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ID 項目 ID 項目
459 予想外
481 よくわからないこと
556 吉本さんのこと ① ― 最後の親鸞』のこと、散文的な作業の果ての詩的な解放感      
558 吉本さんのこと ② ― 『最後の親鸞』以後 、人間存在の有り様      
562 吉本さんのこと ③ ― 人間の本質、個として自由気ままに生きる      
564 吉本さんのこと ④ ― 生活者と表現者と      
566 吉本さんのこと ⑤ ― 「父と母と、我が家の食事。」      
567 吉本さんのこと ⑥ ― 家族、食を巡って      
568 吉本さんのこと ⑦ ― ぐうたらであることと思想が世界性と歴史性を持つこと      
571 吉本さんのこと ⑧ ― 「安原顯について」、精神の無表情のこと      
575 吉本さんのこと ⑨ ― 人前でお喋りするときのこと      
591 柳田国男の捉え方      
606 吉本さんのこと ⑩ ―腰の低さ      
607 吉本さんのこと ⑪ ―自分で見えない場所      
629 吉本さんのこと ⑫ ―話し言葉と書き言葉      
635 吉本さんのこと ⑬ ―能のこと      
639 吉本さんのこと ⑭ ―吉本さんの足の裏      
640 吉本さんのこと ⑮ ―日の丸について      
641 吉本さんのこと ⑯ ―吉本さんの口ずさむ歌      
642 吉本さんのこと ⑰ ―押し寄せる来客 (追 記) 2022.9.10      
643 吉本さんのこと ⑱ ―荒れた講演会      
644 吉本さんのこと ⑲ ―ミスについて」
 (追 記) 2020.4.01
     
645 吉本さんのこと ⑳ ―怠け者      
646 吉本さんのこと 21 ―電車のなかの席取り競争       
647 吉本さんのこと 22 ―迷子      
649 吉本さんのこと 23 ―立ち居振る舞い      
650 吉本さんのこと 24 ―不明なこと      
653 吉本さんのこと 25 ―心身の不自由の中で      
660 吉本さんのこと 26 ―引きこもり症      
661 吉本さんのこと 27 ―敗戦直後の頃      
665 吉本さんのこと 28 ― 人柄      
669 吉本さんのこと 29 ― 人柄②      
670 吉本さんのこと 30 ― 言葉がわかるということ      
671 吉本さんのこと 31 ― 昼間に星が見えるということ    
692 吉本さんのこと 32 ― 「良寛書字」から」      
695 吉本さんのこと 33 ― 育ちが悪い      
712 吉本さんのこと 34 ― サービス精神      
713 吉本さんのこと 35 ― ハルノ宵子から見た父      
714 吉本さんのこと 36 ― 講演会などついて 
(追記2021.12.10)
     
715 吉本さんのこと 37 ― 出自について 
(追記2021.12.10)
     
717 吉本さんのこと 38 ― 水難事故後のこと      
718 吉本さんのこと 39 ― 心理分析から ①
(追記.2022.1.2) (追記.2022.2.4)
     
719 吉本さんのこと 40 ― 心理分析から ②    
720 吉本さんのこと 41 ― 心理分析から ③      
721 吉本さんのこと 42 ― 心理分析から ④      
722 吉本さんのこと 43 ― 心理分析から ⑤
(追記.2022.1.30) (追記.2022.3.1)
     
723 吉本さんのこと 44 ― 老いの姿      
724 吉本さんのこと 45 ― おしゃべりの文体      
725 吉本さんのこと 46 ― 目配りの徹底さと公平な評価の視線      
726 吉本さんのこと 47 ― 広場に出る      
727 吉本さんのこと 48 ― わかりやすい表現      
733 吉本さんのこと 49 ― 再就職のこと      
735 よくわからないこと ― 性同一性障害のこと
(追記.2023.4.30)
     
750 吉本さんのこと 50 ― 自己評価ということ      
751 吉本さんのこと 51 ― モーターボート      
752 吉本さんのこと 52 ― ほんとうの教養      
     







項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日 抜粋したテキスト
459 予想外 「まだ考え中」 インタビュー 『論座』2007年4月号 『吉本隆明資料集169』 猫々堂 2017.10.15

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平等な社会
項目
1


―― 吉本さんが四〇~五〇年前に予想されていた日本という国、社会は、現在の日本という国、社会と比べてどうですか。

吉本 いや、それはまったく予想外ですよ(笑い)。自分自身についてもそうでしょう。年食ったら少しはいろんな意味でゆったりできると思っていたら、まるで違いますね。社会についてもそうです。こうなるとは思いませんでしたね。社会主義国と資本主義国とどこが違うのか、やってることは同じじゃないかと。
平等な社会なんてだれも考えていない。これはもう予想違いです。俺は若いころ、ずいぶん勘違いしていたなあ(註.1)と思いますね。
 
革命が起きて、社会主義を標榜する政府ができて、いろんな施策を整えていけばなんとか社会主義という形になっていくはずだと思っていたけど、それは間違いだった。日本で戦後、革命というか改革に値することはひとつしかないんですよ。農地改革です。今でも日本でそんなことができる政党はありません。日本の政党はまだその程度なのです。やっぱり占領軍にやられたなと。そういう面では未来はわからない。人間の生涯もいつどうなるかというのは全然わからない。
 (インタビュー「まだ考え中」P16『論座』2007年4月号、『吉本隆明資料集169』猫々堂)







やったことはないけれど、自分という個の未来予測も予測としては不可能だという気がする。自分の未来もこちらに訪れて来る社会との関わりの舞台で、意識的に選択したり、強いられるように選択したり、あるいはあまり考えもなしに選択したりというふうに、個の意識的な選択や自己責任というようにはこの社会での個の存在はできてはいない。いわば、個と社会がある舞台で出会い、そこでの両者の合作のような形で個の存在の主流はある。だから個の制御不可能な半面では、個の未来はなるようにしかならなかったとも言える。

社会や歴史の予測も個人の未来予測と同様に、いろんな要素が関わっていて、さらにそこには表面化していないような要素もありそれが偶然性のように加担することもあり、難しそうだ。例えば、電気がなかった時代に電気が発見・活用されて電灯が家庭に普及したときの状況を予測することが不可能に近いように。未来予測が無意味だと言うのではないけれど、一般にわたしたちはどうしても後追いで状況の変貌に気づき、捉えるということになりがちである。

しかし、この社会や歴史の数十年後の未来予測ができればそれにこしたことはない。回り道や壮大な過ちをしないにこしたことはないからである。フランスのE.トッドは、(女子)識字率の普及の度合や家族制度の類型をもとにソ連崩壊やリーマンショックやアラブの春やEU離脱などいくつかの未来予測を的中させているといわれている。それらの基軸がこの社会の深層の主流のようなものの駆動因を成していたということなのだろう。

ただし、人類の大きな歴史的な変貌については、その主流を見定めることによって人類がどの方向に進んでいくのかはある程度予測することができるような気がする。ちなみに、わたしの途方もない超未来予測というかイメージによると、人類の祖先の生物の海からの上陸に対して、今度は人類が生き残っていたとして、何億年か先に宇宙に上陸する段階では、現在の一方で動物を愛玩しつつもう一方で食肉として殺しているという矛盾はやっと解決されることになるかもしれない。ノアの方舟のように動埴物たちを乗船させたとしても食肉を不要とするように技術力と慣れによって食の技術も感覚も変貌を遂げているかもしれない。つまり、仏教の生きものへの慈悲が現実化するかもしれない。それまでに、人間も食も変貌していくだろうからである。しかし、このような超未来予測は、現在のところほとんど意味のないほら話にしか見えないだろうと思う。

(註.1) 追記2020.1.22

吉本さんの若い頃の「革命が起きて、社会主義を標榜する政府ができて、いろんな施策を整えていけばなんとか社会主義という形になっていくはずだと思っていた」という考えは、特に『日時計篇 下』の詩の詩句などに表れている。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
481 よくわからないこと ヘーゲルについて 講演 講演日:1995年4月9日 『吉本隆明183講演』 ほぼ日

※ 『吉本隆明183講演』(ほぼ日)の講演テキストより引用

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なに言ってんのこいつは わかりっこないよこれ 常識的に思う論理的説明 ヘーゲルの論理学の概念
項目
1


ヘーゲルはどうもわからないことがあるんです。いまの精神現象論なんかでも、なに言ってんのこいつはとか、わかりっこないよこれっていうのが、たくさんあるんです。
論理学でも、論理学っていうと、たとえば、こういうふうに考えると考えやすいんです。ここにマイクロフォンみたいなのがあって、録音できるようになってるんだと、これは、これこれの部品と、これこれの部品と、これこれの部品があって、この作用はこういうふうになって、音の作用が電気作用に転換できるような装置がここに含まれているんだ。それを利用するためには、テープっていうのがあって、そこに打つことによって、それを逆回しすれば、それが出てくるんだっていう、だから、いろいろそういうふうに説明するのが、論理的説明だっていうふうに、ぼくらは常識的に思うわけです。
ヘーゲル以前の、つまり、アリストテレスからヘーゲルまでといえばいいのでしょうか、その論理学っていうのは、大なり小なり、国家についても、法についても、社会についても、大なり小なり、社会というのは、こういう要素と、こういう要素から成り立っていて、これを分類するとこうなるっていうふうに、そういう論理的にあれするのが論理学っていうふうな概念だと、ヘーゲルはそれをまったくひっくり返して変えてしまったんです。
おもしろいところなんですけど、つまり、論理学っていうのは、何の前提もないんですよっていう、いきなり対象にぶつかって、この対象は何だってことを言っちゃうっていうのが論理学の基本なんだっていう、ヘーゲルだってさまざまな規定をしているわけです。つまり、法とは何かとか、憲法とは何かとか規定してるんだけど、ようするに、その規定が論理学だと、ヘーゲルはそういう言葉は使わないで、そう思ってもらいたくないわけです、
こんなことは、ほんとは余計なことなんだって、人がいままでやっているからそういうふうに言っているんだけど、おれが思っているのは、おれが考えているのは、全然そんなことじゃない、こんな規定なんかどうでもいいんだって言って、ただようするに、根本へ、根本へっていうふうに、対象そのものって、ヘーゲルはよく言うよって、日本人が訳して「在」、「有」っていう、有もへそ(ママ 引用者註・「へちま」か)もないので、あるって、これだっていうところから、出発するって以外、なんの前提もなしにこれだっていうふうに言えちゃうっていうし、言っちゃう、これのなかには本質があって、これとこれをそれだと思っている人間があって、もっといいますと、こっちに意識、あるいは、自我っていうのがあって、ここに対象があってっていうふうにやれば、精神現象学、精神の学になっちゃう。
そうじゃなくて、論理学っていうのは、そう言いたいところであるけど、それは、結果論であって、そうはいきたくないんだ。論理学は、もっと根本なので、こういうふうに言っちゃう以前の何かがあれば、対象であろうと、自分であろうと、そんなことの区別なしに、それ自体をはじめに前提として、あるもの、在として、それを前提としちゃって、どんどん前提として、前提から規定を設けていくっていうのは、反対なんだと、前提からどんどんどんどん、前提となる概念をどんどん消していっちゃうってことが、論理学の、ほんとうの、究極の目的っていうのが、そういうことになるんだっていうのが、ヘーゲルの論理学についての根本概念です。
 (目次の最後の項目、「 本質へ向かう論理学 」)



これがようするに、いってみれば、ここに自我があって、ここに対象があって、自我は対象を考察していく、自我のほうも発達していって、両方とも発達していって、精神現象学っていうふうに、それが国家になり、それから、法ができとかいうふうになったり、自然の学のほうに突っ込んでいったり、倫理学ができたり、こういうふうになるわけですけど、それをまったく逆回しして、こういう概念がほんとうに出てくるのは、人間がいて、ものがまわりにあってっていうところから出発するからそうなっちゃうんだって、しかし、なにも前提なんか、そんなふうに前提をとらなかったら、そこに何かがあるっていう、人間も何かがあるのなかに入っていて、それを無規定に前提とする以外にないじゃないかっていうふうになるわけです。
それで、どんどん無規定に前提としていきながら、無規定という規定さえもどんどん解いちゃうっていうふうになる。そうすると、いまある人間と、いまある世界との対話っていうんだったら、ぜんぶ精神の学になっちゃうんだけど、そうじゃなくて、それ以前にヘーゲルは、無限、あるいは、絶対の本質といいましょうか、ヘーゲルは神という呼び名をしたりするんですけど、ようするに、神と人間がありうべき、いま現在にはないんだけど、存在としてはないんだけど、どんどん本質的なほうへ、人間という概念がどんどんどんどん、無前提にもっていっちゃうと、無限に本質に近づいていっちゃう、無規定にもなっている部分っていうのもなんかっていうふうになっちゃうんです。それと、神との対話っていうところにいけば、論理学は究極のところまでいったっていうことになりますよっていうのが、ヘーゲルの考え方です。
ですから、非常におおざっぱに言っちゃうと、ぼくらが論理学とか、口で言えばこうだよって言っているものの、ぜんぶ反対なんです。それをひっくり返しちゃったわけです。全部ひっくり返しちゃって、だけど、そういう規定を使わざるをえないなっていうのはあるんだけど、ほんとはそんなことはやりたくもないんだぞっていうのが、論理学におけるヘーゲルの考えで、これが、根本になって、どんどんどんどん無規定にさかのぼって、神対無限の人間との対話というか、ごちゃまぜというか、そこまでいっちゃうんだっていうのが、論理学の究極の点だっていうふうに、だいたい言っちゃえば、ヘーゲルの論理学の概念はとれるんです。
 (目次の最後の項目、「 本質へ向かう論理学 」)



なんでこんなのが役に立つかっていうと、ようするに、論理学が規定しているアフリカ的でも、アジア的でもいいんですけど、歴史が規定しているそういうのがあるでしょ、ようするに、そういうのだけだったらくだらない、本質的にいうとくだらないので、ようするに、歴史学になっちゃうんです。個別的な歴史学、いま流行りのあれでいえば、アナール派っていうわけです。個々具体的に、家具の歴史はどうだとか、そういう具体物の歴史っていう概念にいっちゃうわけです。
それはくだらなくて、そっちのほうが、ほんとうじゃないか、それだって、なんかマルクス主義を経て、ヘーゲルを転倒して、それがなれの果てじゃないですけど、それが、だんだんいってって、そういうことになっちゃったんだよって言えば、それでもいいじゃないですかってなるわけですけど、ヘーゲル的な概念でいえば、まったく違うみたいなので、そんなことはどうでもいいじゃないかと、もっと本質的に、ただ見たり、無意識につかんでいる、そういうところでも、論理学の基本はちゃんとつかめているとか、その人間の本旨はみんなつかめているとか、世界の話は全部つかめているっていうふうになっちゃうよっていうところにいくのが、目的なんだよっていうのが、ヘーゲルの論理学のあれで、それがふつうの歴史学に対して、それが逆作用しているものですから、ぼくは、ヘーゲルがアフリカ的っていうことは、違うんですよ、ふつうの歴史で、アフリカ社会についての専門家だとか、アフリカ神話についての専門家なんていっぱいいるけど、そんな人たちと違うのは、ようするに、ヘーゲルがアフリカ的って言っても、時間概念も、空間概念も、段階概念もぜんぶ入ってなくて、それは普遍的なんです。そうとう的確に言えちゃってるんです。
それが、逆作用から言ってるものですから、論理学を壊すっていうところから言ってるものですから、当たっちゃうわけです。抽象的なことをいいながら、当たっちゃってる。あるいは、抽象的なことと、アフリカとはどういう社会かみたいな、だいたい行ったこともないくせに、言ったってわかるものかって、けっこう言っちゃってるそういう人たちと比べて、
なぜ本質的なところにいっちゃってるか、いまなくなったアフリカについてさえも言えるっていうようなことになっちゃってるかっていったら、反対概念からいう段階っていう概念、時間・空間と両方の概念のアフリカ的に入っちゃうわけです。だから、かなり正確なことを言っています。
具体的な歴史をいうと、たくさん間違えているし、違うことを言うなとか、誰でもインチキだ言えるようなこともいっぱいしてますけど、そんなことは、ほんと云うとどうでもいいし、ヘーゲルだってどうでもいいよって言うに違いないと思います。そうじゃないんだと、おれがやろうとしたことはそんなことじゃないんだというふうに言うと思います。
それは、何なのかっていったら、ぼくがいま言ったみたいに、本質概念のところに行こうとする論理学を歴史概念に当てはめるっていうのはおかしいですけど、両方からひっくり返して、あくまでも具体性にいかなければ、歴史的ないい記述とはいえないよっていうふうにいうのが、歴史学の概念だとすれば、反対に抽象的にいかないと、歴史学なんて成り立たんぞっていう、ヘーゲルの論理学の概念です。それが、ちょうど緊張して引きあっているところで、アフリカ的とか、アジア的とか、そういう概念を、ヘーゲルは使っているからだと思います。
これは、ぼくは学ぶに値するので、重要な概念で、同時代でいえば、ヘーゲルひとりをこっちにもってくれば、ルソーからスピノザまで、全部こっちにもってきても、秤の重さはこっちが重くなることにはならないよっていうくらい重要で、大きい存在だと思います。
といいながら、ぼくはちっとも読んじゃいないんで(会場笑)、わからないんです、読んでもわからないからしょうがねえやっていう、なんかわからないのは、ぼくのせいにしたくないです。わからないのによく言うよって、専門家には言われちゃう、おまえ説明してみろよっていうことになっちゃう、そうすると、わたしが説明すればわかりますっていうのも、それは曖昧でしょって、ぜんぶ翻訳されてもいない、そんなのいるわけないじゃないかっていうふうに思います。これを原文でぜんぶ読みこみましたなんて人はいるわけがない、そういうふうに考えると、誰もわからないじゃないか、やっぱり仕方がないから、できるだけこういう言い方をして、あいつは、いっぱいヘーゲルのことを、ほんとうによく知っている人がいると仮定して、その人からみて、与太話として、どれだけヘーゲルっていうのは、わかってるのかなって、この人よりわかってるんじゃないか、いいんじゃないかなと思えるか、思えないかの問題だけでしかないんですけど、ぼくは、そういうふうに読んだり、勉強したり、いろんな概念をつくるのに学んだりっていうふうにしたと思っております。
 (目次の最後の項目、「 本質へ向かう論理学 」)

 (「A170 ヘーゲルについて」「講演テキスト」より 『吉本隆明183講演』ほぼ日)
  講演日:1995年4月9日  ※①②③は、ひとつながりの文章です。






 (備 考)

長く引用したけれど、ここでの要旨は、まずヘーゲルの論理学の概念が、ヨーロッパのギリシア以来のそれまでの論理学とも、吉本さん(わたしたち)が常識的に論理学というものに持つ考え方やイメージとも違っていること。次にヘーゲルの論理学の概念は、わたし流に言えばこの人間界を突き抜けて根底的に問われていること、しかもそこから翻って捉えられた人類の歴史段階や概念などが本質的な真を突いていること。吉本さんはここで、ヘーゲルの真の偉大さの謎に触れようとしている。わたしにとってはそのことにまだ不明の部分が残っている。


わたしは高校生の頃、ハイデガーの『存在と時間』やヘーゲルの『精神現象学』や『エンチクロペディー』など買い込んで少しばかり読んだ覚えがある。余りの難解さや固さにみな途中で投げ出した。そのときは、この世界とのつながりのわけわからなさに思い悩む思春期の混乱そのままに、それらの書物の中に何かよくわからないけれどこの世界の奥底に触れているような奥深さは感じたように思う。
大人になってまだ若い頃、関心を持って買った『大論理学』は旧字で書かれていてその煩わしさに、ついに読んでいない。柳田国男の旧字で書かれた本を都市と農村問題の参考資料用に1冊大学生時代に古本でだったかで買ったけれど、それも読みずらかったので少ししか読まなかった。後には、現在の漢字等に直したちくま文庫の柳田國男全集を買いそろえた覚えがある。旧字と新字ではこんなにも印象が違うのかと驚いた覚えがある。その後いつ頃だったか、ヘーゲルの『歴史哲学』を読んだけど、これは読むのにあまり難渋しなかったように思う。


吉本さんは、『源氏物語論』を書き上げた後のインタビューかなにかで、源氏物語を原文で読める者はいないよ、与謝野晶子訳の『源氏物語』で十分である、と述べられていた。自分は原文でちゃんと読めるという者は嘘っぱちだと言われていたように記憶している。このヘーゲルに関しても、源氏物語に関しても、普通の読者がおそらくぶつかるだろう、困難や感じることの具体性を吉本さんは飾ることなくちゃんと開いている。なぜこういうことを書くかと言えば、わかったようなわからないような曖昧さをすっとすり抜けてわかったふりをする者がこの世の中には本当に多いからである。そういう意味で、吉本さんのここでのわからなさの表明は当たり前であると同時に、とっても新鮮でもある。こんなごまかしや秘密なしなどの当然のことが、知識の世界でもまた、前提であるべきだと思う。


 (関連として)
最上(和子) (引用者註.歌舞伎とか能について問われて)すごい大げさなんですよ。すごいことやってるみたいな雰囲気を作ってるじゃないですか。でもある程度身体がわかるようになると、そんなすごいことをやってないんです、はっきり言って。能の人もそう。すごいことをやってるみたいな雰囲気をまとってるでしょ?だからいつも私思うの、「ずるいなあ」って(笑)。本当に「私たちはすごいんだぞ」的なオーラを出してやってるけど、なかが見えるようになったら、子供のときからあれだけやってて、それができるからなんなんだと(笑)。そんなすごいことはやってないんですよ。衣装ひとつだって何百万という衣装を着てね、あれだけのしつらえじゃないですか。能楽堂があって謡(うたい)があって鼓(つづみ)があってとか、それでいかにも能を見に行くのはすごいんだという権威付けがあって、あの世界が成り立ってるんで。身体として見たら、確かにあれだけできるようになるのは大変だなというのはありますけど、まとっているオーラが大きすぎるというか。意味付けとか価値付けとかが大きすぎる。

押井(守) それはやっぱりさ、武道が道場を作ったときに起きた現象と一緒でさ、そういう付加価値をつけていかないと維持できないから。
 (『身体のリアル』P163-P164 押井守 最上和子 2017年10月)


 能などとは少し違う面もあるだろうが舞踏で同じような身体の修練をされてきた最上和子さんの、内側から捉えた視線の言葉である。
 能については権威付けなどがあって普通の人々には入り難い世界であるとは昔聞いたことがある。そして、NHKのテレビで一度少し見たことがあるけれど、テンポは超スローで話はよおわからんし全然面白くないなと思った覚えがある。たとえて言えば、リメイク版でない初代の『スタートレック』、その科学技術や文明が変貌してしまって現在ではちゃちになってしまった作品イメージに付き合うようなものである。あるいはまた、明治や大正時代の広告を眺めるようなものである。もちろん、能も生まれた当時は権力者の周辺だけではなく民衆にも割と生き生きしたものとして鑑賞されていただろう。現在でも好きな者は味わえばいいさ。このテーマと関連づければ、能という対象を飾り立てることなく現在的にその本質を捉えるにはそういう無用な権威付けなどを剥がすことから、あるいはまったく気にしないことから始まるはずである。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
556 吉本さんのこと ① ― 『最後の親鸞』のこと、散文的な作業の果ての詩的な解放感 「『最後の親鸞』のこと」 論文 『〈信〉の構造』 春秋社 1983.12.15

※この論は、初出は1976年11月、原題は「『最後の親鸞』への註釈」。
※この論は、『初源への言葉』にも収められている。
※この項目は、不定期でUPします。

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親鸞という思想家 自分のこだわりの根拠 思想詩の体験
項目
1



 こんど『春秋』という小さな雑誌に断続的に連載してきた文章をもとに『最後の親鸞』という本を出すことになった。じぶんの本を出すということには、もういい加減すれっからしてきたが、こんどばかりはそうはいかなかった。装本と活字について、古証文のように小林秀雄の『無常といふこと』を持ちだして、こういった具合にやってくれませんかねえなどと注文をつけて、出版社の人々を困らせた。口絵は内容にいちばんふさわしいからというので、奈良国立博物館へ出かけて「熊皮の御影」の原板フィルムを借り出したりした。
 
だいたい本などは、中味が読めればいいのであって、体裁などは問うところではないというのがわたしの信条である。こんどはわれながら奇妙な具合であった。いい加減おれも年を喰ってもうろくしてきたかな、と反省してみたりしたがどうもそんな簡単なことではないらしい。ではほかにどんな理由があって装本や活字の大きさなどにこだわったのか。こうじぶんに開き直ってみると確かな根拠がないような気がする。わずかにひとつふたつの理由をみつけることができそうである。わたしが『歎異鈔』について書いたのは学生のときであった。そのときから見えがくれにこの思想家にたいする関心は持続した。いつかは、まともに論じてみたいとという思いをやっと遂げることができたということもひとつあった。けれどほんとうに重要なことは、親鸞という思想家は、わたしが自己移入をとげても、また、最大限にこちらの思想的な関心に引き寄せても、異和を感じさせずにそれができたということであった。こういう対象に出会い論ずることができるのは稀な体験である。この稀な体験を、かりに詩的体験と呼べば、わたしは親鸞を論じながら同時に、じぶんの思想詩を書くことができたような気がする。これははじめてにちかい体験である。批評は徹頭徹尾散文的な体験であり、読みとおす労力も文献を調べる労力も、きわめて散文的な過程であり、河底にクイを打つような基礎工事であるといってよい。しかし、こういう散文的な作業の果てに・・・・・・ある転換がおこり詩を書きおえたときとおなじような一種の解放感がありうるとすれば、その瞬間に愛着せざるをえない。この愛着を『最後の親鸞』に収めた文章に感ずることができた。これがジンクスを破って装本や活字の大きさにまで、つい眼がいった理由であった。




 『最後の親鸞』が、おおくの親鸞論や親鸞研究のあいだで、どういう意味をもちどういう位置が与えられるのか、わたしにはわからないし、そういうことは第二義以下のことにおもわれる。また、わたしの親鸞論の外在的な意義が、すこしも与えられなかったとしても、じぶんの
思想詩の体験として充分に内在的な充実感にみたされていて、格別の不服もないとおもった。
 ここで描き出された親鸞像は、あるいは宗教内部の人々が抱いているものと異なるかもしれない。これは致し方のないことである。〈信〉というものの構造を、極限まで解体してみせた親鸞の思想的な営為が、わたしにとって最大の魅力であり、また、最大の関心事であった。これは親鸞では、自己欺瞞の解体の仕方としてあらわれている。かれは僧侶であるがゆえに思想家であるのではなく、思想がたまたま時代的に仏法の形としてあらわれたゆえに僧侶であるにすぎなかった。〈非僧非俗〉がその境涯を集約するところに、わたしは親鸞を描きたかった。そして親鸞が充分にこれに耐える思想家であることがわたしを喜ばせた。この本をまとめて胸のつかえがひとつおりた感じがしている。もう少しさきまで歩んでいけるかもしれない。

 (「『最後の親鸞』のこと」、『〈信〉の構造』所収 P222-P224)
 ※①と②は続いた文章です。














 (備 考)

吉本さんの「だいたい本などは、中味が読めればいいのであって、体裁などは問うところではない」という考え方は、わたしも同じである。しかし、おそらくこの『最後の親鸞』以外にも特に「解放感」や「愛着」をともなう自分の詩集を出すときは装丁などにこだわったのではないかと思う。わたしも詩集を出すとき少しこだわったことがある。「とく死なばや」という 即身成仏の徒や鎌倉期の一遍の現世のものを捨て去る思想を持っているような極端な者を除けば、大多数の人は誰でもこの人間界の日々の具体性において、あるものやあることに愛着を示したりこだわったりする気持を持っていて、必ずしも一つの考えが例外なく貫き通されるというわけではないように思える。


昔ネットで偶然に出会ったが、『倉本修のWeblog作品集』というブログの以下の記事(2008年9月4日)に、本の装丁を巡った吉本さんの対談がある。本は読めればいいという吉本さんだが、本と装丁の関係の一般性などが語られている。(おまけとして挙げておきます。)

「吉本隆明インタヴュ-[89年而シテ]より抜粋」(ブログ、『倉本修のWeblog作品集』より無断転載させてもらいます。読みやすいように、対話者間を一行空けています)
http://kuramotosyu.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/199511_835d.html


ずっと以前、本駒込の吉本邸にインタビューの撮影でお邪魔したことがあり、たまたま装幀の話を聞くことになった。松岡祥男さんらがせっかくだからと勧めてくれたのだが突然なのでどうも...。そのあとの麦酒を飲みながらの話は本当に面白かった。本編も自然体だったがオフレコは食べていた串揚げがのどにつかえたほど面白くて「ため」になった。オフレコ部ではないが「装幀」談の再構成の抜粋(少し長いが)をどうぞ。


●吉本隆明インタヴュ−[89年而シテ]より抜粋


◎吉本 菊地信義さんがいるでしょう。

◎倉本 はい、仕事はよく知っています。

◎吉本 あの人の装幀の展覧会をやったときにその初日の日に装幀のおしゃべりをしたことがあるんです。喋ってくれって言われたことがあるんです。それでいくつか類型づけをしたことがあるんですけ どね。今出されている装幀というのがこうなってるみたいな。そう いうのをしたことがあるんですけどね。そういう類型づけはともかくね。菊地さんにもそういうところがあるけれども、装幀というのを表紙だけじゃなくて、中身の活字の組み方というものも含めて考えると優秀な装幀家ほどやっぱりやるわけですよ。やるわけですよっていうのは、つまり本の内容と競り合うんですよね。競り合って競り勝とうと、打ち勝とうとするんですよ。そうすると今度はこっちの方つまり書き手の方からするとね、これやりすぎよっていうふうに思うわけですよ。ぼくの本で言えばね、『記号の森の伝説歌』 という詩集があるでしょ。これはやりすぎよって。

◎倉本 杉浦康平さんのですね、本文も含めて。あれはそういう印象がありましたね。ムードはありますね。

◎吉本 これだけやられるとね、まあ、中身を読まないことはないんですけどね、中身を読もうという意欲をまず相当な程度減殺されるわけです。
              ※
◎吉本 凝るわけです。凝ることとね、それからあるときには割合に意図的にやるときもあるんですね。意識的に中身をつまり俺の装幀で食っちゃおうっていうふうに意識的にやるときもあるし、そうじゃなくて無意識のうちにそうなっちゃうっていうときもあるんですね。凝りすぎでなっちゃうということもあるんです。で、これやりすぎよってぼくだったらそう思いますね。これやりすぎだって思うのがもう一つあって、ぼくと坂本龍一との対談で『音楽機械論』という本があるんですね。あれはもうやりすぎ中のやりすぎでね。装幀の人が。あれだったら、ぼくだってそうだけどね、中身を読む気が全然なくなってしまいますね。ぺらっとこういうふうにめくっていったら、写真はあるし図はあるし非常に隅から隅までそういう意味ではちゃんと神経を行き届かして装幀してあるから、もうこうやってめくっていけばもうそれだけでいいっていうだけで、交わされている会話を読もうっていう気はもうとうないっていうふうにできてると思います。

◎倉本 それは、内容を持った文章であるのに、画像として見えちゃうという見せ方ですよね。ポスターのように文章を見せるというかそういうことに徹底してると思うんですね。どうしても装幀というのは内容と対峙して、勝負するような、また、同じ土俵で勝負するような気持ちというのはものすごく大事だと思うんです。そういった意味では、ビジュアルの側に、視覚的なものの方にこう取り込んでしまうというか、勝ち負けじゃないですけど領分をかなり侵略してしまうところがどうしても出てくると思うんですよね。

◎吉本 そうです。だからあれは、中身はけっこうおもしろいことをちゃんと言ってあるんだぜということがね、また坂本龍一ってまじめなんですから、つまり四回対談してね、ぼくは音痴だから何もわからないわけ。しかしあの人は四回でもってね、何とかこいつに音楽というのを何とかわかる、わからないまでも興味は持てるっていいましょうかね、関心は持てるとこまでは持っていこうというふうに思っているんですよ。意図してね、それで四回で少しずつ、音痴で何もわからないっていう奴に、これを聞いてきてくれませんかとかね、いちいち工夫しながら、四回やってるんですよ。それでぼくの方から言えば四回目終わった頃にはね、もしかすると音楽というものがわかるかもしれないぞというふうに錯覚といいますか、そういうふうに思わせるところまではやってるんですよ。だからあれはね、中身だけ見たら本当に音痴でわからん奴が読んで、それであそこに出てくるテープかレコードかなんかを聞いていくとね、だいたい終わったときは何となくわかる、わかりそうだぞとかね。
              ※
◎倉本 啓蒙的な側面があると思うんです。杉浦さんのデザインもね、 どうしても読者に対してビジュアルで啓蒙するぞみたいなそういう面が感じられるんですね。その坂本さんの場合もそういうエネルギーを感じますね。

◎吉本 それもあったかも知れないですね。

◎倉本 ちょっと違う話になりますが、音符っていうものもやはり映像化、図面化していますからね。音という非常に抽象的なものを記号化していますから、音楽とかデザインていうのは造形的な側面がかなり強いと思うんですよね。詩とか評論にしてもそうなんですけども、活字化されたものというのはどうしても、何ていいますか内向的なんですね。ですからたとえば二ページ見開きありましたらね、上下のそういうデザインでくり返すと、文字の形とか読ませ方とかいうのはかなりコントロールできる領域に入ってくると思うんです。吉本さんが最初におっしゃられた、やりすぎだというのはその造形のコントロールが読むのに目障りなんですからね。

◎吉本 そうですね。文字を書く側から欲を言えば、書かれた内容に対立といいますかね、そう仕掛けながらしかし同時に内容を助長しているといいましょうかね、助けているというようなそういう装幀のやり方をしてくれたらば非常に理想的なんですけどね。なかなかそうはいかなくて、才能があればあるほど中身と張り合おうという形になってくる。杉浦さんの装幀はいつでもそうだとぼくはそう思います。それからあの『音楽機械論』も、もう眼で見る装幀でみんな食っちゃえっていう感じになってるんですね。これだったら中身読む人はいないよって、ぼくだって読まないよっていう感じになるわけで。もっともあれは何もわからない素人とか音痴をね、いかによくしていくかっていうのをちゃんと坂本龍一はやっているんです。そうしておいて何となくこっちの方もうんという感じでね、もしかすると俺わかるのかもしれないぞなんていう(笑)。ほんとうは音痴なんですけども何となくそういう感じにはさせるというところまでいったんですね。

◎倉本 萩原朔太郎が自装本をよくしてるんです。で、彼自身こういうことを言ってるんですけどね。装幀は著者自装でいいんだと。要するに熟考された「内容の映像」こそが装幀であるというふうなね、装幀は内容の映像でなければならないから、内容に精通している、たとえば著作者である自分がやればいいんだって、自分の著作をネコのイラスト書いたりしてけっこうきれいにやってるんです。先程おっしゃったようなビジュアルの専門家が内容をそっくり取り込んでしまうというようなことは、朔太郎の時代にはなかったんじゃないかと思います。ただ『月に吠える』という詩集があって、これは恩地孝四郎と田中恭吉がそれぞれ装幀と装画を担当しまして、実にこれは見事にきれいに上がっているんです。そのきれいさというのが、「内容の映像」のそれ以上といいますか、装幀で内容を転じることを可能にしていっていると思うんです。版画を使って間接的に方法を展開していったりという技術的なこともありますが、と同時に、読者が手に取る次元を考えて変化させていく、そういうふうな二重の仕掛けになっているんですね。装幀の持っているしかけ、その辺のところが巧妙なんですが、それとは逆にたとえばかなり醜い なあ(笑)と思う装幀でも、内容の映像にたがわないいい装幀というのも一方であり得るんじゃないかと、まあ醜いまではいかなくても、なんかそういうことはあるんじゃないかと。そして、きれいな装幀でもだめなものもあるんじゃないかと思うのですが。

◎吉本 そうですね。ぼく菊地信義さんの装幀の展覧会のときにおしゃべり頼まれてね、手持ちの本の装幀を幾つか——今行われてる装幀家のやり方が、幾つかの類型に分けられたわけですよ。そしてその中の類型で極端なことをいいますとね、いい装幀、悪い装幀という考え方に、二通りの見方があって、いい装幀っていうのは何か。たとえば中身は何であれ、いわゆる泰西の名画、ルオーの道化師だとかいってそういうのを表紙に持ってくるわけですね。そしてこれはいい絵画なんだから、これはいい装幀だ、というふうに言うより仕方がないのだろうというやり方をしているのがかなり多いです。まあ著者もその名画が好きであるし、また中身にも決して矛盾しないということもあるんでしょうけど、だれそれの名画を持ってくる、そういう装幀ってけっこうこぎれいにっていうか、きれいにしてあって、あっ名画だっていう感じでね、それじゃあその基準でいえば、名画じゃないやつをここへもってきたら、それは悪い装幀だってなるわけですね。極端に言うとそういういい悪いっていうのがあって、そしてもう一つ極端にいうのは、今あなたがおっしゃったようで、朔太郎は多少絵ごころがある人でしたらからね。著者は自分の中身をいちばんよく知っているんだと、極端にいうと。そうすると著者がそれにふさわしいと思ってやった装幀だから、それは御本人がいちばんいいと思ってるわけだから、これはいちばんいいじゃないかっていう観点があるわけですよね。朔太郎だって絵ごころあるしね、俺の詩はこうだと思ってやってるわけだから、これが悪いっていうのは俺の詩が悪い(笑)というのと同じじゃないかっていう観点が一つあるわけですね。そうすると、それの系列で言えば悪い装幀というのは、要するに中身には関係なく装幀家が中身なんか全然関係ないよと、ここに空間があってこういう本があるんだから俺は思い通りにやってやろうというのが、要するに朔太郎的観点から言えばいちばん悪い装幀、とこうなるんじゃないでしょうか。 (抜粋)


        





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
558 吉本さんのこと ②― 『最後の親鸞』以後 、人間存在の有り様 「『最後の親鸞』以後 」 講演 『〈信〉の構造』 春秋社 1983.12.15

※この講演は、ほぼ日の「吉本隆明の183講演」の、A040「『最後の親鸞』以後 」。
※講演日時:1977年8月5日
※主催:真宗大谷派関係学校宗教教育研究会

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人間とは、そういう存在じゃないんでしょうか 誰ひとり、じぶんの考えを本当に理解してくれる人なんていなくたって、それはそうせざるをえないんですよ 人間はそういうもんですよ、死ぬまで一歩でも先へすすもうと思うんですよ
項目
1



(引用者註.以下は、本講演後の「質疑応答」部分)

――愚となって老いた親鸞を捉えたいとおっしゃいましたが、それじゃもう一方で、「唯信鈔文意」とか「一念多念文意」とかを書き写して田舎の同朋に送るといったことを、親鸞は、体力がつづくかぎりやられたとかんがえてもいいとおもいますが、そのことと、老いぼれた親鸞とをどのように理解すればよいのでしょうか。

 先ほどは、親鸞教団にとっての最大の危機に対して、親鸞は、どうしてもそうせざるをえなかったんだということを、強調しすぎたかもしれませんが、そういうことがたいへん重要なモチーフではないでしょうか。じぶんの考えを直かに述べてもいいんだけれども、それよりもじぶんの先達の文章を書き写して、これを読んでよくかんがえてくれという云い方をときどきしていますけれども、それが大きな要因じゃないかなとおもわれます。
 それからもうひとつは、教育という意味あいを、そうせざるをえなかったのだという不可避性の問題としてかんがえれば、それは教育なんでしょうけれども、しかし生きざまだから、願望だからわからないけれども、
ぼくでも死ぬまではやりたいですね。死ぬまでは、じぶんの考えを深めていきたいですし、深めたいですね。それは説きたいとか、教育したいとかというのとはちょっとちがうんですよ。しかし死ぬまでは、できるならばちょっとでも先へ行きたいよ、先へ行ったからってどうするのと云われたって、どうするって何もないですよ。死ねば死に切りですよ。死ねば終わりということで、終わりというと怒られちゃうけれど、ぼくは終わりだ、死ねば死に切り、何にもないよ、ということになるわけです。それじゃ何のために、人間はそうしなくちゃならんのと云われたら、人間とは、そういうものなんだよ、そういういわば逆説的な存在なんだよ。つまり役に立たんことを、あるいは本当の意味で誰が聞いてくれるわけでもないし、誰がそれを信じてくれるわけでもないし、どこに同志がいるわけでもないし、だけど死ぬまでは一歩でも先へすすんでという、・・・・・・ものすごく人間は悲しいねえーという感じがぼくはしますね。人間とは、そういう存在じゃないんでしょうか。そういう存在じゃないんだろうかということが、親鸞に「唯信鈔文意」とか「自力他力事」とかを書き写しちゃ弟子たちに送るみたいなことをさせたモチーフじゃないでしょうか。それがぼくの理解です。いわゆる教育ではありません。誰ひとり、じぶんの考えを本当に理解してくれる人なんていなくたって、それはそうせざるをえないんですよ。つまりそうせざるをえないというのは、何の促しかわからないけれども、そうせざるをえない存在なんですよ。だから親鸞もそうしたんでしょうというのがぼくの理解の仕方ですね。あなたのおっしゃったことに対するぼくの答え方はそうですね。で、ぼくは五十いくつだから、もう幾年生きるのかわかりませんけれど、しかしやっぱり死ぬまではやるでしょう。じぶんの考えを理解してくれる人が一人だっていなくても、やっぱりそうせざるをえないでしょう。人間とはそういう存在ですよ。ある意味じゃひじょうに悲しい存在であるし、逆説的な存在であるし、人間のなしうることといったら、無駄だと思ったら全部無駄なんだよ、でもそうせざるをえないからそうするんだよ、それが人間の存在なんだよ、というのはぼくなんかのいつでもある考え方ですね
 今の八十何歳と、その当時の八十はまるでちがうんですよ。その時は、人生、平安朝時代の平均寿命は三十七歳ぐらいですよ。親鸞は、その時の八十何歳というんでしょ、化け物と同じですよ。皆んな結核で死ぬんですよ。それから今でいうと伝染病で死んでいるんですよ。それであんなのを書いて、わかっちゃいないじゃないの、というかもしれないそういう者に、やっぱり書き写して、それをやる。それはなぜそうするの、そうまでして生きなくちゃいけないのと云ったら、やっぱり教育的情熱とか宗教的情熱とかいろんな云い方を皆さんはなさるでしょうけれども、
ぼくはそういうことは云わないで、人間はそういうもんですよ、死ぬまで一歩でも先へすすもうと思うんですよ。仮にじぶんの考えを理解する人が誰もいなくたって死ぬまでそうしちゃうようなそういう存在なんですよ。それは誰が促すかわからないんですよ。本当はとけないんですよ。だから親鸞もとけないけれどもそうしちゃったんじゃないんですか。ぼくはそういう理解の仕方をとりますけどね。
 (「『最後の親鸞』以後」、『〈信〉の構造』所収 P323-P324)

 ※ほぼ日の「吉本隆明の183講演」に、A040「『最後の親鸞』以後 」があり、この「講演のテキスト」もあります。こちらが生の講演に近いと思われそこから引用しようとしましたが、残念ながら不明箇所や意味が通じない箇所が多々あるため、おそらく講演後に整序された方の『〈信〉の構造』所収の文章から引用しました。



















 (備 考)

ここでは、吉本さんの捉える人間存在の本質的な有り様が語られている。誰でも、自分が生きてるという意味は何だろうとか、こんなことやってて何の意味があるのだろうなどと、自問する瞬間があるかもしれない。しかし、わたしたち人間の現在は、大きな時間の中で大いなる自然と関わり合いながら植物生や動物生を重ね、人間生となってきた、この経験の現在としてあるということだろう。すなわち、無意識的な面から意識的な面に渡って、吉本さんが上で述べているようにそうでしかあり得ない存在の形を人間は形作っているというべきである。


吉本さんは、「ぼくでも死ぬまではやりたいですね。死ぬまでは、じぶんの考えを深めていきたいですし、深めたいですね。」ということを実践したと思う。ちなみに、吉本さんには『生涯現役』(洋泉社 2006年11月)という本もある。


また、上の関連で思い出したのが、以下の文章中にある吉本さんが語った、「俺の考え方の底のほうまで理解してくれた人はおらんな、っていうそういう感じがします。」という言葉。

「吉本隆明さんを囲んで」(2010年12月21日吉本さんの自宅にて、聞いたひと…前川藤一、菅原則生)
 ※「菅原則生のブログ」の2013年2月の記事にその文字起こしした文章が掲載されています。

吉本 いや、今あなたがおっしゃったね、僕が書いたね、自分で書いて表現して自分の考えを述べたり、芸術らしき詩を発表したり、それはね、それはちょっと自信があるんですよ。まだ俺は、俺の考え方の底のほうまで理解してくれた人はおらんな、っていうそういう感じがします。それは俺はちょっと自信がありますね。
表現っていうか、思考っていうか、考えっていうか、そいうものに基づく表現という、書いたものには自信があります。これは今のところ、今もこれからも、もしかするとそうかも知れませんけど、そういうことを認めてくれないまんま終わるし、時代は過ぎてゆくことになるかもしれない、そういうふうに思って書いたもの、とことん書いたものを読んでくれたら大変、あれですね、解る、解ってくれるように思いますけれども。それは今のところありませんから、半ばこれでいいやと。
編集者の人でひとり、編集して、類別して、鑑別して整理してくれている人がおりまして、それが 3 〜 4 人の人の手元にありますが。それは、なんていうか、僕だけの個人的な自信というのでいいんじゃないかな、というふうにあきらめてますけど。
あの、僕の、あれができるのは、どういったらいいでしょうか、時代を読むっていいましょうか。時代を読むっていうことはいつでも考えていないと駄目なんですよね、空白を作らないこと。いつでも考えています、何やってるときでも考えてますけど。結局僕はいちばん能率の悪い物書きで、何か書いて、読みたいやつが読んで読みたくないやつは読まない、そんなことで過ぎてきている。それだけのことですけれど。そこはもう全貌を読んだ人がひとり、編集をやってくれたんですけれど、それは、その全貌を読んでもらわないと、僕自身は物書きとしてつまんないことを書いて、ちょっぴりとお金をもらって、それの繰り返しで、それだけで、それ以上のことはないんですけれど。(「吉本隆明さんを囲んで」①より)






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
562 吉本さんのこと ③ ― 人間の本質、個として自由気ままに生きる マルクス者とキリスト者の対話(1)   インタヴュー 「止揚1」1970.12月 マルクス―読みかえの方法 深夜叢書社 1995.2.20

聞き手 西萩南教会メンバー
※この項目は、「言葉の吉本隆明 ①」の項目364 「人間の本質」とほぼ同じです。

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人間は、ほんとは、集団なしに生きられたらそのほうがいいんだ、という本質 理想のイメージに近づくためにはたいへんな迂回路が必要
項目
1



吉本 だから、ぼくなんかが根本的に大事におもっていることは、けっしてそんなことほんとうは幸福なことではないので、
人間は個人として自由に生きられ自由にかんがえられ、そして不自由がなければいちばんいいのにもかかわらず、社会的にも集団的にも生きなくてはならないということになってしまったということです。最初から人間は社会的動物であるとか、人間は集団なしには生きられないといういい方は、ぼくは嘘だとおもっているわけですね。ほんとは、集団なしに生きられたらそのほうがいいんだ、という本質はつかまえる必要があるということです。
                (『マルクス―読みかえの方法』 P37 )




