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14 | 理想の都市 | |||
15 | 理想の自分のイメージ | |||
186 | 歴史の無意識 | |||
212 | ロシアのアジア的古代性 | |||
223 | 労働と身体的な差異 | |||
240 | 老齢 | |||
255 | 歴史の必然 | |||
275 | 歴史観の組み直し | |||
276 | 政府に対する国民のリコール権 | |||
323 | 老人問題・出生率問題 | |||
366 | 論理・抽象と経験的イメージ | |||
368 | 類と個 | |||
369 | 理想の未来社会のイメージ | |||
399 | 歴史 | |||
409 | 老齢とは何か | |||
410 | 歴史 |
項目ID | 項目 | 論名 | 形式 | 初出 | 所収 | 出版社 | 発行日 |
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14 | 理想の都市 | 都市から文明の未来をさぐる | クレア(文藝春秋) 1994年4月号 |
わが「転向」 | 文藝春秋 | 1995/02/20 |
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人間にとって一番、理想の状態 |
項 目 抜 粋 1 |
@ 究極の意味で理想の都市とは何か?これは大真面目に論じるのも愚かなことです。人間にとって一番、理想の状態ははっきりしていますよ。それは、端的に二十四時間、全く働かないこと。ボタンを押せば、食い物がひとりでに出てきて、自分の好きなものが食べられる。それからどこかへ遊びに行きたくなったら、ボタンを押せば、椅子が自動的に移動してゆく。眠くなったら、また別のボタンを押す。そうするとするすると自動的にベッドメイキングされて、横になる。・・・・誰がなんと言おうと、僕はそれ以外の理想はないと思う。 (P101-P102) |
備 考 |
(備考) 吉本さんの食べものに関する理想は特に、アメリカのテレビドラマ『新スタートレック』の世界とそっくりだ。ビカード艦長率いる宇宙船エンタープライズ号内では、コンピュターとは音声で会話・指示ができ、食べ物や飲み物は「レプリケーター」という機械に向かって欲しいものを言うだけで瞬時にできてくる。 これらの吉本さんの理想のイメージに関しては、現在からのいろんな異論がありそうに思われる。例えば、そんになんでも簡単に手に入るようになったら、人間は退化するのではないかなどなど。しかし、人類は吉本さんの描く理想のイメージの流線をたどってきているように見える。便利になりすぎて肥満になったりからだがなまったら運動をするというように、人類は問題を解決してきているし、これからも解決していくものと思われる。現在的な状況からその理想のイメージをいろいろ吟味しても仕方がないと思われる。それは、人類史の主流の歩みを踏まえて吟味されるべき理想のイメージの問題だと思う。 吉本さんの提出したこの人間にとっての理想のイメージは、同時に吉本さんの日常生活のものの感じ考え方や性格も反映しているように思われる。 |
項目ID | 項目 | 論名 | 形式 | 初出 | 所収 | 出版社 | 発行日 |
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15 | 理想の自分のイメージ | 都市から文明の未来をさぐる | クレア(文藝春秋)1994年4月号 | わが「転向」 | 文藝春秋 | 1995/02/20 |
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米沢の高専時代 |
項 目 抜 粋 1 |
@ 米沢の高専時代、寮に入っていまして、仲間うちで同人誌をつくったりしていた。そのときたまたま、「理想の自分のイメージは何か?」というアンケートを出しましてね、こういうふうに書いた覚えがあります。東京の街中の街路樹が植わっている道を、一人の男が俯いて、ポケットに手を入れて歩いている、それが自分の理想的なイメージだと。 それは自分自身のイメージであると同時に、東京そのもののイメージでもあります。僕の想像以上に、自分を東京人として意識している自分がいたわけですね。(P109) |
備 考 |
(備考) 註.『読書の方法』(2001.11.25 光文社) P134−135参照 この「理想の自分のイメージ」というものは、一般に時代性とその個の固有性とから織りなされているように見える。 この自分のイメージと対応していると思われるが、吉本さんがしばしば述べた、明るさと暗さに関する考察は、1970年代以降の消費資本主義のもたらす感性の出現に対して、自分の考察やイメージは修正する必要があるかもしれないというようにどこかで語られていた。 吉本さんの明るさと暗さに関する考察は、以下の太宰治に触れた文章があったように思うが、どこにあるか今は取り出せない。 「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。(『右大臣実朝』 青空文庫) |
項目ID | 項目 | 論名 | 形式 | 初出 | 所収 | 出版社 | 発行日 |
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186 | 歴史の無意識 | 世界史のなかのアジア | インタビュー | 世界認識の方法 | 中央公論社 | 1980/06/10 |
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歴史が無意識のうちに最良のような感じで積み重ねてきた | 人間の無意識に柔軟性があるように、歴史の無意識構造として柔軟性がある強固なもので、現実に適応して変貌しながら延命し、延命しながら変改していく | マルクスの思想の有効性を検証する段階のイメージ |
