日時計篇 上・下


項目ID  項目
008 ささいなことから  (追 記) 2020.1.12 (追 記) 2020.1.22
012 『日時計篇 上』から『日時計篇 下』へ ―― 人称から  
013 『日時計篇』以前から『日時計篇』へ
014 現実体験から詩的表現の現前性へ (追 記) 2021.3.7 
016 詩作品への入口 ②
017 詩作品の中に織り込まれた現実の体験――病やケガの体験から ① (追 記) 2020.3.19
018 詩作品の中に織り込まれた現実の体験――病やケガの体験から ②
019 詩作品の中に織り込まれた現実の体験――病やケガの体験から ③ (追 記) 2020.7.10
020 詩作品の中に織り込まれた現実の体験――病やケガの体験から ④
021 吉本さんの〈大衆像〉の源泉
022 吉本さんにとって〈歌〉とは何か ①
023 吉本さんにとって〈歌〉とは何か ②







項目ID 項目 作品名 所収 出版社 発行日
008 ささいなことから 『日時計篇 上』
『日時計篇 下』
『吉本隆明全著作集2』
『吉本隆明全著作集3』
勁草書房 1968.10.20
1969.5.30


作品等
 『日時計篇 上』(『吉本隆明全著作集2』 勁草書房)にはほとんど見られないが、『日時計篇 下』(『吉本隆明全著作集3』 勁草書房)の、特に前半には、なぜか以下のような「逆語序」とも言うべき、熟語の語順が逆さになっている表記がひとつならずある。『日時計篇 下』の全ページを半分に割った後半には、5つほどあった。『日時計篇 上』も含めて、以下に取り出してみる。


  『日時計篇 下』から
 ページ 逆語序 正語序 備 考 
喜随する 随喜
23
195
泥汚 汚泥
25 沃肥 肥沃 P145、440には「肥沃」あり
40 革皮 皮革 P51には「皮革」あり
79 厳峻 峻厳 「広辞苑」には両方載っている
98 侶伴 伴侶
140 怖恐  恐怖
134
173
択選
択撰
選択 P157、186、188、256、265、442、450、461や
『日時計篇 上』のP200、207、296、331には「撰択とある」
177
231
305
受感 感受 P189、276、400、468、501や『日時計篇 上』のP233には「感受」ある。受感」も、一般に使われている。
179 過擦  擦過 
191 穢汚 汚穢  
252
283
辱忍  忍辱  P80、174、257、267、285、376、395、458、506や『日時計篇 上』のP320には「忍辱」とある 
214 築構 構築 P256には「構築」あり
230 順従 従順
119
269
414
449
歴史的社会系体
系体


体系 P447、473、480、484、488、493、494、508には「体系」あり
289 厳荘 荘厳
425 量質 質量 「マツス」というルビが付いている
  『日時計篇 上』から
360 使駆 駆使 
370 私たちの地図は
絶断れてゐる
断絶 これは訓読みされているように見える。(たた-れて)か。ネットの「ふりがな文庫」に、泉鏡花『黒百合』の「息も絶断(たえだえ)」という使用例がある。これは造語か。
370 隷奴 奴隷
373
380
寥寂 寂寥 これは、〈寂寥のなかに在る日の歌〉という詩で、この詩の中には正語序と逆語序の両方が存在する。検索したら、『実修真言宗の密教と修行』(大森義成)の本の一部がヒットした。

弘法大師に「十喩を詠ずる詩」(『性霊集』)があり、そこに、「・・・略・・・三密寥寂(りょうじゃく)として死灰に同じ 諸尊感応して忽ちに来たり訪う」と述べられている。

下の(註.1)とも関わるが、吉本さんは仏教書の体験からか寂寥は(ジャクリョウ)、寥寂は(リョウジャク)と読んでいたのだろう。仏教書では、漢文書き下し文の如何(いかん)により熟語の正語序と逆語序の両方の可能性がありうる場合があるように思う。さらに、検索してみた。
空海の「十喩を詠ずる詩」の原文が見つかった。漢詩である。該当部分は七言律詩で、四 「詠鏡中像喩」(鏡中の像の喩を詠ず)の中にあり、「三密寥寂同死灰」となっている。讃岐國分寺が空海の「十喩を詠ずる詩」の現代語訳と書き下し文をホームページに挙げている。そこでは、原文(これは別の箇所で見つけた)から「三密寂寥(さんみつせきりょう)として死灰(しかい)に同じければ」と書き下してある。つまり、最初のとあわせて二種類の読み下し方が見つかったことになる。

寂寥と寥寂というこの二語の存在は、遙か書き言葉としての日本語の形成の初期の労苦の象徴とも言うべきものである。
 この項目のみは、(追 記) 2020.1.12 ★

 ※ いくらかの見落としはあるかもしれないが、だいたい以上のようになっている。


 (追 記) 2020.1.12 ★

★『日時計篇 下』より、類似の語の使用例について(一つの詩に複数回出ていても一つと数えている)
 これから見ると、詩語に対する吉本さんの意識としては厳密な統一性ではなく、その場その場で割と自由に選択されているように見える。

系体P269、制度(ルビ スイステム)P285、スイステムP288、P309、系体(スイステム)P414、組織(スイステム)P436、系(スイステム)P334、P446、体系P447、P473、制(スイステム)P459、体系(スヰステム)P484、P488、体系(スイステム)P480、P493、P494、P508


★『日時計篇 上』の詩によく出て来る言葉

・空
・雲
・季節
・秋
・風景
・風と光と影
・建築たち
・ビルデイング
・街路樹
・時間(の空洞)
・湿気
・乾き
・記憶
・過去
・宿命
・少女
・孤立
・孤独
・寂しい
・寂寥
・暗さ
・覚醒


★『日時計篇 下』の詩によく出て来る言葉

・おう
・にんげん
・地球
・空
・風
・鳥(候鳥)
・ペイヴメント
・ビルデイング
・空洞
・寂寥(せきりょう) (註.1)
・寂しさ
・暗い
・孤独
・安息
・愛(愛する者たち)
・女(たち)
・忍従
・抗(あらが)う
・反逆
・瞋(いか)り
・荒廃
・悪因
・紐(ひも)
・渇(かつ)える
・忍辱(にんにく)
・未来
・稗(ひえ)、稗畑
・フイナンツ(カピタリズム)
・マルサスのP(これは4回ほど)

 (註.1)
 明らかにわたしの寂寥はわたしの魂のかかわらない場処に移動しようとしてゐ
 た わたしははげしく瞋らねばならない理由を寂寥の形態で感じてゐた

 吉本さんは、この『固有時との対話』の最後の二行を、1969年、大島渚監督作品『新宿泥棒日記』のなかで自ら朗読しており、そこでは、「寂寥」を「ジャクリョウ」と読んでいるという。
 (「吉本隆明資料拾遺(5)自作詩の朗読について」 宿沢あぐり 「猫々だより」91 2010.4)

 わたしは昔調べたせいか、(せきりょう)と読んでいて、耳はその音に慣れている。これで思い出したのが、「A124 言葉以前のこと ―内的コミュニケーションをめぐって」(講演日時:1993年10月『吉本隆明の183講演』ほぼ日)の中に出てくる「内コミュニケーション」をわたしは(うちコミュニケーション)と読んでいたら、知り合いにそのまちがいを指摘されたことがある。よく考えれば、ここには「内的コミュニケーション」という言葉もあるから「内コミュニケーション」もそれにあわせて(ないコミュニケーション)と読むべきだったろう。その講演のその部分を聴いてみたらその通りだった。言葉にも人それぞれに思い込みや癖のようなものがありそうだ。



★『日時計篇 下』には、朝鮮戦争のことを詩の素材としていると思える箇所が何度も出てくる。

・『日時計篇 下』(1951年1月から1951年末までに書かれた作品)
・朝鮮戦争(1950年6月25日から1953年7月27日 )
 朝鮮戦争時の日本国内のニュースなどの有り様はわからないが、1953年2月1日に日本放送協会(NHK)のテレビ放送開始とあるから、まだこの頃はテレビ以前で、ニュースはラジオと新聞によるニュース、それと映画の合間のニュース映画だったと思われる。吉本さんは、つい先頃戦争が敗戦に終わったばかりなのにその記憶を引きずりつつも、それらのニュースから戦争の生々しさを再び感じ取っていたのだろう。例えば、次のような箇所に出ている。

〈渇いた二月〉P69
〈暗い冬〉P71
〈冬のための哀歌〉P95・・・「明け方になると冷たい戸口から活字がほうりこまれる/軍需拡大再生産」
〈寂しい転変〉P150
〈虐げられた春〉P184
〈昊天〉P186
〈通信〉P188
〈愛する者のために記された詩の一部〉P311
〈何を夏の夜に信じたか〉P326
〈自由な夜のために書かれた詩の一部〉P337
〈一九五一年夏に記したうた〉P351
〈自由な夜のために書かれた詩の一部〉P361
〈冬に具へての詩の一部〉P487
〈風と冬と奈落の土地〉P506

 以上であるが、これ以外にもいくつかありそうに思えたが、詩語・詩句から十分に断定できないのは入れなかった。


 ところで、『日時計篇 上』には見られないが『日時計篇 下』には表れている特色として、〈わたし〉の意識が内向しがちの『日時計篇 上』と比べて、『日時計篇 下』では、『固有時との対話』の「少数の読者のための註」に「ぼくの〈固有時との対話〉が如何にして〈歴史的現実との対話〉のほうへ移行したか」と後から振り返ってあるように、〈わたし〉の意識が外向している。外の世界との対話に移行している。このことは、スイステムやフイナンツ(カピタリズム)やマルサスのPなどの詩語の選択や朝鮮戦争やその兵士たちに想像の触手を伸ばしていることからもわかる。

 吉本さんは、敗戦後に経済学の書物を読み漁ったとどこかで語っていた。宿沢あぐり「吉本隆明年譜」①(『吉本隆明資料集139』猫々堂)によると、一九四九年(昭和二四年)の四月の項目に次のようにある。

 この頃より、シャルル・ジイド、シャルル・リストの『経済学説史』やジョセフ・シュムぺーターの『経済学史』などを読み、集中的に古典経済学の主著をたどり、マルクスの『資本論』をよむ。

 これがどれくらいの期間に及んだかはわからないが、経済概念などが詩語として表れるのは、『日時計篇 上』ではなく、『日時計篇 下』においてだった。このことは、〈歴史的現実との対話〉のほうへ移行しようとした〈わたし〉の外向的になった意識の有り様の問題であり、そういう意識がそのような詩語を呼び寄せ選択したと言えるだろう。

 『日時計篇 上』の川上春雄氏の解題にあるが、大部になるのを避けるため便宜的に『日時計篇 上』と『日時計篇 下』との分冊にしたいう。しかし、これも解題で指摘されているが前者は後の『固有時との対話』の詩の世界と、後者は後の『転位のための十篇』の詩の世界とよく対応しているように感じられる。つまり、表現された詩の世界のちょうど転換期のところで分けられているように見える。
 (追記 2020.1.12は、ここまで)


備考
 (備 考)

 ほんとうに、若い頃に読んで以来何十年ぶりにまたこの『日時計篇 上』『日時計篇 下』を読んでいる。わたしもまたこの世界を歩いてきて経験を蓄積させてきたのと対応するように、たぶん、わたしの若い頃に対面した時よりはいくらかはよく見えよく感じ取れる作品世界になっているように思う。

 ひとつふたつの「逆語序」なら、まあ間違っているなくらいで終わるけれど、上に挙げたくらいの数になると何らかの有意味性を持つと考えるべきだろう。

 「逆語序」と言えば旧日本語の特徴として、折口信夫が『日琉語族論』で論じた「逆語序」を踏まえた、吉本さんの講演 「A081 古い日本語のむずかしさ」(講演日:1984年12月1日 『吉本隆明の183講演』 ほぼ日刊イトイ新聞)があり、また、『日本近代文学の名作』(2001年4月)の「折口信夫『日流語族論』」の項や『初期歌謡論』の「Ⅲ 枕詞論」などがある。

 こうした詩語の表記ミスは、ささいなことのように見える一方、深く読むことも可能に思える。詩の表現世界の構築にとってはささいなことかもしれないが、言葉を書くという人の固有な癖や性格の表れではあるだろう。また、その時のゆったりできなかったなどという精神状況も加担しているのかもしれない。また、吉本さんの場合若い頃仏典を読んだということも影響しているのかもしれない。 (註.2)
さらにそこには、当時は現在よりも漢文がより深い教養であったとか、また現在のパソコンによって書くのではなく手書きだったということも関係しているのかもしれない。いずれにしても一般には、文章が本になる過程で校正などをくぐってくるから、「逆語序」のような表現はたとえあったとしても修正されてくるから目にすることはほとんどないのだろう。本の解題によると、吉本さんの場合は、若い頃の表現であるということもあり、明らかなミス以外の表現は尊重されてそのまま残されているようである。

 若い頃、フロイトの「言い間違いの研究」というような文章を読んだ覚えがある。途中で投げ出したかもしれないが、こんなことも研究の対象になるのかと驚いた覚えがある。それは今は手元に見つからないので、おそらく「言い間違い」にその背後の心的現象との関わりを論じたものと思われる。「言い間違い」には、そのような個の性格や癖や心的現象との関わりの他に、間違いを引き起こしやすい日本語の歴史的な状況や時代的な言語状況などもあり得るかもしれない。

 「逆語序」「正語序」という言い方や「旧日本語」という言い方などは、当然ながら現在の日本語の状況からの視線が構成する言葉である。 吉本さんは、逆語序を旧日本語の特性、徴と見なしているが、これは人に自身の幼年期や歴史の幼年期のものが痕跡のように残り、ある発現をすることがあるように、現在の言葉にもこうした発現をするのではないだろうか。例えば、「業界用語」というものも同様の逆語序の無意識的な発現ではないだろうかと思う。また、吉本さんが漢字を見ていると本当にこんな字だったかなと思うことがあるというようなことをどこかで語られていた。たぶんそんな心的な状況の時には、言葉(書き言葉)を覚え始めた頃の言葉の舞台が揺らぎとともに登場するのではなかろうか。そうして、その舞台には古い時代の日本語の痕跡がリズムのようなものとして立ち現れているような気がする。

 わたしたちとしては、このようにいろんな個人的、社会的状況に思い巡らせるほかない。そうして、それが当たっているかどうかはわからないとしかいいようがない。この件はささいなことに見えるけど、気になったので取り上げてみた。

 追記 2020.1.22


 吉本さんの詩によく出てくる詩語を挙げてみた。詩語は、当然、人類が生みだした言語という共通性(一般性)へと抽出されたものに含まれつつも、その言葉は個々の人間によって担われるほかないから、固有の表情や深みを伴って表現の空間に現れる。詩という表現空間では、作者によって把捉されたり掘り出されたりする言葉は、作者の感受や考えや無意識などを背負って、すなわち、作者のモチーフや無意識的なものに沿って、詩という作品世界を飛び交う。
 その中で、よく出てくる言葉や場面は、一般に作者によって意識的、あるいは無意識的に固執されて習慣化されたものと言えそうに思う。作中の〈わたし〉がよく通ったり、よく放ったりする言葉の通路は、作者の心や精神のなじみの通路であろう。

 ところで、項目459「予想外」に取り上げているが、

―― 吉本さんが四〇~五〇年前に予想されていた日本という国、社会は、現在の日本という国、社会と比べてどうですか。

吉本 いや、それはまったく予想外ですよ(笑い)。自分自身についてもそうでしょう。年食ったら少しはいろんな意味でゆったりできると思っていたら、まるで違いますね。社会についてもそうです。こうなるとは思いませんでしたね。社会主義国と資本主義国とどこが違うのか、やってることは同じじゃないかと。平等な社会なんてだれも考えていない。これはもう予想違いです。俺は若いころ、ずいぶん勘違いしていたなあと思いますね。
 革命が起きて、社会主義を標榜する政府ができて、いろんな施策を整えていけばなんとか社会主義という形になっていくはずだと思っていたけど、それは間違いだった。日本で戦後、革命というか改革に値することはひとつしかないんですよ。農地改革です。今でも日本でそんなことができる政党はありません。日本の政党はまだその程度なのです。やっぱり占領軍にやられたなと。そういう面では未来はわからない。人間の生涯もいつどうなるかというのは全然わからない。
 (インタビュー「まだ考え中」P16『論座』2007年4月号、『吉本隆明資料集169』猫々堂)


 吉本さんの若い頃の「革命が起きて、社会主義を標榜する政府ができて、いろんな施策を整えていけばなんとか社会主義という形になっていくはずだと思っていた」という考えは、特に『日時計篇 下』の詩の詩句などに表れている。
 (追記 2020.1.22は、ここまで)



 (註.2)

一九四六年(昭和二一年)
 この年、貸本屋から始め露天商を経て目黒の祐天寺駅前で店を構えた川端の古本屋に、蔵書を売り払い、川端の手伝いもあって売り払って得た金で神田の古本屋で六〇巻あまりの大部の『国訳大蔵経』と岩波文庫の古典を買い込み、自宅まで二人で運ぶ。
 (「吉本隆明年譜 ①」宿沢あぐり、『吉本隆明資料集139』猫々堂)

 敗戦後に蔵書を売り払って『国訳大蔵経』を買ったということや、わかるわからないに関係なくこの仏典を読み漁ったということは、吉本さんの文章のどこかで目にしたことがあるが、この仏典を読んだ体験も「逆語序」への駆動因の一つになっていないだろうか。ネットで出会った第一書房の『国訳大蔵経』の説明によると

