションから外コミュニケーションに移りゆく一歳未満のところの問題に帰着してしまいます。それから、変な言い方をしますと、人間のこころのかたちはそこで第一義的には決定されてしまいます。一種の性格宿命論になるとかんがえるでしょうから申し上げますと、人間の精神はこころだけでできているわけではありません。感覚が加わったり、こころと感覚が絡み合ったり、理性、知性、論理性も加わって、そのぜんぶでもって人間の精神はできています。必ずしも性格宿命論といっても、決定論ではありません。
 人間のこころの核になる部分で決まってしまう、あるいは決まっているとかんがえたほうがよいとぼくはおもいます。もちろんみなさんのこころの核もそこで決まっているはずで、いつか何かの拍子に出てくるかもしれません。ふつうの平穏な生活のなかでは出てこなくても、何かひどい目に遭ったり、ひどい境遇、ひどい事件にぶつかったときに、内コミュニケーションから外コミュニケーションに移行する一歳未満までに形成された、こころのかたちが必ず出てくるとかんがえるのがよいとおもいます。ある意味では、それくらい決定的なものなのです。
 それを克服するのはたいへん難しいところがあります。
 (『詩人・評論家・作家のための言語論』 吉本隆明 P49−P50 メタローグ 1999年3月)


A

 内コミュニケーションの段階で起こった問題は、精神的に極端に異常なところにいくことがあります。たとえば妄想、幻覚、作為体験などがそうです。どこからか声が聞こえてきて、おまえ、こうしろ、ああしろと命令されているという人がいます。こういう体験は異常に属するわけですが、たぶん母親の育て方の枠組みがとても不安定だったことに由来するだろうとおもいます。閾値というか、正常から異常へとはみだしてしまう壁が低くなっているイメージが浮かびます。正常だとおもえるところから異常に移りやすくなります。ただの思い込みだったのがすぐ妄想になってゆきます。壁が高ければ、そこからまた引き返すこともできるのです。なぜ壁が低くなるかをかんがえますと、母親によってつくられる精神(物語)の枠組みがうまくいっていないのだとおもいます。枠組みが不安定で、あまり輪郭が明瞭ではない。壁が低いものだから、すぐ正常から異常にいく。正常のところで踏みとどまるのがたいへん難しいわけです。 ・・・・(略)・・・

 母親の物語はどのようにしてできるのか。それは単純なことで、要素を取り出せば、授乳したり、寝かせつけたり、排便の世話をしたりするといった、ごく少ない要素からできている物語です。でも、その物語の内容はどこからできるかといったら、母親と父親の関係から主としてできるとおもわれます。いうなれば、夫婦関係のなかにその物語の原型があります。夫婦の関係がたいへん立派で、豊富な感情と理性と物質的な基礎があるとすれば、母親の物語は豊富で正常になります。その精神状態は乳児のなかにちゃんと移されますから、たいへん立派な物語を潜在的な核に植えつけることになるとおもいます。
 (『同上』P56−P58)


 こうした思い込みも、もとをただせば、根本的なこころの核は母親からきています。
つまり、愛してもらいたい人、かつて愛してくれた人が、自分を追い詰める対象になるという法則です。被害妄想、恋愛妄想、追跡妄想といろいろなばあいがありますが、それらの妄想は、自分を追い詰める者がかつて自分が愛した人や自分の親しい人であるのが原則です。
 (『同上』P60)









 (備 考)

母と子の内コミュニケーションが不調だった場合、それが子の心や精神の有り様を大きく左右することが語られている。また、子の心の安定性の基盤となるなるものの壁が一般より低いものとなり、心や精神がより不安定化しやすい要因となっている。

わたしたちには、気づいた時には後戻りできないということがある。このことも、自分を振り返っても、結婚して子を持つと言う頃にはあんまり自覚的ではないように見える。他人から語られたらわかりそうなことではあるが、若さや家族内や社会の波風でその頃はゆったりと構えて子育てするというふうにはなかなかなれないのではないかと思う。

しかし、この母子関係、「母の物語」の有り様として、吉本さんが切り開いた世界は、身震いするほどのクリアーになった世界だと思う。波風の止まない社会の渦中を生きているだろうけど、このことが、すべての若い人々に共有されていったらいいなと願うばかりである。

内コミュニケーションの段階で形成される心や精神の核の病と言葉の異常との関係は、次回に見てみる。






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656 内コミュニケーション B U 言葉の起源を考える 『詩人・評論家・作家のための言語論』 メタローグ 1999.3.21

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人間の言葉は、情動性と感覚性が織り合わされ、融合してできています。 精神に異常をきたしているばあい、その人の言葉もまた、通常の範囲を逸脱しているか、通常の範囲よりも小さく縮んでいます。 あらかじめ内部で固定観念ができあがっていることです。 妄想や幻覚
項目
1

@

 言葉についてもうひとつ申し上げておきたいのは、病気という概念との関係です。こいつは異常だとかんがえられることが、言葉の表現にとってはたいへん重要になるということです。
 さきほど自己表出性は内臓の動きやこころの動きに関連し、指示表出性は感覚の動きに関連していると説明したように、人間の言葉は、情動性と感覚性が織り合わされ、融合してできています。こころの表現としての言葉、感覚の表現としての言葉を説明するばあい、精神の病気や異常をどうしても考慮に入れなければいけなくなります。
 異常は、その人の精神の動きが通常の範囲を逸脱していることです。精神に異常をきたしているばあい、その人の言葉もまた、通常の範囲を逸脱しているか、通常の範囲よりも小さく縮んでいます。指示表出と自己表出を軸とする円の範囲を逸脱し、言葉のもつ範囲を無限に拡げてしまうか、無限に縮めてしまうか、どちらかの作用が起こります。指示表出と自己表出をの軸を想定できないほど、極端に拡げてしまうか、狭めてしまっているのです。
 (『詩人・評論家・作家のための言語論』 P95−P97 吉本隆明 メタローグ 1999年3月)


A

 たとえば「美しい」という言葉には、だれもが抱くイメージがあります。赤い花が咲いているのをみて、美しいと感じる。これが正常とすれば、「美しい」の共通な感じ方といえるわけです。この範囲を逸脱すると異常になります。その赤い花をみて、ものすごく醜いとしか感じない人は異常とみなされます。「美しい」という言葉の範囲が、指示表出と自己表出を軸とした円と一致していれば正常で、とんでもなく外側に拡大したり、極端に範囲が狭くなると異常になるわけです。
 極端な例をあげれば、幻覚症状があります。幻覚とは、実際に存在していないけれども、目の前にあるかのごとく、人や物のイメージが出てくるというものです。本来的にいえば、言葉の指示表出性や、言葉を表現するこころがそこまで達していないのに、人や物のイメージがみえてしまう現象です。幻覚が常態になると、通常の指示表出の範囲をはるかに逸脱し、こころがもつ指示性の働きは異常な範囲にまで拡大してしまいます。
 錯覚なら、だれにでもあります。薄暗い場所に植わっている木が人影にみえたりする。恐怖心がきっかけで、ただの木立が人の姿にみえてしまうようなことは、だれにでもあります。幻覚のばあいは、指示表出性が言葉になる前に、イメージとして通常の意味を超え、極端に拡がってしまったばあいを想定すればよいわけです。
 (『同上』P97−P98)