吉本  そんなものはなければないほうがいいのだという問題から、つぎに派生する重要なことは、いったんつくってしまった以上は、ストレートにそこにいけないということだとおもいます。つまり、そこがものすごく、むずかしいところだとおもうのです。・・・(中略)・・・つまり個人個人が悔い改めればそういくじゃないかとおもえるけれど、その認識の仕方はまちがいだとおもうのです。まちがいだというのは、いったんできてしまった以上は、ものすごくかんたんなようにみえて”ひとりひとりが悔い改めて一億人がそうすれば日本なんて全部天国だ”ということになりうるはずなのに、いったんできてしまった以上は、ものすごい遠い廻り道をとても適確に通っていかないと”ポリバケツで当番でやれば、いいじゃないか”というところにはいかないということです。これがすごく重要だとおもいます。
 そこから、制度に対しては集団をとか、権力に対してはやはり力をという問題が過渡的にある状況のなかではでてきます。それが正確であるか否かはべつとして、そういう道を通らねばならぬということがありうるのです。つまり、わりあいに動物に近い生活に、できてしまった人間の世界をもう一度もっていくということは究極的にはものすごくむずかしいことです。人類が四千年かかってやっと到達したのはせいぜい資本主義という制度です。それは、一見自由そうで、勝手に能力があって儲けたいやつはいくらでも金が儲けられるし、儲けたやつは金をだせば何だって手にはいる。それはいいようにみえるけれど、こっちのほうをみると、あすどうやって食うか困っているやつがいるというふうになっていて、ちょっとそういうのは困るということです。しかし、その制度をよしとしてくるまでに人類は少なくとも有史以来六千年ぐらいかかっているわけです。
六千年かかって、人間の最高の智恵がうみだした最高の制度が、資本主義だということです。だから、資本主義というのは単に悪ばかりでできているのではなくて、やはり四千年なら四千年、六千年なら六千年の智恵が、そのなかにあることは確かです。つまり前代の封建時代に比べてよりよい智恵があることは確かなのです。だから、それでせいぜい四千年もかかって、つくりあげたものは何かといったら、資本主義だということで、これが人間が制度的にかんがえて最高のものだということです。それで、それをつくるのに四千年とにかくかかっているのだぜ、というようなことがあるでしょう。だから、そんな意味でいけば、みなひとりひとりが悔い改めれば、いっぺんにこの世は天国だというようなことをいったって、そんなにかんたんなことではないということ。かんたんなことではなくて、そうとうな迂回路を、しかもわりあいに正確に検討しながら通っていかないと、そこにはいけないという問題がやっぱりあります。だから、さっきいったように制度の世界、観念の世界をつくったなんていうのは、あまりいいことでも高級なことでもないんだということと、同じ意味から派生してくる第二の問題は、頭で空想している限りは、わりあいにたやすく到達できそうだけれど、そうはなかなかいかないという問題です。そこへいくためにやさしそうでもたいへんな迂回路を、一見するとまるで反対なような迂回路を通らなければ、どうしてもそこへはいけないというような問題があるということです。
                (『同上』 P38-P40 )




吉本 ぼくらは批判されるばあい、いまでもそうですが、お前の考え方は反社会的であるとか、非社会的であるとか非集団的であるとか、そういう非難とか批判を、しこたま体験してきました。そのことはそれでいいとおもうのです。しかし、そういうふうに批判する人の根本思想のなかに社会とか集団というものを絶対化して、つまり過渡的に迂回路を通る過程としてやむをえないのだという認識がなくて、これこそがほんとうに人間的なものだ、そして人間は集団的動物でありそれが本質なのだというような、そういう居直りで通しているばあいがおおいです。
ぼくはそれは嘘だとおもう。それはまちがいなんで、そんな集団なんてものはなければないほうが、ずっといいにきまっています。<観念の世界>なんてものもなければないほうがよかったのだ。だけれど、そういうふうにつくっちゃって、その歴史を何千年も体験してきちゃっているのだからしようがないじゃないか。だから、はじめて人間は集団的にも機能しなければならないし、社会的存在でもあらねばならないということであって、そんなものは、なにも絶対化することはない。つまり、個人的に自由に個体として生きたいにもかかわらず、そういうものをやむをえずつくっちゃって、そして、ある歴史をへてきちゃった。だからこそ、人間は社会的であり、また集団的であるのだという認識が根本になくて、集団的人間こそが真実の人間だというような、そういう認識はおおいわけですが、ぼくはそれはまちがいであるとおもっています。絶対化したら官僚化するわけですし、だれかが権力を握り、だれかが落っこちるというような、だれかが経済力を握り、だれかが握らないというようなことがかならず起こるわけですから、あまり絶対化しないで、迂回路としてはやむをえないのだ、というような認識が根本にないと、ぼくはちょっとまずいとおもいます。
                (『同上』 P41-P42 )










 

 (備 考)

※この項目は、「言葉の吉本隆明 ①」の項目364 「人間の本質」で一度取り上げたもの。吉本さんの人間認識の根本に関わるものであり、またそこには吉本さん自身の固有性も関わっているように思えるので、敢えて再び取り上げることにした。

この吉本さんの言葉は、ああどっかの教会での講演だったかインタビューかでそんな言葉が出てきたよなあと時々思い出す。

この言葉は、おそらく吉本さん自身にとってもしっくりくる捉え方だと思われるし、そういう意味で吉本さんの固有性が付加されているように見える。これは、吉本さんが四〇代半ば考えであるが、このような捉え方は生涯変わらなかったような気がする。ここには吉本さんの固有性が付加されているように見えると言っても、「言葉の吉本隆明 ①」の項目364にあるように人間や人類の大きな歴史の尺度での考察から導かれてきたものである。つまり、吉本さんの固有性が人間の普遍性と接続しているように見える。

このような人間存在の本質性の捉え方については、人の生まれ育った固有性によって様々であり得る。その個別的な印象や把握を超えて、普遍の言葉として語る場合、別の言葉もある。次の言葉は、ゴリラの生態を長年実地に研究してきた体験を背景としたものだろうと思われる。


山極 ただ、ゴリラの生態を観察した結果、得られた結論は、人間も一人ではいられないということです。たとえば「引きこもり」などは、ある意味究極の自由と言えるでしょう。誰にも迷惑をかけなくて、自分だけの好きな世界に浸っているのだから。
鷲田 見方を変えれば、究極の不安とも言えなくはないですが。
山極 まさにおっしゃるとおりで、究極の自由とは、究極の不自由なんです。人間が自由を感じるのは、他人から何かを期待されたり、他人とかかわりを持つなかで、自分の行為を自分で決定できるときだけなんです。自分一人で何をしてもいいという状況、まったく孤独な空間の中では、逆に自由を感じることはないし、おそらくは何もできない。他者との関係性を利用しながら、自分の考えを紡いでいくのでなければ、そもそも自由な発想などというものは成り立ちえない。
 (『都市と野生の思考』P139-P140 鷲田清一・山極寿一 2017年8月、
  ※『kotoba』2015年秋号から四回連載されたものに加筆・修正したもの)


 山極寿一の「人間が自由を感じるのは、他人から何かを期待されたり、他人とかかわりを持つなかで、自分の行為を自分で決定できるときだけなんです。」という断定的な言葉には、わたしの今まで生きてきた体験からは異論がある。わたしの場合は、吉本さんの捉え方に近いけれど、この問題は保留として考え続けていきたいと思う。



人間は遙か太古の時代には、まだまだ人間界がちっぽけで自然に埋もれるような動物生を多く抱えて生きていた時代には、個は集団の中に埋もれるようにして主張されていたのかもしれない。それが近代以降には急速にその個が個自体として浮上し先鋭化してくる。しかし、わが国のように依然として〈アフリカ的〉段階や〈アジア的〉段階の残骸を引きずっている地域では、個を国家などの集団に埋もれさせる意識の古層の考え方は残存し表面化したりしている。未来的にはこの集団性の中の眠りから浮上し先鋭化してきた個は、集団性との関係を組み替えながら、いっそうその道を歩んでいくだろうと思う。もちろん、過去にそのままの形で戻ることはあり得ない。





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564 吉本さんのこと ④ ― 生活者と表現者と 「日常生活のなかからの言語化」 インタビュー 『吉本隆明資料集178』 猫々堂 2018年9月10日

※聞き手 福森俊晴 (『ナーシング・トゥデイ』1987年1月号)

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日常生活人と表現者 本音をできるだけいう 表現の世界には一種のルールといいましょうか、"風俗習慣"みたいなものがあって
項目
1



福森 吉本さんとの本のうえでの出会いは、今から二〇年ほど前のことでした。それ以来、吉本さんに対する私のイメージは、さまざまなことをドンドン書かれて、
自分自身を社会のなかに裸にして放り込んでいるように思うんですが、どのようなお考えでなさっているのか、おうかがいしたいと思います。

吉本 
僕は日常生活人というか、日常の生活者といいましょうか、なかなかそんなことはできないんですが、ごく普通に、常識的にふるまいたいみたいなこと、つまり自然体に生きたいということがあります。しかし、表現ということは、僕は一種違うんだ、表現のなかではできるだけ本番に近いことといいましょうか、あるいは、物事に対しても、本質にできるだけ近いところで表現していかなくちゃ意味がないんだというふうに自分自身を駆りたてているところがあります。そういうことと、本音をいわないと、とてもやり切れないよという苦痛みたいなものがあって、本音をできるだけいうことで、苦痛をその時々に解消しているという消極的な意味あいもずいぶんあるように思いますね。




吉本 そういっても、
表現の世界には一種のルールといいましょうか、"風俗習慣"みたいなものがあって、それがどこからか規制していて、規制すると自分の表現がそれにのっとって縮こまってくるみたいなことがあります。本当はこういうべきなのに、こうはいえないんだとか、ストレートにいえばいいのに、遠回しにしかいえないとかいう部分がどうしても出てくるんです。実生活のうえでそういうなかに入ってしまいますと、なおさらそうなってくるもんですから、実生活上は同業者の人たちとのつきあいは最小限やむをえないときのみに限定しています。ある人のことを書く際、どうしてもその人の実生活を知っていると、その人の書いた小説を評価したり批評したりする場合、筆が丸まってしまう場合があるんです。ですからできるだけ実生活は普通どおりにして、そういう人たちの集まりには参加しないようにして自分で書く表現自体は、できるだけ本音に近いようにと、自分なりに意識してやっています。
 (「日常生活のなかからの言語化」P54-P55『吉本隆明資料集178』猫々堂)
 ※①と②は、連続した文章です。
















 (備 考)

インタビュアーの「自分自身を社会のなかに裸にして放り込んでいるように思う」ということは、わたしも思ったことがある。特に、吉本さんが老年期に入ってから顕著になったような印象を持っている。ふつうなら、そんな個人的なこともあけすけに言うのかと思ったものだった。

吉本さんの文章の中で、編集側からの言葉の修正要求を巡るやり取りなど物書きの事情も少し知った。表現の世界の"風俗習慣"の中でも「本音をいわないと、とてもやり切れないよ」という思いがあり、そのことがあけすけに自分をさらけ出しているように見えることとつながっているのだろう。人は誰でもこの社会の中で、個として家族の一人として職場の一人として等など多重化して生きて行かざるを得ない。そうして、例えば職場の一人としての中にも個が表面化したりすることはある。この社会の有り様から、吉本さんが日常生活人と表現者との分裂あるいは二重化せざるを得ない状況を強いられているように、わたしたちは誰でもそのような二重化や多重化を強いられている。ふだんは割と自然なものとしてそれらの位相の違う小世界を行き来し呼吸しているが、その内面を照らし出してみたらもう少し複雑な事情が誰にも浮かび上がってくると思われる。その複雑な事情は、この社会の歴史的な現在性の有り様からくる軋みのようなものである。わかりやすく言えば、人がスムースに小世界を行き来できないこの世界の現在の不十分さに起因している。

また「その内面」を明らかにするのは、万人の内省の問題でありつづけているが、同時に物語や精神分析などもそこに関わっている。


吉本さんは、人一倍虚偽や作為や自己欺瞞をきらった人だったから、そのこともこのできるだけ本音を言いたいという衝動に深く関わっているはずである。そしてそのためには、自分を韜晦(とうかい)することなくさらけ出さなくてはならない。



この項目の関連事項として以下がある。

「言葉の吉本隆明①」項目330「『言語美』、『心的現象論』をもって自己カウンセリング」より

それからぼくは、いまでも「対人恐怖」ですが、思春期前後のころは、ひとを正視して話をする、とくに女のひとと話をするということができなかったんです。それから「赤面症」も、思春期に入る前後のころは極端にそうだったんです。いまは摩耗しているというか、それほどじゃないですが、そのころは意識すればするほどそうなっちゃう。べつにひとからみて顔が赤くなっているかどうか、それこそ田原さんのいわれるとおりわからないですが、カッーと耳までも熱くなっちゃう。一時期それにずいぶん悩まされました。
 (『時代の病理』1993.5.30)


これは、本の出版年から判断して吉本さん六十代終わり近くの言葉だと思われる。吉本さんは、少年の頃は自分はガキ大将だったという言葉がわたしの念頭にあったから、この言葉に出会った時、ああやっぱりねと思ったものである。

というのは、吉本さんは飾り事をしたりうそをついたりするはずはないという思いがわたしにはあるが、ずいぶん昔に「少年の頃は自分はガキ大将だった」という吉本さんの言葉に出会った時には、ほんとかなと何か釈然としなかった。たぶん、「摩耗している」老年になって割と気楽に言えるようになったのかもしれないと思う。実際は、ガキ大将的な攻撃性、外に向かう性格と同時に、吉本さんの自己批評でもある『母型論』を踏まえれば、たぶん胎内期に発祥する関係不全としての赤面症、引っ込み思案とが二重化していたものと思われる。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 発行日
566 吉本さんのこと ⑤ ― 「父と母と、我が家の食事。」 「父と母と、我が家の食事。」 対話 2013年5月 ほぼ日刊イトイ新聞

「父と母と、我が家の食事。」 ハルノ宵子×糸井重里 ( 全6回 2013年5月 )
 https://www.1101.com/harunoyoiko/

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料理に関して、吉本さんと奥さん いわゆる料理が下手な吉本さん 花見の席で「雑な」吉本さん
項目
1



糸井
きれいなだけの料理をつくる、食に興味のない母と、
すっごく食い意地は張ってるけれども、
それをうまくつくることの、まぁ、叶わぬ‥‥

ハルノ
そう(笑)。できない、父とね。

糸井
どっちもまちがってる。

ハルノ
そう、まちがってる(笑)。
あのふたりも、お互いに
反面教師だったんでしょうね。

糸井
反面というか、側面教師みたいな感じだね。
 (『父と母と、我が家の食事。』第2回「ささみバターの恐ろしいフライ。」、ハルノ宵子×糸井重里 全6回 2013年5月 )




糸井
さすがに吉本さんだって、
おからが豆腐を作るときにできるもんだ、
というのは知ってたんじゃない? (註.1)

ハルノ
(笑)いや、意外にそういうことを
父は追求せずに放っておくんですよ。

糸井
たしかに吉本さんは、いろいろ間違ってる(笑)。
知らないことに関して、
ざっくりそのままにしておいたりします。
そういう人だなとも思う。
だけど、おからを米と思ってたのは(註.1)
無理なんじゃないか、と。

ハルノ
いや、父は妙なところを知らないんですよ。
あれは、知る必要がないんでしょうかね?

糸井
うーん‥‥もしも必要を感じてたら
料理もうまくなってたかもしれない。
 
ハルノ
まぁ、そういうことでしょう。

糸井
(笑)あのね、いま思い出したんだけどね。
吉本家の開催するお花見は、谷中墓地で
たいがい肌寒い頃に行われましたが、
まずは吉本さんが、朝から
敷物を担いで自転車に乗って出かけます。
場所取りのために敷物を広げ終わったら、
そこで本を読みはじめて、昼間ずっとひとりで過ごす。
で、夜になるとみんなが集まります。
ガスコンロやなんかが揃ったところで
鍋みたいなことをするんだけど、
鍋の前には当然主人(吉本さん)がいて、
その主人がみなさんにサービスするということで
鍋をつくります。
それが、サービスにならないくらい、雑なんです。

ハルノ
うん(笑)。

糸井
誰もが息を呑むようなかんじで、
‥‥ざん! と、材料を入れるんです。
豆腐でも肉でも青菜でも根菜でも、いっぺんに。

ハルノ
いやぁ(頭をかく)。

糸井
誰も注意もできない。

ハルノ
できないです。
父はすべてにおいてだいたい
ああいう感じです。

糸井
それぞれの材料は切りわけて
別々に盛ってあったはずですよね?

ハルノ
そうなんだけど。

糸井
主人は鍋の前で
その皿を斜めにするだけなんです。

ハルノ
そう。

糸井
ぼくはちょっと、「あっ、あっ!」と
言った憶えはあるんだけど。

ハルノ
そうなんですか(笑)。

糸井
でも吉本さんは、反論することもなければ、
言い訳もなくて、
「ああー」と言うだけなんです。
‥‥毎年そうでした。あれはなんなんですかねぇ。

ハルノ
まぁ、それはしょうがないでしょう。
作り方にどうこう言っても(笑)。

糸井
あれだけいろいろ準備をしてねぇ‥‥、
すべての材料が斜めにされたとき、
一同の「これをいっぺんに入れるのか」という心の声。
息を呑みます。
さわちゃんは、ああいう人を扱って、幾星霜。

ハルノ
ほんとにそうです(笑)。
 (『同上』第3回「隆明さん、肝心なとこで。」)






 (備 考)

「父と母と、我が家の食事。」 ハルノ宵子×糸井重里 ( 全6回 2013年5月 )
 https://www.1101.com/harunoyoiko/

(註.1) ※後から追加
『食べものの話』(吉本隆明 丸山学芸図書 1997年12月)に、ここでの「おから」の話に関わるものとして、次のような文章がある。

 ただひとつこれはどうしても咽喉にとおらないというものがある。正規の呼び名は何というのか知らないが、酢をきかした豆腐のオカラを、鮨とおなじようににぎり、その上に鮨とおなじように光りものの酢づけの魚をのせたものだ。ようするに光りもののにぎり鮨で、お米の御飯のかわりが豆腐のオカラになったものだ。
 これは子どものころから、わが家の日常メニューのなかにあって、ときどき出てきた。親たちも祖父母も好んで食べていたが、わたしは一度食べようとしただけで、ついに食べることができなかった。親たちはこの美味さがわからんのかという顔をして、無言の威圧をくわえてくるのだが、どうしても駄目だった。咽喉のところまで呑みこむと、反射的に吐き戻してしまうのだ。
 (『同書』「きらい・まずい」P20-P21)


 わたしにも「きらい」なものがある。例えば、生卵や半生の卵焼きは食べることができない。それには思い当たるできごとがある。小さい頃兄弟が生卵に穴開けて呑んでいて、わたしもまねして呑み始めたらつかえて呑み込むことができなかった。その失敗の体験からきているように思う。ところで、「きらい」には、食べものでも人間関係でも、初めの出会いの失敗体験があるはずである。子どもは一般に酢のものはきらいだと思うが、吉本さんはその酢の刺激的な襲来にうっときたのかもしれない。そして、その背景には吉本さん固有の味覚などの体験の蓄積とかたちがあるはずである。

この「おからの話」と関係して、ハルノ宵子の「いや、父は妙なところを知らないんですよ。あれは、知る必要がないんでしょうかね?」という言葉の、 「妙なところを知らない」ということは、そうだったんだろうなと思う。そうしてそれは、近々「吉本さんのこと ⑧」で触れる予定だが、「安原顯の泣きどころは、一口にいえば或る種のことに関する精神の無表情ともいうべきものだ。」(「安原顯について」 『吉本隆明資料集 141』猫々堂)という
ことと関係すると思われる。つまり、吉本さん自身にもその「精神の無表情ともいうべきもの」の自覚があったのだろうと思う。それは自己の「根源的な不安」が無意識のように外界の喪失をもたらし、外界への人並みの関心からそれていく時があるのだろうと思われる。



※吉本さんの娘さんと吉本家に親しく出入りしていた糸井重里とのこの二人の話は、吉本さんや吉本家の内側が語られていてとても興味深い。ただし、例えば吉本さん自身の内側に十分に触れ届いているかどうかはわからない。むしろ、別の文章で奥さんの自分に対する評価に対して述べた言葉(註.2)同様、いやいやほんとのところは自分はそんなつもりではないんだよと吉本さんは抗弁するかもしれない。このような外からの視線と内からの視線のずれの問題は、もちろん、この人間界の関係世界を生きるわたしたち全てに関わる問題である。

ところで、この二人の話は全体的に興味深いけど、吉本さん固有の性格が出ている食に関するところだけを抜き出してみた。吉本さん固有の性格みたいなものが語られるエピソードに表れている。吉本さんは講演やインタビューなどの語りで時々(自分はなまけ者だから)などの自己把握を披露することがあるが、『言語にとって美とはなにか』や『共同幻想論』や『心的現象論(序説)』などの主な論考だけを挙げてもそれは信じられないように思われるが、一方の日常の生活では自己解放してなまけ者ぶりを発揮していたのかもしれない。

吉本さんの若い頃の色の実験・考察の成果を残された文章からわたしたちは読むことができる。批評や思想同様、化学実験などをいい加減にやっていたとは考えられない。だから、吉本さんの中では内に向かい合いつつ外に向かう場合と生活にくつろぎ生きる場合とでは区別あるいは峻別されていたと考えるほかない。


 (註.2)
わたしのからめ手からの辛らつな批判者にいわせれば<あなたは他人に寛大でゆるしているようにみえながら、あるところまでくると、他人には唐突としか思えないような撥ねつけ方をするよ。決してその都度、わたしは、そういうことは好きでないとか、いやだからよしてくれとは言わずに、ぎりぎりの限度まで黙っていて、限度へきてから、一ぺんに復元しないような撥ねつけ方をするよ>ということになる。わたしには、この批判は、かなりうがっているようにおもえる。しかし、依然として〈いや、ちがう〉という無声の声を挙げるほかない。しかし、その声は、どこにも、だれにもとどかない、ことを、どうすることもできない。
 (『「情況への発言」全集成1』(1962~1975)所収 P277 洋泉社)






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
567 吉本さんのこと ⑥ ― 家族、食を巡って 「かき揚げ汁の話」他 論文 雑誌「dancyu」2007年~2011年 『開店休業』 プレジデント社 2013.4.30

 (『開店休業』2013年4月刊)
 ※吉本さんの文章は、「dancyu」誌に2007年1月号から2011年2月号に連載。

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"雑"な仕事をする父
項目
1



 お前は揚げ物でさえあれば、何でも美味なのだろうと言われると、たしかにその気味ががあるが、それでも目の前で揚げて、目の前で丼をつくってくれる新鮮さ(引用者註.吉本さんの子どもがまだ中学生頃の近所の店)はかけがえのないものだったように思える。
 これは、わたし自身が中学生頃の話のための序論だ。母親が時々つくってくれた"かき揚げ汁"と呼んだらいい「おかず」があったのだ。母が自分で揚げてくれるときも、既製の天ぷらを買ってくるときもあった。それを天ぷらのだしよりも薄く、醤油主体のおつゆよりも濃い、微妙な濃さの汁に入れて、煮くずれしない程度に煮込んだものを、あたたかい御飯に好きなだけかけて食べるのだ。
母親はさぞかし、汁の味や濃さに気をつかったにちがいない。わたしたち子供には美味で食事がすすみ、よく母にねだったものだ。
 
わたしは大人になってから、少年のとき、うまいと思ったおかずを、炊事当番のとき、つくってみる癖がある。だが、このかき揚げ汁に限っては、そんな記憶がない。なぜかといえば、もし家族の誰かが揚げ物を好かなかったら、はじめから成り立たないからだろう。とくに父母の郷里の九州地方の味は、一般に濃い気がする。これは味噌汁やそのほかの味付けでもそう感じる。わたしの現在の世帯は東京で、薄いのが普通だ。わたしでもそのくらいのことは心配りをして、頭をはたらかせているらしい。
 (『開店休業』「かき揚げ汁の話」P31-P32 2013年4月 吉本隆明)


 
今の本駒込の家に越してきて数年後の一九八〇年代半ば頃だったろうか、数年間父が朝食から晩までの、オール炊事当番をやった時期がある。(註.1)その時の父の料理はデンジャーだった。"かき揚げ汁"なんて上品な話ではない。タガがはずれたように"実験料理"の連続だった。自分が納得いくまで毎日連続する、試行錯誤・正体不明の揚げ物三昧。中でも最悪だったのが、青ねぎの混じった小判型のぶよっとした揚げ物。それが大皿に山盛りになっている。醤油かソースをかけて食べるのだが、噛むとじゅわっと使い古された油がにじみ出てくる。具はどこにあるのかと分解してみても見あたらない。すべてが"衣"だ。それは小麦粉と卵を練った生地に刻んだ青ねぎを混ぜ、低温でジブジブと揚げた"衣揚げ"だった。
 食べることが嫌いだった母があずかる我家の台所に、"お袋の味"は存在しない。代わりに思い出すだけで「う゛っ」と、こみ上げてくる
父親の味があるだけだ。
 (『同上』「恐怖の父の味」P35 ハルノ宵子)




 しかしその"血"(引用者註.箪笥を作った腕の確かな祖父の血)は、父にはまったく受け継がれなかった(父の弟が継いだ?)。鍋一つ乗せた途端に落ちる棚や、接木だらけで寄り掛かっただけで崩れる"転落防止柵"など、父の大工能力には母も早々に見切りをつけていた。
 (『同上』「血は争えない?」P108 ハルノ宵子)




 父が炊事当番をしていた頃、郷愁からか何度か自分でこの焼き蓮根の刻んだのを作ったことがある。しかし"現場"は惨状を極めた。とにかく散らばるのだ。網で焼く時皮が散る。刻むとねばり気ゆえ包丁にくっつき散らばる。食べる時ご飯粒と共にまた散らばる。特に
"雑"な仕事をする父のことだ。コンロに、流しに、テーブルや床に――二、三日間は蓮根を踏みつけながら暮らすこととなる。元々根菜類があまり好きではない母は、惨憺たる台所を見てますます食欲を無くし、焼き蓮根をごちそうとも思えない"今時の若者"だった私は、この台所を掃除するのは自分だと思うと、げんなりするだけだった。
 この連載をリアルタイムで読んだ時、「ああ! そうだ父に焼き蓮根を作ってあげよう」と思ったのだが、眼が悪い父がどれほど床に散らかすのかと考えると、ついつい一日延ばしになり、そしてそのままになってしまった。今思うと、涙が出るほど胸が痛む。
「たかが散らかる位で!」と人は言うだろうが、日常であること家族であることとはそんなものだ。誰だって家族には少なからずそんな思いをさせながら、日々を生きている。
 (『同上』「焼き蓮根の悔恨」P114-P115 ハルノ宵子)




 父は決して"味音痴"ではなかった。それなりの学習能力と勘さえあれば料理はどんどん上達したはずだ。毎日三食の献立を(曲がりなりにも)考え料理を作る。
やはり父は、この抜けられないルーチンを呪っていたのだと思う。(註.2)他の仕事をかかえつつこれを続けた経験のある人なら、誰でもこの疲弊感を理解できるだろう。"家事炊事を全面協力する"という約束を父は自分から「降りる」とは言えなかったのだ。
 (『同上』「父のせつない煮魚」P121 ハルノ宵子)



















 (備 考)

※ 以下、順番としては、(註.2)を書いてから、(註.1)を書いたので、(註.2)でわからなかったとしているのは、(註.1)でわかってしまった。吉本さんの詩句として覚えていたというのはわたしの記憶違いかもしれない。そういうわけで、以下、(註.2)→ (註.1)の順に読んだ方がいいかもしれない。


(註.1)
吉本さんが炊事当番していた時期についてハルノ宵子の述べている時期が記憶があいまいなのか、それともそれとは別に同様の炊事当番の時期がそれ以前にあったのか、吉本さんは次のように述べている。以下の一つ目の引用では、吉本さんは夕食のみのような書き方をしているから、やはり別の時期のことかもしれない。ちなみに、以下の一つ目の文章は1973年に発表されている。(註.2)を書き上げた後、この『食べものの話』という本も見つけて流し読みしていたら、(註.2)でさがしていたものを見つけてしまった。詩句ではなく、文章中であった。


 わたしは、ごく親しい知り合いから、吉本さん、料理の本を書くといいよ、と冗談半分、真面目半分にからかわれたことがある。わたしが、巧みな料理人だからでもなければ、包丁さばきがよいからでもない。病弱な細君の代わりに、ほぼ七年間くらい、毎晩喜びもなく悲しみもなく、淡々と夕食のオカズの材料を買い出し、料理をつくり、お米をとぎ、炊(かし)ぐということを繰り返してきた実績をその人がよく知っていたからである。
 七年間もやっていると、料理自慢の鼻もへし折れ、味の愉しみなど少しもなくなり、ただ、そこに夕方が来るから、口に押し込むものを、す早く作るのだ、という心境に達する。そして、ウーマン・リブの女たちを、一人一人殺害してやったら、どんなにいい気持ちだろう、などと空想するのが、料理中の愉しみのひとつである。
 たぶん、わたしは死ぬまで、特別の用件で出かける以外は、この料理役を繰り返すことになるだろう。そして家事から解放されたり、解放されなかったりする女達を呪いつづけて死ぬことになるだろう。
 (「わたしが料理を作るとき」初出は1973年、P85-P86 『食べものの話』所収)



吉本 僕も自分で家族のために食事をつくるということをしていたときありましたけど、今は子どもに権限を委譲しちゃったですね。どうしてかというと、みんなから造反されちゃって(笑)。というのは、何がだめになったかと言いますと、結局、ソースというのでしょうか。つまり僕らは黒っぽいあのソースしか知らないんだけど、今の子ども年代のやつは、いろんなソースのつくり方とかそういうのを知っているんですね。そっちのほうがうまいというのを知っているんです。僕はソースって言えば、黒っぽいあれしか知らないもんですからね。自分でも、ああ、俺はソースっていうことがわかんなきゃだめだなあというふうに思って、もうこれは権限を委譲するって。
 (対談「食の原点に還って」道場六三郎・吉本隆明 1995.2.14 P155 『食べものの話』所収)


 この引用二つ目の炊事当番が、ハルノ宵子の述べている時期、一九八〇年代半ば頃からの数年間のものに当たっているのかもしれない。「父の料理はデンジャーだった」と述べたハルノ宵子の引用した文章の全体の感触からすると、ここで吉本さんは「ソース」、すなわち味が家族の者に気に入られなかったと捉えているが、食に関するすれ違いの事態は精神的な要素も関わってもう少し複雑で深刻だったような気がする。少食で食への関心がない「絶対君主的に君臨して」( 「父と母と、我が家の食事。」第5回 ハルノ宵子×糸井重里 2013年)いた母親と多分にその影響下にあった子どもらとに囲まれて、吉本さんは父として個として孤独であったかもしれない。 もちろん、こうしたことはどんな家庭でもあり得る一般性を持っている。その片鱗は、対幻想をモチーフとした詩「〈不可解なもの〉のための非詩的なノート」(『吉本隆明新詩集』(試行出版部)にも表れている。ちなみに、吉本さんはこの本で次のようにも述べている。食が家族の精神性とも深く関わっていることを述べている。これは柳田国男の描いた一家を支える〈主婦〉像とも関わるように思われる。


女性が、じぶんの創造した料理の味に、家族のメンバーを馴致させることができたら、その女性は、たぶん、家族を支配(リード)できるにちがいない。支配という言葉が穏当でなければ家族のメンバーから慕われ、死んだあとでも、懐かしがられるにちがいないといいかえてもよい。
 それ以外の方法では、どんな才色兼備でも、高給取りでも、社会的地位が高くても、優しい性格の持ち主でも、女性が家族から慕われることは、まず、絶対にないと思ってよい。

 (「わたしが料理を作るとき」初出は1973年、P86-P87 『食べものの話』所収)



(註.2)
このことに関しては、確か吉本さんの詩の中の一、二行の詩句で出会った記憶がある。毎日の食事を作ってもいないでどうのこうの主張するフェミニストを呪った言葉ではなかったかと思う。『遠い自註(連作詩篇)』(『吉本隆明資料集57』 猫々堂)、『吉本隆明全詩集』 (思潮社 2003年)の「第Ⅱ部 新詩集以後」、『吉本隆明新詩集』(試行出版部)、そしてたぶんここにはないだろうと思われた詩集『記号の森の伝説歌』(角川書店)をさらりと当たったが見つからなかった。しかし、その詩を読んだとき、吉本さんが炊事当番したことがあるということが頭にあって、ハルノ宵子が語っている呪いのようなものを感じてちょっと意外な感じがしたことを覚えているから、わたしの記憶に間違いはないと思う。(註.1)へ



家族の中の問題は、親子関係が上下でなく水平関係に近い現在は特に、家族内の相互的な問題であり、誰もが経験しているのに人間の根幹に関わるむずかしい問題に見える。だから、ハルノ宵子が語っているように「 『たかが散らかる位で!』と人は言うだろうが、日常であること家族であることとはそんなものだ。」そうではあるが、しかし一方で、「"雑"な仕事をする父」と言葉に括る視線を向けられることも当事者にとってはつらいものだろう。なぜならその単なる下手や手抜きに見えている「"雑"」の内実は、「きみの全人格は きみの/確信するところによればきみの全生涯の/労作である ことによると/傑作であるかもしれない」(詩「〈不可解なもの〉のための非詩的なノート」)からだ。こうしたことは、どこの家庭でも夫婦や親子間で交わされているはずである。

「雑」という外からの視線と内からの視線は、水平関係に近い家族などの場所でどう折り合いを付けていくのか。これもまた、人類の永続的な課題だろうと思われる。

親と子、その両者の断層を浮かび上がらせるように、引用の初めに吉本さんの文章、次にそれに付け合わせるハルノ宵子の文章を並べてみた。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
568 吉本さんのこと ⑦ ― ぐうたらであることと思想が世界性と歴史性を持つこと 「竹内好の生涯」 講演 (「吉本隆明の183講演」A042 ほぼ日刊イトイ新聞

講演「竹内好の生涯」(「吉本隆明の183講演」A042)の質疑応答の部分、「講演のテキスト」より
※講演日時:1977年10月1日

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ぐうたらということ 罪の意識 思想の世界性の条件 マジメなやつはたいてい嘘だって感じがある
項目
1


 (吉本さん)
 どうなったらいいのかなってことになってくるわけでしょうけど、竹内さんって人の教育っていうこと、広義の意味で教育っていうことは、抽象的な意味の有効性っていう意味、観念の有効性って意味の教育っていうのは、そういう意味あいで、教育っていう言葉は、竹内さんの思想の中には、相当な本質的な部分に食い込んでいく問題なんですけど、ぼくのなかには、ぼくはあんまりないんですよ。少なくともグレてからは、ただ通ればいいって考え方だったんです。
 ぼくはよくそういう例を引きますけど、
太宰治っていうのは、学校っていうのは、何したってかまわないんだ、出ちゃえばいいって言ってるのがあるんですけど、ぼくはそれが好きなんです。ぼくはまさにサーって出ちゃったっていう感じなんです。だから、できるだけ敬遠しながら出ちゃったって感じで、あんまり教育っていうこととか、学校っていうことについて、なんか理想とか、こうならいいっていうようなあれは、ほんとうはないし、そういう資格もないです。
 ただ、ぼくが竹内さんみたいに、社会の優等生であるかないかってことより、
学校で学んだことがあれば、ごく通俗的な意味で遊んだっていうことなんです。つまり、遊ぶことを学んだっていうこと、遊ぶことを学んだっていうのは、ものすごく嫌なことなんです。ちょっとおもしろくなってきた。




 親っていうのはそうじゃないんです。つまり、人によって違うでしょうけど、乏しくて、自分が無学だから、子どもにはせめて教育をぐらいに思っているわけだから、乏しい稼いだ金の中から、子どもに金を割り振るわけ、そうすると、子どもっていうのは何を思うか、ぼくは学校行って何を学んだか、遊ぶことを学んだわけです。学校をサボる、授業をサボって映画にいくとか、飲んだり食ったりしてサボって、
そういうことばかりして、ぼくはものすごい親孝行でしたから、そういう自分がものすごく罪の意識なんです。罪の意識だけど、それ以外にないっていうような、そうするわけです。試験のときには、とにかく協同してノートを写し合って、それで通っちゃうっていう、6割以上取ればいいのだってことで、とにかく、めちゃくちゃにやるわけです。
 
そういう意味では、なにひとつ身につけなかったっていっても過言ではないってこと、そうやって通ったと、親は有効性でしか金を出していないんです、子どもに。学費を出していないんです。有効性なんです、これは役に立つっていう、ぼくはその有効性を否定するわけです。
 有効性を否定するっていうことを大学で学んで、こんなの中共に行ったら、中国に行ったら、おまえどっかで人民公社ですこし働いてこいって、労働者として働いてこいって、だけども、ぼくの価値観によれば、それがいけないのです、よくないのです。遊んだっていうことは、ものすごく悪いことなんです。それがものすごく、ぼくの生涯を害しているわけです。つまり、ぼくの人格を純粋でなくしています。つまり、正義の男じゃなくしています。
 それから、ぼくは左翼的ですけど、並みの左翼とどうしてもぼくは、これは違うって思えてならないのはそこだと思います。マジメすぎる。
つまり、マジメなやつはたいてい嘘だって感じがあるのです。マジメすぎるのはおかしいんだってことなんです。
 つまり、遊びとか、役に立たんことを、それに生涯を無駄に使っちゃうっていう、それがなければ、知識っていうのは、世界性が持てないです。さっきと同じです。持てないですよってことを、大きくいえば、ぼくはそれを学んだんです。それを大学で学んだんです。他では学ばなかったです。
 それは徹頭徹尾、親父なんか、プロレタリアですね、親父なんかそうだと思います。組織労働者じゃないです、プロレタリア、親父なんか徹頭徹尾そう思っています。それは騙すわけです。徹頭徹尾、有効性によって、身を切るようにして稼いだ金を子どもに送っているんです。ぼくはそれを遊びに使っちゃうわけです。ちっとも有効性のないものに使うから、ものすごい罪の意識です。しかし、ぼくは断固としてそれをやめないわけです。あるいは、やめられなかったです。




 
そのぐうたらってことはものすごい悪いことなんです。ぼくは、ぐうたらは絶対いいとは言わない、これは悪いこと、ものすごい悪いことなんだけど、随分ぐうたらであるため、ずいぶん損していますし、ダメだな、おれはって思っていますし、いまでもあるんですけど。だから苦しいですけど、なんか仕事をするとき、やれやれってしょうがなくて、そのぐうたらさっていうのは、大学でぼくは学んだことなんです。
 だけれど、しいてそこに意義を求めるならば、親父みたいなプロレタリアを騙して、有効性で身を切るような貧しい金を使って、遊びに使っちゃって、それでぼくが学んだいいことっていうのは、ぼくはいまも生かしているし、断固として、世界思想として主張して止まないのは、知識が知識であること、遊ぶことが遊ぶことで、生涯をアウトにしちゃう、全然、毛沢東的にいえば無価値である、あるいは、スターリン的にいったら無価値であるっていう生き方、それから、ぐうたらでどうしようもなくて、酒飲んで中毒になって死んじゃったとか、そういう生き方のなかに価値があるんだよっていうこと、それから、知識が知識で何の役にも立たなくて、それを追及したあとのことは、馬鹿で全然なんにも知らない、どう利用されても知らないっていう、そういうのは価値があるんだよっていうこと、
それがなければ、思想っていうものは、世界性っていうものと、歴史性ってものを持てないんだよっていうこと、つまり、思想っていうのが一代限りになっちゃう、人間の生涯が100年とすれば、100年限りの思想、100年を超える思想、歴史性、時間性を持つ思想っていうのは、絶対にそういうものを肯定しないかぎり、できあがらないんですよっていうこと、そういう核心っていうのだけあるんです。
 どこで学んだかっていったら、ぼくは、ぐうたらなことで、遊ぶことによって、親を騙すことによって、プロレタリアである親を騙すことによって学んだと思います。これを学ぶために、ぼくはぐうたらさっていうものを身に付けて、ぐうたらさっていう悪べきことを身に付けて、そういう、いわば、人間性の犠牲の上に、ぼくはそういう考え方っていうのを獲得したと思うんです。




 この考え方は、たぶん世界のマルクス主義っていうのを修正するに足るんです。と、ぼくは思っているわけ、世界のマルクス主義っていうのは、修正しないかぎりダメですよって、ぼくは思っているわけです。そういう確信があります。そういう批判があります。だから、ぼくは自信があります。それはどうしてもダメなんです。それがなければ、思想が世界性を持てないんです。毛沢東思想では世界をリードすることはできないんです。
 後進国とか、虐げられた、つまり弱きを助ける、弱き者に示唆を与える、そういうあれにはなれるかもしれないけど、世界思想っていうもの、あるいは世界っていうものをぜんぶ掌握したうえで、ぜんぶ掌に指したうえで、掌握っていうのは支配っていう意味じゃないですよ、世界の構造を掌に全部あれしたうえで、弱きを助けるっていうことは、ほんとうはどういうことなんだっていうことに対しては、毛沢東思想は必ず間違えると思います。現在の中国の思想は必ず間違えると思います。
 ただ弱きを即物的、あるいは即時的に助ける、つまり、第三世界の解放運動を助けるとか、即物的に助けるとか、即自的にその思想を助けるとか、あるいは影響を与えるとか、
そういう意味では有効性があるでしょうけど、それらがほんとうの意味で真理であるか、ほんとうに世界性があるかどうかは別なんです。ほんとうの世界性っていうのは世界の別の構造です。毛沢東思想が絶対にひっかかってこない、精神的なあれなんです。
 その世界全部をいわば構造として掌握できるっていう、そういう視点がもったとき、はじめて、そのときに、弱いのはどこなんだってことで、ここなんだ、それを助けるにはこうなんだっていうような、それができるなら、はじめてそれは有効であり真理なんです。
 だけども、即自的な有効性っていうものは真理であるか、ほんとうの意味で有効であるかどうかっていうのは、絶対に、即時性であるかぎりは、絶対に判定できないということ、これは、あらゆる実践家っていうのは心得なければいけないことだと思います。また、あらゆる理念というものは、絶対に身につけなければいけない問題だというふうに、ぼくは信じます。




 ぼくはどこからあれしたかというと、大学からです、大学の先生からじゃないんです、絶対そうじゃないんです。ぼくはそういう意味で教育について確たる施策がないんです。ぼくは悪いことばかりしかしてないのに、あんまり言えないので、ぐうたらっていうのは、ほんとうによくないことなんです。
 ぼくはもう少しぐうたらじゃなかった場合、ちょっといいと思います。優秀だと思います。だけどダメです、ぐうたらなんです。だから、ものすごい悪いことです。ちゃらんぽらんなところが、ものすごく悪いんです。意識しないで、他人を見ちゃうことだったり、ものすごく内省するんですけど、それでもそうだっていう、非常によくないものを身につけたんです。
優等生も残酷ですけど、遊び人とか、怠け者っていうのは、すごい残酷です。残酷でいけないところがあるんです。そういう意味で悪いことを身に付けてます。それは悪いことです。
 しかし、それを犠牲にして獲得したこともあります。ぼくはそういうところなので、大学とか、教育とかについて、あまり言うことが多くないし、理想がないんです。こうじゃなきゃいけないみたいのがないんです。
 たとえば、自分の子どもに対して、ものすごく嫌ですね、ダメですね、ぼくの理念からいけば、ほったらかしにする、ほっとく以外にないんですね、何も文句をいうことができないのです。おまえだってそうだったんだからなって言われると困るので、言えないのです。だけど、言えないっていうことが、しかし、親から見ていると、イライライライラするわけです(会場笑)。

 そういうふうに逃げ通しに逃げていたって、いつかは逃げられないんだよっていうことだけは、言いたくてしょうがない、子どもに。逃げてるし、怠けているし、逃げっ通しに逃げて、それから、きわどいことになると、ニコニコしてごまかして、「おまえ、いつかどこかで逃げられないぞってことがあるんだよ、人生には」とか、「人間にはあるんだよ、生涯にはあるんだよ」ってことは、どうも説教したくて仕方がないんだけど、できないですね、イライラしても、する資格ないよっていう、ぼくの経験からいえば、親から説教されて、言うこと聞いた覚えはないのです(会場笑)。親が無意識にやったことからたくさんのことを学んでいますけど、親から少なくとも意識的に説教されたことは、どんなにいいことを言われても学ばなかったなぁ。
 だから、おれはそういうことを言いたくてしょうがないけど言えないです。仕方がないので、みなさんに対してこうして言うわけです(会場笑)。子どもには言えないです。自分がぐうたらってことはちゃんと世襲されます。ほんとうに嫌ですけど、日頃のことならどんなやけくそ、嫌なことがあっても、やけ酒のむっていうのは、この頃はないんですけど、子どものことだと呑みたくなりますね、それほど嫌なことです。
 しかし、それは、身から出た錆っていうか、銀河は巡るっていう、だから、ぼくがよくわかるのは、聖書の中でキリストが故郷へ行って説教をするでしょ、そしたら、有効性がないわけです。言うこと聞かないで、なんだあいつは大工の息子がって、そう言うだけで全然いうことを聞かないんです。だから、どんな偉そうなことを言ったってダメです。そういうふうに有効性がないんです。キリストだってないわけです。
 子どもとか、肉親の前ではないわけです。だから、ぼくらには全然ないわけです。みなさんに言えば、ちょっとは、ぼくは気持ちが晴れるわけです。思い当たることは、多少はあるでしょうけど、みなさんも、だから、言うわけですけど、ぐうたらっていうのは、復讐されますよ、必ず。必ず復讐されますけど、でも、学んだことなんです。(会場拍手)

 (吉本隆明の183講演、ほぼ日、A042「竹内好の生涯」の「講演のテキスト」、「20 質疑応答5」より)
 ※講演日時:1977年10月1日 質疑応答部分なしの少し手の入ったと見られる講演は『超西欧的まで』弓立社 所収
 ※①から⑥は、連続した文章です。










 (備 考)

吉本さんは、若い頃は印象がないが、老年期辺りからか、この自分はぐうたらであるというような言葉を文章(インタビュー)の端々で言われていたように思う。初めの頃は、ほんとかな、と思ったこともあったが、だんだんそうなんだろうなと思えるようになってきた。

③と④の思想が世界性を持つということは、良いこと悪いこと含めあらゆる人間的なことに視線や言葉を開いておかないといけないということ。

⑥の、吉本さんの自分の子どもに対する対し方がおもしろい。吉本さんなら、そうなるだろうなと思われる。論理や思想の世界と違って、生活人として誰もが持つようなあいまいさや煮え切れなさがうかがえる。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
571 吉本さんのこと ⑧ ― 「安原顯について」、精神の無表情のこと 「安原顯について」 論文 『吉本隆明資料集 141』猫々堂 猫々堂 2014.12.25

※「安原顯について」は、安原顯『ふざけんな人生』1996年11月25日刊解説
関連項目566 「吉本さんのこと ⑤」

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精神の無表情 資質の奥ふかく 根源的な不安 無表情という鋭敏な感応の仕方なのだ。
項目
1



 安原顯の泣きどころは、一口にいえば
或る種のことに関する精神の無表情ともいうべきものだ。この或る種のことというのは、具象的にこれだということができない。もともと具象的ではなくかれの資質の奥ふかくに、しかも無意識としてしかあらわれようもないことかもしれない。しかしごく稀に、かれのこの精神の無表情にぶつかることがあった。そんなとき西欧のコトワザでは、いま天使が頭上を通り過ぎているのだと言うのだそうだが、わたしには両者(註.1)根源的な不安への思い入れがシンクロナイズしているのだとおもえた。この思い入れをうまく直接話法で語ることができない。
 (「安原顯について」P9 『吉本隆明資料集 141』猫々堂 )