国訳大蔵経は経部14巻、論部15巻、戒律研究2巻よりなる一大仏教叢書である。厖大な一切経の中から最も基本的な経論と律蔵を選択し、それらに開題・国訳・註記・漢訳原文を付したものである。国訳に際しては総ルビを付して仏教の字句の読み方の規律を示している。

 この『国訳大蔵経』は、ネットから「国立国会図書館デジタルコレクション」によって見ることができる。ちらっとのぞいてみた。文章のふんい気はつかめる。

 手に入れた『国訳大蔵経』を吉本さんがどんな読み方をしていたのかは知らないが、関連として一度「大智度論」か「智度論」という言葉が『日時計篇』に出てきたように記憶している。『日時計篇』には、仏教に関する詩語はほとんど出ていないように思う。むしろ、キリスト教に関する詩語が『日時計篇 下』には時々出ている。


 (追記 2020.2.8)

 昨日、読みはじめてまだ少ししか進んでいない宇田亮一『「言語にとって美とはなにか」の読み方』をパラパラ見ていたら、「〈2-3〉倒語的な気質とはなにか」(P287-P291)というのがあった。『言語にとって美とはなにか』の索引で調べたら、終わりの方に載っていた。『言語にとって美とはなにか』は三回以上は読んでいるのに、うかつだった。当然に、倒語は精神現象として考察されていた。(『定本 言語にとって美とはなにか Ⅱ』の「第Ⅶ章 立場」P274-P277)
 (追記 2020.2.8は、ここまで)








項目ID 項目 作品名 所収 出版社 発行日
012 『日時計篇 上』から『日時計篇 下』へ
― 人称から
『日時計篇 上』
『日時計篇 下』
『吉本隆明全著作集2』
『吉本隆明全著作集3』
勁草書房 1968.10.20
1969.5.30


※ 以下の項目の数は、一つの詩作品に何度も出ていても1つとして数えている。
※ 作品数 『日時計篇 上』148篇、  『日時計篇 下』330篇 (作品数の比 1:2.23)  『日時計篇 下』の数の【 】の中の数値は、
作品数の比を1:1に補正した値である。その数値と『日時計篇 上』の数値を対比するのは濃度を知る上で意味を持つ。対比して考察する。

項目(人称)  『日時計篇 上』  『日時計篇 下』 『固有時との対話』 『転位のための十篇』          出てくる人称
ぼく 22 10 【4】 (あとがきの「少数の読者のための註」に出ている) 1.「火の秋の物語」 きみ、わたし、にんげん
ぼくら(ぼくたち) 6 (6) 【3】 2.「分裂病者} きみ、もうひとりのきみ、にんげん
おれ 19 【9】 (「歌曲の一節」として) 3.「黙契」  おまえ、わたし、わたしたち、にんげん
おれたち 8 【4】 4.「絶望から苛酷へ」 ぼくたち、ぼくたちの同胞、にんげん
われら(われわれ) 12 44 (1) 【20】 5.「その秋のために」 ぼく、ぼくたち、同胞、にんげん
わたし 58 113 【51】 6.「ちいさな群れへの挨拶」 ぼく、ぼくたち、ぼくの仲間、ぼくたちの味方、ひとびと
わたしたち 63 137 【61】 7.「廃人の歌」 ぼく
ひとびと(ひとたち) 35 (1) 29 【13】 8.「死者へ瀕死者から」 ぼく、ぼくたち
にんげん 16 117 【52】 (3箇所のみ) 9.「一九五二年五月の悲歌」 ぼく、ぼくたち、ぼくのとおい友たち、ぼくの仲間たち、にんげん
10.「審判」 ぼくたち、ひとびと
※ が主な人称

 (備 考)

  吉本さんは、対談やインタビューの文章で見る限り、「ぼく」や「ぼくら」を自然なものとして使っているように見える。詩に限らず表現の世界は、日常世界からすれば一種のよそ行きの世界だから、よそ行きであればよそ行きの服を着たり、よそ行きの話し方をするように、詩語もよそ行きになる。「おれ」「おれたち」であれよそ行きである。その中でも、人称の一般的な自然なよそ行きは「わたし」や「わたしたち」である。ただし、物語が人称をほぼ必須とするのに対して、詩の場合は、表現世界に降り立っている「わたし」や「ぼく」は当然のこととして、それをあまり明示しない場合も多い。

 『日時計篇 上』や『日時計篇 下』では、割と自由にその時の自然な感覚で人称が使い分けられているように見える。同じ作品の中でも、「われら」と「わたしたち」が併用されているような詩もあった。そのひとつの理由として毎日のように詩が書き継がれていたから、ていねいに推敲する余裕はないということがあるのかもしれない。この頃の吉本さんの詩は、従来の詩という概念やイメージとは別の、この世界における「わたし」の「心象スケッチ」であるとともに、世界や自己の生存の意味を問う「自己対話」を意味していたように思う。たぶん吉本さんには、普通の詩であるかどうかとは別次元のことをやっているのだという思いがあったように思われる。『固有時との対話』のあとがきに当たる「少数の読者のための註」には、次のように記されてある。


詩〈固有時との対話〉は一九五〇年に書かれたもので、一九五〇年 ― 一九五二年の間に形成された詩の最初の部分をなしてゐる。この間ぼくは二三の私的な交換を除いて、詩人たちと独立に歩んでゐた。ぼくは時がぼくに与へてくれるにちがひないと信じてゐたほとんどすべてを与えられなかつたが、ぼくが自ら獲得しようと計量したことの幾らかは獲取し得たと信じられた。少数の読者がこの無償なモノローグめいた時間との対話のなかにあるたつたひとつ客観的な意味――つまり詩のなかに導入された批評または批評のなかに導入された詩――を感知してくれるならば、ぼくは小さな光栄をこの作品に賦与し得たことになるだらう。そして日本現代詩の方法的不遇の一形態に則して歩むことを必然の課題として強ひられねばならなかつたぼくの精神はその光栄を無二のことと感ずるに相違ない。
 ぼくはいつも批評家を自らの胎内にもつた詩人を尊重してきたのだ。



 吉本さんが 「荒地」グループに近づくのはもう少し後だが、「荒地」グループと通じる詩の批評性が語られている。かつて、吉本さんの「日時計篇」のように毎日のように持続的に書きつづけられた詩というものをわたしは知らない。これは、日々考えることであり、この歴史的な現在の地平において作者が作品中の〈わたし〉を通して批評的(内省的)に対話すること、そうしてそれを言葉として立ち歩ませることであった。例えて言えば冬の厳しさや垂直性や徹底性とは無縁なこの列島の文学、思想の歴史の中では稀有のものと言えるだろう。ここには訪れてくる避けられない生存の有り様に、できる限り誠実に応じ、対話を日々意志的に生きる姿がある。

 『固有時との対話』では、普通のよそ行きの「わたし」や「わたしたち」に人称が統一して使われている。長詩にする過程で、それらが選択され統一されたのだろう。一方、『転位のための十篇』では、長詩ではなく十篇の詩ということもあり、「ぼく」「ぼくたち」、「わたし」「わたしたち」 の二種類あるが、前者が主流を占めている。

 『日時計篇 上』から『日時計篇 下』への流れで、人称の有意な変化は、「われら」と「にんげん」が増大したことである。これは、『日時計篇 下』の詩世界と対応する『転位のための十篇』の「ぼくたちの同胞」や「同胞」「ぼくの仲間たち」という人称と照応するものだと思う。

 上の人称の表から見て、「ぼく」が減り、「おれ」「おれたち」や「われら」が増加している。「おれたち」と「われら」は、同じ意味ではあるが、感触やイメージの微差があり、「おれたち」の具象性を拭い去ったようないくらか洗練された感じの「われら」がより多く選択されたのかもしれない。何かの代わりというわけではなく「われら」が『日時計篇 下』では増大している。『日時計篇 上』や『固有時との対話』の内閉的な〈わたし〉を依然として引きずっていたとしても、もはや〈わたし〉は、「歴史的現実」の舞台に立っている。そういう〈わたし〉が、連帯しようという欲求、あるいは連帯という結びつきの強い欲求の表現として、「ぼくら」や「わたしたち}ではなく「われら」が選択されていると思われる。

 また、『日時計篇 上』の方により多く出ている「ひとびと」だが、「ひとびと」も「にんげん」も指示するものは同じようなものであるが、前者は個別性や具体性のイメージが強い。一方、「にんげん」はより一般性や抽象性を持っている言葉である。外向きになった作者、外向きになった〈わたし〉が、歴史的現在性を持った「にんげん」という言葉を呼び寄せたのだと思う。

 以上を総括すると、川上春雄氏の解題にもあるように、 『日時計篇 上』と『固有時との対話』、『日時計篇 下』と『転位のための十篇』は、表現された詩世界の上から対応している。そして、『日時計篇 上』から『日時計篇 下』への移り行きには、明らかに「転位」と思えるものが認められる。これを、『固有時との対話』から『転位のための十篇』へとして取り出せば、 作者が〈歴史的現実との対話〉(『固有時との対話』、「少数の読者のための註」)へ移行したこと、すなわち、『固有時との対話』の中で、内閉的な〈わたし〉が抽出された抽象の舞台で過去や記憶などを探索したり、自己対話を繰り広げてきたが、『転位のための十篇』では、そこから〈わたし〉が外の世界へ、歴史的な現在の舞台へ登場し対話を展開した。以上のことは、詩語の選択や人称の問題にも表れている。

 詩作品を何度か読めば、『日時計篇 上』から『日時計篇 下』へとまずはふんいき的な印象が違ってきたなということは誰でも感じ取れるだろう。また、作者自身も『固有時との対話』のあとがき「少数の読者のための註」で、『固有時との対話』から『転位のための十篇』への〈わたし〉意識の変化について語っている。それなのになぜわざわざ詩表現の中の人称を取り上げてみたかと言えば、この人称は割と無意識的に自然なものとして作者によって選択されているのではないかと思われたからである。付け加えれば、わたしが人称をチェックしたり、数え上げたりしていく過程では、より作品との出会いをくり返せたのではないかと思う。








項目ID 項目 作品名 所収 出版社 発行日
013 『日時計篇』以前から『日時計篇』へ 「詩稿Ⅹ」、「残照篇」
『日時計篇 上』
『日時計篇 下』
『吉本隆明全著作集2』

『吉本隆明全著作集3』
勁草書房 1968.10.20

1969.5.30


作品等
★詩型の変位

 吉本さんの詩で便宜的な区切りとして、なにものかに向けて黙々と日々詩を書き続けた『日時計篇』の時期を〈初期〉、それ以前を〈習作期〉と見なすことにする。散逸してしまった詩作品は別にして、吉本さんの残された詩の全てがこの『吉本隆明全著作集2』の巻に網羅されているわけではないが、習作期から初期にかけての吉本さんの詩を載せている勁草書房版の『吉本隆明全著作集2』から見れば、普通の自由詩の短い詩句・詩行の詩から、しだいに長い詩句・長い詩行の詩に移行してきている。『残照篇』辺りからその傾向が著しくなり、『日時計篇』で本格化している。

 そのことは、吉本さんが自らの生存の理由の不明感と空無感のあわいに揺れながら生存の意味の探査に入り込み、世界の風景から抽出され抽象された世界で、日々対話をくり返していく中で、自然に必然的に取られた詩型の変化、変位というべきものではないだろうか。そうして、そのような散文的な詩型が『固有時との対話』を詩型の上から引き寄せたのだろうと思う。


★詩の表現に表れた「感性の秩序」の有り様の変位

 『日時計篇 上』が書き継がれている間に公表された「現代詩における感性と現実の秩序」に次のように記されている。(参照。言葉の吉本隆明③―詩と詩の批評 項目04「詩意識の批評性」)

 現代詩が現代に生存する詩人の、感性による統応操作として在る限り、詩の表現形態と韻律に対応する感性の秩序を、現代の現実社会における人間精神の秩序と関連させることによって、また現実そのものの諸条件と照応させることによって論ずることが出来るように思われます。(「現代詩における感性と現実の秩序」『大岡山文学』第八十七号 1950.11.25)

 そうして、「即ち詩が感性による批判の機能によって現実の秩序に対決する限り、詩の韻律は〈音楽〉から決定的に訣別せねばなりません。」と述べている。この詩の批評性や音楽性との訣別という点から見て、少なくとも吉本さんの場合は上に述べたような長い詩句・長い詩行の散文的な詩型を必然としたのであろうと思う。もちろん、詩の批評性が長い詩句・長い詩行の散文的な詩型を必然とするとは一般には言えない。しかし、批判や批評性は、対象の描写(指示性、説明)を必要とするから、長い詩行の散文的な詩型になりやすいとは言えそうである。

 ところで、現実社会での作者の精神の秩序は、表現された詩世界の〈わたし〉の感性の秩序と対応するから、作者が現実社会への批判を内包し推し進めていくなら、表現される詩世界の秩序もそれに対応していくことになる。大まかな把握、あるいは本質把握としては、このことは現在でも依然として真であり、普遍性を持つ捉え方だと思われる。

 『日時計篇 上』の前には「残照篇」があり、その前には「詩稿Ⅹ」がある。その「詩稿Ⅹ」(1948年頃の作品)に、一度その一部を取り上げたことがあるが「影との対話」という詩がある。


鈴懸の並木である わたしはわたしの影に話しかける
〈わたしたちはどうしていつも斯んなに悲しいのだらう〉 みんな閉ざされてゐる わたしは明らかに孤独だ それなのに生きてゆかなくてはならない 不遇の季節のあひだを 影とたつた二人で 〈いつも斯うなんですね〉 影がわたしにこたへる 今日また悲しいことがあつたのだ 誇りをたかくして 誰にも屈しないで そうだ 不器用な 術のない人生の劣等生の最後の誇りを抱きしめて
〈いつも斯うなんだねえ わたしたちは〉 影と二人で貧しい裏通りの喫茶室でコーヒーを飲むわたしは寂しい声になつてゐる 〈ふたりはいつも斯うなんですねえ〉 影は涙ぐんでゐる わたしはいつか寂しい恋人とコーヒーをのんでゐるやうな幻想にかられてゐる 不遇の片隅で 尚一片の誇りと温かさがよみがへつてくるのを待ちながら いいのだ わたしたちの星宿を大切にしよう  神のまへで言へることだけを守つてゆかう 〈わたしたちはいつも悲しいんだね〉 わたしはかすかなかがやきの底でいふ 〈ええ そう いつも斯うなのね〉 影は寄りそつて歩みはじめる また鈴懸の並木である
神よ 二人を知つてくれるだらう 仮令すべてが閉ざされてゐやうとも 二人は歩み切るだらう ながいながい不遇の生のあひだを それが終るまでは
 (「影との対話」の全部、P135 『吉本隆明全著作集2』勁草書房)



 これは、後の内省的な自己や現実との対話がくり広げられる『日時計篇』の原型に当たるような詩である。ただ、詩語や詩句として取り出すまでもなく、感傷的な湿気のある表現になっている。また、戦後のいつ頃か吉本さんは教会にも行ったことがあり、牧師の説教などを聞いて幻滅したということもどこかで語られていたが、ここではまだ素朴な神への意識が表現されている。しかし、『日時計篇』では、牧師に対する批判的な詩句が何度か出ている。例えば、『日時計篇 上』では、〈祈りは今日もひくい〉(P250-P251)や〈擬牧歌〉(P290-P291)など。

 また、『固有時との対話』の巻頭に記された次の詩句、


メカニカルに組成されたわたしの感覚には湿気を嫌ふ冬の風のしたが適してゐた そしてわたしの無償な時間の劇は物象の微かな役割に荷はれながら確かに歩みはじめるのである………と信じられた   〈1950.12〉  

 これは、『日時計篇 上』にある、末尾に〈一九五〇・十・五〉と記されている詩〈抽象せられた史劇の序歌〉とほぼ同じ詩句である。〈抽象せられた史劇の序歌〉では次のようになっている。


メカニカルに組成されたわたしたちの感覚には湿気を嫌ふ冬の風のしたが適してゐた そうしてわたしたちの壮厳な史劇は わたしたちの微小な役割に荷はれながら確かに歩みはじめるのである………と信じよう
 (〈抽象せられた史劇の序歌〉『日時計篇 上』P272-P273)



 こうして、「詩稿Ⅹ」、「残照篇」と思索と詩作を重ねていく中で、『日時計篇』へと至り、感傷的な湿気を振り払い、風や影や光や街路樹や空洞や時間などのいくつかの要素として抽出された世界を〈わたし〉は歩き探索していく。この時、作者が現実社会への批判を内包し推し進めていく様が、詩世界や詩型の変貌と対応していて、作者の中には批判的な「感性の秩序」も変位して存在していたと言えるだろう。


★『日時計篇』以前から『日時計篇』の要素は存在している

 『日時計篇』は、後に『固有時との対話』から『転位のための十篇』への流れとして引き絞られてかたち成していく。その両方の要素は、『日時計篇』はもちろんとして、「残照篇」(1949年から1950年夏までの制作と推定されている)や「詩稿Ⅹ」(1948年頃の制作)にも見られる。ここでは、『日時計篇』にある要素を「詩稿Ⅹ」や「残照篇」に見てみよう。「詩稿Ⅹ」からは上に「影との対話」を挙げた。だから次に、「残照篇」からいくつか拾い出してみる。