B

 言葉の異常は、その人がもつ固有のイメージが通常のイメージから逸脱するように、あらかじめ内部で固定観念ができあがっていることです。たとえば「美しい」という言葉であらわす物について、あらかじめその人の内部に固定観念がつくられている。固定観念が正常と違っていれば、何を美しいというのかも、正常な人とは違ってきます。
 ある特定の事柄をあらわす言葉についておかしな固定観念をもっていると、その言葉は、指示表出と自己表出を軸にした円を逸脱したところに位置してしまいます。これが妄想や幻覚と呼ばれているものです。
 ただ、普通の人と違っていること自体は、異常とはいえません。精神異常は、日常性に障害をもつ欠損や歪みであるといいますが、単に少数であるためにわるいとされているだけです。もし多数を占めていれば、それが正常となるのです。
 妄想や幻覚も同じで、現在の社会では異常とみなされますが、妄想や幻覚のある人が多数を占めれば正常となります。そういう状況はありうるのです。人類の未開時代では、幻覚や妄想のある人のほうが正常で、ない人は異常だったということがありえたわけです。現在の社会では精神異常でも、未開社会にもっていけば、正常と異常が逆転することもありうるわけです。精神の異常はけっして固定的なものではありません。
 (『同上』P99−P100)
  ※@とAは、連続した文章です。












 (備 考)

主要に内コミュニケーションの異常に発祥する心や精神の病、それと対応する言葉の病が語られている。

吉本さんは、本書のあとがきで「この本はわたしにとって好きな本の一つで、その心遣りの程が内容とともに伝わってくれたら有難いとおもっている。」と書いている。確かに、吉本さんが言語論や心的現象論や母型論などいくつかの分野として究めてきたものが、ひとつの総合性としてわかりやすく語られているように見える。






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685 ネクラについて 「心について」 講演 吉本隆明の183講演 ほぼ日刊イトイ新聞 1994.9.11

講演 A164 「心について」
講演日時:1994年9月11日
収載書誌:筑摩書房「ちくま」1995年1月号、2月号、これは以下の『吉本隆明資料集130』に収められている。
※今回の講演の対応部分は、『吉本隆明資料集130』 P117

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嫌だな嫌だなと思っている自分の性格に対してそれを直そうということが気にかかってしょうがないみたいな人は、たいてい暗い人じゃないでしょうか。 ぼくはネクラが好きです。
項目
1

12 性格的な葛藤と人格的な陰影

 「あいつはどこか暗いなあ」というのはそれなんです。その人が、嫌だな嫌だなと思っている自分の性格に対してそれを直そうということが気にかかってしょうがないみたいな人は、たいてい暗い人じゃないでしょうか。明るいなという人はそういうのが平気な人です。
 暗いなというのも決して悪くないと思うんです。人間の含みとか陰影と言われるものがどういうふうにできるかというと、そうやってできるんです。嫌だなと思っていることを超えようとする、人には見えないけれども自分なりにしているという性格的な葛藤が、うまくいっているときにはその人の人格的な含みになって、なんとなくあの人は陰影のある人だな、となります。陰影が濃くなっちゃうと、あいつ暗いな、ネクラだなというふうになるわけです。
 ぼくはネクラが好きです。この数年ネクラじゃない人もいいなあ、うらやましいなと思うようになりましたけど、前はネクラじゃなきゃ人間は駄目だと思っていました。だから太宰治は、人間は暗いうちは滅びないんだという言い方があって、好き嫌いがあってネクラが好きだというのもあるわけです。それからネクラまでいかなくても陰影がある人がいいなあというのもあるわけですし、ほがらかきわまりない長嶋みたいのがいいという人もいるわけです。もちろんぼくも長嶋はいいと思いますけれど、物足りないとも思いますね(笑)。それは人様々です。
 そのように、こうだったら生まれた時とか、一才未満がこうだったからこうなるということはないので、それはやはり葛藤するのが人間で、超えていくのが人間ですから必ずしもそうじゃないんですけれども、逆は必ず真です。おかしいと言われて入院しているという人だったら、必ず間違いなく百パーセントそうです。それは育て方なんていうことじゃ治らないんです。お母さんという人はそれを育て方で補おうとするわけです。そうすると非常に丁寧すぎる育て方をするわけですよね。環境論者というのはウカウカと、だからマザコンになっちゃう、自閉症になっちゃうという言い方をしますが、それはぜんぜん嘘ですね。そんなことはありません。そのときにうまくいっていれば、あとはぶん殴ったりしようがそんなことは関係ありません。一才未満のときにほんとうに好きで心から可愛がってというふうにしてたら何をしたってたいへんよく育っていくに決まっています。
 (講演 A164 「心について」 「講演のテキスト」より)









 (備 考)

ちなみに、「ネクラ」という言葉については、

ネクラ(根暗)とは、性格の「根」が暗いこと、あるいは根が暗い人を指す俗語である。対義語にネアカ(根明)、派生語にネクラ族やネブクロがある。起源については複数の説があり定かではないが、タレントのタモリが1970年代後半から自身の出演番組で盛んに用い、人の性質を単純に規定できる軽さもあって1982年の流行語となった。ネクラの「根」とは、性根(しょうね)や根性(こんじょう)など、その人が持つ根本の精神性を指す言葉である。
  (「ネクラ」、ウィキペディア(Wikipedia)より)



上の講演にあるネクラについての部分は、少し手を入れた「ちくま」掲載の文章では削られている。


吉本さんは、何度かこの太宰治の言葉に触れている。たぶん以下の言葉だろう。

アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。
 と誰にともなくひとりごとをおつしやつて居られた事もございました。
 (『右大臣実朝』太宰治 青空文庫)



近代以降の文学でも、ネクラ、言いかえれば生真面目なこと、深刻なことが文学の主流となった時期があったように思う。それが、おもしろくても良いじゃない、などが文学に入って来たのはついこの間のことである。消費資本主義の社会の成熟やサブカルチャーの隆盛と対応していると思われる。個人の好き嫌いは別にして、性格的な人間性として見ても、文学や思想においても、ネアカもネクラも片方だけに重点を置くのは人間の総体性として不十分であるとは言えるだろう。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
688 日本人の最大の弱点 3 吉本文法について 『中学生のための社会科』 市井文学 2005.3.1