項目 抜粋1 |
@ 漠然とした感じ方をいいますと、歴史の無意識というもの、歴史が無意識のうちに最良のような感じで積み重ねてきた段階としての民族国家、つまり近代資本主義国家は、マルクスやエンゲルスが考えていたよりもはるかに、状況にたいする適応性が強く、かつ人間の無意識に柔軟性があるように、歴史の無意識構造として柔軟性がある強固なもので、現実に適応して変貌しながら延命し、延命しながら変改していくようにおもわれます。しかし、マルクスの予測は甘かったのかどうか、これからどういう形で次の歴史の段階に移るのか、いずれにしてもマルクスの思想の有効性を検証する段階のイメージは誰にも輪郭が明瞭になっていません。またその段階にはいたっていません。マルクスの思想は、まだほんとうの意味では一度も打撃を受けていないし、またほんとうの意味では、一度も実現していない。ぼくはそう理解しています。 (P105) |
備 考 |
(備考) まず、この「歴史の無意識」という言葉に出会った時、うーむと驚いたことがある。これはたぶん、吉本さんが生みだした概念だと思われる。そうして、その内容には、吉本さんが晩年によく口にしていたお猿さんから分かれてきた人間というものの本性が関わっているはずである。 |
項目ID | 項目 | 論名 | 形式 | 初出 | 所収 | 出版社 | 発行日 |
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212 | ロシアのアジア的古代性 | ドストエフスキーのアジア | 講演 | 1981.2.7 | 超西欧的まで | 弓立社 | 1987/11/10 |
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アジア古代的なミール共同体 | ロシアのアジア的な古代性という枠組み |
項目 抜粋 1 |
【二 <アジア的>とドストエフスキー】 【イ ロシアのアジア的古代性】 Cドストエフスキーの精神の地下工房で作られたこういった主人公たちの魅力ある性格は、もしかすると性格という概念にあたらないかもしれぬとかんがえたら、いったいどんなことになるでしょう。 (P142) Dぼくたちはどうしても、ドストエフスキーがじぶんの作品の世界に、眼にみえないロシアのアジア古代的な感性や思想性の枠組みを施しているという仮定に導かれます。これをドストエフスキーが「祖国主義」と呼んだとしても、「土着主義」と呼んだとしても、そのことには意味がありません。ただ世界をロシアのアジア的な古代性という枠組みで、構成していたかどうかが問題となるだけです。(P144) Eしかしそれを反動的だとか保守的だとかいって卻けるのは、表層の解釈です。その根柢にあるのは、ロシアの社会にあった強固なアジア古代的なミール共同体の、意識の枠組みをどう処理するんだという課題が存在するようにおもわれます。 (P148) 【ロ <アジア的>という真理】 F<アジア的>というのはなにかといいますと、一見反動的とおもわれるもののなかに、あるいは反進歩的とおもわれるもののなかに、あるいは保守的な停滞とおもわれるもののなかに存在する真理のことを指しています。その真理を普遍的な言葉で<アジア的>というのです。 (P149) Gこの構造はマルクスが発見し、そしてそれを取りだしました。そこには停滞もあれば、迷妄もあり、反動性や保守性もありますが、同時に近代以後には失われてしまった偉大さや平安もあります。つまり偉大さや平安も、迷妄や保守性も同在し、共存している概念として、マルクスは<アジア的>という概念を提出したわけです。(P150) |
備 考 |
(備考) |
項目ID | 項目 | 論名 | 形式 | 初出 | 所収 | 出版社 | 発行日 |
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223 | 労働と身体的な差異 | 共同幻想とジェンダー | 講演 | 1983.2.12 | 超西欧的まで | 弓立社 | 1987/11/10 |
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項目 抜粋1 |
@十九世紀以降の、資本主義社会の興隆期に入ってから、なぜ男女の特性が、生産労働の過程で無視できるとかんがえられたかについて、ぼくなりの説明のしかたをやってみます。・・・・ ですから、労働日、あるいは労働時間の問題が、とても重要なんで、どういう生産物を作ったか、あるいはどういう質の労働を加えたかという差異は、あったとしても、たいしたことではない、というのがマルクスの考え方です。・・・・ いいかえれば、「性」のちがいは、生産物の価値や価格に影響をおよぼさないんだという考え方になります。 (P330-P331) Aそれから、もうひとつ、そのような男女の性的区別・差別というのは、生産社会において関係ないとかんがえるには、いくつかの大きな前提が、存在しているわけです。 ひとつは、近代社会、つまり資本主義社会以降であることが前提です。どうしてかというと、極度に分業化と機械化が進んでいて、個々の労働の質的なちがいのようなものは、近似的にはほぼおなじだとみなしうるからです。・・・・ ほんとは、具体的にいうと、かならずしもそうではないのですが、そうででないということを、いわば復活させようという考え方が、イリイチの考え方だとおもいます。近似的にいいますと、労働によって生産された商品、あるいは生産物の価値に関係があるのは、労働量だけであって、どういう質であるかとか、それを生産した人が怠け者であったか、勤勉だったか、そういうことはほとんど関係ない。あるいは関係あるとしても、ほんとに無視できるほどの関係しかないんだ、というのが前提になっています。(P333) Bマルクスの概念でいえば、このシャドウ・ワーク、家事労働みたいなものは、亭主、つまり社会生産過程にはいっていく賃労働者である男性の生活自体を再生産するために、加味されているということになります。つまり、亭主の労働力を再生産するため、ちゃんと主婦の家事労働の価値は付け加えられているから、いってみればこれは亭主の賃金、あるいは賃労働の中に含まれているという考え方になります。 (P337) |