1.
たくさんの諫めをふりきつて
おれは反抗するのだと
まことに損な役割をひとにかくれてなしながら
うたをうたひ
動揺をひとびとに伝へ
悪しき秩序のすみずみにある悲惨を抽象し
畢竟われら人間の価値判断はすべて転覆(引用者註.「転」の元の字は旧字)されねばならぬと
うたひまくり
バトンをぼくにうけついで死んだうた人は
いまもむくひられず
そのうたはいまもそこにある

ぼくもうたをうたふからは
たしかに人間の集積してきた巨大な精神を
すべて忌みきらひ反抗するのであつて
妥協の余地はないのである

むかしのうたは湿気の多い天上にあづけわたし
ぼくのうたは湿気のない地上のかたすみに
それでも細々生きつづけ妥協はおことはりしようと考える
 (「昔の歌」一部 P165-P166『同上』)


2.
それはそれは長駆といふべき逃亡であつた
感情や優しさといふものを
いつさい剥奪されて
残されそしてじぶんに許したのは極北をさす論理と拒絶する
虚無とであつた

あらゆるものはみな失つた
かれら微笑をみせる人種をさけてとほり
かれら朗笑と舞踏とをこととする人種を黙殺し
かれら健康なる思想を革命の倫理におく人種を痴呆の
如く罵り
たゆたふことなく論理は心理の影像を帯びはじめた
冬がすぎ春がき
そして毒気と加里臭との強烈な栗の花が咲く初夏がきた
 (「長駆」一部 P173『同上』)


3.
安らかさのひとつかけらも
ぼくの生活からはしめ出され
しきりに忙しがりまた空虚をかこち
世界がぜんぶ疑惑のなかで熟してゐるさまを
苦しい思索のなかで耐えてゐる
・・・中略・・・

ぼくは考へる
・・・中略・・・
だいたいぼくはすべての人間と歴史の跡をまるで
信ずることが出来なくなつた と
・・・中略・・・

こんな日
ぼくは地獄のやうな青春の宿題を解かねばならぬ
且て黒板であつたものが
いまは激動する歴史であり
救済はしかも何の保証も致さない

ぼくは信ずる
鋭利な眼をともなつたぼくの寂寥だけを
栗の木の根つこでぼくを抱えこんでゐる寂寥だけを

そうして
飢餓と搾取と
青草の奥ふかく秘された兇器を感じる

ぼくの寂寥は
風のなかできらきらする
 (「傷手」一部 P183-P185『吉本隆明全著作集2』)


 以上拾い出してみた詩は、『日時計篇』の中に混ぜてもよく区別できない。現実に批判的な外向する意識も内向的な意識もともに存在している。例えば、2.の中にある「感情や優しさといふものを/いつさい剥奪されて/残されそしてじぶんに許したのは極北をさす論理と拒絶する/虚無とであつた」という詩句は、『転位のための十篇』の中の詩句と同質のものであり、特に詩「分裂病者」の中の「おう きみの喪失の感覚は/全世界的なものだ」や「廃人の歌」という詩の中にある、あの有名な言葉「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」(いずれも、『吉本隆明全著作集1』より)を連想させる。


★『日時計篇』へ

 このように、「残照篇」の中の詩は、後の『日時計篇』に共通する詩語や詩の世界を持っている。しかし、それが引き絞られてさらに深く展開していくのは、毎日のように持続的に詩が書かれていた『日時計篇』においてであった。そのような日々から次のような詩句も生まれてくる。


寂しさを鋼(はがね)のやうに鍛へよ
鋼のやうに水際立つて孤独を堅く充填し(引用者註.「填」は、元は旧字)
湿気や錆をいれようとするな
 (〈詩で書かれた鼓舞のうた〉より『日時計篇 下』P130『吉本隆明全著作集3』)



明らかにわたしたちは変つた
長く深い忍辱の季節をとほりながら
たたかれて摩滅した部分とあらたに加へられた部あつい皮膚とが
わたしたちにそれを教へる
 (〈明らかにわたしたちは変つた〉より『日時計篇 下』P270『吉本隆明全著作集3』)



 戦争-敗戦によって、えぐり出された吉本さんの生存の核の部分が露出して、生存の理由の不明感と空虚感の中、日々ジタバタともがきながらも、自らの生存に誠実に対応してきた姿が、『日時計篇』にまで至る詩の表現の過程に生きて在るのをわたしたちは目にすることができる。『日時計篇』を〈習作期〉を抜け出した〈初期〉と呼ぶゆえんである。

 『日時計篇 上』は、記憶や時間など〈固有時〉を刻まれた〈わたし〉の、抽出され抽象された世界の舞台に降りたった内省の旅であった。人はこのような内閉的な抽象の世界に長らく耐えうるものではない。誰もが日々外光の下で、他者と関わり合いながら生きるほかない。そのことと対応するように詩という表現の世界も、外光を取り入れたり、外光に向かって歩いて行くほかない。『日時計篇 下』は、抽象された世界の舞台に下降していた、内向する〈わたし〉の外向しはじめた姿であり、いままでの内向性を引きずりつつも、現実世界との批判的な格闘へ突き進んでいった。

 そのような『日時計篇』(『日時計篇 上』が148篇、『日時計篇 下』が330篇)は、1950年8月頃から1951年末までほぼ毎日のように約一年半にわたって書き続けられている。吉本さんは、晩年に手を動かすこと、手で考えながら書くことの重要性を語っていた。この間の集中的・持続的な手の修練が、思考や詩の形を強固なものとしていったと想像される。そのような『日時計篇』から、さらに引き絞られて、『固有時との対話』と『転位のための十篇』がなった。『固有時との対話』と『転位のための十篇』の刊行によって、いままでの〈習作期〉や〈初期〉を背にして、吉本さんは本格的な詩人として歩み始めた。








項目ID 項目 作品名 所収 出版社 発行日
014 現実体験から詩的表現の現前性へ 〈凩がやむときわれらの陰にさすもの〉
『日時計篇 下』
『吉本隆明全著作集3』 勁草書房 1969.5.30

※ 上の項目をもう少しやさしく言いかえると、「実際に体験したことを基にして、作者が詩的な心の現実化すなわち〈わたし〉を通して、
それらを言葉によって詩の世界に新たに生き生きとよみがえらせ、織り成していく」ということ。

作品等
★詩的な世界の有り様

 若い吉本さんは、『日時計篇』をほぼ毎日のように一年半くらいにわたって書き続けている。日々詩を書き続けているから過去の体験や記憶やその場に湧き上がるイメージだけでは詩がマンネリになるかもしれない。それを避けようとすれば、日々の出来事や事件やニュースにも目や心を向け素材として取り込むことになるだろう。『日時計篇 上』から『日時計篇 下』への道行き、すなわち自己内部への沈潜、時間の中の探索から外の大気や外光に目や心が向いていくのは人間的な有り様としては自然で必然的な過程であったのかもしれない。

 前に指摘したが、たぶんニュースなどで出会ったのだろう、『日時計篇 下』には朝鮮戦争のことを素材として取り込んだ詩がいくつかあった。知り合いがいたのかなと思わせるような詩句もあった。朝鮮戦争に関しては、宿沢あぐり「吉本隆明年譜①」に、一九四七年九月に東京工業大学電気化学科を卒業したが、定職がなく職を転々としていた中で、「水素添加技術をおしえるために、北鮮系の朝鮮人の工場に技術を教えにいつたりした。」(「過去についての自註」より)という内容のことが記してある。付き合いの期間はわからないが、こうした付き合いがあったことも、朝鮮戦争をより身近に感じたのではないだろうか。また、『日時計篇 下』には街の風景や人物もずいぶん織り込まれてくるようになっている。

 過去の体験や記憶や日々の出来事や事件やニュースなど、あらゆるものが詩の世界の素材となり得る。それらに対して作者の心の有り様によってその場に湧き上がったイメージが、後に詩の世界に引き渡され織り込まれることがありうる。そうして、その体験のイメージは詩的な世界に新たな形で生き生きと〈わたし〉が感じている今として現前する。


★詩の素材としての現実の体験

 ここで、『日時計篇』の詩から吉本さんの現実的な体験と思われるものをいくらか取りだしてみようと思う。そんなことに詩の表現上のどんな切実な問題があるのかと言われたら、積極性としては何とも言いようがない。ただ、人は自分のお気に入りの表現者やその作品には、それらのどんなささいなことにも心引かれるだろうと言うほかない。人は誰でも自分固有の関心のスペクトルの帯域を持っていて、人によってその関心のスペクトルの有り様は違っている。

 上の問いにもう少し思い巡らせてみると、何かありそうな気もする。わたしは、ここでもう少し別のことがないかと思っている。つまり、約一年半にわたって毎日のように詩を書き続けていた吉本さんの心的なまなざしの具体性に少しでも近づけないだろうか、近づきたいなという思いがある。そのためには、詩的世界と〈わたし〉の有り様から、当時の作者を取り巻く心的・物質的世界と作者の有り様へと下ってみなくてはならない。それはどうしてこのような詩が書かれたのかという背景の問題になる。そこからまた作品の世界に戻っていかなくてはならない。それが現実的に可能かどうかは別にして、もし『日時計篇』のひとつひとつの詩をそのように解析していって、それらを連結してひとつの総合性として構成できれば、それはこの『日時計篇』という作者の必死の詩群を深く読んだと言えるのかもしれない。しかし、読者としてはそこからずっと手前で作品群に出会っているのがほとんどではないだろうか。それは、だれかひとりくらいという感じでしか想定できない地点、批評の場所かもしれない。

 『日時計篇 下』に〈凩がやむときわれらの陰にさすもの〉という次のような詩がある。まず、「三十間道路」というのが心にかかった。30間(約55m)というから、ひどく幅広い道路だなと思った。ネットで検索しても出てこなかったが、中央区銀座に「三十間堀川」というのがあり、GHQの働きかけにより三十間堀川は、1948年(昭和23年)6月から埋立が始まり、1949年(昭和24年)7月には埋立が完了したということにぶつかった。その埋立途中の画像も見た。わたしは東京には数度しか行ったことがなくあちこち歩き回ってもいないから、東京の街もほとんど知らない。時期的には該当しそうだが、しかし、これは、吉本さんの住まいともうすぐ勤める職場から違うということがわかった。この頃吉本さんが住んでいたのは、上千葉の実家(葛飾区上千葉四一八=現在の、お花茶屋二丁目一五番八号)であった。そして、東京工業大の特別研究生一期二年を一九五一年三月に修了して、もうすぐ四月から勤める東洋インキ株式会社 青戸工場は、東京都葛飾区青戸七丁目にあった。(自宅と職場の位置関係、交通路などは、当時より少し前の航空写真などによって後で挙げてみる)(註.3)

 この詩〈凩がやむときわれらの陰にさすもの〉の前とその前の詩の中に「一九五一年二月」とあり、七つ後の詩には「一九五一年二月のおはり」とある。この年月の詩語によるとこの詩が書かれたのは、一九五一年二月の下旬と推定される。この『日時計篇』は、内省の日誌のようにほぼ毎日書き続けられているから、日々体験したことも詩の世界に呼び込まれ、年月の言葉に限らずだが、詩語ではあっても事実性(現実的な事実との対応を持った虚構性)を持っているのだと思われる。以下、この詩をそのように見ていく。


 〈凩がやむときわれらの陰にさすもの〉

三十間道路の凩をとめるやうに踏切がぴつたりとおりてゐる
踏切のつり手がぶらぶらゆれてゐる
踏切の影が線路をさまたげるやうに横はつてゐる
疾走するわれらの陰が銀色のそらを過ぎる
明日こそはわれらの新しい生誕の日
この踏切を越えて寂しい工場へ働らきに出かける
工場に仕事がまつてゐる 椅子のない下働きがまつてゐる
われらがわれらの存在をあらはさずに黙つて働ける仕事がまつてゐる
春がくる
春がくる
われらがまた労働者に立ちかへつてしづかに働くときがくる
憎むべきひとのゐない寂しい工場の寂しい働き人仲間にはいつて
賃金やいろいろの手当をこころまちにする椅子のない下働きがまつてゐる
丁度凩のやむ頃
われらの影にさすものがある
踏切をこえてわれらは孤独な労働者のひとりとなる
機械となじみ薬品となじみ
無口なじぶん自身となじみ
あたらしくわれらの陰にさすものを感じ 椅子のない下働きをする
われらの陰にたいとうする
この予感はたのしい
たのしい
三十間道路の凩をとめるやうに踏切がぴつたりとおりてゐる
ここから先はわれらの孤独な世界
われらの物おぢしない巨きな寂しさをすくすく育ててくれる世界
われらがにんげんを拒絶して機械や化学の夢を視る世界
風車のやうに廻転するプウリーの傍で最後の最後の仕上げをする世界
 (〈凩がやむときわれらの陰にさすもの〉『日時計篇 下』P75-P77『吉本隆明全著作集3』勁草書房)



 詩は一般に幻想世界に打ち上げられた言葉たちとその放つイメージから成っている。それを打ち上げた心はある真実を持っていたとしても、それを担う言葉たちや詩の世界として構成されたものは心の真実そのままとは限らないし、また事実性そのままとは限らない。つまり、体験したものとは同一とは限らない。作者の心的な真とはつながっていたとしても架空の
出来事を自由に描くことができる。しかし、吉本さんの詩の場合、先に述べた内省の日誌のようにほぼ毎日書き続けられていることからも、またその後の詩の表現から見ても、実体験が踏まえられたり記されたりしていることが多いような気がする。例えば、あのよく知られた詩「佃渡しで」も、「佃んべえ」という文章で語られているように吉本さんが娘と所用で佃渡しを渡った体験が基になっている。

 これは、明日から工場(葛飾区青戸七丁目にあった東洋インキ株式会社 青戸工場)に働きに出ることを語っている。実際に明日のことかどうかはわからない。この詩が書かれたのは上述したように一九五一年二月下旬と推定されるから、詩語の「明日こそ」というのは詩世界での創造だろうか。石関善治郎の『吉本隆明の東京』にある「吉本隆明生活史」の昭和二十六(一九五一)年の項には、「四月 東洋インキ製造株式会社入社。(註.1)化成部技術課に配属となり研究棟で働く。」とある。それとも、正式には四月となっていても、わが国の習慣ではよくあるように、その前の具体的な「明日」から出社することになっていたのかもしれない。(註.2)よくわからないとしか言いようがないが、どちらかと言えば、前者のような気がする。試験などで一度は会社を訪れていたとしても、入社が近づいて通勤する下見に出かけたのであろうか。「凩(こがらし)」とあるから、この詩が書かれた時期に近いと思われる。「この踏切を越えて寂しい工場へ働らきに出かける」の「この踏切」には詩語や詩世界として、今〈わたし〉の目の前にあるという現前感が強く出ている。

 もうすぐ新しい仕事に就くんだという、「明日」のたのしい予感が表出されている。吉本さんの詩にはめずらしい肯定的な感性の詩になっている。これには東京工業大の特別研究生になった事情がある。「過去についての自註」で吉本さんが語っているような、職場での苛酷な労働条件による心身がやられてしまったという事情である。だから、今度はまともな定職に就けるという予感が、吉本さんの詩の表現世界に肯定的な感性を放出させたのだろう。ちなみに、東洋インキ株式会社 は、その手の分野では大手の企業だったそうである。

 わたしも若い頃自分から辞めて失業したことがある。公立高校に三年勤めて教員を辞めた。教員には失業保険はなかったことを含めて、ずいぶん焦り落ち込んだ覚えがある。吉本さんが、どこだったか自身の失業時の落ち込んだつらい体験を語っていたのに出会ったことがある。わかるなあと思った覚えがある。表現の世界から見たら職業や仕事というものがささいなことに見えようとも、わたしたちは一日の大半をそれに費やしており、現在のところは遊んで暮らせるような社会ではない以上、生きていく上でもそれは重大事なのである。わたしたちは、誰でもこの生活世界の強い重力下に生きている。

 だから、自分の生活を支える仕事に一喜一憂するのは当然なのである。上に触れたようなきつい職業体験の後に、少し明るい光が射してきそうな「たのしい」光景が詩には描かれている。今までの自分の実験や仕事の体験の延長上に会社に入った後の自分の仕事のイメージが表現されている。わたしたちは、未知の世界に入り込むとき、手持ちのものでそのイメージを構成するほかない。その世界に入ってみたら、イメージしていたのとは違っていたというのはよくあることである。ここでの若い吉本さんにとってはいわば未来への想像の視線になるが、わたしたち読者の視線からすれば、吉本さんの場合、上のような「たのしい」「予感」はちょっと楽観的な捉え方であり、入社して数年後には労働組合の組合長に推薦され、吉本さんはここでイメージしていたのとは違った道を歩くことになる。

 詩〈凩がやむときわれらの陰にさすもの〉の出だし辺りから抜き出してみると、

「三十間道路の凩をとめるやうに踏切がぴつたりとおりてゐる」
「明日こそはわれらの新しい生誕の日
この踏切を越えて寂しい工場へ働らきに出かける」
「踏切をこえてわれらは孤独な労働者のひとりとなる」


 とある。まず、「われら」は誰を指しているのか。同期の新入社員たちとも取れるが、この詩の表現をたどれば『日時計篇 上』や『固有時との対話』の〈わたし〉と〈わたしの影〉の名残とみるべきだと思う。そして、実質は〈わたし〉を指しているでいいように感じる。「椅子のない下働き」は、見習い工のイメージがするが、吉本さんの場合は、普通の労働者とは違った技術・研究の労働者だった。