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日本人は自明のことを疑問にしたり、常識を疑ってみたりすることができにくい。 だから論理的なことは苦手で発達が遅れてしまう。また論理をすすめる言葉やその概念が発達してこなかった その代わり単純なことを豊富な感覚で言葉にしてゆくことはかなり得意だといえる。
項目
1

@

 橋本進吉が優れた国文学者として知られているのは、奈良朝以後の日本語の母音(あいうえお)の発音の微細な違いが、規則正しく異なる漢字で使い分けられていることを見つけ出したことによる。(註.1)それは方言で発音が少し異なるのを別漢字にしたことだという異論も出された。旧制の中学校などでわたしたちが教えられた品詞の区別や活用の規則などは橋本進吉が江戸時代の国語者(ママ 国学者か)の規則の発見を集大成したものだとおもう。
 私事にわたるが、わたしは国文法が苦手で十点を満点として七点以上になることはなかったとおもう。自分が幼時のときから喋ったり、書いたりできる言葉の規則をなぜ覚えたり暗記したりする必要があるのかという不満がくすぶって消えなかったので、学期試験でもあまり勉強をしなかった。
 それが日本人の最大の弱点だと気づいたのは成長してからであった。日本人は自明のことを疑問にしたり、常識を疑ってみたりすることができにくい。だから論理的なことは苦手で発達が遅れてしまう。また論理をすすめる言葉やその概念が発達してこなかったので西欧的な哲学の論理をすすめる言葉は、すべてといっていいほど明治以後の作りものだといえる。
 その代わり単純なことを豊富な感覚で言葉にしてゆくことはかなり得意だといえる。茶の湯、生け花、染物から陶器や家具調度品作りまで、たぶん世界的にみて特異性をもっている。和語(日本語)を喋り、書き、造語して不自由なくこなせればそれ以上の必要はない。それをまた整理し、規則を見つけ、論理づけることなど不要なのだ。だから科学や数学や論理づけはすべて苦手なのだ。文字は古典中国語(漢文字)の借りもの、論理用語は近代西欧語(インド・ヨーロッパ語)の借りものから出発した。国学者が江戸時代三百年かかって僅かに整序してきた、いわゆる「てにをは」字だ。
 (『中学生のための社会科』P48−P50吉本隆明 2005年3月)


A

 わたしは自分が苦手で、何でこんなことをやるのかわからないとおもって点数も取れなかったことを弁解しているわけではない。怠けた報いは後から付いてくる。暗記しなくてもいい国文法であり、国際的にもどこの言葉にも使える文法は作れないかといつも考えさせられた。わたしが考えた暗記不要の国文法の入口のところだけをやさしく述べてみよう。もちろん国文法だけでなく、どこの種族語、民族語にも使えるし、中学生にも専門の文法学者にも使えるはずだとおもっている。
 (『同上』P51)









 (備 考)

(註.1)
上代(奈良時代頃)の万葉仮名文献に、甲類と乙類の万葉仮名の書き分けが見られるという「上代特殊仮名遣」のことを指している。橋本進吉「古代国語の音韻に就いて」をネットにある「青空文庫」で読むことができる。



まず、世界の先進的な地域の学校で学ぶ子どもたちの中には、どういう理由であれ吉本さんの若い頃の文法の勉強のようにまじめに勉強しないということがある割合でいるだろう。このことは、子どもたちは一方で遊びたいという気持ちを抱えているから、世界普遍的なものでもあるように思われる。ここでは、この国の特殊性として挙げられている。

「その代わり単純なことを豊富な感覚で言葉にしてゆくことはかなり得意だといえる。茶の湯、生け花、染物から陶器や家具調度品作りまで、たぶん世界的にみて特異性をもっている。和語(日本語)を喋り、書き、造語して不自由なくこなせればそれ以上の必要はない。それをまた整理し、規則を見つけ、論理づけることなど不要なのだ。だから科学や数学や論理づけはすべて苦手なのだ。」とまとめた吉本さんの言葉にどう反応し、どう踏み出すかによって、わたしたちの道は分かれていく。

この列島は、古代の中国、近代の西欧、そして先の敗戦後のアメリカなどの大波を受けてきた。わたしたちの中に今ではずいぶん〈論理性〉がしみこんできているのだろう。しかし、わたしたちが〈自由〉〈平等〉〈権利〉などの言葉を口にする時の感じを内省してみればわかるように、それらの〈論理性〉は相変わらず外来的なという感じや匂いをともなっている。

ヘーゲル的な人間精神の段階的な進展からすれば、西欧的な〈論理性〉の精神や言葉を獲得することが価値と言えるだろう。一方、「単純なことを豊富な感覚で言葉にしてゆく」精神や言葉の世界があり得るだろう。しかし、いずれの極端も今までのこの列島の現実性としてはあり得ないように見える。受け身として外来の大波を被ってきたことを、この列島の内面性から見れば、足りない部分を呼び寄せるように外来性の〈論理性〉の精神や言葉を浴びてきたのかもしれない。

このことに対する受けとめ方は、吉本さん自身の中でも、かすかに推移してきているような気がする。若い頃は特に、それらが権力性と結びついてもいたから、日本的な特殊の有り様に対する否定性や反発は大きかったように思われる。



@の最後の一文の前とのつながりがよくわからない。わずかに「規則を見つけ、論理づけること」をしたのは、という言葉を「国学者が」の前に補うべきか。



Aの「暗記しなくてもいい国文法であり、国際的にもどこの言葉にも使える文法」とは、次に続く文章に書いたあるが、すべての言葉を自己表出と指示表出をタテ糸とヨコ糸として織られた織物だとみなすことを指している。そうして、吉本さんにとって、これは世界性として、世界思想として意識されていたことを意味している。


(追 記) 2021.3.29

参考までに、吉本さんが橋本進吉を批評した文章があった。

「橋本進吉について」(『吉本隆明全集 9』P505−P511 晶文社)
 初出は、『ことばの宇宙』1968年11月号
 ※これはまた、『詩的乾坤』にも収められている。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
689 人間らしいことは内臓によくない 「心について」 講演 吉本隆明の183講演 ほぼ日刊イトイ新聞 1994.9.11

講演 A164 「心について」
講演日時:1994年9月11日
収載書誌:筑摩書房「ちくま」1995年1月号、2月号、これは以下の『吉本隆明資料集130』に収められている。
※今回の講演の対応部分は、『吉本隆明資料集130』 P103−P104

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心の働きに関連する内臓の働きというのは、意識しなくても動いているものは動いている、心臓は動いているということがひとつの特徴です。 人間の快・不快の感じ方はそのふたつの二重な作用がある 人間の人間たるゆえんは内臓器官の働きに対しては矛盾した作用を及ぼすものだということ
項目
1

@
                                                
3 人間らしいことは内臓によくない(註.これは、「講演のテキスト」の小見出しです)