無表情ということは無感応ということとも、鈍感ということともちがう。
無表情という鋭敏な感応の仕方なのだ。この世界にはたくさんの悲劇や喜劇があって、そのなかには悲しんだり笑ったりできない種類のものも填(引用者註.表示されないが「填」の旧字、読み「うずま」か。)っている。それは無表情でやりすごすほかない。強いてこの無表情をわたしの勝手な思い込みと関連させるとすれば、或る種のことについての無表情は、資質の純化とかかわりがあるかどうかという問題に帰着してゆく。もちろんわたしの思い込みではかかわりがあると言いたいところだ。
 (「同上」P11-P12 )
 ※「安原顯について」は、安原顯『ふざけんな人生』1996年11月25日刊解説














 (備 考)

(註.1)
この「両者」は、文脈からは安原顯と吉本さんのことを指している。「根源的な不安への思い入れがシンクロナイズしているのだとおもえた。」ということは、吉本さんもまたその〈太洋期〉以来の「根源的な不安」がもたらした「資質の純化」から「精神の無表情ともいうべきもの」を時には無意識的に放出(表出)をしていることがあるという自覚を語っていることになるだろう。人は、自分の心や精神の同じような場所や有り様によって他人の心や精神の場所を推し量ることができるように思われる。この文章の吉本さんの視線が、『心的現象論(序説)』などの膨大な人間の心や精神の考察の結果がもたらしたと言えなくもない。しかし、そういう考察に赴かせたのもそのモチーフの深みでは吉本さんの「根源的な不安」や気づきからだろうと思われる。だから、本来的に言えば、吉本さんの心や精神の場所や有り様こそが、そういう他者への視線や理解をもたらしているとみた方が言いように思われる。

 視線が現実の他者や風景に向けられていたとしても、心や精神が受けた深手が織りなした資質の有り様によって、ふと馴染んだ虚空のような場所に落ち込んでしまう瞬間があるのかもしれない。このような心や精神の場所は、あの有名な詩句「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらう(といふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ)」(「廃人の歌」、詩集『転位のための十篇』)を表出した場所と別のものではない。


わたしが小学校のときの通信簿に、担任によって書かれたコメントに「無頓着」という言葉があったのを覚えている。親たちがその通信簿を見ていて、兄弟に何かはやし立てられたがその言葉の意味はわからなかった。振り返れば、わたしの場合も「無頓着」、すなわち「無表情ということは無感応ということとも、鈍感ということともちがう。無表情という鋭敏な感応の仕方なのだ」というようなものだったような気がする。





項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
575 吉本さんのこと ⑨ ― 人前でお喋りするときのこと 「第一章 老いのからだ」 インタビュー 『生涯現役』 洋泉社 2006.11.20

聞き手 今野哲男

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いつのまにか力瘤が入ってしまう 嫌だ嫌だと思いながら出ていく感じ いつまでたっても慣れません
項目
1



 中沢さんとは、三回くらいかな、わりあい長い時間座談会なんかでつきあったことがあります。そうすると中沢さんは、たとえばぼくらには肩に力が入るということがあるでしょう。
それがまったくないんです。どこにも力が入っていない。だから、そういう話し方なり説得の仕方をひとりでに覚えたんだろうと思いました。これはちょっと違うぞと思った。だから、それ以来、何か肩に力が入らないやり方ってのを人間関係の上で出来るんだと考えられるようになりましたね。そこは面白かったです。
 
ぼくはいつのまにか力瘤が入ってしまう人間なんです。人前でお喋りするときなんかでも、いつもはじめて人前でお話ししたときとまったく同じでね。要するに緊張しちゃって、演台の裏かなんかで、いまかいまかとハラハラドキドキしながら、嫌だ嫌だと思いながら出ていく感じです。いまに至ってもそういうことで、ぼくも人前でずいぶん話してきましたが、いつまでたっても慣れません。中沢氏のようにはなれないんですよ。だからリラックスができない、超能力は無理だと思ってます。
 (『生涯現役』P40-P41 洋泉社 2006年11月 )






 (備 考)

中沢新一は肩に力が入るということが「それがまったくないんです」という吉本さんの了解は、実際に中沢新一に近くで話した雰囲気や感じを踏まえた実感に基づいている。それは、吉本さんが講演など人前でお喋りするとき、ここで内心を語られているようにはわたしたちには見えなかったという一般的なイメージの落差の問題ではないような気がする。おそらく中沢新一のチベットでの修行体験から来ているのかもしれない。


関連項目330 「『言語美』、『心的現象論』をもって自己カウンセリング」(『言葉の吉本隆明 ①』)
ここに述べられている吉本さんの若い頃の「対人恐怖」とも強い関わりがありそうに思われる。過剰に〈(人間関係の)場〉をあらかじめ意識しすぎたり、緊張するということは、こんな晩年にまで引きずっているということは、それが根の深い出自を持つということを意味していると思われる。わたしは覚えているのでは6,7回は吉本さんの講演会に出かけているが、語られているような内心の思いや緊張は離れた外側からは感じ取れなかった。ちなみに、いくつか映像でも見たけれど、対談などで時折頭をかく仕草は、はにかみのように見えてその緊張から来ていたのかもしれない。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
591 柳田国男の捉え方 『母型論』「序」 論文 『母型論』 学習研究社 1995.11

※関連 『呪の思想―神と人との間』梅原猛・白川静

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柳田・折口の民俗学は年代を考えることが出来ない、そういう弱みを持っています。 イメージで造成された世界観 「海上の道」は、そういう経験知が積み重ねられ、ある厚味の閾値を超えたとき、超えた部分から経験知の集積がイメージに転化した文章だ。 この内的体験を反復することで、わたしなりの課題のとば口に立ってこの本の試みをやった。
項目
1



梅原 その大きな違いは文字があったかないかですわな。日本では文字がない訳ですね。だから民俗学的な方法によって明らかにするしか仕様がない。それで柳田や折口信夫がああいう形で日本の世界を明らかにしたんですけどね。中国では文字というものがありますからね、文字によって中国は明らかになる。
 その仕事が、私は先生の仕事だと思いますけどね。民俗が似ているんだから、もとより文字学の成果と柳田・折口の民俗学の成果と、大変似てくる訳ですね。

白川 柳田・折口は事実関係だけでいく訳ですけど、僕は文字を媒介としてみる訳です。

梅原 文字を媒介にしますと、より正確な答が出て来る訳ですよね。柳田・折口の学はやっぱり、類推のようなところがあって、年代というのはよく解らない。百年前に出来たのか、千年前か、一万年前か解らないというように、
柳田・折口の民俗学は年代を考えることが出来ない、そういう弱みを持っています。先生の学問は文字を媒介としているから、年代を特定することが出来る。

白川 
日本の場合には伝承という形でしかみられないけれども、向こうの場合には文字がありますからね、文字の中に形象化された、そこに含まれておる意味というものを、その時代のままで、今我々がみることが出来る訳です。だから三千年前の文字であるならば、その三千年前の現実をね、みることが出来る。

梅原 それはやっぱり象形文字の特徴でしょうか。

白川 そう、象形文字であるからそれが出来るんで、これが単なるスペルだったら、みることが出来ません。

 (『呪の思想―神と人との間』梅原猛・白川静 P27ーP28)




 柳田国男が「海上の道」を書いて、日本人はどこから来たかという課題に、じぶんの世界にたいする理念のイメージをこめて立ちむかったのは、生涯の経験知を叡知にまで凝縮した円熟期にはいってからだった。これは人類の種、土地、水陸と山岳、その複雑な交換の過程から産みだされる習俗の形態などを素材にして、世界観を凝縮したイメージにしてみせたものだ。
これが実証的に正確か誤謬かなどと挙げつらっても、まったく無意味なことだ。それは学説ではなく、イメージで造成された世界観だからだ。これが理解できなければ、柳田国男を理解したことにはならない。
 わたしはおなじようなことを、じぶんの方法を使って、いつかやってみたいと、ずっとかんがえ、空想してきた。柳田国男はどこかで、日本列島の全土をせめて一メートルくらいの深さでもいいから掘りかえしたうえで、考古学的な結論をやってほしいと言う意味のことを述べている。
(註.1)これが日本列島のいたるところに足跡をのこし、いたるところの住民と結びつけてみせた柳田国男の自負だったといえる。「海上の道」は、そういう経験知が積み重ねられ、ある厚味の閾値を超えたとき、超えた部分から経験知の集積がイメージに転化した文章だ。「海上の道」には、そんなふうにしてしか得られぬイメージが、いたるところにあり、この論文を一個の作品にしている。もっといえば普遍文学にしている。




 わたしもじぶんの自閉的な資質にふさわしいやり方で、いつかおなじような主題にとりついてみたいと空想してきた。
しかし、言うにたりる経験知もないから、その集積からイメージをつくることはできそうもない。また踏んだ土地も、ただ点と線をつないでいるだけで、いわゆる土地勘にたよることもできない。知識もひろくない。いまのところ、じぶんの資質が話し言葉とぶつかった遠い日からの言葉の表出のもどかしい停滞感が、書き言葉の表出を介して、いくらか自由になったといえるだけだ。この内的体験を反復することで、わたしなりの課題のとば口に立ってこの本の試みをやった。いずれどこかへたどりつくにちがいない。
 (『母型論』「序」P8-P9 吉本隆明 学習研究社 1995年11月)
 ※②と③は一つながりの文章です。















 (備 考)

①で、梅原猛は、「柳田・折口の学はやっぱり、類推のようなところがあって、年代というのはよく解らない。百年前に出来たのか、千年前か、一万年前か解らないというように、柳田・折口の民俗学は年代を考えることが出来ない、そういう弱みを持っています。」と捉えている。わたしは、一時期、二年間くらいだったか柳田国男の文章を少しずつ読んでいた。わたしも、読みながらこれはいつのことを言っているのだろうかと疑問に思ったことがある。しかし、要するに、柳田国男は常民の精神史、その段階の変位や推移を追っているのだから、それを実証的方法のようにいつ頃のことと言うことはできないな、と思いなしたことがある。このことは、上記引用の②と関わる。


わたしは、ちくま文庫版の『柳田國男全集』を大体読んだ。「海上の道」などが収められた第一巻は最後に読もうと思っていたが、まだそれは取りかかっていない。


メモ
最初の柳田国男論は、柳田国男全集の月報に掲載されたもので、「無方法の方法」(初出1963年)という小論。これは、以下の本に所収。
次の柳田国男論は、『柳田国男論集成 』JICC出版局 (1990/10)
どこにと指定できないが、吉本さんが初めて柳田論を書いてから再び柳田論に取りかかったことについては、自身どこがで語っていたと思う。吉本さんの歩んできた論理と思想の厚味の上にこの柳田国男論は書かれている。特に、序に変えての「体液の論理」は圧巻だと思った。十分に理解したとは言い難いが、言葉が対象を切り取るのではなく、まるごと掬い上げることの難しさが語られている。と同時に、そのことは吉本さんが柳田国男の言葉をまるごと掬い上げようとしていることを意味している。


(註.1)
ささいなことであるが、この件については、わたしは「吉本さんのおくりもの 3」という文章で一度触れたことがある。そこから以下に抜き出す。


 吉本さんがたぶん触れた柳田国男の該当箇所は、次のようになっている。


 人類学の方でもこのごろはもはや天孫族だの出雲族だのという大雑把な語は使わなくなった。日本人くらいよく周遊移動した国民も少ない。いかなる東北の辺隅の村でも、一色ばかりの苗字から成り立った部落はほとんどない。婚姻のためにはむしろ異分子と接近して行く必要を認めていたらしい。海から移るを得意とする種族、山を越え嶺を伝わってばかり動いたものもあれば、落ち付いて耕作ばかりしていられぬ家族も多かった。この人々の配合の如何によって、生活相がきっと変わっているはずであります。それが熱心にしらべて行くうちには、わかるかも知れないという希望、その希望の光が明るくなってから、我々の学問は急に活気を帯びて来たのであります。ただしまだこれだけでも不足なのは、今までの研究が第一にあまりに上代に偏している、第二にはその捜索は田舎の隅々に届かぬことである。性慾学の大家としてのみ日本には知られている、ハブロック・エリスは、かつてその随筆中にこんなことを言っている。遺跡遺物の学をして人類運命の解説者たらしめんには、地球の表皮を深さ約二丈か三丈、全体に引きめくってみなければならぬと。それはやや無理な難題ではあるが、少なくとも考古学の取り扱っている遺物なるものが、縦にも横にもはなはだわずかなる一標本、いわゆる大海の一滴、九牛の一毛であるという謙遜の態度だけは必要だと思います。現に遺物という名こそ与えられていませんが、人類学の取り扱おうとしている「我々活きた人間」もまた一種の遺物である。
  (「東北と郷土研究」P492-493 『柳田國男全集27』ちくま文庫)



 この柳田の話は、「原因が遠く数万年の昔になかったなら存在し得ざることは同じである。この意味において我々は、今日の日用言語というものを最も貴重なる遺物に数えている。」と続き、当時の国家政策から下って来た「方言の軽率なる『匡正(きょうせい)』」を批判してこの段落は終わる。

 吉本さんには、―吉本さんの柳田国男把握風に言えば―柳田国男が今までに全国隅々を渡り歩いたり、方言や文物を渉猟してきたその蓄積の頂から、その深みから突き上げて来るような言葉によってイメージの線分が引かれ、イメージの流れが造成される様を記憶に止めていたのかもしれない。その中のハブロック・エリスの言葉を踏まえた柳田の言葉という微細な差異は流れに溶けてしまっている。吉本さんも、自分の記憶がおぼろなことを自覚しているのは、「柳田国男はどこかで、……と言う意味のことを述べている。」という言葉からもわかる。吉本さんの「一メートルくらいの深さでもいいから掘りかえし」と言う言葉の発言主体は、わたしたち読者としては柳田国男としか取れないけれど、実際はハブロック・エリスであり、また「せめて一メートルくらいの深さ」は、「深さ約二丈か三丈」(明治時代の尺貫法で、一丈が約3mだから、約6~9m。)とあるから、実際とは違っている。

 事実誤認に当たるが、ハブロック・エリスの言葉を踏まえて吉本さんが語ったことと同様のことを柳田が述べているから、ささいな問題だというべきである。記憶というものは誰にとっても、特に時間が経ちすぎた場合は一般にこうした曖昧さを持っている。       






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
606 吉本さんのこと ⑩ ―腰の低さ 「はじめての吉本隆明」   トークイベント 週刊 読書人 2017.6.2

 『吉本隆明全集』(晶文社) 第Ⅱ期刊行開始記念 トークイベント  2017年4月15日上野寛永寺・輪王殿
 「はじめての吉本隆明」 糸井重里×ハルノ宵子
 「週刊 読書人ウェブ」 https://dokushojin.com/article.html?i=1452 新聞掲載日:2017年6月2日(第3192号)

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糸井重里との出会い
項目
1



 「晴れた日にまた 会いましょう」(吉本隆明)
(引用者註.これは見出しのようなもののようです)

糸井
こんなことしてるとアンタが損するぞと、僕は結構言っていただいたことがあって。知り合ったきっかけは何かというと、
吉本さんが当時『マス・イメージ論』(一九八四年/福武書店)か何かで僕のことも含めてサブカルチャーについて書いている時代があって、共同通信社の今はもう退社なさっている石森洋さんという方が、新年号の配信に吉本さんと僕の対談を考えられて、どうでしょうかと言ってこられた。僕は吉本さんに自分の名前が書かれること自体よくわからないんだけど、わからないなりに吉本さんの本を読んでいた人間ですから、語られること自体は光栄ですという気持ちはとてもあるので、「僕は何ができるかわからないけどいいですよ」と答えた。吉本さんの方は「いいんだけども良くない」みたいな感じで、一回お会いしましょうということになって、下町の方のバーみたいなところで、石森さんと僕と吉本さんで会ったのが初めてなんです。




糸井
当時僕は三〇代半ばで、そのくらいの年齢の普通の人間だったら、吉本隆明という人が約束した場所にいるんだと思うだけで、鎌倉の大仏様を見るみたいな感じになるんですけど、それを超えた腰の低さで。偉い人だと思おうとすると逃げて行くというか、平ら以下のところにいつも視線を置くみたいなところがあって、最初からウワッ低い!どうしようと思ったんです(笑)。でも、そういう心配は結局なにもなくて吉本さんの方がものすごく低い場所で語ってくださって、こういうふうに居られる人ってすごいなと思った。




糸井
そこから吉本さんが、この対談はやめた方がいいという話をし始めたんです。何かというと、今は『「反核」異論』とか俺が書いたせいで、書いたのが悪いんじゃなくてそれをとやかく言ってる奴らの方が悪いんだけど、とにかく今逆風が吹いていて非常に天候が悪いと。そういうときに、糸井さんが僕と話なんかしているところにいると、一派だと思われますよと。僕は若いですから一派だと思われようとそんなことはどうでもいいという気持ちももちろんあるんですけど、それは今の時期はあんまりお得にならないから、これからあなたがやりたいことをやっていくのに、いいことはあまりないからと。私があなたに会うことはいつでもいいから、今の共同通信の企画はやめておきましょうと言ってくれたんです。

ちょっと残念なわけです。その先二度と会えないかも知れないという気分もあるから。でも、吉本さんがいつでも来てくださいっていうことを強く言ってくれたことと、本当に忘れもしないんですけど、帰りがけに「晴れた日にまたやりましょう」と言ったんです。僕は詩人だなあと思った。今は荒天の状況の中で会ったけれども、晴れた日にまたきっと実現するから、晴れた日にまた会いましょうと、すごく腰を低くしてた人が言ってくれた。それでいっぺんに先輩としてファンになっちゃって、ちょっとしたらまた石森さんが、吉本さんのところに行くけど行きませんかと声をかけてくれてお邪魔したのがたぶん一ヶ月以内だったと思うんですね。
そこで以前からの知り合いみたいに接していただいて、そこから僕は近所付き合いに近いようなお付き合いを……。

ハルノ
 私は最後まで糸井さんが
そのスタンスを崩さないでいただいたことに、本当に感謝しているんです、実は。つまり晩年になって、これまで親しくしていた方々が、もちろんもう吉本さんも齢で大変だろうと考えられたんだろうし、吉本からもう得るものがないと思われる方も多々あるんだろうと思われるんですが、みんな足が遠のいていくんですね。だから最後まで糸井さんが横丁の親父に話聞きに行くんだという感じでコンスタントに来ていただいたのは本当に助かったんです。父も喋って頭も活性化するし、喋ったことはそれなりにまともだしね。本来なら寂しいんですよ。本当に最後の最後まで付き合ってくれたのが糸井さんと、講談社の『フランシス子へ』を出した、お姉様編集者の方々。そのふた組だけで、私は糸井さんとその彼女たちにとっても感謝しているんですね。

 『吉本隆明全集』(晶文社) 第Ⅱ期刊行開始記念 トークイベント
 「はじめての吉本隆明」 糸井重里×ハルノ宵子 「週刊 読書人ウェブ」 より

 ※①②③は、連続した文章です。






 (備 考)

②の若い糸井重里が抱いたような「有名人」との最初の出会いに際しての思いは、誰でもよくわかるものであると思う。つまり、わたしたち誰もが持つ感情という普遍性を持っているように思う。表現者・思想者としての吉本さんと普通の生活者としての吉本さんをはっきりと分離できるわけではないが、この「低姿勢」は、突っ張った厳しい表現者・思想者の吉本さんではなく、その表現者・思想者の穏やかな裏面、あるいは普通の生活者としての吉本さんに近いという気がする。誰もが普通の生活者の面を持ち、普通の生活者といっても様々な「姿勢」を持っているだろうが、その平均的な生活者の像は「中姿勢」辺りだろうと思う。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
607 吉本さんのこと ⑪ ―自分で見えない場所 「父と母と、我が家の食事。」  対談 「ほぼ日刊イトイ新聞」 2013年

「父と母と、我が家の食事。」 第4回 どうしても母としか。2013-05-14
ハルノ宵子×糸井重里 2013年 「ほぼ日刊イトイ新聞」所収

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母は「あの人はなにを言っても暖簾に腕押しだ」と言ってました 吉本さんはきっと、お母さんからおもしろいと思われてましたよね。 自信、なかったですね。 一所懸命な人
項目
1



第4回
どうしても母としか。


糸井
ふたりの面倒を長いあいだみてたわけですけど、
どっちが大変でした? やっぱり、お母さん?

ハルノ
そうですね。
最近「母もの」の小説が流行ってますけど、
おんなじパターンでやっぱり
私もこの家に繋ぎとめられたと思います。
やっぱり父が母をちゃんと
受けとめていなかったところがあると思うんですよ。
(註.1)

糸井
うん、そうかもしれないですね。

ハルノ
母は「あの人はなにを言っても暖簾に腕押しだ」と
言ってました。

そのぶんが、娘に向かったんでしょう。
「お父ちゃん、もうちょっとお母さんの相手をしてよ」
なんて、若い頃は言ったことがあります。
だけど、1980年代は父が忙しかった時期でした。
「この仕事のひと山終わったら、
もうちょっと相手するよ」
それっきりで。

糸井
あの年代の人たちは、どこのうちも
多かれ少なかれそんなことだとは思うんですが、

あきらめるほど軟弱じゃなかった、というのが
お母さんなんですね。

ハルノ
うん。お母さんはあきらめなかったですね。
あのふたりはエネルギー値で
ちょうど釣り合ってたんでしょう。

糸井
うん‥‥いやぁ、
とんでもない組み合わせでした。




ハルノ
うん。自分自身の結婚は三角関係の大恋愛で、
という話ですけど、
いまの三角関係とはまた違うんでしょう。
裏切らなかったり、立てたり、認めたり‥‥、
もっと美しい、文学的な三角関係だったんでしょうね。

糸井
勝負が決しても、相撲は終わってないという感じかな。
吉本さんが何かでお書きになってました。
「三角関係は、相手がものすごく
恨んでくれたり、怒ってくれたりしたら、
楽だったろう」
と。

ハルノ
ねぇ。それが、わりといいやつだった。

糸井
いいやつだったんですね。

ハルノ
そうなんです。

糸井
吉本さんはきっと、お母さんから
おもしろいと思われてましたよね。

吉本さん、もっと自信を持たなきゃだめですね。

ハルノ
自信、なかったですね。
そういうふうに認められていたとは
思ってなかったでしょう。
若いころの母が
お父ちゃんのおもしろさをわかったというのは、
すごいと思う。

糸井
そうだね。
お父ちゃんのおもしろさは、あきらかにあるんですけど、
ご本人がわかってないんですよ。
あれは何回も言ってもわかってなかった。


ハルノ
おもしろいし、けっこうモテる‥‥
モテると思うんだよねぇ。

糸井
いや、モテますよ、
吉本さん、まったく間違ってますよ、そこは。

ハルノ
うん、うん。

糸井
おから以上に。

一同
(笑)

糸井
一所懸命な人って、
それだけで女の人の点数は高いんです。
吉本さんにはそこがあるから、
すでに基礎点40点ぐらい取ってますよ。
なのにねぇ。

ハルノ
ねぇ。

 2013-05-14-TUE
 (「父と母と、我が家の食事。」 第4回 どうしても母としか。 ハルノ宵子×糸井重里 2013年 「ほぼ日刊イトイ新聞」所収)






 (備 考)

(註.1)
この関連として、以下の吉本さんの文章がある。

 「俺は人を愛せない人間じゃないか」と思った (註.これは本文の小見出し)
「愛情とはなんだろうか」という問いにふかく突っ込んで分析した経験は、大小説以外にはじぶんの乏しい経験を除いたらないから、とても大きな重要な問題におもえてきます。
 生まれ落ちてから人がいちばん最初に触れる愛情は、たいていの場合、親の愛情ということになります。ですから、まず順番からいって、親子の愛情について触れたほうがいいと思います。
 親子の愛情ということからいうと、僕は若いときからそうだったけれど、親の愛情、特に男の子ですから親父の子供に対する愛情に比べたら、自分は絶対にかなわないなという感じはしていました。もっと極端にいうと、絶望的なときには、「俺は人を愛することはできない人間なんじゃないか」と思うこともありました。自分と自分の子供との関係の中でもそれを感じます。親の愛情は子供には多少ちぐはぐで見当外れで恥かしかったり、照れくさかったりは感じましたが、それは僕も子供からすれば多少ともちぐはぐに思えるかも知れません。
 
転じて異性問題では、愛情が感じられないということよりも、「愛情について未熟なんだな、自分は」という風に感じました。愛情音痴といったらいいんでしょうか、そういう感じがありました。そして、それは、さっき言ったような親子の愛情で感じたことに、その端を発しているように思います。
 (『「芸術言語論」への覚書』「人についての断想」P77-P79 2008年11月)



例えば本の中で、吉本さんはしばしば自分は女の人は苦手であるとか、よくわからないというようなことを語られていた。たぶん、吉本さんはその拠ってきたところは、『母型論』の太洋期の問題として理屈としては大体解明できたとしても、まだ遙か言葉以前の存在だった自分を言葉で内省するのは誰にとっても難しいという気がする。だから、誰でも自分の性格などでその拠って来たるところの不明さを抱えているように思われる。ここで語られているのは、自分の「おもしろさ」についてであるが、鏡にでも映さないかぎり誰でも自分の背中が見えないように、誰でも自分の性格や特性についてよくわからない部分、見通せない部分を抱えている。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
629 吉本さんのこと ⑫ ―話し言葉と書き言葉 第3章 第二の敗戦期とはなにか インタビュー 『第二の敗戦期―これからの日本をどうよむか』 春秋社 2012.10.20

※本書は二〇〇八年五月二六日、六月十三日、十九日、二四日の四回にわたるインタビュー。
インタビューアーは皆川勤

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書いたものは残るわけだから、それを見てもらえればだいたい通じるだろうという考えがありました。
項目
1



 自分は子どものときから、あまりコミュニケーションは得意ではありませんでした。なにかおしゃべりをしていてもこれが人に通じているのか通じていないのか、自分ではよくわからなかったといえます。
 
だから書いたものは残るわけだから、それを見てもらえればだいたい通じるだろうという考えがありました。
 (『第二の敗戦期―これからの日本をどうよむか』P120 春秋社 2012年10月)






 (備 考)

このことは、何度か吉本さんは書き記していた。これは、例えば吉本さんが特に女性に対して苦手意識を持っていたことと同様の根深い不安意識から来ているように見える。これに関して参考になるものに、吉本さんと馬場礼子の対話「ユリイカ 1974年 4月 特別企画 吉本隆明の心理を分析する」 (『吉本隆明全集』第12巻 1971-1974 所収 晶文社)がある。


話し言葉の場合には、対人という直接的な他者の存在が目の前にあり言葉のやり取りをする場面があり、その直接性が話す本人に緊張を強いたり、言おうとすることをかき乱されてうまく言えないということがありうる。これは、人の持つ資質によって様々であり得る。吉本さんの場合は、自分の思うことが他者にうまく伝わらない、伝えられないという経験をくり返してきたのだろう。

しかし、若い頃からの論争もあり、また晩年の次のような言葉もあり、吉本さんには書き言葉もあんまり通じねぇなという思いがあったかもしれない。このことは一般性として誰にとっても言えるような気がする。


吉本 いや、今あなたがおっしゃったね、僕が書いたね、自分で書いて表現して自分の考えを述べたり、芸術らしき詩を発表したり、それはね、それはちょっと自信があるんですよ。まだ俺は、俺の考え方の底のほうまで理解してくれた人はおらんな、っていうそういう感じがします。
 (「吉本隆明さんを囲んで」聞いたひと…前川藤一、菅原則生」2010年12月21日)





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
635 吉本さんのこと ⑬ ―能のこと 「ある日の吉本さん」 論文 資料集・別冊2『吉本隆明さんの笑顔』 松岡祥男 猫々堂 2019.12.13

※資料集・別冊2『吉本隆明さんの笑顔』は、松岡祥男 さんが『吉本隆明資料集』を完結の後に出された自身の批評集です。

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項目
1



 吉本さんの思い出はいっぱいあるけれど、あれはいつだったか、友人の伊川龍郎と一緒に訪ねた時のことだ。上りこんで話しているうちに、和子夫人と多子さんが、薪能を観に行くということで出掛けられた。吉本さんは「あんなもの、おもしろいはずがない」と言われた。でも、置いて行かれたことが、なんとなく寂しいという感じだった。
・・・中略・・・
 それでだと思うが、「出掛けましょう。」と言われて、三人で上野へ行ったのである。吉本家は、みんな出かけても、玄関の鍵はかけない。その徹底した開放度も驚きだ。吉本さんは若い人向きのパブのようなところへ案内してくれ、ピザとビールをご馳走になった。そこで別れたのだが、吉本さんは家へ帰る気配はなく、上野を徘徊するつもりの様子だった。少し酔っているようなので、心配だったけれど、まあ吉本さんのテリトリーなのだから大丈夫だろうと、わたしたちは上野を後にした。

 (資料集・別冊2『吉本隆明さんの笑顔』P15-P16 「ある日の吉本さん」松岡祥男 猫々堂 2019年12月 )






 (備 考)

 これで思い出したのが、『言語にとって美とはなにか』に「能」についての記述がある。これは何度か読んでいるが、その部分を読んだ時、ふと吉本さんは「能」に対してどんな感じ考え方を持っているのかなと想像したことがある。能・狂言は「少数の好事家にとりかこまれ」という表現があり、吉本さんはその「少数の好事家」には入らないのは確かだろうとは思えたが、上のような言葉までとは想像できなかった。というのは、わたしは「能」なんて、あんなスローなリズムで少し下調べもしておかないといけないようなものが、どこが面白いんだ?とずっと思っていたからである。だから、上の吉本さんの言葉に出会ったとき、ああなるほどねと痛快な気分になった。

 そんな吉本さんであっても、「能」の評価については『言語にとって美とはなにか』で、その本質や有り様を徹底して捉えているように見える。


 ここで演劇とはなにかについて、いちおうの定義をやっておきたい。演劇とは、劇的な言語帯にはいってくる日記物語の言語と、説話物語の言語とを、歌舞や所作や道具や舞台に(舞台は境界であるが)転化したところの言語としての劇である。これはあくまでいちおうの定義だ。なぜならわたしはただいまのところ、言語としての劇が、詩としての言語、物語としての言語をへてはじめて成り立ったもので、劇の言語帯が、物語的な言語帯からの飛躍と断層であるということしか、のべてはいないから。そしてこのことは劇が、言語としての劇をもとにするほかには、いまのところ例外なしに成り立たない(黙劇でさえも)かぎり、本質的なものだというにすぎない。
 演劇がなぜ大衆化しないか?
 その理由は理論的には簡単なことだ。ひとびとが手ぶらで観劇にでかければ、まず物語の帯域をとおり、つぎに劇の帯域にはいるという二重の過程を、演劇の進行につれて同時に観念の運動のなかに繰入れなければならないおっくうさがあるからだ。
 (『定本 言語にとって美とはなにか Ⅱ』P132-P133角川選書)


 書き言語としての国劇が成立したのは能(申楽)・狂言にはじまる。これはおおくの古典学者がみとめている。すくなくとも異論をさしはさむ余地はないとかんがえられる。
 能・狂言は南北朝期から室町期には、新興の武家階級の趣向にうけてとても盛んになったが、いまでは、少数の好事家の観客をもち、少数の師から弟子へじかに伝授される流儀に守られているだけになっている。でも劇そのものは、能・狂言のはんいをこえてひろがり、いまもつづいているので、あまりこのことにはもんだいはない。現在でも、のぞいてみたいときには、好きなときにこの成立期の古典劇をのぞいてみることができるからだ。ただ現在、少数の好事家にとりかこまれ、相伝の俳優に守られているだけだからといって、これが生命のないものだとはいえない。芸術の生命と価値とかは、べつにそんなことにかかわりないので、俳優の演技のなかに、現在と歴史とが生なましくいきているかどうかできまるだけだ。
 ただ能・狂言の演技が師弟のあいだの面授ににた相伝の修練というかたちしかとれなかったわけは、成立期の理論家たちのかんがえ方に、おおきな原因があるとおもえる。
 世阿弥の『風姿花伝』や、『申楽談儀』にのこされた演劇論は、とても特異なものだ。
 (『同上』P134)


 世阿弥の花は、徹頭徹尾、個体の生理的、肉体的な条件のうつりゆきに密着しながら、うつりかわる「花」のあるところを追求した演技論だといえる。いわば人間の芸術史を、個体の成長史のなかにうつしうえようとする。その成長史は、所作ごとであるかぎり肉体的な成長と若さと衰えとにかかわりがある。だから世阿弥の「花」は、演技論の不変の核であるとともに、ありどころがうつりかわるものものだ。連続的なうつりゆきと不変性との交点に「花」はかんがえられているのだが、その「花」は、世阿弥にとってはあくまでも個体のうえにあり、歴史と現実とのうえにはない。この演技論が、どうしても演技について一対一の幼年期からの相伝の稽古がもとめられるようになるのは、当然すぎるほど当然だ。しかし劇のなかで俳優が、じぶんのなかに現実のなまなましい感触と、伝統の演技をじぶんが体現しているという意志をもたぬかぎり、能・狂言のような相伝の演技と幼少からの修練をやっている場合でも、「花」を保ちえないことは当然とおもえる。能・狂言が、ときとして職人的な名人芸を生みおとしたとしても、それが少数の好事家の手に保存されたものにしかなっていないことは、ほかのどんな理由からでもなく、俳優、演者自身のもんだいだというほかない。
 能・狂言を、現在のありさまから類推してかんがえようとする論者と、すぎさった文化財として翫賞(がんしょう)しようとする論者たちの考えを卻(しりぞ)けるため、あらかじめこれくらいの前提からはじめたいとおもう。
 (『同上』P136-P137)



 ここから、本格的に劇としての言語や劇の構成の問題の深みに入っていく。この論じる前提の部分だけを見ても、それが好悪を退けた普遍的な把握の志向性を持つことがわかると思う。吉本さんの場合、このような潜り抜けてきた見識を沈めて、自分が育ってきた生活者的な好悪の感覚から「あんなもの、おもしろいはずがない」という言葉が出て来ているように思う。そういったところからの感受が、『源氏物語論』を書き上げた後のインタビューか対談か講演での『源氏物語』をどう見るかという視点にも出ていたように記憶する。






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
639 吉本さんのこと ⑭ ―吉本さんの足の裏 「吉本さんの足の裏」 論文 「情況八月号・別冊 追悼吉本隆明」2012年 『吉本隆明 孤独な覚醒者』上村武男 白地社 2013.12.30


わたしは、若い頃、上村武男氏の『吉本隆明手稿 (1978年)を読んだ覚えがある。それら初期の論考も、
『吉本隆明 孤独な覚醒者』には収められている。
※「吉本さんの足の裏」というこの文章は、末尾に「二〇一三年十月十五日」という日付がある。

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生活習慣 吉本隆明というひとは、こういう生活をしているひとなのか それは、一九六〇年代の後半のことである。
項目
1



 東京・千駄木の自宅二階の居間で、畳のうえの坐り机を前にして胡坐をくんだ吉本さんの、ふとわたしの視界に入った足の裏が、真っ黒であった。
 季節がいつであったかは忘れてしまっているが――どうも季節はずれのように感じたので冬場だったかもしれない――素足なのである。
 素足だということが、まず、わたしの注目を浴びた。つぎに、その足の裏が、黒く汚れていることが、若いわたしを驚かせた。
 わたしは、関西の大阪近辺の町で生まれ育った。そして、少なくともわたしの家では、普段から、家のなかで素足のままで居ることは、子供でも、なかった。そういう
生活習慣というか、家庭環境のなかで育った者の目に、著名な詩人であり批評家――いや、『言語にとって美とはなにか』と『共同幻想論』という二大著書を世に出したばかりの、今をときめく文学者・思想家であるひとの、そのひとが、客人を前にして素足で、しかもその頑丈な足の裏が、畳や床や階段や庭先の埃をいっぱいつけて、黒光りしている。
吉本隆明というひとは、こういう生活をしているひとなのか
 そう思って、わたしは、いたく感嘆した。声には出さなかったけれども、新鮮な驚きであり、発見であった。
 
それは、一九六〇年代の後半のことである。ごく普通な二階建て一戸造りの、その千駄木の吉本さんの自宅へ、そのころ、わたしは二、三度訪ねたことがあった。




 ある日、吉本さんはラフなシャツを着て、膝に小さな女の子を抱いて、わたしと何やら話をしていた。膝の少女は、片目に白い眼帯をしたままで、うつむいて部厚いマンガ本を見ていた。もうひとり、もうすこし大きい女の子も、同じ部屋のちょっと離れたところにいて、彼女はテレビで何かの番組を観ていた。奥さんは、台所――兼「試行」発行事務所にでもいたのだろう。
 その眼帯の少女は、のちに〈ばなな〉などという変てこなペンネームを自分でつけて作家になった。テレビ鑑賞の少女のほうは、これもまた微笑を誘う〈ハルノ宵子〉なる名前の漫画家になった。
 (「吉本さんの足の裏」P306-P307、『吉本隆明 孤独な覚醒者』上村武男)
 ※①と②は、ひとつながりの文章です。






 (備 考)

別に書き添えることもないが、意外なところに目が行った若い上村武男の感嘆の記録に、わたしもはっとさせられた。身近に吉本さんと交渉のあった人々は、頬杖をついたり頭に手をやったりする姿含めて、このようにいろんな場面でいろんな表情を体験しているだろうなと思う。


白い眼帯をした娘が吉本さんの膝に乗ってマンガ本を読んでいる写真は昔見たことがある。「季節がいつであったかは忘れてしまっている」とあるが、眼病に罹ったのが一度きりとすれば、その頃に上村武男は吉本さん宅を訪れたことになる。

上の文章を書いた後、ネットで調べた文章によると、吉本ばななのエッセイに本人が小さい頃付けていた眼帯のことが書かれているという。「本人のことばによると『訓練のために見える方の右目をふさいでいたので、ほとんどなにも見えない世界にいた』というのです。この訓練は一日1~2時間解除されていたようですが、小学校に入学する前のこどもが、目が見えなくなってしまうことは 本当につらいことでしょうね。」とあった。要するに、眼病ではなく、幼い頃は左目が弱視だったので治療のために右目に眼帯をしていたということらしい。となると、その眼帯していた期間は長そうで、上に書いた上村武男が吉本さん宅を訪れた季節はよくわからないということになりそうだ。ちなみに、上記の眼帯をした娘の写真は、別の本で昔見た覚えがあるが、吉田純の写真集『吉本隆明』に1970年の撮影として載せられている。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
640 吉本さんのこと ⑮ ―日の丸について 第5章 ひきこもりから社会が見える インタビュー 『ひきこもれ ― ひとりの時間をもつということ』 大和書房 2002.12.10


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ぼくの中の半分 あとの半分は、理性的に考えを積み重ねていく気持ちがあります
項目
1


 ワールドカップで思ったこと(引用者註.これは本文の小見出しです。)
 サッカーのワールドカップの時、若者たちが日の丸を振って、君が代を歌っていた。かれらに話を聞くと、みんなと一体感がもてて嬉しいと言っていたそうです。そういう若者についてどう思うかと、ある編集者に聞かれました。
 
これは自分の中の矛盾でもあるのでしょうが、ぼくの中の半分には、ああいうサポーターに加わって、勝った勝ったと騒いで街頭に流れていって、どこかの飲み屋でビールを飲んで騒いで、ということをやりそうな気持ちがあるのです。
 
あとの半分は、理性的に考えを積み重ねていく気持ちがありますから、日本人はぼくらの体験した戦争中とそう変わってないんだなという、がっかりするような感じ方があります。
 今回、日本はトルコに負けました。本当にサッカーが好きな人なら、日本が負けても強い国が残って面白い試合をやってくれるわけですから、その後も試合を見るだろうと思います。
 でもぼくはというと、実は日本が負けてがっくりして、そこから見るのをやめてしまったのです。そうすると「あれ?おれってナショナリストだったのかな」ということになる。騒いでいる人たちとちっとも変わらないじゃないか、と。
 じゃあ日の丸の旗についてはどうなのかというと、これもまた自分が当てにならないなと思うのです。
 
戦争直後には、日の丸の旗というのはサディズムの象徴みたいな旗であって、はなはだよろしくないと思っていました。ところがこの頃、少し考えが変わってきて、去年などは対談か何かで「これ、デザインとしてなかなかいいんじゃないか」というようなことを言っています。戦争が終わった直後の頃には見るのも嫌だったのに、半世紀たったら、「簡単で、とてもすっきりしたデザインで、いいよ」などと評価しているのだから当てになりません。
 (『ひきこもれ ― ひとりの時間をもつということ』P147-P150 吉本隆明 大和書房)






 (備 考)

 「日の丸」とか具体的なことについて、吉本さんはどう感じ考えているのだろう、という疑問に答えられていることになる。
「君が代」の歌については、次回触れる。

吉本さんの言葉は、晩年を除けば割と抽象度の高い論理や言葉が多いが、わたし(たち)はこのような具体的なものに対する考えや対処も知りたいなと思う。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
641 吉本さんのこと ⑯ ―吉本さんの口ずさむ歌 第5章 ひきこもりから社会が見える 他 インタビュー 『ひきこもれ ― ひとりの時間をもつということ』 大和書房 2002.12.10


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『君が代』は、絶対に歌いません 『君が代』は、放っておけば自然に消滅すると思っています じゃあおまえが歌う歌は何だと言われると、困ってしまう自分がいます。 ぼくには、歌う歌がないのです。
項目
1



 この話(
引用者註.この項目の上にある前回の「日の丸について」の話から連続している。 )をしたら、じゃあ『君が代』も歌うんですかと聞かれました。しかしそれは、ぼくにとって禁句というか、絶対に歌いません。戦争が終わって、ある時期から、絶対に歌わんと決めましたから。
 
戦争中までは式典みたいなものでいつも学校では歌っていました。しかし戦後の憲法では主権在民となっているのだから、君が代もへちまもない。民が代であり、民に主権があることは大切なことです。
 それからもうひとつは、これは専門家に聞かないとわからないことですが、さざれ石がどうして岩になるのかがわからなかった。普通に考えると逆でしょう。大きな岩が砕けて小さくなるのならわかりますが。そういう不可解さも含めて、あの歌を歌うつもりはありません。
 最近知識のある知り合いが「さざれ石」というのは細かい石ということでなく、そういう固有名詞をもった岩石のことで、圧力がかかったまま時間を経ると、固まって大きくなるのだと説明してくれました。
 
若い人たちが歌うことについては、「いまは主権在民で"君が代"なんかじゃねえんだから、そんなの歌うな」などと言って止めるつもりはありません。放っておけば自然に消滅すると思っています。でも、いい気持ちではありません。自分たちが通り過ぎたことを、いままた若い世代がやってるんだなあ、日本人って変わらないねえ、という目で見ています。
 戦後、いろいろな会社で労働組合の世話役のようなものをやって、自分の考え方がだんだん左傾していった頃は、
赤旗の歌とか、インターナショナルの歌を歌っていました。しかし安保闘争のときを契機にして、歌わないと決めました。あんなものはインターナショナルどころかロシア至上主義の歌だと感じたからです。
 
じゃあおまえが歌う歌は何だと言われると、困ってしまう自分がいます。
 ぼくらの世代だと、軍歌と小学唱歌と、それくらいしか歌うものがなかった。
 しかも唱歌はまだいいが、軍歌を歌うと、「愛国主義」や「軍国主義」になるのです。唱歌にも二番、三番になると、そうなるのがたくさんあります。困ったものですね。「蛍の光」でも二番以下になると、「台湾のはても樺太も八州のうちの守りなれ」と帝国主義、植民地支配の歌詞になりますね。
 それらの歌はいまも覚えていますけれども、歌いたくはない。
ぼくには、歌う歌がないのです。
 (『ひきこもれ ― ひとりの時間をもつということ』P150-P152 吉本隆明 大和書房 2002年12月)




 千駄木のお宅にうかがう時は、自分の仕事の都合と勝手から、気がつくといつも食事時のことが多いのでした。食事時というのは、お使いから夕食の支度、食事と跡片づけをふくむ夕刻の数時間のことなのですが、そんなとき、奥さんは「試行」の事務で忙しく、吉本さんが家事をみていることが多くありました。
夕食の支度をしながら吉本さんはよく調子にもならないハミングで、何か口ずさんでいました。手料理の方は決して器用とはいえないのですが、その仕事ぶりには、奇妙なスピード感と全身的なリズム感が感ぜられるのでした。(註.1)
・・・中略・・・
 吉本さんの論理的思考の背景に、おそらくは過去の数学的習熟が強い力となっていますように、このような料理支度の姿の内の何割かには化学技術者としての実験の経験と習熟が影響していることは確かだと思えますが、なおそこには、日常の世界で日常そのものになりきろうとする一種過大にもみえる意志の迫力といったものが息づいていて、しかしそれは、もう日常への習熟を経て、一種ユーモラスなリズム感まで感じさせるのかも知れません。

 (『埴谷雄高・吉本隆明の世界』「黙示録のひびき」島亨 朝日出版社 1996年2月)




〈仮定された船歌〉

街々の果てには海に入り込まれた埋立地があり 潮の音と風速機のまはる音色とはまるでオクターヴを異にしてゐたものだ わたしはそれを聴きわけた幼年のとき海の音は心情のおくの暗処で鳴りわたつたが 風速機のからからといふ響きは感化
(註.2)の乾いた面に鳴りわたつた つまりわたしはこころの移動に従つてそのいづれかに耳をかした

わたしは情感にまみれた封建期の船歌を好まなかつたし 学園で習得する白痴のやうな船歌をも嫌つてゐた わたしはだから貝殻の埋もれた埋立地の岩壁にあつて限りなく空想したものである 空想は後年修つたユークリツドの幾何学のやうに 見事に脳髄の体操にかなつてゐたのだ

わたしは既に歌ふことを忘れ去らうとしてゐる そうして線条のやうにからみ合つてゐる岩壁の船のマストを視ることもことさらにはしなくなつてゐた わたしには船歌のごときものがいまも必要であつた いたいたしい孤独の日にわたしはとりわけ自らの宿命の予感を招き寄せる ひとつの歌を唱ひたかつた

 (詩「〈仮定された船歌〉」全部 P301-P302 『日時計篇 上』、『吉本隆明全著作集2』勁草書房)






 (備 考)

 (註.1)
比較対照のため、吉本さんの料理に対する家族内からの批評については、以下を参照。
言葉の吉本隆明② 項目566 吉本さんのこと ⑤ 「父と母と、我が家の食事。」
             項目567 吉本さんのこと ⑥ 「かき揚げ汁の話」他


 (註.2)
 『吉本隆明全集2』の「日時計篇上」所収のこの詩では、一字空きの代わりに読点が入っているなど少し異同がある。また、「原稿によって校訂」から、三行目の「感化」が「感性」になっている。


①で、
吉本さんの料理に関しては、島亨の受けとめた感じの描写に対して、娘達の話したことや書いたことを見ると、わりと雑だったような印象をわたしは受けていた。上記(註.1)を参照。


②の「夕食の支度をしながら吉本さんはよく調子にもならないハミングで、何か口ずさんでいました。」とあるが、日常的にこんな感じだったのだろうか。歌を口ずさめば、面倒な食事の支度も少しはやわらぐのかもしれない。食事の支度と言えば、「言葉の吉本隆明② 項目567吉本さんのこと ⑥」の(註.1)で取り上げているが、日課としての面倒な食事の支度という意識があったのだと思われる。