★詩の素材としての現実の体験の事実性を探る

 次に、この詩の詩句、詩行からは、自宅を出て、「三十間道路」、「踏切」があり、そのすぐ先に「工場」があるようなイメージがする。ということは、事実性を踏まえると、当時は、お花茶屋駅と青砥(青戸)駅間の京成電鉄は通っていて、電車が通っている「青砥(青戸)駅」辺りの光景ということになるだろうか。しかし、当時の道路事情でいえば、現在の「国道6号」や「環状七号線」はなかった。古い地図を見ると国道6号に相当する道路はあったようである。という次第で、当時の吉本さんが、どういう交通手段で、どんな経路で会社に下見のように出かけたか、徒歩か一駅間の電車も利用したか、また入社してからも、どうやって会社に通勤したか、今となっては本人に尋ねるわけにもいかず、わからないとしか言いようがない。

 ともかく、「自宅」、「三十間道路」、「踏切」、「工場」へと至る経路を考えてみる。
 吉本さんの実家の近くの「お花茶屋駅」から京成電鉄の電車で一駅先に「青砥(青戸)駅」があり、そこから東洋インキ 青戸工場まで700mほどの距離がある。これは、現在も当時も変わらない。しかし、「自宅」と「工場」の間に現在ある二つの大きな道路、「国道6号」や「環状七号線」はなかった。このように道路ひとつとっても、現在の視線を修正しなくてはならない。石関善治郎が、『吉本隆明の東京』で次のように記している。


1.
 勇が出たあと、吉本家には、父・順太郎、母・エミ、隆明、弟・富士雄、妹・紀子がおり、そしてある時期から順太郎の姉が同居する(後述)。隆明は、徴用、疎開で東京にいない期間を含んで、昭和十九(一九四四)年九月から昭和二十九(一九五四)年まで十年間、この、上千葉の家(引用者註.本書P78より、「上千葉四一八=お花茶屋二丁目一五番八号」)で暮らしていたことになる。前述したようにこの上千葉の家の間取りは、六畳、四畳半、三畳の三間だ。両親が六畳間、隆明は四畳半の部屋を自室としていた。
 (『吉本隆明の東京』P94 石関善治郎 2005年12月)


2.
 (吉本一家が葛飾に移り住むことになったのは、昭和十六年の十二月の引っ越しと著者は推定している。それは住宅営団の葛飾区上千葉の「御花茶屋土地付分譲住宅」であった。)
かつて隆明に確認したところでは、この葛飾への引越しは、現在のサラリーマンが都心では買えない一戸建てを郊外に求めるのと同じ、とのことだった。何かを獲得する反面で失われたもの。一家の内面に踏み込むまえに、私たちは、この葛飾区上千葉がどんな様子であったか。いかに月島地区、新佃島と違っていたかを見てみよう。
 上千葉の家は、今では、隆明の弟、故・富士雄の妻・美恵子と子息・尽が住み、父から継いだ「吉本建設」の事務所でもある。京成お花茶屋駅から始まる商店街に隣り合い、駅から徒歩四分と地の利も良い。交通の便といい、区画割りされ整然と並ぶ家並みといい、住み良さそうな住宅街だ。
 が、戦前の様子は大きく違う。見渡す限りの田畑にぽつりぽつりと農家が点在するのみで、引越し当時、吉本家の浴室の窓から三キロ離れたJRの亀有駅(引用者註.細かいことを言えば、昭和十六年当時はまだ国鉄ではなかったようだ)が見えたという。お花茶屋駅までの道は雨が降れば、グシャグシャになり、脇の蓮田に誤って足を踏み入れそうになる。藪蚊も多かった。芳賀の妻、しまよによれば、何より辛かったのは、ガスが通じていなかったことだという。市街地なら当たり前のガスが来ていない!お客が来ると、いちいち七輪で火をおこさなければならない。昭和十九(一九四四)年に私立女学校・共栄学園が実質的に開校するが、戦後、引揚者住宅など公営住宅が近隣に建つようになるまでは、かなりさびしい田舎であった。
 月島地区という、「島」とはいえ、町の中心部からやってくれば、田舎へ来たなあという思いをもったとしても無理はないだろう。

 ともあれ、この葛飾の地で一家は新しい生活をスタートさせる。
 (『同上』P64-P65 )


3.
 さて、ここで、組合活動ばかりでない隆明の東洋インキ工業時代の生活を見てみよう。
 鈴木雄一郎の証言にあるように、隆明は工場の仲間と打ち解けた行動をするというタイプではなかった。その隆明が唯一心を許し、会社の帰り五年間になんと百回は飲みにいったろうという同僚がいた。同じ青戸工場の研究棟で机を並べる白澤謙だ。のち隆明と前後して東洋インキを去る白澤は東大工学部応用化学の出身で、入社は一年早いが年齢は一歳年下。組合活動にさほどの関心もなく、本は読んでも自分では書くタイプではない。
「彼とは、どこで気があったのだろうねえ。フィロソフィというところかな」という白澤だが、そうした構えの無さが隆明にはありがたかったのかもしれない。
 京成線青戸駅にほど近い「乃ん喜」は、昭和初年創業、うどん・そばを食べさせる店だ。会社の帰りにその「乃ん喜」に立ち寄って酒を酌み交わす。食べて飲んで話題は会社のことから人生のありかたまで談論風発。時には上野まで遠征した。
 (『同上』P113-P114 )


4.
 昭和二十九(一九五四)年十二月、隆明は上千葉の家を出た。工場のある青砥=京成青戸駅と住まいのある上千葉=京成お花茶屋駅は電車で一駅だ。が、いまの隆明は、母校・東京工業大学へ「長期出張」で通う身だ。山手線に乗り換えるためには、工場とは反対、上野、日暮里方向に向けて京成線に乗る。そんなある日、日暮里に下り立ち、「この辺りにきめた」のだろう。――「眼の前の階段の下」の「商店街」(谷中商店街)にほど近い、駒込坂下町一六三番地に格好のアパートを見つけたのだ(現・文京区千駄木三丁目四五番一四号)。
 (『同上』P116 )



 吉本家が新しく移り住んだお花茶屋駅近くの「上千葉の家」(註.現在の地図上にも、(有)吉本建設として載っている)は、2.によると移り住んだ頃は「かなりさびしい田舎であった」という。当時の写真を探したが、ネットからではうまくいかなかった。現地の図書館などに行けば当時の風景写真などはあるだろうと思う。ここでもまたわたしたちは、住居や建物が密集した大都市という現在からの視線を修正しなくてはならない。

 地図上から測ってみると、お花茶屋駅から青砥(青戸)駅までは約1㎞、青砥(青戸)駅から東洋インキ 青戸工場までは約700m。徒歩で通勤できない距離ではない。しかし、3.と4.の文章のニュアンスを合わせると、どこにも断定的には何も書いてはないが、どうも吉本さんは自宅近くのお花茶屋駅から電車に乗って一駅先の青砥(青戸)駅で降りて、そこから北上して東洋インキ 青戸工場まで700mほどの距離を歩いていたような印象を受ける。工場の社員たちは、青砥(青戸)駅辺りからぞろぞろと歩いて工場に通っていたのだろうか。以下に挙げる当時頃の航空写真からは約55mの「三十間道路」が判然としない。この地域の東京大空襲による被災はどうで、そこからの復興はどうだったのか、まだ広い空き地というか道路というか、そのようなものが残っていたのか、よくわからない。ネットで調べた「葛飾区史」によると、「東京大空襲 1945(昭和20)年3月10日未明には、東京大空襲がありました。葛飾区はこの大空襲による被害が比較的少なかったので、大きな被害を受けた現在の墨田区などから多くの被災者が荒川放水路をこえて避難してきました。」とある。

 いろいろネットを介して調べたが、限界がある。葛飾区の歴史や当時の航空写真や風物の写真など当該地区の図書館などにあり、また当時を見知っている人も生きておられるだろう。また、東洋インキ 青戸工場の社員たちの通勤風景も記憶に残っているだろう。現地を足で歩いてみればいろいろとわかるのだろうが、現地に赴いてそこまで調べることはわたしにはできない。そのようにどこかで折り合いを付けるほかないが、わたしたちはどうしてもこの〈現在〉を眺める視線を潜り込ませてしまうから、徹底してその時代を、その地域を、そこに生きた心を知ることは大切なことだと思う。もちろん、このことは遠い古代の作品に関しても同様である。

 吉本さんが、「明日」から工場へ通い始める下見のように凩吹くある寒い日に工場の近くまで通ってきた、その心の有り様の姿が決してクリアーな具体性ではないが、おぼろには描けるような気がする。




(註.1)
昭和12(1937)年に東洋インキ製造青戸工場が開設された。
平成16(2004)年に東洋インキ株式会社青戸工場が閉鎖された。

(註.2)
 この部分を書いた後で、石関善治郎の『吉本隆明の東京』の巻末の「補註」に関連事項を偶然に見つけた。

同時に特別研究生→東洋インキに間隙はないという隆明の言明から昭和二十六年四月入社と確定。同期入社の東洋インキOBの証言によれば、正式入社は四月だが体が空いている者は来社しても良いといわれ三月に出社したとき隆明も来ていたという。これによって自著年譜以来の「昭和二十七年 東洋インキ入社」が訂正されることになる。

 これによると、正式入社は四月からであるが、三月やそれ以前の二月下旬頃にも吉本さんが会社に行った可能性が浮上することになる。ということになれば、ここで取り上げた詩の世界が、単なる想像ではなく現実に会社の方に通って行って、見た感じた体験に基づいていることになる。この石関善治郎の「補註」にもあるように、いろんな人々の調査や聞き取りなどの積み重ねから、ここでは吉本さんの正確な過去の事実や姿や歩みが浮上する。吉本さん本人にとっては、あることについて正確に時期を言えないとしても、歩み過ぎてきた、自分の中に内在化されている世界や自己の歴史であるが、わたしたち読者にとっては、吉本さんの正確な過去の事実や姿や歩みは、吉本さんの言葉や思想をより深く理解するための大切なことがらである。もちろん、表現された言葉だけがすべてさということでもいいが、総体性として言葉を理解するにはそうした具体性は欠かすことはできないものだとわたしには思われる。だから、わたしたち読者は、より深く探査していこうとする時、石関善治郎のような多くの人々の労苦に支えられて、意識的に他者の総体の像に迫ろうとするのである。


(註.3)
自宅と職場の位置関係、交通路など
 
このgoo地図では、昭和22(1947)年の古地図に、現在の地名等が重ねてある。縮小しているからさらに見にくくなっている。左上の赤□Aが吉本さんの実家、右上の赤□Bが東洋インキ 青戸工場。青★がお花茶屋駅と青砥(青戸)駅。



平成11年の地図


備考
 (備 考)

 「吉本隆明略年譜」(作成・石関善治郎)より上記に関連する事項を抽出して、参考とする。


1941 (昭和16)年 十七歳
同月 吉本家、住宅営団の土地付分譲住宅を十五年の月賦で購入する。翌年にかけて葛飾区上千葉四一八(現・お花茶屋二丁目)に移住。

1947(昭和22)年 二十三歳
9月 東京工業大学電気化学科を卒業。以後、幾つかの中小工場で働く。

1949(昭和24)年 二十五歳
4月 「特別研究生」の試験を受け、母校・東京工業大学に戻る。「特別研究生」は戦時中に兵役や徴用から研究者を守るために発足した制度。有給で二年間の研究生活を送る。

1951(昭和26)年 二十七歳
4月 東洋インキ製造株式会社に入社。化成部技術課に配属。同社青戸工場に通う。
 
(※引用者註 これは、川上春雄による吉本隆明年譜 1952年4月からの修正事項)

1952(昭和27)年 二十八歳
8月 父・順太郎に資金を借り、詩集『固有時との対話』を自費出版。

1953(昭和28)年 二十九歳
4月 東洋インキ労働組合連合会会長および青戸工場労働組合組合長となる。
10~11月 賃金向上と越年賃金の闘争を指導。青戸工場を拠点に闘うが敗退。隆明ら執行部総辞任。

1954(昭和29)年 三十歳
1月 隆明ら闘争の中心になった組合員九名に配転命令。隆明は母校・東京工業大学へ長期出張を命じられる。
12月 上千葉の実家を出て文京区駒込坂下町にアパートを借りる。四畳半一間。
 (※引用者註 これが実家を出てのはじめてのひとり暮らし。)

1955(昭和30)年 三十一歳
6月 本社総務部への転勤辞令を機に東洋インキ製造株式会社を退社する。

1956(昭和31)年 三十二歳
7月頃より黒澤和子と同棲。
8月 長井・江崎特許事務所に入所。国際関係の特許の翻訳・書類作成等に従事。
10月中に北区田端町三六五番地に越す。二階建てアパートの六畳一間。





 (追 記) 2021.3.7 


 『吉本隆明無〈食〉を語る』は、この考察を行う上で参照していなかった。この本を見つけても〈食〉に関するインタビュー集だろうからと開いて見なかったかもしれない。昔、最初に読んだ時の記憶はほとんどなかった。『吉本さんのおくりもの』の項目として「手で考える」ということを立てようとして調べていたら、本書にもそのことが語られていることがわかった。読んでいたら、本書は、吉本さんの誕生から青年期に関してはこまかによく語られている。インタビューアーによって食事や食を巡る質問から吉本さんの家族の様子やその中での吉本さんの有り様が浮かび上がるようになっている。吉本さんの誕生から青年期に関してたどる人にはぜひ参照すべき本だと思う。もちろん、本人が語ると言っても、本人の記憶違いも混じっているのかもしれない。

 その中でも、いくつか参考になる項目として取り上げてみると、


「★詩の素材としての現実の体験の事実性を探る」の4.に関連して

(米沢から東京に戻って、向島のミヨシ油脂という石鹸工場へ動員学生として出ていて、ビールの配給があった時)
みんないい気になって飲んだらしくて、みんなだめになって、僕もだめになって、全然お話にならない、仕事にならない。帰りは、曳舟(ひきふね)というところから電車に乗って青砥(あおと)で乗りかえてお花茶屋というところに行くわけですけど、曳舟の駅までやっとふらふらしながら来たんだけど、そこで、もう起きてもいられねえと、椅子のところで寝っ転がっていたら、どこかの工員さんでしょうか、帰りがけの人がいて、「おい、学生、おまえどこへ帰るんだ」と言うから、「青砥です」と言ったら、「なんで、こんなところで寝っ転がって酔っぱらうまで飲んだんだ」とかぶつぶつ言われて、戦時中ですから、文句を言われるわけです。学生のくせにこんなところで寝っ転がるほど飲んで、なんだ、そのざまはと。そんなの聞こえるんだけど、口ごたえもできないで寝ているだけでという状態で。でも、その人が電車に突っ込んでくれて、そして青砥で「おい、乗りかえだぞ」と起こしてくれたんです。それから僕はお花茶屋へ行くと言って乗りかえたんだけど、そこまでしかわからないんです。あとは正体もない。でも、家に帰って、ちゃんと布団の中に寝ているんです。おかしいなと思うんだけど、自分でもわからないんです、正体がない。そのときはきっとわかっていたんだと思うんですけど。
 (『吉本隆明無〈食〉を語る』「動員学生時代」P74-P76 聞き手 宇田川 悟 2005年3月)



 この後に吉本さんが東洋インキに勤めた頃、自宅近くのお花茶屋駅から会社の近くの青砥駅までの約1㎞を徒歩で通ったか電車に乗ったかわからないけど、電車で通勤したのではないかと推測したが、これによると、断定はできないが、電車で通勤していたのではないかと推測させる。


②吉本さんが東洋インキに勤めた頃。労働運動、社内の人間関係。(P97-P100)


③吉本さんが東洋インキに勤めた頃。サラリーマンの息抜き。(P102)
 石関善治郎の『吉本隆明の東京』からの引用3に関連して

  ――飲んだり食ったりする、馴染みの店があったんですか。

 いくつかありましたねえ。京成の亀有と青砥の駅周辺、小さな居酒屋さんみたいなところでしたけど、よく行きましたね。もう、それしか娯楽がないというか。その時代の終わりころに、やっとこさ青砥にパチンコ屋さんが一軒できて、そこもよく行きましたですけどね。



④「荒地」グループとの交友。(P104-P107)








項目ID 項目 作品名 所収 出版社 発行日
016 詩作品への入口 ② 詩〈日時計〉、
『日時計篇 上』
『吉本隆明全著作集2』 勁草書房 1968.10.20


作品等
 吉本さんの毎日のように持続的に書かれた詩群『日時計篇』は特に、精神の自己対話、精神の日誌と言うべきものではないかと前回述べた。さらにそのような視点から作品に付き合い下って行く時、次のような吉本さん本人の言葉が手がかりになるような気がする。