 それで、内臓の働き、つまり心の働きに関連する内臓の働きというのは、特徴があるかと言いますと、先ほど言いましたように、意識しなくても動いているものは動いている、心臓は動いているということがひとつの特徴です。それから内臓器官というのは胃や腸もそうなんだけど、ものが入っていくとそこが詰まってくると内臓器官は収縮して、詰まってるものと収縮した内臓器官のあいだの圧迫感というのだけが外側に感ずるというふうに、ものが入っていったり詰まっていったりすると収縮が起こるというのが、内臓器官の働き方の非常に大きな特徴だと言えるわけです。内臓器官的に、腸なら腸が、胃なら胃が、あまり気持ちよくない、胃の長詩(ママ 「調子」か)がよくないというふうに感ずる場合に、悪い人は空腹の場合もそうですけど、一杯ものが詰まっていって、胃なら胃が収縮して、詰まっているものと収縮した内臓の壁との間に圧迫感が生じて、そういうふうになっていくと気持ち悪いという感じになると思います。腸の場合も同じで、それは排出するまでは詰まっていて気持ち悪い、不快である。たとえば便秘というのは不快である。詰まっていると詰まっている部分だけ内臓が収縮して、そこに強い圧力が生じてそれがあまり気持ちよくない、今日は調子悪い、という不快感が生まれます。つまり内臓器官における快・不快というのは、器官として生理的にと言いましょうか肉体的にと言いましょうか、ひとつあるんだということです。
 それは心の快・不快というのが、大部分の場合、フロイトに言わせますと、セックスと言いますかエロスと言いますか、フロイト流の言い方で言うとリビドーと言うわけですけれども、広い意味でのリビドーの働き、性の働きというのが、心の快・不快ということに関連するわけです。だけれど、明瞭に分けるのは難しいけれども、それとは別に、内臓の詰まっているときの圧力感とか、内臓的な快・不快というのが生理的にある。それは必ずしも性の感覚じゃなくてある、収縮感であるということがあります。
 それでそれと心の快・不快というのは、フロイト流に言えば広い意味での性的感覚と言いますか、エロス、リビドーというものと関連して、リビドー的に不愉快だったらば不快であると心は感ずるし、快感だったら快というふうに感ずるというふうになっていて、厳密に言えば人間の快・不快の感じ方はそのふたつの二重な作用があるということが言えるわけです。
 それで内臓の働きのいちばん重要なものとして心臓の働きというのがあるわけですけれども、これはたとえば外側から不意にものが落ちてきたとか、何ごとかが起こったということがありますと、心臓なら心臓が急にドキドキしちゃうということああるわけです。つまりそういうふうな作用の仕方を、内臓の働きはするわけです。そういう場合に、ドキドキするというのは普段より脈拍が多くなるわけですけれど、そのことが人間の不意の驚きという心の働きになって顕われるということになると思います。


A

 それから三木さんという人が言っていることで、ぼくから見て内臓器官の働きとしていちばん重要で、心の働きとしていちばん重要なことというのは、人間というのは何かものごとを集中して考えようとするとたいてい息を詰めているというふうに言っています。息というのは肺臓という内臓ですけれど、肺臓は黙っていれば自立神経によって呼吸作用を営んでいるわけですけれども、もし何か考えようと思って集中したりするとき、たいていは息を詰めるということをしているということです。息を詰めるということは呼吸を止めているわけです。
 物事を集中して考えようとすると呼吸を止める。そのことを広げてみますと、要するに人間がものを考えたり、感覚を集中するということは、内臓器官とは相矛盾する作用じゃないかということを三木さんという人は言っています。それはとても重要なことじゃないかと思います。つまり人間が人間らしいということは物事を考えられることだ、という言い方はあるわけです。だけどそのことはほんとうは、内臓器官にとってはよくないことなんです。肺なら肺の呼吸をうっと詰めないと、物事を集中して考えられないということがあります。そうすると人間の人間たるゆえんは内臓器官の働きに対しては矛盾した作用を及ぼすものだということが大雑把に言えたりします。
 そうすると人間の人間たるゆえんというのは、少なくとも人間のなかに植物神経系で働いている内臓器官に対してはあまりいい作用を及ぼすものではないということが言えそうになってきます。そういう矛盾があるんだということはとても重要なような気がいたします。
 (講演 A164 「心について」 「講演のテキスト」より)
  ※@とAは、連続した文章です。









 (備 考)

難しい微妙な領域のことに言及されていると思う。「人間らしいことは内臓によくない」ということは、人間はなぜか「息を詰めている」という状態をくり返すという道を踏み固めていった。それが〈人間〉という存在の与件になってしまったという気がする。


「人間というのは何かものごとを集中して考えようとするとたいてい息を詰めているというふうに言っています。」について、たぶん吉本さんの晩年と思うが、吉本さんはそれが人間の言語の獲得につながっているということをどこかで語っていたように記憶している。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
693 人間の本質 A 「個人・家族・社会」 論文 『吉本隆明全集9』 晶文社 2015.6.25

※初出は、『看護技術』1968年7月20日 7月号
関連DB@ 364 「人間の本質」 マルクス者とキリスト者の対話(1) 「止揚1」1970.12月

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逆立 人間はもともと社会的人間なのではない。 彼(彼女)が人間としての人間性の根源的な総体を発現すること
項目
1

@

 しかし、この場合、本質的なことはただひとつである。〈個人〉の心的な世界がこの〈社会〉の心的な共同性に向かう時は、あたかも心的な世界が現実的なもので、具体的に日常生活している自分は架空のものだという逆立によってしか、〈社会〉の心的な共同性に向かうことができないということである。いいかえれば、〈個人〉は自分が存在しているしかたを逆立させることによってしか、〈社会〉の心的な共同性に参加することができない。この関係は、人間にとって本質的なものである。
 人間はもともと社会的人間なのではない。孤立した、自由に食べそして考えて生活している〈個人〉でありたかったにもかかわらず、不可避的に〈社会〉の共同性をつくりだしてしまったのである。そして、いったんつくりだされてしまった〈社会〉のな共同性は、それをつくりだしたそれぞれの〈個人〉にとって、大なり小なり桎梏や矛盾や虚偽として作用するものとなったということができる。
 それゆえ、〈社会〉の共同性のなかでは、〈個人〉の心的な世界は〈逆立〉した人間というカテゴリーでだけ存在するということができる。そして、この〈逆立〉という意味は、単に心的な世界を実在するかのように行使し、身体はただ抽象的な身体一般であるかのように行使するというばかりではなく、人間存在としても桎梏や矛盾や虚偽としてしか〈社会〉の共同性に参加することはできないということを意味している。〈社会〉の共同性のなかでは、〈個人〉は自分の労力を、心情を、あるいは知識を、財貨を、権威を、その他さまざまなものを行使することができる。しかし、彼(彼女)が人間としての人間性の根源的な総体を発現することはできないのだということは先験的である。この先験性が消滅するためには、社会の共同性(現在ではさまざまな形態をとった国家とか法とかに最もラジカルにあらわれている)そのものが消滅するほかはないということもまた先験的である。
 (「個人・家族・社会」P418−P419『吉本隆明全集9』晶文社)
 ※これは『改訂新版 共同幻想論』(角川文庫)の「解説」で中上健次が引用している部分を、その前の段落を含めて引用している。それに触発されて思い出して読み直した。ちなみに、『共同幻想論』の初版発行は、1968年12月。