項目抜粋 2 |
Cマルクスが分析していることは、ある意味で正しいだろうとおもいます。すくなくとも、ぼくの主観では、原則的には正しいという考え方に加担したいわけなんです。しかし、マルクスのこういう考え方が通用するのは、たぶん資本主義社会の発生期か、興隆期までのところまでではないだろうか、ということです。つまり現在の先進的な資本主義社会のように爛熟期になっては、通用しない面があるのではないか、ということです。 (P338-P339) |
備 考 |
(備考) |
項目ID | 項目 | 論名 | 形式 | 初出 | 所収 | 出版社 | 発行日 |
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240 | 老齢 | V 世代を超えて | 対談 | 1993.8.24 | こころから言葉へ | 弘文堂 | 1993/11/15 |
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無限に若い世代というのが無限に軽みの世代だとすれば |
項目 抜粋1 |
@生理的にというか身体的にというか、だんだん頑固になって、会社勤めで言えばもう六十歳の定年の年齢をとうに過ぎていますから、頑固爺になってしまうというか、いろんなことに関心をもったり、あちこち出歩くのがだんだん面倒になって来ます。頑固親父がなぜ生まれて来るのか、そういうことが生理的な実感でわかるようになってきました。そうではあるのだけれど、次の世代とか次の次の世代というのではなくて、無限に若い世代を理解できるというところに行きたいものだと思います。無限に若い世代というのが無限に軽みの世代だとすれば、物書きとして、軽みに展開できる言葉というか文体をいつまでも手離さないでいたい。それが出来るかどうかわかりませんし、若い世代が私の言うことを理解してくれるかどうかわかりませんが、こちらの主観としてはそういうふうに考えるわけです。 (P176) Aわれわれの若いときにはこんなふうには振る舞わなかった、あんなことは言わなかったといったことはたくさんあって、生理的にとか身体的には、のどもとまで出かかっていることがありますけれど、これを言ったら終わりというふうに思うわけです。出かかっても絶対に言わない。まあそういうように心がけたいものです。 (P176-P177) |
備 考 |
(備考) |
項目ID | 項目 | 論名 | 形式 | 初出 | 所収 | 出版社 | 発行日 |
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255 | 歴史の必然 | ”新型の精神異常”が現れたアメリカの読み方 | インタビュー | 超「20世紀論」』下 | アスキー | 2000/09/14 |
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歴史の必然 | ”広義の日本人”という概念 | 西洋近代を通過することは必然であるという考え方は怪しいぞ |
項目 抜粋 1 |
@僕は、この頃、資本主義の隆盛期までに西欧で確立したいろいろな思考法とか文化とかを通過することは、必ずしも歴史の必然ではないんじゃないかという気がしているんです。もちろん、アメリカ化ということも、通過すべき歴史の必然じゃないんじゃないか、という気がします。文化とか伝統についての概念を拡張して考えていくと、そういう考え方に至っちゃうんですよ。 個人主義もそうですし、文化的な事柄にしてもそうですが、これまで、日本は西洋近代をお手本にしてきました。でも、西洋近代を通過することは必然かといえば、必ずしもそうじゃない、西洋近代を通過することは必然であるという考え方は怪しいぞって、最近、僕はそう疑いはじめています。 明治維新以降、西洋近代を取り入れることで、日本がある程度成功してきたのは、割合に偶然の要素が多いんじゃないかという気もするんです。西洋近代を通過しなければ、現在に至らず、そしてまた、未来は開けてこないのかといったら、そうじゃない。ヘーゲルやマルクスは、西洋近代を通過することが歴史の必然と考えましたが、それはどうも、それほど普遍的なことではないのではないか、という気がするんです。 歴史をさかのぼると、そういうことが見えてきます。たとえば、「日本人」という概念にしても、弥生・縄文時代にまで歴史をさかのぼることで、もっと”広義の日本人”という概念をつくり出せるんじゃないかと思うんです。そして、その”広義の日本人”という概念を獲得することによって、西洋近代を通過しなくても未来にいける道筋が見えてくるのではないかとも思うんです。 先程もいいましたが、「日本の伝統」にしても、それを歴史的にもっと掘り下げていくと、西洋やアフリカなどの伝統とも共通する「世界的な伝統」という普遍性が見えてくるはずです。 そして、その普遍性を踏まえて歴史を眺めれば、ヘーゲルやマルクスが考えていたような歴史の必然的な発展とは違う発展の仕方が見えてきて、しかも、それは未来のあり方を考える上で、大変、重要な視点になりうるのではないかと思うんです。僕は、最近、そういうふうに考えています。 (P191−P193) |
