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69 濃度(二つの濃度) のうど




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69 濃度 のうど


項目抜粋
@
エンゲルスのいうように労働の発達は、相互扶助や、共同的な協力の場面をふやし、社会の成員を相互にちかづかせるようになる。この段階では、社会構成の網目はいたるところで高度に複雑になる。これは人類にある意識的なしこり(「しこり」に傍点)をあたえ、このしこりが濃度をもつようになると、やがて共通の意識符牒を抽出するようになる。そして有節音が自己表出されることになる。人間の意識の自己表出は、そのまま自己意識への反作用であり、それはまた他の人間との人間的意識の関係づけになる。
 言語は、動物的な段階では現実的な反射であり、その反射がしだいに意識のさわり(「さわり」に傍点)をふくむようになり、それが発達して自己表出として指示機能をもつようになったとき、はじめて言語とよばれる条件をもった。この状態は、「生存のために自分に必要な手段を生産」する段階におおざっぱに対応している。言語が現実的な反射であったとき、人類はどんな人間的意識ももつことがなかった。やや高度になった段階でこの現実的な反射において、人間はさわりのようなものを感じ、やがて意識的にこの現実的反射が自己表出されるようになって、はじめて言語はそれを発した人間のためにあり、また他のためにあるようになった。
  (『定本 言語にとって美とはなにか T』 P30-P31)


A
 わたしたちがここで、語れるなら語りたいのは、その(
引用者註.高度情報化社会の社会像を悲観的や楽観的に語ったり、あるいは政治制度の課題と混淆してそのように語ったりすること)いずれでもない。いま高度情報化社会とよばれているこのエレクトロニクス産業革命の社会像は、どこで基本的に把まえられるのか、そして具体的にどう意味づけられるべきかということだ。もちろん手やすくできるとおもっているわけではない。とてもめくらめっぽうに、でも確実にすすんでいる社会像の変貌が、利害感覚を密輸入しながらあまりに盲目的に語りだされているので、すこしでも核心にはいりこんでみたいのだ。
 わたしはには(たぶん人々のなかにも)、あるひとつの社会像は、まず生産の場面をもとにつかまえるのがいいという固定観念がぬき難くのこっている。そこでいまエレクトロニクス技術革命(高度情報化革命)とみなされるもとの図表を、まず生産の手段の場面で描いてみる。
  (『ハイ・イメージ論 T』 「映像の終わりから」 P17 ちくま学芸文庫)



 おなじ資本制的な産業システムであり、おなじように生産手段の高度化のひと齣でありながら「高度情報化」とたんなる「高度機械化」とはどこがちがうのか。「高度機械化」は生産手段の線型につないだ総和(綜合)で表象できるが「高度情報化」は生産手段の線型的なマトリックスでシステム(綜合)が表象される。
「高度化」という意味は、たんなる「機械化」では工程を線型につなぐこと、または線型に重ねることだから、工程の質量の充実は、いわば自然数の和の総体で象徴できる。だが、「情報化」のばあいでは「高度化」はマトリックス表現になるから、所定の要素の相乗数の線型的な総和で象徴されることになる。おなじ「高度化」でも、いわば濃度と次元展開性がまるでちがっている。ここでは「高度化」は、人間の手の経験に代わる「機械化」の質量をふやしたという意味ではなく、「機械」の経験を制御する「人工脳化」がつぎつぎ次元展開されるイメージになっている。
  (『ハイ・イメージ論 T』 「同上」 P20)


備考
濃度の意味
@
 日常生活語のレベルでは液などの濃さ。理科で厳密にいえば、一定量の液体や気体の中にある、その成分の割合。
(英 concentration)

A 数学の概念としての濃度 (英 cardinality)
数学でいう濃度とは、集合論において無限集合同士のサイズを比較するために、有限集合の要素の個数という概念を無限集合にも拡張させたものである。 一般に集合の濃度は基数 (cardinal number) と呼ばれる数によって表される。有限集合では要素の個数と濃度は等しい。 歴史的には、カントールにより初めて無限集合のサイズが一つではないことが見出された。」「ウィキペディア」より)
あるいはまた、ネットの質問に対する回答によると、「有限集合の個数も濃度として扱います。有限集合の持つ属性である要素(元)の個数を無限集合に拡張した概念が濃度ということです。」
つまり、無限(集合)という新しい概念が登場して、ちょっとふしぎな目まい感がするかもしれないけれど無限(集合)にも大小比較ができるということがわかり、その無限(集合)を含めて数えるということを新しく捉え直そうとした概念が「濃度」ということだと思う。(わたしもまだ肌触り感で十分に分かったとは言えないけれど。)


 上の引用@の「濃度」は、@の意味ととって差し支えないように見える。引用Aの「濃度」は文脈からして数学概念の濃度の方である。英語では二つの「濃度」が言葉としてきちんと区別されているが、日本語では同一の言葉になっている。これが混乱を招く要因にもなっていると思う。


1.吉本さんが化学や数学の概念を使うのは、ひとつは自分の使い慣れた便利な言葉ということがある。もうひとつ、特に引用Aのような、現在の高度化して錯綜とする対象の時空を捉えるには、相変わらず情緒性に包まれた論理性が希薄な旧来的な日本語では不十分で、数学や自然科学の言葉の駆使を避けられないという吉本さんの判断があるように見える。ただし、特に大学の理工系の素養を経ていない読者にとっては、読み通すのがとてもつらいように思う。現代数学に少し興味がある程度のわたしもその中に入る。

2.『開かれた「構造」―遠山啓と吉本隆明の間』(柴田弘美 2014年)は、吉本さんの『言語にとって美とはなにか』が、数学の概念や数学的な構造を駆使して、表現される言葉の世界を捉えようとしたということを明らかにしている。このことは、ベクトル変容などの概念を含む『心的現象論序説』などの他の著作にも言えることだと思う。








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