 (備 考)

「 人間はもともと社会的人間なのではない。孤立した、自由に食べそして考えて生活している〈個人〉でありたかったにもかかわらず、不可避的に〈社会〉の共同性をつくりだしてしまったのである。」という吉本さんの言葉は、評者によってはネクラであった吉本さんの独り善がりじゃないかとも受け取られるかもしれないが、これはこの文章全体を見てもわかるが、抽象された論理の展開の帰結として導かれているものである。しかし、掟や法など「不可避的に〈社会〉の共同性をつくりだしてしまった」人間の有り様の本質性はいまだ十分に解明されているわけではない。『共同幻想論』もその解明の一つである。


「それゆえ、〈社会〉の共同性のなかでは、〈個人〉の心的な世界は〈逆立〉した人間というカテゴリーでだけ存在するということができる。」の〈逆立〉もまた、よく評者によって突っかかれる概念であるが、学校や職場での集団性と個のずれやちぐはくさなどのわたしたちの日常感覚を内省すればその概念の内実は容易に感じ取れるものである。また、ひとつの歌が、テレビなどを通じて社会的な応援歌として流されると、その歌自体にはあんまり異和感がなかったのに、そういう社会の共同性の場面に浮上してくるとうそくさくなっていくということがある。これもまた、〈社会〉の共同性によって釣り上げられた〈逆立〉であると思う。そのうそくさく感じるのは、根源的にいえば「人間性の根源的な総体を発現する」という視点からくる異和感であろう。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
708 日本という構造 第三日・乳児期 視線の病理 インタビュー 『ハイ・エディプス論』 言叢社 1990.10.25

本文P131の小見出し ベイトソン―乳児の「高原状態」について
関連項目
 言葉の吉本隆明@ 項目254日本の文化
 言葉の吉本隆明A 項目515 日本人はどこから来たか  項目590日本語の正体がわからない

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長い年月、構造が壊れていて織り目が見えないことになっちゃっていますね。 日本語でも、日本の風俗習慣でもものすごくきれいにしちゃっている気がします。 何が問題かといえば時間の段階がとれないんですよ。 柳田や折口の方法を超えた場所
項目
1

@

吉本 それはとても大きく切実なテーマだとおもいます。日本社会というのは何なのか。民俗学者がフィールドワークをするという意味で日本社会とは何なのかというと、ものすごくわかりにくいところがあるわけですね。使われている言葉もわかりにくいし、風俗習慣もわかりにくい。日本社会というのは、自分が日本社会の内側に生活しているという体験のなかで、自分の目がいま外側にあったらどう見えるかというふうな一種の二重視を考えないと、とてもわかりにくいです。ほんとうならば大ざっぱな構造が、人類学者がフィールドワークしたら、ぴたっと本来的に主要線でわれてきて、それの複合的な構造で、万事やれるというふうになっていていいはずなのに、ものすごく構造が壊れているとおもうんです。
 壊れているというのはどういうことかと追及してゆくと、これもわからない。主要素は二つでいいとおもうんですが。たくさんの要素がそこにおおいかぶさって、そうとう構造自体を壊してしまったことがあります。なにせ島国だから、あらゆる要素が入ってくるんだけれども、外には出ていかなかった。その外に発散するというか、出口を求めていけば、少なくとも流れを生ずれば、そこの所へぞろっと並ぶ要素が出てきてわかりやすくなるんだけれども、それがあまり無いものだから、入る一方、重なる一方で、なかでごちゃまぜになって、長い年月、構造が壊れていて織り目が見えないことになっちゃっていますね。これにたいして、早急に結論するのはとても危険だということになってきます。


A

そういうことが柳田国男とか折口信夫という人は、よくわかっていたとおもうんです。でも不満だということをいうとすれば、日本語でも、日本の風俗習慣でもものすごくきれいにしちゃっている気がします。こんなきれいなはずはないんですよ。このきれいというのはうそで、もうすこし解きほぐすか、整理するかわかりませんが、直さないと、うまく日本という構造をつかめないのではないでしょうか。民俗学的に、人類学的にきれいすぎるんですね。きれいじゃないものは除いてあったりして、これだったらもうちょっと追究しようがない。日本語とか日本人とか日本の風俗習慣は、民俗学的にも人類学的にも掘りおこしようがない。どことも比べようがないじゃないですか。朝鮮とか、中国とかいったって全部だめですよ。どうせ関連があるに決まっているんだけど、時間の段階がとれていないんですね。南中国の風俗習慣と似てるといってもいいし、言葉は南島と似てるといってもいいし、こっちの北方大陸のアジア的な種族に似てるといったっていい。しきりにやっているけど、それは時間の段階をとらないんでいいならいいけど、みんな似ているといってもだめですよ。何が問題かといえば時間の段階がとれないんですよ。このくらいの時期に、このくらいの時間の幅だったら、これとこれは対比できるという限定がとれないのです。それができなければ比較はまったく意味のないことだと僕はおもいますね。それは日本という構造がめちゃくちゃ壊れているからですね。構造が壊れているというところから、ほんとうはしなければいけないですよね。構造がどう壊れているかって、それをいわないで、みな当てずっぽうですね。


B 

島亨 部分をいえば全部にている。

吉本 そうそう。みな構造は壊れているんだからね。肝心なことはいえてないです。構造が壊れているということをまずいえていなければ、どんな民俗学的なアプローチしても、人類学的なアプローチしても、それはむだですよね。みないいかげんです。だけどなにが肝要なのかというと、僕は構造が壊れていることだとおもいます。このことを意識的に無意識的に柳田国男とか折口信夫がいちばんよく知っていたとおもいます。どうしてかっていったら、あの人たちは、外からの観察とか知識とかそんなのは、たくさんあって知っているのに、それを使わないんです。使わないということはなにかといったら、外からの眼を自分が使う時には、架空の眼にしようとおもっているわけ。つまり(註.1)イメージの眼にしようと固守しているわけ。外の人間から、ヨーロッパとか文化、学問の発達した奴から日本を見たらこう見えるみたいなことを使いたくないわけですよ。なぜなら、それは別な意味でくるっちゃうから、こっちの実感とね。内側にいて民俗を掘り下げている、よく知っているその複雑さから見たら、(註.2)ヨーロッパの方法ではちょっと耐えられないような単調なこといっていることにしかならない。それ以上入れないんですよね。だからそれは使わない、知識としてもっていても使わない。使わないということは、自分も外から見る視線で使おうとおもえば仕える。ただそれはイメージの眼だ、自分がイメージとしてもっている眼だということだからです。ヨーロッパの方法があるとすれば、無意識の視線としてしか入ってこないばあいだけは使っている。だけどそれ以外は使わないということをちゃんとしているわけですから。この人たちは、ものすごく日本の構造というものの壊れている面、壊れていない面、それを掘り下げた微妙な面というのを知っていた人だとおもいます。それにもかかわらず僕はやっぱりこんなきれいなはずはないとおもうのです。