項目抜粋 2 |
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備 考 |
(備考) 註.【データベースIDNo270】参照。 |
項目ID | 項目 | 論名 | 形式 | 初出 | 所収 | 出版社 | 発行日 |
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275 | 歴史観の組み直し | V 国家について | 談話 | 遺書 | 角川春樹事務所 | 1998/01/08 |
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人類史の母型 |
項目抜粋 1 |
@・・・・「アフリカ的段階」という人類史の母型を設定したいわけです。 その段階の上に、西欧的近代・現代、または、アジア的専制、アジア的近代、アジア的現代というのがあるということです。 つまり、西欧的近代・現代へと、アジアもアフリカもみんなそこを通っていくという考え方では駄目ではないかというのが問題の核心です。 それは、さきほども話しましたが、アフリカの現在の問題は、西欧近代的な発展段階の史観が通じない。近代主義化ではない考え方をつくれなければ、解決の糸口はつかめない気がします。 ヘーゲルやマルクス、エンゲルス、人類学者のモルガンなどが十九世紀の後半に「野蛮」とか、「未開」「原始」というように発展の梯子段をつくって考えた近代主義に偏執してた段階は、間違っているのではと考えます。 A「アフリカ的段階」というのは、人類の総合的な母体で、その上に、アジア的とかヨーロッパ的とかいう段階が成立している。それが現在の僕の考えが行き着いたところです。 だから、近代の発達史観は十九世紀の後半の特殊な時期に成立しただけのものだと思います。少し系統的に整備してみたいと思って、いまやっているところです。 マルクスはヘーゲルが唱えた近代史観に多少疑いを持っていて、「原始」と「古代」の間に「アジア的段階」を考えました。それは折衷的なものです。歴史観を組み直さなくては駄目なのではないかと思います。 天皇制の問題は、二種の要素があります。文明史観でいえば、日本から農業が減っていくのと同じで、天皇制はだんだん宗教的でなくなり、象徴的でもなくなっていく。しかし、人類学的な考察で掘り下げれば、日本列島という地域の固有の宗教の形として「アフリカ的段階」の特質まで掘り起こす課題につながります。 (P78−P80) |
備 考 |
(備考) |
項目ID | 項目 | 論名 | 形式 | 初出 | 所収 | 出版社 | 発行日 |
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276 | 政府に対する国民のリコール権 | V 国家について | 談話 | 遺書 | 角川春樹事務所 | 1998/01/08 |
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項目 抜粋 1 |
@僕が、憲法の中にぜひ一項目入れなければならないと思うのは、議会制民主主義に対する異議申し立ての手段です。・・・・・ さしあたって具体的に考えられる唯一のことは、政府に対するリコール権です。経済的な状態や消費状態などを考えると、どうしてもそうなります。それだけの実力を少なくとも経済的には一般の国民が持ってきているからです。 リコール権の規定があれば、国家は国民に対して開かれますから、次の段階へ移行できる条件を持つことができます。 ヨーロッパは、そういうチャンスを逃したまま、ヨーロッパ共同体を成立させる課題に入っています。だから、「死んでしまった」という言い方もできるのです。国家はもはや部分的に壊れてしまって、ヨーロッパ共同体みたいなものをつくって、部分的には独立していて部分的には共同でというやり方で進む以外にはありません。それは決して未来ある行き方ではないのですが、それしかとれない状態だと思いますね。 (P81−P82) |
備 考 |
(備考) |
項目ID | 項目 | 論名 | 形式 | 初出 | 所収 | 出版社 | 発行日 |
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323 | 老人問題・出生率問題 | 胎内記憶と臨死体験 | インタヴュー | 新・死の位相学 | 春秋社 | 1997.8.30 |
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項目抜粋 1 |
@ ・・・(中略)・・・そこはどこかでまた修正されるんでしょうが、そういうふうになった段階で、これをどうするのか。このまま減っていってなくなってしまうのか。そうはおもわれないから、どういう解決の方法があるのだろうか。死ということも含めて出生ということをかんがえると、胎内の受精期以降の問題まで人間の生涯を延長してというか、それでかんがえたうえで出生率問題をかんがえないと、解決できないような気がするんです。 A だから、どういうふうに女の人が納得して、人口が増えていくのか。どうしても受精した以降からのことが納得できなければ、女の人は納得しないですからね。いまの段階だったら、妊娠というのは不利な条件だとしか女の人はかんがえていないでしょう。少なくとも一年は胎内で育てなければいけない。そして四、五歳までは、じぶんが面倒を見なければ赤ん坊は育たない。そうすると、だいたい五年とか六年は、男にくらべて絶対的に不利じゃないか。もしじぶんのことで何かしたいということが目的であれば、不利じゃないかとおもわれています。 そういう考え方を押しすすめていくと、絶対に解決しようがないということにになるんですが、もし生とか死ということもを含めて、生死の問題が受精期も含めていえるようになるのなら、またべつの考え方になりえます。