 ある書物がよい書物であるか、そうでないかを判断するために、普通わたしたちがやっていることは誰でも類似している。じぶんが比較的得意な項目、じぶんが体験などを綜合してよく考えたこと、あるいは切実に思い患っていること、などについて、その書物がどう書いているかを、拾って読んでみればよい。よい書物であれば、きっとそういうことについて、よい記述がしてあるから、だいたいその個処で、書物の全体を占ってもそれほど見当が外れることはない。
 だが、じぶんの知識にも、体験にも、まったくかかわりのない書物にゆきあたったときは、どう判断すればよいのだろうか。
 それは、たぶん、書物にふくまれている世界によってきめられる。優れた書物には、どんな分野のものであっても小さな世界がある。その世界は書き手のもっている世界の縮尺のようなものである。この縮尺には書き手が通りすぎてきた〈山〉や〈谷〉や、宿泊した〈土地〉や、出遭った人や、思い患った痕跡などが、すべて豆粒のように小さくなって籠められている。どんな拡大鏡にかけても、この〈山〉や〈谷〉や、〈土地〉や〈人〉は、眼には視えないかも知れない。
 そう、じじつそれは視えない。視えない世界が含まれているかどうかを、どうやって知ることができるのだろう?
 もし、ひとつの書物を読んで、読み手を引きずり、また休ませ、立ちどまって空想させ、また考え込ませ、ようするにここは文字のひと続きのようにみえても、じつは広場みたいなところだな、と感じさせるものがあったら、それは小さな世界だと考えてよいのではないか。
 この小さな世界は、知識にも体験にも理念にもかかわりがない。書き手がいく度も反復して立ちどまり、また戻り、また歩きだし、そして思い患った場所なのだ。かれは、そういう小さな世界をつくり出すために、長い年月を棒にふった。棒にふるだけの価値があるかどうかもわからずに、どうしようもなく棒にふってしまった。そこには書き手以外の人の影も、隣人もいなかった。また、どういう道もついていなかった。行きつ戻りつしたために、そこだけが踏み固められて広場のようになってしまった。
 じっさいは広場というようなものではなく、ただの踏み溜りでしかないほど小さな場所で、そこからさきに道がついているわけでもない。たぶん、書き手ひとりがやっと腰を下ろせるくらいの小さな場所にしかすぎない。けれどそれは世界なのだ。そういう場所に行き当った読み手は、ひとつひとつの言葉、何行かの文章にわからないところがあっても、書き手をつかまえたことになるのだ。
 (「なにに向って読むのか」 P10-P11 『読書の方法』 吉本隆明 光文社 2001年11月)
 ※初出は、「文京区立図書館報」50号1972年3月30日



 吉本さんの詩に「〈日時計〉」という詩がある。『吉本隆明全著作集2』の川上春雄氏の「解題」によると、「残照篇」の場合とは違って、『日時計篇』という命名は吉本さん本人が付けたものだという。そして、「〈日時計〉を第一番に掲げたが、そうするための確証はない。手製用紙の形態、綴り込みの穴の寸法、紙の汚損の程度などを勘案し、冒頭に位置せしめた。とにかく、「日時計篇」と名づけた詩群の初期のものであることはまちがいない。」とある。


 〈日時計〉

れんげ草が敷きつめられた七月末頃の野原で ぼくらは日時計を造りあげたものだつた ぼくらといふのは病弱な少年と少女たちであつた いまは午睡と新鮮なミルクの味と 衛生講話としか覚えてゐないが そのときぼくはひたすらに自らが病身と呼ばれることを嫌悪し かくれるやうにしてゐたと思ふ
日時計の文字盤はれんげ草の敷物であり アラビヤ数字は花々を編んで少女たちが こしらへあげた団杖とよばれる 武技のための杖をぼくらは中心に直立させた 子午線上を日の圏は燃えながら通つていつたし ぼくは家へ帰りたさをこらえながら 何のために見知らぬ少年や少女たちと一緒に日時計を見守つてゐなければならないかを 疑はしく思つてゐた

そうして長い間 ぼくは承認しなかつたと思ふ自らが病弱であるといふことについて しかもあの日時計を造り上げた夏の気耻しさは 異つた質にかへられた Complex としてながくぼくのこころを占めてゐたのだ
それでしばしば 自らが正常なものの世界に加へられてゐないといふ意識の痕跡が あの夏の日 同じ野原で何の拘束も加へられず 日時計のやうな智慧と羞耻に伴はれた遊びではない昆虫採りなどに駈けまはつてゐる子供達に対してぼくが抱いてゐたあの感じのうちにあることを知つた
後年ぼくは再び日時計を造り上げる機会も そのやうな愉しい時間も決して有つことはなく しかもあの少年の頃の夏の日は再び訪れることはないといふことを真実に知つたが それは時間と共に逃れてゆくやうにおもはれる生存を別に怪んだり嘆いたりしないやうにとぼくに訓へたのであつた

ぼくは現在もビルデイングの影が光の方向にともなはれて移つてゆくのを視るとき ぼくの日時計が其処にあると思ふ
そうしてぼくのこころが現在は病弱なのではあるまいかと・・・・・・最早や同じ仲間を見出すことも出来ず また何ものにも依存することのできない孤立のうちで それに耐えることに習はされたこころがつぶやくのである
 (「〈日時計〉」全部 P192-P193 『日時計篇 上』 『吉本隆明全著作集2』勁草書房)



 上の引用部の中心を抜き出してみる。


この小さな世界は、知識にも体験にも理念にもかかわりがない。書き手がいく度も反復して立ちどまり、また戻り、また歩きだし、そして思い患った場所なのだ。かれは、そういう小さな世界をつくり出すために、長い年月を棒にふった。棒にふるだけの価値があるかどうかもわからずに、どうしようもなく棒にふってしまった。そこには書き手以外の人の影も、隣人もいなかった。また、どういう道もついていなかった。行きつ戻りつしたために、そこだけが踏み固められて広場のようになってしまった。


 吉本さんのこの言葉は、『日時計篇』の詩を書いてから二〇年後くらいの言葉である。吉本さんは、自分の文学体験を内省しながらこの文章を書いているはずである。作品の中にある「小さな世界」、すなわち「書き手のもっている世界の縮尺のようなもの」の存在は、一般の優れた書物について語られているが、この吉本さんの『日時計篇』にも該当する。この作者の批評の言葉をたよりに、まずは〈日時計〉という詩の世界に入っていこう。

 この〈日時計〉という詩は、川上春雄氏によると『日時計篇』の最初に位置していたかどうかは確証はないということだが、『日時計篇』という詩篇を、踏みならされてきた「小さな世界」を、すなわち「書き手のもっている世界の縮尺のようなもの」の存在を象徴する詩であることは間違いない。それに、後から振り返ればこの膨大に書き継がれた『日時計篇』という詩群を考える時、『日時計篇』という命名がいつの時期であったとしても、そういう名が付けられているということは、同名の〈日時計〉という詩がその『日時計篇』という「小さな世界」への入口に当たっているのではないかと予想させる。

 この〈日時計〉という詩に描写されている〈ぼく〉の少年時の体験は、作者が実際に体験したものに基づくものである。年譜によると次のようなものであった。


 一九三六年(昭和一一年)                                      一一歳-一二歳
 七月~八月
       夏休みに、虚弱児代表でピックアップされて、おなじ区内の他の小学校の虚弱児たちと一緒に、四号埋立地
      でおこなわれた、聖路加病院の保健館の保健婦による集団の生活保健訓練に二週間参加させられる。訓練
      は、看護訓練、遊戯、保健食の昼食、昼寝、集団遊戯など。四号埋立地は遊び場だったので、いつもの遊び
      仲間に冷やかされる。
 (「吉本隆明年譜①」宿沢あぐり、『吉本隆明資料集139』猫々堂)


 吉本さんが小学校六年生の時のことである。上の年譜にはそのことは具体的に書いてないが、〈ぼく〉は、新鮮なミルクの味と 衛生講話としか覚えていないという。

 この夏の四号埋立地での日時計を造ったり衛生講話を聞いたりした〈ぼく〉の体験と感受は、『日時計篇』を日々の吉本さんの精神の日誌と見なすことができると思うわたしの視線からは、作者の吉本さんの感受と同等と見なしていいと思う。ここでの〈ぼく〉の体験と感受、遊び仲間の視線を浴びた気恥ずかしさは普遍的なもので誰でもわかるような気がする。

 自らが病弱であるということは、偶然のものであるが、人はその了解においてそれを何か必然のようなものとして織り込んでいくことがあり得る。〈ぼく〉の場合も、野原で自由に遊び回る少年たちとの関係から、「自らが正常なものの世界に加へられてゐないといふ意識」が芽生えていた。長じた現在の〈ぼく〉の内面には、依然としてそのような時間の中で光とともに移りゆく日時計がある。ということは、今の〈ぼく〉は、正常な世界から隔てられているという意識の場の中に、昔のような同類の仲間もなく、ひとりいる。

 ここには、もちろん後の『母型論』によるところの〈ぼく〉の起源の方からの照り返しがあるはずだが、〈ぼく〉は、現在の正常な世界から隔てられ孤立している自分の有り様の発祥の一つを〈日時計〉の物語に求めていることになる。吉本さんは、いつ頃だったか、家族の中でなぜ自分だけが暗い性格なんだろうと疑問に思ったことがある、と語っていた。そのような「暗い性格」が引き寄せ織り成す小さな物語が、この〈日時計〉のように無数にくり返され踏み固められてきたものと思われる。

 ところで、〈ぼく〉は、今はひとり孤立の中にいる。当時は気恥ずかしさや嫌悪とともに、自己の「病弱」を長らく否認し続けたが、「新鮮なミルクの味」や「後年ぼくは再び日時計を造り上げる機会も そのやうな愉しい時間も決して有つことはなく」とあるように、〈ぼく〉は、おそらく初めて体験するふしぎな世界に仲間たちとともに楽しさも感じていたのだ。主催する保健婦たちにとっては、虚弱児の訓練行事に過ぎなかったかもしれないが、その内側での体験者の一人である〈ぼく〉には、その世界はそのように見え感じられていた。そうして、今やそのようなまぼろしのような世界は二度と帰ってくることはない。

 この詩〈日時計〉の物語は、この世界の中で「正常な世界から隔てられているという意識」を持ち、孤立した現在の〈ぼく〉を照らし出すものとしてある。そこから〈ぼく〉の内面の自己対話(主に『日時計篇 上』)や外界との自己対話(主に『日時計篇 下』)の旅が日々持続的に繰り広げられていくことになる。

備考
 (備 考)

 前にも述べたことがあるが、このような「日時計篇」という「小さな世界」が、日々自己対話をくり返しながら書き継がれ、踏み固められていった。たぶん、作者は日々書き継いでいる中でその「小さな世界」にもっと明確な像を与えたいと思ったのかもしれない。『日時計篇 上』からひとつの構造をなす世界として抽出され新たに構成されたのが『固有時との対話』の世界であった。







項目ID 項目 作品名 所収 出版社 発行日
017 詩作品の中に織り込まれた現実の体験――病やケガの体験から ① 詩〈祝福をうけない男〉、
『日時計篇 下』
『吉本隆明全著作集3』 勁草書房 1969.5.30


作品等
 上村武男も『吉本隆明 孤独な覚醒者』(P38-P40)で以下のことにていねいに触れているが、宿沢あぐりの「吉本隆明年譜①」によると、一九四九年のある時期から一九五〇年半ば頃にかけて、吉本さんが「思想的混迷と彷徨」にあり「一行の詩も書けない時期」があったことを、吉本さんの『初期ノート』所収の「過去についての自註」を引用して記している。どんな内面的な事情があったのか知る由もないが、そのことと格闘するようにして、『初期ノート』に収められている「覚書Ⅰ」や「箴言Ⅰ」、「箴言Ⅱ」などが書き継がれたのは確かであろう。そういう中から、「小さな世界」に少し日が差すように感じられてきたのかもしれない。一九五〇年の八月頃から『日時計篇』が日々書き継がれていく。引き寄せる、あるいは押し寄せる世界と格闘する精神の日誌のように日々、詩が書かれ続けたのである。

 ところで、詩の世界に呼び込まれる出来事や風景とは何だろうか。作者の中で意識的・無意識的に固執するものがあり、それは作者の意識性を超えて、割と無意識的なものであるような気がする。そうやって、固執されたものが詩の世界に登場する。そうして、そういうものに関係するようにいろんな偶然のものも呼び込まれてくるのだろう。ここでは、詩の世界に呼び込まれた病やケガの体験をたどってみる。

1.幼い頃の病気


 〈祝福をうけない男〉

ぼくは何処から生まれた
ぼくの母から生まれた
大雪の日に幼年性肺炎を患らつて死にかけた
老いた律儀な藪医者が長靴をはいて救ひにきた
ぼくはそれ以後病気ひとつせず
何といふ自然の恩寵をうけたことか
神に祝福されなかつたことのため
神を信ぜず
藪医者だけをいまでも信じてゐる
ままよ生まれてきたからには祝福されない男にも生きる根底はある
幸せでないもの
貧乏なもの
病弱なもの
虐げられたもの
すべて何となく敗者の側にあるもののため真なるものを貫かうとする
これがぼくのひとつの倫理
寂しさから湿気を拭ひ去り
サンチマンタリズムを風に晒らし
弱者から哀愁を奪ひとり
ああせめてぼくの仲間のうちに敗北の与件を無からしめよ
ぼくの力の及ばないところに
如何なる非理と非情とが在るとしても
ぼくらの魂のうちに敗者の恨みごとを入れるな
祝福をうけないで生まれてきたものは幸ひである
奪はれるものを持たざるゆえに幸ひである
ぼくをいつまでも
ぼくとしてあらしめよ
 (「〈祝福をうけない男〉」全部 「日時計篇 下」『吉本隆明全著作集3』)



 これと対応することを年譜から拾い出すと、

一九二五(大正一四年)                        零歳-一歳
 生まれてから間もなく重い肺炎にかかって死にそうになったが、一命をとりとめる。
 (「吉本隆明年譜①」宿沢あぐり、『吉本隆明資料集135』所収)



 年譜に載っているから、この詩の中の病気は自分の実際の体験にもとづくものであり、そこから神に祝福されない男という〈ぼく〉の自己規定や「ぼくのひとつの倫理」にまで伸びていく。と言うよりも、現在の〈ぼく〉の心の有り様が、小さい頃の〈ぼく〉の病気を呼び出し、その病から〈ぼく〉の自己規定や「ぼくのひとつの倫理」を関係づけ構成していると言った方が正確かもしれない。

 〈祝福をうけない男〉である〈ぼく〉は、「幸せでないもの/貧乏なもの/病弱なもの/虐げられたもの」という「何となく敗者の側にあるもののため真なるものを貫かうとする」。このような〈ぼく〉は、そのような敗者の側から湿気を拭い去り哀愁を奪い取り恨み言を退けようとする。しかし、現実の場面の人間の自然ではそういう自覚性はとても難しいように思われる。むしろ、そういう負性が宗教や政治では組織化の契機となっているような気がする。このような心情と自覚性を持つ〈ぼく〉を描いた作者が、現実の血みどろの秩序との戦いの場面で、お互いが相対性にさらされた状況において、何が〈ぼく〉の倫理や思想を保障するかという問題にぶつかった。当然その背景には、吉本さんの現実体験があったはずだ。具体的には、一九五三年に吉本さんは労働組合の組合長についている。この労働運動の中でいろんなきつい体験があったのだと思う。例えば、組合運動での寝返りした者などについての考え方も組合長としての文章に書かれていたように記憶する。(註.1)こうして、一九五四年六月に、「反逆の倫理 ―マチウ書試論―」が発表される。そこでの考察の過程で生み出された〈関係の絶対性〉という概念は、〈ぼく〉の心情や倫理や思想を客観性として支えようとするモチーフから生み出されたものであった。

 年譜の年齢から判断すると、上の詩の「幼年性肺炎」という病名は、後に親などから聞かされたことと断定はできるが、「大雪の日に」や「老いた律気な藪医者」や「長靴をはいて救ひにきた」など、幼い〈ぼく〉が直接目にしたような描写になっている。それらの具体性のイメージの出所がはっきりしない。つまり、どこまでが親から聞いたことで、どこが幼い本人のぼんやりとした記憶像なのか、あるいは現在の作者の虚構が加わっているのか、わからない。(註.2)


(註.1)
調べてみると、「労働組合運動の初歩的な段階から」(『吉本隆明全集4』 晶文社)の「5 前執行部に代つて」の中に、「B ね返りについて」にある。

備考
 (備 考)

 吉本さんは、一九四九年のある時期から一九五〇年半ば頃にかけて一行も詩が書けない時期があったということだが、それから約十年後にも詩が書けない時期が訪れている。「情況に対する問い」(『慶應義塾大学新聞』1962年9月25日)という文章は、「もう詩をかかなくなって二年ばかりになる。」という言葉から始まっている。ここではその内容に深く入り込まないが、詩や詩的行為の本質が考察されている。


 (追 記) 2020.3.19

 (註.2)
 生まれてから間もなく重い肺炎にかかって死にそこなったと親たちからよく聴かされていた。そのせいか小学生のころ、いつもレントゲンの検診でひっかかっては精密検査をさせられた。河蒸気の渡し船に乗って川を渡ると、築地明石町のあたりを歩いて聖ルカ病院(子どもはセイロカといっていた)の付属になっていた保健館へ出かけていった。
 (「小学生の看護婦さん」『背景の記憶』P61 平凡社 1999年11月 )
 ※初出は、「月刊看護」1976年3月

 とあるから、「 大雪の日」や「長靴」をはいた「老いた」「医者」なども親から聞かされたことに基づいているように思われる。







項目ID 項目 作品名 所収 出版社 発行日
018 詩作品の中に織り込まれた現実の体験――病やケガの体験から ② 詩〈荒天〉、
『日時計篇 上』
『吉本隆明全著作集2』 勁草書房 1968.10.20


作品等
 数少ないかもしれないが、小さい頃に大ケガや大病して命拾いする子どもがいるような気がする。中には、大ケガや大病で亡くなってしまう場合もあるだろう。吉本さんの場合、前回取り上げた大病の外に、そのケガの程度は解らないが、何かケガしたことをうかがわせる「とほい幼時 頭骨に刻みこんだ傷あと」という詩句がある。

2.幼時のケガ

 〈荒天〉

打ちつづけられる鼓音のやうな海の辺りの波頭を視ながら 次第に低くなつてくる雲の圧力を考へてゐた まるで水平線を支点として延びてくる暗い布のやうに わたしたちの頭上を遠く過ぎつて わたしの後背を 影を寄しつつむやうに思はれた わたしは遠くまでゆけるか!