島亨 どうしてかきれいになっちゃうんですね。

吉本 柳田国男とか折口信夫は、ものすごくよく知っている人だった。もうすこし掘り下げられるべきだった。そうすれば日本というのも相当よくわかってくるんだが、いまの段階ではわかりにくい。言葉もわからないし、風俗習慣もわからないし、あらゆることがわからないだらけです。とっかかりがつかむことができないんですね。あまりにも構造が壊れちゃっていて。・・・中略・・・もうすこし追究していっていうことで、日本の形を解明していくには、いまの柳田さんや、折口さんのところではむずかしいんではないでしょうか。
 (『ハイ・エディプス論』P135−P139 吉本隆明)
 ※@とAとBは、ひとつながりの文章です。









 (備 考)

語られていることは、わかりやすいが、さてその壊れた日本的構造の解明にどこからどのように入って行くかとなるととても難しく見える。人類の足跡の解明に遺伝子学が思わぬ光を当てたような、それに類するアプローチが必要なのだろうか。まずは、否定的な対応なら少しは思い浮かぶ。例えば、キンキラキンの貴族のイメージや伝統や文化がよく語られてきたが、そうしたイメージを拒絶すること。そのイメージの修正に関しては、貴族の振る舞いについて当時の貴族の日記などの資料から考察した、『殴り合う貴族たち』(繁田 信一 角川ソフィア文庫)がある。

@の「主要素は二つでいいとおもうんですが」というのは、北方的要素と南方的要素のことであろう。

(註.1)

吉本さんが、柳田のイメージの眼に触れていたのは『母型論』(1995年11月)の序においてであった。

 柳田国男が「海上の道」を書いて、日本人はどこから来たかという課題に、じぶんの世界にたいする理念のイメージをこめて立ちむかったのは、生涯の経験知を叡智にまで凝縮した円熟期にはいってからだった。これは人類の種、土地、水陸と山岳、その複雑な交換の過程から産みだされる習俗の形態などを素材にして、世界観を凝縮したイメージにしてみせたものだ。これが実証的に正確か誤謬かなどと挙げつらっても、まったく無意味なことだ。それは学説ではなく、イメージでで造成された世界観だからだ。これが理解できなければ、柳田国男を理解したことにはならない。

この個所を読んだときにはよくはわからなかったが、上の項目の吉本さんのていねいな説明の文脈の中に入れてみるとだいぶんはっきりしてくる。


(註.2)

吉本さんの最初期の柳田論、「無方法の方法」(1963年) は、言葉の身体はこの列島社会に浸かっていても、ヨーロッパの方法、論理の視線からのものだと思われる。吉本さん39歳の若い頃である。この文章の終わり辺りで、吉本さんは、「柳田国男は、ひとつの悲劇であり、巨大な悲劇であった。」と記し、「何よりも抽象力を駆使するということは知識にとって最後の課題であり、それは現在の問題にぞくしている。」と結んでいる。この壮大な修正をイメージの流線の描く世界観として新たに捉え直したのが、後の『柳田国男論集成』(1990年11月)である。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
710 日本語の遺伝子 「日本語の遺伝子をめぐって」 対談 『吉本隆明 詩歌の呼び声 岡井隆論集』 論創社 2021.7.30

「日本語の遺伝子をめぐって」の初出は、『現代詩手帖』1996年8月号。

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短歌と現代詩や小説との(一般的な)違い 川端康成や中原中也の日本語が届いている深さ 短歌の言葉というものを今で以上に深く考察しなくてはならないと思う 吉増剛造
項目
1

@

岡井 特に詩人はかなりそういったことに意識的なような気がします。日本語の、古代から現在までずっと続いてきた短歌・和歌のレトリックを含めた、さきほどおっしゃられた日本語の遺伝子のようなものが、自覚されていないにせよ、いろいろな分野で表われてきているように思うんです。小説家でも中上健次さんなどは、晩年そんなことをしきりにおっしゃっていましたね。

吉本 現代詩の場合は、俳句の世界くらいまでなら日本語として遡って考えることもできるような感じもしますが、日本語の、伝統とは言いたくないので遺伝子と言っておきますが、そうしたものを表現することができるのは短歌だけで、日本語の遺伝子を掴まえることができるぎりぎりのところにいるのが短歌なんだという気がするんです。現代詩や小説は近代以降しか主として相手にしないわけですから、遺伝子の問題ということになったら無力であって、ただ欧文脈か和文脈か、あるいはその混合かといった問題だけしか関与できないような気がするんです。
 たとえばノーベル賞をとった大江健三郎と川端康成を比べてみますと、川端康成が小説に使っている日本語は、この人の小説の主題は風俗的だと言われるけれども、実はそうとう日本語の無意識の深層へと入っている生理をもっている気がして、これを馬鹿にしてはいけないといつでも思うんです。大江さんの日本語は現代日本語という範囲にしか錘が届いていなくて、それだけに他の国ではわかりやすいかも知れないけれど、ここで使われている日本語から、こんど川端康成の使っている日本語を読むと、もうぜんぜん違うんですね。意味だけを読むと川端康成の小説はとても通俗的で、双子の兄弟がいて、一人は京都の山の方で育てられて云々と、なに言ってんだって感じになるんだけど(笑)、この人の小説の言葉が届いている深さというのはかなりなもので、これを翻訳で伝えるのはほとんど不可能に近いんじゃないかと思います。

岡井 欧文脈ということで言うと、新感覚派の横光利一がそうで、そのときは面白いけれど、結局日本語の遺伝子ということを考えると川端さんの言葉の方にあるんですね。そうすると吉本さんは、むしろ川端康成的なものの方に日本語としての可能性が多くあると考えているんですか。

吉本 ぼくのいまのかんがえ方はそうなんですね。伝統的な日本語を守ろうなんていうことは言いたくないので、あえて遺伝子という言葉を使いますが、これを詩人で言うと中原中也の日本語と富永太郎の日本語を比べればわかると思います。この二人はわりと似たように言われることが多いけれども、中也の日本語が届いている深さは、もうどうしようもできないものを持っていると思います。それに比べると富永太郎は、ズレがちょっとでも生じると「なにしてるの、この人は」という感じになっちゃうような気がするんです。