吉本さんが歌を歌った場面に出会ったことがある。
1987年9月12日から9月13日にかけて、東京・品川の寺田倉庫で、吉本隆明・三上治・中上健次三氏主催の「いま、吉本隆明25時―24時間講演と討論」が行われた。わたしも参加した。そこで、中上健次に引っ張り出されるようにして吉本さんが歌を歌った。吉本さんは本のどこかで自分は音痴だと書かれていたが、そうでもなかった。割と普通の水準だったと記憶している。その都はるみの「大阪しぐれ」を吉本さんが歌っている時の写真が『埴谷雄高・吉本隆明の世界』(朝日出版社 1996年2月)に載っている。舞台上には、中上健次、都はるみ、吉本さんの三人が上がっていた。


①の「君が代」の歌について、
「いまは主権在民で"君が代"なんかじゃねえんだから、そんなの歌うな」などと言って止めるつもりはありません。放っておけば自然に消滅すると思っています。」と吉本さんは語っている。君が代問題の学校職場や行政との対応問題は別にして、考えが違う者同士は、やり合っても仕方がない。ただ時代や歴史の主流は「放っておけば自然に消滅する」というふうに推移していくのだろうと思う。


③の『日時計篇 上』の詩「〈仮定された船歌〉」には、吉本さんにとって〈歌〉が大きな意味を持っていたということがわかる。吉本さんは、文学の本質は「自己慰安」であると特に晩年には語られていたように記憶する。吉本さんのイメージする「情感にまみれた封建期の船歌」や「学園で習得する白痴のやうな船歌」が具体的に何という歌かはわからないけれど、なんとなくそれらの歌の内容がわかるような感じがする。吉本さんは、「自己慰安」としての〈歌〉を日常生活的にも欲求していたのだろう。ちなみに、『日時計篇』には詩の題名に〈歌〉とい言葉が付いたものが多い。また、ずっと後に出された詩集『記号の森の伝説歌』については、現在の歌が欲しかったので書いたというようなことをインタビューなどで語られていたと思う。





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642 吉本さんのこと ⑰ ―押し寄せる来客 「吉本さんの足の裏」 論文 「情況八月号・別冊 追悼吉本隆明」2012年 『吉本隆明 孤独な覚醒者』上村武男 白地社 2013.12.30

※「吉本さんの足の裏」というこの文章は、末尾に「二〇一三年十月十五日」という日付がある。

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僕は、訪ねてくる学生には、じっくり付き合って話を聞こうと思っていたんです。とことん、付き合おうってね。
項目
1



 また、ある日のこと。
「〈意識〉と〈自然〉――漱石試論」という評論で群像新人賞を受賞する前であったか、後であったか。自分は文芸評論家になるのだと語っていた柄谷行人氏といっしょに、吉本さん宅を訪ねたことがある。
 その日も、何の用があっての訪問だったか、もう覚えていない。
 ただ、夕刻になって、わたしたち三人で外へ食事に出掛けることになった。
「ちょっと、いまからこのひとたちと食事に行くので、お金を・・・・・・」
と、吉本さんは玄関で靴をはく前に、すぐ奥の台所にいる奥さんに、恐縮するような調子の小声で呼びかけ、もらった一万円札を、出掛けるからと羽織ったよれよれな背広のポケットに、無造作に押し込んだ。その地味な色合いの背広の裏地が、裾のほうで擦り切れていた。吉本さんの足の裏といい、この背広の擦り切れといい、そんなことを、四十数年経ったいまも鮮やかに覚えている自分がおかしい。
 ほとんどのことを、皆、忘れているくせに!
 三人は、歩いて、吉本さんが馴染みらしいうなぎ屋だったかに向った。遠くは無かったが、途中、広い自動車道を横切った。信号がぎりぎりだった。
「渡っちゃいましょう」
という吉本さんの掛け声で、三人いっせいに小走りに走った。いちばん早く向こう側へ到達したのは、吉本さんであった。ずっと若い二人が負けたのである。
 それはともあれ、後にも先にも唯一度のこの三人の会食の場で、わたしの胸をじくじく痛める会話があって、それだけは忘れることが出来ない。何の話の筋のなかであったか、吉本さんは言った――
僕は、訪ねてくる学生には、じっくり付き合って話を聞こうと思っていたんです。とことん、付き合おうってね。そのことについては、僕はどうしてもゆずれないという・・・・・・そういう気持だったんだよ。ところが、うちのかみさんは、それはやめてくれ、と。でも僕はやめなかったんですよ。そんななかで、妻が自殺未遂みたいな出来事がありましてね」
「え、自殺未遂って?」
「そうです、そういうことも、ありました」
すると、それを聴いていた柄谷氏が、
「あ、上村さんは、吉本さんの伝記をこそ書くべきだね」
と、たちどころに応じた。

  (「吉本さんの足の裏」P308-P309、『吉本隆明 孤独な覚醒者』上村武男)







 (備 考)


雑誌「試行」の刊行に関してだったと思うが、吉本さんがどこかで、この「試行」の発行が家族を巻き込んだりして、それは家族を破壊する威力を持っていたと語られたことがあった。その時は、ふうーんと思って実感としてはよくわからなかった。しかし、少し体の弱い奥さんが「試行」の会計や事務作業の多くを担当していた(せざるを得なかった?)ことを考えても、そうなるだろうなと思う。


それよりも、おそらく際限もないような感じで押し寄せ長く居座る来客、これは家族、奥さんに大きなダーメージを与えたのだろう。昔、吉本さんの特集の雑誌などで見かけた写真やそのコメントを見て、よく吉本さんら家族の者は我慢できるなあとちょっとふしぎな気分で思ったことがある。こういう内情があったのである。


それで思い出したことがある。娘のハルノ宵子が、「吉本ファン」への毒のある言葉を書いていた。どこでだったか忘れていたが、ネットで調べてみると、『フランシス子へ』のあとがきでのことだった。我が家にある1冊の『フランシス子へ』がなかなか見つからない。ネットにある言葉では、「吉本ファン諸氏よ!私はあなた方とはなんの関係もないのだ」というような言葉だった。後は覚えていない。『フランシス子へ』は、吉本さんが亡くなって丁度一年後くらいの刊行である。その間に、弔問客や次々に訪れてくる、「吉本ファン」に悩まされてきたのだろうか。また、それ以前に、母親の自殺未遂に至るような家族内のふんい気を子どもの頃から感じ取ってきたことは確実だと思える。吉本さんの仕事柄、吉本家は、その家族の一人一人は、外からの波(具体的には人の出入り)を被り続けてきたのだろう。平穏な生活を絶えず浸食されてきたという思いが娘のハルノ宵子の言葉ではなかったろうか。


 (追 記) 2022.9.10

 若い頃、わたしも、妻と子と三人で吉本さんを訪ねたことがある。今から、40数年前だったと思う。たぶん、台所だったと思うが、わたしたちは手前で、前の方左手に奥さん、真ん中に吉本さん、右手に糸井重里を含む二三人がいたことを覚えている。何を話したかは忘れたが、夏でスイカを出してもらったことを覚えている。

 吉本家の人の出入りの多さから、子どもらは「プライバシーのない生活」を強いられていた。うーん、こうして具体的に語ってもらわないと実状がよくわからない。以下を読むと、上記の娘のハルノ宵子の言葉が自然なものと感じられる。


 そもそも私は育った実家の、人々の出入りの回数があまりにも多すぎて、「これはもう村だ、家じゃない」という感想を抱いていた。
 一日が終わり、さあ晩ごはんだというときにピンポンと人が来ると、小さなテーブルの上でごはんを端っこに寄せて、お客さんを通してお茶を出さなくてはいけない。あるいはごはんを中断して玄関に出て行った父に申し訳なく思いながらすばやく食事して、話しが長引きそうならスペースを空けなくてはいけない。
 半裸であろうと失恋して目がぱんぱんであろうと、家にはいつも他人が来ていた。
 プライバシーのない生活ってほんとうにきつい。
 風呂の手前にリビングがあったので、お客さんが長居すると深夜であろうが風呂には入れない。今の私なら切り替えて銭湯に行ったと思うが、当時の体調が悪くて暗かった私はただただ長居の客を憎んだ。その人にとっては月に一回でも、三十人いたら毎日になる。ほんとうに、毎日だった。他人のいない日はなかったと言っても過言ではない。ひどい人は子連れで来て父とおしゃべりを始め、子どものめんどうは見てくれと知らない幼児を押しつけられた。
 それから父が出していた「試行」という雑誌が出るときは、大勢が家にやってきたり、宛名を書いたり読み合わせたり、ほとんど小さな出版社のような雰囲気になった。慣れていたのでいちいちいやだとは思わなかったけれど、なんでもいいから家で自由に過ごしたいと思って、いつも自分のスペースや屋上に引きこもっていた。
 (『私と街たち(ほぼ自伝)』「ほんとうの地図」P119-P121 吉本ばなな 2022.6.20)
 ※初出「新潮」2021年4月号







項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
643 吉本さんのこと ⑱ ―荒れた講演会 論文 「情況八月号・別冊 追悼吉本隆明」2012年 『吉本隆明 孤独な覚醒者』上村武男 白地社 2013.12.30

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1967年11月21日 ソ連崩壊は、1991年12月26日
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1



 1967年11月21日に、國學院大學の第85回若木祭に行われた吉本さんの講演と討論がある。その講演および討論の記録が、『吉本隆明 孤独な覚醒者』(上村武男 2013年12月)に「『人間にとって思想とはなにか』――講演および討論の記録/吉本隆明」として収められている。その司会は、本書の著者の上村武男氏である。ちょっとつかみ合いになりそうな様子の討論会だったように見える。討論部分は、本書のP262からP299の部分である。

 この講演と「講演のテキスト」は、『吉本隆明の183講演 FreeArchive』(ほぼ日)にあるが、討論部分のはげしいやり取りはこの「講演のテキスト」からはうかがえない。




 昭和四十二(一九六七)年十一月二十一日、國學院大學(東京・渋谷)四一二番教室でおこなわれた講演会の展開は、隆明の講演の場に多く立ち会ってきた宮下(引用者註.当時の弓立社の宮下和夫氏)にも一度きりの経験だという。
 当日、会場には学生、大学教官、編集者ら約百名が集まっていた。「人間にとって思想とはなにか」という演題で始められた講演は、『言語にとって美とはなにか』(勁草書房・第Ⅰ巻=一九六五年五月、第Ⅱ巻=同十月)や「共同幻想論」(『文藝』一九六六年十一月~一九六七年四月に連載)をめぐって二時間に及んだ。質疑応答に移り、いくつかのやりとりののち、話は国家論にかかっていた。質問者の意図を根気よく汲み取り丁寧に答える吉本隆明。が、自分の質問に自分で焦りだした学生が、息せき切って次のように発言したあたりから、会場は常とは違う雰囲気になってきたのだ。

・・・中略・・・

 この講演の記録は、このあとの出来事を、「(こののち、場内騒然となり、吉本氏と数名の学生のあいだにケンカ腰の激しい口論があったが、多くの発言が聞き取りがたい)」と、記す。が、現場に居合わせた筆者の記憶では、「ケンカ腰の口論」などでは、なかった。隆明は迅速な動きで檀上をかけおりると、学生の胸倉をとっていたのだ。学生Hの「何だよ!」は驚きの悲鳴に近かった。(どこからか暴力はやめろという声も挙がった。!)学生の蚊とんぼのような体など壁際まで吹き飛ばされんばかりの隆明の鋼のような腕。
その場に居合わせた学生の多くは、筆者同様、それまでに出合ったどんな知識人とも違う、これが吉本隆明なのだ、という思いを深く心に刻んだのだ。
 (「第3章 時代の風のなかで」P159-P162、『吉本隆明の東京』石関善治郎)
 ※






 (備 考)

このことがらについて知ったのは、まず、石関善治郎の『吉本隆明の東京』においてであった。氏もこの講演・討論の現場にいたという。


②で、ここに引用されている講演会後の討論の割と激しいやり取りの記録は、①の上村武男の講演筆録からの引用である。当事者以外にとっては、冗長になるのでその部分の引用はしない。原文に当たって欲しい。


わたしの吉本さんの講演会等への参加は、

1.北九州市小倉・金栄堂主催 2回
   〈アジア的〉ということ 1979.07.15
   〈アジア的〉ということ―そして日本 1981.07.04

2.山口 梅光女学院大学でのもの

3.東京 品川 いま、吉本隆明25時 1987.9.12-13

4.博多  都市論としての福岡 『パラダイスへの道』出版委員会 1990.9.30

5.東京 最後の講演会  芸術言語論―沈黙から芸術まで― 「ほぼ日」10周年記念企画 2008.07.19

6.いつ頃の、どこでだったか忘れたが、兵庫の伊丹空港で降りて、向かった覚えがある講演会

これらすべてで、もう荒れた講演会はひとつもなかった。ただ、博多のだったと思うが、質疑応答の時だったか、質疑ではなくひとり少し大きい声でなにか文句を言っているような人はいた。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
644 「吉本さんのこと ⑲ ―ミスについて」 「第一章 言葉と情感」、「ちしほ」をめぐる誤認 論文 『中学生のための社会科』 市井文学 2005.3.1

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「ちしほ」 一塩
項目
1



 かつて源実朝について書いたとき、実朝の優れた和歌のなかでも秀歌とおもえる歌を挙げて論評したことがあった。

    くれなひのちしほのまふり
     山の端に 日の入るときの
      空にぞありける
               源実朝 『金槐和歌集』

 これを山に日が沈んでゆくときのまわりの空の色が血塩がぐるぐる沸きかえるとおもえるように沈んでゆく有様と解して長いあいだ疑っていなかった。
 それについて詩人牟礼慶子氏から違うのではないかという疑義を頂戴したことがあった。
「ちしほ」というのは染色液で、何回も何回も漬けては染めたという意味ではないかという注意だった。訂正の書簡を読んでわたしは思わずしまったとおもった。自分では染料や顔料や色相について専門に近い経験と知識をもっていると信じていたからだ。例えば「今年の冬は一塩寒かったですね」というのは「とくに寒かった」という意味になり、この「一塩」は一度染色液に布を浸したようにというところからきている。
 
実朝の和歌の「ちしほ」は「血塩」ではなく、千回も染色液でまぶしたような、という意味の方が真っ当な理解で、わたしのは思い込みにすぎない。図に乗ってはいけないと反省させられ、牟礼さんにはお礼と訂正する旨を返事して、引用歌のすぐあとでそう訂正した。これは、「なふ」と「ほふ」でもまだたくさん追求しないといけない課題が残るので、論文のつもりではなく随筆としてある雑誌に一部分書いたことがあり、ここでもその程度に読んでもらいたいという理由で記した。
 (「第一章 言葉と情感」「ちしほ」をめぐる誤認 P42-P44『中学生のための社会科』2005年3月)






 (備 考)

 吉本さんは、色を専門としていたから、このまちがいはショックだったろうなと思う。間違いといえば、吉本さんの『詩学叙説』でだったと思うが、取り上げた詩人の詩について何かミスがあるとか述べている人の文章をネットで見たことがある。(註.1)



 上の歌の読みの問題との関連で挙げておくと、いま読書中の白川静『桂東雑記』に次のような万葉集の歌と解釈があった。


 『万葉集』にはもうひとつ、『古今和歌集』(十世紀初頭)以降には見られない大きな特徴があります。それは柿本人麻呂や額田王ら、古い時代の旅の歌に顕著です。

  玉藻刈る 乎等女(をとめ)を過ぎて 夏草の野島(のしま)が崎に 廬(いほり)すわれは 十五・三六〇六

 柿本人麻呂は瀬戸内海の船旅の途上で、こう歌いました。乎等女という土地を過ぎ、野島が崎に宿りをするという意味ですが、野島が崎は淡路島の北端で、船の難所です。つまりこの歌は景色を詠み込んだ叙景歌ではなく、危険な場所を通る時に、その土地の霊に旅の安全を祈って誦詠された「呪歌」なのです。
 大伴旅人や山上憶良ら、時代が下るにつれてこの呪歌性は薄まり、『古今和歌集』ではもはや、呪歌的性格は見られません。呪歌の伝統は『万葉集』の大きな要素です。そこには日本人の心の基盤となっている、古来の祈りの形が記録されています。
 (「『万葉集』を旅する」、白川静『桂東雑記』2007年4月)



 調べてみると、同じ柿本人麻呂の歌に同様の出だしの表現がある。

珠藻(たまも)刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草の野島(のしま)の崎に舟近づきぬ (巻三 二五〇)

 ここで「敏馬」は地名であり、同様に「乎等女」も地名という。解釈する人によっては、「乎等女」を年若い女性の乙女と取っているものもネットにいくつかあった。また、白川静の読みとは違って、斎藤茂吉らアララギ派の近代的な万葉集理解と同様に、この歌を写生歌すなわち叙景歌と取っているものもいくつかあった。

 何もなければわたしたちの現在の視線の自然さからは、柿本人麻呂の最初の歌は単なる叙景歌と見なしてしまうだろう。万葉集の歌は呪術性を持っているということは学生時代に耳にしたことがある。しかし、今以てそのことが実感としてはよくわからない。白川静は、中国の漢字の膨大な研究から、その漢字の構造を明らかにし、と同時に古代中国の人々のものの感じ考え方を取り出して見せた。また、わが国の初期万葉の考察もある。わたしは実感としてはよくわからないが、おそらくそうだったのだろうなという強い説得力を持っていると思う。ともかく表記の問題なども含めて万葉理解は難しい。


(追 記) 2020.4.01

(註.1) 
 偶然にその文章と再会したので註として記す。

「富永太郎関連メモ ~枝葉末節にこだわったページです~
1. 吉本隆明氏の「詩学序説」について(2001/01/11アップ)」とある。
 http://yarimizu.blue.coocan.jp/tominagamemo.html
 (「YARIMIZU HOMEPAGE」より)


 その話の概略は、大岡昇平がその編集に関わった「富永太郎詩集」(東京創元社)において、編者が三木露風の詩を混ぜ入れてしまったということらしい。そして、吉本さんが、その三木露風の詩を富永太郎のものとして『詩学叙説』で引用したということ。というわけで、これは吉本さんのミスでもまちがいでもなかった。





項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
645 吉本さんのこと ⑳ ―怠け者 「第一章 生まれ育った世界」 『少年』 徳間書店 1999.5.31

関連事項 項目568「吉本さんのこと ⑦ 「竹内好の生涯」」の文章中の「⑥」、「ぐうたらということ」

※本書のあとがきによると、本書は編集プロデューサーの山口哲郎氏との対話に始まり、その文章起こしがなされ、
その草稿に吉本さんの手が入ってできたものである。

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怠け者 四号埋立地
項目
1



 化学の学校に入ると、博物の宿題で、やや本格的な植物の押し花標本の提出を求められた。
怠け者には無理で、まだ柔らかく花や葉脈から汁が出てくるような標本をいつも出すしかない。
 博物学に興味をもつためには理科室の標本ではなく、ゲーテを読むようになる年月が必要だった。人体に興味をもつためには理科室の骸骨ではなく、三木成夫を読むような成熟が必要であるように。しかしその時にはもう遅いのだ。わたしは今、植物医師だったらなあとおもう。少年を教育できるのは鬱然たる大家だけだ。大学生を教えるのは今とおなじで、馬鹿な小学校の教師でたくさんだとおもう。
 提出日直前になってから間に合わせに四号地で採った押し花をつくるものだから、いろいろな植物を本の間で押しまくって、名目だけの標本をつくった。
 この押し花も、高学年になったときの昆虫標本も、四号埋立地の葦原でにわかに集めた。
四号埋立地は、夏休みも終りに近くなって人の気もなくうそ寒さと後ろめたさの限りで、独りでする押し花や標本造りの嫌な思いをのこした。




 植物の標本造りも、人体解剖の知識も万人に必要なものだ。だがそう思わせてくれる博物や理科の教師はいなかった。教師はただ自分を理学的な趣味を少年のときから持ちこたえた少数者だと思い込んでいる。これで少年が博物学や身体の知識を必要不可欠だとおもうはずがない。
 家からちょっと裏に入ると路地が縦横にあった。かくれんぼや鬼ごっこは路地裏でいくらでもできたのだが、わざわざ四号埋立地まで押し出していくのは、自分のなかに内向する気配を時に満たしたかったからだ。

 (「第一章 生まれ育った世界」P43-P45、『少年』1999年5月)
 ※①、②は、連続した文章です。






 (備 考)

吉本さんは、時々自分は「怠け者」で、と語られていた。最初の頃は、吉本さんのあの膨大な論考がわたしの念頭にあり、しかも、吉本さんはほとんど謙遜の言葉は言わないから、ええっ、そうかなあと不審に思っていた。しかし、途中から「怠け者」という自己認識はほんとうだったのだと思うようになった。ここにわたしたちが実感できるような具体例として描写されている。

しかし、この「植物の押し花標本」に関しては、まず後で怒られようが無視して提出しない少数の子どもがいて、吉本さんのような中途半端な造りで提出する者が割と多くいて、手間暇かけてきちんと造った若干の優等生の子がいてというのが子どもたちの一般的な状況ではなかろうか。


本書のあとがきに、以下のような文章があり、ヴァレリイ・ラルボウに触れている。たぶん吉本さんの別の文章でだったと思うが、ヴァレリイ・ラルボウという作家を知り、読んでみたことがある。


 わたしの脳裏には絶えずヴァレリイ・ラルボウの『芽ばえ』のような作品がちらついていたと言ってよい。この課題は結局、文章の時制の問題に帰するように、わたしにはおもえた。過去の事実の記憶を記述すること、現在の少年の社会的事件を批評することでありながら、単純過去の事実の記憶を記述し、現在の社会的事件の単純な論評に陥らないことは可能か。
 わたしが絶えず気にかけたのはこのことであった。
 ヴァレリイ・ラルボウの『芽ばえ』どころの騒ぎかよと悪たれられたら、耻ずかしさで身を縮めて引き下がるよりほかない。ただ、現在のわたしの力量と筆の運びの条件下で、松崎氏や山口氏の努力に精いっぱい応えようとしたことは確かであった。



上記の引用の、最後の一文は、吉本さんにとって「四号埋立地」がどんなものであったかに触れてあるので、付け加えとしてそこまで引用した。これに関してもうひとつ付け加えておく。それは晩年の吉本さんの言葉だが、吉本少年たちは、言葉ではうまく説明できなくてもそのことを匂いのように嗅ぎわけていたのだろう。


 四号埋立地からは、三号地を隔てる橋を渡らなければ街筋には帰れない。町に入れば父や母や兄たちの領分に入ったということだ。すると日常の匂いがしてくる。そして子供たちの秘密のイメージが消えてしまう。
 (本書 P42)






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
646 吉本さんのこと 21 ―電車のなかの席取り競争 目下、不明 論文 『吉本隆明全著作集』 勁草書房

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項目
1

※ 目下、不明。







 (備 考)

電車のなかの席取り競争についての文章を若い頃読んだことがある。その後、たぶん全著作集の中にあったと思い、全著作集をずっと昔に三回ほどはよく調べたと思うが、その文章を見つけることができなかった。今回の項目は、通常とは異なる形であるが、本文は、今後見つかったら挙げたい。

家族旅行の帰りなどで、家族の者がとってもくたびれていない限り、自分は電車に乗ってすばやく席を確保する「席取り競争」には加わらないという内容だったと思う。吉本さんの生活者としての倫理を語ったものだ。しかし、一方で、どうしようもない生活苦なら泥棒したってかまわないという考えはどこかで語られていたように記憶する。電車の「席取り競争」の例外の場合と同様のものと見なせるだろうか。割と豊かな時代を生きてきたわたしたち戦後世代とは違って、そこには戦争世代の体験的なものも加担しているように感じる。

この吉本さんの生活者としての倫理、行動は、当然吉本さんの思想と密接に関わっているはずである。戦争期の批判では、知識層の負性とともにわが国の大衆の負性をもえぐり出し、批判してきたのだから、通常ではそういう大衆の負性としての行動に吉本さんが同調することはないということだと思う。

この家族旅行は具体的には、それがいつ頃から始まったのかもわからないから断定はできないが、毎年恒例の西伊豆の土肥(とい)への家族旅行かなと思った。


 最近、新型コロナウィルス関連で、「コストコ幕張倉庫でのマスク販売の様子です。恐ろしい。。」というコメント付の、人々が先を争い奪い合うようにマスクを取っている動画をツイッターで目にした。現在でも、こうした電車の「席取り競争」に類することはあっていて、わたしたちはその場にいたらどうするかという問題は依然として問題であり続けている。これは、吉本さんが語った「緊急の課題」と「永続的課題」の中の、人間の「永続的課題」に属するものだと思う。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
647 吉本さんのこと 22 ―迷子 第2部 学童期の子供をめぐって インタビュー 『子供はぜーんぶわかってる』―超「教師論」・超「子供論」 批評社 2005.8.1

聞き手 尾崎 光弘 向井 吉人

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方向音痴がひどい 親からの脅かしのせいか、むしろ人さらいが恐かった
項目
1



尾崎 吉本さんは迷子になられた経験はありますか?

吉本 ええ。迷子もありますし、方向音痴がひどいですから宿屋へ行っても、うかうかお風呂場へ行くと帰れなくなります。少し大きい宿屋だと「ここで曲がったな」と後ろを振り返っていちいち確認して行かないとダメなんですよ。

尾崎 お若い時からですか?

吉本 若い時からそう。大人になったある時から、迷子になるのは必ず右と左を間違えて反対に曲がってしまうからだと気付いたんですよ。だから迷子の焦りや気持ち悪さは残っていて迷子の続き具合なのか、どうしても方向が合わないとか、どうしても行ったところを帰れないとか今でもいちいち確認しないと駄目ですね。
 僕らが子供の時は迷子より、親からの脅かしのせいか、むしろ人さらいが恐かったですね。一度も見たことがないのになんとなくあるように感じていました。今だったら怒られるだろうけど猿回しや飴売りの人を「こういう人が遊んでいる子供を連れて行ってしまうのだろうか」と想像していましたよね。たぶんまだ伝説にならずに痕跡が残っていて、親は相当リアルにその手のことがあると思っているから、子供がなかなか帰って来ないと「人さらいにさらわれる」と言うけど、実際にはあったことがないですし、どういう人がそうなのかも見当がつかないんです。
 (『子供はぜーんぶわかってる―超「教師論」・超「子供論」』P96-P97批評社 2005年8月)
  吉本隆明 聞き手 向井吉人・尾崎光弘






 (備 考)

誰もが、〈普通〉という平均値の分布の中に位置づけられ得るが、〈普通〉からずれたものを持っている。吉本さんの場合、迷子になりやすかったとある。柳田国男も小さい頃から特異な資質を持っていたと言われている。たぶん幻覚だろうが、昼間に星を見たという話がある。

 この祠の中がどうなっているのか、いたずらだった十四歳の私は、一度石の扉をあけてみたいと思っていた。たしか春の日だったと思う。人に見つかれば叱られるので、誰もいない時、恐る恐るそれをあけてみた。そしたら一握りくらいの大きさの、じつに綺麗な蝋石の珠が一つおさまっていた。その珠をことんとはめ込むように石が彫ってあった。後で聞いて判ったのだが、そのおばあさんが、どういうわけか、中風で寝てからその珠をしょっちゅう撫でまわしておったそうだ。それで後に、このおばあさんを記念するのには、この珠がいちばんいいといって、孫に当る人がその祠の中に収めたのだとか。そのころとしてはずいぶん新しい考え方であった。
 その美しい珠をそうっと覗いたとき、フーッと興奮してしまって、何ともいえない妙な気持になって、どうしてそうしたのか今でもわからないが、私はしゃがんだまま、よく晴れた青い空を見上げたのだった。するとお星様が見えるのだ。今も鮮やかに覚えているが、じつに澄み切った青い空で、そこにたしかに数十の星を見たのである。昼間見えないはずだがと思って、子供心にいろいろ考えてみた。そのころ少しばかり天文のことを知っていたので、今ごろ見えるとしたら自分らの知っている星じゃないんだから、別にさがしまわる必要はないという心持を取り戻した。
 今考えてみても、あれはたしかに、異常心理だったと思う。だれもいない所で、御幣か鏡が入っているんだろうと思ってあけたところ、そんなきれいな珠があったので、非常に強く感動したものらしい。そんなぼんやりした気分になっているその時に、突然高い空で鵯ひよどりがピーッと鳴いて通った。そうしたらその拍子に身がギュッと引きしまって、初めて人心地がついたのだった。あの時に鵯が鳴かなかったら、私はあのまま気が変になっていたんじゃないかと思うのである。
 (「ある神秘な暗示」『故郷七十年』柳田国男 青空文庫)







項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
649 吉本さんのこと 23 ―立ち居振る舞い 第1部 教師の仕事をめぐって インタビュー 『子供はぜーんぶわかってる』―超「教師論」・超「子供論」 批評社 2005.8.1

聞き手 尾崎 光弘 向井 吉人
関連項目643「吉本さんのこと ⑱ ―荒れた講演会」

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学童が生意気というのは自然で当然のことということで済む でも中学校の上級生とか高校生とかの生意気はもうどうしようもない。軌道をはずれている生意気さというと、僕らの頃は不良とか不良少年とか言ってた。 一般的な講演のときは用心していました
項目
1



吉本 それはとても真面目な人ほど病的になりやすいというのはよくわかるような気がします。先生が「子供とうまく関係がとれない」という問題で言えば、特に学童が生意気というのは自然で当然のことということで済むわけです。でも中学校の上級生とか高校生とかの生意気はもうどうしようもない。軌道をはずれている生意気さというと、僕らの頃は不良とか不良少年とか言って、あれはどこそこの不良少年グループだというのがいましたけれども、今もそういう少年がいるのだと思います。そういうのはちょっと手に負えない生意気さですね。どうせ弱いから生意気なのですから、そういう時には仕方がないから、殴られてもいいから先生の方から一度だけやっちゃえばいいのではないかと思いますね。
 島成郎さんという精神科医がいて亡くなりましたが、彼が「僕は患者さんが殴りかかってきたときは、そのときは殴り返してやるのだ、殴りかかってくる患者さんの方がまだ治りやすいのですよ」と僕に言った時があります。一般的に言うと患者に暴力を振るったとなるとうるさいのだそうですが、「そんなこと僕は知ったことではない、患者が殴りかかってきたら殴り返してやるのだ」とも話してくれましたが、もっともなことだと思いました。




吉本 学生さんと付き合っている頃ですが、僕が喋ることを茶化したり邪魔したりするためにわざわざ集団で来る学生さんたちがいました。あまりうるさいので、「じゃ、いっちょうやるか」とか言って相手の胸倉をつかんで相互に殴り合いを始めるときに、僕が一番堪えたのは、会場の女子学生が「知識人が暴力を振るうとは何事ですか」と叫び出して(笑)、ああこれはいけないや、と思って反省させられたことがありましたね。でも一回くらいやるのはいいと思いますね。だけど今はすぐ「刺す」ということがあるからなかなか通用しないですね。僕らの時はそこまでというのはなかったですけれども、しょっちゅう一回ぐらいは殴り合わないと済まないという場面はありました。ただ何時押しかけられて殴られるかわからないというのがありましたからいつでも覚悟していました。僕は、学校の中で講演するときは大したことは起こらないと思っていましたが、一般的な講演のときは用心していました。どうするかというと、暑くなったから上着を脱ぐんだということにして横に置いておくのです。これは空手の先生に教わったのですが、昭和三五年当時、社会党委員長だった浅沼稲次郎が右翼の青年、山口二矢に刺殺されましたが、ああいうのを防ぐには上着一枚でも手拭い一本でもいい。要するに自分の皮膚と隔たった場所に上着一枚でもあれば、玄人の殺し屋とかヤクザの専門家でなければそこを通して身体に致命傷を負わせるというのはちょっとできないらしいのです。僕はいつも上着を横に置いているでしょう(笑)、それはやっていました。空手の先生のいうことが本当なら、上着を身体から離してこうすれば致命傷を負うことはないと思っていましたからそういうふうにしていました。・・・・・・そういうものではないかと思いますね。だいたい「やるか」っていうことになってきましたら、そんなに勢いのいい学生はそれほどいないとタカをくくりますね。
 (『子供はぜーんぶわかってる―超「教師論」・超「子供論」』P56-P58 批評社 2005年8月)
 ※①と②は、ひとつながりの文章です。






 (備 考)

②の「空手の先生」というのは、本書のP65-P66の話で出てくるが、 武道家の南郷継正である。

②の「暑くなったから上着を脱ぐんだということにして横に置いておく」の話は、吉本さんの講演会で聞いたことがある。講演会場の場所は忘れたが、伊丹空港で降りたのは覚えているから兵庫県近辺での講演会だったと思う。

ここの話は、項目643「吉本さんのこと ⑱ ―荒れた講演会」とも関連するもので、吉本さんの人となりを表していると思う。






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
650 吉本さんのこと 24 ―不明なこと Wikipediaの「吉本隆明」の項目他

関連項目608「三浦つとむに学ぶ」

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項目
1


 『ウィキペディア(Wikipedia)』の「吉本隆明」の項目の出だしに次のようにある。このウィキペディア「吉本隆明」の記述者は誰かはわからない。


吉本 隆明(よしもと たかあき、1924年(大正13年)11月25日 - 2012年(平成24年)3月16日)は、日本の詩人、評論家。藤田省三に師事した。




 次の糸井重里と吉本さんとの対話に藤田省三が出ている。藤田省三は政治学者だったと思うが名前くらいしか知らない。


吉本 ぼくの考え方の究極点で言えば、
ファシズムというのは
「資本主義を財源としている独裁国家」
ということなんですよ。
資本主義を味方にしていることは、
ドイツやイタリアのナチズムとファシズムの
非常に大きな、西欧的な特徴です。
日本なんか、どう考えたって、
それだけの器量がなかったと思います。
その見識をちゃんと持っていたのは、
花田清輝(はなだ・きよてる)さんの
「東方会」だけでした。
これは、日本資本主義と独裁制を
一緒にしたものを
党派のイデオロギーとした
唯一の日本の政党なんです。

糸井 はい。

吉本 ファシズムと呼ばれたものから
被った問題は何だったか、
自分がそこにイカれた問題は何だったのか、
ということをぼくは考えたわけです。
考えざるを得なくなって、考えたわけです。
本を読んだりしながら考えていって、
どうも実感に合うというところまで
考えていかないと収まらないから、
そこまで考えていきました。
そうしたら、結局ぼくは
マルクスの『農業論』という一冊に
当面することになりました。
『農業論』は、農業に関する
マルクスの論文を集めた本です。
その中でマルクスは、
後進的な国が革命とか変革を志すと
必ずナショナリズムになる、
と言っているんです。
ファシズムとは言っていない。
ファシズムというのは、
ナチスやイタリアが
マルクスのあとに編み出したものです。
資本主義を財源として、
それで独裁政治をやるのがファシズムですから、
ぼくらが青年時代の、あの日本の戦争は、
まだファシズムまで行ってないんですよ。

糸井 日本はもっと後進的だったんですね。

吉本 そうなんです。
だから日本は、
ナショナリズムがウルトラになった状態であって、
ファシズムではなかったんです。
自分の実感に合う定義は
これだけだと思いましたし、
それが厳密な定義だと、ぼくは思っています。
そうやって丸山眞男さんに反論して、
反論したついでに
友だちだった橋川文三さんとか藤田省三さんとか、
そういう人ともお別れになっちゃったんです。


糸井 そういうことだったんですね。

吉本 マルクスの『農業論』は、
さすがにすごいと思いました。
日本では、革新を志した政党や個人、
あるいはそれにイカれた政党や個人も、
ナショナリズムがウルトラになったということの
問題なんだよ、というふうに納得できて、
急に楽になったんですよ。
それまでは、
「お前は右翼だったのに、戦後は
ロシア共産主義が言うようなことを言って、
共産党に入っているかといえば
そうじゃないじゃないか。
左翼づらしてるのに
共産党の悪口ばっかり言っているじゃないか」
と言われて、表面上はそのとおりなんだけど、
そうじゃない、ということを
うまく言えませんでした。

糸井 そうか‥‥

吉本 小学生のとき、
二・二六事件というのがありましたけど、
そのときは反乱軍を応援していました。
だけどこれは征伐されてしまいました。
銃殺刑にされて、みんな死んじゃった。
理論的指導者だった北一輝という人も
一緒に巻き添えを食って死んじゃった。
いちばん忠義な人たちだったのに、
とうとう死なせちゃったんだな、ということが
ぼくにとっては引っかかることでした。

糸井 いま、ぼくらが時代劇で見ている
尊王攘夷みたいな感じですよね。

吉本 そうです、あのことは尊王攘夷なんです。
後進国が少し社会変革しようと思うと、
たいていそれはナショナリズムになるんですよ。

糸井 吉本さんはそこをつかんで
胸のつかえが降りたかもしれないですけど、
日本中でそういう理解をして
マルクスを読んだ人は、
少なかったでしょうね。

吉本 ええ。ひとつもなかったです。
まぁ、ほんとうに、
歳が3年か4年ちがうだけで、
考え方はちがいます。
戦中派の一部の人は、
戦前のレーニン・スターリン主義の
名残がありましたから、
ナショナリズムというのはなくて、
自分のやっていることを相対化するのは
無理だったんです。
罪の意識のあまり、ぼくらの仲間でいうと、
村上一郎さんという人は軍隊に入りました。

糸井 数年ちがうだけで、
もう少し自由に考えられた人たちも
いたけれども‥‥
 (吉本隆明 「ほんとうの考え」 012 時代 (『ほぼ日刊イトイ新聞』2010-02-07)
 https://www.1101.com/truth/2010-02-07.html)






 (備 考)

 ネットの『ウィキペディア(Wikipedia)』は、ときどき利用させてもらっている。その「吉本隆明」の項目は、確認のためなどに何度も参照したことがある。最近、上記の「藤田省三に師事した。」という言葉に気づいた。誰がどういう根拠から書き記したものかわからないが、不審に思った。長らく吉本さんの文章を読んできたわたしが初めて目にすることだったからである。もし「師事」という言葉を使わざるを得ないとすれば、三浦つとむの方がふさわしいと思った。読者によってはささいなことに見えるかもしれないが実情を知りたくて、少しこだわって調べてみたら。上記の吉本さんと糸井重里の対話の中にひとつ見つかった。「友だちだった橋川文三さんとか藤田省三さんとか」とあるし、下に記したように吉本さんは、橋川文三や藤田省三とほぼ同年代だから、「師事」というのはおかしいのではなかろうか。「師事」という言葉は、一般に自分よりずっと年上の人に対して用いるような印象をわたしは持っている。

吉本 隆明(1924年(大正13年)11月25日 - 2012年(平成24年)3月16日)
橋川文三(1922年1月1日 - 1983年12月17日)
藤田省三(1927年9月17日 - 2003年5月28日)
丸山 眞男(1914年(大正3年)3月22日 - 1996年(平成8年)8月15日)
三浦 つとむ(1911年(明治44年)2月15日 - 1989年(平成元年)10月27日)


これと似て、どこのどのような根拠からの言葉かわからないものが他にもある。柄谷行人が、吉本さんは徴兵を逃れるために大学に行ったのだと匂わせるようなあいまいな発言を座談会で語ったという。小熊英二も同様の文章を書いている。いずれも勢古浩爾が『最後の吉本隆明』のP55に引用している。そうして、これに関しては、勢古浩爾は『最後の吉本隆明』の「徴兵忌避という言いがかり」という見出しの文章で、吉本さん自身の言葉を引用しながらそれらの言いがかりが間違っていることを示している。

これに関してはさらに、宿沢あぐり氏の「吉本隆明の父・順太郎が参戦した「青島戦」のことなど」(『続・最後の場所 No6』2018.10)という文章がある。吉本さんの言葉を引用し、それと『吉本隆明全集37 書簡Ⅰ』(晶文社)におそらく初めて収められた川上春雄氏の「吉本順太郎・エミ夫妻インタビュー」の吉本さんの両親の言葉を突き合わせて、当時の徴兵や大学進学の問題の実像を浮かび上がらせている。

このようにきちんと調べることなく憶測したり自分の日頃の判断の仕方に合わせて他人の行動を推しはかることは、誰にもあり得ることではある。依然としてうわさ話や憶測のイメージが生活世界でも生きのびているだろう。座談会や書物などの半ば社会的な個においてもまた。しかし、そのことは人間が乗り越えて行くべく負の人間性と言うほかない。依然として、わたしたちは他者理解、すなわち自己理解において、あいまいな情動を概念や論理へと組織化しているのである。






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
653 吉本さんのこと 25 ―心身の不自由の中で 第6回 だめ具合を見せたふたり。 対談 「父と母と、我が家の食事。」ハルノ宵子×糸井重里 ほぼ日刊イトイ新聞 2013年

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人間とは、そういう存在じゃないんでしょうか。
項目
1



それからもうひとつは、教育という意味あいを、そうせざるをえなかったのだという不可避性の問題としてかんがえれば、それは教育なんでしょうけれども、しかし生きざまだから、願望だからわからないけれども、ぼくでも死ぬまではやりたいですね。死ぬまでは、じぶんの考えを深めていきたいですし、深めたいですね。それは説きたいとか、教育したいとかというのとはちょっとちがうんですよ。しかし死ぬまでは、できるならばちょっとでも先へ行きたいよ、先へ行ったからってどうするのと云われたって、どうするって何もないですよ。死ねば死に切りですよ。死ねば終わりということで、終わりというと怒られちゃうけれど、ぼくは終わりだ、死ねば死に切り、何にもないよ、ということになるわけです。それじゃ何のために、人間はそうしなくちゃならんのと云われたら、人間とは、そういうものなんだよ、そういういわば逆説的な存在なんだよ。つまり役に立たんことを、あるいは本当の意味で誰が聞いてくれるわけでもないし、誰がそれを信じてくれるわけでもないし、どこに同志がいるわけでもないし、だけど死ぬまでは一歩でも先へすすんでという、・・・・・・ものすごく人間は悲しいねえーという感じがぼくはしますね。人間とは、そういう存在じゃないんでしょうか。そういう存在じゃないんだろうかということが、親鸞に「唯信鈔文意」とか「自力他力事」とかを書き写しちゃ弟子たちに送るみたいなことをさせたモチーフじゃないでしょうか。それがぼくの理解です。いわゆる教育ではありません。誰ひとり、じぶんの考えを本当に理解してくれる人なんていなくたって、それはそうせざるをえないんですよ。つまりそうせざるをえないというのは、何の促しかわからないけれども、そうせざるをえない存在なんですよ。だから親鸞もそうしたんでしょうというのがぼくの理解の仕方ですね。
 (「『最後の親鸞』以後」、『〈信〉の構造』所収 P323-P324)
 ※この講演は、ほぼ日の「吉本隆明の183講演」の、A040「『最後の親鸞』以後 」。
 ※講演日時:1977年8月5日




糸井
見えなくって、歩けなくって、元気でいろ、って
難しいです。
吉本さんは、最後はもうご自身の感覚だけで、
いわば思考の中で、
行き来していたような感じはありました。
どんどん体がダメになってって
たのしいことが減って生きる、というのは、
ぼくは正直、ちょっとつらいところがあります。

ハルノ
うーん‥‥でも、
それが父らしいのかもしれない。

糸井
そうなんだよ。
吉本さんは、それを自分で選んでいるところがある。

ハルノ
そうですよね。
私はつくづくね、
人間は生きたなりに死ぬなぁ、と思いますよ、
母を見てても(笑)。
 (「父と母と、我が家の食事。」 第6回 だめ具合を見せたふたり。 
 ハルノ宵子×糸井重里 2013年 「ほぼ日刊イトイ新聞」所収)




 2000年代半ば頃になると、いよいよ父の眼は悪くなってきた。テーブルを挟んで目の前にいる人も、男女の区別もつかない。「常に赤黒い夕闇に中にいるようだ」とも言っていた。さらに脚もかなり悪くなっていた。以前は家の近所1周300m程を休み休みでも歩けたのに、家の中をはって歩くだけになった。耳だって齢相応に悪くなる。さながら自分の肉体に閉じ込められているようだ。"老い"とは、かくも残酷なものかと思い知らされた。
 しかし相変わらず、精神の活動だけは活発だ。だが五感から入ってくる情報は限られている。
 (同封の月報18「ボケるんです!」ハルノ宵子、『吉本隆明全集17』晶文社)






 (備 考)


吉本さんの世話をしていた娘(ハルノ宵子)であっても、どこまで吉本さん本人の内を捉えきるか、こういうことは一般に難しい。外からは、「たのしいことが減って生きる」とか「自分の肉体に閉じ込められているようだ。"老い"とは、かくも残酷なものか」と感じられても、ほんとうにその通りか、そのようにすっきりと切り整えられた言葉で捉え尽くせるかは疑問だ。人は端から見ていかに悲惨に見えてもそのようなものを自然として受け入れ慣れていく部分もある。また、死にたいなと思う場面もあったかもしれない。①のような人間存在の悲しみへの自覚とともに言葉にしても仕方がない吉本さんの老いの具体性の日々があったろう。今のわたしにはわからないとしか言いようがない。ただ、①の講演は1977年で、③の話はそれから30年近く経った2000年頃。それでも、吉本さんは自らの老いをも言葉にしながら、「生涯現役」で上の講演で語られたように生きたのだと思う。

晩年の吉本さんに身近に接した人々の外側から描写であるが、外からの視線や感受は当てにならないということは、吉本さん自身が、死に瀕した人の内在的な世界をどう捉えるかにおいてだったか、語ったことがある。死に瀕した本人が外から苦しそうに見えても、本人自身の世界はまた別かもしれないというふうに。吉本さんが老いについて語った本を出したのもそういう内と外からの視線のもたらす食い違いを意識してのことであったはずである。


付け加えれば、吉本さんの視力が悪化したのは1996年の水難事故の後だったというハルノ宵子の言葉にどこかで出会った覚えがある。それに関わる部分を「吉本隆明略年譜」(作成・石関善治郎)から引用しておく。

1996(平成8)年
七十二歳
8月 家族と夏の休暇を過ごす西伊豆土肥海岸で、遊泳中に溺れる。
この事故の後、持病の糖尿病の合併症による視力・脚力の衰えが進む。以降、読み書きは虫眼鏡、電子ルーペ、拡大器を用いるなど努力を要し、著述は、口述やインタビュー後にゲラ刷りを校正する方法が多くなる。脚力・体力の回復のため自分流のリハビリに取り組む。







項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
660 吉本さんのこと 26 ―引きこもり症 「移行する身体 ―歌や言葉のこと―」 対談 『舞台評論』第3号 2006年6月30日発行 吉本隆明資料集166』 猫々堂 2017.6.30

 ※ 「移行する身体 ―歌や言葉のこと―」 吉本隆明・森繁哉 対談
 ※ 関連項目641 「吉本さんのこと ⑯ ―吉本さんの口ずさむ歌」

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みんなの前で発表したりとなると緊張しちゃって、とたんに駄目になる だんだんに人前で話すことには慣れはしましたけど、それでも、やっぱり苦手ですね。
項目
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森 ・・・ところで、吉本さんは日々の生活の中で歌を口ずさんだりしますか。

吉本 毎日ではないけど、鼻歌はよく歌います。その日の気分でテーマソングがあるんだけど、レパートリーが少ないものだから、もっぱら唱歌と軍歌を歌いますね。唱歌は小学校で習ったものです。軍歌は学生の時分に友達とよく歌っていました。

森 それは、軍歌や唱歌が身体に染み込んでいるといいますか、記憶や体験の層として蓄積されているからなんでしょうか。歌にまつわる思い出などはおありですか。

吉本 歌に関することは、特にないんだけど、小学生のころに心に刻み込まれた出来事に、こんなことがあります。
 僕は引きこもり症といいますか、引っ込み思案な小学生だったんですよ。友達同士で遊んでいるときは、悪童と呼ばれるくらいに大暴れしてたんだけど、いざ舞台に上げられたり、みんなの前で発表したりとなると緊張しちゃって、とたんに駄目になるんですよね。
 (「移行する身体 ―歌や言葉のこと―」 『吉本隆明資料集166』猫々堂)
 ※初出『舞台評論』第3号 2006年6月30日発行