何かを予感せねばならなかつた 何かを わたしが生存してゐるこの荒天のしたで感じなければならなかつた とほい幼時 頭骨に刻みこんだ傷あとを 思ひおこすやうに わたしは何かを!

雲と海とのあひだにわたしの軌道があつた

わたしはいまでもその軌道をゆくことが出来るのだ 若し時がわたしのうちに許容のひとかけらを成熟させてくれるならば

わたしの前方には崩壊してゆくものがある それにかかはらないためにわたしはいつも独りであつた
 (「〈荒天〉」全部 P293-P294 「日時計篇 上」『吉本隆明全著作集2』)



 これに対応する年譜の記述にはわたしは出会っていない。なぜこの部分がわたしの気を引いたかというと、わたしも頭と頬にケガした覚えがあるからだ。学校に通う前の5歳くらいの時に、農家造りのために玄関入ってすぐの中二階に物置があり、そこにあった束ねた「たきもん」(そう呼んでいたが、木の小枝や中枝の焚き物を縛ったもの)がわたしの頭上から落ちてきて、頭頂と頬にケガした覚えがあるからだ。上から家人が投げ下ろしているところをわたしがちょうど駆け抜けていて当たったわけである。吉本さんも何らかのことで頭にケガした体験を持っていたのだろう。それを思い起こしながら、現在の〈わたし〉の生存感覚の不定感と孤絶感の中、生存の有り様を遠い過去からのある軌道として思い描こうとしている。

 このことから逆に考えてみると、わたしたちは、日常でも作品世界でもなにげなく通り過ぎていることが多いような気がする。意識的ではない自然な状態では、わたしたちが対象を引き寄せて、気に留めたり、意識に上ってきたりするのは、出会う世界のごく一部であるのだろう。そうして、わたしたちが気に留めたりわたしたちの意識に上ったりしてくるものたちは、たぶん時代の共同イメージの浸透力による促しや、本人の無意識的な部分による選択によるような気がする。








項目ID 項目 作品名 所収 出版社 発行日
019 詩作品の中に織り込まれた現実の体験――病やケガの体験から ③ 詩〈日時計〉、〈地球が区劃される〉
『日時計篇 上・下』
『吉本隆明全著作集2』
『吉本隆明全著作集3』
勁草書房 1968.10.20
1969.5.30


作品等
3.病弱ということ

 「項目016 詩作品への入口 ② 」で、詩〈日時計〉を一度取り上げた。しかし、この詩は今回のテーマの「病弱ということ」と深く関わっている。また、この詩の内容と対応する体験を作者が語っている文章がある。それで、もう一度取り上げてみる。


れんげ草が敷きつめられた七月末頃の野原で ぼくらは日時計を造りあげたものだつた ぼくらといふのは病弱な少年と少女たちであつた いまは午睡と新鮮なミルクの味と 衛生講話としか覚えてゐないが そのときぼくはひたすらに自らが病身と呼ばれることを嫌悪し かくれるやうにしてゐたと思ふ
日時計の文字盤はれんげ草の敷物であり アラビヤ数字は花々を編んで少女たちが こしらへあげた団杖とよばれる 武技のための杖をぼくらは中心に直立させた 子午線上を日の圏は燃えながら通つていつたし ぼくは家へ帰りたさをこらえながら 何のために見知らぬ少年や少女たちと一緒に日時計を見守つてゐなければならないかを 疑はしく思つてゐた
 
そうして長い間 ぼくは承認しなかつたと思ふ自らが病弱であるといふことについて しかもあの日時計を造り上げた夏の気耻しさは 異つた質にかへられた Complex としてながくぼくのこころを占めてゐたのだ
それでしばしば 自らが正常なものの世界に加へられてゐないといふ意識の痕跡が あの夏の日 同じ野原で何の拘束も加へられず 日時計のやうな智慧と羞耻に伴はれた遊びではない昆虫採りなどに駈けまはつてゐる子供達に対してぼくが抱いてゐたあの感じのうちにあることを知つた
 (「〈日時計〉」一部 P192 「日時計篇 上」『吉本隆明全著作集2』勁草書房)



 この詩にある体験は、前回年譜で触れたように実際にあったもので、後年吉本さんが語ったものがある。講演「わが月島」(吉本隆明の183講演 FreeArchive ほぼ日 A144 講演日時:1992年10月31日)の中でもこれに関わることが語られているし、『少年』(徳間書店 1999年5月)にもある。重複するから、ここでは、『背景の記憶』から見ておく。


 生まれてから間もなく重い肺炎にかかって死にそこなったと親たちからよく聴かされていた。そのせいか小学生のころ、いつもレントゲンの検診でひっかかっては精密検査をさせられた。河蒸気の渡し船に乗って川を渡ると、築地明石町のあたりを歩いて聖ルカ病院(子どもはセイロカといっていた)の付属になっていた保健館へ出かけていった。
 病人扱いにされるのが嫌だったが、ほとんど年ごとの検診でかならずひっかかり、精密検査で異常なしということになった。またか、と思うのだが、子どものことで説明もできないし抗議もできない。しまいには保健室の看護婦さんと顔なじみになった。廊下ですれちがっても、街路で出あっても「おい、ヨシモト」(なぜか聖ルカ病院派遣の看護婦さんは生徒を呼び捨てにする慣わしであった)と呼びとめられては、二こと三ことかまわれるのだが、それが恥ずかしいし、ほかのガキどもの手前照れくさくて仕方がなかった。しかしそんな風なかまい方をする女性は周辺にはいなかったので、女先生には感じたことのない優しさの匂いを感じとっていたかもしれない。
 そこは特別衛生地区というようなことになっていたらしく、学校の保健室には看護婦さんの派遣がひんぱんで、生徒との接触や衛生指導のようなものが活発だった。生徒と看護婦さんのあいだには、生徒と先生とはちがった独特の雰囲気をもった交流があった。また、骨折、怪我、貧血などのばあいの手当の仕方など、体育の時間や放課後に看護婦さんから特別の指導や訓練をうけた。これは、あとから考えてみても、戦争の気配とは関係がなかったとおもう。
 やがて、六年生の夏休みに、わたしは虚弱児代表でピックアップされて、おなじ区内の他の小学校の虚弱児たちと一緒に、集団の生活保健訓練に参加させられた。他のガキたちからは囃子たてられるし、嫌で仕方がなかった。 そこでまた顔なじみの看護婦さんに出遭った。看護訓練・遊戯・保健食の昼食・昼寝・午後からの集団遊戯といった規則的な生活指導が二週間も続いた。ガキ大将としては檻の中に入れられたようで辛かった。その生活は、ふだんの生活とは何かにつけ異質であった。だがよく考えてみると、その檻のなかのような辛さと恥ずかしさには、優しい匂いのようなものを感じわけた照れくささが混じっていたかもしれない。
 そこでも看護婦さんは「おい、ヨシモト、みんなに模範を示しな」といった男言葉で呼び出しては、ホウタイの巻き方や副え木のあて方などの説明をさせた。すこし説明を加えると、腕白ではあったが、わたしはその頃はまだ秀才であったので、物覚えはよく、そんな説明を皆の前でやるのには、かなり適役であった。
 その夏休みの集団訓練の場所は、わたしたち腕白仲間が繰出してゆく遊び場(東京の外れの埋立地であった)とおなじだったので、檻の外では、ガキ仲間が、「よう、ヨシモトいいぞいいぞ」などと冷かした。れんげ草を摘んで、束ねては首輪を造るという類いの遊びをさせられているときなど、ガキ大将としては情けなくて仕方がなかった。しかし、考えてみるにそういう看護婦さんとの接触の仕方には、母親とも姉妹とも女先生とも異った、わたしにとって最初の重要な異性体験の匂いがあった。その匂いは、類型がないが、強いていえば現在のじぶんと娘のあいだに似ているように思われる。
 いまも、下町のどこかで、わたしのような腕白で無口で情緒のない男の子が、小学校の保健室や、通いの病院の診察室で看護婦さんや保健の先生と、そういう接触の仕方をしているかもしれない。看護婦さんの方は、もちろん与り知らないことで、ただ職務を果しているというに過ぎないかもしれないが、男の子の方は、ふとした口のきき方や所作のなかから、ある優しい匂いを感じとって大事にしまったまま、よき異性の模範のようにときどき思い出のなかからとりだしたりするだろう。
 (「小学生の看護婦さん」『背景の記憶』P61-P64 平凡社 1999年11月 )
 ※初出は、「月刊看護」1976年3月



 詩〈日時計〉の背後には、このような体験があった。もちろん、詩の背後のこういう具体的な体験や精神的な体験を普通は詩の作者は語らないから、わたしたち読者は作品から割と勝手な想像をし詩句や作品をそれほど深く追うことはない。微妙な点を含む作者の語ってくれた体験の言葉によって、わたしたちは、詩〈日時計〉の中の〈ぼく〉の語りの真実性とも言うべきものを感じ取って、作者の描いた〈小世界〉にいつもより親しげに深く降りて行けそうに感じる。

 ここでの看護婦さんと吉本少年との関係は、学校の先生と生徒の関係などこの社会のあらゆる場面であり得ることである。しかし、例えば看護師としてその仕事の本質性を少しでも生きようとするならば、相手に「ある優しい匂い」を与えてしまっているかどうかは与り知らないとしても、この吉本少年が抱いたような内面への想像力はたいせつだと思われる。それは現在世界レベルで継続中の新型コロナウィルスの蔓延に対する対策についての医者や看護師たちの発言にも感じることである。現在の社会では、病院の存在とその医療とが当たり前になっている。一昔前ならきつい病気だったのがより軽減されるようになったり、昔なら亡くなる命が救われたりということがある。もちろん、薬漬けと言われるような医療の問題点も抱えているようだ。そんな中でも、今回の新型コロナウィルスの「検査」を巡る医者や看護師たちのネットでの発言の中に、わたしたち(患者)の気持ちや不安などの具体的な有り様への想像力があまり見られないのが多かった。たぶん、医者になるための学校では患者への想像力の行使について当然学んできたろうと思うが少し不思議な光景だった。

 こうして、看護婦さんたちの与り知らない精神の場所で、吉本少年は自らの「病弱」や遊び仲間たちとの関係などについて感じ考えたのである。そうして、長じてなおその少年時の体験が〈わたし〉の生存の根源的なかたちや有り様として、有意味なものとして引き寄せられるのである。

 記憶の中から取り出された〈日時計〉にまつわることには、嫌なこともあったが気恥ずかしいが「愉しい時間」でもあった。ここの引用では省略したが、詩〈日時計〉の末尾では、そのような少年時の記憶の世界が「再び訪れることはない」という覚醒の現在に〈わたし〉は佇んでいる。

 次の詩〈地球が区劃される〉では、さらにそうした過去の記憶にまつわる場所までもが禁圧されたものとなっている〈わたし〉現在が語られている。


 〈地球が区劃される〉

地球が区劃される
十年以前に近所の少女たちと花を摘んだり草編みの日時計を
造ったりしたわたしの野原が禁止された路のむかうになつてゐる
わたしはもう海への路を
星に近くなるその路をまつ直ぐに歩めなくなつてゐる
砲弾や食糧を運ぶために設けられた針金の条網がわたしのこころを禁止する
いたるところで地球が区劃される
 (「〈地球が区劃される〉」第1連の一部 P361 「日時計篇 下」『吉本隆明全著作集3』勁草書房)



 これが書かれたのは、1951年であり、朝鮮戦争(1950年6月25日 ~ 1953年7月27日)が起こって、日本は武器や物資関係の米軍への提供があったから、「砲弾や食糧を運ぶために設けられた針金の条網」は朝鮮戦争との関わりのものであろう。子どもの頃自由に遊んだ四号埋立地に施設かなんかが設けられて区画されていたのだろう。そういう世界の区画化が現在の〈わたし〉のこころを閉め出している、と感じられている。

 確認のため少し調べたら、『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、「日本企業に対する兵器や砲弾などの生産の許可(実質的な命令)が下されたのは1952年3月のGHQ覚書からとされる。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』の「朝鮮特需」の「兵器生産」の項目より)とあり、この詩がかかれたのは1951年で矛盾することになる。しかし、現実的な動向と法制度的な日時は一致するとは限らないから、法制度化以前に兵器生産が始まっていたのではないだろうか。吉本さんが実際に眼にした光景だろう。

 自分を取り巻く世界が区画され、〈わたし〉の自由を禁止するものとして世界が立ち現れているという感受がある。あの少年時の日時計の記憶にまつわる四号埋立地にも立入禁止になっているのかどうかはわからないが、少なくとも自由に近づけないようになってしまっている。〈わたし〉は、現在ではあの〈日時計〉の時間とは遠く疎隔された世界に立っている。そこに追い打ちをかけるように世界の区画化による〈わたし〉のこの世界内における禁圧感が表現されている作品である。


 (追 記) 2020.7.10 

 四方田犬彦の『月島物語』(集英社文庫)を読んでいたら、この四号埋立地(現在の晴海)について次のような記述があった。


 戦後の月島というのはいったいどんな感じだったんですか。近所の老人たちにそう尋ねると、戻ってくる答えの多くは、進駐してきたアメリカ兵に関する思い出である。
 晴海の大部分が接収され、有刺鉄線を張り廻(めぐ)らせたアメリカ軍の基地と化したため、晴海通のいたるところにGIの姿が見られた。この通りは基地を出た兵士たちが銀座で騒ぎ、酔って帰る道であり、そのため勝鬨橋のうえでは日本人に対する乱暴狼藉が絶えなかった。子供を捕えてきてロシアン・ルーレットの標的にして遊んでいたのを目撃した、という話を聞いたことがある。通行中の女子高生を数人がかりで担ぎあげ、橋上から大川に投げ込んだという事件もあったらしい。橋を築地側へ渡りきった左側にはMPの詰所があったが、それでもアメリカ兵の狂乱にはかぎりがなかった。
 (『月島物語』P177)



 先に、「日本は武器や物資関係の米軍への提供があったから、〈砲弾や食糧を運ぶために設けられた針金の条網〉は朝鮮戦争との関わりのものであろう。」とわたしは書いた。それを日本の施設だと受けとめていたように思う。しかし、年代ははっきりしないが、四方田犬彦の聞き書きによるとアメリカ軍の施設(基地)だったという。これでこの詩の背景の事実性についてのイメージがよりはっきりするようになった。

 ちなみに、「晴海の歴史」によれば、アメリカ軍の施設(基地)があった期間について次のようにある。

 「太平洋戦争」中は陸海軍の倉庫や資材置き場として使用され、戦後は米軍に接収、1953(昭和28)年より段階的に返還が始まり、1958(昭和33)年に全面返還。この頃から晴海の街の本格的な発展が始まった。
 (https://smtrc.jp/town-archives/city/tokyo-bay/p05.html)








項目ID 項目 作品名 所収 出版社 発行日
020 詩作品の中に織り込まれた現実の体験――病やケガの体験から ④ 詩「雪崩」(詩稿Ⅹ)
『日時計篇 上』
『日時計篇 下』
『吉本隆明全著作集2』
『吉本隆明全著作集3』
勁草書房 1968.10.20
1969.5.30


作品等
4.病ということ

 病の現実体験を想像させる作品を挙げてみる。


A.雪崩

清冽な風が歩む
三月はじめの屋根のつづきに
わたしこそ
死よりも辛い思考を投げて
雪の夕映えをとらへて見たい
その冷たい爽やかな水銀を
服毒する幸ひを得たい

すなはち女性からは絶望を宣告され
高邁なヒユマニズムの医師からは
ありつたけの力で逃げてきた
ひん死の病者こそわたしだから
 (「雪崩」全部 P102-P103 「詩稿 Ⅹ」『吉本隆明全著作集2』勁草書房)


B.泡立ち

影が泡立つんだ 影が泡立つんだ
不思儀といふのは 何処からもやつてこない もちろんぼくがそれを
不思儀と思はないかぎりは
けれど影が泡立つんだ 影が泡立つんだ
まるで噴水の思ひ出や 金魚玉や 淡いホツプのやうに
ぼくはまるで自分の存在がいつのまにか軽石のやうに膨らんで
何にもなくなつてしまつたかのやうに
けれど悔いはないんだ
ビルディングの影も 商標旗の影も 並木の影も
ぼくが視るすべては泡立つんだ
まるでぼくの暗鬱がとんぼがえりをうつて 透きとほつて
道化師があらはれる
風船玉があらはれる
象を手牽きしてゆく子供があらはれる
乾いた眼が 血のいろの地獄絵をみてゐるんだ
まるではるかにとほくいちまいの予感がかけられてゐるように
ぼくは視てゐるんだ
影は泡立つんだ 影は泡立つんだ
つひに何もかもなくなつてしまつたかのやうに
けれど悔ひはないんだ
ぼくはもうある形骸に達してしまつたので眼に写るものは
何ともはや歪んで奇怪な渇えた風景であり
もう修正もなにも叶はなくなつた
それは事実なんだ 事実なんだ その風景は・・・・・・
 (「泡立ち」全部 P209-P210 「日時計篇 上」『吉本隆明全著作集2』)


C.〈雲のなかの氷塊〉

ぼくは季節を抹消しようとしてゐた それで秋とはぼくにとつて雲のなかの氷塊の量 構造 色によつて区別される時間の短週期のひとつに過ぎなかつた そうしてぼくは自分の精神に則しては 退行的覚醒の時といふ別名で呼んでゐた ぼくは覚醒が世界の底に普遍することだけを願つてゐた
その外に秋がどうして必要であつたらう 
 (「〈雲のなかの氷塊〉」第2連 P245 「日時計篇 上」『吉本隆明全著作集2』)


D.〈一九五〇年秋〉

秋になるときつと思ふのだつた 且てこれほどわたしが苦悩の影に沿つて歩みついた季節があつたらうかと わたしはその思ひが退行的覚醒の習慣的な症状のあらはれであると考へるやうになつたのは一九五〇年の秋であつた 様々の条件がぼくに現実にたいする感性の摩滅と それに対する自省とを促したからだ ひとびとはきつと危機の様相をもつて その昏い秋を決定するだらうがわたしは危機といふ呼び方をひとびとのやうには感じたいと願はなかつた

わたしはむしろ習慣性に心情が狃らされることで 間接的に現実の危機を感覚してゐた しかもひとびとはわたしの処し方を退行的と呼ぶことは 手易いことであらう

わたしの側からは世界が疲労を医さうとしてゐるのは 薬物によつてではなく 注視によつてではなく 愕くべきことには楽天を以て致さうとしてゐるように思はれた 〈哲学者たちのまことしやかな懐疑や 詩人たちのオオトマチズムを視るがいい〉

わたしは建築たちの間で 街樹の葉がぱらぱら散つてゆくのを知つてゐたし 広場では青い空気のなかをとほして光と影が差しこみ アスフアルトの上にいちめんの落葉が黄金の敷物を敷きつめてゐるのを踏みしだいた わたしは進行してゆく症状を自覚しながら このやうな風景に対応するわたしの精神が存在してゐないことをどんなに愕き また不思儀に思つたかことか おう まさしくわたしの不在な現実が其処にある!