そうすると、それはやはり胎内の問題とは何なのかということが、はっきりさせられなければ納得しないでしょう。それはたぶんさせられるだろうなという気がするんです。 どこかで女の人が納得するかもしれないということはかんがえられますから、出生率が回復するかもしれない。それはほんとうにわからないところですが、受精卵をどこか胎外で機械的に成長させるという装置が医学的にできるとか、そういうことがあるのかもしれないし、それはちょっと見当がつかないです。いずれにしろ納得させられなければダメですよね。 そうですよね。機械装置で胎外で受精卵を成長させることができるようになるというばあいでも胎内とは何なのかが解決しなければダメでしょうね。納得できる説明ができるようにならなければ、やはり納得しないですね。 B ・・・・・・・・・・そうすると、逆なことを言ってもいいわけです。つまり老齢化社会になって老人問題というのが出てきた。二〇一〇年にはたとえば四人のうち一人が老人で、三人がそれにたいして経済的に負担しなければいけなくなってくるという言い方がなされています。しかし、ぼくはそうはおもえないんです。どうしてかというと、そのときには、たとえばいまの七十歳の人にくらべて二〇一〇年の七十歳という人は、三倍くらい働けるようになっているんじゃないかとおもうからです。そこが変わるんじゃないかとおもうから、いつまでも固定的にかんがえて三人が一人を養わなければならないというのはちがうんじゃないか。もしそれがほんとうだとしたら、文明が発達し、人間の寿命が長くなるということはいいことじゃないことになります。少なくとも長寿になることは人間にとっていいことだということが肯定できるとすれば、三人が一人の老人を養わなければならなくなるという悲観的な言い方は成り立たないような気がします。 だから、老人問題も出生率の低下という問題もおなじことになって、胎内の問題と死という問題、あるいは死後でもいいですが、その両方ともそうとうはっきりするということが前提になるような気がします。いろいいろな面からそれに近いところまで行っているから、それがいまにわかるようになって、納得できるということになるんじゃないか。そういう感じです。 (P106−P108) |
備 考 |
(備考) |
項目ID | 項目 | 論名 | 形式 | 初出 | 所収 | 出版社 | 発行日 |
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366 | 論理・抽象と経験的イメージ | マルクス者とキリスト者の対話(2) | インタヴュー | マルクス―読みかえの方法 | 深夜叢書社 | 1995.2.20 |
「止揚2」1971.11月
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基本的な押さえ方 | 経験的なイメージ |
項目 抜粋 1 |
@ ええっと、その最初の<個体>というのをどういうふうに使っているかということから申しあげます。ふつう個人とか集団とか、まあ、ごく通俗的にいえば、”私個人としては”とかいうようなことで、<個人>という言い方が第一人称の存在をさすばあいがあります。<個人>という言い方のなかには、いろんな夾雑物が含まれている気がします。夾雑物というのは<個人>の感情を意味したり<個人>の社会的な位相を意味したり、またいろいろな利害関係を意味したりするわけです。そういうものをなにか漠然と含んで<個人>という言い方がされているので、いちおうそういう夾雑物を排除したいということから、<個体>という言葉を使っています。そのばあい<個人>という概念からいろんなものを排除してなにをのこしたいのかというと、それぞれの<個人>がひとつの<身体>をもっていて、<身体>というものは動物的なわけですが、その<身体>の座の上に<観念>あるいは<観念>の作用があるというところだけをのこしたいのです。そんなところでものをいってみたいということで、<個体>という言葉を使いました。そうするといまの質問にありましたように、それでは<個体>をそんなふうに使うとすれば、自己観念も、他者に対する観念も、いずれにせよみんな<個体の観念>にすぎないではないかということになるわけです。 とてももっともですが、その疑問の出方は、いずれにせよ、ひとりの個体が他のひとりの個体に対する観念というばあいにも、他のひとりというのを、ひじょうに具体的にたとえばある色の洋服をきてこういう容貌をした女性であるとか男性であるとか、そういうことを無意識のうちにかんがえて、対幻想というふうな観念をかんがえているのではないかとぼくにはおもえます。 ・・・・(中略)・・・・そういう混同を避けたいために、<対幻想>というものを個体の自己観念、自己幻想というものと区別してかんがえているわけです。だから、それはやはりひとりの個人のなかにあるにちがいないのだけれども、そういうふうにいってしまうと、みんな曖昧模糊となってます。そうすると、共同性のなかの個人というばあいも、その個人という概念のなかにまた夾雑物が含められて、そこでまた、これいったいどういうふうに使っているんだということがでてくるとおもうのです。だから、そういうふうにでてきますと、いずれにせよ個体の自己幻想でも個体の対幻想でも<個体の観念>にちがいないではないか。それなら、共同性のなかの一員としての自分というばあいでも、やはり<個体の観念>にちがいないではないかというふうになってしまうわけです。だから、そういう混同を避けたいために<個体>という言葉を使っているわけです。個体の自己観念あるいは自己幻想と、個体の対幻想(他の個体と関係をむすぶ幻想というもの)と、共同体に対してむすぶ共同幻想とは、それぞれ位相がちがうんだ、つまり次元がちがうことなのだということをいいたいわけです。