 先生が僕の引っ込み思案を直そうと、やっきになっていた時期があるんです。不意に「吉本、お前、何か喋れ」なんていわれてね。檀上に出ていく間に、どうすりゃいいんだって考えるんだけど、突然のことだから何も浮かんでこないわけです。 ・・・中略・・・ 僕が引っこみ思案だったから、先生の方は教育的指導のつもりだったと思いますけど、いつも不意打ちなので、それが嫌で、心の傷になって残りましたね。
 そのせいか僕は今だに大勢の人の前で話をするのは苦手です。六〇年安保のころには、ほうぼうの大学で演説をさせられました。出ていくと、「吉本さん、待ってました!」なんて声援をもらうんだけど、こっちは緊張しているからアーとか。ウーとかいうだけで、全然、話が進まない。(笑)。だんだんに人前で話すことには慣れはしましたけど、それでも、やっぱり苦手ですね。だから、僕は、人の性格なんて無理矢理直そうとしない方がいいって思っていますね。
 (「同上」 )






 (備 考)

たくさんの人前に立って発表したりとなると緊張するのはほとんどの人に当てはまるだろう。たぶん、その緊張の程度が一般より高かったり、緊張を自覚する自己意識が人並み以上ということだったように見える。また、将来の芸人の素質を持つような、みんなの前での自己劇化が快となりあんまり緊張しないという者もごく少数いるかもしれない。

吉本さんが、自分はガキ大将みたいだった、「悪童と呼ばれるくらい」だったとしばしば言われ、一方で、自分は「引っ込み思案」だったとも言われることに、そんなものだろうかとわたしは、矛盾のようなものを感じていたことがある。しかし、これは仲間内での振る舞いとそこから離れた教室内の人工的な「舞台」での振る舞いとの違いということだろうと思われる。例えば、『ドラえもん』のジャイアンは、仲間内では他の子どもいじめたり粗暴に振る舞ったりしているが、母親の前では頭が上がらないし、逆らえないというようなことと同じことだろうと思う。

②は、学校の先生の考えとは違って、たぶん小さい頃から性格のようなものとして形成された核あるいは芯の部分に当たる「引っ込み思案」は、そう簡単に治るものではないということだろう。






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
661 吉本さんのこと 27 ―敗戦直後の頃 「歴史の『事実』をめぐって」 インタビュー 『アリーナ2006』第3号 2006年4月発行 吉本隆明資料集166』 猫々堂 2017.6.30

 ※ 聞き手 大山誠一
 ※ 末尾に(2005年3月7日)とある。インタビューの日か。

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項目
1



大山 天皇制も結局そういうことなんですよね。今いる天皇がどうのの問題じゃなくて、天皇制ってものを考えてそこから帰ってくると、そのときに日本の歴史を、日本人をどう思うかと。

吉本 そういうふうに言うことできますね。僕みたいに戦中派の軍国少年ならなおさらそうで、戦争中は、天皇、つまり誰のために死ぬんだっていうことを一生懸命考えていて、同朋のためとか、祖国のためとか、それから近親、血縁の人たちのために俺は死んでもいいんだっていう考え方にはどうしても納得しないんですよね。僕は、納得できなかった。なんか絶対的なものってのはないかって言うと、天皇だってことになる。僕はしゃきしゃきの軍国少年だったんですけど、そういうふうに考えた。だから、戦後はもう生きた心地しないっていう状態だったですけど、自分は若いから、まだ身体が死ぬっていうことを聞かなかった。生きさせられちゃったっていう感じのほうが多いんですけど、そういう過程ってのが戦後で、その過程でやっぱり天皇、天皇制の問題って僕なりに一生懸命考えた。

大山 やっぱりその発想というのか、思いってのはその後もかたちを変えながらも残ってる、残ってますよね。

吉本 残ってます。はじめはやっぱりロシアのマルクス主義を信じてたのですよ。敗戦直後のころそれは盛んでしたから、一生懸命読みました。二七年テーゼとか、三二年テーゼてのは、天皇制がここにあって、かたっぽに寄生地主制、かたっぽに資本家があって支えてるみたいな。はじめはそれをそうか、俺わかんなかったって、知らなかったなんて思ってたけど、考えれば考えていくうちに、この考えは駄目だっていうふうにだんだんなってきたんですよ。だから自分で考える以外ない。
 (「歴史の『事実』をめぐって」 P11 『吉本隆明資料集166』猫々堂)
 ※聞き手 大山誠一
  『アリーナ2006』第3号 2006年4月発行











 (備 考)

吉本さんは、敗戦後の若い頃にロシアのマルクス主義や日本の共産党に対して、どういう位置にあったのだろうと思ったことがある。「はじめはやっぱりロシアのマルクス主義を信じてたのですよ。」という言葉にあるように、近づき影響を受けていた。ただ、自分で考えていくうちに、それではだめだと思うようになったと。吉本さんの詩『日時計篇』を読むと、具体的にロシアのマルクス主義や日本の共産党の名が出てくるわけではないが、それらを背景とした考えのやり取りや対立などをうかがわせる詩や詩句もいくつかあった。

誰もが、最初から自力で思想を形成できるわけではない。社会的に主流を占めている思想ならなおさら、それまでに多くの人々によって形成されてきたその思想を潜り抜けるほかない。あるいは、それと対抗的にあるいはそれを超出するように思想を形成するほかない。吉本さんが後にわが国初の「独立左翼」と評価したブント(共産主義者同盟)も、日本共産党から「独立」している。






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
665 吉本さんのこと 28 ― 人柄 「06文化はいいこだ、の落とし穴」、「08高村光太郎のペンギン」 対話 吉本隆明 「テレビと落とし穴と未来と。」 『ほぼ日刊イトイ新聞』 2008.12.30
2008.12.31

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項目
1



吉本
「糸井というのはけしからん。吉本はけしからん」
と思っている人も、いるでしょうけど。

糸井
「けしからん」は、ずっと言われてきたんです。
何十年も言われていますから。

吉本
糸井さんは、大まともにそれをやっているんです。
ぼくなんかに金かけて、ものを言わせるのは
もってのほかだと思われることもあるでしょう。
でも、学生さんを例にとって申し訳ないけど、
学生さんは、ぼくの書いたものを
勝手に出版しちゃうし、
高い金で売り飛ばす人もいました。
それでもぼくは、いいや、いいやで
やってきました。

「ただ」でやることが多かったし、
やっぱりいまも、それはあると思います。

糸井
ぼくは、「ただ」の力を、もっと信じてます。
本当に「ただ」でやるときは、
もっと「ただ」に対して考えて
慎重にならないとダメです。
「ただ」って、やっぱり
いちばん高くなきゃいけませんから。

吉本
そうそう。
ふつうの「ただ」じゃダメなんですよ。
だけど、これからは出版社だって
考えられなかった大手同士が合併する、
くらいのことは起こりうるでしょう。
  (テレビと落とし穴と未来と。 吉本隆明 、「06文化はいいこだ、の落とし穴」2008-12-30)
 『ほぼ日刊イトイ新聞』所収




糸井
それは本当に、難しいところです。
価値を出さないと、
人はお金を出さないということも
ありますから。
いいことも悪いことも含めて
ずるをするんです。

吉本
そうなんですよね。
ずるといえば、ぼくはいちど、
骨董屋さんで、ごまかされたんです。

糸井
あ、ご経験があるんですか。

吉本
上野の骨董屋さんで、
高村光太郎のペンギンの木彫があったんです。
箱書きを見ると「海潮音」とある。
その字がもう、どう見ても
高村光太郎の字なんですよ。
あら、これどうして、もしかすると、
本当かもしれないなんて思いまして。


糸井
欲が(笑)。

吉本
欲も絡んで(笑)。
そしてそれは、二十万円足らずの値段が
付けてありました。
 
「おかしいな、これは」というふうに思って、
高村光太郎の専門家で、全集を作った友人の
北川太一さんに電話をかけて、
「こういうのがあったけど、これは本当かな」
と訊いてみました。そしたら彼は
「いや、そんなはずはない。
高村光太郎の木彫があったとしたら、
いまは数千万だよ」
って言ってね。
でも彼は「そんなはずがない」と言いながら、
「ちょっと俺が行くまで待っててくれ」って
言うんです。

糸井
ははははは。

吉本
彼はさらに
「吉本さん、高村光太郎の木彫なら、
こんな小さな蝉を彫ったやつでも、
それが誰の手にあって
どこに売り飛ばしたか
わかるようになってるんだよ」
とか言ってましたけどね。
そしてふたりで
「もしも本物だったら、数千万というのを
山分けしようじゃないか」
と、店に入っていって、
その主人に
「この彫刻、買うか買わないかは
あとで考えるとして、
箱ごと1日貸してくれませんか」
と頼んでみたんです。
断ると思ったら、そこの主人は
「いいですよ、いいですよ。どうぞ、どうぞ」
って。

糸井
預かっちゃったんですか?

吉本
貸してくれたんです。それでぼくらは、
「おい、もしかすると大儲けするぞ」
と言いながら、
高村光太郎の弟さんに
そのペンギンを持って行きました。
その人は鋳金家で、高村豊周という著名な人です。
そしたら、とても専門的に、
「兄は、この首のところを彫るときには、
ノミの使い方はこういうふうには
使わないんですよ。
だからこれは偽物ですよ」
って、すぐに言いました。

糸井
すごいですね。

吉本
ええ、すごいですね。
専門なんだなぁと思いました。
それで「ちょっと待っててください」と言って、
高村光太郎の書の、詩集を持ってきてね、
「海という字はここから取ったんです」
「潮という字はここから取ったんです」
と、いちいち箱書きの字の出所を示すんです。

糸井
貼り付けだったんですね。

吉本
いまの印刷術だと、こうすればうまく
できるわけですよ、と説明してくれて。
とたんにふたりともガックリしました。

糸井
やっぱり欲はかくもんじゃない(笑)。

吉本
でも、弟さんは、そういうことで
ぼくらにいろいろ説明してくれました。
木彫とか、金彫とかいろいろありますけど、
そういう作品を突き詰めていくと、
結局何も彫らないのがいちばんいい、
ということになる、とおっしゃるんです。

糸井
ああ。また「沈黙」ですね。

吉本
ええ。ぼくらは「はぁ」とびっくりして、
金属彫刻の大家というのは、
やっぱりすごいんだなと感じました。

それで‥‥骨董屋さんに、返しに行きまして。

糸井
え? あ、そうだった、返しに(笑)。

吉本
そうそう。そこの主人に
「どうもありがとうございました」と言ったら、
「いやいや、いやいや」と言いながら、
文句も言わずに、金も取ろうなんてせずに、
受け取ってくれました。
「これは偽物です」というのは、
一度も言わないですよ。
そんなこと、相手はひと言も言わないんだけど、
ただ黙って品物を一晩貸して、それが帰ってきた、
という、それだけのことでしかないんです。

糸井
登場人物の中で
いちばん大人っぽいのは、その親父ですね。






 (備 考)

説明の言葉は要らないと思う。そういう場面になったら普通の生活者が感じ考えそうなことが、吉本さんにも当てはまっていて、ああやっぱりねと思う。しかし、ぼくはこの市民社会の倫理は一応は守っていますがね、というようなことをどこかで吉本さんが語っていた。そのことは現在の市民社会の倫理を超えようとする自覚的な自分の倫理の場所を示唆していると思われる。それに対して、普通の生活者たちは、無意識の内に市民社会の倫理を超えている、あるいは、超えようとしていると言えるかもしれない。


糸井重里が、ここで「ぼくは、『ただ』の力を、もっと信じてます。」ということの実践は、例えば「吉本隆明の183講演」という無償の公開プロジェクトに現れているだろう。わたし含めて多くの人々がこの恩恵をこうむっていると思う。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
669 吉本さんのこと 29 ― 人柄② 「山崎和枝さんのこと」 論文 『吉本隆明全集10巻』所収 晶文社 2015.12.25

 ※解題によると、「山崎和枝さんのこと」は、山崎和枝の詩集『地べたに霜柱のたつ理由』(1969年12月10日)刊行に寄せられた文章(栞に掲載された文章)のひとつ。

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すこし遠くの招待席からその光景を眺めている
項目
1



 山崎和枝さんに最初にお目にかかったのは、知人の結婚式の席上であった。わたしは新夫である知人の傍らに、新婦として並んでいる山崎さんを、離れた招待席から眺めていた。わたしは結婚式というのをしたことはないし、他者から祝福された覚えもないので、その光景はある意味ではうらやましい限りとおもえた。しかし、じぶんが結婚式をしてみたいという発想はもともとなかったし、そのときもおれだって他者や親族に祝福されて結婚式をやってみたかったなあとはおもわなかった。やはり、すこし遠くの招待席からその光景を眺めているのが、じぶんにふさわしいとおもっていたのである。




 わたしは、文芸についても、社会についても、政治についても、もし意志すればどんな批判や論難にたいしても反撃できるという自負をもっている。だが、男女のあいだの問題については、どんな批判や論難にたいしても、黙って頭を垂れているよりほかのことはできそうもない。だから、他者の演ずる男女間の行為について、批判がましいことを云うという発想は皆無であり、またその資格をもってもいない。ようするに、こと男女のことに関するかぎり、人間は心的にも生理的にもどんな愚行でも演じうるものだとおもっている。また、わたしの演じてきたことのうちでもっとも愚行であり、もっとも迷惑を他者におよぼし、もっとも人間的に駄目な場面をさらけだしたのは男女の問題であった。
 わたしは、恋愛はチャンスではなく意志であるという太宰治の小説のなかの言葉がすきである。それとともに、もし好きな女性が望むならやはり無一物になるまで与えるべきだという古風なかんがえを抱えている。
 (「山崎和枝さんのこと」、『吉本隆明全集10巻』所収 晶文社)
 ※①と②は、ひとつながりの文章です。






 (備 考)

全集の解題によると、この文章は『吉本隆明資料集48』(猫々堂)に収録されているという。わたしはその頃は『吉本隆明資料集』を購読する前だったから、これは今回初めて読む文章だと思う。詩人である山崎和枝という方についても、この文章で初めて出会った。


「やはり、すこし遠くの招待席からその光景を眺めているのが、じぶんにふさわしいとおもっていたのである。」、この吉本さんの言葉は、読者にはよく知られている吉本さん自身の結婚の経緯から来るのかもしれない。それは上の語られている文章からも今なおうずく深い傷をわたしたちに想像させる。しかし、それはまた、自分をちょっと引いた吉本さんの(地域)社会での立ち位置でもあるように感じられる。つまり、吉本さんの生存の深い所から出てくる本質的な振る舞いのように思われる。

他に、吉本さんの男女間のことに対する考えが語られている。






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
670 吉本さんのこと 30 ― 言葉がわかるということ 書評・モーリス・メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』 論文 1989.12 『言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇』 中央公論社 1996.5.3

『言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇』 吉本隆明 中公文庫。
 ※ 初出『マリ・クレール』1989年12月号

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ずいぶん遠くまで歩んだものだ 「奥行」のつかまえ方 わたしたちは見える物と見えない裏面とを統合しているとき、はじめて世界や〈存在〉を体験していることになる。
項目
1



 この本はメルロ=ポンティの最後の著作のひとつになるはずの草稿をまとめたものだ。『知覚の現象学』からはじまったかれの知覚論が、とうとうここまでやってきた。ずいぶん遠くまで歩んだものだ、というのが、この本を読んで、まっさきに浮んだ感慨だった。もっと初期のころからいえば、「知覚の本性」という論文までさかのぼってもいい。
 その歩みの奥行をひとおもいにつかむには『知覚の現象学』の「奥行」のつかまえ方と、この本の「奥行」のつかまえ方とを比べてみるのがいいとおもう。ここにテーブルがある。あそこにピアノや壁がある。眼のまえを車が走りさってゆく。このテーブル、ピアノや壁、車が遠ざかり、それらの空間的な位置づけや位置の移動を、どうやって奥行としてつかまえればいいのか。『知覚の現象学』では、「私」がこれらのもの(テーブル、ピアノ、壁、車の移動)をみるために両眼を集中する度合いや、これらのものの見かけ上の大きさとか、その変化のなかに、すでに奥行をつくりあげる見方が含まれていることになる。そしてこれらのものの変化がつながって、奥行へと組織化されるとかんがえる。ここでは原因があるから結果がついてくるという解釈の二元的な印象をさけようとするモチーフが前面にあるから、わずかに現象学にとどまっている。この本では、そうでない。「奥行」は見えるものの背中であり、裏面であり、かくされたものであり、それ自体が意味なのだとはっきり指定されていて、あいまいさはどこにもない。眼のまえをいま走っている車は、別の瞬間にはやや斜めの位置に、すこし小さい見かけで移動している。また別のある瞬間には、もっと遠ざかった位置に、さらに小さな車体の見かけで移動している。「私」はこの車の走行する軌跡を組織化して「奥行」の概念を手にする。この「奥行」は見えないものであるが、車の走行という意味に核を与え、その核が「奥行」ということになる。
 こういってみるとおなじメルロ=ポンティをうけとっているようにみえる。だがほんとうは、自在になった現象学をおなじメルロ=ポンティとしてうけとっているのだ。何が自在になった要素かを、すこし確かめてみよう。
 いちばん最初に言わなくてはならないことは、すでにこの本では(とうとうこの本ではといってもおなじだ)メルロ=ポンティにとって、哲学は知覚のことであり、(既に)見えるものときりはなすことができないことが、徹底的にはっきりさせられている。これは著者の言い方では「コンコルド橋」のことを考えることは、意識の秩序化である考えのなかに「コンコルド橋」をたずさえていることではなくて、「コンコルド橋」のところにいることを意味している。これは徹底的な考え方で、考えることが見ることときりはなすことができないという宣明であるばかりではない。考えることは物ときりはなせず、物の方へゆき、物と混じりあうひとつの仕方のことだという宣明を意味している。もっといえば、考えることは世界ときりはなせないし、自然ときりはなすことができない。いいかえればメルロ=ポンティの哲学にとってこの世界は「私」と「見られるもの」との液状の混合物のことを意味している。
 ここでメルロ=ポンティが、くどいほどくりかえし注意していることがある。「私」が「コンコルド橋」をかんがえることで体験したとおなじように、「このコップ、このテーブル」を見られるのは、「私」がそれらのもののうちにあるということで、「私」の表象や思考のうちに、それらのものがやってくるからではないということだ。「私」が物を見ているとき、その物は物の存在であって「私」の世界ではないし、「私」が感じているその物との距離の遠近でさえ、物の存在の一部で「私」自身の一部ではない。そこでもうひとつ注意すべきことが起こる。その「物」について他人の眼差しが加えられているとき、それは見る「私」にとってどんなことを意味しているかということだ。メルロ=ポンティによれば、この場合の他人の眼差しは「物」にたいして「私」とおなじつかみ方をもっていると解すべきではなく「私」にとっては他人は盲目のうちに手でその「物」に触れているのとおなじ意味しかもっていない。いいかえれば「私」が私の身体の外観を見ながらやれる理解とおなじ程度のことをしている人物と等価だとかんがえればいいことになる。このふたつの注意すべき事柄は、メルロ=ポンティがこの本で到達した哲学にとって、とても大切な柱になっているとおもえる。
 そしてわたしの好みからもうひとつ柱をつけ加えるとすれば、この本でメルロ=ポンティが高いところからの視覚、上方からの視覚に特別の位置を与えていることだ。高いところ、遠い上方はメルロ=ポンティによれば、いつも独我論的であり、ここでは他人の眼差しを考慮にいれることはない。まして他人の眼差しが「私」にとって盲目の触診みたいな位置にあるとかんがえることもいらない。他人の眼差しは充分に近くでそれを見ているときに、はじめて眼差しとしての意味をもつものだからだ。高いところから、遠い上方から(たとえば星のように)見ることによって、見えるものはそれ自身と同一な「純粋事物」として存在しているとメルロ=ポンティはこの本でいっている。何かそこだけは世界や物はメルロ=ポンティにとって純粋物理的な空間のようにおもえて、かれの哲学にとって奇異な感じをいだかせる。でもこの高いところから、遠い上方からの視覚は、いってみれば哲学にとって上方、下方の概念をうしなう未知の領域に属している。そこからこの奇異さはやってくるようにみえる。
 メルロ=ポンティがこの本で到達したところでは、世界は原理的にも、本質的にも視覚的なものであり、サルトルのように無から熟慮のなかにやってくる純粋本質でもなければ、物に溶けこむことによって得られる存在地平でもない。見るもの(「私」)があり、触知する他人の眼差しがあり、物がそれらの結節点としてあるような厚みが世界なのだといわれている。物は見られるものとしてあるが、物は可能性や潜在性としての肉体をもっている。わたしたちは物を見ることによって物の方へ出かけてゆく。だがそのときでもわたしたちのなかには、外から見ると内部の闇のなかにとどまっているものがあり、ここでは交叉が起っている。この交叉は、物を見るものと、見られる物とのあいだに「存在」の地平と「存在」からこぼれおちた「物」たちの境界としての渚をつくっている。メルロ=ポンティによれば、どうしてもこのときに見えないものとしての裏面や、背中や、胎内がなくてはならず、それはこの世界や物の〈意味〉をつくっていることになる。
 わたしたちは見える物と見えない裏面とを統合しているとき、はじめて世界や〈存在〉を体験していることになる。

 メルロ=ポンティがこの本で到達している理念は、強いてとりだせばふたつあるとおもう。それはかれの哲学のとても重要なところで、わたしたち読むものの琴線にふれてくる。メルロ=ポンティも苦労したように、わたしたちもおなじ年月、理念の労苦をつんできたことを想い出させてくれるからだ。

 (1) 「私」が「それ」と手を切っても「それ」の外で「そ・れ」であることもできるし、「それ」に再融合しても「それ」でないこともできる。裏面、奥行、背中、そして見えないものとしての世界や物の〈意味〉は、この両義性の方へ行くことによって、真理の彼岸にある〈真理〉に到達することができる。

 もうひとつメルロ=ポンティは重要な理念をメモのなかで書き記している。

 (2) 〈自然〉は人間の裏面である(肉である)が、けっして〈物質〉ではないという位相から〈自然〉を記述しなくてはならないこと。また、〈ロゴス〉(言葉の普遍性のこと)は、人間のうちで実質化されるものにちがいないが、けっして人間の所有物ではないことをはっきりさせること。

 このふたつは、この本でメルロ=ポンティがやっている考察と、草稿やメモのなかから拾いだすことができる理念だとおもえる。
 (1)の指すところはとても明瞭で、また予言的ともいえるものだ。わたしたちが現在たたかっているものがあるとすれば、真理をふたつに分割して所有しようとするもの、それに身をすり寄せているものにたいしてだからだ。
 (2)においてメルロ=ポンティが指しているものは何だろうか。〈自然〉が物質であり、物質が必然であるという記述が、記述された世界から物質を物神化してしまうことにつながってゆく過程を、わたしたちはあまりにたくさん見てきた。〈自然〉は物質でもなければ、物質についての観念でもない。そのまま即自的に「肉」としての人間の存在の裏面、背中、奥行のなかにという地平で、はっきりと確定的に〈自然〉がつかまえられることが大切なのだ。わたしたちは、ひどく幼稚な自然主義に当面している。人間はこの自然主義のなかでは、ただの人形のように、見ることをしないし、見えないものの存在の領域を奪われることで、造ることも息をつくこともできない場面にたたされている。わたしたちはこの本のメルロ=ポンティから、とても正確な磁針が『知覚の現象学』をここまで歩ませてきた有さまを感じとっている。
 (『言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇』 吉本隆明 中公文庫)
 ※ 書評・モーリス・メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』
 ※ 書評の全文。本文中の傍点は省略。
      初出『マリ・クレール』1989年12月号






 (備 考)

このテーマに関しては、吉本さんのどの文章でもいいのだが、最近読んだものでよくわからなかったのでこれを持ってきた。吉本さんの言葉や文章でときどきよくわからない部分に出会うことがある。『ハイ・イメージ論』などもそうだ。ここで述べられていることはぼんやりとはわかるが、クリアーにわかるというわけではない。

ここで吉本さんの批評の言葉は、メルロ=ポンティの時間の推移の中での言葉の歩みとその有り様をつかみ取ろうとしている。『言語にとって美とはなにか』や『心的現象論序説』や『心的現象論』に限らず、ここまで歩んできた吉本さんの全ての言葉や論理の時間性・歴史の頂きから、ある幻想的な地平においてメルロ=ポンティの言葉の振る舞いに視線や触手を向けている。吉本さんと同じような地平に立って同じような光景を見渡すには、わたしたちはそれなりの準備と鍛錬が必要だなという思いを新たにするような光景が広がっていると思う。もちろん、このことは日常世界や知的世界での他者理解においても同様である。

たとえば、『言語にとって美とはなにか』は、その基本概念である〈自己表出〉と〈指示表出〉をつかみ取ることができればずいぶん見渡す光景がクリアーになりそうな気がする。〈自己表出〉と〈指示表出〉や〈原生的疎外〉と〈純粋疎外〉などには、ここを押さえればなんとか対象とする世界がつかめるのではないかという吉本さんの実験化学(科学)者としての本領も発揮されていると思えるからである。

ここで述べられていることは、類推的にいえば、主体-対象(物や人など)の関係の中で、人間主体が対象の放つイメージから対象の有り様を把握するという旧来的な理解から、そうではなくて、人と対象は物理学でいう不確定性原理(註.旧来的な意味で)のような重力下の影響下(関係)にあり、そのような直線的な把握はで捉えきることはできないと言われているように思われる。


もうひとつ、吉本さんの言葉でわたしがよくわからないものを上げておく。最後の一文の後半がわかりにくい。

 わたしはマルクスのような偉大を目指すものでもないし、その器量をもつものでもない。でも自分のちっぽけなマルクス論の冒頭に、最小限これだけのことを註記しておきたかった。言うべきことは後から後からつきるところはないのだが、中世の偉大な日本の僧にあやかって、自己主体への慰安として「非行非善」とだけは述べて、思想の直接性を主張しておきたい。
 (「文庫版のための序文」 『カール・マルクス』吉本隆明 光文社文庫)
 ※この序文には、末尾に「二〇〇六年二月十五日」とある。







項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
671 吉本さんのこと 31 ― 昼間に星が見えるということ 永田和宏「あなたと出会って、それから・・・・・・ ― 河野裕子との青春」の第十二回 他 論文 「波」2020年12月号 新潮社

1.永田和宏「あなたと出会って、それから・・・・・・ ― 河野裕子との青春」の第十二回(「波」2020年12月号 新潮社)
2.柳田国男『故郷七十年』
3.吉本隆明「大人になるということ」(『プレジデント』1999年9月号)
4.『吉本隆明の183講演』A164「心について」(講演日時:1994年9月11日 収載書誌:筑摩書房「ちくま」1995年1月号、2月号)

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大学生だった永田和宏の体験 十四歳の柳田国男の体験 吉本さんの子どもの時の体験
項目
1


 (引用者註.著者の大学生時代、四月初旬に、仲間四人で八ヶ岳連峰に登山したときのこと)
 快晴であった。しかし、稜線に出て空を見上げると、空が暗いのである。しかも、その深い藍色の空に、なんと星がいくつも見えたのである。太陽が出ているのに空が暗い、そこに見える星たち。これには感動した。前日には雪が降った。空気中の埃を核に雪の結晶ができ、それがきれいに埃を洗い落としてくれたのであろう。太陽の光が埃に乱反射しないから、空が暗く、星が見えるのだ。要は宇宙に居るようなもの。昼の空に星を見た、生涯でただ一度の経験である。
 (永田和宏「あなたと出会って、それから・・・・・・ ― 河野裕子との青春」の第十二回 P38-P39「波」2020年12月号 新潮社)




ある神秘な暗示

 布川にいた二カ年間の話は、馬鹿馬鹿しいということさえかまわなければいくらでもある。何かにちょっと書いたが、こんな出来事もあった。小川家のいちばん奥の方に少し綺麗な土蔵が建てられており、その前に二十坪ばかりの平地があって、二、三本の木があり、その下に小さな石の祠ほこらの新しいのがあった。聞いてみると、小川という家はそのころ三代目で、初代のお爺さんは茨城の水戸の方から移住して来た偉いお医者さんであった。その人のお母さんになる老媼を祀ったのがこの石の祠だという話で、つまりお祖母さんを屋敷の神様として祀ってあった。
 この祠の中がどうなっているのか、いたずらだった十四歳の私は、一度石の扉をあけてみたいと思っていた。たしか春の日だったと思う。人に見つかれば叱られるので、誰もいない時、恐る恐るそれをあけてみた。そしたら一握りくらいの大きさの、じつに綺麗な蝋石の珠が一つおさまっていた。その珠をことんとはめ込むように石が彫ってあった。後で聞いて判ったのだが、そのおばあさんが、どういうわけか、中風で寝てからその珠をしょっちゅう撫でまわしておったそうだ。それで後に、このおばあさんを記念するのには、この珠がいちばんいいといって、孫に当る人がその祠の中に収めたのだとか。そのころとしてはずいぶん新しい考え方であった。
 その美しい珠をそうっと覗いたとき、フーッと興奮してしまって、何ともいえない妙な気持になって、どうしてそうしたのか今でもわからないが、私はしゃがんだまま、よく晴れた青い空を見上げたのだった。するとお星様が見えるのだ。今も鮮やかに覚えているが、じつに澄み切った青い空で、そこにたしかに数十の星を見たのである。昼間見えないはずだがと思って、子供心にいろいろ考えてみた。そのころ少しばかり天文のことを知っていたので、今ごろ見えるとしたら自分らの知っている星じゃないんだから、別にさがしまわる必要はないという心持を取り戻した。
 今考えてみても、あれはたしかに、異常心理だったと思う。
だれもいない所で、御幣か鏡が入っているんだろうと思ってあけたところ、そんなきれいな珠があったので、非常に強く感動したものらしい。そんなぼんやりした気分になっているその時に、突然高い空で鵯ひよどりがピーッと鳴いて通った。そうしたらその拍子に身がギュッと引きしまって、初めて人心地がついたのだった。あの時に鵯が鳴かなかったら、私はあのまま気が変になっていたんじゃないかと思うのである。
 両親が郷里から布川へ来るまでは、子供の癖に一際違った境遇におかれていたが、あんな風で長くいてはいけなかったかも知れない。幸いにして私はその後実際生活の苦労をしたので救われた。
 それから両親、長兄夫婦と、家が複雑になったので面倒になり、私だけ先に東京に出た。明治二十四年かと思うが、二番目の兄が大学の助手兼開業医になっていたので、それを頼って上京した。そしてまた違った境遇を経たので、布川で経験した異常心理を忘れることができた。
 年をとってから振り返ってみると、郷里の親に手紙を書いていなければならなかったような二カ年間が危かったような気がする。
 (『故郷七十年』柳田国男 青空文庫)




 「今でもよく覚えていますけど、明るく晴れた昼間だったのに星が見えたんです。こんなことってあるかなぁとも思うんだけど、たしかに周囲の空が暗く見えたんですよ。もしかすると、あの場所にいかないとダメだったのかもしれないですね。つまりマジックの世界ということです。僕には、あれが詩作の母体というか震源地だったと思います。自分が感じたマジカルな場所や感覚のことは、会話じゃどうしてもわかってもらえない。これはもっと緻密な表現方法じゃなきゃ相手に通じないのではないか。なぜ、ものを書くようにな
ったかといえば、僕はどうも、そこから始まったんじゃないかって気がしてるんです」
 吉本隆明は、子供が持つマジカルな時期のことを小説に書いている唯一の作家は中上健次だと言った。
「うん、あいつだけだなぁ」
 (「大人になるということ」『プレジデント』1999年9月号、吉本隆明資料集151所収)
※インタビュー 文 深町泰司




 8 心の病とはどういうことか

 それからもちろん、人間の意識と無意識、夢と現実というものの中間にある人間の精神の状態を主体に考えれば、これは一種の白日夢の夢――起きながら夢を見ているみたいに意識がぼんやりしている状態なんだという言い方ももちろんできるわけです。
 これはいろんなあれがあります。柳田国男という民俗学者がいますけれど、子どものときボンヤリしちゃって、隣の家の庭にある祠を開けてみたら石があった。そして空を見上げたら真っ昼間だけど星が見えた。自分でもこんな意識の状態でいると自分は頭がおかしくなっちゃうに違いないと思ってそれを逃れるわけです。そういう体験を柳田国男は書いています。
 こういう体験というのは誰にでも大なり小なりあるんじゃないかという気がします。ぼくも子どものとき昼間の星というのを見たことがあるように思っています。子どもの時はしばしば、ぼんやりしたそういう状態になることがありうると思うわけです。その場合には夢と現実とのちょうど中間のところにいるわけです。それからまた逆に夜寝てから見る夢で、非常にリアルで現実的な夢を見ることがあるわけですけれど、それはやっぱり白日夢の状態が夢のなかで再現されてくるというのがいちばん典型的な夢になってきます。
 そうするとヒステリー症における多重人格というのは、言ってみればさまざまな人格に自分が転換しちゃうと考えると、病気には違いないんですけれど、人間というのは意識と無意識のあいだで、あるいは昼間の現実感覚と夜眠ってからあとの夢の感覚とのあいだで、両方がまじりあったさまざまな状態を人間はとりうるんだよという理解の仕方をすればちっとも病気じゃないよということになると思います。
 つまり人間の心の働きと感覚の働きの範囲というのはかなり広い範囲に渡っているので、人間はもしそういう状態になる契機があれば、どのような精神の状態――現実感覚と夢の感覚のあいだのどんな感覚もとりうるし、醒めているときの感覚と眠っているときの感覚のあいだのどんな感覚もとれると理解することもできるわけです。
 そういうふうに人間の意識あるいは心の世界というものの大きさを最大限大きく見積もって考えれば、ヒステリー症というものもちっとも病気だとか異常だとかいうことにならなくて、ごく当たり前のことだということになりますし、さまざまな人格に転換しちゃうということがありうるということも別段病気じゃないと言えば言えてしまうところがあります。
 そうすると、そうなってくると非常に難しくなってきて、人間が精神の病、心の病と言っているのは何を指して言っているのかということになるわけです。そうすると少なくとも現在のところで言えば、これこれの理由だからこれは病なんだということは、現在のところはできないわけです。さまざまな人間の心のとりうる世界のひとつの状態なんだと言うより仕方がないと思います。いちばん広く人間の精神の働きをとると、そうとれてしまいます。そういうようにとりますと、人間の種と言いますか類と言いますか、そういうものとしては、大昔から現在までちっとも変わっていなくて、変わっていない意識の世界、心の世界をある場面のある場所を時代時代でもってとっている、その違いだけが時代の違いだということになってしまうと思います。
 もっと変なことを言えば、科学というのは、バーチャルリアリズムと言って、科学的な装置を身につけると、自分がまったく違う世界のなかに入れて、そのなかで自分が触ったり見たりしているのと同じ感覚を体験できる装置というのができるようになっています。そういうことは、最新の科学的な装置だという言い方もできますけれど、逆な言い方をすると、大昔から人間が体験していることの体験のある部分を科学的装置でもってつくることができるようになったという言い方もできるんです。そうすると、人間の科学ができることというのは、人間の可能性の範囲を出、可能性以上のことをできるわけではないということになります。もともと出来ることを、ある装置を使ってできるというのが科学技術なんだという言い方ももちろんできるわけです。
 つまりそういう人間の意識の世界というのは一点に凝縮してしまって、この状態で精神を集中しますとそのときは大昔から植物神経で動いている内臓器官が不規則な動き方になってしまう。そこで精神だけは集中できるということになっていいく(ママ)わけですけれども、それは意識の世界の取り方だということになります。
 最大限広くとるのと、最小限、一点に集中してそれが人間の意識だととるのと、取り方によって違ってきちゃうわけです。一点にとるという取り方を非常に鋭くやると、植物神経で動いている内臓器官の働きと矛盾してきまして、ある意味でそれを制限しないと意識の集中ができないということが起こりうるわけです。そういうふうに考えると、人間の意識の世界は極少から極大まで、世界としては広くも一点にもとりうるということになっていくと思います。
 そういうふうになっていきますと、人間の世界というのも、これは異常だとか病気だとか言っているのは何なのかと言ったら、要するに病気だと思っているか病気なんだという言い方も出来ちゃうことになります。病気なんてもともとない、人間の精神、意識の働き方の世界の可能性のなかのあるところに偏った意識の偏り方の場所を占めているのが病気だと言ってみたり、異常だと言ってみたに過ぎないんだよということになっちゃうと思います。それだけのことになっちゃうことのように思います。精神の働きの世界に新しいことは何もないですよと言っちゃうと言えちゃうところがあります。だから一点に集中するか、非常に大きな世界としてそれを設定するかということによって、病気であるかないかという言い方も決まって来ちゃうから、なかなか決められないなということになります。
 ただ、要するに病気だと言われている状態というのは、現在の日常生活にとっては非常に不自由な状態に違いないということになります。現在ではなく大昔の日常生活にはちっとも不自由ではなかったかもしれないのです。けれども現在の生活にとって不自由な精神の働きをすると、やはりしばしばお医者さんみたいな人あるいは傍の人から見るとあれは異常だとかあれは病気……
【テープ反転】
……そういう気持ちの働き方で、そういう行動をすると、不自由で、日常生活が不自由になっちゃうだろうなということだと思います。そうすると、不自由でないところまでもっていけば、それで治った治ったということになっちゃうと思います。そういう問題だと理解できるわけです。
 (A164「心について」、「講演のテキスト」より『吉本隆明の183講演』ほぼ日刊イトイ新聞 フリーアーカイブ)
 ※講演日時:1994年9月11日 収載書誌:筑摩書房「ちくま」1995年1月号、2月号






 (備 考)

 永田和宏「あなたと出会って、それから・・・・・・ ― 河野裕子との青春」の第十二回を読んでいたら、あれっと思うことが書いてあった。昼間に星が見えたという話である。これですぐに思い出したのは、柳田国男の昼間に星が見えたという話である。そして、吉本さんにもそんなことがあったようなとおもって検索してみたら、②、③、④に出会った。

これらによると、「昼間に星が見える」という問題は、人間の心的な面からと自然科学的な現象という二つの面から捉えられるように思われる。


①について、仲間四人と登山したとある。同じ場に居合わせた他の三人も昼間に星が見えたかどうかは書いてないが、当然見えたのだと思われる。これは柳田国男の「異常心理」によるものという判断や吉本さんの「人間の心の働きと感覚の働きの範囲というのはかなり広い範囲に渡っているので、人間はもしそういう状態になる契機があれば、どのような精神の状態――現実感覚と夢の感覚のあいだのどんな感覚もとりうるし、醒めているときの感覚と眠っているときの感覚のあいだのどんな感覚もとれると理解することもできる」という判断とは違って、純粋に自然現象として理解されており、その理由も述べられている。興味深いことだったので、この項目を立てることにした。


③について、「子供が持つマジカルな時期のことを小説に書いている」中上健次の作品は、「吉本隆明の183講演」に収められている「A155 中上健次私論」(講演日時:1993年6月5日)で触れられている、『一番はじめの出来事』という作品を指しているだろう。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
692 吉本さんのこと 32 ― 「良寛書字」から」 「良寛書字―無意識のアンフォルメル」 論文 『良寛』 春秋社 1992.2.1

※初出は、「季刊墨スペシャル」第6号 1991.1

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細身でひっそりしとしなやかに生命を刻印しているような良寛の字態のたたずまい アンフォルメルな抽象画
項目
1



 良寛の書では草書がいちばん好きだ。草書のなかでも細身の字が流れるようにつながっていたり、点となって切れていたりする仮名と漢字の書簡体のものがとくに好きだ。わたしなどの書字の教養では、もうこう草化された良寛の書簡体は解説がないと読むことができない。まして読んで意味をたどることなどとうていできそうもない。するとわたしは何をもとに好きだなどといっているのだろうか。匂いのようにひろがる良寛の無意識の情緒だろうか。それとも雲形定規にしかあてはまらない曲線と、ところどころの点にこめられた形象が、造形的な布置の美しさをしめしているからだろうか。素直な実感からいってみると、まず第一に自然のなかに融けこんで消えてしまいたいとほんとはおもっているのに、わずかに痕跡だけ細身でひっそりしとしなやかに生命を刻印しているような良寛の字態のたたずまいがいいのだとおもう。そしてこの細身は、まるで骨と皮だけに削りおとされているようにおもえるのに、点と不定形の曲線とで渋滞のない流れの速度と、無駄のない配置の均整をつくっている。この良寛の生命のひそやかな存在感、病弱そうな存在の印象は書字のなかで無声の楽音を発しているようにおもえてくる。自然のなかに曲線と点になってしか姿をあらわしていない姿が、良寛の草化された書なのではないか。
 こういう言い方はおかしいので、専門家はほんとは技術の問題だけだといいきってしまうような気がする。でもわたしなどにはこの細身の書簡体の草書が何となく良寛ののこされた肖像とむすびついてしまう。すぐれた禅僧の書が概していえば、どぎつく俗臭がみなぎっているのに、良寛の草書は逆だ。これは境地という概念がちがうからだ。じぶんを自然と同化させる呼吸の修練は、そこからはみだして片寄せられた動物精気を、書として表出させてしまう。良寛の曹洞禅の修練は自然のなかにすべてじぶんを融して消えてしまうことではなかったのか。そして消えようにも消えのこったわずかな痕跡が、草化された書字にあらわれた、そうみられなくはない。
 (「良寛書字―無意識のアンフォルメル」、P211-P212『良寛』春秋社 1992年2月)




 良寛にとって書字はいつも布置の均整と無定形の曲線や点による造形美を意識されたものだ。そしてその典型的なものは草書だといっていい。良寛にとって草化はふたつの意識でなされている。ひとつは文字の象形性を解体することだ。たとえば「良」という漢字はこういう形の字でその意味はこうだという象形文字としての規範は解体してしまい、単独ではもとの字が何であったかわからないほど点と無定形の曲線に配置がえされている。もうひとついえることはそのことで省略と布置の美をつくりだしていることだ。象形文字としての漢字のきまりからすれば、ひとつの意味の流れを伝えるための書簡だったり、律詩だったりする。だが点と無定形な曲線の布置と均衡としてみれば、すでに何を意味するかという文字の約定とは何のかかわりもないアンフォルメルな抽象画としてみることができる。良寛の草書は、アンフォルメルな抽象画として無駄やぜい肉がすこしもないきびしい造形線の美しさを発揮している。自然のなかにかすかな細身の生命の階調をつたえる線と点が痕跡を露出しているようにみえる。


 書簡体はもちろん律詩であっても言葉の表現は意味を伝達するという機能と有効さを逃れることはできない。律詩のかわりに超現実主義の詩を書いたばあいでもおなじだ。意味の多様な可能性のうえで成り立っている。だがおなじ言葉の表現でありながら書の性格はちがう。楷書はたしかにまだ意味が伝達されてしまう言葉の機能のうえに成り立っているだろうが、草化がすすむにつれて意味論の世界は潜在化され、無意識の母胎に回帰してゆく。そして生命に意味がある度合で意味をもち、生命の目的が意味を目的としない度合で意味論の世界から離脱してしまう。良寛の生命が目的らしいのをもっていたのは師国仙が生きているあいだだけだった。玄透即中の円通寺着任と入れかわるように寺を離れ、故郷を目指したとき良寛の生命は、目的という意味論の世界を離脱してしまった。詩作は生命そのものになり、詩作と生活の必要を書字として造形することは生命の目的を離脱する作業とひとしくなっていった。


 二字「修身」で良寛がやっている「身」は、もっと若々しく「身」を起こしているように感じられるので不思議な感じがする。(図版C 註.省略)
 こういう草化のときわたしには良寛が文字を概念から像(イメージ)のほうへと転換していると感じられる。草化ということは、はじめは文字の形象にできるだけそいながら省略し流線化して速度を早めようとするモチーフに根ざしている。だが書字が造形的な欲求をますにつれ擬像化されていって、ひとりでに良寛のなかで形象を喚起するものにかわっていったとおもえる。そうとまでいえないばあいでも省略と草化があるばあい良寛の描いていた像(イメージ)と偶然の一致をしめして、良寛を喜ばせたような気がする。


 良寛は細身の生命の痕跡を、均衡のとれた、そしてかなり几帳面でゆったりとした人柄で包んでいたとおもえる。そしてこのイメージは良寛の逸話のたぐいとは、すこしちがっている。鋭い会話感覚と自他にたいする配慮の配分をこころえている人間像は、良寛の書のなかでは楷書のなかにいちばんよくあらわれているようにおもえる。心がひろびろとゆったりしていながら弾力性と可塑性をもっている姿は、たとえようもなくわたしたちを惹きつける。草書の良寛はスピード狂の良寛だが楷書の良寛はゆったりと坐っている良寛だ。
 (「同上」P214-P220)






 (備 考)

吉本さんの『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』、『心的現象論』、『ハイ・イメージ論』などの大きな仕事を見れば十分にそのことはわかるが、この項目は、吉本さんはここまでやるんだということを再確認するために取り上げた。もちろん、そんなに書に通じていない吉本さんにも、①の文章を読むと、自らの人間の表現論の解析という大きな仕事の成果の他に、例えば書家、石川九楊の書についての論考を読んでの助けもあったように見える。ただし、この「良寛書字―無意識のアンフォルメル」は、1991年1月掲載、石川九楊の本格的な書の表現論『筆蝕の構造 書くことの現象学』の刊行は1992年である。ちなみに、吉本さんは石川九楊書『歎異鈔―その二十の形象喩』を論じた文章(『吉本隆明全集25』所収、晶文社)や石川九楊『「二重言語国家・日本」の歴史』への帯文などがある。


ひとりの重要と思える作者とその表現をその総体性で捉えるためには、吉本さんは果敢に突き進んでいく。少しは苦手だなとか面倒だなという思いもあったかもしれないが、例えば良寛にとっての書、高村光太郎にとっての彫刻というように、それらが表現者たちにとって無視しえないものと判断されたから、それらの領域に入り込んでいったのだろう。高村光太郎の彫刻に関する批評には、「彫刻のわからなさ」(『吉本隆明全集10』所収)がある。


昔、『書 文字 アジア 』(吉本隆明・石川九楊対談 2012年3月刊)を読んだ時、素人性に依拠しつつもいくつもの研鑚を経てきた吉本さんの書の読みの深さに驚いたことがある。書のすぐれた専門家である石川九楊に匹敵するものだと思った。以下の石川九楊の言葉にもその「衝撃的な体験」が語られている。

同様に、『言語にとって美とはなにか』も『心的現象論(序説)』も心ある専門家には深い衝撃を与えているはずである。最近、偶然『良寛』(吉本隆明 春秋社 1992年)を手に取り少し読んだ。その中の「良寛書字」(1991.1)にはびっくりした。人間の本質論からの研鑚の成果の故の分析力だなと思われた。



1.石川九楊の「書評」が「webちくま」で読める。以下はその前半部分の引用である。
書と文学の関係をめぐって
吉本隆明・石川九楊著『書 文字 アジア 』
webちくま http://www.webchikuma.jp/articles/-/902