わたしは本当は怖ろしかつたのだ 世界のどこかにわたしを拒絶する風景が在るのではないか わたしの拒絶する風景があるやうに・・・・・・といふことが そうして様々な段階に生存してゐる者が 決して自らの孤立をひとに解らせようとしないことが 如何にも異様に感じられた わたしは昔ながらの しかもわたしだけに見知られた時間のなかを この秋にたどりついてゐた
 (「〈一九五〇年秋〉」全部 P260-P261 「日時計篇 上」『吉本隆明全著作集2』)


E.〈架空の年代誌〉

一九五一年四月 皮膚に泡立つのを覚えた
夜 星たちが座を正しくしてわたしの苦しみを視てゐた
祈りのない沈黙がわたしの為しうるすべてであつた
地球の皮膜がうすれ
無限の青ざめた空間がしばしばその間隙からのぞかれた
寂しさから寂しさへ隕石が発光しながら流れたが
ひとびとのまたわたしの処へとどかなかつた
わたしは大凡ふたつのことを為しうると考へた
ひとつは死であり
ひとつは従属された生存である

巷の医師がまたひとつの可能性をわたしのために暗示した
架空の生存である
既に内閉性を獲てゐるわたしの精神は
恐らく若干の衝激によつて純粋の時間を獲得し空間のすべて
を喪ふであらう
わたしはわたしの苦しみを理由と現存とにわけたかつた
わたしの理由を注視するものはわたしのみであらう
この孤独はもう狃れきつてゐる
わたしの現存を視てゐるのは星たちであつた
四月某日
地球は数日にわたつて風と皮膜とに覆はれ
窓が揺動した
わたしは煤けたテーブルのうへで夕餐をとり
茶を喫せずに暗い世界に対座した
わたしの思考は了らないであらう
 (「〈架空の年代誌〉」全部 P165-P166 「日時計篇 下」『吉本隆明全著作集3』)


F.〈無心の歌〉

わたしは視た
こわれかけた風景のなかにある卑小なわたしたちの生存
こわれかけた思考のなかにのこるわづかな危惧
わたしはそれから視た
街路樹の葉がわづかに落ちることを
わたしは視た
ビルデイング、商品、広告塔
また橋の上の群集
わたしは歩いてゐた
わたしの視たすべてのものに本質的に無関係なこころを抱いて

わたしのこころは指してゐた
たくさんの語られてゐる不幸のなかにわたしの不幸がはいつてゐないこと
を悲しみながら
世界のどこかに行はれてゐる類のない暗い行為を
そこでわたしは一片の寄与も許されずに
生きてゐるのを感じた

わたしは喪つた
すべての具象的なものを 日附や名称や記録を感ずる
わたしのこころを
わたしは病者であつた 病者であつた
わたしは絶望を言ひあらはすための言葉を喪つてゐた
 (「〈無心の歌〉」全部 P375-P376 「日時計篇 下」『吉本隆明全著作集3』)


G.〈砂漠〉

こころはもう他人(ひと)と語れない
他人は遠く離れて住んでゐる
小さな電燈(エレクトリツク)のしたに小さな板の食卓を据えて喰べてゐる
それは此処から視える風景だ
それは万べんなく行はれてきた光景だ
こころは不思儀そうにそれを視てゐる

他人は視られてゐることも知らないで
のんきそうに談笑しながら晩餐をとつてゐる
その光景には何かがある
何かがある
こころはそれがわからないでたいそう焦躁する
視えてゐるのにそれはわからない
ああそれは通じない
 (「〈砂漠〉」第一連 P461-P462 「日時計篇 下」『吉本隆明全著作集3』)



 吉本さんが町医者にかかったということが、自身によって語られているものがある。


 三十才前後のころ親の家から引越しする機会に、近所に住んでいた会社嘱託医のところに行ったら検査してやろうということになって、偶然血糖値が高いといわれ、紹介された病院の医師にかかった。血糖降下剤(無水醋酸ソーダだとおもう)をもらった。格別の自覚症状を感じなかったので、忠実に薬も飲まずカロリー制限もしなかった。
  (『中学生のための社会科』P66-P67)



 この「会社嘱託医」とは、吉本さんが勤めていた東洋インキの嘱託医のことで、引越の挨拶であろうか。「親の家から引越しする」は、石関善治郎の「吉本隆明略年譜」によると

1954 三十歳
1月 隆明ら闘争の中心になった組合員九名に配転命令。隆明は母校・東京工業大学へ長期出張を命じられる。
12月 上千葉の実家を出て文京区駒込坂下町にアパートを借りる。四畳半一間。

 
とある。吉本さんは、1953年4月から東洋インキ労働組合青戸工場労働組合組合長をやっていた。この頃は、組合の闘争が瓦解して、東京工業大学へ長期出張を命じられ、その通学のための初めてのアパート暮らしだった。この間のことは、宿沢あぐりの「吉本隆明年譜②」(『吉本隆明資料集143』猫々堂)に詳しく載っている。

 これは、『日時計篇』や『固有時との対話』の時期より数年後のことである。これ以外に、吉本さんが若い頃に医者にかかったという文章にはわたしは出会っていない。しかし、上に引用した「詩稿 Ⅹ」や『日時計篇』には、医者にかかったのではないかと思わせる表現がある。

「高邁なヒユマニズムの医師からは/ありつたけの力で逃げてきた」(A.雪崩)
「巷の医師がまたひとつの可能性をわたしのために暗示した/架空の生存である」(E.〈架空の年代誌〉)

 これらは、町の医者に相談したような詩語ではある。この『日時計篇』を吉本さんの自己対話・自己格闘の精神の日誌と見なすわたしの視線からは、吉本さんは自分の体験や実感を詩の世界に盛り込んできているから、上以外にも吉本さんは医者にかかったことがあるのかもしれないと見える。しかし、当時は今と違って知り合いの医者とかでなければ精神の病の相談は気楽に相談できなかったのではないかと想像される。

 これらの詩語は、吉本さんの詩の作り方からすれば現実の体験を踏まえているように思えるが、フィクションか体験したことかは断定できない。そうして、そのこと自体は重要ではない。重要なのは、詩作品中の〈わたし〉≒作者が、自分の病を病的なものと自覚していたかどうかがより本質的な問題である。このことと関連して、ネットで調べて見つからなかったが、「退行的覚醒」(C.〈雲のなかの氷塊〉、D.〈一九五〇年秋〉)という精神病理学の用語を思わせる詩語もある。さらに、詩『日時計篇』の前の詩篇「残照篇」を書いている頃に書かれた批評文の中には次のような言葉がある。


 戦争中における集団のロマンチシズムは僕に異常な不信を強ひたのであつた。純粋自我の完閉体にとぢこもつて、それら半ば強圧的な半ば無意識的な圧力に対して、僅かに武装した。あらゆることに易々として従属したが、自我の内部世界が侵されるや昂然として反撥した。今や傷は深く思へば傷むことばかりである。僕は自我以外のものを何も信じなかつた。単純さ――単純な人物――これらは僕に極度の畏怖と極度の侮蔑との奇妙な混合意識を強ひた。明らかに僕自身が精神病理学上の或る症状に該当するかと思はれる程であつた。冷たい石造りの階段、牢獄のやうな研究室・・・・・・丁度その時期、正面の時計が正確に十二時を以て停つてゐたことがあつた。僕はそれを日毎に眺めることにより精神を或る清々しい純粋度に導くといふ、果敢ない愉楽を案出せねばならなかつた・・・・・・
 (「方法的思想の一問題 ――反ヴアレリイ論」、P325-P326 『吉本隆明全著作集2』)
 ※初出は、『詩文化』一九四九年一一月二〇日 第一五号。



 「明らかに僕自身が精神病理学上の或る症状に該当するかと思はれる程であつた。」という言葉の背景には、そういう精神の状態に陥ってしまっている〈わたし〉を見つめ描写しつつも、当然ながら一方に、自分はどうなっちまうんだろうという不安や恐れも存在したものと思う。だから、精神病理学の本にも当たっていたはずである。引用の出だしの前には、東京工業大の研究生になったことが触れられている。そして、過去の戦争中のことになり、「今や傷は深く思へば傷むことばかりである。」と現在に舞い戻っている。次にまた同じ過去形になっている。その中に、「牢獄のやうな研究室」とある。この部分からわたしは初め、1949年4月からの特別研究生の現在の時期と思ったが、過去形でもありそれは違うような気がする。この引用文の後には、敗戦後の現在の状況について述べている。その後、「当時(戦末から戦直後に亘つて)僕は暗黒の実験室で若干の精神の幾何学を試みてゐた。」と少し過去に戻っている。だから、「牢獄のやうな研究室」は、1949年4月からの特別研究生の時期のものではなく、1944年10月1日の東京工業大学への入学から1947年9月29日の同大卒業までの時期についてのものだと推定される。この間には戦時下があり、勤労動員なども含まれている。「戦末から戦直後」の時期とは言ってもこの文章を書いている現在にまでそのような精神の様相は持続しているものだと思う。そのことは詩『日時計篇』や『固有時との対話』の世界が裏付けている。

 以下の詩語たちは、精神の病の近傍にもがき苦しむ〈わたし〉≒作者の様子が具体性のイメージとして描写されている。

「影が泡立つんだ 影が泡立つんだ」(B.泡立ち)
「一九五一年四月 皮膚に泡立つのを覚えた」(E.〈架空の年代誌〉)
「わたしは喪つた/すべての具象的なものを 日附や名称や記録を感ずる/わたしのこころを/わたしは病者であつた 病者であつた/わたしは絶望を言ひあらはすための言葉を喪つてゐた」(F.〈無心の歌〉)
「こころはもう他人(ひと)と語れない/他人は遠く離れて住んでゐる」(G.〈砂漠〉)

 こうした病の近傍の状況は、どこからきたのか。引用部に拠れば、戦争中もそのような傾向にあったとある。しかし、戦時下という緊迫がその表面化を許さず均衡を保っているような危うい精神状況だったのだろう。戦争-敗戦からの暗転が病の近傍の精神状況の露出をもたらしたのである。そのような傷は当時のすべての人々が受けた傷であったが、その暗転からの吉本さんの痛ましい戦後は、吉本さんが自己欺瞞を許さずに自分に誠実であったゆえにもたらされた状況でもあった。詩『日時計篇』や『固有時との対話』は、そのような自己対話と自己格闘の精神の日誌であった。

 さらに、吉本さん自身による『母型論』を潜った現在からは、詩『日時計篇』や『固有時との対話』は、個人史における起源の受難の物語の稀有な表現として新たな相貌を持つことになった。








項目ID 項目 作品名 所収 出版社 発行日
021 吉本さんの〈大衆像〉の源泉 詩「出発」(「残照篇」)
詩「〈海べの街の記憶〉」(『日時計篇 上』)
『吉本隆明全著作集2』 勁草書房 1968.10.20


作品等
 吉本さんの〈大衆像〉の源泉


 柳田国男が「清光館哀史」(『雪国の春』)で開いて見せたのは、家(家族)の没落ということであった。これ以外でも柳田国男は家(家族)の没落について触れていたと思う。自然災害や思わぬ事故で容易に家(家族)は没落してしまう。それでも残された者たちは、散り散りになったりしながらでも、生存の痛苦を抱えて生きていったのだろうと思う。もちろん、制度としては、一般に養子制度があり養子に出す方と養子をもらう方の利害が合う形で家制度の維持が計られていたようだ。夏目漱石も養子に出されていて、その複雑な事情が漱石の場合は不幸の影として加わっているように見える。生まれる子どもが多かった当時では養子縁組はわりと普通の光景だったようである。それでも現実に没落していく家(家族)はこのようにあった。

 吉本さんの祖父は、天草の地では「吉本造船所」を経営し造船と海運業で景気のいい時期もあったのだろうが、第一次大戦後の不況を乗り切れずに夜逃げ同然で東京に移住したという。吉本家は家業が傾いて、家(家族)は傾いてしまった。そうして、家族やおそらく吉本造船所に勤めていたと想像される身近な親類間でどういう話し合いがあったのかはわからないが、吉本家の人々やその身近な親類は生きのびるために東京に出て来たのである。吉本さんは、そういう追い込まれ張り詰めた状況の時吉本家に生まれたのである。

 わたしたちは、誰もがある地域のある家族やそれに類するところに偶然のように生まれ育つ。わたしたちにとって、ものの感じ方や考え方の身体性としてそのことの影響力はとても大きいような気がする。もちろん、同じ家族の兄弟姉妹でもそれぞれ異なる〈母の物語〉を持ち、したがって、異なるものの感じ方や好みや考え方を持つ。しかし、個の生存の芯の方から滲み出す生きる自然性や慣習みたいな点においては、同じ家族や同じ地域は、割と共通した規定力を受けていて、それを無意識的なものとして保存しているように見える。

 わたしたちは普通は、取り立てて自覚的な〈大衆像〉として取り出すことなく、親への反発や受容の複合した漠然とした物語(〈大衆像〉)を内に沈めて、成人したら家族を出て今度は自分の家族や生活の世界に入っていく。そこでは、〈大衆像〉は無意識的な自然性としてわたしたちの内に溶け込んでいる。

 では、吉本さんの場合は、なぜそのような内に沈んだ無意識的な自然性としてではなく、自覚的な〈大衆像〉として取り出されることになったのだろうか。主要な理由は、詩『日時計篇』や『固有時との対話』に表現された詩から読み取れるように、吉本さんの生活世界やそこに生きる他者からの絶対的な疎隔感と孤立感である。それは吉本さん自身の見立てのように遙かな大洋期の〈母の物語〉に淵源があるのだろうが、このことが、吉本さんに愛憎含めたイメージの生活世界やそこに生きる他者への考察を強いたのは間違いないだろう。そうして、そこから吉本さんにとって自覚的な〈大衆像〉として抽出されていった。

 ここで、吉本さんの愛憎含めた生活世界やそこに生きる他者のイメージを、詩作品の中から取り出してそのイメージの有り様を考察してみる。


 〈海べの街の記憶〉

わたしはその時谷間をあるいてゐた
まるではじめて出遭つた幼年時の谷間をあるいていた
あばら屋の軒端には禁呪の目刺魚が
ぶらんぶらんさがつて
掛井戸のまはりではおかみさんたちが喋言りをしながら
背中の子供は
あふむいて寝てゐた 眠つてゐた
まるでそれはまあ何といふことでしよう
おかみさんたちは物ごとに驚かなくなつてゐたので
子供はけつこう幸せに眠つてはゐたのだ

それからは三角浮標や泥渫船のクレインの響き
まるめられた岩壁の石垣にうちよせられる藁切れと
おかみさんたちのイメージが重なりあつて
ぼくは奇蹟をねがつたものだ
ぼくは奇蹟をねがつたものだ
ぼんやり呆けたぼくの頭脳にかがやかしい月桂冠が飾られることを
その月桂冠はまあ何とたくさんのおかみさんたちの
汚れた手で撫でられて
ぼくのこころは膨らみあがつたことか
 
ぼくはお礼に洗濯石鹸やハーモニカをとりだして
ついでに誓つてみせたものだ
きつと偉いひとになりますといふ具合に
すこしはまじめな顔になつてそのときばかりは
確かあとで舌を出さなかつたと思ひます
 (「〈海べの街の記憶〉」全部 P221-P222 「日時計篇 上」『吉本隆明全著作集2』勁草書房)



 まず、現在の〈わたし〉が「幼年時の谷間」に入っていく。そこには「あばら屋の軒端には禁呪の目刺魚が」がぶら下がっており、「掛井戸のまはりではおかみさんたちが」お喋りしている。季節はわからないが、「禁呪の目刺魚」は、節分に魔除けとして使われる、柊の小枝と焼いた鰯の頭、あるいはそれを門口に挿したものという「柊鰯(ひいらぎいわし)」の類いのようだから、節分の頃だろうか。こうした光景は、〈わたし〉の幼年時の〈ぼく〉の生活環境世界であり、もちろんそれは吉本さんのそれであった。