それはいずれにしたって個人の観念にちがいないではないかという位相でいいますと全部曖昧になってしまうのです。ただそういうような言い方をしたいならば、個人というのはけっして抽象的【「抽象的」に傍点】な個人ではなくて、具体的にこれこれの顔をしてこれこれの洋服をきてこれこれの家に住んで、これこれの仕事をしてこれこれの社会に住んでいるというような、そういうものを全部含ませて、それで<個人>というふうに使わないと曖昧になってしまいますね。つまり論理的にはそれを避けたいということから<個体>という観念ができているわけですし、それから、個体の自己幻想というものと、対なる幻想というものと、それから共同幻想というものとはそれぞれ位相がちがう【「位相がちがう」に傍点】ということをいいたいわけです。 ( P49−P51) A だから、むしろぼくの感じでは、最初に<個体>という観念をどういうふうに設定したかというところさえ明瞭なら、あまり深読みはしないほうがいいようにおもえますね。要するに<やつはそう厳密に書いているわけじゃねえんだ>(笑)というふうにかんがえられたほうがよろしいのではないでしょうか。だけれども、<個体>という言葉を使ったとか、<個体の幻想>とか<自己幻想>とか、<対なる幻想>とか<共同幻想>とかいうばあいの基本的な押さえ方は、けっして曖昧ではない押さえ方をしているつもりなのです。だから、そのほかのことは、あまり深読みはしないで<ふふん、こういうことをいっているんだな>というふうに読まれたほうが、かえってよろしいのではないか(笑)とおもいますね。 ( P52−P53 ) |
項目抜粋 2 |
B いや、それでよろしいんじゃないでしょうか。というのは、それは、ぼくよりもずっとよくかんがえて(笑)いるようで、ぼくはそれほどかんがえなかったんです。ええと、こまっちゃうんですね。(笑) まあいいんですが、書物というのはそんなふうに読むべきものだとおもいますけれどね。つまり、論理的な展開をするばあいになにが基礎にあるかといえば、いずれにせよ経験的な事実とか、それから直接自分が体験しないけれど、たとえば書物を媒介に体験したとか、それからかつて体験したとかあるいはかつて見聞したとか、つまりそういうことのイメージというか想像というものが、最大限にいつでもあるわけです。あるていど抽象のレベルをもった論理を展開をするばあいに、いつでもそういう経験的なイメージというものをもちながら論理展開していくもので、ひとによってちがうでしょうが、ぼくはそういうやり方をしています。だからぼくはとても簡単なことをいっているつもりです。 ( P55−P56 ) だから<死>についてある抽象的なレベルで論理を展開していくばあいにも、そういう経験的、体験的事実、あるいは事実についてのイメージというものをふまえて、論理を展開していくことがぼくはあるとおもうのです。だからぼくは、自分で書いたものですから、すぐにそんな論理の展開を経験的なイメージあるいは事実みたいなものに還元できますから、そういう意味で疑問はあまりおこらないわけです。それで「移行」というような概念でも、共同幻想から「浸透」されるとか「侵蝕」されるとかいう概念でも、経験的なイメージにすぐ還元できますから、そんなにわからなさというようなことがのこらないです。しかし、これがごく一般的に読まれたばあいに、どういうふうに疑問がでてくるのかということになると、これはまたさまざまだろうとおもいます。書いたご当人にいわせると、経験的なイメージに還元してみれば、スパッとわかるはずじゃねえのかということになります。そこのところで通じないばあいにおまえの考え方に普遍性があるかどうかになってきますと、またおのずから別な説明の仕方をしないといけないようにおもいます。どうでしょうか。事実問題として観念的に<死>というものをみた場合に、それは個体の幻想というものはとにかく共同幻想に侵蝕されちゃうというのを、経験的なイメージに還元するということはあまり容易ではないでしょうか。そういういい方はあまり普遍性がないでしょうかね。 ( P59 ) |
備 考 |
(備考) 註.Bについて。<論理の展開>、<書く>方法。 |
項目ID | 項目 | 論名 | 形式 | 初出 | 所収 | 出版社 | 発行日 |
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368 | 類と個 | マルクス者とキリスト者の対話(2) | インタヴュー | マルクス―読みかえの方法 | 深夜叢書社 | 1995.2.20 |
「止揚2」1971.11月
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項目抜粋 1 |
@ 三島 いまの問題は根柢的、本質的というふうなことであるわけですけれども、そういうところに存在論ですね、そういう問題がやはりからんでくるとおもいます。これをどういうふうにみていくのかということがまたひじょうに本質的だろうとおもうのです。で、吉本さんは、「つづめてみれば、かれ自身にどんな意志もないにもかかわらず、そこに『存【?】った』という初原性に存在論の根拠というのは発している」というふうにいっておられるわけですけれども、「そしてその初原性に意味を与えようとすれば<類>と<個>としての人間という概念をあみださざるをえない」と続いています。ここでの<類>というのとそれから<共同幻想>というふうに吉本さんがみてらっしゃることと、かなり重なってくるわけでしょうか。 ううん、そのばあい<類>と<個>というのは、あくまでもひとりの主体のところで、<類>と<個>をいっているんで、共同幻想というものともちろんある操作をほどこすと重なるとはおもいますが、ひとりの個体として<類>と<個>という観念の仕方があるということではないでしょうか。だから、その場合の<類>というのは確かにある操作をほどこすと共同幻想という意味あいと同じく重なってきます。それはあくまでも、<個>に則して<類>といっているわけで、<個>に則して<個>という概念と<類>という概念というふうにいっているとおもいます。だから重なるでしょうけれど、そのはいっていき方の通路は別なところからいっているとおもいます。人間は”自然の一部なんだ”というのは、マルクスからも教わったんですが、それより前に宮沢賢治という詩人がそういうことをいっていたので、それでおぼえたようにおもっています。これはまあ、ぼくの経験的なイメージなのです。 ( P67 ) |