 吉本さんとの対談集『書文字アジア』が出たが、吉本さんと「書」という組み合わせを意外に思う人も多いことだろう。
 実は私もそうだった。一九八五年、吉本さんの『隠遁の構造――良寛論』(修羅出版部)を手に入れるまでは。しかしここで良寛の書に即して具体的な評論が相当の頁にわたって展開されているのを読んで、私の予断の不覚を知った。
 吉本さんが書に興味や趣味をもっていたからその論が書かれたのではない。「歌とか長歌とか、そういうもののほうが余技というくらいで」「良寛の書がいちばん良寛を表現している」と対談の中で語ったように、良寛の文学を追いつめて行ったときに、必然的に書に遭遇し、接近していかざるをえなかったのである。これは、ほとんど書について発言しなかった小林秀雄とまったく異った批評の方法を証している。
 吉本さんが書について語りはじめた、つまり吉本さんの文学評の視野の中に書が入ってきた――それは私にとって衝撃的な体験であった。茶道や華道と同列か、美術の一亜種程度に考えられてきた枠組を超えて、ようやく「言葉を書く」美学へと「書」の正体を見定めてきた私は、このとき、いずれ吉本さんと書をめぐって交叉する時が来るだろうと予感した。



2.良寛についての「講演のテキスト」より
( A116 「良寛について」 講演日時:1988年11月19日 『吉本隆明183講演』フリーアーカイブ ほぼ日刊イトイ新聞)


9 良寛の書とは何なのか


 ところが、そこにかすかに自分が自然の中に、自然からはみ出してというか、大部分の体が自然の中に全部同化してしまっているのだけど、ちょっと頭の先か手の先かわかりませんけれども、かすかに痕跡だけは自分が自然の中からはみ出しているものがあって、それが自分の存在なのだというようなことを良寛が示したいと考えたとしたならば、良寛のような細筆の、流れるようなこういう書になるのではないかと理解していくと、とても理解しやすいのだと僕には思われます。つまり良寛の書というものは、よく音楽的だとか、滞ることなく流れるような書であってというふうに、よく見るととても音楽的なのだと、リズムがあるのだというような言われ方をよくしますし、書家の人たちの書いたものを読むとそういう言い方をしています。
 しかし、僕は一個の批評家ですから、そういう言われ方というのは、いつでも結果論にすぎないのです。結果の、書は書かれてここにあるから、それについてあるものを眺めて、そういうふうに結果的に思えるということで、これは結果論にすぎないのです。ですからそれは本当の批評にはならないのです。
本当の批評というものは結果論ではなくて、結果論の印象ではなくて、そこには原因論を含めるし、また、もしできるならばそこに存在論も含む。その人自身の性格も含むとか、資質も含む。その人自身の技術も含むというような形で、この書というものを言い得なかったら、それは批評にはならないわけです。
 ですから批評的に言って、一番いい言い方というものは、?ハイセイ(ママ 「背景」ほどの意味か)の紙とか布とかを全部自然だと考えて、良寛は本当は自分の全存在を自然と同化してしまいたいという生き方をしたいわけだし、自然の中に、殴るようにそこに存在感を打ちつけるというような考えが少しでも?もたない。もしできるならば自然と全部同化してしまいたいというように考えているのですけれども、それが少しだけ、かすかに自分が自然と違和感を持つ部分があって、そこだけが自分の存在なのだといって、それが細い線になって、しかも流れるようなリズムがある線になって、それを表現しているというように理解すると、とても理解しやすいのだと思われます。
 (A116 良寛について 「講演のテキスト」より 講演日時:1988年11月19日)
 『吉本隆明183講演』フリーアーカイブ ほぼ日刊イトイ新聞







項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
695 吉本さんのこと 33 ― 育ちが悪い 第五日・思春期・成人期以後 権力・重力から〈無効の生〉へ インタビュー 『ハイ・エディプス論』 言叢社 1990.10.25

関連項目 言葉の吉本隆明① 330 『言語美』、『心的現象論』をもって自己カウンセリング
関連項目 言葉の吉本隆明① 387 一種の破局感

本文P185の小見出し 近親憎悪と友情
本文P191の小見出し 「育ちが悪い」という感情
「本書は、一九八九年六月十五日から十月十八日までの期間に、五日間にわたって吉本邸でおこなったインタビューを
整理し、これにていねいな削除と若干の加筆を施していただき成ったものです。」(島亨「あとがき」より)
※インタビュアー 島亨(言叢社同人)

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育ちが悪いという意味はなにかといえば、帰するところは、母親との関係で、しかも自分が意識していない時代の関係が、それを決するんじゃないかなっていう考え方に落ち込んでいきますね。 底無しに、深い穴のなかに入っていっちゃって、どこにもここでおしまいという底にならないというイメージですね。 なにか頼りない、不安というのは僕なんかの基本的な精神の構えのなかにあるものです。
項目
1



 (府立化工時代の友人だった川端要壽の本『堕ちよ!さらば 吉本隆明と私』(1981年)の中で、吉本さんに対する反感が表出されていたとという。)

吉本 ああ、こういうふうに考えていたのかみたいなのは、とてもよくわかりました。僕らもあるんですね。自分のことどう思われているかって棚上げにしちゃっとて、他人のことにはそういう考え方をするんです。川端の本を読んでそこは、僕の反省材料になりました。
 そういうときにいつでも反省しちゃって、けっきょく、落ち込むばあいと落ち込まないばあいとあるんです。落ち込んでいったばあいには、やっぱりこういう発想のしかたをするのは、おれが育ちが悪いからだということになります。育ちが悪いという意味はなにかといえば、物質的な育ちというより、帰するところは、母親との関係で、しかも自分が意識していない時代の関係が、それを決するんじゃないかなっていう考え方に落ち込んでいきますね。そこまで行かないで、簡単に済ましてしまうときもあります。いやなことだなと思いながら、しかし落ち込んでいくとけっきょくそれじゃないのかなという感じになっていきます。




島亨 育ちが悪いというとき、母親のイメージというのはどんな感じなんでしょうか。

吉本 実感でいきますと、そんなところに集中していきますと、底無しに、深い穴のなかに入っていっちゃって、どこにもここでおしまいという底にならないというイメージですね。こういう反省のしかた、意識のしかたをしていくと、どこまでもいっちゃう、決して底をついたということにならない。それがいちばん実感的です。そんなこといいながら、どんどん母親の胎内に入っていって、あたりも暗くなるし、目も見えなくなる、それでもまだ底をついたという感じにはならない。無限に落ち込んでいくイメージです。この発想にひとたび捉えられるとどこまでもいっちゃう。

島亨 そういう感覚というのはわりあい早くから・・・。

吉本 早かったんじゃないでしょうか。自覚してないときからあったようです。意識し出したのはそんなに早くはないでしょうけど。兄弟が多かったですから、兄弟と対比することがありますと、なんとなくちがうという気がするんですね。他の兄弟と俺はちがうなという気がするんです。なにがちがうのかちっともわからない。上を見ても下を見ても、兄貴とか弟とか妹とか姉とか見ても、ちがう。なんで僕だけはちがうんだろうかっていうことはありました。それは絶えず、いろんな局面で思わされたことです。それはよくわからなかったんです。どこへこれをもっていったらいいのかもわからなかったですね。気持に余裕がでてきた頃、親父やおふくろに、なんで俺だけ気分がちがうんだろうなと聞いたことはありました。親父なんかなにもいわなかったです。おふくろもなにもいわなかった。他人にはいっていたらしいんです。弟の嫁さんなんかには、あの子は苦労したからね、小さい時、ってよくいっていたと聞きました。

島亨 最終的になにか自分を支える後だてみたいなものがないというか・・・・・・。

吉本 そうですね。不安ということだとおもうんです。なにか頼りない、不安というのは僕なんかの基本的な精神の構えのなかにあるものです。その不安はどこからくるんだということで、現実的な要因を数え上げても、なかなかでてこない感じがいつでもあります。不安というのは、大きな基本的な構えのようにおもいます。・・・・・・ 

島亨 庇護されているという感情はなかったですか。

吉本 ないですね。

島亨 僕などは今だにどこかで庇護されている、母親の尻尾が残っているという感じがありますが・・・・・・。

吉本 僕も尻尾はのこっているけど、不安としての尻尾ですね。意識したあとの母親との関係を見てもぜんぜん思いあたらない。そういう年齢になったときには、もう慈母型になっているわけです。小学校の高学年とか中学校の年齢になったころには、慈母型の母親になっていました。意識してからの慈母型、もっと以前のところにはきっとそうじゃないときのいろんなものがあるんだ。僕はそう理解したんです。不安っていう構えのもとになっている体験みたいなものですね。
 (権力・重力から〈無効の生〉へ 、『ハイ・エディプス論』P190-P193 吉本隆明)
 ※①と②は、ひとつながりの文章です。






 (備 考)

この「底無し」のイメージや不安というのが基本的な精神の構えのなかにあるということは、詩『日時計篇』をたどっても確認できる。
こういう存在の核を持ってしまった吉本さんの、内的な感覚としては、以下のような「破局感」がいつでも潜在している。

僕の言葉で言えば、一種の破局感っていうのがあって。自分が破局するっていうことは、よくよくあり得るだろうなっていうのがいつでもあるわけです。
 (関連項目 言葉の吉本隆明① 387 一種の破局感)


また、そんな内面から外の世界や対人関係においては、次のように現象している。

それからぼくは、いまでも「対人恐怖」ですが、思春期前後のころは、ひとを正視して話をする、とくに女のひとと話をするということができなかったんです。それから「赤面症」も、思春期に入る前後のころは極端にそうだったんです。いまは摩耗しているというか、それほどじゃないですが、そのころは意識すればするほどそうなっちゃう。べつにひとからみて顔が赤くなっているかどうか、それこそ田原さんのいわれるとおりわからないですが、カッーと耳までも熱くなっちゃう。一時期それにずいぶん悩まされました。
 (関連項目 言葉の吉本隆明① 330 『言語美』、『心的現象論』をもって自己カウンセリング)




吉本さん自身は「育ちが悪い」ということを自分にとって全存在的なものとして捉えているが、わたしたちは誰もがなんらかの「育ちが悪い」部分を持っているのかもしれない。わたしたちが現実のいろんな場面や他者と関係する場面で、ある困難にぶつかった時には、その育ちの悪さが浮上するような気がする。また、日常の実感としては、ふだんは別に意識しなくても、とっても忙しすぎる場面では余裕の無さが自分の欠点というか育ちの悪さを浮上させるように思われる。






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
712 吉本さんのこと 34 ― サービス精神 「現場至上主義」 『猫だましい』 ハルノ宵子 幻冬舎 2020.10.30

※ この項目は、吉本さんの長女、ハルノ宵子から見た父、吉本さんの描写になっている。

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項目
1



 父が西伊豆で溺れ死にかけた(註.1)後、「電波少年」で、タレントの松本明子さんが、"水に対する恐怖心は残っていないのか?"というお題目で、アポ無しでやって来た時も、父は洗面器の水にブクブクと顔をつけていた。実はこの時、私と母は買い物に出掛けていた。後で偶然オンエア(註.2)を観て、のけぞった。父からは何も聞かされていなかったのだ。「いやぁ~現場の芸人さんは、たいへんだな~と思ってさ」と、あくまで現場に立つ人を大切にした。




 これは父の家が職人だったからだろう。どんなに経営側や顧客がムチャ振りをしようと、苦労するのは現場だし、職人が動かなければ、何一つモノは作り出せないのを肌で知っている。この「現場に立つ人を困らせてはいけない」という考え方は、父の"門前小僧"をやっている内に身についた。
 (『猫だましい』P177 ハルノ宵子 幻冬舎 2020.10.30)
 ※①と②は、ひとつながりの文章です。






 (備 考)

(註.1)
吉本隆明略年譜(作成・石関善治郎)によると、これは

平成8年 1996年8月 七十二歳
家族と夏の休暇を過ごす西伊豆土肥海岸で、遊泳中に溺れる。



宿沢あぐりさんの年譜によると
一九九六年(平成八年)            七一歳-七二歳
八月三日
  遊泳中に溺れる。
 (宿沢あぐり「吉本隆明年譜」⑮、『吉本隆明資料集178』猫々堂 所収)



(註.2)
進め!電波少年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
放送リスト
1995年 - 1998年
より

245                      1997年5月11日
溺れた恐怖心は残っていないか?確かめたい!
くすぐりエルモ人気にあやかって、くすぐりアッコ人形も作って欲しい!
オリジナルバッグを作って欲しい!


この「溺れた恐怖心は残っていないか?確かめたい!」がそれに該当するものである。ここには挙げないが、別の所からも確認できた。この件は、宿沢あぐりさんの年譜(上記の「吉本隆明年譜」⑮)も取り上げているが、その放送日が1997年5月14日となっている。しかし、上記のウィキペディア「進め!電波少年」には、放送曜日は「日本テレビ系列で毎週日曜 22:30 - 22:55 (JST) に放送された」とあり、1997年5月11日は日曜日であるから、1997年5月14日は間違いであろう。因みに、この番組はわたしも楽しんで毎週観ていた。


(参考)
わたしは試していないが、ネットの「日テレオンデマンド」で過去の「電波少年」の放送を観ることができるようだ。「無料でお試し」ができるとのこと。URLが長すぎるので、ここには引用しない。「日テレオンデマンド 電波少年」で検索してみると出てくる。


娘ハルノ宵子の「これは父の家が職人だったからだろう。」という捉え方は、どうだろうかなと思う。吉本さんは、東京で生まれている。しかし、職人仕事を含めて〈天草〉という地域性を大きくひきづった吉本家の家族の有り様をそのままではないが受け継いでいるはずである。吉本さんが割りと無意識的に受け継いだ祖父母や両親のその地域的な人付き合いの風習から来ているような気がする。また、日常生活的な人と人とが関わり合う面では、吉本さんは割りと配慮の行き届いた控えめなふるまいをされていたというような証言もいくつか読んだことがある。



★ 電波少年出演に関して、ネットの記事より

1.

吉本隆明氏 「バカなことさせる番組はいい」と電波少年出演

 吉本隆明氏(享年87)は、夏の休暇は必ず西伊豆の土肥で過ごしていた。水泳は得意だったが、1996年8月には土肥町の海岸で遊泳中におぼれて一時意識不明になった。当時の新聞は、診察した医師によれば「事故のあった付近は水深1.2メートルと浅く、飛びこんだ時に海底で頭を打って脳しんとうを起こした可能性が強い」と伝えている。

 後に作家・辺見庸氏に語った。

〈少し離れたところを子供が浮き輪や浮き板を使って泳いでいたのはわかっていたんです。それに近付いていって掴まれば溺れずにすんだのかもしれないけれど、そうはしなかった。あ、あっちは違う世界だな。俺がこんな死ぬか生きるかみたいな顔をして、いきなり子供の浮き輪にしがみついたりしたら悪いな、これはぜんぜん違うことだよな、なんて思って〉(『夜と女と毛沢東』)

 生死の境で子供を思いやるやさしさは、吉本氏の人柄を象徴しているのだろう。

 事故後、『進め!電波少年』(日本テレビ系)が、「二度と溺れないように」と透明の水槽に顔をつけて練習させようと自宅に押しかけた。吉本氏と30年来の親交があり、2冊の共著がある藤井東氏が語る。

「自分を偉くする番組には出ないが、バカなことをさせる番組はいいんだ、といっていました。お宅に伺っても自分でお茶を出してくれるほど気取らない。2008年の忘年会では、糖尿病で眼や足腰が衰えて立って歩くのが難しく、這って座敷に入ってこられました」
※週刊ポスト2012年4月6日号



2.

吉本隆明・まかないめし
二膳目。
<第10回 自己評価より下のことは、何だってしてもいい。>

吉本 自分で、ある時点から
変化したというのは・・・。
「自分に対する自己評価、
 みたいなものがあるとすると、
 その自己評価よりも下に評価されることなら、
 何でも、やっていいんだ」
と、ぼくはある時から、決めちゃったんです。
「自己評価よりも高いもの」
に思われるのは、ごめんであると。

そういう仕事は敬遠して、
人が、ぼくの評価よりも
下だと思うに違いないと判断したところは、
「よし、そりゃ、やるよ」
っていうように、変えちゃったんです。

糸井 あぁ。わかります。

吉本 そこはやはり、昔からの熱心な読者は
「昔のとおりでいてほしい」と、
「昔の名前で出ています」
だと思っているから、しばしば、
「吉本さん、何でこんなところとつきあうんだ」
と、不満気に言われることもあります。
電波少年に出た時には、モロに言われました。
でも、ぼくからすると、向こうが何回も訪ねてきて、
やっとぼくがいる時に出会って、というので。

糸井 「悪いなあ」って。

吉本 だから、そちらの言う通りにします、と。
昔からの人は、
「何でそんなことをするんだ」と
言いますけれども、
違うんだよなあと思います。
ただ、どうしてもこれは
注文にならないなぁ、というものは、
ヒマがあったら少しでもやるさ、という程度に、
済ましているんですけどね。
でも、この範囲なら、自分の関心と交錯する、
というものなら、やりますよ、と思ってるんです。
注文にならないのは、
あくまで、ヒマがあればやるし、
できなかったらそれまで、と。
だけど、それは、たぶん、
自分のこどもには、
通じていないですね。
こどもは、
「少女マンガの人が、ある時期に非常に
 いい作品を描いちゃって、そのあとはそれほど
 いいものを描かなくなる」
というようなことを言いますが、
ぼくはそうじゃないと思っています。
「いや、マンガにも、
 『こうすれば流行る』とか、
 『時代の流行』だとかいうことも
 関係は、するだろうけど、
 マンガと言えども、
 『やっている』ことが重要だと思う。
 『注文があるからやる』
 というのでは、だめだよ」
とこどもには言っていて、
それはよく心得てはいるんだけども、
「なぜこういう人と付きあうんだ?」
と、ぼくが言われるあたりについては、
たぶん、わかっていないんじゃないか、
とぼくは思います。
そこは、通じていないと感じますね。

糸井 吉本さんは、
「自己評価から下のものをやる」
とおっしゃっているけれども、
自己評価よりも上のおもしろさをやる時の
誘惑も、とてもある、と、ぼくは思うんです。
「今まで考えてもいなかったものが、
 見つかるかもしれない」
と研究的な態度としておもしろかったり、
「上だと思われていたものが、
 実は非常に脆弱な基盤で成り立っている」
ということに対して、
「なあんだ」って
言いに行くみたいなおもしろさも、
誘惑として、もうひとつあると思うんですね。
そのへんについて、まずひとつ、
お話をしていただきたいんですけど。

吉本 糸井さんはご存知だと思うけど、
さきほどの「10年選手」の点で
まずひとつ前提があるとすれば、
「自己評価が正確である」ですよね。
「自己評価が正確でありさえすれば、
 ちゃんと仕事として成り立ちますよ」
と言ってもいいくらいで、
それはもう、誰でもそうだと思うから、
10年やりつづけた人が、おそらく
自己評価があまり狂わないことは、
前提にしたいと思います。
その場合は、
「思い込みをいくらしたって、
 自己評価は、あんまり狂わないよ」
と思うんです。
そのうえで、言っていますので、
だから、ぼくは、自己評価よりも
もう少し高度なことだとかは、
自分のヒマにまかせるだけであって、
それをやったところで、
どうなる、ならない、ということは、
ぜんぜん考えの外にあると、
そう、いつでも思っているところがあります。
いまおっしゃった、
「ちゃんとやってみたら
 実は、たいしたこたぁ、ないじゃないか」
ということは、ぼくは経験していまして。
学校を出てから2年間くらい工場勤めをやってから、
あとで2年くらい、
学校に帰ったことがあるんです。
そこで学者さんのやることに
つきあわされていたことがあるから、
「なんだ、このくらいか」というのは、
実感としてあるんです。
自分が学生時代に怠けていたことと重なって
「たいしたことがない」というのは、
そうとう早くから、わかっているというか。

糸井 はやくから経験してるんですか。

吉本 「この程度だ」
っていうことは、わかってるっていうか。
だから、あとから
「何だよ。たいしたことないよ」
と言うことは、別段、なかったですね。

糸井 たいした収穫も、なかったんですか。

吉本 なかったし、ないし、
たいしたこと、してないじゃないですか。
自分もそうですけど、研究室では
たいしたことをしていない。

(つづく)
 (『ほぼ日刊イトイ新聞』2001-08-30)
 ※原文の行を空けたり、詰めたりしています。






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
713 吉本さんのこと 35 ― ハルノ宵子から見た父 「覚悟の先に」 『猫だましい』 ハルノ宵子 幻冬舎 2020.10.30

※ この項目は、吉本さんの長女、ハルノ宵子から見た父、吉本さんの描写になっている。

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父はむしろ、すべてをグッと内に押さえ込み、沈黙するタイプだ(時々爆発するけどね)。
項目
1



 両親の場合も、性格が大きく影響した。(また猫とゴッチャにしてゴメン!)。2人とも、とことん束縛がキライだし、昼夜逆転生活の歴史は根深いので、施設はありえなかった。入れちゃえば慣れてくれる、なんて言われるが、断言しよう。絶対にムリだ。あの2人は、史上最強レベルの理屈巧者だ(母は晩年ゆる~くボケていたので、可能だったかもしれないが)。誰でも言い負かされる(まず私が折れるし)。それより父はむしろ、すべてをグッと内に押さえ込み、沈黙するタイプだ(時々爆発するけどね)。施設はただの牢獄だろう。がんでも作ってストレス死するに違いない。ただでさえ老人は、不自由な肉体に閉じ込められているのだ。できる限り、好きにやってくれたらいい。だから母の酒もタバコも止めなかった。命を縮めるとは分かっていたが、起きている姿勢をツラがるので、寝たきりになるのを承知で許した。父だって、キチンと歯を磨け。起きてリハビリしろ。自力でトイレまで行けるんだから、こまめに行け。と、口うるさく言ってれば、ちょっとは寿命が延びたのだろうか。だとしても、お互いぶつかり合い、イヤな思いを抱えたまま、あの世に行くハメになるだろう。「イヤな思いまでして、キビシクしてくれて、ありがとう。本当は感謝しているんだよ」なーんて、言い残していくタマじゃないのだ。




 いつだって自問自答していた。自分はただ、手を抜きたいだけじゃないのか(否めないが)?嫌われたくないがための、事無なかれ主義なんじゃないのか?
 しかし、手を抜いたら、その分増える仕事も多いのだ。シーツを替える回数も増えるし、急かさないので、万事にとんでもなく時間がかかる。特に母の寝タバコは恐怖で(布団も畳もコゲ跡だらけだった)、部屋に火災報知器を付けたりした。止めない、叱らないには、忍耐と、何か起きたらすべてを引き受ける覚悟が必要なのだ。2人とも人生の、着陸(昇天?)態勢に入っているのだ。もう戻ることはない。いつ何が起こったって、覚悟しているから、イヤな思いをさせてまで、多少離陸を遅らせることに意味はない。
  (ハルノ宵子『猫だましい』P218-P219 幻冬舎 2020.10.30)
 ※①と②は、ひとつながりの文章です。






 (備 考)

ここに述べられているような両親の有り様については、ハルノ宵子と糸井重里の対談でも語られていた。


同じ家族の中の父と子であっても、呼吸してきた時代や小社会での精神的な大気は違うから、どうしてもたがいによくわからない部分もある。ここでは、ハルノ宵子が育まれ育んできた自らの生活感や世界観から、老いを抱え老い自体を生きる両親の〈介護〉に思い悩みつつも最良の道を歩く姿が浮上している。施設などで、他人が仕事として介護するのと、自宅で家族が介護するのとでは違う。しかし、いずれにしても、残される次の世代の子どもらは、親を何らかの形であれ見送るほかない。介護する者は、自分の仕事や時間を無にはできない。それを体験したことがないわたしは、たいへんだろうなと思うばかりである。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
714 「吉本さんのこと 36 ― 講演会などついて」 「私の吉本隆明」 『私の吉本隆明』 論創社 2021.5.20


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吉本さんからいただいた村瀬学さんの本には、吉本さん自身が引いた赤ボールペンの線が入っていました。 一九八五年頃「知的障碍について」という講演
項目
1



 二十六歳の時に私に転機が訪れました。小さな本屋の運営に係わったのです。
 その本屋は吉本さんが出していた個人編集雑誌「試行」(一九六一~九七まで発行。七四号で終刊)を販売していたのです。(「試行」は直接購読制を敷いていて、書店販売は原則していませんでした。)私はその頃すでに「試行」の読者でした。私は単なる読者であるだけでなく、「試行」の仲介販売業者になったのです。
 一九七五年の夏頃から「試行」が発行されるごとにお宅にお邪魔して「試行」を二百冊ほど、現金で購入する役でした。
 (小形 烈『私の吉本隆明』P14 論創社 2021.5.20)




 「試行」は、私が初めて取りに行った一九七五年には発行部数六〇〇〇部と吉本さんが言っていたと思います。それから十年後には一万部以上の発行になり、吉本さんは「浮いた」と言い、少しマズイことになったかもと言っていました。私たちの現実も吉本さんの言葉のとおりになり、本屋の経営状態がままならなくなったのでしょうか、ほどなくして閉店になってしまい、私が吉本さんの自宅にうかがう機会も自然消滅となってしまいました。

 その間、吉本さんにお願いしたことがいくつかありました。
 (『同上』P18) 




 覚えている私からの二つ目のお願いです。私は、横浜市の福祉職職員でした。一九八六年頃(註.1)のことだと思います。知的障碍者にかかわる仕事につきました。その時は私自身その仕事を希望したわけではありませんでした。他に希望者がなく、私に振られたその仕事を、何の考えもなく「いいですよ、私がやります」と言って引き受けてしまったのです。知的障碍(今は発達障碍ということが多いと思います)についての知識は皆無でした。友人などから本を借りたりして、少しは勉強したのですが、なかなかピンとくるものがありません。それについて困っていると吉本さんに話したのです。すると吉本さんは、すぐに二階から村瀬学さんの『初期心的現象の世界―理解のおくれの本質を考える』(一九八一年)を出してきたのです。「ちょっとまゆつばっぽいところもあるけど」(註.2)というのが吉本さんがその本を持ってきた時の一言でした。「面識のない知らない人だけど、帯(註.3)を書いてほしいと依頼されて帯を書いたのだ」と言って、村瀬学さんのこの本を差し出されたのです。
 私にとって村瀬学さんのこの著作は、その後の『理解のおくれの本質―子ども論と宇宙論の間で』(一九八三年)とともに、とてつもなく重要な出会いとなったのでした。村瀬学さんは、知的なおくれのある子供を、正面から受け止め、現場経験も踏まえ、子どもの心的構造について考え整理した、稀有な支援者だと思いました。
・・・中略・・・
(引用者註.村瀬学さんによって)知的障碍に関する、私自身の、基本的な理解が定まったといっても過言ではないといえます。これは本当に吉本さんのおかげでした。結果として振り返ると、私のその後の仕事を決めるものだったのです。吉本さんからいただいた村瀬学さんの本には、吉本さん自身が引いた赤ボールペンの線が入っていました。
 (『同上』P19-P21)




 三回目は、さらに大きなお願いをしました。私自身少しいい気になっていたといえます。一九八五年頃(註.1)です。吉本さんに私が働いていた地域での講演をお願いしたのです。演題は「知的障碍について」です。吉本さんにはすぐに「日程と時間さえ合えばかまわない」と言って未いただきました。すぐにお願いし、講演料の話をしたのです。吉本さんは「講演は自分の仕事の一つなので、講演料は高ければ高いほどいいのだ。しかしあなたの依頼なので、タダでいい」とおっしゃってくれました。私はさらに図に乗って、講演会終了後に、酒席の用意をしてもいいかとおたずねしました。これもすぐに了解いただき、吉本さんのお宅からの帰り道は、人生最高の帰り道の一つになりました。
 講演会当日は、私の友人が吉本さんの自宅までタクシーで迎えに行き、横浜の会場まで来ていただきました。いらしてすぐに驚いたのは、模造紙五枚ほどのレジメを用意してこられたことです。まさかそこまでしてくれて「無料」の講演会とは。
 (『同上』P21-P22) 






 (備 考)

吉本さんに身近に関わり合った人の言葉から、吉本さんの人となりを浮上させるためにこの項目を設けた。


(註.1)
③は一九八六年頃で、④は一九八五年頃となっている。著者の三つのお願いは、時代順ではないのだろうか。

(註.2)
村瀬学の『初期心的現象の世界―理解のおくれの本質を考える』に吉本さんが書いた解説には、以下のようにあるが、その初めの部分のような表現のことを指しているのだろう。


 わたしたちは、著者が、物質から生命が生まれたとおもっていない、生命の構造と物質の構造とは、宇宙のはじめから同居していた、というようなことを語るときおもわず躓いてしまう。だが睡眠は、個体が個体の閉ざされた枠をといて〈類〉にひろがる拡がり方のことだと説くとき、その絶妙な概念の位相の組みあげ方に驚きを感じる。いわばゆき詰まりそうになる論理の糸が、おもいもかけない空隙をとおって、結局は裏側に通り抜けているような体験をおぼえる。ここには一種の〈排去〉の方法があるのだが、この〈排去〉の方法にしたがえば、人間の存在の仕方は、〈類〉としての心性の地平に根をもちながら、一本ずつの幹や枝を地上に繁らせた植物のような世界になぞらえることができる。わたしたちが個体に属するとかんがえている心的な世界の根源は、個体の外に拡がって、〈類〉の心性にその都度かえってゆくという画像がえられる。


(註.3)
吉本さんは、村瀬学の『初期心的現象の世界―理解のおくれの本質を考える』の帯文だけではなく解説も書いている。帯の文はその解説の文章からとられている。


③の本にある「吉本さん自身が引いた赤ボールペンの線」というのは、吉本さんが「解説」を書いてもいるから寄贈された本を吉本さんが二度読みした時のものだろうか。解説を書くときにはまだ本はできあがっていないはずだがらゲラ刷りなどを読んで解説を書くのではなかろうか。しかも、その本は1冊だったかどうかは分からない。しかし、吉本さんは自分はもうだいたい読み切ったという場合は、必要とする者にあげたり、あるいは古本屋に売ったりしていたのではなかろうか。


④の、「知的障碍について」という演題の一九八五年頃の講演について。
『吉本隆明の183講演』(ほぼ日)には、関連ありそうなのは以下の2つしかない。時期や主催者や場所から見て、これ以外のものだろう。
1.A049(T) 障害者問題と心的現象論 1979年3月17日
2.A087(T)心的現象論をめぐって    1985年10月18日

また、『吉本隆明〈未収録〉講演集 』(全12巻 筑摩書房) と『吉本隆明拾遺講演集 地獄と人間』 にも、目次を見る限り存在しない。
ところで、本書には、「私の友人の一人は、その時の講演を録音しており、今日まで録音テープを持っているそうです」(P23)


④の、吉本さんの講演会終了後の「酒席」にわたしは参加したことがある。
講演会の主催のスタッフにわたしの知り合いが入っていたせいかどうかは忘れたが、参加した覚えがある。それは以下の講演会であった。

講演日:1990年9月30日
主催:「パラダイスへの道」出版委員会
場所:福岡市早良区市民センター
収載書誌:パラダイス企画『パラダイスへの道' 91』(1991年)

講演は、
『吉本隆明の183講演』ほぼ日
A129(T)都市論としての福岡 1990年9月30日



 (追記2021.12.10) 講演、講演料について

吉本 ・・・だけど一般論として、慣用としては、ちゃんと確立しています。たとえば文学界でいえば、「講演の謝礼は一五万円から二〇万円ぐらい、送り迎えつきで、このテーマについて話してくれませんか?」などと頼まれて、引き受けたり断ったりします。これが普通です。タダでも話すというのは、よほど気心が知れた仲間同士とか、そういう相手でなければそういう相手でなければやりませんね。区役所の図書館などでおしゃべりするときは、だいたい五万円ぐらいです。
 引き受けるほうの金額は人さまざまで、文学者でもタダから「一〇〇万円以下じゃやらない」といわれる人まであるわけです。だけど、だいたいは一五万円から二〇万円ぐらいの金額で謝礼が支払われています。
 そういうわけで、左翼的な人たちの集まりといえば、少なくとも資本主義を超えようという主観的な考えをもっている集まりなのだから、資本主義より少ないカネで人を使おうなんて、とんでもない話なんです。金額はともかく、専門家に何か専門的なことを公開の場でしゃべってもらったら、いくらかの謝礼を出すのは、ようするに慣用的な常識、市民社会の常識です。それが政治運動家には通用しないんですよ。そこがいわゆる進歩的な政治運動家の弱点ですね。
 (「『政治にカネはつきもの』ゆえに演じられる猿芝居」P5-P6、『吉本隆明資料集182』猫々堂)
 ※聞き手 内田隆三 『吉本隆明が語る戦後55年』第9巻 2002年8月28日発行







項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
715 吉本さんのこと 37 ― 出自について 「吉本隆明氏に米沢高等工業学校時代を聞く」 インタビュー 『米沢時代の吉本隆明』 新泉社 2004.6.20

「吉本隆明氏に米沢高等工業学校時代を聞く」というインタビューは、平成十一年(1999年)二月二十日に吉本さんの自宅で第一回目のインタビューが実施された。インタビューへの同席 郷右近厚 氏

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佃島や月島は、東京の植民地と見なされていた 私塾 一人で暮らしてみたいとか 学問というのは、今でもそうですけれども、嫌いなんです。
項目
1



 ・・・小学校を卒業した吉本さんは、理系の工業学校へ進学するわけですが、そのへんのいきさつはどのようなものだったのでしょうか、

 僕らの小学校は要するに佃島とか、月島と言う島ですね。あそこは要するに、おかしな、いわゆる世間の脱落者みたいな人たちが住んでいるところでした。だから悪口を言う人は、東京の植民地だと言った。そういうところだから、僕らの小学校の先生なんかは、ここの小学校というのは、東京では一番程度が悪いと公然と言っていた。そういう学校でしたね。(註.1)まあ、銭のある奴は一人か二人クラスにいるくらいで、あとはみんな、職人さんとか、魚河岸の人とか地元の鉄工所の子とか、職工さんとかね、そういう人の子どもが多かったわけです。
 だから僕も家では、学校へ行くなら行かしてやるけれども、途中で経済的に駄目になるってこともありうるから、工業学校とか、商業学校に行け、そんなら行かせるというわけです。佃島小学校から一番近いのが、江東区にある府立化工という化学工業学校と、もうひとつは、府立実科商業学校なんです。このどっちかっていう感じでね、僕は化学工業学校に行ったわけです。しかし、僕らの小学校は、割合に成績の良い、その中では出来るというのでないと上の学校には入れないという、そういう程度の悪い小学校でしたから、そこから工業学校に行ったのが僕が一人、商業学校に行ったのが一人でね、中学校に行ったのが一人。中学校というのは、やっぱり近いのが本所にあって、芥川龍之介が出たところなんですけれども、第三中学校、いわゆる府立三中ですね。ですから上の学校に行ったのは全部でたったの三人ですよ。学年全体の生徒は六十人くらいでしたね。


 吉本さんの幼少期にふれて書かれたもののなかに出てくる今氏乙治さんの私塾に通われるのは、このころですね。

 僕の通っている小学校のレベルでは上の学校に行く望みが全然ないから、それだったら勉強しなきゃいけない、そういうところに行って勉強しなきゃいけないと父親たちが聞いてきたんですね。それで、お前、行けって言われて、たしか小学校の四年、五年、六年と行ったんですね。




 吉本さんは府立化工から米沢高等工業学校へ進むわけですが、どういう理由で米沢を選んだのですか。

 格好良く言うとね、要するに、年齢がそういう年だから、なんか親のところから、家から離れてみたい、どこかへ行ってみたいとか、一人で暮らしてみたいとか、そういうのがありましたね。それからもうひとつ、応化寮に屯していた人なんだけど、尾賀泰次郎さんという人と、それから野口賢次さんという人が、米沢に行っていて、母校の化工をたずねてきたことがあったんですね。そしたら、受験担当の先生から、お前ら、体験談を話せとか言われて、二人で進学希望者を集めて米沢高工の話をしてくれたんです。その話を聞いていて、ちょっと面白い学校かなと思ったんですね。


 米沢に行くと言ったときに、ご両親からはどう言われましたか。

 うちの両親は、いいよ、行け、行け、行ってみろと。親元から離れるのもいいことだから行ってみろと言ってました。でも、それこそ家は貧乏で、なんか、そういう意味じゃ、気の毒だなと思ったけれど、でも自分が行きたい、親元を離れてみたいということでしたね。

 その先には大学工学部に進んで、ゆくゆくは研究者とか・・・・・・。

 いや、そういうことを思ったことは一度もないの。親としたら、今度もまた貧乏だからって、普通高等学校に行くんだったらやれないというわけです。もし途中で金がなくなっちゃって学校へ行けなくなったら、それまでだ。だから高等工業へなら行ってもいいという話だった。またそこを卒業したあとも就職してもよかったんですけど、また何となく、じゃまた工大に行くかということになって、工大ぐらいなら大丈夫だからという、そんな事情でした。学問というのは、今でもそうですけれども、嫌いなんです。文学だって、学問的な研究は嫌いです。嫌いなんだけれども、やらざるを得ないところは仕方なしにやっている。けれども、本当は嫌いで、そういうことはしたくないんですよ。化学は実験したり、装置を作ったりしなけりゃならないでしょう。しかし文学の場合は、学問だったら、頭と本だけでいいわけです。けれども文芸と言ったらいいんでしょうかね、文芸というのは、手なんですよ。要するに、手を動かしていないと駄目なんです。文学研究者というのと、文芸の批評家というのは、まるで違うんですよ。文芸の批評家というのは、僕がそう言っているんですけれども、始終手を動かしていないと駄目なんです。手でもって考えるというのが文芸批評家で、学問をする人は、本、文献と、語学を駆使して、そして勉強好きで、本を読んでメモをとって、ノートをとってとかというふうにやれば進んでいくんですけれども、文芸批評、文学全体もそうですけれども、やっぱり手でもって考える、頭と手が連結していないと駄目なんですね。
・・・中略・・・僕は学者にはならない、化学の学者にはならない、学問はやらないというふうに思ってきました。工大でもそうでした。僕はそこを一度出てから、町工場をぐるぐるまわって、また研究生に、今でいうと修士課程というんでしょうか、二年間、特別研究生として大学へ通ったんですけど、それも学者になろうという気は全然なくて、ただ少し休んで、のんびりしようと思っただけなのです。
 (『米沢時代の吉本隆明』P129-P135 斎藤清一 編著 新泉社)






 (備 考)

(註.1)
ほぼ日の『吉本隆明の183講演』に収められているA144『わが月島』(講演日時:1992年10月31日 主催:中央区立月島図書館)でも、同様のことを月島の歴史や時代性を考察しながら触れられている。


編著者によると、この「吉本隆明氏に米沢高等工業学校時代を聞く」というインタビューは、平成十一年二月二十日に吉本さんの自宅で第一回目のインタビューを実施されたとある。また、そのインタビュー中の吉本さんの言葉に、「たとえば、僕は七十いくつですけれども」(P135)とある。平成十一年は、1999年(吉本さん七五歳くらい)だから、その頃のものだろう。


わたしたちは、みなそれぞれ固有の出自(具体的な家族や地域の中での生まれ育ち)を持っている。そんな家族や地域とのやり取りの中で自らの自己形成を遂げる。それはいやだなとかしょうがないなとかいろんな葛藤を潜(くぐ)って、わたしたちの現在がある。そうして、同じような家族や地域性であっても、同じように自己形成を遂げるとは限らない。例えば、吉本さんが考察を加えた芥川龍之介や立原道造には自らの出自の庶民的な下町社会からの離脱感性、上昇感性があった。しかし、同様な出自の吉本さんには、それがなかった。

吉本さんの場合、内心ではここに語られていないような家族や地域との葛藤もあったかもしれない。しかし、自らに庶民的な下町社会のもたらすものを所与の条件として受け入れつつ、自己形成を遂げてきたように見える。そうして、そのことがわが国の大多数の知識人と吉本さんを分かつ決定的なものになったのだと思う。そんな吉本さんだからこそ、詩「ちいさな群への挨拶」(詩集『転位のための十篇』)で、外からではなく、内にありつつ外に出て行く〈歌〉を歌ったのだ。

だから ちいさなやさしい群よ
みんなひとつひとつの貌よ
さようなら

 (詩「ちいさな群への挨拶」の最終連)


 (追記2021.12.10) 学者、研究者について

―― 学者になるつもりはなかったんですか。

吉本 もしかすると、学者とか研究者になることを考えに入れた上で、特別研究生として学校に帰って来たわけです。でも二年間やってみて、これはちょっと駄目だなと思ったんですね。
 だいたい、科学の研究は、生活が安定持続できる銭がないと出来ない。つまり家に恒産がないと出来ないのです。
 もちろん出来るわけでしょうが、本格的な研究者とか学者になるんだったら、家に恒産がないと駄目ですね。今でもそうじゃあないかと思います。そういうことで、俺は駄目だなあと直ぐに思いましたね。
 もうひとつは、科学というのは、悩みがあったら出来ないようなものなんです。(註.2)
 平静な心で、今日も、明日も、同じコンディションでないと駄目なんで、文学でしたらある意味では悩みがあればある程、自分の糧になるという考え方もとれますし、又やりようによっては出来ますけど、科学の研究というのは、悩みがあったら、全然手がつかないし、やる気がしないものです。
 ああいう平静、緻密で、細かく、面倒くさい装置を組み立てて実験して行くっていうのは、悩みがあったら全然駄目というものです。
 だから、この二つがとても大きな要因で、こりゃあだめだ、というのが僕の気持ちでした。
 それよりも、もう少しゆるい所でやるならば出来るんで、会社勤めをして、会社の研究室とか、実験室で、その会社の固有のテーマがあって、それを研究していくっていうのなら、これは少しゆるい感じで出来るんですね。
 しかし、理工系の学問というのは、そういうものじゃあないから、二年間で潔く社会へ出て当然だと思いました。
 (「私の青春時代 ― 技術者として」P84-P85、『吉本隆明資料集182』猫々堂)
 ※『Think tank 〔LAB〕』第4号 1986年9月10日発行


 (追記2021.12.21) 

(註.2)
そうしておまへは今日も学校へゆき、憎しみや迷ひがあるとまるで理解出来ない化学といふのをやらなくてはならない おまへは一緒にあのすすきの峠の切通しに立ちたい心を抑へて、巡礼者が街外れの小さな民家の陰に消えてゆくのを見届けると、想ひ返すように学校の道へ歩み去つた・・・・・・
 (「エリアンの手記と詩」 Ⅸ イザベル・オト先生の風信と誡め より P283『吉本隆明全集2』晶文社)
 ※この部分については、『吉本隆明全集12』所収の「吉本隆明の心理を分析する」の中で、馬場禮子が指摘していることで知った。(『吉本隆明全集12』P646)







項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
717 吉本さんのこと 38 ― 水難事故後のこと 宿沢あぐり「吉本隆明年譜」より 『吉本隆明資料集182』 猫々堂 2019.1.30

※ この項目の文章は、初出は、『週刊新潮』通巻二二四八号、四月二〇日号所収の記事の談話部分である。
わたしには手に入れ難いので、宿沢あぐりさんの「吉本隆明年譜」、二〇〇〇年(平成一二年) 七五歳-七六歳
四月二〇日の項目から引用させてもらった。むしろ、その部分を読んでこの項目を立てた。
 

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これまで大新聞に書かなかったのは 我ながら棺桶に片足を突っ込んでいると実感しています。そんな状態で選り好みもヘチマもないということです 僕は大ショックで。これまで書いて生活してきたのに、これからどうやっていくのか見当もつかない。
項目
1



「僕がこれまで大新聞に書かなかったのは、読者数がケタ違いに多く、啓蒙的なことしか書けず、その上誤解を受けても仕方がない、と思って断ってきました」
 こう語るのは吉本隆明氏ご本人である。
「でも、ここ数年病気続きで、去年も入退院を繰り返して、我ながら棺桶に片足を突っ込んでいると実感しています。そんな状態で選り好みもヘチマもないということです
 4年前の夏、吉本氏は伊豆に海水浴に行って溺れ、意識不明の重体になった。
「その後遺症だと思いますが、目が悪くなり、白内障の手術などをしました。視力は0.1と0.07になったうえ、いつも黄昏どきみたいにしか見えなくなってしまった。僕は大ショックで。これまで書いて生活してきたのに、これからどうやっていくのか見当もつかない。できるのは記憶だけで書けるテーマで、しかも短い枚数です。これをやれないと物書きとしてはアウトで食いっぱぐれてしまうから、3大紙も解禁ということにしたんです
                         (「黄昏」に)
 (宿沢あぐり「吉本隆明年譜」⑰、『吉本隆明資料集182』猫々堂)
 『週刊新潮』通巻二二四八号、四月二〇日号所収の記事の談話より






 (備 考)

今まで大新聞に付き合いがなかったのに、どうして載せるようになったかが語られている。また、水難事故後に目がひどく悪くなり、「いつも黄昏どきみたいにしか見えなくなってしまった」。今までの物書き仕事の延長では続けることができないという、個としての不如意さと仕事上の不如意さとが重なり合った心身のショックはとてもきつかったものと思われる。

わたしの場合は、吉本さんの「いつも黄昏どきみたいにしか見えなくなってしまった」という状況は、吉本さんが亡くなったあとに知ったような気がする。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
718 吉本さんのこと 39 ― 心理分析から ① 「たれにもふれえないなにか」 『吉本隆明全集12』 晶文社 2016.3.25

「吉本隆明の心理を分析する」の初出は、『ユリイカ』(1974年4月号)。
吉本さんがロールシャハ・テストを受けた後の対話。被験者 吉本隆明 検査者 馬場禮子

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自分の大切なものには決して触らせまいとする殻 鮎川信夫の評言 情感を籠もらせたままで、その場で解放しないで残してしまう ひとりでに動く防衛機制みたいなものがあるんじゃないかなと思います
項目
1



馬場 本当のところは、非常に傷つきやすい方なんですね。

吉本 それはもう本当ですね。

馬場 だから、ほんとに自分の大切なものには決して触らせないようにする。そういう殻がもう自動的に働いてできてしまっている。それがとても固いと思うんです。それはもう、ほんとに小さいときからの対人関係から引きつづいてきているものだと思うんですけれども、そういう自分の大切なものを出さない態勢ができている。だから現場のなまの情緒体験をあまり感じない。全然感じないことはないけれども、それよりも、それがずうっと過去になってから、あああのときあの人は優しかったなと想い出すような形での情緒体験ですね。そういう情緒の殻の固さがすごくあると思いますね。

吉本 それはたくさん思い当たることがあります。いつか鮎川信夫さんから言われたことがあるんですけど、頻繁に会っていたときですが、きみはとにかく、いくら親しそうにしていても、明日から、はいさようならってできるような付き合い方だなあって、そういうふうに言われたことがあるんです。

馬場 未練が残らないというか、余韻が残らないというか・・・・・・。

吉本 そんなこともないんだけども。

馬場 あとになってから別に出てくるような形かもしれないですね。

吉本 時間がたってからですか。だけど、それは男性の場合でしてね。

馬場 女性の場合ももとの動きは同じなんじゃないでしょうか。

吉本 なるほどね。それじゃもう駄目ですか、治療不可能ですか(笑)。

馬場 そんなことないですけれども、生身をさらすのは誰だって嫌いです。けれども、このへんまでなら出してもいいという限度が、人によっていろんな段階がありますね。その出せないものと出してもいいものとの区別がつきすぎている。出せないものは徹底的に出さなすぎる。そこのところをもう少しこう、うまい出し方を工夫なさってもいいんじゃないかというような・・・・・・(笑)。




吉本 そうか。

馬場 ですから情感を籠もらせたままで、その場で解放しないで残してしまう。それが内面世界になっていって、それを反芻するような形で詩があるんじゃないか。だから詩の世界は、とてもきれいなとてもまとまったあるひとつの世界ですが、それは外界との交流で起こっているんじゃなくて、追憶だとか反芻だとかという、内面だけでの展開ではないかという気がしますね。