 この詩は、幼年時に見聞きしたことからイメージが作られている。現在ではこのような近隣の人々が集う場面はほとんどなくなって、炊事も洗濯も個別化されている。おそらくまだ水道設備が整備されていなくて「掛井戸」を炊事や洗濯の水にその地域の人々が共同で利用していたのだろう。そして、母親たちは小さい子も一緒に連れてきていたのだろう。いわゆる井戸端会議の場面で、吉本さんが小さい頃近所のおかみさんたちからこの子は将来は立派な人になるだろうと褒めそやされたことが実際にあったのかもしれない。まだ、あんまりひねくれてもいないで、「きつと偉いひとになります」というような肯定的な情操を持っていた頃がイメージされている。こうした褒めそやしは、現在ではすぐに具体的でシビアーな教育のイメージが連想されてもうほとんど失われているのではないかと思われるが、当時の庶民世界では裏側に妬みなどを張り付かせながらも普通のことであったろうと想像される。

 「あばら屋の軒端には禁呪の目刺魚が/ぶらんぶらんさがつて/掛井戸のまはりではおかみさんたちが喋言りをしながら」には、当時の庶民社会の生活のひとこまのイメージが〈わたし〉にとって自然なものだったとして描写されている。


 「出発」

乞食小屋のやうなあばらやで
賑やかな兄や姉や親類縁者にかこまれて
生きるともなく生きることになり
出で立つのは
異類の旅ときめられた

どこかで午笛がボオツと響き
干乾の目刺魚が軒につるしあげられて
ゆくともなくゆくのは何処の小舟の機関の音だつたらう

親類縁者は昔の家運の盛りをおもひおこし
ほめそやすのは祖先のことばかり
何が何といつたところで
おれの知つたことかと嘯ぶいて
唯一の故里は都会のしみつたれたビル街だときめた

優しいことはあるものか
優しいひとはあるものか
あんまりひどい孤独では胡桃のやうに乾いた固いこころが
昂然として言ふのである

学問してもとりわけ科学といふものは
幸せで阿呆な人種にまかせておけ
おつき合いはごめんだよ
とにかくこの道をまつ直ぐゆけば幸福と栄光うたがひなしと
御せん託のところにきて
くるりと曲るのは異類の旅のしわざであつた
しわざであつた!
 (「出発」全部 P166-P168「残照篇」『吉本隆明全著作集2』勁草書房)



 詩〈海べの街の記憶〉では、幼い少年の〈ぼく〉は、たぶんおかみさんたちに褒めそやされて「膨らみあがつた」こころで庶民社会の上昇感性やはかない願望を象徴する「きつと偉いひとになります」とおかみさんたちに誓った。もちろん、この幼い少年の〈ぼく〉は外の複雑な世界のことはまだよく知らない。詩「出発」では、「学問してもとりわけ科学といふものは」という詩句からしても当時の現在に近いものだろう。したがって、ここでは青年の〈ぼく〉であろう。「とにかくこの道をまつ直ぐゆけば幸福と栄光うたがひなし」という「御せん託」(ご託宣か)は、「きつと偉いひとになります」と同様の庶民社会の上昇感性やはかない願望を象徴すものだろう。青年の〈ぼく〉は、もはやそれを受け入れてみせることはない。

 「胡桃のやうに乾いた固いこころ」のおそらくは持て余した孤独が、親類縁者の「ほめそやすのは祖先のことばかり」に内心うんざりしながら反発し、「唯一の故里は都会のしみつたれたビル街だと」思い定めて、とりあえずなぜか強いられたような「異類の旅」に出ていくというのである。

 詩の出だしの「乞食小屋のやうなあばらやで」という言葉は、「乞食小屋」を見てきたことのある言葉でもあり、また、それより豊かな生活をしている家を見たことがある言葉だろう。これは、そういう生活世界への否定の言葉の描写ではなく、自分の周りの生活世界の卑小な自然性の象徴の表現と思われる。

 二つの詩では、〈わたし〉の生活世界やその中の周囲の人々への〈わたし〉の心情と位置が表現されている。後の「ちいさな群への挨拶」(『転位のための十篇』1953年9月 所収)に見られるような、大衆への親愛の情と大衆の負性に対する否定の意志というようなするどい表現ではない。しかし、そのような原型は二つの詩にも内在していると思う。

 詩〈海べの街の記憶〉では、大衆世界への親愛の情は見られるが、「確かあとで舌を出さなかつたと思ひます」という詩句の付加によって、当時の幼い少年の〈ぼく〉の心には自分の周囲に対する否定の意志も潜んでいたことを予想させる。詩「出発」では、大衆の負性に対する否定の意志が前景に出ている。大衆への親愛の情は、一連と二連目の風景描写の中に溶け込んでいるように見える。

 吉本さんは自らの体験と考察によって後に〈大衆の原像〉という普遍イメージ、普遍概念を打ち出した。すべての人間のこの人間世界での存在の有り様の原型と見なされている〈大衆の原像〉というイメージは、吉本さんの生存の深い疎隔感や孤立感から疎外(創出)されたものであった。このような自分の見聞きし育った生活世界から抽出されたものであった。そうしてそれは、時代や生活様式が変わっても、振り返ってみれば誰もが思い当たるような普遍のイメージの場所だと言えるはずである。








項目ID 項目 作品名 所収 出版社 発行日
022 吉本さんにとって〈歌〉とは何か ① 『日時計篇 上』
『日時計篇 下』
『吉本隆明全著作集2』
『吉本隆明全著作集3』
勁草書房 1968.10.20
1969.5.30


作品等
 吉本さんにとって〈歌〉とは何か ①


 詩『日時計篇』の目次を眺めていたら、〈歌〉という言葉のついた詩の題名が多いなと思った。『記号の森の伝説歌』について、(自分の歌が欲しかった)というの吉本さん自身のコメントをどこかで読んだ覚えがある。と思っていろいろ調べてみたら、『吉本隆明資料集』の松岡祥男さんの「編集ノート」の中にあった。


 私はそのモチーフ(引用者註.詩「遠い自註」、または詩集『記号の森の伝説歌』)について質問したことがあります。吉本氏は「じぶんたちの世代は、歌といえば、唱歌か軍歌しかないから、歌を作りたいとおもっているんです」と語りました。
 (『遠い自註(連作詩篇)』「編集ノート」、吉本隆明資料集57 猫々堂)



 日頃、自宅で鼻歌を歌うことがあるということは、吉本さんが文章の中で語っていた。また、わたしは、1987年9月に東京・品川の寺田倉庫で行われた、吉本隆明・三上治・中上健次三氏主催の「いま、吉本隆明25時―24時間講演と討論」の場で、吉本さんが中上健次に誘い出されて歌った歌もその現場で聴いたことがある。これらのことは、『データベース 吉本隆明』の「言葉の吉本隆明②」の項目641「吉本さんのこと ⑯ ―吉本さんの口ずさむ歌」の中で触れたことがある。吉本さんは、自らを音痴であると自認していたが、そうしたことと吉本さんにとって〈歌〉とは何かということとは直接の関係はない。もう少し本質的な所に吉本さんにとっての〈歌〉という問題がありそうに思われる。

 吉本さんにとって〈歌〉ということがどんなに大事だったか、固執されたものであったかを見るために、勁草書房版の『吉本隆明全著作集2・3』から〈歌〉という言葉が詩の題名に付されている詩を調べてみた。

1.「詩稿Ⅹ」
    6篇/104篇中(5.8%)

2.「残照篇」
    3篇/27篇中(11.1%)

3.「日時計篇 上」
   64篇/148篇中(43.2%)

4.「日時計篇 下」
   98篇/330篇中(29.7%)

 これだけ〈歌〉という言葉が題名に付されている詩があるということは、〈歌〉という言葉は吉本さんにとって大切な意味を持っていることになる。そうして、日々自分と向き合って精神の日誌を付けていくように自己対話を持続的にくり返した『日時計篇』(1950年~1951年)の時期がより多く〈歌〉という言葉が詩の題名に付けられていて、〈歌〉という言葉が固執されていることがわかる。しかも、その〈歌〉というモチーフは、上に松岡祥男さんの言葉を引いたように、詩集『記号の森の伝説歌』(1986年12月)にまでつながっている。








項目ID 項目 作品名 所収 出版社 発行日
023 吉本さんにとって〈歌〉とは何か ② 「残照篇」、
『日時計篇 上』
『吉本隆明全著作集2』 勁草書房 1968.10.20


作品等
 吉本さんにとって〈歌〉とは何か ②


 吉本さんは、批評「詩とはなにか」(1961年)の中で、詩の本質との関わりで〈歌〉について少し触れている。


 中村光夫は『小説入門』(新潮文庫)のなかでつぎのようにかいている。

 詩の場合は作者の思想や感情は言葉によって直接に表現されます。詩の本質は歌であるとはよくいわれることであり、また結局において、正しい定義のように思われますが、歌は言葉であるとともに言葉以前の肉声――または叫び声――です、僕等の感動のもっとも直接な表現です。
 詩はこの肉声に言葉をできるだけ近づける性格を持ち、そのために言語をその日常性社会性からできるだけ解放することを目指します。


 ここでは、詩の本質が歌であり、歌は言葉以前の肉声――または叫び声であるという個処に着目したい。ほんとのことを口に出せば世界は凍ってしまうならば、それができない社会では、絶えず、ワァッとかウオウとかいう叫びをこころに禁圧しているとも考えられるからである。日常の会話でも対者から言葉をおさえられたとき、意識は言葉にならない叫びのようなものを呑みこむ。・・・中略・・・言語のまえに有節音声があり、そのまえにはワァッとかウオウとかいう叫びがあったとすれば、そしていまもなお叫び声が人間と現実との関係に介在するとすれば、詩をこれに結びつけるのは、ひとつの見解たるを失わないのである。
 (「詩とはなにか」、『詩とはなにか―世界を凍らせる言葉』詩の森文庫 思潮社)
 ※「詩とはなにか」の初出は、「詩学」一九六一年七月号



 ここで、吉本さんは「詩の本質が歌であり、歌は言葉以前の肉声――または叫び声である」という中村光夫の批評の言葉を受け入れている。わたしたちの社会やシステムやマス・イメージなどが抑圧的でしかないと感じられるならば、そういう渦中に生存する者の〈ほんとうのこと〉は柔らかな歌として流露することがない。〈歌〉(詩)は、現代においては叫びのような衝動を内包した散文的、批評的な姿を取らざるを得ない、そのように吉本さんは詩の現在を受けとめていたのだろう。詩『日時計篇』や詩『固有時との対話』は、そのような詩的な姿を見せている。

 思えば、遙か太古に下れば、歌も踊りも各芸術表現として分化する前の溶け合った表現に収束するだろう。歌は、恋人に歌いかける歌のように「言葉以前の肉声」、すなわち内臓感覚を伴うものだった。そこから遙か現在の歌は、芸術表現は、内臓感覚的な直接性の表現から間接的な抽象の階段を上り詰めてきた。それは、共同性に埋もれるように存在していた個が、次第にそこから抜け出して、特に近代以降は、個を先鋭化させてきたということと対応している。内臓感覚的な直接性は、その間接的な抽象の隙間に縫い合わされるほかない。

 ところで、吉本さんの詩『日時計篇』頃の詩の題名に「歌」という言葉が付いたものは多い。その中でも、「歌」そのものに触れている詩がある。


 昔の歌

Simonides のむかしから軍のうたは
かけ値のない暗い灰とのとりかへつこで (註.1)
世界のはてにうたはれた

この島ぐにのむかしにも
父だらうが母だらうが眷族そろつて海辺へきて
このわしを鼓舞してくれたので
思ひ残こすこともあるまいから
出陣するといふような
うたがあつたもので
それは尋常の心境ではあるまいことが
言葉のうしろや物象のかげから
暗い峡間を感覚させて
いまもかはらずぼくらのこころをむかへ撃つてゐる

たくさんの諫めをふりきつて
おれは反抗するのだと
まことに損な役割をひとにかくれてなしながら
うたをうたひ
動揺をひとびとに伝へ
悪しき秩序のすみずみにある悲惨を抽象し
畢竟われら人間の価値判断はすべて転覆されねばならぬと (註.2)
うたひまくり
バトンをぼくにうけついで死んだうた人は
いまもむくひられず
そのうたはいまもそこにある

ぼくもうたをうたふからは (註.3)
たしかに人間の集積してきた巨大な精神を
すべて忌みきらひ反抗するのであつて
妥協の余地はないのである

むかしのうたは湿気の多い天上にあづけわたし
ぼくのうたは湿気のない地上のかたすみに
それでも細々生きつづけ妥協はおことはりしようと考へる
 (「昔の歌」全部 P164-P166 「残照篇」 『吉本隆明全著作集2』勁草書房)

 (註.1) 晶文社版の『吉本隆明全集2』の解題では、原稿による校訂で「暗い灰」は、「暗い死」となっている。
 (註.3) 同様に、「ぼくも」は、「ぼくもまた」になっている。
 (註.2)「転覆」の「転」は旧字。



 まず、第一、二連では、古代ギリシアの軍の歌やわが列島のむかしの出陣のうたに触れ、それらは「いまもかはらずぼくらのこころをむかへ撃つ」重たいものとしてある。ここには、駅頭などで兵士として出征する者を見送るという、吉本さんも体験した先の戦争時のことも込められているのかもしれない。第三連では、そうした戦争を含む現実の中で、「悪しき秩序のすみずみにある悲惨を抽象し/畢竟われら人間の価値判断はすべて転覆されねばならぬ」と世界の有り様に反抗した「うた人」の存在と「うた」が想定され、〈ぼく〉はその「うた人」からバトンを受け継ぐ者と見なされている。〈ぼく〉は妥協の余地なく、「人間の集積してきた巨大な精神を/すべて忌みきらひ反抗」し、そのうたを歌うのである。おそらく「人間の集積してきた巨大な精神」というのは、人間の生み出した負の精神、負の制度、負の歴史を指示している。

 〈ぼく〉はここで「うた」自体を歌ってはいない。もちろん、その描写は「うた」の内容を想像させはする。ここでは、現代における「うた人」の宣言になっている。そうして、その「うた人」とは、はじめに引用した「詩とはなにか」の中の言葉の、「ほんとのことを口に出せば世界は凍ってしまうならば、それができない社会では、絶えず、ワァッとかウオウとかいう叫びをこころに禁圧しているとも考えられるからである。日常の会話でも対者から言葉をおさえられたとき、意識は言葉にならない叫びのようなものを呑みこむ。」、このような精神や生存の場所から言葉を放ち、それを歌い綴る者のことであろう。

 「歌」そのものに触れている詩が、もうひとつある。


 〈仮定された舟歌〉

街々の果てには海に入り込まれた埋立地があり 潮の音と風速機のまはる音色とはまるでオクターヴを異にしてゐたものだ わたしはそれを聴きわけた幼年のとき海の音は心情のおくの暗処で鳴りわたつたが 風速機のからからといふ響きは感化の乾いた面に鳴りわたつた つまりわたしはこころの移動に従つてそのいづれかに耳をかした

わたしは情感にまみれた封建期の船歌を好まなかつたし 学園で習得する白痴のやうな船歌をも嫌つてゐた わたしはだから貝殻の埋もれた埋立地の岩壁にあつて限りなく空想したものである 空想は後年修つたユークリツドの幾何学のやうに 見事に脳髄の体操にかなつてゐたのだ

わたしは既に歌ふことを忘れ去らうとしてゐる そうして線条のやうにからみ合つてゐる岩壁の船のマストを視ることもことさらにはしなくなつてゐた わたしには船歌のごときものがいまも必要であつた いたいたしい孤独の日にわたしはとりわけ自らの宿命の予感を招き寄せる ひとつの歌を唱ひたかつた
 (詩「〈仮定された舟歌〉」全部 P301-P302 「日時計篇上」 『吉本隆明全著作集2』勁草書房)
 註.『吉本隆明全集2』の「日時計篇上」所収のこの詩では、一字空きの代わりに読点が入っているなど少し異同がある。また、「原稿によって校訂」から、三行目の「感化」が「感性」になっている。



 「昔の歌」の中の詩句、「むかしのうたは湿気の多い天上にあづけわたし/ぼくのうたは湿気のない地上のかたすみに」や、この〈仮定された舟歌〉中の詩句、「わたしは情感にまみれた封建期の船歌を好まなかつたし 学園で習得する白痴のやうな船歌をも嫌つてゐた」は、いずれも旧来の〈歌〉は否定すべきものと見なされている。そうして、「ぼくのうたは湿気のない地上のかたすみ」で歌われ、旧来の歌とは非妥協的に「細々生きつづけ」ようと考えられている。そのぼくの〈歌〉は、「わたしには船歌のごときものがいまも必要であつた いたいたしい孤独の日にわたしはとりわけ自らの宿命の予感を招き寄せる ひとつの歌を唱ひたかつた」というようなものであった。これは、吉本さんにとって、「自己慰安」としての〈歌〉であり、と同時に、自らの生存の方位と航跡を切り開き歌い上げるような〈歌〉であったように見える。この旧来的な〈歌〉への否定性と新たなぼくの〈歌〉が必要だという思いは、後の吉本さんの〈自立思想〉を連想させる。

 『記号の森の伝説歌』における〈歌〉の問題は、この流れとは無縁ではないはずであるが、また別に検討されなくてはならないと思う。








項目ID 項目 作品名 所収 出版社 発行日


作品等

備考
 (備 考)























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