備 考 |
(備考) 註.1 関連 「経験的なイメージ」 No366 |
項目ID | 項目 | 論名 | 形式 | 初出 | 所収 | 出版社 | 発行日 |
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369 | 理想の未来社会のイメージ | 未来国家のキーワード | インタヴュー | マルクス―読みかえの方法 | 深夜叢書社 | 1995.2.20 |
「潮」1981.1月号
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項目抜粋 1 |
@ この理想として描かれる価値法則のない社会のイメージは、現在、資本主義国と社会主義国が共にたどっている様相とギャップがひらいていく一方です。そうすると理想の社会の原型を描くこと自体が空疎な無力な孤独な徒労ではないかという問題がでてきます。これは、社会的な問題についても、文化現象の中で個人の内面がどうあるかということは無力ではないのか、という問題としてあらわれます。こういう無力感、徒労感、孤立感に耐えてもなおかつ理想社会のイメージを描かなくてはならないのか。ほんとうをいえば、このことだけが現在の問題だとおもいます。 現在、資本主義も社会主義も区別なしに進んでいって、集中された富が再び大衆に還元される方法が、いずれにせよ両社会体制が共通にとろうとしている方法だとすれば、いまの世界の体制をおおすじに肯定しながら、部分的に異議申し立てをしたり修正を加えていく以外にないというかんがえもあるでしょう。 また、理想の原型を描くのはムダだから、どちらの体制もとっていく共通の考え方へむかって少しでもよくこしらえることのできるイメージをつくるのが具体的かつ現実的であって、それ以外に無力感を克服することはできないという考え方もあるとおもいます。現在は、そうした岐路に思想が立たされている気がします。 現在のこういった状況のつかまえ方は、大ざっぱであれば誰も似たりよったりです。ただ、それに対して理想のイメージの原型をどのように構築するか、あるいは理想のイメージの原型に近づかせるために部分的に補修していくことのほうが重大なのか、という岐路に立つとき、はじめてぼくは、現在の思想の状況的なきつさを体験する気がするんです。じぶんはどのようにそれに耐えるのか、あるいはどこまで耐えてイメージを明瞭にしなければならないのか、ということがいちばん切実な課題になっているんですね。 ( P98−P99 ) |
備 考 |
(備考) |
項目ID | 項目 | 論名 | 形式 | 初出 | 所収 | 出版社 | 発行日 |
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399 | 歴史 | 第一部 身体 第一章 身体 |
インタビュー | 老いの超え方 | 朝日新聞社 | 2006.5.30 |
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項目 1 |
@ できているんだと思いますね。長い間の歴史がありますから。つまり、百万年単位の歴史がありますから。近代ヨーロッパが歴史だと言っていることは歴史ではないのです。あれは文化ないし文明史で、人間にはもっと数百万年の歴史があるのにそれをカウントしないで、近代ヨーロッパの文化史や文明史を歴史と言っている。だから、僕は疑いを持っていて、猿から分かれたところからちゃんとやって見せるかなと思っています。 ー人間の身体は、数百万年の歴史を持っているという考え方も可能でしょうか。 可能ですね。基本的にそうですね。 ーそうすると、平成の現代や、例えば江戸時代とか、そこに人間の身体が適合したり適合しなかったりというのが歴史なのかもしれませんね。 それはあり得ますね。近代ヨーロッパの文明史・文化史を歴史と考えると、人間がすごく狭くなってしまいます。つまり、イマジネーションは脳の働きとは関係ないというくらいまでいってしまっている人間と、反射的な運動性が内面と一緒になっている動物と何が違うのかというと、その歴史しかありません、それだけだと思いますね。。 ー数百万年の遺伝子は、なかなか変わっていないと考える。 僕は、そういう数百万年前の猿から分かれたときからの、あるいは言葉を獲得したときからの歴史を、なんとかつなげてやるかなと思っているけれども、なかなかつながらない。 (P48−P49) |
備 考 |
(備考) |
項目ID | 項目 | 論名 | 形式 | 初出 | 所収 | 出版社 | 発行日 |
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409 | 老齢とは何か | 第二章 老齢とは何か |
論文 | 中学生のための社会科 | 市井文学 |
2005.3.1 |
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意力と行動との背離性 | 超人間 |
項目 1 |