吉本 それはよくわかります。
 (「吉本隆明の心理を分析する」、P628-P629『吉本隆明全集12』晶文社)
 ※①と②は、ひとつながりの文章です。 


 (追記.2022.1.2)



吉本 ええ、殻をつくっているんじゃないでしょうか。あるいは、つくっていると自分で意識しなくても、ひとりでに動く防衛機制みたいなものがあるんじゃないかなと思います。その種のことは、記憶に残っていることでたくさんあるような気がします。さて、どこでそれが形成されたのかという場合に、ある大きな事件があって、それを契機にこうなったということは、ぼくはないと思うんです。おそらくは小さいときからの積み重ねがあって、自然にそういうふうにでき上ってっちゃってると思いますが。

馬場 それはそうですね、小さいときから何度も何度も小さな体験をしているうちに、これは出したくない、出して傷つくぐらいなら内にため込んでおいた方がましだということがこびりついてくるわけですね。

吉本 そうだと思います。小さなことはいろいろあるように思うんですが、決定的にこれだな、と思えるものはないですね。なんだろうなあ・・・・・・、ちょっと思い当たるほどのことはないし。その徐々に形成されてきたという、そのなかで、なぜそれが徐々に形成されてきたか・・・・・・、ないなあ。
  (「吉本隆明の心理を分析する」、P630『吉本隆明全集12』晶文社)






 (備 考)

この『吉本隆明全集12』所収の「吉本隆明の心理を分析する」の構成は、次のようになっている。

吉本隆明の心理を分析する
 ロールシャハ・テスト 被検者吉本隆明/検査者馬場禮子
 たれにもふれえないなにか 吉本隆明/馬場禮子
 ぼくが真実を口にすると 吉本隆明/馬場禮子
 対話を終えて 馬場禮子
 起伏 吉本隆明


関連事項として、
DB② 607 吉本さんのこと ⑪ ―自分で見えない場所 及び「備考」
DB② 587 他者に映る吉本隆明像より ② の「備考」


その587の「備考」に載せた吉本さんの言葉は、吉本さんの生存の核に当たると言っていいほど重要なものに見えるので、ここに再録する。これは、上の鮎川信夫の吉本さんに対する評言にも関わっていると思われる。

 過日、兵庫県に住む未知の人から、わたし(吉本)宛に、息子の自殺と、息子の遺言により、わたし宛に最後の遺文を送付して、参考に供する旨の書簡があった。・・・中略・・・わたしは、過去に、この種の未知の、読者の正常でない死に方や生き方に、幾度も立ち会ってきた。このような場合、どこまで、どのように介入すべきかを、わたしは知らない。わたしが、自身に漠然と下している判断では、わたしの書くもののどこかに、本来ならばわたし自身が自殺や狂気にいたるべき要素が潜在していることの投射ではないのかということである。わたしの信頼している詩人の意見では〈そうではない、きみの書くものに救済を求めたものが、途中ではぐらかされた感じをもつために自殺や狂気や反撥に終るのだ〉ということである。わたしのからめ手からの辛らつな批判者によれば<あなたは、どんなに優しくしてくれたって、家事やすい事をやってくれたって、まったく手のかからない男だったって、ほんとうは、たいていのことは、どうでもいいとおもっているのよ。悪魔が羽ばたいているっていう重い感じよ。わたしだって自殺したいところだけど、他人がみれば、どうしたって、わたしが悪いということになるのがしゃくだからねえ>ということである。これらの批判は、相当な部分で当っているような気がする。しかし、わたしの心の底のほうで〈いや、ちがう〉という声にしても仕方がない抗弁と寂寥とがある。それは、だれに語るとも理解されないような沈黙の声であるほかはない。また、わたしは、どうしてよいかわからない、この種の経験をつみ重ねているうちに、わたしが把んでいるわたしの像と、他者が把んでいるわたしの像に、かなりのギャップがあるらしいことに、この頃、気がついてきた。これは、うかつといえばうかつな話だが、べつにカマトトぶって言っているわけではない。


これも、わたしのからめ手からの辛らつな批判者にいわせれば<あなたは他人に寛大でゆるしているようにみえながら、あるところまでくると、他人には唐突としか思えないような撥ねつけ方をするよ。決してその都度、わたしは、そういうことは好きでないとか、いやだからよしてくれとは言わずに、ぎりぎりの限度まで黙っていて、限度へきてから、一ぺんに復元しないような撥ねつけ方をするよ>ということになる。私には、この批判は、かなりうがっているようにおもえる。しかし、依然として〈いや、ちがう〉という無声の声を挙げるほかない。しかし、その声は、どこにも、だれにもとどかない、ことを、どうすることもできない。
(『試行』の1973年9月 の「情況への発言」、『「情況への発言」全集成1』(1962~1975) P275-P277 洋泉社)


上の対話で、馬場禮子氏の「ほんとに自分の大切なものには決して触らせないようにするそういう殻がもう自動的に働いてできてしまっている。それがとても固いと思うんです。」や「その出せないものと出してもいいものとの区別がつきすぎている。出せないものは徹底的に出さなすぎる。」「情感を籠もらせたままで、その場で解放しないで残してしまう」などの評言は、誰にもあることだが、吉本さんの場合、言われているように普通の平均的な閾値より低いところで反応しているように見なされている。この対話の中での吉本さん自身もまたそのような自分の生存の核の有り様に不明感に包まれている。その不明の靄(もや)が論理の言葉によって振り払われるのは、もっと先の『母型論』(1995.11)においてであった。

付け加えると、吉本さんもどこかでそのことに触れていたが、鮎川信夫の場合も普通以上に触らせないとか秘匿するということがあった。最所フミという女性と結婚しているのにもかかわらず単独者のように装って誰にも結婚しいることを知らせなかったらしいということである。ここにも何らかの固執とその動機があったのは確かである。

 (追記.2022.1.2)

ひとつながりとして、③まで取りあげた方が良いと思って、③の部分を付け加えとして引用した。


 (追記.2022.2.4)


この「心理分析}の対話の後、吉本さんが自分の性格の根っことそれがどうやって形成されたかに気づき始めたのはいつ頃かは分からないが、少なくとも以下の頃には気づいている。


安達 どうして不安(引用者註.この前の吉本さんの言葉「自分の言葉ってのは、他人には通じないんじゃないかなあって不安があって」を受けて)なんですか。
 
吉本 いや、それはやっぱり、幼児体験じゃないでしょうか。つまり無意識が、かなり荒れてるところがあるんじゃないでしょうか。自分では、いろいろおもい当ることはあるんですけどね。無意識が荒れてる所があって、そういう意味で、そうとう根源的な不安みたいなのがあるんじゃないでしょうか。自己分析しきれないことはないんだけども、体験の記憶の範囲では、よくわからないんです。僕の理解のし方では、乳・幼児期の母親との関係ってところにあるって気がしてしかたがないんです。僕は体験の記憶はないですから、どうもおもい当ることはないんですが、間接的に確かめたりしてみるとね、どうもそうじゃないかなって気がします。
 (「大衆としての現在」P109『吉本隆明資料集181』猫々堂)
 『大衆としての現在』1984年11月5日刊 所収 聞き手 安達史人 ほか


 ※上記の「大衆としての現在」P110-P111では、吉本家の人々が、天草から夜逃げ同然で東京に出て来たこと、そのとき吉本さんが母親のお腹の中にいたこと、その影響などについて語られている。

 ※「安達 と、吉本さんが最近その、この乳・胎児期の母親との接触ってことをよく言われてるでしょう、それは今のそういうところからの体験から出てきたわけですか。」
 「吉本 ある意味そうです。それから、もちろん、いまの精神医学の一般論としても、そうなんじゃないかなとおもいます。」(P111)

 ※『母型論』(1995.11)の各論の雑誌掲載の初出は、1991年5号月から1995年5月号






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
719 吉本さんのこと 40 ― 心理分析から ② 「たれにもふれえないなにか」 『吉本隆明全集12』 晶文社 2016.3.25

「吉本隆明の心理を分析する」の初出は、『ユリイカ』(1974年4月号)。
吉本さんがロールシャハ・テストを受けた後の対話。被験者 吉本隆明 検査者 馬場禮子

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つまり中間というか、中性の状態というのはないんですよ。そういう気がします。 ぼくのほうから仕掛けた論争は、かつて一度もないんですよ。 無意識のうちにそうやっちゃってるんじゃないかなって気がします。
項目
1



吉本 対女性的なことでいっても、ぼくなんかにはダンスなんかして楽しむという、そういうことがないんですよ。つまり中間というか、中性の状態というのはないんですよ。そういう気がします。 (笑)。

馬場 と思いますね。さっき、こっちから一方的に、本当の意味で衝動性を肯定して、自分の活力に利用しているというふうじゃないんじゃないかと申し上げましたけど、そのへんのところは・・・・・・。

吉本 それもそうだと思いますね。それはきっと、ものを書いたり表現したりする世界では、習い性となっていて、すでにある意味ではそれを積極的に自分の方法にしちゃっている。だから、その面でおそらくぼくが不自由を感ずるとか、これはいかんというふうに感ずることは、まずあんまりないと思うんです。自分の方法にしちゃってるように思うんです。そういう衝動性を活力にしちゃっているということはないんじゃないかということは確かだと思いますね。ですから、テストのそれとおんなじで、ぼくがもうみんなぶちまけて出しちゃえと思ったときには、極度な強調として出てくるんじゃないでしょうか。

馬場 そうなんです。

吉本 そうすると面白いですよ。面白いですよって言うとおかしいけど (笑)、ぼくは論争好きというふうになってるんですけども、ぼくのほうから仕掛けた論争は、かつて一度もないんですよ。いつでも、けしかけられて、それじゃそれに応じようかっていうふうになるわけですね。ところが応じようかっていうまでには、いくつかの心理的な段階があって、あんまり中途半端なところではきっと応じないと思うんですよ。相当詰めていっちゃって、さて、それじゃやるかとなったときにバーッとやる。それがおそらくものすごく強調として出てくる。そうすると人は、そちらのほうが印象的なものだから、あいつ喧嘩好きだということになるんだけどもね。本当は、ぼくから仕掛けた喧嘩というのは一度もないですね。

馬場 攻撃性についても同じことなんですよ。やっぱり動力源にしてとか、それでぐんぐんやっていくとか、そういうふうに使っていない。なんかご自分の衝動に対して非常に誠実というか生真面目というか、これは出してはならないとか、これはこの範囲でなければならないとか、きちっと決めておかれるところがあるんですね。

吉本 それはきっとその通りなんでしょうけど、それを全部意識してそういうふうにしているんじゃなくて、無意識のうちにそうやっちゃってるんじゃないかなって気がします。

馬場 切り離しておくとか、別に扱うとか、そういう防衛の仕方ですけども、いろんな規制の形があるわけで、そういう分けておくというやり方が徹底して身についていらっしゃる。これは観念は観念だけで扱って、そこを非常に展開させるなんてことをするときは有利なわけですよ。情感が混入してこないから。そういう意味では扱いいいんだけども、非常にぎこちなくなる、混ざるべきものさえ混ざらなくなっちゃうという・・・・・・(笑)。

吉本 そうでしょうね、きっとそうだと思います。
 (「吉本隆明の心理を分析する」、P630-P632『吉本隆明全集12』晶文社)
 ※「たれにもふれえないなにか」より






 (備 考)

論争というか喧嘩というか、それに至る過程が語られている。
・けしかけられる。
・やるかやめるかどうしようか、やるとしたらどういうふうにやるかなど相当詰めていく、そんないくつかの心理的な段階がある。
・最終的な判断として、それじゃそれに応じようかとバーッとやる。

これは、論争や喧嘩であるが、前回に引用した以下の部分と同質のものであるように思われる。
これも、わたしのからめ手からの辛らつな批判者にいわせれば<あなたは他人に寛大でゆるしているようにみえながら、あるところまでくると、他人には唐突としか思えないような撥ねつけ方をするよ。決してその都度、わたしは、そういうことは好きでないとか、いやだからよしてくれとは言わずに、ぎりぎりの限度まで黙っていて、限度へきてから、一ぺんに復元しないような撥ねつけ方をするよ>ということになる。私には、この批判は、かなりうがっているようにおもえる。しかし、依然として〈いや、ちがう〉という無声の声を挙げるほかない。しかし、その声は、どこにも、だれにもとどかない、ことを、どうすることもできない。
(『試行』の1973年9月 の「情況への発言」、『「情況への発言」全集成1』(1962~1975) P275-P277 洋泉社)



「無意識のうちにそうやっちゃってるんじゃないかなって気が」するから、自分でもどうしてそうなるのかの心的機構がわからないということになるのだろう。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
720 吉本さんのこと 41 ― 心理分析から ③ 「たれにもふれえないなにか」 『吉本隆明全集12』 晶文社 2016.3.25

「吉本隆明の心理を分析する」の初出は、『ユリイカ』(1974年4月号)。
吉本さんがロールシャハ・テストを受けた後の対話。被験者 吉本隆明 検査者 馬場禮子

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(虚無) 何に関心があるかといったら、なんにもないよ、というふうにね、言えるところがあると思うんです。それじゃおまえ、なんにも感じないかっていうと、そうでもないんですけどね。 そこにスルッと触ってくれる人はいないはずだよ、あるいはいたらいいのになあと思ったり、まあ逆の場合もありますけどね、そういうことがあると思いますね。
項目
1



吉本 ・・・略・・・テストがありますね、本当言うと、なんにも感じないよ、どれもってきたって、なんにも感じないよというふうに言ってもいいようなところがあると思います。なぜそうなのかということについて自分なりの判断があると思うんです。それはきっと、まあ虚無といったら大げさになるんですけど、なにかそういう、感ずる、感ずる・・・・・・、何かについて何かをとても柔軟に感ずるというものを、まあ抑えてか防衛してか知りませんけど、それを抑えて、それから、また感ずるよ、また抑えて・・・・・・って、そういうことについちゃ、もう、ちょっと練りに練っちゃったっていうことがあると思うんです。だから、何も感じないよ・・・・・・。何に関心があるかといったら、なんにもないよ、というふうにね、言えるところがあると思うんです。それじゃおまえ、なんにも感じないかっていうと、そうでもないんですけどね。

馬場 言えるところがある・・・・・・。

吉本 言えるところがあると思います。そして、それはきっと自分の自己幻影にすぎないと思うんですけど、どっかほんとうに小さなところに、誰も触れていないというか、誰もこれは保存していないだろうというくらい、ちょっと触ってもピリピリ痛くなっちゃうというような、一度も何に対しても触れていないような、そういうとても小さな・・・・・・。そしてそれはきっと誰も持っていないはずだよ、というふうに思っているものがあると思います。




馬場 それをとても守っていらっしゃるんですね。

吉本 でも、それは過大評価で、そんなものはないのかもしれないけど、なんとなく自分の主観のなかでは、これだけなんか触れさせないで保存して、なんかあれをもっているのはいないはずだよ、というふうな、そういう主観はあるように思います。

馬場 ほんとに大切なものには絶対触らせないという・・・・・・。

吉本 触らせないわけでもないですよ。

馬場 触られると傷つく・・・・・・。

吉本 そうかなあ、それで防衛してるっていうんでしょうか。

馬場 そういうふうに、わたくしは見たんですが・・・・・・。

吉本 ぼくに触ってくれる人はいないんだ、世の中にはっていう、そういう孤独感なんですよ(笑)。

馬場 それがなにものだかわからないけど、何かそういう大切なものがあるなということはわかりますね。

吉本 自分でも具体的なものではないと思います。だけども漠然と観念のなかで、これ、保存しているっていう・・・・・・、それは防衛しているのかもしれませんけど、そこにスルッと触ってくれる人はいないはずだよ、あるいはいたらいいのになあと思ったり、まあ逆の場合もありますけどね、そういうことがあると思いますね。
 (「吉本隆明の心理を分析する」、P632-P633『吉本隆明全集12』晶文社)
 ※「たれにもふれえないなにか」より
 ※①と②は、ひとつながりの文章です。 






 (備 考)

①の「何に関心があるかといったら、なんにもないよ、というふうにね、言えるところがあると思うんです」は、DB②項目571の「吉本さんのこと ⑧ ― 「安原顯について」、精神の無表情のこと」とかかわっているように思われる。一部、再掲してみる。

無表情ということは無感応ということとも、鈍感ということともちがう。無表情という鋭敏な感応の仕方なのだ。この世界にはたくさんの悲劇や喜劇があって、そのなかには悲しんだり笑ったりできない種類のものも填(引用者註.表示されないが「填」の旧字、読み「うずま」か。)っている。それは無表情でやりすごすほかない。強いてこの無表情をわたしの勝手な思い込みと関連させるとすれば、或る種のことについての無表情は、資質の純化とかかわりがあるかどうかという問題に帰着してゆく。もちろんわたしの思い込みではかかわりがあると言いたいところだ。
 (「安原顯について」P11-P12『吉本隆明資料集 141』猫々堂))
 ※「安原顯について」は、安原顯『ふざけんな人生』1996年11月25日刊解説


②の、吉本さんの「そこにスルッと触ってくれる人はいないはずだよ、あるいはいたらいいのになあと思ったり、」という、「いないはず」と「いたらいいのになあ」の二重性の言葉がなぜかわたしの心に深く留まった。つまり、理屈で言えば、あの「大洋期」の核の部分から来ている感じ、言葉のように見えるからである。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
721 吉本さんのこと 42 ― 心理分析から ④ 「たれにもふれえないなにか」 『吉本隆明全集12』 晶文社 2016.3.25

「吉本隆明の心理を分析する」の初出は、『ユリイカ』(1974年4月号)。
吉本さんがロールシャハ・テストを受けた後の対話。被験者 吉本隆明 検査者 馬場禮子

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中間状態がない 一度ずっと繰り込んで少し超越的なものに直して、それで反応する
項目
1



馬場 さっきの、中間状態がないとか、どうしてそうなってきたんだろうかということですけどね、そういうものは幼時期から次第次第に形成されてきて、それが異性愛という方向へ移されていくはずのものなんですが、その根底のところで、情緒の交流という、中間状態を体験することがなかったのか、ということになるんですけれども。

吉本 わかりますね。・・・略・・・




馬場 そういう場合に(引用者註.混んだ電車の中で立っていて、電車が急に曲がってよろめいた時、隣の女性が「いやらしいわね」と言ったりそういう目をされた時)、女の場合とくにそうなんですね。怒りが出かかると抑え込んじゃって、相手を軽蔑するというか・・・・・・。

吉本 いや、そうじゃなくて自分も相手も、悲しいなっていう感じですよ。ちょっと理屈っぽい言葉を使いますと、そういう場合にそういうとっさの反応みたいのがストレートに出てこないで、いちおう繰り込んでしまって、少し超越的なところで反応しますね。悲しい人だなと思ったり、女の人って悲しいなと思ったり、なんでもないのにそういうふうに言われたときの侮辱されたみたいな感じっていうのが悲しいなっていうのと、両方あると思いますね。そういうふうにもってっちゃっていますね。

馬場 そういう、なまな感情の触れ合いすべてを避けたくて、超越したいという、そしてまたそういうふうにしたことの反動としての悲しさ・・・・・・、ということですね。

吉本 順序立てて言えばそうだとは思いますが、でも一瞬のうちですからね。一瞬のうちに、ぼくはそう反応しないです。でも、ものすごく、なんて野郎だ、女ってなんだろうな、っていう・・・・・・。

馬場 それはさっきの、子供の頃に女の子に言いつけられて傷ついたというのと同じですね。

吉本 同じだと思いますね。おそらく、異性だけじゃなく同性の場合もそうだと思うんです。そういうふうにパッと反応するってのはめったにないんで、あるいは反応するというか・・・・・・。きっと一度ずっと繰り込んで少し超越的なものに直して、それで反応するという、だれに対してもそうだといえばそのような気がしますけれども、異性なんかの場合とくにそうじゃないかなと思いますね。そういうことはきっと、なんかそういう細かい体験がずっとあって、それをどんどん自分で鍛えちゃって、正体わからなくしちゃったという感じなんですけどね。だからテストでもおれはなんにも感じないよ、なんにもないよと言っても、ほんとはいいくらいなんです。
 (「吉本隆明の心理を分析する」、P633, P634-P635『吉本隆明全集12』晶文社)
 ※「たれにもふれえないなにか」より






 (備 考)


わたしの特に好きな詩の一つである詩「ある抒情」(『ユリイカ』一九七三年九月臨時増刊号)については、次の対話「ぼくが真実を口にすると・・・・・・」(1974.3.6)でも少し触れてあるが、ここで吉本さんが語っている「一度ずっと繰り込んで少し超越的なものに直して、それで反応する」に関わっていると思われるので、少し引用する。

この詩の〈わたし〉を吉本さんの自画像と受け取れば(吉本さんの詩はそのように書かれているが)、〈わたし〉は、日常世界から外れた「天のあたりで」いさかいをやりつつこの世界の総体のイメージを獲得しようと、主要著作だけ上げても『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』、『心的現象論序説』、と思想的な格闘をくり広げてきた。その背後には、膨大な思索と表現と講演などがある。そうして、吉本さんの『日時計篇』や『固有時との対話』や『転位のための十篇』などの詩をたどってきた読者には親しい〈わたし〉の〈孤独〉の現状がある。孤独の孤独ともいうべきものを抱え込んできた〈わたし〉は、「世界のない世界へ/微風のない微風へ/岸辺のない岸へ/知の岸辺へ」(この詩の末尾の詩句)へ来てしまった。

下の詩句では、「きみには微塵にくだけて/普遍になつた愛が必要だ」と〈わたし〉は自身に語りかけているけど、これは上のことと合わせると、ほんとうは日常世界で「中間状態」として振る舞う〈わたし〉のイメージとして詩にも書き記せたら良いのだけれど、現実にはそうはいかないで、「きみには微塵にくだけて/普遍になつた愛が必要だ」と書き記してしまうという〈わたし〉の現状の問題であるような気がする。少なくとも、吉本さんの個としての固有性の現状からすればそのように言えると思う。


 ある抒情

  1

風の衣がきみの鼻さきをかすめると
ちいさな架空な愛になる
それから〈つかぬことをうかがいますが〉というような
あの挨拶とおなじ言葉で
事務的な嫉妬のまねごとがはじまる
この世界にはひとつの遣り方があって
隅々だけはピンでとめておかなくてはならない
風の衣はきみの心までを撫でない
けれどもそれは愛の仕草だ
いさかいは天のあたりでやり
ゆきちがう心は
雲と日ざしのむこうがわを通りすぎる
やつぱりきみは
ひとつしかない心をふたつにふりわけて
あまりに巧みなあしらいをマナーにみせようとする
ひとつのふつうの愛に揺れている
風のむこうには風があり
日ざしのむこうにはまた日ざしがそそいでいる
それらのまたむこうで
きみの心が孤独になり
孤独のまたむこうで
かたくなに世界を拒んでいる

   2

舞い遊ぶ幼女のちびた下駄のあいだから
小石が転げおちる すると
軽くなるかもしれない世界
突然夏の光が塊まつて肩におちれば
重くなることもあるありうる世界
由緒のない殺戮が
悔いることもありうる世界
いちめんに水浸しになつた虚像から
こうして逃亡している
きみには微塵にくだけて
普遍になつた愛が必要だ
情操がとおる 形がゆく
したしい骨片が空を過ぎる
尖つた心に巻きついた夕顔の蔓から
ひらかれた白い過去があらわれる
行つているのか 戻つているのか
この位置を定めるには
荒涼と地形図とがいる
 (『吉本隆明新詩集』 試行出版部)
 ※ 1から3の2の途中までの引用。







項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
722 吉本さんのこと 43 ― 心理分析から ⑤ 「たれにもふれえないなにか」 『吉本隆明全集12』 晶文社 2016.3.25

「吉本隆明の心理を分析する」の初出は、『ユリイカ』(1974年4月号)。
吉本さんがロールシャハ・テストを受けた後の対話。被験者 吉本隆明 検査者 馬場禮子
「たれにもふれえないなにか」という対話の最後に、1974.2.9の日付がある。

検索キー2 検索キー3 検索キー4 検索キー5
ところが女の人は皆目わからない、未知の領域みたいにわからないんですね ぼくの考え方 互いに人間なんだという中間状態 ぼくの理論ではそうなる
項目
1



馬場 終わりにテスターが女性でなかったら、ということをおっしゃいましたけど、女性でなかったら、どういうふうに・・・・・・。

吉本 こういう感じはあるんですよ。これは誰でもそうかな。同性だったら、だいたい十分か二十分話していたら、たいていこの人はこういう人で、こうだこうだってわかっちゃう。ところが女の人は皆目わからない、未知の領域みたいにわからないんですね(笑)。わかるための通路は自分の細君ですよ。細君を普遍化してこうだなと思ったり、だけど、細君だってわからないですよ。何年たっても、ありゃ、こういう面があったのかということはありますよ。だから本当のことはわからないという感じが多いですね。わかる通路はそれしかない、だけど茫漠としてわかんないという気持がある。本来ならば社会の半分ぐらいは女の人だから、事務的その他のことで、そんなに接触がないはずがないんです。だけど、その人たちがニュートラルな帯域にあるということはないように思います。男の人でしたら、非常に近しいところから、まあニュートラルな状態、それから非常に遠い状態、そういうところへ全部分布していて大変よくわかるように、ぼくには思えるんですけど、女の人の場合には、ニュートラルなところに考えられない。普通の人にはニュートラルなところに考えられるべき女性がいたとしたら、それは向こう側にいる、わからないところにいる、というふうにぼくには思えますね。そういうところがあります、そこがちょっとわからないなあ。

馬場 わからなさということですね。女だからやりにくいっていう、そのやりにくさっていうのは、違和感というか・・・・・・。

吉本 そうだと思います。たいへん未知なところの距離にある、そういう人がここにいるんだという、そういうところからくるんだと思いますけどね。まあ違和感もありましょうし、本来ならば反応がニュートラルに出てくるところが出てこないとか、あるところは故意にフランクにしようと思えば思うほどぎこちなくなっちゃうとか、そういうふうなことになっちゃうんだと思いますけどね。
 (「吉本隆明の心理を分析する」、P636『吉本隆明全集12』晶文社)
 ※「たれにもふれえないなにか」より




馬場 なんか、さっきの女の子に告げ口をされた話から、ふと連想したんですけども、やっぱり検査する側っていうのは、意地悪する側じゃないけれども、なんか強い側っていうか、主体をもつ側である。それがしかも女であるということで、かなり抑えなければならないアグレッションが、ほんとはおありになったんじゃなかろうか。
 
吉本 ああ、きっとそうでしょう。そこ、ぼくは肯定していいように思いますけどね。

馬場 そこにまた、テストの場面では感情を抑えなければならない要素というものが、もうひとつあったんじゃないでしょうかね。

吉本 なるほどね。そう思いますね。

馬場 たいへん苦手なことばかりさせて申しわけなかったような・・・・・・(笑)。

吉本 たいへん疲れましたよ。そのときはあまり意識しないからそれほどでもなかったんだけど、家へ帰ったらたいへん疲れていましたね。

馬場 わたくしの役割とか性別とか、そういうものは厄介な代物として映っていたはずなんだけども、またそれを意識しまいとしていらしたから。

吉本 そうでしょうね。ぼくは、これもまた頭ではよくわかっていて、ぼくの考え方っていうのは人間というのだけがあって、個々の人間がつまり一対一で他者関係をもつときに、初めて性という、つまり女性であるとか男性であるとかっていう、それが現れるのであって、本来的に女性、男性っていうそんなことはないんで、ただ個人、あるいは個体みたいのだけがあるんだと。ひとつの個体が、他の一人の他者というものと関係づけられたときに初めて性の問題っていうのは出てくるんだっていう、ぼくの理論ではそうなるんで、ちゃんとそう書いてあるんだけどね(笑)。

馬場 互いに人間なんだという中間状態っていうのが、その理論通りにいけば体験されるはずですよね。

吉本 そうなんですよ。どうも不思議でしょうがない。

馬場 理論と実際とが、どうも結びつかない(笑)。

吉本 ほんとにそうなんです、頭では大変によくわかっているつもりなんですけどね。
 (「同上」、P637-P638)






 (備 考)

吉本さんの「ところが女の人は皆目わからない、未知の領域みたいにわからないんですね」の言葉は、吉本さんの文章中で何度か出会ったことがある。これは、男女ともいくらかは共有する感覚ではないだろうか。それは、家族制度や対意識の歴史性や近世までの男は「若者組」、女は「娘組」などの地域社会の組織もあり、また、現在でも同じ生活圏にいても子どもの男と女は遊びや付き合いも別々になっているということも男→男意識と男→女意識(あるいは逆の女→女意識と女→男意識)の有り様の違いに影響を与えているのかもしれない。しかし、主要因としては、後の吉本さんの『母型論』の考察によれば、大洋期の「母の物語」の有り様に発祥しているはずである。


②に関して、私が言うのも、そんなことは踏まえていると言われそうだが、吉本さんが論理として抽象し取りだしてみせた〈自己幻想〉〈対幻想〉〈共同幻想〉は、現実には、ひとりの人間の内では分離しがたく関わり合っているからだろうと思われる。また、近代に至るまでは、純粋に個であることが析出されずに未分離であったという人類史的な歴史性もそこには関わっているように思われる。

この引用の後には、ひとりの知的な人が相手の場合、「個」であることと「女」であることが、こちらからはなかなか分離できないという話がなされている。上の関連として少し引用する。

吉本 だけど、ちょっとお訊きしたいんですが、ぼくはいつでも感ずるんだけど、知的な女性の場合、とくにそう感ずるんですが、この人は女性だとかなんとかそういうことじゃない、とにかく一人の知的な人間なんだ、というのと、そうしといて、どっかでこれは女性なんだというのといっしょに考えてないとつき合えないっていうか、そのことはものすごくきついですね。どうなんでしょうか、それはただ一人の人間だと思えばいいわけでしょうか。

馬場 それは知的であるということと女性であるということと、どういうふうに噛み合わせて考えてらっしゃいますか。

吉本 たとえば典型的な例は飲み屋さんとかなんとかのホステスとか、そういうのは初めっから自分を女性っていう役割っていいましょうか、女性だ、っていうふうにおいているわけですし、また役割としてもそう存在しています。そうだったら、こっちは男性だって思えばいい、ここに女性がいたと、こう思えばいいわけでしょう。ところが知識的な、とくに専門をもっているみたいな、そういうできてる女性っていうのとつき合う場合には、この人女性だと思ってつき合ったら、「わたし人間よ}っていうふうに言われるような気がするんです。「女性も男性もないでしょう」と言われるにきまってると思うから、だから、そうじゃない、そういうところで性っていうのは考えちゃいけないんだ、一人の専門的な人間であると、そういうふうに考えようとするでしょ。じゃそれ一本で大丈夫なのかと思うと、そうじゃないの。もうひとつどっかで女性だっていうのを置いとかないとね。

馬場 それは男性一般の感じ方、考え方じゃないでしょうか。

吉本 それは正常ですか。

馬場 そうは思いますね。だから、わたしがこんな仕事をしてるっていうことは、わたしの存在自体、男性を混乱させることだと思うんです。(笑)。

吉本 そうなんです、きついわけですよ。ほんとにそうなの。ぼくの細君は、馬場ミンコフスカヤ夫人ほど知的じゃないけども、まあ、いわばそうですよね。だから家のなかでも、きついですよ。ではないですが
 (「吉本隆明の心理を分析する」、P639-P640『吉本隆明全集12』晶文社)
 ※「たれにもふれえないなにか」より


 (追記.2022.1.30)

 わたしは、おこがましくも自分は「もてない男」のくせに二つの体験例(引用者註.吉本さんが付きまとわれたストーカー的な女性の例)をあげつらった。たぶんこの女性たちの例は、わたしの性格に根本の原因があるのではないかと思ってきた。だが現在までのところ、その性格とは何なのか、自分でよくわからないのだ。さまざまな内部探索をしてみるが、すっきりと自己解析できていない。女の人は難しいなという嘆息になる。ただ方向音痴が右曲がりと左曲がりの道をとりちがえるのと同じように、女性を取りちがえていて、それが女性に反映してあらわれるのではないかというのが、一歩まえに進んだのではないかと思っている。
 (吉本隆明『「芸術言語論」への覚書』P103-P104 李白社 2008年11月)


これは、吉本さんの最晩年の言葉である。「自己解析」が前より少しは進んだかなと思っても、相変わらず女の人はわかんないなあとつぶやかれている。たぶん、吉本さんの『母型論』の解析による個の性格の核をなす大洋期の劇は、まだ言葉というものを持たない時期という事情もあって、なかなか自己解析の手が届かないということなのだろう。



 (追記.2022.3.1)

 女の人は分からない、ということに関して最晩年の言葉からもう一つ上げておく。

糸井
難問を見ると、一生懸命、その難問と付き合う“難問好き”という人がいますよね。吉本さんが『共同幻想論』を書こうというときには、難問だったのを楽しんだと思うんですよ。

僕も、自分の得意なことについては、人がどうしてそんなことするの?ということを、簡単ではなく、難しいほうに行こうとしたこともあるんです。

あと、吉本さんとお話をしていて、よく話に出る“モテる”という話も、“モテる”やつって、どんな難しい女にも行きますよね。落ちないという女にも電話したりする。どんどん電話したり、どんどんそのことを考えたり。

で、そのことと、とことん付き合えるやつが答えを出すんですよね。今の死の話で、棺桶で焼かれるというのは、死という難問から逃げようとしていたんじゃないですかね。そして、おそらく、死という難問と、だんだん付き合えるというところが出てきたんじゃないですか。

他人から見たら、吉本さんの仕事は、なんでこんな難しいことばっかりやるんだろう、俺なら嫌だなと思うことばかりやってこられていると思うんです。でも、吉本さんはご自身の苦手なお話に関しては逃げてきた。例えば、「女の人のことは……」とおっしゃるのは、女の人のことは全部そういう風に見てきたわけですよね。

吉本
少しわかる気がします(笑)。

糸井
死の問題は若いときは難問中の難問で、考えたくないんだと思うんです。僕は難問のままですけど。吉本さんはわかってきた。怖がってはダメですよね。つぶされますよね。

吉本
怖がってはいけません。そうかあ。僕にとっては女の人は難問ですね。これは解ける可能性はない。ダメだったなと思います、子供の頃から。
 (2010年、詩人・吉本隆明が「人はなぜ?」を語る。聞き手:糸井重里 後編 ブルータス)
 https://brutus.jp/yoshimoto_takaaki_why2/







項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
723 吉本さんのこと 44 ― 老いの姿 ハルノ宵子「非道な娘」 『吉本隆明全集27』の月報28 晶文社 2021年12月刊

ハルノ宵子「非道な娘」、『吉本隆明全集27』(2021年12月刊)の月報28所収。

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ただでさえ老人は(特に最晩年の父は)、脚が不自由だし眼も見えない。薄闇に包まれた、肉体という牢獄の中に閉じ込められているのだ。 歌を口ずさんでいたり、眼だけを開けて、考え事をしている日もあった。
項目
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 転機は父が、大腸がんで入院した時だった。父がトイレに間に合わず、頻繁にベット上でモラすので、閉口したナースが、ポータブルトイレをベット脇に置いたり、先端に管が付いたコンドーム状のサックを装着させようとして父とモメ、病棟の関係は険悪になっていた。そこへうちの"舎弟"が、「こんなのありましたぜ!」と、"おしっこ7回分吸収"という触れ込みの、最強のパンツ型オムツを見つけてきた。父は「こいつぁ便利だ」と、ホイホイとそれを受け入れた。
 これが父の一種独特なところだ。無理なくラクできること、ナースにゴタゴタ言われたり、デリケートな部分に、むやみに干渉されないための、便利なアイテムとして導入しただけだ。通念としてある、自分がオムツになるのは恥という、概念もプライドもゼロなのだ。
 パンツ型オムツは、最後の入院をするまで自分の力で、はき替えていた。なのでお陰さまで、私は父のオムツだけは、替えたことがなかった。しかし父は、"おしっこ7回分"を過信しきっていた。ヘタすりゃ1日1回しか替えなかった。すると、さすがにオーバーフローが起きて、布団を盛大に汚すことになる。時には寝ながらオムツをはき替えようとして、脚を通したところで力尽き、下半身丸出しのまま寝落ちり、布団にモラしていることもあった。
 「一応自分でトイレに行けるんだからさ、間に1度トイレに行くとか、もうちょいこマメに、パンツ替えようや」とは言ってみたが、聞くような相手ではない。まぁ、分かっちゃいるけど、身体がおもうように動かないのだろう。それが老いというものだ。




 私は父には(と言うよりご老人全般には)、できる限り自分でやりたいように、やってもらいたい――という考えの持ち主だ。ただでさえ老人は(特に最晩年の父は)、脚が不自由だし眼も見えない。薄闇に包まれた、肉体という牢獄の中に閉じ込められているのだ。そこで"看守"に急かされ、汚いとさげすまれ、乱暴に扱われてどうする。人生の最後に、こんなに惨めで情けない思いをすることはなかろう。せめて自由にやってくれ――と、こと動作や生理現象に関しては、おくびにも不快な態度を見せなかったと自負する。それで父を傷つけたことは無い(はずだ・・・)。
 しかしそこを外れると、複雑に屈折した感情がある。思いもよらない瞬間に火が着き、消火不能に陥る。
 亡くなる1年程前だったと思う。その頃の父は、1日のほとんどを眠りがちで、1日に、うまくいけばなんとか2食。朝食(と言っても午後3時頃)に起こしても、自分でオムツを替えて、全身くまなく(自分独自の)マッサージをし、途中何度も寝落ちりながら下着を着替え、食卓につくのは夜の9時――なんて生活になっていた。たまに入るインタビューのお客さんや、病院の日などは、必死こいて起こしたが、強要したり急かしたりがイヤなので、なるべく父のペースに任せていた。寝所としていた奥の客間に起こしに入ると、眠っている時もあれば、眼を閉じたまま、歌を口ずさんでいたり、眼だけを開けて、考え事をしている日もあった。「キミ、今はじめて来たのか?」と言うので、「そうだよ」と答えると、「さっき白い着物を着た女の人が入って来たから、キミかと思った」なんてコワイことを言うから、もう父は半分、夢と現(うつつ)の境界の世界で、生きていたのだろう。
 (ハルノ宵子「非道な娘」、『吉本隆明全集27』(2021年12月刊)の月報28所収)






 (備 考)

家族に病気の者や老いた人がいれば、介護ということが問題になってくる。〈介護〉という分野の学問や研究などとは別に、介護する人介護される人との関係の劇がくり返されている。そして、そのことは表現の世界に登場しない大多数の人々にとっても外部のわたしたちにとっても、多くは黙劇として通りすぎることがほとんどだ。吉本さんも娘のハルノ宵子も表現者であったがゆえに、ここにこうして吉本さんやその家族のことが開示されている。吉本さん自身は、自らに訪れた老いのことを含めて今までに例がないほど公開的に振る舞ってきたから、たとえ生きていたとしてもこんな娘からの視線や言葉にもとやかくは言わないと思う。わたしたちはただ、文学や思想の世界を深く徹底して駆け抜けてきた者の、病とともに老い衰えてしまったあまりにも人間的な普通の姿や振る舞いとして受けとめればいいのだと思う。


ハルノ宵子「非道な娘」には、吉本さんの家族が危機的な状況にあった時期のことも触れてある。表現者と生活者の二重生活に入った大きな亀裂である。

'80年代以降、父は仕事が忙しくなり、母と向き合わなかった。お陰で、ちょうど京都から戻って来た私に(引用者註.これは年代的に見ても京都の大学生活の卒業であろう)、ドドッと母の依存が崩れ込んできたのだ。「もうちょっとお母ちゃんの相手してよ。すべてこっちに来て何もできないんだよ」と、父に"直訴"したこともあったが、「よし分かった。このひと山を越えたらな」と言ったまま、次の"ひと山"が来て、それっきりだった。分かってはいる。父は歴史に残るような仕事をこなし、その上でさらに、食事当番など、家事も(少なくとも母よりは)担っていた。感謝しかない。しかし母とは向き合わなかった。向き合った時は、ぶつかり合う時だった。もしかすると、お互いそれをどこかで分かって、回避していたのかもしれない。"家"を壊さないために。しかし、そのとばっちりを喰らい続けたのはこっちだ。


これ以後にも、「そして母は、父への最大の復讐として"自死"を決意していた。」という規模の夫婦の危機があったという。「吉本さんのおくりもの 18.吉本さんの坊主頭の写真から (追記2021.12.22)」で一度触れたことがある。娘ハルノ宵子の「ヘールボップ彗星の日々」(『吉本隆明全集12』の月報9)によると、

 その頃、我家は最大の家庭崩壊の危機に陥っていた(それまでも何度もあったが)。ヘタをすると今回は、もっと最悪なことが起きる予感すらあった。
 とある父の著書――正確に言うと対談本の内容が、母を激怒させていたのだ。

これに対して、吉本さんは、娘ばななのアドバイスを受けて、「小さな小さなダイヤモンドのペンダント」を奥さんにプレゼントし、丸坊主になった、それで危機的状況は収束したという。1997年4月1日頃のことである。
夫婦の危機的な状況と言えば、雑誌「試行」(註.1)を出し続けることは、家族をも巻き込み崩壊させかねないものがあると吉本さん自身もどこかで述べていたことを覚えている。
夫婦の危機的な状況は、吉本さんの思想追究の熾烈な戦いと引き換えのように訪れたことが娘ハルノ宵子の目には映っている


 (註.1)
「吉本隆明略年譜」(作成・石関善治郎)によると、
1961年(三十七歳)
 『試行』創刊(発行日・九月二十日)。
1997年(七十三歳)
 『試行』74号を以て終刊(発行日・十二月二〇日)。創刊以来、妻・和子が事務を担ってきた。






項目ID 項目 論名 形式 初出 所収 出版社 発行日
724 吉本さんのこと 45 ― おしゃべりの文体 「大衆としての現在」 インタビュー 『吉本隆明資料集181』 猫々堂 2018.12.30

※ 言葉の吉本隆明①の項目226と227の「しゃべり言葉の文体」で、これは一度取りあげた。もう少しすっきりさせて再度同じ文章から取りあげてみる。

『大衆としての現在』1984年11月5日刊 所収 聞き手 安達史人 ほか

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おしゃべりの文体 こういう記事だってさ、しゃべったそのまんまの語調とか口調がでるわけじゃないから 下町の悪ガキ発の吉本さんのしゃべりの自然性 書き言葉(知識)と生活人の間の分裂
項目
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吉本 ほんというとおしゃべりの文体、そいつが見つからなけりゃダメなんだっていうのが僕の感じ方なんです。・・・中略・・・
あのそれで、あの、ほら、糸井重里やそれからビートたけしとか、おしゃべりをしているの、TVなんかで見てて、そんときはね、この人たちはしゃべり言葉として出来てて、自分のスタイルを持っててね、ちゃんと肉体がしゃべってるみたいな、こういう格好のこういう体つきのこういう顔している人は、こういうしゃべり方する以外にないよなっていう、それが出来てるって感じがするんです。
 だけど、糸井さんでもビートたけしでも自分がしゃべったことを本にするでしょ、そうすると、それはやっぱりダメだって思ってますね。本当は、生にしゃべってるほどよかあない。そうおもうわけです。何故かっていうと、そうなってくると、どうしても、文字になりますから意味が固定してしまいますよね。しゃべってる言葉みたいにフワッと聞いたら・・・・・・相手は必要なだけ受け取ってあとはフワッと消えてしまうんじゃなくて、固定化してしまいますから。
 (「大衆としての現在」P88-P90『吉本隆明資料集181』猫々堂)




安達 じゃそういう意味でいうと、あの読む側ではね、結局最初から書き言葉だっていうふうに読む場合と、それで、これは話し言葉なんだよっていう事で読む場合っていうのはやっぱり意識としてあるんじゃないかと思うんですよね。

吉本 ああ、そうでしょう。こういう記事だってさ、しゃべったそのまんまの語調とか口調がでるわけじゃないから、速記だったらそれを起こした人とか、起こしたのをまたアレンジした人の文体が、そこに入るわけでしょう。しかし、一応は御本人たちが読みかえしているわけだから、合作として出来てる言葉でしょう。そうすると、いま流通してるしゃべり言葉の規準みたいなのになりますよね。そうすると、その人たちはやっぱり自分のしゃべり言葉の文体に責任もたなくてはならんということになるような気がするんです。
 (「同上」P91-P92)




安達 それ、あれですか、『試行』の一番新しいやつ(第六二号)で、偽悪的というか、わざと、まあ、ああいう調子は前から吉本さんあったと思うんですが、極端に、こういう言葉、使われてるでしょう。おめえ、とか、ばかやろうとか、それはひとつの試みなわけですか。

吉本 それは割にひとりでに出てきます。(笑)僕もビートたけしと同じで、ほら、下町の悪ガキですからね。環境もおんなじ、それからもう、父親、母親もそんな違わねえみたいなね。だから僕にはそういう要素があるんですよ。ただあれは文体にはなってないんです。勝手なこと言ってるだけで、本当は文体になってない。あんなのじゃないです。

安達 そうすると場所があるわけですか。自分の文体っていう場所と、それから、こっちはガッとやっちゃうんだみたいなところと、その使い分けっていうか、そういう場所があるわけですか。

吉本 いや、そうじゃなくて、何て言いますか、書き言葉っていいましょうか、知識っていいましょうか、そういう事にこだわり続けた自分っていうのと、そういうのを取っちゃったら、ただごく普通の生活人というふうにした自分っていうのと、そのあいだの分裂じゃないですか。

安達 つまり〈解体〉ですか。

吉本 そういう解体ってほどのことではないんです。つまり僕はごく普通の生活ですから、地でそういった、それだけのことで、文体上の工夫もないし、しゃべり言葉の工夫もない、そういうところになっちゃうだけで、本当は、良くないことですね。

安達 良くないってことが良くないんですか。

吉本 ええ、スタイルがないってのが良くないとおもうんです。カルチャーについての書き言葉なら、自分なりのスタイルがあるつもりですが、それをとっぱらっちゃうと、スタイルもなにもないただの生活人の自然体があるだけ。そこにスタイルが見つからないところが、面白くないかなあって自分ではおもいますけどねェ。
 (「同上」P102-P103)


吉本 僕はですね、頭の構造がね、書き言葉になってるとおもってるんですよ。だから、これはね、こういうふうにしゃべってる時はそれほどそういうことは意識しないんですけれどね。大ぜいの所でしゃべってるとよくわかりますね。僕は翻訳してますよ。
 高速度写真ででも撮れば、一度頭のなかで書き言葉で言ってね、それを話し言葉に翻訳して人の前でしゃべってますよ。それは自分で良くわかります。だから、それだからそれをあのー知識教養人っていうと、そういう意味では言えばそうなんですよ。そういう病的な現象をね、取ってしまわないと、つまり解体できないとね、本当は俺は知識教養人じゃねえやって言えないような気がするんです。僕はそういう時には、全然それをぬきにして、ただね、育ちが下町の悪ガキだったのよっていう所へ行けば、自然しゃべり言葉になるんですけどね。そうじゃなくて、頭の構造でしゃべり言葉にならない。うまくできないんですよそれが。だから、それができないっていう意味で知識教養人だっていえばそうなんじゃないでしょうか。
 (「同上」P105-P106)




吉本 いや本当にそうだとおもいます。内面でぎくしゃくしてるとおもいます。だから今日のだってきっとね、速記起こしてごらんなさい。なんでくどくどおなじこと言ってんだって必ずそうなってんです。そのつど、もううんざりしてね。話してる時は、そんなに気にしてないんですよね。あの内面で話し言葉と書き言葉っていうことの間、あるいは知識教養と、生活人の間って言いましょうか、その組合わせが自分の内部でギクシャクしてるんじゃないでしょうか。そこの問題なんじゃないんでしょうか。