A

そうかんがえると、短歌の言葉、茂吉の言葉で言うと「短歌的声調」というのは日本語の遺伝子のとことんのところまで食い入っているものだから、このわけのわからなさ、不可思議さはちょっと他のジャンルでは見いだせないもので、やっぱり短歌の言葉というものを、いままでかんがえられているよりももっと深く考察しなくちゃいけないんじゃないかなと思うんですね。いままでの短歌をめぐってかんがえられてきた伝統的な言葉の使い方といったものを超えていくのには、もうわけのわからない領域に入る以外にないような気がするんです。

岡井 そういうことを目ざしている若い詩人や小説家というのは、いらっしゃるんでしょうか。

吉本 いや、それはちょっとどうしようもないんじゃないでしょうか。わずかにそれを違うやり方でやっているなと思うのが、吉増剛造ですね。この人は、日本語を日本語でないように、日本語としてはほとんど意味が通らないような使い方をしていますね。そのくせに、短歌でいう七五調に収斂していくような、まったく不可思議な言葉を使う人ですね。

岡井 人麻呂の長歌のような感じですよね。

吉本 ぼくはそういったところには、可能性を感じているんです。

岡井 たしかに人麻呂くらいまでの長歌はほんとうにわけのわからない妙なものですよね。家持になるともうえらく理知的な長歌になって別のものになってしまう。吉増さんは数多くの朗読もされているようですが、やはり「声」の要素が非常に重要ですよね。

吉本 そうですね。文字がまだなかった頃の記憶のようなものを吉増さんの詩は無意識にもっているんじゃないかと思うんです。
・・・中略・・・
 日本語の伝統といったことを言うと、あの野郎、反動的な民族主義者になりやがったのかと、なんて誤解するヤツが多いんだけど、日本語のメタファーのなかにある遺伝子的な要素というのは、なにはともあれ短歌のなかにいちばんあると思うんです。この要素はいままでかんがえられてきた意味とはもう少し違う意味で探究されなければいけないんですよ。・・・中略・・・どこかで国際性や世界性というものに、届かないまでも届こうとしている意志はなくなるはずがないんです。
 (『吉本隆明 詩歌の呼び声 岡井隆論集』P123−P127 論創社)
 「日本語の遺伝子をめぐって」(『現代詩手帖』1996年8月号)
 ※@とAは、ひとつながりの文章です。









 (備 考)

「日本語のメタファーのなかにある遺伝子的な要素」というのは、長い時間の中でこの列島で醸成された韻律と喩とが織り成すある生命感に満ちたイメージの世界のことであり、それを可能とするような韻律と喩の構造のことだと思われる。そうして、この遺伝子的な要素は、当然のこととして文学的表現にかぎらず、わたしたちすべてが日常の感じ考え行動する中に持っているものであろう。そうでないと、文学作品を深く感じ取り味わうということができないはずである。

「近代以降しか主として相手にしない」現代詩や小説でも、川端康成や中原中也の日本語が届いている深さが挙げられているように、日本語の深みに意識的、無意識的にも下り立てば、「日本語のメタファーのなかにある遺伝子的な要素」というのを表現することが可能であると言えるだろう。

例えば、「性的少数(セクシュアルマイノリティ)の人たちの総称」と言われるLGBTという言葉をよく目にするようになった。〈現在〉が平等化を推進する流れのひとつだろう。しかし、おそらくは産業構成や社会的な要請によって、太古の母系(母権)制社会から父系(父権)制社会へ移行してきた、そして両者がともに解体しているこの現在でも両者の遺伝子的要素はわたしたちや社会の中に絡み合うように残存していると感じている。したがって、現在の平等化への志向にもそうした歴史的な遺伝子的要素を少しずつ解きほぐしていくということを意識しないと、生きた〈未来〉は来ないと思われる。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
744 「名前」ってなんだ? 「名前」ってなんだ? 対話 『悪人正機』 朝日出版社 2001.6.5

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有名ってことは、つまり名前を知られるってこと その「名前ってのはいったい何なんだ」ってことを考えますね。 たいていは、まあ、地名、土地の名前なんですね。 累代の蓄積みたいなもの、宗教的な意味があるんじゃないか
項目
1

 若い人の話を聞いていると、「有名になる」ということについて、ものすごく高い価値を置いているようだ。で、そのことについての話を聞こうと考えていたのだけれど、吉本さんの興味は、もっとちがうところにあった。それが、「名前」と言うものの不思議、だったわけだ。(P172 糸井重里の前書きより、その一部。)

@

 有名ってことは、つまり名前を知られるってことですよね。
 別に、有名になりてえんだって気持ちに水を差すつもりはないんですけど、僕は、名前が知られてよかったよかったって思えるようなヤツは、よっぽどのバカか、そうじゃなきゃ、相当、お気楽なヤツだなっていう気がしますね。・・・中略・・・そういう人には「確かに、バンザイっていう部分もあなたにはあるだろうけど、顔と名前を知られるってことで、もっと辛いところがたくさんあるでしょう」って言ってあげたいですね(笑)。プラスマイナスで言ったら、有名になることでプラスになるなんてことは、絶対的にないんですからね。


A

 僕は「有名になるには」ってことよりも、名前が知られるということの、その「名前ってのはいったい何なんだ」ってことを考えますね。そうすると、名前ってのは、こりゃ、おっかなねえもんだぞ、恐ろしいものなんだよって考えになったんです。
 例えば、僕なんか、会ったこともねえし、もう全然知らねえって人から電話がかかってくることが多いんですよ。よくあるのは、文学の新人賞に応募した自分の作品と、著名な作家が書いて発表したものとがそっくりだったっていう電話なんです。ま、自分の書いたものが真似されたってことを言いたいんでしょうが、それで、こういう場合はどうしたらいいんでしょう、とか言ってくるわけですよ。
 こちらとしては、どうして俺にかけてきたんだ、それで俺にどうしてもらいたいんだって思うわけで、それでよくよく話を聞いてみると、結局は、偶然か必然かは知らないけど、「とにかくあんたの名前を知ってたから、電話をかけたんだ」ってことらしいんです。「あんただったら、このことを、その作家に言ってくれるだろうと思って」って言うんですね。
 つまり、これは名前ってものに反応して、電話をかけてきているわけですよ。実際に僕は会ったこともなにもないんですから。でも、こういうようなことは、よくあるわけです。僕ばっかりじゃなくて、あっちこっちでよくあることです。
 こういう行動をとる人ってのは、ちょっと「名前」に対して精神的に病んでいるんじゃないでしょうか。その名前を持っている人が、「自分にとってこういう人だから」っていう理由でおかしくなったんじゃなくて「知られている名前」というものにおかしくなっていると言えるわけですからね。ここで、僕は名前に対して精神がおかしくなることがあるっていうのは、いったいどういうことなんだ、と考えたわけです。