@ 老齢化で一番辛いことは、身体の動きが鈍くなり、足腰が弱くて痛みがともなうといったことではない。自己の意力や意志、そう志向することと、それに従って実現しようとする行為や運動性との「背離」が著しく増大することだ。これは若い人にはわからない。老齢だから身体を動かすのが億劫なんだと誤解している。丁寧にいえばそうに違いないのではあるが、真の原因はこの意力と行動との背離性にあるのだ。これは専門と素人、熟練と浅い経験との違いではなく、老齢に固有のものだ。 わたしたちのような引きこもりを職業的専門にしてきたような老齢と、運動性を職業にしてきた老齢は、同じ老齢でもこの背離を助長する職業と、この背離を縮めることを職業としてきた者としての決定的な相違がある。この見方からすると、老齢というのは年齢ではなく、この意力と身体の運動性の背離の大小だといってよいとおもう。これを老齢の二重性として理解できるかどうかが、本当の科学性であるといえよう。 (P79−P80) |
項目 2 |
A 動物身体の運動性は人間を除いてすべて反射的なものだ。意志と行為のあいだに分割や間隙がない。人間は意思することと身体運動を起こすこととのあいだに時間差があり、そのあいだにあらぬ空想を混じえたり、想像にふけったり、妄想や思い込みにとらわれたりする。これは身体行動を鈍く遅くするが、思考や想像力を豊かに発達させ、言葉を生み出すことに寄与してきた。 老齢者は身体の運動性が鈍くなっていると若い人はおもっていて、それは一見常識的のようにみえるが、大いなる誤解である。老齢者は意思し、身体の行動を起こすこととのあいだの「乖離」が大きくなっているのだ。言い換えるにこの意味では老齢者は「超人間」なのだ。これを洞察できないと老齢者と若者との差異はひどくなるばかりだ。老齢者は若者を人間というものを外側からしか見られない愚か者だとおもい、若者は老齢者をよぼよぼの老衰者だとおもってあなどる。両方とも大いなる誤解である。一般社会の常識はそれですませているが、精神の「有事」になると取り返しがつかない相互不信になる。感性が鈍化するのではなく、あまりに意志力と身体の運動性との乖離が大きくなるので、他人に告げるのも億劫になり、そのくせ想像力、空想力、妄想、思い入れなどは一層活発になる。これが老齢の大きな特徴である。このように基本的に掴まえていれば、大きな誤解は生じない。 B けれど高齢者は動物と最も遠い「超人間」であることを忘れないで欲しい。生涯を送るということは、人間をもっと人間にして何かを次世代に受け継ぐことだ。それがよりよい人間になることかどうかは「個人としての個人」には判断できない。自分のなかの「社会集団としての個人」の部分が実感として知ることができるといえる。 (P82−P84) |
備 考 |
(備考) |
項目ID | 項目 | 論名 | 形式 | 初出 | 所収 | 出版社 | 発行日 |
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410 | 歴史 | 第二章 老齢とは何か |
論文 | 中学生のための社会科 | 市井文学 |
2005.3.1 |
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文化史や文明史 | 歴史 |
項目 1 |
@ 逆にこの「人間だから」が意力を越えて修練するために行為とのあいだの背離を通常より拡大するのか。これは人類が他の哺乳動物、たとえば一番人類に近い動物(類人猿)からこの意志力とそれを実現しようとする行為(運動)との背理を常に拡大しようという衝動をもち、拡大の空隙を言語と想像力によって充填しようとしてきた理由であるといえる。これが言語を喋り、脳の働きと関係ないようにさえ思わせるような想像力や空想や妄想を生み出す不可思議な動物(人類)を生み出し、文化と文明を生態史の先につけ加えた所以だといえよう。 わたしたちは文化史や文明史にほかならないものを人間の「歴史」と考えさせられてきた。これは西欧近代の歴史の誤解だといえよう。人類が猿類と分かれたのは百万年を単位とする以前といわれている。また人類が地域と種族の別によって種族語による固有言語を生み出し、居住地域の集合が拡大するにつれて民族語と呼ばれるものを作り出すに至ったのは十万年単位の以前といわれる。また人類の生態的な身体機能は植物性、動物性を包含する固有性を精神機能と乖離したり、合一したり、言語を分断し、造語し、クレオール化した全歴史を所有して現在に至っている。 これらの総合が人類(人間)の「歴史」であり、文化史や文明史が「歴史」ではない。文化史や文明史を「歴史」とみなしたがために、器物や遺跡、道具とその使用、またはその便宜性の増大、それを認知する精神の機能的な発達を「歴史」の進歩とみなすようになってしまった。ある古典時代の初期に(たぶん人類の宗教性や倫理などが固有宗教に変換する起源のころ)、重要なことは悉く人間に認知されてしまった。その後はトリヴィアルな細分化、粗暴化、凶悪化が進化する一方で、その眼をそむけるようなつまらなさを正視するのをためらって、「歴史」概念を作り上げてしまった。それは人類を総合的な生態動物とし認知するために「歴史」の概念を延長する始原までさかのぼることと反対の試みにすぎない。そこで近代民権国家は概念として死滅するとおもう。 (P88−P90) |
備 考 |
(備考) 註 クレオール化・・・・・・Cre・ole ━━ n. クレオール(人) ((中南米[西インド諸島]で生まれた(特にスペイン系の)白人;またはLouisiana州のフランス[スペイン]系移民の子孫;またはフランス[スペイン]人と黒人の混血児)); クレオール語 ((クレオールの使う混成フランス語;または一般に母語として用いられる混成言語)) ((cf. pidgin)); クレオール風の薬味のきいた料理. ━━ a. クレオール(人,語)の; (またc-) (料理が)クレオール風の. |