吉本 ・・・略・・・ それからもうひとつ、さっきも言った酔っぱらいとおんなじで、不安なんじゃないかとおもうんです。つまり自分の言ってることがね、あの、相手に通じてんのかなあ、どうかなあっていうのが不安なんだとおもうんです。子供の時からそうでしたけどね。自分の言葉ってのは、他人には通じないんじゃないかなあって不安があって、それである時から、つまんないことを書くって始めたような気がしてますけどね。酔っぱらいとおんなじで、もう言ったことを忘れちゃったから、またしゃべる。自分ではそう解釈してるんです。

安達 どうして不安なんですか。

吉本 いや、それはやっぱり、幼児体験じゃないでしょうか。つまり無意識が、かなり荒れてるところがあるんじゃないでしょうか。自分では、いろいろおもい当ることはあるんですけどね。無意識が荒れてる所があって、そういう意味で、そうとう根源的な不安みたいなのがあるんじゃないでしょうか。自己分析しきれないことはないんだけども、体験の記憶の範囲では、よくわからないんです。僕の理解のし方では、乳・幼児期の母親との関係ってところにあるって気がしてしかたがないんです。僕は体験の記憶はないですから、どうもおもい当ることはないんですが、間接的に確かめたりしてみるとね、どうもそうじゃないかなって気がします。
 (「同上」P108-P109)






 (備 考)

とても重要なことが語られていると思う。吉本さんの頭の構造が「書き言葉」(知識、知識教養人)になっていて、下町の悪ガキ出身のしゃべり言葉は自然性として口に出るが、「しゃべり言葉」(生活人)の文体ができていなくて、両者の間の分裂がある。そうして、それに関わるものとして、しゃべっている時に「他人には通じないんじゃないかなあって不安」がある。その元を辿れば、無意識がかなり荒れてる「幼児体験」がある。割りとできているという「書き言葉」(知識、知識教養人)の文体と「しゃべり言葉」(生活人)の文体との統合の問題が語られているが、これは知識世界に足を踏みいれた者なら誰にも関わることである。

上はひとりの人間における知識人と生活人との関わりの現在的な問題であるが、これより前の『最後の親鸞』で捉えられた知の始末のつけ方とも関わるはずである。こちらは、ひとりの人間における〈知〉の始末のつけ方として生涯的な問題として提出されている。わたしは、ここでは記さないがそれにはいくらかの疑念を含めてどうなんだろうというわからなさの中にいる。


最後の親鸞は、そこ(引用者註.『教行信証』のこと)にはいないようにおもわれる。〈知識〉にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま(引用者註.「そのまま」に傍点)寂かに〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的に〈非知〉に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる。橫超(横ざまに超える)などという概念を釈義している親鸞が、「そのまま」〈非知〉に向うじぶんの思想を、『教行信証』のような知識によって〈知〉に語りかける著書にこめたとは信じられない。
 「どんな自力の計(はから)いをもすてよ、〈知〉よりも〈愚〉の方が、〈善〉よりも〈悪〉の方が弥陀の本願に近づきやすいのだ、と説いた親鸞にとって、じぶんがかぎりなく〈愚〉に近づくことは願いであった。愚者にとって〈愚〉はそれ自体であるが、知者にとって〈愚〉は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題である。
 (吉本隆明『最後の親鸞』最後の親鸞 1976年10月)







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725 吉本さんのこと 46 ― 目配りの徹底さと公平な評価の視線 松岡祥男「成田昭男さんに感謝する」 2021.12.10

※ 松岡祥男「成田昭男さんに感謝する」は、「隆明網(リュウメイ・ウェブ)」内の「猫々堂『吉本隆明資料集』“ファン”ページ」に公表
 http://www.fitweb.or.jp/~taka/Nyadex.html

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松 『VAV』と成田さんのことで附け足すと、ある時、吉本さんと話していて、吉本さんが「松岡さん、いまもっともおもしろい同人誌は名古屋の陶山さんたちが出しているものです」 と言われたことがある。その時、おれは『VAV』を知らなかった。それからかなり時が経過して、脇地炯さんや浮海啓さんなどの同誌への寄稿者から送られてくるようになった。そこに載っているバックナンバーの目次をみて、それが陶山幾朗が内村剛介にインタビューしていた頃を指していることが分かった。いや、これは違うかもしれない。その前に一度、成田さんから『VAV』を送ってもらったことがあったような気がする、その返信で吉本さんの話を伝えたような記憶があるからね。

猫 吉本隆明の読書量は凄い。送られてきた本や雑誌が足の踏み場もないくらい積まれていたからな。
 (松岡祥男「成田昭男さんに感謝する」 2021年12月10日)
 ※「隆明網(リュウメイ・ウェブ)」内の「猫々堂『吉本隆明資料集』“ファン”ページ」に公表






 (備 考)

 「吉本隆明の読書量は凄い。」と松岡さんは書き記している。たぶん吉本さん家を訪ねた時に目にした光景も加わった思いだろう。吉本さんが若い頃「カール・マルクス」で書き記した言葉、人間は依然として境遇や地位などで価値の高低があるように社会では見なされる面があるが、マルクスであれ普通の庶民であれ人間として等価である、と言い切った言葉は、決してよそ行き言葉ではなく思想としての肉体性や生活実感として吉本さんにあったものである。だから、できるだけ多くの表現に触れてそこから何かを発掘しようとしてきたのだと思う。吉本さんが漫画などのサブカルチャーと呼ばれる世界にも自由に出入りできたのもそういう人間としての自在性や包括性から来ているように思われる。吉本さんの場合は特に、その思想性はわたしたちが実感できるレベルまで、つまり生活日常のレベルまで意識性と自然さとが織り合わさった形で徹底している。

吉本さんの目配りの徹底さと公平な評価の視線は、その初期からの批評を読みたどってもわかるはずだが、例えば、吉本さんが『言語にとって美とはなにか』で取りあげた作品や批評の数を見渡しただけでも、あることを探究する科学者のように必要なことは徹底して成されていることが分かる。もちろん、作品の全文を読み通してなくて、科学者のように作品の必要なところにあたっただけの場合もあるのかもしれない。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
726 吉本さんのこと 47 ― 広場に出る 「持続あるのみ。やめたら、おしまい」 対談 『吉本隆明資料集160』 猫々堂 2016.11.20

 (「持続あるのみ。やめたら、おしまい」は、遠藤ミチロウとの対談。(2003年4月21日)
 ※初出、遠藤ミチロウ『我自由丸 ― ガジュマル』2003年12月6日発行
 ※本文によると、1983年にも吉本隆明/遠藤ミチロウの対談がなされている。
 

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広場に出てやろうか 僕は文学のことだけしか知らないけど 読む人が変わって来たなっていう感じ
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吉本 でも言葉があれですよね。やっぱり言葉が聴いてる人を「なだめる」ような感じがあって、前に比べるとゆとりがあって豊かになったなっていう感じがありますね。

遠藤 そうですか。向こうから直接聴きに来るお客さんていうのは、やっぱりファンの子達なんで、十代後半ぐらいから二十代が一番多くて、三十代もいるって感じなんですけど。そうじゃないライブもあって、本当に小学校の子供から八十ぐらいのおばさんまでいる時もあるんですよ。スターリンのときはガーッと音出した瞬間に「嫌っ!」ってなる大人達も、今は聴けちゃうんですよね。なんだか分からないけど。で、聴いた結果はやっぱりそれなりにいろいろ応が返って来て、その意味では逆にいろんな人に聴かせれるなっていう。唄う内容は変わってないんですけど、スタイルとしてどんな人にでも聴かせれる面白さっていうのはすごい感じてますね。

吉本 うーん、うんうん。

遠藤 特に僕なんかより年が上の人がいるところで唄っても、多分そこに十代の人がいようがそれぞれの反応があって、そんなに極端に変わんないんですよ。それがすごい面白いなって。もう客を選ばなくなっちゃったっていう。それが一人で唄ってる面白みですね。どこで誰を相手にしたって構わないんだっていう。

吉本 へえ~。

遠藤 普通だったらみんなに分かり易いように、言葉を分かり易くして行ったりとか。そういうんじゃなくて単純に「音」だけの世界なんですけど、音だけをまず誰でも受け入れられるような感じでいいんじゃないかなって、ってところに持って来たんですけど。

吉本 いやあ、とてもそれが、僕なんかも「言葉」でそういう感じなんですよ。ようするに意識して文字を書くってあるんですけど、やっぱりなんとなくね、そういう時に僕は少し「広場に出てやろうか」っていう言葉を使うんですよ。

遠藤 はい、はい。

吉本 「広場に出ている」って感じが前と全然違う。

遠藤 そうですね。前はどんなに大きな会場でもここはスターリンのファンが来るところだって言う密室性があって、ある意味では排他性なんですけど、それが今ないし、実際ステージに立ってみた時にファンだけがいるライブよりも、僕の存在を知らない人間がほとんどのときのライブの方がすごいある種の緊張感とやりがいがあるんですよね。その客をこっちにガーンッと向けさせたら「あいつなんなんだ」って思わせて、「でも、あの唄面白かったな」って思わせるところに一人で唄ってる醍醐味があるっていうか。




吉本 そうですね。それはとても良くわかります。僕、辻仁成のテープを観てて、この人は弾きながら文句言ってる、文句っていうのは「お前あっち行け」っていう感じの文句を言ってるって感じ。あなたはものすごくなんか人を「なだめてる」っていうか、なだめてる感じっていうのがとても伝わって来たんですね。それが前と全然違うところ。僕は文学のことだけしか知らないけど、でもそれでないともう間が持てないっていうのか、ようするにテンポが合わないっていうんですか、少し、これはこういう字を書いてこういう風にやってると間が持たないなって感じが。で「それじゃあ広場へ出ましょう」って感じになったんですね。そうするとまあ遠藤さんもそういうことを感じるんでしょうけど、多分読んでる人の顔は分かんないですけど、読む人もね、ちょっと質が違ってるかなって感じがありますね。違ったのかなっていうところはこっちがある程度意識的に書いてる調子なんですけど、それがやっぱりついて来れねえっていうのか、分かんねえっていうのか分かりませんけど。そういう人が減っていって、そうじゃねえんだこういう人達ってのは俺初めてだなっていうのが、「広場に出よう」って前には見当たらなかったなっていうくらいに、読む人が変わって来たなっていう感じはあるんですよ。実際分かりませんけど。顔も分かんないし、ただ本当に感じだけなんだけど、そういうところで前と少し違ったかなって感じがするんですけど、前と同じようにしてて、ついて来れないっていうのは、ついて来れない方が正当なのかも知れないし、こっちが濃度が薄くなっちゃったってことなのか分かりませんけどね。ついて来れない人と、それからなんかこれは初めてだぜっていう人がほぼ同数ぐらい出たり入ったりっていうのがあるっていうのが、今の僕なんか実感はそうですね。
 (「持続あるのみ。やめたら、おしまい」、P89-P91『吉本隆明資料集160』猫々堂)
 ※末尾に、(2003年4月21日)とある
 ※遠藤ミチロウ『我自由丸 ― ガジュマル』2003年12月6日発行
 ※①と②は、ひとつながりの文章です。






 (備 考)

①では、吉本さんが聞き役に回っている。音楽グループの「スターリン」の活動からソロ活動に移って、遠藤ミチロウが出会ったことも「広場に出た」ことだったろう。それと、「広場に出る」以前と以後に吉本さんが体験したことや実感とが、シンクロナイズしているように見える。そうして、この「広場に出る}という問題は、表現者に限らず、職場や家族の中でも誰もが体験できる問題だと思う。

では、「広場に出る」ということはどういうことだろうか。イメージとしては、吉本さんが若い頃から述べてきた「社会総体のイメージ」を獲得するといっても、そこではどうしても大きく変貌した吉本さんの言う消費資本主義社会の渦中を生きる普通の人々の具体性の感覚や感じと出会う必要があるということだろう。やはり、この世界や他者にはイメージとしてであれ直接触れてみないとわからないということがある。そして、広場に出たときは音楽であれ文学であれ、世界を捉える言葉も問題となる。ここから、「分かり易い言葉」ということが出てきたのだと思う。

この「広場に出る」や「わかりやすい言葉」を吉本さんが語り始めたのは、いつ頃からだろうか。わたしはよくわからないのだけど、『重層的非決定』(1985.9)の頃には十分意識されていたように思う。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
727 吉本さんのこと 48 ― わかりやすい表現 「持続あるのみ。やめたら、おしまい」 対談 『吉本隆明資料集160』 猫々堂 2016.11.20

 (「持続あるのみ。やめたら、おしまい」は、遠藤ミチロウとの対談。(2003年4月21日)
 ※初出、遠藤ミチロウ『我自由丸 ― ガジュマル』2003年12月6日発行
 ※本文によると、1983年にも吉本隆明/遠藤ミチロウの対談がなされている。
関連項目694「わかりやすい表現」、これは「広場に出る」こととは関わりなく、一般性として述べられている。

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分かり易いっていうのは、意識的なんです。その分かり易さっていうところは、自分の現在の「一つの鍵」なんだ、って思っているくらいに重要視してるんですけどね。 『資本論』を『窓際のトットちゃん』と同じように語れなきゃ
項目
1



遠藤 最近、吉本さんの本を読むとすごい分かり易いんですよ。言おうとしてることは多分変わんないと思うんですけど、すごい分かり易くなった。その分かり易さっていうのが、多分新しい読者っていうのを獲得すると思うんですよ。ひょっとしたら分かり易くなってることが、逆に物足んないっていう風に感じる人達は違うんじゃないかっていう風になってくと思うんですけど。

吉本 ええ、そうですね。おっしゃる通りで。そうだと思います。自分でも分かり易いっていうのは、半分は意識的な努力っていう言い方はおかしいですけど、意識的なんです。その分かり易さっていうところは、自分の現在の「一つの鍵」なんだ、って思っているくらいに重要視してるんですけどね。だけど、昔からの人はやっぱりそれは面白くねえってことで外へ少し遠ざかって行くっていう感じがします。ただの感じで確かめたことはないんですけどそう感じます。意識してそうなんだから、なんとなく見失っちゃったなっていう感じはないんですよ。充分、分かってるっていう風に自分で思ってます。人はどう思ってるか知らないですけど(笑)。「分かんなくなっちゃったよ、こりゃ」っていうのはいつの時代に対してもいろんなことに対しても、僕はまだないつもりなんですけど。そこは一番ないつもり。いやお前は本当にわかんなくなっちゃってるんだ、っていう言い方が正確なのかどっちか分かんないですけど、でも自分ではね、わりあい、内心ではこれが一番良く分かり易いところだよっていう私感はあるんですけどね。

遠藤 吉本さんが以前おっしゃっていたことで、『資本論』を『窓際のトットちゃん』と同じように語れなきゃ、っていうのありますよね。

吉本 そこはありますよね。そこは自分なりによく分かってるつもりで、本当はこれは妙だぜっていう感じになる時がありますね。で、そういうのと遠藤さんの場合は、やっぱり定年過ぎたお年寄りが聴くってことが・・・・・・。

遠藤 もあるんですよ。たまに。イベントとかで。
 (「持続あるのみ。やめたら、おしまい」、P91-P93『吉本隆明資料集160』猫々堂)
 ※末尾に、(2003年4月21日)とある
 ※遠藤ミチロウ『我自由丸 ― ガジュマル』2003年12月6日発行






 (備 考)

「広場に出る」ということは、世代としても、ものの感じ考え方としても、多様である世界にさらされるということであり、その世界に向かって語り、読者を獲得しようとすれば、多様性に対応する開かれた言葉が要るだろう。そこで浮上してきたのが、「分かり易い言葉」ということだったのだろう。

その現在から振り返れば、吉本さんの従来は割りと閉域の思想や文学(批評)の文体であり、たぶんあるミュージシャンに対するファンの関係に似て、音もその表現も特定性や固有性を持つようなものと感じられるようになったということだろう。


音楽であれ文学であれ、広場に出れば世界を捉える言葉も問題となる。ここから、「分かり易い言葉」ということが出てきたのだと思う。吉本さんは、分かり易い表現に対して意識的であり、その分かり易さを自分の現在の「一つの鍵」だと重要視している。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
733 吉本さんのこと 49 ― 再就職のこと 「私の青春時代 ― 技術者として」 インタビュー 『吉本隆明資料集182』 猫々堂 2019.1.30

初出 ※『Think tank 〔LAB〕』第4号 1986年9月10日発行

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項目
1


 東洋インキを退職してから(引用者註.本分の小見出し)

―― 会社をやめられた理由は何ですか。

吉本 よくそういうことは書いたりしているんです。印刷インキの会社は、人事問題、人間関係、労働条件など産業の中で一番遅れているんですね。それで、途中から、東洋インキの労働組合の責任者になって、それも専従ではなく傍らでやってたりして、労働条件、人事問題、給料の賃上げがどうだとか、僕らがそんな風なことをやって近代的な仕方を会社にも教えたみたいなもんなんですね。そういうことが会社を怒らせた原因でしたね。向こうから言えば、追われるように、こっちから言えば蹴飛ばすような感じでやめましたから、大変だったですね。




 ああいうことでやめますと、他の製造会社ってのに入社するのは不可能なんです。勿論就職しようと思ったって全然だめだってのが初めからわかっているから、編集関係の会社に、理工系で就職するとしても、結局、最終的に信用調査みたいなことをやると、労働組合の争議で会社を出たってことで、全然だめでしたね。
 随分いろんな所の就職試験に行くんですね。あと二、三人とかに残るわけですけど、そのあとが駄目なんですね。必ず駄目でしたね。だから僕はそう思っています。技術での就職はもう不可能に近いくらいでした。
 そういう時にあの遠山啓さんが見かねて、先生の学生時代の友人が特許関係の仕事をしているからその人の所へ手伝いに行かないかと言われて、特許事務所に勤め始めたんです。それでなんとかやっと食べられるようになりました。
 (「私の青春時代 ― 技術者として」P89-P90、『吉本隆明資料集182』猫々堂)
 ※『Think tank 〔LAB〕』第4号 1986年9月10日発行
 ※①と②は、ひとつながりの文章です。






 (備 考)

若き吉本さんが、東洋インキの労働組合の組合長になり、ストライキを行い、その後の会社の対応・処遇もあり、また同僚との居づらい関係もあり、会社を辞めたということは知っていた。吉本さんは、経済的にも精神的にもきつい状況にあったはずである。ここから「遠山啓さんが見かねて」知り合いの特許事務所を紹介し、吉本さんが就職したというつながりは念頭にはなかった。

今から45年程前、わたしが大学を出て就職する頃にもこれと似たような状況があった。「信用調査」みたいなものがあるらしいということは耳にしたことがある。企業などは、そんなことを今もやっているのだろうか。
わたしの場合は、国文科で先の就職のことなんかほとんど考えていなかったが、3年生になった頃、高校の先生になろうかなと思って教職関係の教科を取り出した覚えがある。
その少し前だったかもう全国的な学園闘争の収束時だったと思うが、当時、大学の新寮建設が問題となっており、また不可能に近い寮の食堂のおじさんたちの「公務員化」も掲げていて、大学側との交渉を何度も重ねていた。ある時の交渉で缶詰みたいな交渉と見なされたのか、大学の要請で機動隊が導入され新寮獲得委員長が逮捕された。わたしは、ひとつの寮の寮長で参加していた。逮捕された寮での知り合いは、政治党派に属していたから見せしめ的に逮捕されたのかもしれない。その後、彼は大学をやめてしまった。わたしの場合は、そのような「信用調査」でチェックされたのかどうかわからないが、、大学卒業して公立高校の教員に採用された。しかし、公立高校の先生は、石の上にも三年(?)でやめてしまった。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
735 よくわからないこと ― 性同一性障害のこと 現在への発言「家族・老人・男女・同性愛をめぐって」 インタビュー 『吉本隆明資料集182』 猫々堂 2019.1.30

初出『吉本隆明が語る戦後55年』第10巻 2003年3月10日発行
   聞き手 内田隆三・山本哲士

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僕らは性については未熟なんだろうなと思うんです。 たとえば、性同一性障害というのは、何なのかまったくわかんない、本当にわかんないんですよ。
項目
1



山本 男が求める女性的表現は、女性の側からすると女性性じゃなないんですね。ただ男に媚びてるだけだということになります。・・・中略・・・
 だから、自分がレズビアンだということを強く表明する女性は、本当の女性性みたいなものをかなり歴史の長い幅でもち得ている。別ないい方をすると、女は男に対して人類史的にかなりの我慢をして来ている、そうやって我慢して来ても失われないものの表現が、いまではレズビアンの同性愛のほうから出ている、しかもそれが異性愛の否定にはなっていない――。ここのところは、かなり本質的だと感じています。

吉本 僕らは性については未熟なんだろうなと思うんです。「何いってんだい、よせやい」なんていうやつもいますが、僕は本当にそう思っています。たとえば、性同一性障害というのは、何なのかまったくわかんない、本当にわかんないんですよ。
 これは運命的なもののようにいわれていますが、本当にそうなのか、どこがどうだとそうなるのか、僕にはよくわからないですね。それはちゃんと説明してもらわないとわからないんですが、こうなってくると、僕には知恵が足りないなという気がしてしょうがないんです。
 性同一性障害といわれる人と、男っぽい女の人とか女っぽい男の人とは、どこが違うんだというのがよくわからないんです。本質的に違うのかどうか。やっぱり違うんだということで、そういう言葉を医者が作りだしたんでしょうが、それだけではどういうことなのかはよくわかりません。そういうわけで、女性の同性愛を考えるとなると、問題は相当複雑で簡単にはいかないだろうと、僕なんかは思うんです。

山本 この問題は、『心的現象論』でいいますと、「了解の様式」と「了解の様相」のところですね。あそこで吉本さんが提起されている問題点から、ジェンダーとセクシュアリティの問題を考えるのがいいのかなというところから考えたのが、僕がいまいったような構図なんです。
 了解の時間性として個人の時間性を超える共同幻想の領域があって、その領域が入ってくることを考えに入れないと、家族内の構成で男になるか女になるかと考えると、まさに性同一性障害みたいな話になっちゃうわけです。あるいは半陰陽がどうだとか性器的な身体の問題になっちゃいます。その了解の時間性を、そこまでの幅で考えなければいけないんだなということを、実際の同性愛者をちょっと知っていることからも感じるんです。
 また、ゲイがなぜ女性に近づこうとするのか、身体まで改造して、なんでそこまでと思うんです。レズビアンはそこまでやりませんが、ゲイは女性に近づくんですよね。
 僕が知っているヨーロッパの女性は、ゲイの人はものすごくデリカシーがあるといっていました。日本の男は全然セクシュアルじゃないけど、ゲイの人たちはとてもセクシュアルだというんです。
 別な文化というよりも、男であることで喪失しているものを、女性性の表現とかゲイの表現とかレズビアンの表現で、きちんともち得ているということが、いま目の前の諸関係に起きているように感じます。

内田 男が対幻想の能力をなくしつつあるということでしょうか。

山本 というより、はき違えているんです。

内田 男たちがはき違えてきた幻想の累積は大きいということですね。

吉本 いやあ、今日はとてもいい話を聞いて、よかったと思います。
                                        (2002年10月7日)
 (現在への発言「家族・老人・男女・同性愛をめぐって」P74-P76、『吉本隆明資料集182』猫々堂)
 聞き手 内田隆三・山本哲士
 初出『吉本隆明が語る戦後55年』第10巻 2003年3月10日発行






 (備 考)

「たとえば、性同一性障害というのは、何なのかまったくわかんない、本当にわかんないんですよ。」こんなふうに吉本さんが語るのは珍しいと思ったから、このことはよくおぼえていた。もちろん、このことについてわたしはよくわからない。

吉本さんが、ここで「僕らは性については未熟なんだろうなと思うんです」と述べられているのは、たぶん固有の性や性関係や子育てによって培われてきた日本人一般のことだろうと思う。また、吉本さん自身は、女性が特に苦手であるとよく語っていた。そういうことからすれば、「女性の同性愛を考えるとなると、問題は相当複雑で簡単にはいかないだろうと、僕なんかは思うんです」ということになりそうだ。


ここを書いていて、思い出したことがある。以前に偶然ネットで出会ったのだが、吉本さんの晩年に「性を語る」というインタビューがあった。その中に、上に記したような内容で語られている。


「吉本隆明、性を語る。」より
http://vobo.jp/takaaki_yoshimoto.html
2011年7月5日、東京・駒込、吉本隆明邸にて。吉本隆明86歳。
インタビュー/辻陽介


―なるほど。では質問を変えます。吉本さんにとってエロティシズムとはどういうものでしょう?
 
吉本 エロティシズム…。僕には考察の主題にしているものが幾つかあるんですが、正直に言いまして、エロティシズムはその中には入ってこないんですね。これはエロティシズムが重要ではない、ということではないんです。しかし、エロティシズムと聞かれても、自分がこれまでに演じたエロティシズムと、それから先程お話したような、そういう座に招いてくれた人との思い出が蘇ってくるだけで、それ以上のエロティシズムというのは僕の中にはないと思います。

これは自分で自分に対して考えていることなんですが、僕はそういう関心がわりあい薄い方じゃないかなぁと思うんです。良い悪いとかの問題ではなく、性格の問題だと思うんですが。友人なんかにもやっぱり、僕のエロティシズムに対する関心の薄さを指摘する人もいます。自分でもそう思います。

ーそれは一個人としてだけではなく、思想家としても、ということですか?

吉本 そうだと思います。共に薄いんじゃないかな、と。「吉本さんに近寄ってくる女の人が性的感情が入るように近付いている気がしてしょうがない」って言う風に友人に言われることがありますけど、僕自身は全くそういうのに気付かないんです。少しそういうところが抜けてるんじゃないか、って思います。だからエロティシズムの問題は自分の中でうまく決着がつかないところではあるんです。



吉本 それに、先程、僕は自分の中にエロスが薄いということを言いましたが、そもそも僕は日本人にはエロスが薄いんじゃないか、と思ってます。民族性か種族性か、どう呼んでもいいんですけど、この種族がエロス的にどうなのかと言えば、全体として物凄く関心が薄いんじゃないかと思います。日本人の中からサドとかバタイユのような、そういう作家を求めようとしても難しい。みんな何かにすり替わっている。エロスをエロスとしてそのまま、サドのような作品を書けるのか。書けば書けるのかもしれない。しかし文学だけで言いましても、数えるほどもそういう作家はいない気がします。

―それは宗教的なものも関係しているんでしょうか? サドもバタイユも、そのベースにキリスト教的な土壌があるという点において、日本とは環境が異なると思えるんですが。

吉本 本当にそう思いますか? 僕はそこに疑いをもちます。日本においては何かがエロスに入れ替わってしまっている。エロスが全開にならぬところで、反らされてしまっている。特にそれが外に現れる時に非常に貧弱な気がします。自分の内面において自分自身と話をしていると、すごいエロティックな男のように自分では思えるんですが、それが表れとして外側には出てこない。そこには日本の家族制や血縁性の強固さというものが、ヨーロッパなどに比べると非常に大きく作用していて、その問題じゃないのかなっていう気が僕はします。

―その点について、もう少し詳しくご説明頂けますか?

吉本 関心が薄い、強いというのは表層的な部分です。つまりエロティックなものが外に向かって表象されないということなんです。同種族間の結合力の方にエロティックな問題が回収されてしまっている、血縁の男女間の繋がりが非常に強固であるのが妨げになって、エロスの問題が語られづらくなっているように思います。そこでエロスが何かにすり替えられてしまうんですね。しかし、これは一歩間違えれば近親相姦の領域に入ってゆきかねない。

―日本の家庭内における母子関係の強固さについては以前からご指摘されてらっしゃいましたね。

吉本 そこが一番大きいんじゃないかなと思ってます。



(追記.2023.4.30)

 ですから、ゲイに関して言えば、さっきの「単独者が単独者として連帯できるか」という歴史的な問題というか、人間の問題として考えるってことが一番重要なことでしょうねえ。告白するかしないかっていうのは、いろんな偶然とか、いろんな関係が重なってそういうことになるんであって、言っちゃって不利になるんだったら黙っていりゃいいことだと思いますよ。
 ただね、最近、同一性障害ってのが話題に出てくるでしょう。あれに関しては、
どこまで文化的なことなのか、習慣的なことなのか、遺伝子からそうなのかとか、そのあたりのことは、まだよくわからないんで、保留にしておいてください。
(吉本隆明[聞き手]糸井重里 『悪人正機』 P191-P192 朝日出版社 2001.6.5)







項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
750 吉本さんのこと 50 ― 自己評価ということ 「素質」ってなんだ? 対話 『悪人正機』 朝日出版社 2001.6.5

関連項目 言葉の吉本隆明① 342「自己イメージ」

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自己評価よりも下のことだったら、何でもやっていいって考えてるんですね。 他者の鑑定基準 歌でも映画でもお笑いでも、だいたいその基準でわかりますよ。
項目
1



 僕自身はこんな原則をもってるんです。
 自己評価ってあるでしょう?自分が自分で、こういうことが得意だとか、この程度のことができるとかの評価をしますよね。その自己評価が正しいか間違っているか、それは別にどっちでもいいんですよ。あくまで自己評価なんですから。
 それで、その自己評価よりも下のことだったら、何でもやっていいって考えてるんですね。
 人やモノを評価するにあたっては、その原則を逆に当てはめる。人に対して「あいつ自身の自己評価ってのは、ここらへんだろうなあ」って俺が思っているのがあれば、それ以上のことをやろうってヤツはダメだってのが鑑定基準ですね。
 (吉本隆明『悪人正機』P166 聞き手 糸井重里 朝日出版社 2001.6.5)




 このことは、自分の経験からわかったことですけどね。自己評価のもうちょっと上の、見せかけくらいだったらやっていいんじゃねえか、みたいに思ってやったことは、ことごとく失敗したんですよ。
 岡本かの子は、よくそれに近いことを言ってました。要するに、銀座の真ん中で素っ裸で寝っ転がっちゃうようなことができなきゃ小説なんてか書けやしないよ、書くべきじゃないよって、盛んに言ってましたけど、まったくそのとおりなんです。みんな、何か見かけ以上に偉いみたいなふうに思いこんでるから、ロクな小説、書けやしない。自分の、自己評価より上に見られるようなことはやっちゃいけないんですよ(笑)。
 (『同上』P167)




 小説家で言えばさ、湾岸戦争の時に文学者の声明みたいなもんに署名した人の中に田中康夫と高橋源一郎がいたでしょう。それはそれでいいんだけど、このふたりは、その後の振る舞いが違いましたね。田中康夫は、もう見かけ以上のものになろうとしてる。阪神大震災に行って、何か偉いモンみたいな、すげえこと言いだしましたよねえ。これはもうダメだって俺は決めました。こういうことをしたら『なんとなく、クリスタル』みたいな小説はもう書けないですよ。自分が恥ずかしくって。小型の大江健三郎みたいなものを書く以外には方法がなくなっちゃってね(笑)。たくさんおもしろいところがあった人だけど、今までにも、同じようあなこと言ってるやつはたくさんいたじゃねえか、と。
 高橋源一郎ってのは、逆ですよ。この人は江川卓とテレビで競馬評論とか、野球の話とかやるようになりましたよね。さすがだなあって、僕は思いました。そういうことをやってる分には、高橋源一郎が、少し真面目な顔をして、小説書くってことになったら、これはできるわけですよね。僕はこっちのほうが、いいんだって思いますね。 自分でも、そういうところで失敗をしてきて、経験的に言っているわけなんだけど、歌でも映画でもお笑いでも、だいたいその基準でわかりますよ。ビートたけしとか、坂本龍一さんなんかも、危なっかしいとこありますねえ。せっかく天才的な領域にいるのに、おいおい、そっち行っちゃダメだぜってほうに、得てして行っちゃうんですね。
  (『同上』P167-P168)
 ※①と②と③は、ひとつながりの文章です。






 (備 考)

①の「それで、その自己評価よりも下のことだったら、何でもやっていいって考えてるんですね。」について。
吉本さんが海で溺れた(1996(平成8年)8月 72歳の時)後の、テレビ番組出演のこと。別の所で語っていたと記憶している。何度もテレビ局に請われたし、自己評価より下のことだから、お笑い系の場面に出てもいいかということで、テレビに出たとのことだった。

②で、「 このことは、自分の経験からわかったことですけどね。自己評価のもうちょっと上の、見せかけくらいだったらやっていいんじゃねえか、みたいに思ってやったことは、ことごとく失敗したんですよ。」と吉本さん自身の経験と実感から来ていること。つまり、
誰もが自分の本来の姿より背伸びして考えたり、行動したりする、ということだろう。そう言われれば、自分にもそんな経験があったような気がする。

青年期に特に多いいわゆる「カッコ付け」ということも、本来の自分以上に自分を立派に見せようとすることだから、この自己評価以上のことをやろうとすることに当てはまるだろう。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
751 吉本さんのこと 51 ― モーターボート 「007 モーターボート。」 対話 『吉本隆明のふたつの目。』 ほぼ日刊イトイ新聞 2008.7.23

吉本隆明×糸井重里 対話

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「何が欲しいですか」と聞かれて、「モーターボート」と即答 エンジンのついた、和船、釣り船、一艘。これほど愉快な遊びはありません。 遊びとしては、格段の違いです。
項目
1



糸井
前にやった業績について
人は留まりがちですが、
「それは終わったことだ」と
片づけられたほうがいいんでしょうね。

吉本
執着することが多けりゃ、
そこに止まるか、止まった形になると思います。
それじゃあ、執着しなきゃいいのか、というと、
そうでもないと思います。
それは坊さんが
「悟った、悟った」というのと同じで、
そんなのあてになるか、ということです。

ですから、何かしら
適当な執着と、適当な自分離れが
あるのがいいんじゃないでしょうか。

糸井
吉本さんは、組織のリーダーを
やってなかったおかげで、
「みんなの期待する吉本隆明」を
演じなくてよかったということも
あるんじゃないでしょうか。

吉本
ああ、それはもう、そうです。
つまり、自分でなくなったら、
もう何もないというのと同じですから、
それは最後のよりどころです。

糸井
ほんとうの教養とは、
注意深さのようなものから
芽生えていくんですね。

吉本
今、二山目の戦後不況に
当面しているわけですけど、
糸井さんは、それを潜り抜けるということが
できているんじゃないのかなと思います。

糸井
それは、どうでしょうか。

吉本
ですから、糸井さんという人は
教養ある人だっていうことに
なりそうな気がしますね。

糸井
事実としてそうなら、うれしいですし、
そうなりたいです。
でも、これはみんなが、
ほんとうはできることですよね。

吉本
できる、やさしいことです。

糸井
吉本さんに、以前
「何が欲しいですか」と訊いたことがあって、
そのときに
「モーターボート」と即答されたのを
僕は、ものすごく憶えてるんです。


吉本
そうそう。そうです。

糸井
いまもそうですか?

吉本
そうです。
モーターボートか釣り船、
つまり、エンジンのついた釣り船です。
それがあったら、いいです。
必要なときに欲しいです。
遊びにいくとき、欲しいなと思います。


糸井
じゃあ今度、乗りましょうか。

吉本
糸井さんが、おおいに儲けてくれて
モーターボートいっちょうとか、
よこしてくれるとか(笑)。

糸井
がんばりましょうか。

吉本
エンジンのついた、和船、釣り船、一艘。
これほど愉快な遊びはありません。

僕は、そう、
遊ぶんなら、船に乗って、と
思いますね。

糸井
そうですか。

吉本
遊びとしては、格段の違いです。
あの、変なとこから
陸を見てる感じというのは、
ちょっとほかにないですからね。


糸井
なるほど、なるほど。

吉本
いいですよ。
泳ぐところもあるし、
釣りするところもあるし
漕いだりするところもある‥‥
それは、もう、ちょっと
こたえられないと言いましょうかね。


糸井
具体的にそんなに船が欲しいんだったら
本気で考えたほうがいいですね。
祈れば通じるかもしれない。
励みにして
がんばりましょう。

吉本
ははは。
いや、がんばります。

(明後日に続きます)
2008-07-23-WED

 (『吉本隆明のふたつの目。』「007 モーターボート。」の全文 2008-07-23 ほぼ日刊イトイ新聞)
  吉本隆明×糸井重里 対話






 (備 考)

糸井重里が「吉本さんに、以前何が欲しいですかと訊いた」のはいつのことかわからないが、わたしが「モーターボート」の話に出会って記憶に止めていたのは、この対話であったと思う。また偶然にその話の個所に再会してしまった。


吉本さんは、七十二歳の時、1996年(平成8年)の夏には西伊豆土肥で遊泳中に溺れている。それ以降、ハルノ宵子の文章などによると、視力に限らずからだが弱ったようだ。さらに、この対話の時、2008年(平成20年)は、八十四歳にほどになっている。はたからの醒めた視線からは、モーターボートや釣り船はもう無理だろうと判断するだろうと思われる。

しかし、本人はまだそんな「こたえられない」「愉快な遊び」をしたいなと本気で思っているように見える。たぶん、このことは、万人の老いに関わる問題ではないかと思われる。
最近では、老年になっての車の事故(の怖れ)と免許返納の問題がある。本人と周りの家族との間には、思いや認識のズレがあるような気がする。また、本人自身においても、車の運転の可能性と不可能性についての、意識と身体との間の拡大していくズレがありそうな気がする。


吉本
糸井さんが、おおいに儲けてくれて
モーターボートいっちょうとか、
よこしてくれるとか(笑)。


糸井
具体的にそんなに船が欲しいんだったら
本気で考えたほうがいいですね。
祈れば通じるかもしれない。
励みにして
がんばりましょう。


この吉本さんの発言と糸井重里の受け答えからすると、本気で「モーターボート」を手に入れることを考えているような気がする。吉本さんも糸井重里とは長い付き合いもあり、半ば冗談だとしても半分は本気で言っていると思える。
しかし、現実には実現されずに終わってしまったのかもしれない。

この「モーターボート」の話から、人の好みや固有の感受は、小さい頃の家族や周辺の地域などから形作られ、人の生涯を決定するような強固なものだなという気がする。吉本さんは、少年時の船遊びのたまらない楽しさを老年になっても持ち続けて、またやってみたいと思っていたのだろう。






項目ID 項目 論名 形式 所収 出版社 発行日
752 吉本さんのこと 52 ― ほんとうの教養 「001 ほんとうの教養。」
「002 距離を超えた時代。」
対話 『吉本隆明のふたつの目。』 ほぼ日刊イトイ新聞 2008.7.7
2008.7.9

吉本隆明×糸井重里 対話

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ほんとうに教養のある人 昔のことと今のこと、実相に近いことをちゃんと言えて、考えられている、そういう人がいたら、それは教養のある人だ
項目
1



糸井
今、知識力の低下なんて言われていますし、
学生はものを知らないなんて、嘆かれます。
でも、吉本さんと
知識人じゃないはずの僕らが
直結してしまうのが、今の時代なんですね。

吉本
ああ。
今、糸井さんがおっしゃったことには
いくつか、根拠があると思うんです。

あらゆる意味合いで、
昔に比べると知識はないし、
素養はないし、見識もないし、
若者はダメになったということに近いことを
僕は言っています。
だけど、ほんとうに教養のある人というのは
どういう人のことを言うか。

それは要するに、
日本の現在の社会状況、
それに付随するあらゆる状況が
どうなっているかをできるだけよく考えて、
できるだけほんとうに近いことが
言えるということです。


例えばどういうことかと言いますと、
古い時代に自分がいたとしたら、どうでしょうか。
そのときの政治のやり方、ものの言い方、
宗教のやり方があったはずです。
例えば、偉い人が死ぬと、埋葬するとき
生きている人を一緒に穴埋めにすることが
行われていました。
ひどく苦しいから、そういう人たちは
泣き叫ぶという状態がありました。

そうすると、誰かが
それはあまりにかわいそうじゃないか、と
おそらく言いだしたんだと思います。

偉い人の埋葬のために
家来を生き埋めにするよりも、
焼きもので、侍とか重臣の人形を作って
埋めることにしました。
誰かがそういうことにしようじゃないかと言い、
それではそのほうがいい、
というふうになったんです。

「古い時代にひでぇことをしたな」
って言うんなら、
今から言えば言えるんです。
そんなの、ひどいことに決まっているわけですよ。
だけど、その時代に自分がいたとしたら、
馬鹿なことだと言えたでしょうか。


権力のせいもあるでしょうけど、
お前が生き埋めになれと言われたら、
「はい」と言って、
だけど苦しいから泣き叫ぶという
そういう状態だったことでしょう。

でも、ある時期で誰かが
「それはちょっとあまりに気の毒、
 哀れじゃないか」
ということを言い出した。

そういうふうに、昔のことと今のこと、
実相に近いことをちゃんと言えて、
考えられている、
そういう人がいたら、
それは教養のある人だというふうに
言えると思います。


2008-07-07-MON
 (『吉本隆明のふたつの目。』「001 ほんとうの教養。」より 2008-07-07 ほぼ日刊イトイ新聞)
  吉本隆明×糸井重里 対話




吉本
教養については、
学校や学歴がどうだということとは
全然関係ないよ、と思います。
今の現実と、昔の現実を
よく考えあわせられる人、
そういう人がいたら、それが教養のある人です。


それだけの教養があれば、
これから先どうなるかということを、
そんなに長い未来のことは言えなくても
少なくとも数年間の、
まあ、景気が良くなるか悪くなるかとか、
そういう問題についてならば、
見通しはつけられるんじゃないでしょうか。

今の知識人がダメなのは、
どちらか一方がないからです。
一方しかない、ということは、
それじゃ全部もない、というふうになります。

知識がある人はたくさんいるし、
専門家というのもたくさんいます。
その人はある分野について
よく知っていることはわかりますが、
それは、日本の社会の全体や大多数が
どうなっていて、
どう展開し、どうなっていくかを
わかる人
でしょうか。
昔はどうだったのかということについて、
その場にいたに近いぐらい
正確に言える人
でしょうか。

今と昔をできるだけ正確に心得ている人を
探せといったら、
そんなにいないと思います。
だから、教養のある人というのは、
なかなかいません。

だからべつに
東京大学の先生だから、教養があるかというと
それは全然違うことなんです。
東大の先生は、知識はあるに決まっているわけで、
それは「専門的に」あるということです。
教養があることとは、違います。

まず、今のことを知ることです。
そして、専門的なことを
その場にいるかのように知ることです。

えらい人が埋葬されるときに
生き埋めになっている人がいた時代に
自分を置いて、
その場にいたらどう思うかということと、
それから今の場所から、
「ひどく野蛮なことをやっていたものだ」
ということの両方が
ちゃんと見えるということが必要なのです。


糸井
いま、吉本さんは
過去と現在について
おっしゃいましたけれども、
それは距離についても
言えることなんじゃないでしょうか。
つまり、極端に言えば、
隣について考えるときにも。

吉本
そうですね。
しかし、隣人が、親友が、親と子が、
という関係がどうなっているかは
今の時代、難しいことになってきています。

これは文明のお陰でもあるわけですけど、
人工衛星やらのお陰で、
だいたい1時間ぐらいあれば、
世界中どこで何がどう動いているかを、
ちゃんと見られるようになっています。
隣人と、いちばん遠いところ、という
ふたつの対極が
成り立たなくなっているんです。

糸井
たしかに、区別がなくなってきていますね。
これまでの人間が
捉えたことのない世界です。

吉本
そうなんです。
それをどういうふうに
考慮したらいいのかが、
現在の難しいところなんじゃないでしょうか。

隣人や親友と、
一度も会ったことのない異国人が
同じようになることも、たやすいのです。
遠い地域の住人がまるで隣にいるように、
そのようすを知っていたり、
知らされたりしています。

そのことは、今の問題として
考えなくちゃいけない、
根本のところにあると思います。


糸井
「汝の隣人を愛せよ」の時代は
きっと、足で歩く範囲の話を
していましたけれども。

吉本
そうですね。

糸井
それに比べると、今は
目玉や耳だけは
どこまでも遠くに行ってしまい、
すべてが隣人になってしまいます。

そうやって、すべての人が
隣人になった時代に
「自分がそこにいたらどうするだろう」
という発想でまかなえたものは、
追いつかなくなっていくのではないでしょうか。
無数の他者と、
想像力の交換を
しなければならなくなります。


吉本
そうですね。
難しいところです。

2008-07-09-WED
 (『吉本隆明のふたつの目。』「002 距離を超えた時代。」全文 2008-07-09 ほぼ日刊イトイ新聞)
  吉本隆明×糸井重里 対話






 (備 考)

吉本さんは、文学には深入りしていたがその外の世界というものがよくわかっていなかったという戦争期の自分の反省から、戦後の若い頃に「社会総体のイメージの獲得」ということの必要性を主張した。以下の「教養がある人」のイメージは、その「社会総体のイメージの獲得」ということにつながっている。


日本の現在の社会状況、
それに付随するあらゆる状況が
どうなっているかをできるだけよく考えて、
できるだけほんとうに近いことが
言えるということです。

それは、日本の社会の全体や大多数が
どうなっていて、
どう展開し、どうなっていくかを
わかる人でしょうか。
昔はどうだったのかということについて、
その場にいたに近いぐらい
正確に言える人でしょうか。


もうひとつ、「昔はどうだったのかということについて、その場にいたに近いぐらい正確に言える」ということに関しては、昔のことをどう見るかに関して、「言葉の吉本隆明①」の項目118で、古典評価の問題として取り上げたことがある。

つまり過去にさかのぼってしまっているじぶんというものと、現在ここに厳然とあり現在かかわっているじぶんというもの、そういうふうに分裂してしまっているじぶんというのをもう一つ総体的にながめるじぶんというもの、そういうものがないと、古典評価というものは、えてして、はかなき何とかだったらだめ、それから、つくっている奴が大体みんな貴族じゃないか。貴族の歌はだめよ、そういう評価になるか、それでなければ絢爛豪華というふうになっちゃって、絢爛豪華な詩の世界を出現させている奴の名前をよく視てみると、みんな貴族とか天皇じゃないかということで、それだからそれはいいじゃないかと、そういうふうにいっちゃうわけです。やりきれないですよね、そういう評価というのは。(『知の岸辺』「詩と古典」1974.7.2)


さらに、、「言葉の吉本隆明②」の項目495「 歴史認識の方法」で、過去と未来を捉えようとする方法は同一ではなくてはならないということが語られている。以下は、わかりにくい部分ではあるが、項目495にはもっとわかりやすい表現も引用している。参照されたし。

 おまえは何をしようとして、どこで行きどまっているかと問われたら、ひとつだけ言葉にできる
ほど了解していることがある。わたしがじぶんの認識の段階を、現在よりももっと開いていこうとしている文化と文明のさまざまな姿は、段階からの上方への離脱が同時に下方への離脱と同一になっている方法でなくてはならないということだ。
 わたしがいまじぶんの認識の段階をアジア的な帯域に設定したと仮定する。するとわたしが西欧的な認識を得ようとすることは、同時にアフリカ的な認識を得ようとする方法と同一になっていなければならない。またわたしがじぶんの認識の段階を西欧的な帯域に設定しているとすれば、超現代的な世界認識へ向かう方法は、同時にアジア的な認識を獲得することと同じことを意味する方法でなくてはならない。どうしてその方法が獲得されうるのかは、じぶんの認識の段階からの離脱と解体の普遍性の感覚によって察知されるといっておくより仕方がない。
 (「序」『母型論』1995年11月)



上の「教養のある人」のイメージには、ここに取り上げたこと全てが含まれているはずである。それを吉本さんはやさしい晩年の言葉として語っているように見える。






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 (備 考)







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 (備 考)


































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