B

 自分の考え方の発想法に従って、この問題、名前っていうことを遡ってみるとね、要するに、名前っていうのはどうしてついたんだっていうことに辿り着きます。
 たいていは、まあ、地名、土地の名前なんですね。例えば、○○県吉本町に縁があるということから、吉本っていうのを名字にするのが一番多いんですよ、日本の場合。ほとんどの名前、正確には姓ですけれども、その姓というのは、それで解釈できるし、理解できるんですね。
 さらに大昔の人の名前に遡るとですね、僕がよく挙げる例なんですけど「ウガヤフキアエズノミコト」という人がいるわけです。
 この人は初代の天皇とされる神武天皇の祖先にあたる人なんですが、ミコトっていうのは、死んだ人に送り仮名みたいにつけるものとして決まってるんです。となると、その「ウガヤフキアエズ」って何だってことになりますが、これは名前なんです。じゃあ、どうしてこんな名前つけたんだっていうことになっていくわけで、そうすると、これは・・・・・・何でもないんですね。
 当時、南のほうでは、赤ん坊が生まれそうになると産屋を建てて、その中で出産するっていう風習があって、この「ウガヤフキアエズ」っていうのは「赤ん坊を産む産屋の屋根をふき終わらないうちに産まれちゃった子供」っていうことで、要するに、あだ名みたいなものなんです。
 こんなものが本当に名前としてあり得るのかって言ったら、あり得るんですよ。太古の、名前を必要とした王族みたいな人たちの名前では、もうほとんど、そういうあだ名なんです。聖徳太子の「ウマヤドノオウジ」もそうです。馬小屋で産まれたっていう、あだ名なんでね。


C

 そうしてみると、要するに「名前」というのは、その人の相当に根源的な部分に関わっているものがあることを意味しているものなんじゃないかなって思ったんです。その人の、根源的な何かっていう、累代の蓄積みたいなもの、それが「吉本」っていう文字の中にあるように思うんですね。もちろん、こういう姓は明治以降につけられたんだっていうことなんですけど、もっと前からの累積からいえば、ただ土地の名前だとか、そんな簡単な意味じゃなくて、もうちょつと呪術的な意味と言いますか、宗教的な意味があるんじゃないかって思うんです。
 だからこそ、名前っていうのは、今でもね、ちょっと人間をおかしくさせる何かがあるんだと、僕なんかは考えてますね。
 それに、人間の精神が異常になるっていうことも、未来に対しておかしくなるっていうことはないんですね。必ず、過去に関係しているんです。つまり、精神の異常とされるものも、過去の時代では「変だ」と思っていますけど、ずっと昔まで遡ってみれば、誰もが普通に、名前に対して、ある種の畏怖だとか、関心の持ち方をしていた頃があったかもしれないわけで、そういうことが、何かの拍子に今、現れちゃってるんだって、そういうふうに解釈してもいいんじゃないかって思ってるんです。


D

 「有名になる」ってことを、もう少し範囲を曖昧にして広げて「名誉」っていうふうにして考えてみましょうか。
 つまり「お前には名誉欲ないのか」って言われれば、そういう気持ちを持ったことないって人は滅多にいないでしょう。やっぱり、どこかの時点で、そういうものを持ったりしているものなんです。だから、その名誉欲ってものをどうにかする、または、それを無くしたいと考えてどうにか処理するっていうことも、これもまた大変なことなんですね。
 だから、名前っていうのを人にわからせたいという願望というか、もっと深層でいえば本能って言いましょうかね。それはかなり・・・・・・宗教的に根強いものじゃないかなと思うんです。
 だから、偶然性の要素が強いほど、名前の呪術性というか、宗教性は大きいですよね。
 ・・・中略・・・
 だから、若い人たちの有名になりたいっていうのは、宝くじに対する気持ちみたいなものなんです。誰でも「当たんねえかなあ」とか思う心は抱くもんだっていうか、なくならないもんだっていう、そういうのと同じなんじゃないですかね、やっぱり。
 (吉本隆明『悪人正機』P173−P180 聞き手 糸井重里 朝日出版社 2001.6.5)
 ※@とAとBとCとDは、ひとつながりの文章です。









 (備 考)

「有名」ということは、誰にも関わりある問題のように見える。あの親鸞でさえ自分の中にも名声を求める気持ちがあったと内省的に語った言葉があったと記憶している。この「有名」ということにひかれるのは、人間独自のものではなく動物生から引き継いできたものかもしれないとわたしは漠然と思っている。

上は、「有名」になったことでの吉本さん本人のいやな経験だが、娘ハルノ宵子の文章によると、吉本さんの娘たちも毎日のように人が吉本家に出入りして窮屈な思いをしていたようだ。


ところで、上で吉本さんが語っている「名前の呪術性(宗教性)」に関することだが、昔学校の授業でだったか、孔子のことで、中国では本当の自分の名前を知られることを怖れたということを聞いたことがある。孔子は、孔先生ほどの意味とかで、正式の名前は孔丘。ウィキペディアに以下のような「諱(いみな)」の項目がある。

諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。「忌み名」とも表記される。

概要
諱という漢字は、日本語では「いむ」と訓ぜられるように、本来は口に出すことがはばかられることを意味する動詞である。この漢字は、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、転じて人の実名・本名のことを指すようになった。本来は、名前の表記は生前は「名」、死後は「諱」と呼んで区別するが、後には生前に遡って諱と表現するなど、混同が見られるようになった。諱と対照して普段人を呼ぶときに使う名称のことを「字」といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになった。


日本では、本居宣長の説が主流であった。それによれば、諱とは中国から伝わった「漢意」であって日本古来の風習ではなく、むしろ日本では古来、名前とは美称であった。そしてのちに漢国(中国)の風俗にならい、名指しが無礼とされるようになった、と宣長は考えたのである。しかし穂積陳重は、フレイザー『金枝篇』などの文献を独自に調査し、このような名前に関するタブーが漢字文化圏のみならず、世界各地に存在することを突き止めたと述べた。そして日本でも中国の諱の礼制が導入される以前から、実名を避ける習慣が存在したとして、これを「実名敬避俗」と定義した。


アジア中国の大きな影響下にあった古代の日本。上記によるとわが国も中国同様の名前に関するタブーが存在したとあるが、その真偽は置いても、わが国がわけもなく中国の模倣をしたとは思えない。その模倣には中国同様の名前に対する宗教性が下地としてあったと見るべきだろう。


「有名」や「名誉」などは、現在でも大きなテーマであり続けている。有名人に群がり持ち上げる、あるいは自分への癒やしを求める。このように人に価値として上下を付けたりするのは、人間的なものなのか、それとも動物生のなごりなのか?人間的なものとしてそれに対するのは「平等」ということか・・・






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